教育虐待からの解放

shadow最近、「教育虐待」なる言葉を知った。論者によると、親が子の意思を無視して多種類の私的な習い事を強制し、追い詰めることだという。とすると、塾に英語にピアノに体操、水泳、書道、絵画―まだあったか―とあらゆる種類の習い事を強制された私も、そうした「教育虐待」の被害者の一人ということになる。
だが、この言葉ほど虚しいものもない。「虐待」といったところで痣を作るような真の虐待とは異なり、親に悪意はない。おそらく子を立身出世させて見栄を張りたいという程度のちんけな欲望に駆られてのことだろう。知識階級制の現代資本主義社会ではそうした子の教育を通じた階級上昇の欲望は、ひとの親なら誰にも多少はあるものだ。
とはいえ、子にとって「教育虐待」の被害は小さくない。私の場合は親の望みとは真逆の自己崩壊的階級下落、そして少年期から続く心身のストレス症状である。たしかに間接的な意味で「虐待」と言える面はある。しかし、このような型の「虐待」から子どもたちを救うには、階級上昇の欲望の元となる資本主義を廃さなければ無理だ。
拙『共産論』は教育書ではないが、教育に関しても一章設けて、共産主義的教育の概要を示してある。ポイントは、ひとりひとりの子どもの適性をじっくり時間をかけて発見し、方向付けすることのできる教育システムである。これは一面、自身の教育被虐体験から生まれた経験知でもあると気づかされた。

2017年6月
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