アフリカ黒人の軌跡

2020年5月20日 (水)

アフリカ黒人の軌跡(連載第47回)

八 解放闘争の時代―公民権闘争と独立運動

近代ナショナリズムと汎アフリカ人主義
 南アフリカ以外のアフリカ諸国がリベリアとエチオピアを除いて西欧列強の植民地支配または「保護国」名目での従属化を強いられていく中、西欧経由での近代ナショナリズムがアフリカでも発展していく。サハラ以南のアフリカ黒人の間でも同様である。
 アフリカ黒人は、膨大な数に上る部族に分岐して小王国を形成することが多い反面、長期間持続する帝国的な国家に発展した例は少なく、部族主義が基調であったところ、ナショナリズムの浸透はまず、こうした細分化された部族主義を内発的に超克しようとする運動として発現した。
 そうしたアフリカ最初の近代ナショナリストの多くは、部族長の家系などに生まれたエリートの知識人階級であった。彼らは植民地化状況の中でも、西欧宗主諸国へ留学する特権を与えられ、西欧的な知識体系を身につけて自国に持ち帰った。
 こうした初期の欧化した近代ナショナリストは、宗主国にとっても現地人協力者として有用な人材であり、多くが植民地政府の現地職員などとして雇用され、植民統治に寄与したが、西欧が旧来の部族主義や部族王国を超克する国民国家の観念を教えたことは、やがて植民地支配を内部から脅かすパラドックスを生んだ。ナショナリズムが反部族主義から、反帝国主義へと反転していくからである。
 そうした反転は、さしあたりアフリカ大陸の外から刺激された。これが19世紀末に始まる汎アフリカ人主義の潮流である。発端はカリブ海の英国領トリニダード出身のアフリカ系弁護士ヘンリー・シルベスター・ウィリアムズが1897年に立ち上げたアフリカ人協会である。
 解放奴隷出自と見られる労働者階級に生まれた彼は、苦学しながら初め教師となり、後にカナダで法曹資格も取得したセルフメイドに近い知識人である。反帝国主義とアフリカ内外のアフリカ人の団結を訴える汎アフリカ人主義を掲げたアフリカ人協会はたちまちアフリカ内外の賛同を得て、1900年という節目の年にロンドンで第一回汎アフリカ人会議を開催するほどの勢いを見せた。
 もっとも、汎アフリカ人協会と改称した組織は内部対立などから持続しなかったが、1919年のパリに始まり、2014年のヨハネスブルグまで不定期ながら八回開催されてきた汎アフリカ人会議は、直接ではないが、実質的な後継運動と目される。
 1919年の第一回汎アフリカ人会議は、第一次世界大戦後のベルサイユ条約制定過程で台頭した新しい観念である「民族自決」を反映して、植民地支配下にあるアフリカ人の自治を要求する目的から開催され、アメリカ黒人公民権運動の先駆者であるウィリアム・デュボイスとアイダ・ギブスの男女知識人二人によって組織されたもので、全体としてアメリカ黒人の主導性が強かった。
 しかし、会議にはカリブ海諸島やアフリカ大陸からの代表者も参加しており、「独立」ならず、「自治」の要求という穏健な内容ながら、新旧両大陸のアフリカ黒人が結集して具体的な要求事項を掲げたことには歴史的な意義があったと言えるであろう。

2020年3月 4日 (水)

アフリカ黒人の軌跡(連載第46回)

八 解放闘争の時代―公民権闘争と独立運動

南アフリカ黒人の新たな試練
 奴隷解放後のアメリカ南部で奴隷制に代わる人種隔離政策が推進されていった頃、黒人を従属下に置いていた土着白人のボーア人が英国の植民地支配下に置かれるという二重植民地化の特異な状況を脱して、1910年に自治権を獲得した南アフリカでも、黒人たちが同様の状況に置かれつつあった。
  実のところ、ボーア人の伝統的な経済基盤は、アメリカ南部と類似した奴隷制農園であった。ボーア人は、先住の黒人サン人やコイコイ人を駆逐し、その居住地を奪いつつ、かれらや周辺のバントゥー系黒人を奴隷労働力として使役し、自給自足の農園を経営していたのだった。
 しかし、英国の支配下で、アメリカに先立って英本国で制定された奴隷制廃止法を南アフリカ植民地(ケープ植民地)にも適用されたことにより、ボーア人が経済基盤を喪失したことが、後のボーア人の内陸大移動(グレートトレック)と対英戦争の動因の一つともなった。
 自治権を獲得したボーア人は、英帝国内での自治という制約上、奴隷制を復活することはできなかったが、アフリカ大陸土着白人としてのアイデンティティーを確立すべく、先住のアフリカ黒人と区別してアフリカーナ―を称するようになり、南アフリカを白人優越的な体制として純化することを追求し始め、黒人を政策的に隔離するようになる。
  こうした新たな動きを察知した黒人たちも、黒人の権利を擁護する団体を結成し、対抗した。現在まで政党として続くアフリカ民族会議(ANC)の前身となる南アフリカ先住民族会議(SANNC)がそれである。こうした団体の結成には高等教育を受けた知識人の存在を要するが、幸いにも、南アフリカでは英国統治下で一定の黒人知識人が育っていた。
 しかし、南アフリカの白人支配層はこうした黒人たちのの動きを尻目に、1912年には土地法を制定し、白人への土地所有の集中化を図った。反面、黒人を都市部の労働者として追いやるとともに、域内移動の自由も身分証で制約するという人種隔離政策アパルトヘイトの土台を築いた。
 SANNCはこうしたアパルトヘイト政策の攻勢に対して立ち向かうことになるが、当初は穏健な人権団体であったSANNCは有効に対抗することができなかった。そこで、1920年代になると、鉱山労働者を中心に闘争的な労働組合が結成され、SANNCと連携しつつ、ストライキで対抗するなど、近代的な労働運動がアフリカでいち早く展開された。
 イデオロギー的な面でも、SANNCは元来、白人左派政党として結成された共産党との連携を図ったが、人種的・イデオロギー的な齟齬の大きいこの連携はぎごちないものとなった。とはいえ、共産党も南アフリカでは伸張することがなく、同党は、労働組合とともに、SANNCから改称されたアフリカ民族会議(ANC)の連携組織として活動するようになっていく。
 これに対し、白人支配層側でもアフリカーナ―の右派ナショナリストが1914年に結成した白人至上主義の国民党が次第に浸透していき、第二次世界大戦後の1948年総選挙で勝利して政権与党となると、以後、1994年まで半世紀近くに及ぶ支配政党としてアパルトヘイト政策体系を着々と構築していくのであった。
 この新たな国民党アパルトヘイト体制という強敵に直面する中、長くインドの独立運動家マハトマ・ガンジー―彼は若年時、南アフリカでインド系移民の権利擁護活動をしていた―の影響下に非暴力闘争を掲げていたANCも活動路線の見直しを強いられることになるが、戦後ANCの歩みについては改めて後述する。

2019年12月14日 (土)

アフリカ黒人の軌跡(連載第45回)

八 解放闘争の時代‐公民権運動と独立運動

アメリカ公民権運動の始動
 
奴隷制度が終焉した19世紀末から20世紀初頭の頃、アフリカ黒人はアフリカ大陸ではリベリアを除き、また解放奴隷がそのまま残留したカリブ海地域ではハイチを除き、ほぼすべてが西欧列強の植民地支配下に編入されていた。一方、アメリカ南部と南アフリカでは黒人が白人支配層による人種差別的隔離政策下に置かれていた。
 
このようなポスト奴隷制の新たな従属状況下で、新たな黒人解放運動の起点となったのはアメリカであった。アメリカでは、リンカーン大統領による奴隷解放宣言と、その後の南北戦争を経て、奴隷制度の法的な廃止は実現されていたけれども、司法では「分離すれども平等」という判例テーゼが確立され、人種隔離は憲法に違反しないと解釈されていた。
 
そのため、南部諸州では田舎の貧しい黒人の揶揄的キャラクターの名にちなんで「ジム・クロウ法」と総称される人種隔離法体系が次々と整備されていった。その内容は州ごとに異なるが、学校や病院といった公共施設、レストランのようなサービスにおける人種別利用制限から、異人種間の結婚や性行為の禁止、さらには「平等扇動罪」のような人種平等の主張自体を抑圧する言論統制にも及ぶ苛烈なレイシズムの合法化であった。
 
こうした人種隔離主義の法体系は、少し遅れて南アフリカ共和国でもより徹底した形で採用されていくが、南アとの違いは選挙権に象徴される公民権は法的に黒人にも保障されていたことである。とはいえ、アメリカでは選挙権は選挙人名簿に登録しない限り行使できないため、南部諸州では黒人の選挙人登録を妨害する形で、事実上黒人の選挙権行使を抑圧していた。
 
そうした中、1908年には、リンカーンの地元イリノイ州で大規模な人種暴動が発生した。これは黒人男性が白人女性をレイプしたとされる事件への報復として、白人暴徒が黒人へのリンチや破壊行動に出たもので、南北戦争当時は北軍に加わった進歩的州での出来事だけに衝撃が広がった。
 
こうして北部にまで及ぶ構造的な無権利状態から解放されることが、解放奴隷の黒人層にとって新たな課題であった。19世紀の奴隷解放は主として進歩的白人層の尽力によって達成されたが、ポスト奴隷制の人種差別構造からの解放は、黒人自身の主体的な努力による必要があった。
 
最初の動きは、「全国黒人地位向上協会」の創立である。これはイリノイ人種暴動の翌年、人種を越えた有志によって準備され、今日まで持続するアメリカで最も古い全米規模の解放運動団体であるが、創立当時は差別構造の中で高等教育を受けた有識黒人は稀であったから、運動の初動では白人や混血ムラートの参加が不可欠であった。
 
そのため、名称にもかかわらず、協会の初代会長は白人弁護士のムアフィールド・ストーリーであった。また創立メンバーの一人で、理論面での指導者だった社会学者のウィリアム・デュボイスは分類上は「黒人」ながら、父はハイチ出身のムラート、母はアメリカ先住民と黒人の混血という複雑な血統を引くムラート知識人であった。
 
ちなみに、第二次世界大戦後まで長寿を保ったデュボイスは晩年、サハラ以南アフリカで最初に独立を果たしたガーナから独立記念行事に招待され、最終的にはガーナに帰化し、当地で死没しており、大西洋を越えてアフリカ大陸におけるアフリカ黒人の独立運動にも象徴的な足跡を残した稀有の人物となった。

2019年11月 7日 (木)

アフリカ黒人の軌跡(連載第44回)

七 アフリカ分割競争の時代

強制的近代化と適応
 19世紀末から開始された西洋列強諸国によるアフリカ分割競争に対して、アフリカ黒人たちは前回まで見てきたような一部を除き、あまり抵抗することなく、軍門に降ることが多かった。火器を使用する近代的列強軍に対し、アフリカ伝統武器の圧倒的な劣勢という現実の前に、生存を確保するためにはそうするしかなかったと言える。
 その結果、1910年代までに、リベリア共和国を除くアフリカ黒人のすべてがイギリス、フランス、ポルトガル、ベルギー、ドイツ、スペインのいずれかの領土ないし領土に準じた保護領の域内に取り込まれることになった。
 例外としてのリベリアはアメリカから解放され「帰還」してきた黒人解放奴隷の子孫を支配層とする独自の共和制国家という異彩を放つ存在ではあったが、アメリカ系移民黒人層が先住黒人諸部族を支配するという構造が定着した。
 このリベリア独特の階級構造を列強の植民地と同一視することは適切でないが、建国に深く関与したアメリカが最大の援助国として強い影響力を持ち、アメリカの保護国に近い状態にあったという点では、リベリアの「独立」の実質は割り引いて考える必要があるかもしれない。
 こうしてアフリカ黒人は20世紀半ばすぎまで、おおむね80年近く西洋列強の支配下に置かれるわけだが、その間、アフリカ黒人は列強により近代化を強制された。列強は人種差別的な観点から劣等視していたアフリカ黒人の自己発展能力を否定し、アフリカの強制的文明化はヨーロッパ人の責務だと信じていたからである。
 他方、アフリカ黒人の側でも、強制的近代化に適応し、西洋的な価値観を身につけ、西洋留学を通じて教師やその他の知識人、テクノクラートとして帰国して列強植民地政府/軍に勤務するといった「欧化アフリカ黒人」も増えていったのである。皮肉にも、こうした「欧化アフリカ黒人」の中から、20世紀半ば以降の民族自決・独立運動の指導者が輩出されていくことにもなる。
 しかし、一方で、伝統的な部族制は根強く残り、場合により植民地当局はそうした部族制を積極的に助長・悪用した。その最悪例がベルギー領ルアンダ‐ウルンディ(今日のルワンダ及びブルンディ)に見られる。この領域は当初ドイツ領であったが、第一次世界大戦に敗北し、植民地を喪失したドイツからベルギーの委任統治領(戦後は信託統治領)に移管されたものである。
 この領域を支配するに際して、ドイツとベルギーは本来実質的な差異のない共にバントゥー系のフトゥ族とトゥツィ族という二大部族を分断し、古くから王室を担っていた少数派トゥツィ族を優遇する政策を採用した。特にベルギーは、両部族を形式的に牛の保有頭数で分けるという経済的な階級差別政策を敷いた。
 このような人為的な部族差別政策の結果、多数派フトゥ族のトゥツィ族に対する怨嗟が強まり、独立後の部族紛争や遠く20世紀末のルワンダ大虐殺―主にトゥツィ族が計画的に殺戮された―に形を代えて重大な禍根を残したのである。
 ヨーロッパ人にとって気候的に厳しいアフリカでの植民地経営は容易でなく、本国からの大量的な移住入植は望めなかったため、少数の白人が多数を占める黒人を効果的に支配する必要から、このような部族分断政策が採られたと考えられる。
 その点、英国が土着白人ボーア人を支配し、ボーア人が黒人を支配するという特異な二重支配構造となっていた南アフリカでは、1910年に自治を勝ち取ったボーア白人が黒人支配を強化するべく、人種隔離政策体系(アパルトヘイト)を導入したことから、黒人は20世紀末まで体系的な差別に対して闘争しなければならなかった。

2019年9月21日 (土)

アフリカ黒人の軌跡(連載第43回)

七 アフリカ分割競争の時代

反独蜂起②
 ドイツは1885年以来、現在のタンザニアを中心とする東アフリカにも植民地を形成していたが、こちらは南西アフリカ植民地に比べると、本国からの入植者も限られ、支配密度が希薄であった。それでも、現地の隊商交易の権益を奪取したことなどから、現地民の反発は強かった。そのため、早くも1888年から翌年にかけて最初の反乱が発生する。
 この反乱は指導者アブシリの名を取ってアブシリの乱とも呼ばれる。アブシリ自身はこの地域の上層階級であったオマーン・アラブ系の富裕な商人であったが、在地の黒人諸部族を糾合して、武装蜂起したのである。時系列的には、本件が反独蜂起としては最初のものである。
 この当時ドイツ領東アフリカを統治していたドイツ東アフリカ会社は自力で対処できず、本国政府の支援を受け、翌年、鎮圧に成功した。この件を契機に、東アフリカはドイツ本国による直接統治方式に改められた。
 しかし、ドイツは人頭税を徴収し、建設その他の強制労働、さらには換金作物としての綿花栽培への動員など、現地住民に対し封建的とも言える搾取のシステムを強制し、伝統的な共同体を破壊した。そうした横暴への反動として、1891年以降、指導者ムクワワに率いられて、バントゥー系ヘヘ族が武装蜂起する。
 ムクワワは堅固な要塞を築いて7年にわたり抵抗を続けたが、1898年、ついにドイツ軍に追い詰められ、自殺した。彼の頭蓋骨は、他のアフリカ黒人の頭蓋骨とともに標本としてドイツ本国に送られたが、ここにも、南西アフリカでの人体実験と並び、ドイツ植民地支配の特異な非道性が見て取れる。
 ムクワワ蜂起の後も、現地住民の抵抗は終わらなかった。1905年、旱魃を契機に鬱積していた現地民の不満が爆発する。こうして開始された新たな武装蜂起が、マジマジ蜂起である。
 名称由来のマジとはスワヒリ語で水を意味するが、ただの水ではなく、霊媒師キンジキティレ・ングワレが憑依により交信した先祖の預言により託されたと称する魔法の水であり、それにはドイツ軍の弾薬を液状化する霊力があるとされた。キンジキティレはこの魔法の水を配布し、預言としてドイツ人排除のための決起を唱えたのである。
 こうして霊媒師によって起動された新たな反独蜂起は、マジ信仰を精神的な基盤として周辺諸部族の間で急速に拡大した。キンジキティレ自身は1905年度中にドイツ軍に捕らわれ、処刑されてしまうが、彼に触発された反独蜂起自体は3年に及んだ。
 とはいえ、マジ信仰を共有しても、多部族間に共闘組織はなく、むしろ次第に足並みが崩れ、部族によっては打算からドイツ協力者となるものも現れた。また当然ながら、マジは宣伝されていたような霊力を示さず、マジ信仰熱も冷め、最終的に大蜂起は鎮圧されたのであった。
 マジマジ蜂起の期間は3年ほどだが、ドイツ軍による村落の徹底的な破壊作戦が展開されたため、ドイツ側死者数百人に対し、現地住民側は地域人口の三分の一に当たる20乃至30万人が戦災や飢餓により死亡したと推計されており、これはほぼ同時並行していた南西アフリカ植民地でのヘレロ‐ナマクア蜂起による犠牲者数より多い惨事となった。

2019年8月21日 (水)

アフリカ黒人の軌跡(連載第42回)

七 アフリカ分割競争の時代

反独蜂起①
 列強によるアフリカ分割競争には、統一されたばかりの後発帝国主義国ドイツも早速加わっていた。長く封建的小邦分立が続いていたドイツにとっては、アフリカ分割競争に参入することは、誕生したばかりの脆弱な帝国を固めるうえで手っ取り早い手段だったのだ。
 しかし、取り急いでの参入とあって、アフリカに不慣れなドイツは現地住民との関係構築が不得手であったうえに、ドイツが切り取った支配地域には自立心の旺盛な諸部族が割拠していた。そのため、19世紀末から20世紀初頭にかけて、歴史に残る反独蜂起がたびたび起きている。これは、英仏など他の列強植民地では見られなかった現象である。
 とりわけ繰り返し蜂起が発生したのは、今日のナミビアに相当するドイツ領南西アフリカであった。この地はドイツのアフリカ植民地最大規模にして、本国ドイツ人が多数入植した唯一の植民地ということもあり、現地住民との摩擦が生じやすい環境にあった。
 最初の蜂起は、この地域に割拠するコイサン諸族中でも最大勢力を成すナマクア人によるものであった。1893年、ドイツ軍による攻撃で多数の死者が出たことを機に、首長ヘンドリック・ヴィットボーイに率いられて翌年にかけて蜂起したが、この時はナマクア側が降伏し、和平を締結した。
 ナマクア人は1904年にも、ヘンドリックの他、新たにヤコブ・マレンゴという指揮官を得て再度蜂起した。ヴィットボーイは05年に戦死したが、マレンゴはドイツ側から「黒いナポレオン」と呼ばれるほど戦術に長け、ドイツ軍を苦しめた。
 一方、1904年には、ナマクア人の蜂起に先立ち、バントゥー系ヘレロ人が首長サミュエル・マハレロに率いられて蜂起した。かれらはドイツ人の農場を襲撃、多数の入植者を殺害し、一時優位に立つが、ドイツ側は義和団の乱でも活躍した猛将ロタール・フォン・トロータ将軍を擁して反撃に出た。
 フォン・トロータは、ヘレロ人・ナマクア人絶滅を企てる民族浄化作戦を展開した。その手段として、過酷なカラハリ砂漠への追放や収容所への強制収容が断行され、収容所では科学者による人体実験が実施されるなど、後のナチスを思わせる非道行為も見られた。
 事実、ヘレロ‐ナマクア大虐殺は後にナチスから称賛され、その政権獲得後にミュンヘンのある通りを「フォン・トロータ通り」と命名したほどであった。こうした経緯から、この大虐殺をホロコーストの原型とみなす向きもある。
 ヘレロ‐ナマクア蜂起は、このような民族浄化手段を用いなければ“最終解決”できないほど、両民族は強力だったとも言えるが、1908年まで4年にわたった民族浄化作戦の犠牲者は最大推計でヘレロ側10万人、ナマクア側1万人ともされる。

2019年7月13日 (土)

アフリカ黒人の軌跡(連載第41回)

七 アフリカ分割競争の時代

スーダンのマフディー国家
 スーダンはアラビア半島から移住してきた非黒人族系のアラブ人とヌビア人をはじめとする先住の黒人系諸民族が混淆・共存する境界域にあったところ、19世紀末になると、法的には16世紀以来オスマン帝国領土となっていたエジプトに成立した事実上の独立自治王朝ムハンマド・アリー朝の支配下に置かれていた。
 同時に、財政難に付け込まれたムハンマド・アリー朝エジプトは英国の統制下に置かれるという複雑な支配状況にある中、エジプトは本国の財政難に対処するうえでも、スーダンに重税を課し、収奪を強化していた。
 こうしたエジプトの圧制に対する反感を背景に、スーダンでは反エジプト運動が高まる。その中から台頭したのが、ヌビア人の宗教指導者ムハンマド・アフマドであった。船大工の家に生まれた彼は正式の聖職者ではなかったが、独自のイスラーム神秘主義思想に基づき、1880年代にはマフディー(救世主)を称し信者を集めるカリスマ教祖となっていた。
 彼の教団が他の神秘主義教団と異なったのは、武装解放運動の形態をとったことである。その厳格なコーラン解釈やジハード(聖戦)思想など、マフディー教団は現代のジハーディスト武装勢力の先駆者的な意義を持っていたと言えるだろう。
 実際、マフディー軍は近代装備を備えるエジプト軍にゲリラ戦を挑み、1882年にはこれを殲滅した。エジプト軍から武器を奪取したマフディー軍はその後、支配地を着実に拡大していく。
 事態を憂慮した英国はエジプト軍に梃子入れするも成功せず、エジプトのスーダン撤退を支援するため、中国で活躍したゴードン将軍を指揮官として派遣するも、1885年、ゴードン部隊は首都ハルツームでマフディー軍により包囲・殲滅せられ、ゴードンも惨殺された。
 かくして、マフディー軍はハルツームを落とし、スーダン全土の掌握に成功したのである。ところが、ムハンマド・アフマドは勝利から間もなく、チフスで急逝してしまう。このことで、ムハンマド・アフマドから後継候補の指名を受けていた三人の腹心の間で争いが起こる。
 この後継争いを征したのは、腹心の一人アブダッラーヒ・イブン・ムハンマドであった。ただ、アブダッラーヒは民族的にはアラブ系であり、政権を掌握した彼はムハンマド・アフマドの一族や古参幹部をすみやかに排除・粛清したことで、これ以降、マフディー教団はアブダッラーヒも属したアラブ系遊牧民バッガーラ人を支持基盤とするようになるため、厳密にはアフリカ黒人の軌跡とは言えない。
 アブダッラーヒ治下で13年持続したマフディー国家は最終的に1898年、名将キッチナー将軍を擁し、エジプトを介したスーダン再征服を企てた英国に敗れ、崩壊した。
 このスーダン再征服作戦中、アブダッラーヒを南部へ追撃していた英軍が西アフリカ方面からスーダン侵出を狙うフランス軍と一触即発の危機となったファショダ事件を機にフランスが譲歩し、スーダンから手を引いた結果、翌1899年以降、スーダンは英国とエジプトの共同統治という形で実質上は英国植民地の状態に置かれることとなった。
 一方、マフディー国家をアラブ系に乗っ取られた形のムハンマド・アフマド一族は穏健化し、遺子アブドゥルラフマン・アル‐マフディーは英国統治の協力者となった。彼を介したムハンマド・アフマド曾孫のサーディク・アル‐マフディーは独立後、二度首相を務めるなど、マフディー一族自体はスーダンの有力政治家系となった。

2019年6月15日 (土)

アフリカ黒人の軌跡(連載第40回)

七 アフリカ分割競争の時代

ズールー戦争
 19世紀末に始まる西洋列強によるアフリカ分割競争を前に、アフリカ黒人諸民族の多くは無抵抗であった。多くの場合、各個的に「保護条約」のような形で物資や武器を提供して懐柔する戦術が採られたこともあるが、抵抗しようにもそれだけの軍事力も備わっていなかったのだ。
 しかし、いくつかの例外がある。その一つはズールー族である。かれらはその卓越した武力をもって急速に南部アフリカで勢力を拡大したことは前章でも触れた。特に1873年、第4代国王に即位したセテワヨは叔父に当たる初代シャーカ王にならい、軍制の再整備とマスケット銃の装備による軍備の近代化にも着手した。
 こうしてセテワヨはズールー王国をさらに帝国に拡大しようとしたが、これは当時この地域の征服を狙っていた英国の利害と衝突することになった。英国はボーア白人国家をも併合して、南部アフリカに広大な植民地を構築しようとしていたのだった。
 これに対し、セテワヨは英国の精神的先兵とみなされた宣教師の追放や測量士の拘束といった強硬措置で応じた。英国側はズールー王国を保護国とする内容を含む13箇条の要求を付き付けたが、これは開戦を想定した最後通牒にほかならなかった。
 セテワヨが要求を拒否したため、1979年に勃発したのがズールー戦争である。この戦争は実のところ、アフリカの出先当局が英本国政府とは独立に始めたこともあり、緒戦では勇猛かつシャーカ王以来の「雄牛の角」作戦でかかるズールー軍は、イサンドルワナの戦いで寄せ集めの現地英軍を壊滅させる勢いを見せた。
 しかし、思わぬ惨敗を憂慮した本国政府が支援に乗り出し、軍を増強すると、近代化が途上で主要武器は伝統的な槍と盾というズールー軍はたちまちにして守勢に立たされ、1879年7月、王都ウルンディが陥落、セテワヨ王は捕らわれ、廃位された。
 ズールー王国は解体され、10以上の行政地区に分割されるが、元来多部族制のため内紛が絶えなかったことから、英国はいったんセテワヨを傀儡首長として復位させようとする。しかし、これに反発した敵対部族長の襲撃を受けて負傷・逃亡したセテワヨは間もなく死亡した。
 こうして強勢を誇ったズールー王国はあっけなく崩壊し、続いてボーア白人との戦争(ボーア戦争)に勝利した英国の南アフリカ植民地に併呑されてしまうのであった。
 1879年中の出来事であったズールー戦争は年代的に列強のアフリカ分割競争が開始される前のことではあったが、ここでアフリカ黒人諸民族中でも最も強力だったズールー族が列強の軍門に下ったことは、アフリカ黒人にとっては痛恨であった。
 もっとも、1910年に至り、ナタール植民地で、人頭税の引き上げに抗議し、ズールー人族長バンバサが武装蜂起したが、これも当局に武力鎮圧され、反乱軍側では3000人以上が犠牲となった。バンバサも処刑されたとされるが、未確認のため、落ち延び伝説が残り、後に南アフリカの反アパルトヘイト運動で象徴化された。

2019年5月25日 (土)

アフリカ黒人の軌跡(連載第39回)

七 アフリカ分割競争の時代

ベルギー領コンゴの暴虐
 ベルギー領コンゴは、アフリカ分割競争の出発点とも言える象徴的な場所である。今日のコンゴ民主共和国の領域をカバーする地域は1879年以降、ベルギー国王レオポルド2世の依頼を受けたイギリス人ヘンリー・モートン・スタンリーによる探検を契機にベルギーのものとなった。
 レオポルドはこれに先立つ1876年、欧米の探検家や資金提供者らを集めて国際アフリカ協会なる団体を結成していた。この団体はアフリカ中部の「文明化」を支援するという口実を伴っていたが、実際は未踏のアフリカ中部を我が物とすることを狙う隠れ蓑であった。
 この地域は在地首長に率いられた諸部族が割拠するところであり、スタンリーの巧みな交渉により、首長らは次々と不平等条約を締結させられた。これにより、武力行使なくしてこの地域はベルギーの手に落ちたのである。
 ただ、当初のベルギー領コンゴは厳密には「ベルギー領」ではなく、「レオポルド2世領」というほうが正確であった。すなわち王の私領地であり、その管理は前出のアフリカ国際協会から分離された「コンゴ国際協会」に委託されたのである。1885年のベルリン会議も、これを追認した。こうして正式に「コンゴ独立国」が発足した。
 しばしば「コンゴ自由国」とも通称されるものの、その統治は進歩的な立憲君主制を採る本国では望めないレオポルド2世の絶対支配であった。実態としては「国」というより、王の私領地であることに変わりはなかった。つまり、ベルギー政府でさえコンゴに介入できないのである。
 こうして「独立国」なる皮肉な名称の下、現地では象牙収集やゴム栽培などに現地人が動員され、残酷な刑罰の担保で奴隷労働が強いられた。こうした苛烈な実態は、まるで奴隷貿易時代のカリブ海域植民地のようであったが、王の私領地という封建的な性格の領地であったため、そのようなことになったのである。
 コンゴ独立国における現地アフリカ人の犠牲者数は、現在でも論争の的のままである。1998年にはコンゴ独立国における暴政の実態を記述したアメリカの著述家アダム・ホックシールドの『レオポルド王の霊』を契機に、当時はまだ未生成だったジェノサイドの概念にあてはまるかどうかをめぐり論争が起きている。
 しかしコンゴ独立国の実態はつとに同時代的にも批判の的となっており、1900年以降、イギリス人ジャーナリストのエドモンド・モレルによる調査報道で暴露され、1906年の著作『赤いゴム』にまとめられた。これは国際世論を刺激し、レオポルド自身も反論するなど、一連の国際的大論争に発展した。
 論争はジャーナリズムや人道家の間の批判にとどまらず、ベルギーのライバル列強諸国からの嫉視的な批判も高めたため、1908年、レオポルドはコンゴ独立国をベルギー政府の管理下に移す譲歩を余儀なくされた。
 これによって同地が解放されたわけではなく、これによってコンゴが正式にベルギーの領土に編入されただけのことである。言わば、近代的な植民地統治に変更されたのである。コンゴの完全な独立は、半世紀以上先の1960年を待たなければならなかった。

2019年4月30日 (火)

アフリカ黒人の軌跡(連載第38回)

七 アフリカ分割競争の時代

アフリカ分割競争の始まり
 サハラ以南のアフリカ大陸(以下、単に「アフリカ」・「アフリカ大陸」というときは、サハラ以南を指す)は、現南アフリカ共和国が占める南端部を除けば気候的に厳しく、現生人類発祥以来、アフリカにとどまってアフリカの気候に適応してきたアフリカ黒人でしかそこに定住することは困難な地理的環境下にあった。
 一方で、アフリカ黒人は膨大な数の民族・部族に分岐し、広大な領域を支配する帝国的な統治体を形成することなく、便宜上「帝国」と指称される王国にしても、それは征服した部族を配下に編入した連合体的な構制であることが多く、統合性と持続性には欠けていたのである。
 そうした中、西欧列強のアフリカ進出は、15世紀から専ら大航海時代のポルトガルにより先行展開されており、先駆的なアフリカ進出はポルトガルの独壇場と言ってよかった。その後に、順次帝国としての体制を整えた英仏蘭などの列強も参入するようになる。
 しかし、早くからアフリカを踏査していたポルトガルと異なり、これら後発列強のアフリカ進出は「新大陸」アメリカ・カリブ地域の植民地向けの奴隷貿易を目的としたもので、アフリカそのものの植民地化を目指したものではなかった。かれらにとって 直接入植するには、アフリカはあまりにも気候的・風土的に厳しいものがあったのだ。
 一方、南部アフリカには、列強とは別個に、後のボーア人となるオランダ系移民やユグノー派移民による入植活動が17世紀から始まる。これは喜望峰周辺の南部はアフリカ大陸でも気候的に温暖でヨーロッパ人にも入植しやすいという地理的な特質、さらに南部アフリカは人口まばらで、強力な黒人王国の樹立が遅れていたという事情に支えられてのことであっただろう。
 こうして、アフリカ大陸はポルトガル(人)とボーア人の入植を除けば、19世紀までおおむね独立が保たれていたが、奴隷貿易の禁止後、事情が一変する。奴隷貿易が禁止され、新大陸では独立が相次ぐと、西欧列強はアフリカの直接的な領有を図り始めたのだ。
 ベルギーのコンゴ侵出が新たな時代の始まりとなる。当時のベルギーはオランダから分離したばかりの新興小国であるがゆえに、海外膨張の野心を抱いた。これに刺激され、他の列強が続く。後発列強に押され、斜陽化していたポルトガルも改めて参入していく。こうして、列強による侵略的アフリカ分割競争が始まる。 
 後発列強の代表格ドイツが音頭を取って1884年‐85年に開催されたベルリン会議は、アフリカ分割を国際的に認知しつつ、その「ルール」を設定しようとした点で、歴史的な転換的となった。国際的認知といっても、本会議にアフリカ人は誰一人招かれず、欧州列強のための列強の会議にすぎなかったのであるが。
 非黒人系の北アフリカも分割対象だったが、サハラ以南のアフリカは多数の小王国に分岐し、まとまりを欠いていたため、攻められやすかった。非王国地域も多部族が割拠し、部族連合の形成は困難であった。そこで列強は王国・部族ごとに武器供与などの利益と引き換えに「保護」を名目とした不平等条約を各個的に結び、実質上植民地化していく手法が普及する。
 アフリカの諸部族は、こうした列強の恣意的な分割攻勢に対して知的に対抗する力量をまだ備えていなかった。そこから、ヨーロッパ社会に「アフリカ=遅れた非文明社会」という定式が刻み込まれていき、これが黎明期の未熟な遺伝学的知見と組み合わさって、人種差別的な白人優越主義のドグマが流布する結果ともなった。

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