アメリカ合衆国大統領黒書

2020年4月25日 (土)

アメリカ合衆国大統領黒書(連載第34回)

38 ジミー・カーター(1924年-存命中)

 第39代大統領ジミー・カーターは、存命中最年長の大統領経験者にして、歴史上も史上最長寿、退任後経過期間も史上最長の大統領経験者という記録的な人物である。
 本連載では、歴史的評価を下すには尚早な存命中の歴代大統領については割愛する方針であるが、カーターは退任からすでに39年の年月を経ており、歴史的評価に値するとみなし、取り上げることとする。
 カーターは、ウォーターゲート事件で辞職したニクソンを継いで副大統領から昇格した第38代フォード大統領が独自の任期を目指して立候補した1976年大統領選挙で、民主党の対抗馬として現れた人物であった。典型的な南部の農家出身のカーターのそれまでの政治歴と言えば、地元ジョージア州議会(上院)議員と州知事のみと地方政治に限られていた。
 そうしたことから、当初は全米レベルでの知名度がなく、無名の新人であった。一方のフォードはワシントン政治のベテランと対照的な候補者同士の対決であったが、意外にもカーターが当選を果たした。勝因として、まさにワシントン政治の腐敗を示したウォーターゲート事件の衝撃が冷めやらぬ中、無名の地方政治家に刷新を託そうという有権者心理があったことは間違いない。
 こうして、ジョージア州からいきなりホワイトハウスの主となったカーターは、予想通り、経験不足を内政外交の様々な場面でさらけ出した。ワシントンに人脈もないため、地元ジョージア州の人脈に頼り、「ジョージア・マフィア」と揶揄される側近集団を形成した。
 カーター政権は、アメリカ的な政治座標軸では、内政外交とも「リベラル」のものであり、それゆえに、その政策は保守派からはことごとく批判を招き、カーター政権の四年間は「暗黒」ととらえられている。とりわけ、人権・平和外交の看板により、従来の諜報活動予算の削減と軍縮を進めたことは、当時の冷戦期における敵国ソ連を利したと非難された。
 致命的だったのは、1979年イラン・イスラーム革命後に発生した反米主義グループによるアメリカ大使館占拠事件の対応である。この時、大使館に監禁されたアメリカ人外交官らの軍事的救出作戦に失敗したことで支持率の急落を招き、再選にも失敗する要因となった。
 他方、1978年のエジプト・イスラエル間の和平合意を仲介し、戦後四次にわたった中東戦争の有力当事大国を和解させ、以後今日までイスラエル対アラブ諸国の中東戦争を抑止してきたことは、最大の功績とみなされる。しかし、パレスティナ国家建設の容認を示唆したことで大票田である在米ユダヤ人の反感を買い、これも再選失敗の主因となった。
 カーターはたしかに清廉で、理想主義的な大統領としては歴代アメリカ大統領中でも際立った存在であり、支持者にとってはまさに理想の大統領だったかもしれないが、冷戦期のアメリカ大統領としては力不足を否めず、共和党保守派にとっては「黒書」にふさわしい人物なのであった。
 カーターの失策は「リベラル」への幻滅感を有権者の間にも高め、カーターが再選を目指した1980年大統領選挙では民主党員からさえ寝返り離反者を出したことで、反共保守派の共和党候補者ロナルド・レーガンの大勝を許した。
 レーガン政権が発足した翌年以降、レーガン後継のブッシュ政権まで12年間にわたり、共和党保守・タカ派の政権が続いたことで、アメリカの1980年代は濃厚な保守・右傾化の時代となったのである。

2020年3月29日 (日)

アメリカ合衆国大統領黒書(連載第33回)

36 リチャード・ニクソン(1913年-1994年)

 第36代ジョンソン大統領がベトナム戦争でつまづき、再選を断念したことで、長年大統領への野望を燃やしていた共和党のリチャード・ニクソンにチャンスが回ってきた。彼は、1960年大統領選でケネディに敗退して以来、いったんは政界を離れ、雌伏していたのだった。
 1968年大統領選で、ニクソンはベトナム戦争が長引く中、国民の厭戦気分をとらえ、「名誉あるベトナム終戦」を公約としつつ、激化していた反戦運動や学生運動に対抗する法と秩序政策を訴え、保守的な有権者にアピールして接戦を制し、第37代大統領として念願のホワイトハウスの住人となった。
 大統領としてのニクソンは実際、ベトナム戦争の実質的な敗戦処理を進めていったが、それを越えて、世界秩序の変革も成し遂げた。いずれも一期目後半に電撃的に断行した二つの「ニクソンショック」である。
 最初の「ショック」は、1971年7月に発表された中華人民共和国公式訪問である。実際の訪問は、翌年2月であったが、これは、従来、国際連合でも国民党支配下の台湾を中国の代表と認めてきた戦後冷戦下の国際政治の構造を大きく変革し、共産党中国を承認するという大きな転換点を画した。
 ニクソンは、連邦議員時代には、マッカーシーの赤狩りを積極的に支持する強硬な反共派として鳴らしていたが、大統領としては、ソ連の超大国としての力をそぐために、同じ共産党支配国家ながらソ連と緊張関係にあった中共承認に動くような戦略的プラグマティストとしての一面ものぞかせた(その背後には、ニクソン最強の側近であったキッシンジャーの力もあったが)。
 二度目の「ショック」は、1971年8月の米ドル紙幣と金との兌換一時停止の宣言である。こちらも、戦後の国際金融秩序の要であったブレトンウッズ体制を転換し、最終的に変動相場制に移行する転換点となる宣言であった。
 いずれも、ニクソンは、事前に同盟諸国と協議することもなく、一方的に宣言したため、「ショック」と呼ばれるのであるが、こうした電撃的手法は独善性の表れでもあり、世界に大きな混乱をもたらしたことも否めない。
 また、ニクソンには秘密主義的な一面もあり、1971年の沖縄日本返還協定に伴う原状回復費用肩代わり密約や、大量人権侵害を起こした反共軍事独裁政権を許した1973年チリの軍事クーデターへの覆面関与など、当事国に後々まで禍根を残すような秘密外交が見られた。
 こうした秘密主義が、ニクソン自身の権力に対する野望と直接リンクしたのが、ウォーターゲート疑獄事件である。ニクソンは1972年大統領選で圧勝し、再選を果たしていたが、その過程で、ニクソンのスタッフがライバル民主党の本部に侵入し、違法に盗聴していたことが発覚した。
 この問題で、ニクソンは違法盗聴を知らなかったと抗弁し、事件の捜査を担当する特別検察官や司法長官らの一斉罷免の強硬措置で切り抜けようとしたが、録音テープの存在により、ニクソン自身が盗聴の直後に事実関係を知り、捜査妨害を行っていたことが暴露されるに至り、与党共和党からも大統領弾劾に向けた動きが沸き上がる中、ニクソンは1974年8月、大統領辞職に追い込まれる。
 こうして、ニクソンは歴史上初となる議会による弾劾罷免こそ回避したが、現時点で史上唯一の辞職したアメリカ大統領として名を残すこととなった。ニクソンが盗聴を指示したかどうかは今なお明らかになっていないが、再選に執着する彼の欲望がこうした前代未聞の不法工作を引き起こし、政治生命を絶つことにもなったと言えるだろう。

37 ジェラルド・R・フォード(1913年-2006年)

 ニクソンの辞任に伴い、副大統領から自動昇格し、第38代大統領となったのは、ジェラルド・R・フォードであった。
 フォードは元来必ずしもニクソンと近い人物ではなかったが、ニクソン政権一期目からコンビを組んでいたアグニュー副大統領がメリーランド州知事時代の汚職事件に関連して起訴されたことで辞職に追い込まれたため、1973年になって下院院内総務から副大統領に抜擢された経緯があった。
 そのうえ、翌年にはニクソン大統領自身も辞職に追い込まれ、大統領に自動昇格したフォードは、まさに棚から正副二つのぼた餅が連続して落ちてきたような強運の持ち主であった。
 フォードは手堅さが取りえといったタイプで、ニクソン辞職後の事態収拾には適任と言えた。しかし、就任直後に、「我々の長い悪夢は終わった」などと宣言し、ニクソン前大統領を恩赦してウォーターゲート事件の早期幕引きを図ったことは、再選失敗の要因の一つとなった。
 さらに、正副両大統領の相次ぐ疑獄事件の影響から議会は上下両院とも野党民主党が征するねじれに苦しみ、政権運営に支障を来したほか、外交的にもカンボジア共産軍により米商船が拿捕された1975年のマヤグエース号事件で出動した海兵隊に多くの犠牲を出すなどの失策があり、自力で再選を狙った1976年大統領選では敗退したのである。
 結局、独自の任期を得ることなくホワイトハウスを去ったフォードの役割は、ニクソン政権の敗戦処理に終始したようである。

2020年2月26日 (水)

アメリカ合衆国大統領黒書(連載第32回)

35 リンドン・ジョンソン(1908年‐1973年)

 ケネディ大統領が暗殺された直後、副大統領から第36代大統領に自動昇格したのが、リンドン・ジョンソンである。彼はケネディ暗殺の報が入ると、飛行機の中で大統領就任宣誓を行い、直ちに職務を開始した。職務継承の手際があまりによかったこと、暗殺の地がジョンソンの地元テキサスであったことなどから、陰謀説の一つとして、ジョンソンの暗殺関与説が今日まで燻っている。
 その場合、動機として、傲岸なジョンソンはケネディ大統領周辺から嫌悪されており、ケネディが再選を狙う次の大統領選挙では副大統領候補から降ろされる可能性があったことが指摘されるが、ジョンソンが元来象徴的な地位しか持たない副大統領職に暗殺を企図するほど固執していたとも考えにくい。しかし、事実上のクーデターで自らの大統領昇格を狙ったとすれば話は別である。
 実のところ、ジョンソンは1960年大統領選挙では自ら民主党予備選挙に出馬しており、本来は北部出身のケネディに対抗する南部の有力候補であった。しかし、ケネディ旋風の中、党大会ではケネディに大敗を喫し、言わば選挙後の党内融和策として、ケネディから本選挙の副大統領候補に担ぎ出されたにすぎない。
 ジョンソンは戦後、民主党の院内総務を務めるなど、議会民主党の重鎮としてケネディよりもワシントンでの経験が豊富であり、一回り年少のケネディの副大統領としてケネディの影に隠れることは本意でなく、大統領昇格を狙っていたとしても不思議はない。
 とはいえ、現在のところ、ジョンソンが暗殺に関与したという証拠はない。ただ、ジョンソンが設置した調査委員会(ウォレン委員会)が元海兵隊員オズワルドによる単独犯行説で幕引きを図ったことは、ジョンソン自身の疑惑を残す結果となったことも否定し難く、暗殺事件から歳月を経た21世紀になっても、20パーセントのアメリカ人がジョンソン関与説を信じているというデータもあり、ジョンソン大統領の記憶は芳しいものではない。
 もっとも、大統領就任後のジョンソンは、基本的にケネディ政権の政策を継承し、中でも公民権法の制定に関しては、ジョンソン自身、人種隔離政策を続けていた保守的な南部の出身ながら、これを完結させたリベラルな一面もあった。また、ローズベルト政権のニュー・ディール政策の支持者であった彼は、「偉大な社会」という愛国心をくすぐるスローガンのもと、貧困撲滅のための施策も追求した。
 ジョンソンがケネディ政権を継承しつつ、アメリカ社会に打撃を与えたのは、ベトナム戦争の拡大化であった。ジョンソンは、1964年、ベトナムのトンキン湾で北ベトナム軍の哨戒艇がアメリカ海軍の駆逐艦に魚雷を発射したとされる事件を口実に、議会から事実上の戦争大権を獲得して、ベトナム戦争を本格的に展開した。
 これは、かつてローズベルト政権が旧日本軍による真珠湾攻撃を契機に太平洋戦争を発動したのと同様の経緯を演出しようとしたのだろうが、真珠湾攻撃とは異なり、トンキン湾攻撃は後に捏造だったことが暴露された。このように、捏造により戦争を発動する手法は悪しき先例となり、およそ40年後、今度は共和党のブッシュ政権が、対イラク戦争の発動に際して、イラクの大量破壊兵器保有疑惑を捏造した。
 捏造までして拡大したベトナム軍事介入戦争であったが、結果は悲惨なものであった。北ベトナム軍とそれに支援された南ベトナム解放勢力の粘りは強く、物量で圧倒的なはずの米軍がジャングル戦を得意とする敵勢力に苦しめられた。戦況打開のため、米軍側もナチス張りの反人道的な殲滅作戦を展開し、アメリカ史に汚点を残した。
 アメリカは完敗したわけではなかったが、事実上の敗北に近い膠着状況に陥り、1968年にはジョンソン大統領もついに北ベトナム爆撃の部分的停止を決断、さらに自らの再選も目指さないことを発表したのであった。国としても、個人としても、事実上の敗北宣言であった。
 ある意味幸いだったのは、ジョンソンがベトナム戦争の停戦協定が成立する前に急死したことである。もし、彼が戦争終結後も長生していたら、心身に傷を負った帰還兵や反戦活動家らから、「戦犯」としていつまでも責められたに違いないからである。
 ちなみに、ジョンソンは教員養成大学の出身で、実際、短期間ながら高校で教職に就いたこともあるなど、アメリカ大統領経験者としては異色の経歴を持つ人物であったが、人格的には粗野で傲岸、今日で言うパワーハラスメントの常習者で、そのことがケネディ大統領周辺からも嫌悪される一因だったとも言われる。ジョンソンのまさに裏の顔であったのかもしれない。

2020年1月31日 (金)

アメリカ合衆国大統領黒書(連載第31回)

34 ジョン・F・ケネディ(1917年‐1963年)

 第35代ジョン・F・ケネディ大統領ほど、表と裏の顔の落差の著しい歴代大統領はなかったと言ってよいだろう。表の顔は、初の20世紀生まれの若きプリンス的大統領、初のアイルランド系カトリックの大統領、そして衆人環視のパレード中に暗殺され、衝撃のシーンが世界に配信された悲劇の大統領等々、伝説的で多彩である。
 政策面では、奴隷解放からおよそ一世紀を経ても、南部諸州では人種隔離政策により人種差別が根強く残る構造を変革するべく、強力な公民権法の制定を目指したこと―在任三年弱で暗殺されたため、実現は次代のジョンソン大統領に託されたが―は高く評価されている。
 外交安保政策に関しても、東西冷戦最盛期に敵国ソ連と対峙し、核戦争危機が現実のものとなったキューバ危機に際しては、ソ連指導者とタフに交渉し、寸前で戦争を回避したことも、おおむね評価されている。
 しかし、彼にはいくつもの裏の顔があった。その第一は、マフィアとのコネクションである。ケネディ家とマフィアのコネクションはジョン・Fの父ジョセフが禁酒時代に酒類密売に関与して以来の腐れ縁のようなものであるので、ジョン・F一代の責任ではないとはいえ、ジョン・Fも当選を果たした1960年大統領選挙ではマフィア組織を使って買収や二重投票などの不正工作を行っていた。
 60年大統領選で対決した共和党リチャード・ニクソン陣営は、こうしたケネディ陣営の不正の事実をつかみながら、泥沼の党派対立を嫌った超党派的なアイゼンハワー現職大統領の意向で握りつぶしたとも言われる。しかし、泥沼党派対立が茶飯事となった今日なら共和党陣営から告発され、弾劾裁判が発動された可能性も十分にあったかもしれない。
 もう一つの裏の顔は、女性問題である。ジョン・Fは後に最も著名なファースト・レディとなるジャクリーン夫人と結婚後も、多数の女性と不倫関係を重ねる不実な夫であった。相手は事務員からマフィアの関係者、女優まで多彩な顔触れだったが、最も著名なのは往年のアイドル女優マリリン・モンローである。
 これらの不倫相手はホワイトハウスにノーチェックで出入りしていたため、ケネディ政権は敵国ソ連からのハニートラップの危険性など保安上の問題にさらされており、1990年代にクリントン大統領が女性問題に関連して弾劾裁判にかけられたようにケネディに関しても、今日なら弾劾裁判が発動された可能性もある。
 政治的な面での裏の顔もあった。公民権問題での事績から「リベラル」イメージの強いケネディであるが、冷戦只中の当時、反共政策に関しては上院でも強硬派に属し、リベラル派に容共反米のレッテルを張って断罪する「赤狩り」で猛威を振るっていたマッカーシー上院議員を支持し続け、行き過ぎを批判された同議員が最終的に上院で譴責決議を受けた際には、欠席棄権している。
 大統領となってからも、アメリカの喉元に出現したキューバ社会主義革命政権を転覆するべく、ピッグス湾侵攻作戦を発動するも、これは中途半端に終わり、失敗した。
 これを教訓に、ケネディ政権は米陸軍米州学校(トルーマン政権下で設立)を通じて、中南米諸国の職業軍人を反共弾圧作戦のプロとして訓練する方針を打ち出し、その卒業生らが故国でクーデターにより抑圧的な反共親米軍事独裁体制を樹立する潮流を手助けした。
 一方で、南北分断国家のベトナムに対しては、北ベトナム共産党政権からの攻勢にさらされる南ベトナム反共独裁政権への軍事支援を拡大し、実質上駐留軍を置くに等しい対策を採り、彼の暗殺後、アメリカ史に汚点を残すベトナム戦争の要因を作った。
 こうした裏の顔は、彼が衆人監視下での暗殺という劇的な死を遂げたことで隠されることとなり、ある種の聖人伝説が残された。ケネディ暗殺事件は、政府の公式調査委員会がオズワルドなる一介の元海兵隊員の冒険主義者による単独犯行説で幕引きしても、なお様々な異説が今日まで林立している状況である。
 この話題に深入りすることは当連載の趣旨を外れるため、展開はしないが、近年機密解除された公文書の分析を通じて、キューバ政策をめぐるケネディの「弱腰」に反感を抱いたキューバ反革命武装勢力がオズワルドの背後にあったとする新説にはかかなりの根拠があるものと考えられ、少なくとも単独犯行説よりは説得力がある。
 キューバ反革命武装勢力は中央諜報庁(CIA)の訓練を受け、ピッグス湾侵攻作戦でも危険な最前線を担いながら、ケネディ大統領の中途半端な対応から大失敗し、多数の犠牲者を出したことで、ケネディを憎悪し、排除を狙うようになったと想定され、暗殺計画には一部のCIA関係者も参画していたと見られる。追加の機密解除を経て、今後のさらなる検証が待たれる。
 ところで、少壮の上院議員にすぎなかったケネディが1960年大統領選挙で、一代おいて後に大統領となるニクソンとの接戦を制したことには、上述したようなマフィアを動員した不正工作も効果を発揮しただろうが、史上初めて実施された候補者テレビ討論会を制したことも大きな勝因となったと言われる。
 時はテレビという新しいメディアの草創期であり、テレビ放送が今日のインターネットのような地位にあった。ブラウン管を通じた映像時代の始まりでもあり、映像イメージと映像を通じた弁論能力が大統領選を制する条件となったのである。その点、ケネディはやや陰鬱で策士的なイメージのニクソンより有利であった。このようなイメージ選挙の登場により、ケネディは裏の顔を巧みに隠し、当選を勝ち取ったと言える。
 同様に、彼の暗殺に関しても、衝撃の瞬間シーンがテレビを通じて全世界に配信、拡散されたことで、ケネディ大統領暗殺事件がそれから半世紀以上経過した今日でもしばしば映像とともに振り返られる20世紀の一大事件として記憶され、彼の聖人化に寄与したことも間違いないだろう。
 そして悲劇的暗殺による彼の聖人化は、ケネディ家そのものを、それまではおおむねアメリカ社会の低層にあり、被差別的存在だったアイルランド系の新興門閥に押し上げ、後にやはり暗殺された実弟のロバートをはじめ、一族がアメリカ政界で地歩を固め、民主党重鎮としてその動静が常に注目される存在となることに貢献した。

2019年12月21日 (土)

アメリカ合衆国大統領黒書(連載第30回)

33 ドワイト・デービッド・アイゼンハワー(1890年‐1969年)

 1933年から第二次世界大戦をはさんでローズベルト、トゥルーマンの二代20年にわたった民主党の長期政権は、現職トゥルーマンが立候補を見送った1952年大統領選挙で共和党のドワイト・アイゼンハワーが第34代大統領に当選することによって、ようやく終了した。
 もっとも、第二次大戦時の連合国遠征軍最高司令官を務めたアイゼンハワーは、連合国を勝利に導いた英雄として、民主党からも出馬打診を受けていたのだが、最終的に共和党からの打診を受け入れ、同党から立候補したのだった。アイゼンハワーは政治家というより生粋の職業軍人であり、その点では、南北戦争の北軍英雄から第18代大統領となったグラントに類似したバックグランドを持つ。
 ちなみに、アイゼンハワーに6年遅れてフランス大統領となった同年生まれのド・ゴールはやはり連合国側でフランスのレジスタンスを率いた英雄的職業軍人であったが、彼の職業軍人キャリアはナチス・ドイツによるフランス占領によって絶たれ、戦後も新生フランスの政治家として歩んだのとは対照的に、戦後のアイゼンハワーは陸軍参謀総長やNATO軍最高司令官などの軍歴を重ねた。
 そうした経歴から、アイゼンハワーは政治的には素人同然であり、その政権運営は受け身的、まさに英雄が神輿として担がれているようなものであった。その点では、強烈な個性をもって大衆を鼓舞し、時に権威主義的とも言える強力な政権運営を行ったド・ゴールとは対照的であった。
 アイゼンハワーが比較的積極的に取り組んだ外交安保政策面では、黒書的事績が多い。まず「巻き返し政策」の名のもとに、ソ連への対抗を強め、「大量報復戦略」として、通常兵器より核兵器に代表される大量破壊兵器の開発・保持に注力し、冷戦終結後の今日にも多大のつけを回している核開発競争の発端を作った。
 またソ連への対抗上、旧西独の再軍備や日本の自衛隊創設、日米安全保障条約の締結などを通じた旧枢軸国の同盟引き込みを追求した。戦時中は「中立」を装って事実上枢軸国を支援していたスペインの反共ファシスト独裁者フランコの国際的な孤立化措置を緩和し、防衛協定を締結し援助したこともその一環である。
 さらに、1953年にはイランで石油国有化政策を推進したモサデク政権の転覆クーデターや、翌年に中米グアテマラで土地改革を推進していたアルベンス政権の転覆クーデター、さらには南ベトナムの反共ファシスト政権への支援―後のベトナム戦争につながる―など、諜報機関を介在させて第三世界で抑圧的な親米傀儡政権を樹立・支援するという干渉手法を多用したのも、アイゼンハワー政権である。 
 アイゼンハワー個人は生粋軍人肌で、汚職にまみれるようなことはなく、歴代大統領中、個人的な汚点の少ない大統領と言えるが、後に大統領としてウォーターゲート疑獄を引き起こすことになるリチャード・ニクソンを二期八年にわたり副大統領として起用し、「養成」したのはアイゼンハワーであった。ただ、彼自身はニクソンに好感を持っておらず、その起用は党からの要請による消極的なものだった。 
 アイゼンハワーの清廉さを示す有名な用語に、「軍産複合体」がある。これは議会と軍需産業の利権結託関係を批判し、その危険性を指摘する文脈で使われたものだが、この語を使用したのは退任演説での言わば置き土産であり、アイゼンハワーが在任中に軍産複合体を牽制することはなかった。それは利権を生む通常兵器開発を抑制して、大量破壊兵器に依存する政策の正当化論だったとも解釈できる。

2019年11月23日 (土)

アメリカ合衆国大統領黒書(連載第29回)

32 ハリー・S・トゥルーマン(1884年‐1972年)

 第32代ローズベルト大統領が四期目途中で病死すると、副大統領になったばかりのハリー・S・トゥルーマンが自動的に第33代大統領に昇格した。トゥルーマンは中西部ミゾーリ州の出身であるが、上流階級の「名門」出身だった前任ローズベルトとは異なり、中産階級の出で、大卒学歴も持たなかった。
 トゥルーマンは当初、銀行員など事務系の職を転々とし、最終的には父の農場で就農するという全く平凡な一市民にすぎなかった。一方で、第一次世界大戦に州兵の一員として参戦しており、世界大戦を実地で経験した最初の大統領でもあるというように、庶民色の強い大統領であった。
 復員後、地元の民主党ボスの知遇を得て、公選制の郡行政官に選出されたことをきっかけに政界入りした。といっても地方の一介の郡にとどまっていたが、50歳になった1934年、ミゾーリ州選出の上院議員となり、遅まきながらワシントンへの進出を果たした。
 上院議員としては、ローズベルト政権のニュー・ディール政策の忠実な追随者となったことで、ローズベルトが四選を狙った1944年大統領選では副大統領候補に抜擢され、当選したのである。そして間もなく、ローズベルトが病死したことで、大統領職のお鉢が回ってくるという幸運をつかんだ。
 そうした経緯からも、当初はローズベルトが始めたニュー・ディール政策及び第二次世界大戦という二大政策の継承者にすぎなかった。優先課題は、終戦が迫っていた第二次大戦の幕引き、中でも抵抗を続ける日本への引導の渡し方である。しかし、この任務は外交安保に関してはほとんど素人に近いトゥルーマンには重荷であった。
 もっとも、アメリカ史の通念上は、トゥルーマンこそ、日本への最終手段として原爆投下を決断し、終戦を導いた英雄ということになっているが、事はそう単純でない。
 この時期の外交安保は原爆の開発と実用を急ぐバーンズ国務長官と一部の陸軍首脳に握られており、個人的には原爆使用を軍事基地に限定しようとしていたトゥルーマンの意向を無視し、大統領の明示的な承認も経ないまま市街地への原爆投下が強行されるという形で、完全に民主的コントロールを失っていたことが明らかになっている。
 こうして、トゥルーマンは民主的な指導力を欠いたまま、原爆による一般市民虐殺の責任者となったのである。彼は退任後も公式には原爆投下を正当化し続けていたが、近年の研究では、個人的に後悔の念を抱いていたこともわかっており、冷酷な好戦家ではなかったようである。
 トゥルーマンが独自の指導力を発揮し始めるのは、戦後である。とはいえ、平和な新世界の構築ではなく、新たなライバルとして台頭してきたソ連との分断的な対立軸を鮮明にする冷戦の開始者としてである。この過程では、朝鮮戦争という第三次世界大戦につながりかねない国際戦争も再発し、今日まで続く朝鮮半島分断構造という遺産を残した。
 このように、トゥルーマンは国際社会においては、統合より分断を助長することに寄与したと言えるが、内政面では人種的統合と福祉の増進による階層的分断の解消に努力する姿勢も見せている。
 1948年大統領選を征して独自の任期を得た彼は、ローズベルトの「ニュー・ディール」を継承する「フェア・ディール」を提示して、本格的な歩みを見せようとした。「フェア・ディール」では「ニュー・ディール」がやり残した社会保障改革に関する意欲的なアジェンダが用意されていたが、勢力を増してきていた議会保守派の抵抗で頓挫した。
 一方、公民権問題に関しては、軍と連邦政府における人種差別を禁止する大統領令を発したが、全米規模での公民権改革は、支持基盤の一つである南部民主党が当時は人種隔離政策を主導し、黒人公民権に強硬反対していたことから実現しなかった。
 トゥルーマンという人物は、個人的にはつましい中産階級出自の善意の人であったかもしれないが、その知的バックグランドの限界と法案提出権も議会の解散権も持たず、立法に手を出せないアメリカ大統領の憲法的な権限の制約から、暗黒に手を貸し、あるいは暗黒をただすことができずに終わる運命だったのかもしれない。
 一期目は副大統領から昇格したトゥルーマンは規定上、1952年大統領選で再選を狙えたが、支持率は低迷しており、指名獲得が見込めないことから、トゥルーマンは出馬を見送り、引退の道を選んだ。本選挙では、共和党のアイゼンハワーが勝利し、大戦をはさんで20年に及んだ民主党時代が終焉した。

2019年10月 2日 (水)

アメリカ合衆国大統領黒書(連載第28回)

31 フランクリン・デラノ・ローズベルト(1882年‐1945年)

 世界恐慌という未曾有の経済危機に対処できないまま、再選をかけた1932年の大統領選挙で現職の第31代フーバー大統領を惨敗に追い込み、第32代大統領の座を獲得したのは、民主党のフランクリン・ローズベルトであった。民主党にとっては12年ぶりの政権奪回である。
 ローズベルトはオランダ系の裕福な実業家一族の出であり、先祖は合衆国独立時に憲法制定会議の議員を務めるなど、建国史にも足跡を残した名門であった。共和党の第26代大統領セオドア・ローズベルトとも遠縁関係にある。
 そうした恵まれた環境の中で、ローズベルトは早くから政治家として世に出た。ニューヨーク州上院議員を皮切りに、ウィルソン大統領時代に七年務めた海軍次官を経て、連邦上院議員、ニューヨーク州知事と、中央・地方の政治の階段を短期間で駆け上り、合衆国の頂点にたどり着いたのだった。
 彼の1932年大統領選挙における公約「三つのR―Relief(救済)、Recovery(回復)、Reform(改革)」は印象的で、大恐慌の余波に苦しむ当時のアメリカ国民の心をとらえるものだった。この三つの公約を軸に、「新規協約(ニュー・ディール)」と称される政策プログラムが推進されることになる。
 「新規協約」とは、革命まではいかないが、従来のアメリカ的な政策理念を大きく変更する大胆な政策転換であったから、言わば建国以来の社会契約をまき直すという壮大な構想であった。それは、特に共和党が党是としてきた自由放任経済に重大な修正を加えることを意味した。
 そのため、いわゆる「ニュー・ディール政策」として、あるいはそれに関連して展開された新規諸政策は多岐に及ぶが、本連載の趣旨からはそうした政策の詳細に立ち入ることは避けることにする。むしろ、「ニュー・ディール」という歴史的な転換点を作ったことで、初代ワシントン、奴隷解放のリンカーンに比肩する偉大なアメリカ大統領と評されるローズベルトの裏の顔を探ってみよう。
 彼の裏の顔の多くは、主として三期目に直面した第二次世界大戦中に現れてくる。最も悪名高いのは、戦時中の日系人隔離政策である。これはすでに戦間期共和党政権時代から現れていた排日政策の延長とも言えるが、入国を制限する移民規制からすでに定住している移民の強制収容に飛躍したのである。
 ただ、ローズベルト自身は、人種の交配をポジティブに受け止める当時としては比較的進歩的な人種観の持ち主であったと見られるが、日本人に関しては、真珠湾攻撃の衝撃からか、差別的な感情を抱き、日系人強制収容という強硬策に出たのだ。
 ちなみに、ローズベルトは「黒人内閣」と通称される黒人アドバイザーを多く抱え、黒人層の政権参加を許したため、黒人層からも支持されていたが、公民権問題に関しては、長年の懸案である白人による黒人へのリンチ制裁を禁止する反リンチ法に反対するなど、積極的に取り組む姿勢を見せなかった。
 もう一つは、最終的に次期トルーマン政権で現実に日本に対して実戦使用される原子爆弾の開発計画に着手したことである。いわゆるマンハッタン計画である。これも、ナチスドイツの原爆開発計画に対抗し、機先を制する観点からの策ではあったが、ドイツより先に成功したことは、戦後の核開発競争を招く契機となった。
 このように、戦争政策という文脈においてではあるが、ローズベルトは病人に見立てて「隔離」を唱導していたナチスドイツと重なるような政策に自らも対抗的に着手したのであった。もっとも、ローズベルト自身がファシズムに傾斜していたことを示す証拠はなく、結果的には、ファシズム枢軸諸国の暴走的侵略行動を阻止する成果は得たが、代償も大きかった。
 民主党総体としてみれば、第一次世界大戦に参戦したウィルソン政権に続き、ローズベルト政権では第二次世界大戦に参戦したことで、20世紀民主党は―後のベトナム戦争まで含めて―、多大の戦死者を出す「戦争の党」となった。前大統領フーバーは、惨敗した悔しさも手伝ってか、ローズベルトを好戦的な狂人呼ばわりしている。
 ローズベルトはしかし、在任中圧倒的な人気を誇ったため、それまでの慣例を破って三選、さらに四選の意欲を示しても、止める者はいなかった。彼は決して終身独裁者を狙っていたわけでないとしても、「退任」を口にせず、権力への意志が強かったことは否めない。もし健康が許せば、戦争をまたいで五期目もあり得たところだったが、戦争終結を見ずに訪れた早い死が四期目を一年足らずで終わらせた。
 ローズベルトのアメリカ史上異例の多選を可能としたのは、労働組合、黒人、ユダヤ人その他の少数派、農場経営者、リベラル知識人等々から成り「ニュー・ディール連合」と称される利益団体や支持勢力の選挙連合であった。ある種の翼賛的ネットワークであるが、統一的な組織化はなされず、ファシストの翼賛政治組織とは異質のものである。
 しかし、このような連合も、ローズベルトの没後、漸次自然解体し、さらに戦後の1947年の憲法修正第22条により、大統領職は二期までに制限されたことから、多選の道も法的に塞がれたのである。独裁者の存在を許さないアメリカ的伝統が反作用として働いたと言える。

2019年8月31日 (土)

アメリカ合衆国大統領黒書(連載第27回)

30 ハーバート・フーバー(1874年‐1964年)

 第31代大統領ハーバート・フーバーは、戦間期共和党政権における三人目にして最後の大統領となった。彼は1928年大統領選挙で、「どの鍋にも鶏一羽を、どのガレージにも車二台を」という1920年代の右肩上がりの高度成長と繁栄を反映した野心的なスローガンを掲げ、当選した。
 そして、その勢いで、大統領就任式でも「今日、われわれアメリカ人は、どの国の歴史にも見られなかったほど、貧困に対する最終的勝利の日に近づいている」と高らかにうたったが、その舌の根も乾かぬうちに大恐慌に見舞われるという皮肉に直面した。
 しかし、フーバーの恐慌対策は、実質上無きに等しいものであった。彼は景気の先行きを楽観視し、共和党の定番政策となっていたレッセ・フェール型の経済不介入政策と保護貿易政策で応じようとしたが、これはいっそうの不景気と失業者の増大を結果しただけであった。対外的にも、大恐慌に直撃されたドイツを救済するために打った第一次大戦時の賠償債務の支払猶予は効果を上げなかった。
 質素を重んじるクエーカー教徒家庭に育ったフーバーは禁酒法の支持者であり、密造酒製造を資金源としていた悪名高いシカゴギャングのアル・カポネを逮捕・起訴し、有罪に追い込んだことは数少ない功績となったが、逆効果的に密造酒の価値を高め、犯罪組織の資金源を支える禁酒法はすでに時代遅れのものとなっており、市民からの撤廃要求に直面した。
 公民権問題への無関心という点でも、フーバーは無策であった。当時、共和党は党幹部から黒人を排除する動きを強めていたが、フーバーはこの動きに乗り、党の白色化を進めていった。これにより、奴隷解放を結党原点とする共和党に対する黒人層の支持が決定的に低落し、黒人層が民主党支持へ鞍替えしていく歴史的転換点を作ることとなった。
 このことは、大恐慌への無策と合わせて、再選を目指した1932年大統領選では不利に働き、民主党候補のフランクリン・ローズベルトに歴史的な大敗を喫する結果を招いた。かくして、1920年以来、三代続いた戦間期共和党政権も終焉したのである。
 大統領としては失敗に終わったフーバーだが、90歳の長寿を保ったことから、第二次大戦を見届け、60年代まで存命した。退任後の仕事として、占領下の日本やドイツを視察し、民主党政権の占領政策を批判した。その後も、民主・共和両政権から行政機構再編のための委員会の長に任命されるなど、退任後に一定の足跡を残した。

2019年7月24日 (水)

アメリカ合衆国大統領黒書(連載第26回)

29 ジョン・カルバン・クーリッジ・ジュニア(1872年‐1933年)

 第29代ハーディング大統領が任期途中で死去した後、クーリッジ副大統領が自動昇格して第30代大統領となる。クーリッジは三人続いた戦間期共和党政権の二人目の大統領にして、唯一二期務めたため、三人の中で最長の政権を担う結果となった。
 クーリッジは地元マサチューセッツ州で市会議員や州議会議員、さらには州副知事・知事と地方政治の要職をあらかた経験したうえで、ハーディング前政権の副大統領に抜擢されるという経歴の持ち主であった。実際のところ、彼は1920年大統領選挙に立候補し、予備選挙でハーディングに敗れており、ハーディングとは本来は党内ライバル関係にあったが、融和のため本選挙では副大統領候補に抜擢されていたのだった。
 クーリッジは「無口のカル」とあだ名されるほど、余分な発言をしない人物で、何かをするよりしないことを主義とするような人間像だった。そうした人間像は、その政策にも現れている。
 彼が政権にあった1920年代は今日のアメリカにつながる金万能の資本主義が開花した時代であったが、クーリッジは市場介入を避ける自由放任主義を採った。その点で、クーリッジは後の共和党が志向する「小さな政府」イデオロギーの先駆者とみなされることもあるが、クーリッジ自身はさはどイデオロギーに染まった人物ではなく、実務主義的な人間であった。
 その他、彼が何かをしなかったこととして、公民権政策がある。クーリッジ自身は人種差別に反対していたが、公民権拡大のために積極的に動くこともしなかった。ただし、保留地に居住する全先住民にアメリカ公民権を付与する法律に署名したのは、数少ない前進的な成果であった。
 移民問題でも同様、クーリッジ自身は移民の社会的貢献に対し好意的であったにもかかわらず、アジア系移民を排斥することを狙った悪名高い1924年移民法に署名している。クーリッジは、移民受け入れに好意的ではあったが、人種の混血には否定的という両義的な価値観を抱いていたのだ。
 「無口のカル」は、バブル的好況の絶頂にあった1924年の大統領選挙で圧勝し、新たに独自の任期を得た。民主党が強力な対立候補を擁立できなかったこともあるが、好況の中、クーリッジの経済不干渉主義が好感された結果であった。このときのクーリッジ陣営の駄洒落スローガン「クーリッジとクールでいよう」は、まさに何事にも熱中しないクーリッジ政権の性格にぴったりだった。
 そして、恐慌の予兆が始まっていた1928年の大統領選挙に関してはきっぱり「出馬しない」と宣言し、引退の道を選んだこともクールだった。翌年、歴史的な大恐慌がアメリカを直撃した時には、風当たりの強いホワイトハウスにいなくてすんだからである。

2019年6月26日 (水)

アメリカ合衆国大統領黒書(連載第25回)

28 ウォレン・ガマリエル・ハーディング(1865年‐1923年)

 第一次世界大戦の余波が残る1920年の大統領選挙では、共和党のウォレン・ガマリエル・ハーディングがウィルソン後継の民主党候補に圧勝し、第29代大統領となった。ハーディングは南北戦争終結後に生まれた初の大統領であり、これ以降のアメリカ大統領史は名実ともにポスト南北戦争の時代に入る。
 それにしても、オハイオ州知事や連邦上院議員の経験はあったが、地方の新聞経営者出自でさして知名度もないハーディングが圧勝した要因は、反ウィルソン戦略にあった。
 この時、ウィルソン現職が病気で執務不能状態にあることはまだ公にされていなかったが、すでに政権は死に体であり、ウィルソンの人気も落ち目であった。そこで、ハーディングはウィルソン政権を否定し、「正常に戻ろう」という単純明快なスローガンで、戦争疲れした国民に戦時体制の終了を訴える戦略が功を奏したのである。
 彼の「正常化」政策が最も明確に現れたのは、外交政策であった。すなわち国際連盟への加盟見送りを確定させ、ドイツとの単独講和で戦争を終了させた一方、ワシントン軍縮会議では台頭していた日本の海軍力の制限とアメリカの覇権確立に努めた。
 内政面では、富裕層減税と保護関税を明確に打ち出し、連邦政府の予算会計制度の整備を進めるなど、今日の共和党保守主義につながる面を見せている。一方、南部で蔓延した黒人へのリンチを抑止する反リンチ法の制定を推進したが、これは人種差別的な南部民主党により阻止された。
 黒人の要職登用にも積極的だったハーディングの路線は反奴隷制を原点としていた初期共和党の進歩的な姿を残したものであったが、同時に移民法では当時欧州での迫害を逃れてくるユダヤ人が増加していたことから、移民規制を強化する緊急法を導入するなど、移民排斥政策の先鞭をつけた。
 ハーディング政権最大の暗黒面は、汚職であった。おそらくは彼自身のワシントンでの経験不足を補う目的もあり、先行共和党政権下の公務員制度改革により抑制されてきていた伝統の猟官制を再起動し、地元オハイオを中心とする友人知己を論功行賞で政府の重要ポストに就けたことで、政権は多くの汚職スキャンダルにまみれたのである。
 中でも、内務長官が軍保有の油田を民間賃貸するに際して収賄して摘発されたティーポット・ドーム事件はハーディング政権最大の汚点となった。その他、ハーディング自身の関与が疑われたケースはなかったとはいえ、周辺者の汚職疑惑が多発した。
 ハーディングは1923年、アメリカ大統領として初めて公式訪問したアラスカ(当時準州)とカナダから帰国した直後、心臓発作を起こして急死してしまう。実は、彼はアラスカ訪問中、政権要人の汚職に関する調査報告書を読まされ、ショックを受けたとされており、快適と言えない当時の鉄道や船の長旅疲れと相乗して、心身に打撃となったのかもしれない。
 こうして一期目途中で病死したことから二年余りの短命政権に終わったことや、前任ウィルソンに比べてカリスマ性に欠けることもあり、現代ではあまり知られない存在として埋もれてしまったハーディングであるが、彼は三人の大統領に順次率いられた戦間期共和党政権の最初の基礎を置いた人物であった。

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