2020年7月 2日 (木)

鉄道の資本史(連載第9回)

第2章 鉄道の発達

(4)フランスにおける鉄道網
 今日ドイツと並び、欧州の鉄道大国に数えられるフランスにおける鉄道は、フランス伝統の中央集権制を反映して、国家の広範な関与のもとに発展した。その点で、米国とは好対照をなし、また鉄道が領邦ごと地方的に発展したドイツとも異なる。
 ただ、当初政府は鉄道にほとんど関心を払っておらず、フランスにおける最初の旅客鉄道の開通はドイツより数年早い1832年のことでありながら、1830年代の発展には遅滞が見られた。当時のフランスには民間資本独自に鉄道敷設を推進するだけの産業基盤も資本力も存在していなかったのだった。
 その流れが一変するのは、1842年に一本の法律が制定されてからである。「フランス幹線鉄道の敷設に関する法律」と題されたこの法は、政府が鉄道敷設において主導的役割を果たすことを明確にしたものである。
 この枠組みでは、政府が鉄道用地の買収または収用を行ったうえ、鉄道会社には鉄道設備の費用補助付きで、路線を長期間リースするという形が採られた。企画と技術的支援、監督はフランス特有の高等専門学院の一つである国立土木学院が担った。
 このような言わば官民共同方式の枠組みは、以後1930年代末に鉄道の完全な国有化が実現するまで、一世紀にわたってフランスにおける鉄道運営の基本スキームとして機能した。
 こうした政府主導での鉄道敷設はドイツ以上に国家資本としての鉄道の発展を促したが、このことは、軍が独自の輸送力に乏しかった時代、フランスが大陸ヨーロッパにおける軍事大国として鉄道を産業インフラ以上に軍需インフラとみなしていたことを示している。
 しかし同時に、そうした政府の戦略的見地からの鉄道敷設は効率性を軽視したため、首都パリと各主要都市を放射状に結ぶ幹線が中心となり、鉄道会社はいずれもパリに本社を置く六つの地域独占会社に収斂された。それにより地方の利便性は無視されたばかりか、軍事的にも欠陥をさらけ出した。
 1870‐71年の普仏戦争で、ドイツ(プロイセン)の密度が高く碁盤の目状に敷設された鉄道システムは兵員・物資輸送の面ではるかに効率的であることが証明されたのだった。それはフランスの技術的な敗因の一つとなった。
 これを教訓として、普仏戦争後のフランスは、官民共同システムを維持しながらも、鉄道網の密度の強化に努めた結果、20世紀初頭の第一次世界大戦頃には、総延長およそ6万キロの世界有数の鉄道大国となっていた。

2020年7月 1日 (水)

レジ袋有料化の科学(1)

 今日から、スーパー等でのプラスチック製レジ袋の有料化が施行される。これは法律に基づく新国策であり、その趣旨は、主として海洋プラスティック廃棄物の減量化のためと説明されている。※
 しかし、果たしてそのような立法趣旨は科学的に正確なのか、正確だとしても、有料化は科学的に適切な方法なのか、レジ袋の代替として推奨される「エコバッグ」は真実、エコロジカルなのか等々、様々な科学的疑問が浮かんでくる。そうした疑問を解決せずして、今日からエコバッグなる頭陀袋を下げて買い出しに行くことはできない。
 この問題は、同時進行中のCOVID-19対策とともに、暮らしに直結する科学的話題である。そこで、今回からしばらくは、不定期ながら、当欄でレジ袋有料化問題を取り上げていくことにする。


経済産業省ウェブサイトより

「プラスチックは、非常に便利な素材です。成形しやすく、軽くて丈夫で密閉性も高いため、製品の軽量化や食品ロスの削減など、あらゆる分野で私たちの生活に貢献しています。一方で、廃棄物・資源制約、海洋プラスチックごみ問題、地球温暖化などの課題もあります。私たちは、プラスチックの過剰な使用を抑制し、賢く利用していく必要があります。

このような状況を踏まえ、令和2年7月1日より、全国でプラスチック製買物袋の有料化を行うこととなりました。これは、普段何気なくもらっているレジ袋を有料化することで、それが本当に必要かを考えていただき、私たちのライフスタイルを見直すきっかけとすることを目的としています。」

2020年6月28日 (日)

弁証法の再生(連載第14回)

Ⅴ 弁証法の再生に向けて

(13)弁証法の第二次退潮期
 前回まで、弁証法の歴史をかなりの駆け足で概観してきたわけであるが、アドルノの否定弁証法を最後に、1970年代以降、弁証法を主題とする有力な哲学書自体がほとんど世に出なくなる。そして、20世紀末におけるソヴィエト連邦解体という世界史的な出来事の後、弁証法という思考法自体が急速に衰微していった。21世紀前半の現在は、その真っ只中にある。
 実のところ、弁証法の退潮はソ連邦解体前から始まっており、まさにソ連自身が弁証法を体制教義化することによっても弁証法の衰退を促進していたわけであるが、そのソ連がほとんど自滅的に解体消滅し去ったことにより、ソ連邦解体後の世界では、ソ連が象徴していたものすべてが否定・忘却された。弁証法もその一つである。
 こうして、現代という時代は、弁証法の第二次退潮期にあると言える。弁証法の第一次退潮期は、アリストテレスが弁証法の意義を格下げして以降のことであった。この時は、アリストテレスが最も重視した形式論理学が優位となり、19世紀にヘーゲルが新たな観点から弁証法を再生するまで、弁証法の逼塞が続いた。
 これに対して、第二次退潮期は、第一次退潮期に比べ、ソ連が象徴していたマルクス主義の退潮と絡んだ政治的な要因が強い。実際のところ、ソ連はマルクスの理論に対して離反的ですらあったのであるが、「ソ連=マルクス主義」というソ連の公式宣伝は、ソ連に批判的な人々によってすら奇妙に共有されていたのである。
 そうではあっても、マルクス自身が下敷きとしていたヘーゲルの弁証法―言わば、近代弁証法―はマルクスと切り離して保存されてもよいはずだが、マルクス主義の退潮のあおりを受けて、無関係のヘーゲル弁証法までとばっちりを受けた恰好である。
 その結果、ヘーゲル弁証法も取り消され、再びアリストテレスの形式論理学優位の世界へと立ち戻っているのが現状である。後に整理するように、形式論理学は数学的・科学的思考法の共通的基礎であり、弁証法と矛盾対立するものではないのであるが、形式論理学だけですべてを思考できるものでもない。
 とりわけ、実験や演算が効かず、収拾のつかない価値の対立状況を来しやすい社会的な諸問題は、形式論理学では解くことができない。そうした場合にこそ、弁証法的思考は強みを発揮するのである。そこで、弁証法の再生に向けて新たな思想的な革新を要するが、その際、ヘーゲルやマルクスの弁証法の単純な復活ではなく、より広い視野で現代的な弁証法の構築を構想してみたい。

2020年6月27日 (土)

10段階式感染防止対策

 COVID-19感染拡大は北半球でも夏季に入りながら、一向に終息が見えず、各国ともCOVID-19の執拗さに苦慮している。「第二波」の到来が懸念されているが、現状は「波」というより、もはやCOVID-19が撲滅できない常在ウイルス化しているのではないかという予兆を感じさせる。
 そうなると、もはや感染拡大初期のような非常事態的な対策ではなく、常在化を前提とした対策を採るほかないだろう。その場合に重要なことは非常事態のようなオール・オア・ナシングではなく、ウイルスの毒性と流行の規模(世界的/全国的か、地域的か)・態様(市中感染か、院内/施設内感染か)に応じて細分化されたレベルを設定した対策を立てることである。
 このように政府・自治体の採るべき対策を予めレベルごとに細かく定めておけば、新種ウイルスのパンデミックのつど慌てて専門家を臨時にかき集めて右往左往する必要もなくなり、どのレベルの対策を発動すべきかについて、専門家に諮問すれば足りるだろう。
 具体的には、レベルを10段階くらいに細かく分け、ウイルスの毒性レベルが最大級で、健康な若年者でも大量死するような最強度ウイルスの全国的な流行に際しては、最大のレベル10を適用する。この場合は、罰則付きの外出制限措置もやむを得ない。
 他方、毒性はさほど強くないが感染力が強いウイルスの場合は、罰則なしの外出自粛要請で足りるが、特定の条件があると死亡率が高い場合―COVID-19はこれに近い―は、重症化要因のあるハイリスク者防護のための特別対策を取る必要がある。これはレベル7程度であろうか。
 いずれにせよ、初動で設定した比較的高いレベルから、流行の終息が近づくにつれ、徐々にレベルを低減させていき、最小限のレベル1を経て―終息が確認できない限り、最小限のレベル1ないしレベル2程度は維持する―、終息宣言・全面的解除へ至る仕組みである。
 その点、日本における対策の根拠法となっている「特措法」は10年前の新型インフルエンザに際して制定した間に合わせ立法の間に合わせ改正法にすぎず、レベル設定ができないオール・オア・ナシング対策である。この機会に、如上のような10段階式対策に全面改正することを提唱したい。

2020年6月21日 (日)

水利の人類史(連載第9回)

第2章 大都市の発達と水利

クメール大都市の盛衰
 文明の発達は各文明圏の拠点地に都市を誕生させたが、中世と総称される時代になると、商業・交易活動の発達にも後押しされて、物資が集積する都市は万単位の人口を抱える大都市に発展する。
 そうした中世大都市と言えば、すぐさまロンドンやパリなどの西欧都市が想起されがちであるが、西欧諸都市がまだ発展途上だった紀元1000年頃を見ると、カンボジアのクメール王朝が建設したアンコール都城を中心とする大都市群に匹敵するものは見られない。
 このうちアンコール都城は今日、大寺院アンコール・ワット所在地として最も知られるが、最盛期のクメール王朝はこの都城を中心に五つの大都市を建設し、それぞれを街道で結ぶというネットワーク型の都市群を形成していた。アンコール都城だけでも紀元1000年当時、20万の人口を擁したとされるから、全都市合わせれば人口100万人に達していた可能性もある。
 クメール王朝最大の産業基盤である農業を支え、それだけの大人口を扶養するためには、当然大量の水を要する。実際、アンコール都城を初めとするクメール大都市は、今日でも一部使用されているバライと呼ばれる巨大な貯水池と運河をめぐらせた高度な治水灌漑システムを常備していた。それによって、雨季の洪水を調節し、乾季の農業も可能としていたのである。
 こうした高度な水利都市を擁して、往時には今日の東南アジア大陸部のほぼ全域を支配下に置いたクメール王朝が衰退した直接的な要因はタイのアユタヤ朝による侵略であったが、戦争の増発は水利システムの維持に欠かせない補修等の公共事業を停滞させ、要諦であった水利システムの崩壊につながった。
 しかも、高度な水利技術によって農業開発が進んだことにより、開拓地が広がっていたにもかかわらず、補修が停滞したため、劣化した運河底に堆積した泥により水流が阻害されるようになったことで、農業が不能となり、耕作放棄地が増加したと見られる。それに加え、14世紀半ば頃から地球に生じた小氷河期による水不足も追い打ちをかけたと考えられる。
 こうして、クメール大都市は皮肉にも、その高度な水利技術のゆえに衰退・廃絶を余儀なくされ、僧侶たちによってある程度保全され続けたアンコール・ワットを残し、最終的には群生する密林の中に放置されることとなったのであった。

2020年6月20日 (土)

三都府県抗体検査結果をめぐって

 政府が今月16日に公表した東京・大阪・宮城の三都府県における抗体保有率の無作為抗体検査によると、東京都は0.1%、大阪府は0.17%、宮城県は0.03%となった。感染者数では全国トップの東京都ですら0.1%という数値は比較的に低いと認識されることから、この結果の解釈をめぐる議論が今後、活発化するだろう。
 その点、政府・自治体による対策が功を奏したとする解釈と、日本人にCOVID-19に感染しにくい何らかの生理的要因があるとする解釈の両様がある。後者は、「ファクターX」論として流布するようになっている。しかし、いずれの解釈にも、ご都合主義の気がある。
 前者は内外から批判のあった政府・自治体のPCR検査数抑制策の正当化に使える解釈であるし、後者は日本人優越論の亜種としてナショナリズムを刺激する効果がある。いずれにせよ、それらの解釈の科学的根拠が確実に証明されない限り、ご都合主義的解釈は、慢心と油断を招く危険がある。
 現時点では、最も厳しい悲観的解釈として、感染しても抗体が形成されていない可能性も視野に置く必要がある(そのような日本人特有の「ファクターZERO」の可能性も)。
 同時に、抗体保有者が比較的に少ないということは、感染スピードが存外に遅く、まだ感染が一巡していない可能性も想定される。考えたくないことだが、これから数か月、あるいは数年という時間的スパンをもってじわじわと拡大していく可能性もあるということである。

2020年6月17日 (水)

鉄道の資本史(連載第8回)

第2章 鉄道の発達

(3)ドイツにおける鉄道網
 英国の鉄道技術は、欧州ではドイツにまず伝播した。ドイツでは取り急ぎ英国から輸入した蒸気機関車や客車を使って1835年、バイエルン‐ルートヴィヒ鉄道が初めて開通した。とはいえ、この時代のドイツはまだ多数の領邦国家に分裂したままであり、鉄道政策も領邦ごとにばらばらだった。
 しかし、この地方性がかえってプラスに働き、ドイツの鉄道網は瞬く間に拡張されていく。バイエルンでの最初の鉄道開通から20年後の55年には総延長1万キロに近づこうとしていた。また領邦は小さくとも各々「国」であるため、国境を越えた国際列車の運行はドイツ鉄道の特色となった。
 いち早く鉄道を敷設したバイエルン王国は南部の大領邦であり、44年には国有鉄道(王立バイエルン国鉄)を設立し、当初は民間資本に委ねていた鉄道を次々と買収して、ドイツ有数の鉄道王国となる。
 これに対して、北部の大領邦でやがてドイツ統一の主軸となるプロイセン王国は当初鉄道に無関心だったため、米国のように民間資本中心の鉄道敷設が続いた。しかし鉄道の利点を認識した政府は次第に鉄道国有化に動き、普仏戦争を経てドイツ統一がなされると、時の宰相ビスマルクは鉄道国有化を積極的に進め、88年までには大半の国有化が完了した。
 とはいえ、これが意味したのは鉄道事業の集約化にすぎず、元来鉄道が旧領邦ごとばらばらな状況はすぐには克服されなかった。真の意味でのドイツ国鉄が成立するのは、ドイツ革命及び第一次世界大戦後のワイマール共和国下、1920年のことであった。
 ドイツの鉄道で特筆すべきは、その技術力である。当初こそ英国からの直輸入だったが、次第に独自開発の車両を導入していった。特に電動車両、すなわち電車の開発はドイツの功績である。世界初の電気機関車は後に総合電子メーカーとして飛躍していくジーメンス社の創業者でもある発明家エルンスト・ヴェルナー・フォン・ジーメンス (1816–1892)が1879年に開発した。
 ジーメンス社(当時はジーメンス・ウント・ハルスケ社)は81年にはベルリン郊外のグロッセ-リヒターフェルト電気軌道で世界初の路面電車を運行するが、これは同時に世界初の電車の営業運用であった。ちなみに、同社は96年、オーストリア‐ハンガリー帝国時代のハンガリーの首都ブダペストで世界初となる電車による地下鉄(現ブダペスト市営地下鉄1号線)の建設も手がけている。
 こうした高い技術力に支えられたドイツの鉄道は、民間資本よりは国家資本として展開され、ドイツ帝国の成長に伴い、植民地支配の手段ともなる。ベルリン‐ビザンティウム(現イスタンブル)‐バグダッドを鉄道網で結ぶといういわゆる3B政策は未完に終わったとはいえ、鉄道を基盤とする植民地支配は英・仏、さらに日本のような後発帝国主義国家にも採用されるのである。

2020年6月13日 (土)

シチリアとマルタ―言語の交差点(連載第6回)

五 ゲルマン時代/ビザンティン時代の言語事情

 ローマ帝国の東西分裂と西ローマ帝国の弱体化、それに付け入る形でのゲルマン人の膨張・大移動という地政学状況の変化は、それまでローマ帝国の支配下にあったシチリアとマルタの言語事情にも微妙な影響を及ぼした。
 シチリアには440年、ゲルマン系ヴァンダル人がガイセリック王に率いられて侵攻し、ヴァンダル王国の版図に編入した。その後、476年以降は、衰退したヴァンダル王国に代わって同じゲルマン系東ゴート王国が侵攻し、535年までシチリアを支配する。
 この間、シチリアはおよそ100年近くゲルマン系王国の支配下に置かれていたのであるが、そのわりにゲルマン語の影響性はほとんど見られない。ごくわずかにゴート語の影響を残す単語が散見される程度で、ローマ時代に礎石が置かれたラテン系のプロト・シチリア語の構造は変化しなかったと見られる。
 これは、ゲルマン系王国のシチリアでの支配密度がさほど高くなく、ゲルマン語を公用語として強制するほどには強力な統治が行われなかったことを示している。
 ローマ時代、シチリアと包括して属州化されていたマルタも同様に、454年から464年まではヴァンダル王国、464年から533年までは東ゴート王国の支配下に置かれたと考えられている。しかし、ここではその支配を示す考古学的証拠すら未発見であり、支配密度はシチリア以上に低かったようである。そのため、マルタ語にゲルマン系言語の痕跡を見出すことはできない。
 シチリア・マルタのゲルマン支配は、ともに6世紀前半には終焉し、続いて支配者となるのは東ローマ=ビザンティン帝国である。ビザンティン帝国は、ローマ帝国の中世における継承者として、当初はラテン語を公用語としながらも、それ自身が多言語国家であった。
 とはいえ、ビザンティン帝国の実態はギリシャ人主体の国家であり、共通語(7世紀以降は公用語)はギリシャ語であった。このビザンティン・ギリシャ語、または中世ギリシャ語と呼ばれる新しいギリシャ語は、ビザンティン帝国内のリンガ・フランカとしてもラテン語以上に普及していた。そのため、シチリア・マルタでも広く通用したはずである。
 特にシチリアではギリシャ語が広く使われたが、現代シチリア語に占める15パーセント弱のギリシャ語起源の単語が、ギリシャ植民時代のギリシャ語と、ビザンティン時代のギリシャ語のいずれに由来するか、またはギリシャ語を取り込んだラテン語を経由しての摂取なのかは同定し難く、ビザンティン・ギリシャ語固有の影響性いかんは測り難い。
 一方、現代マルタ語におけるギリシャ語の影響は認められない。これは、ビザンティン時代のマルタの戦略的重要性が限られていたことに加え、後のアラブ人支配の時代の刻印が圧倒的に強く、言語基盤そのものを上書きしてしまったことによるのであろう。

2020年6月 5日 (金)

水利の人類史(連載第8回)

第1章 水利と文明圏 


砂漠/高山文明と水利

 人類は、およそ居住に適しないと思われる土地へも進出し、生活の場を築く高度な適応能力を持っているが、砂漠もその一つである。人類がおよそ居住に適さない砂漠地帯にも進出し、文明を築き得た条件に水利技術があったことは間違いない。
 そもそも史上最初に排水システムが現れたのは、今日のイラン東部ザボルだったと言われている。イランと言えば、乾燥地帯での灌漑・給水技術として優れた長大な地下水路カナートでも知られている。
 カナートは従来、イラン発祥と見られてきたが、近年では紀元前一千年紀に遡る現アブダビのアル・アイン遺跡で検出されたものが最古と考えられつつある。これが後にイスラーム文明が栄える西アジアから北アフリカ、中央アジア方面に広く伝播され、現役でも活用されている。
 なお、アラビア半島では南部のオマーンで紀元前から独自に開発されたファラジと呼ばれる主として枯れ川(ワディ)を水源とする水路システムが見られた。イスラーム圏では、後にローマ帝国の浴場文化を吸収しつつ、こうしたファラジやカナートを利用したイスラーム式浴場ハンマームを発展させた。
 また、より過酷で農業に不向きなヨルダンの岩礁渓谷という不毛の地にアラブ系のナバテア人によって建設された隊商都市国家ぺトラでは、泉を水源とする水道管を建設し、給水する高度なシステムを作り上げた。これはローマ帝国によって征服される以前、独自開発された給水技術としては最高レベルのものであった。
 
 水利の観点からは、砂漠以上に居住不適と思われるのが高山地帯であり、実際、高山地帯は今日でも無人もしくは人口希薄な地域として残されている。そうした中で、アンデス山脈地域に築かれたアンデス文明圏は異例のものである。
 標高3000メートルを越えるクスコを都とし、同2000メートルを越える断崖都市マチュ・ピチュを建設したインカ帝国は石造りの高度な用水路の技術を備えていたことが知られる。ただ、その具体的な技術については不明な点も多く、特に水路用に岩盤を幾何学的に精確に切り出す技法はなお不明という。
 また、インカ人が高低差の激しい山岳地帯で高地へ導水する技術として、サイフォン原理を知っていたかどうかは確証されていないが、それなくしては想定し難い給水システムであり、独自にサイフォン原理を発見し、活用していた可能性はあろう。
 
注 マチュ・ピチュに関しては、中腹にある水源から、自然流下式の水路で水を供給していたことがわかってきている。

2020年6月 1日 (月)

鉄道の資本史(連載第7回)

第2章 鉄道の発達

(2)米国における鉄道網
 英国における鉄道事業の成功は、すぐさま他国へ影響を及ぼした。特に旧植民地だった米国である。米国では蒸気機関車によらない軌道鉄道が建国間もない19世紀初頭には敷設され始めていたが、蒸気機関車による鉄道の敷設も間もなく始まる。
 米国初の蒸気機関車を発明したのは、ニュージャージー州在住の発明家ジョン・スティーブンス(1749-1838)であった。彼は1825年、独自にラック式蒸気機関車を発明したが、肝心な鉄道事業の認可を州から得られず、試作に終わった。
 その後、いくつかの鉄道で英国のジョージ・スティーブンソン製作の蒸気機関車の運用が試みられたが、うまくいかず、1830年に至り、南部のサウスカロライナ運河鉄道で初めて蒸気機関車の営業運転に成功した。これを嚆矢として、1830年代に蒸気機関車による営業鉄道の敷設が続き、早くも1840年には鉄道の総路線長は4500キロに達した。
 このように、米国の鉄道は島国英国の稠密さとは対照的に、その大陸型地形に応じて長大なことを特徴としており、今日でも総路線長22万キロ超は世界最長である。
 米国の鉄道政策も初期英国と同様、自由放任を基調としたため、民間資本に委ねられ、1840年代にはやはり鉄道狂バブルを経験している。ただ、米国の鉄道政策は英国以上に自由放任が徹底しており、連邦政府は基本的に鉄道事業に関与せず、許認可は州に任された。その州も民間資本任せであったので、鉄道の規格も駅の配置も林立する事業者によりまちまちという状況であった。
 とはいえ、米国の鉄道の特徴は何と言ってもスケールメリットにあり、南北戦争終結後、西部開拓時代が到来すると、大陸横断鉄道の建設が続いた。その建設に当たっては、当初アイルランド移民労働者が投入されたが、やがて安価な中国人労働者(苦力:クーリー)に置き換えられていく。
 過酷かつ搾取的な労働条件の下、トンネル工事を急ぐべくニトログリセリンを利用した発破作業で多くの苦力犠牲者を出した大陸横断鉄道の建設は、米国資本が犯した反人道的事態に数えることも許されるだろう。
 とはいえ、この鉄道による大陸横断は広大な米国を一つにするとともに、太平洋岸から東アジア航路へとつながる商業・貿易ルートを開拓し、20世紀に米国が新興の「帝国」として躍進する経済的土台を築いた。「エンパイアー・ビルダー」の異名を持ち、それが列車名にも冠されたジェームズ・ジェローム・ヒル(1838-1916)が率いたグレート・ノザン鉄道はその代表格であった。
 しかし、こうした長大鉄道の建設ラッシュは1873年と93年の二度にわたる鉄道恐慌を引き起こした。そこで金融資本の介在もあり、次第に鉄道資本の合併による寡占化が進み、世紀の変わり目頃には主要十大資本に収斂されていった。英国では鉄道国有化も視野に、ある種政策的に鉄道資本の寡占化が推進されたのに対し、米国では資本の自律的な動きとして鉄道資本の寡占化・独占化が進んだと言えよう。
 他方、長い間鉄道規制に無関心だった連邦政府もようやく1887年に至り、州際通商委員会を設立し、鉄道運賃の規制に乗り出した。この委員会は後に安全規制の権限も付与され、規制緩和の流れの中で1995年に廃止されるまで、百年近く米国における鉄道規制機関としての役割を果たしたのである。

«動物としての人間(連載第4回)

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