アメリカ合衆国大統領黒書

2018年9月19日 (水)

アメリカ合衆国大統領黒書(連載第14回)

16 エイブラハム・リンカーン(1809年‐1865年)

 アメリカ大統領史上最も高名な人物と言えば、第16代リンカーンであろう。偉人伝の代表的な素材であり、筆者もかつて子供向け偉人伝を読んだ記憶がある。中でも画期的な「奴隷解放」の立役者として内外で尊敬されてきた人物である。その一般的な伝記ならば、もう十分すぎるくらいに公刊されてきたので、改めて紹介することは避け、ここではリンカーンという人物は果たしてさほど「偉人」だったのかどうかを検証したい。
 リンカーンが偉人視されてきた最大の功績とされるのが、奴隷解放宣言である。しかし、彼は一貫して奴隷制廃止論者だったわけではない。彼は法曹界から初めて政界に出た1830年代、イリノイ州下院議員の時代には、奴隷制と奴隷制廃止のいずれにも反対し、単に奴隷制拡大にのみ反対するという中道的な立ち位置を取った。
 このような中庸な―悪く言えば半端な―立場こそが、リンカーンの原点であったのだ。その後も、長くリンカーンの中道的立場は変わっていない。実際、彼は共和党から1860年大統領選挙に立候補し、当選した後も、奴隷制の全廃を宣言することは避けた。
 とはいえ、南部の奴隷制諸州では、北部に基盤を持ち、反奴隷制を掲げて1854年に発足した共和党の候補者が初めて大統領に当選したことに危機感を強めた。それは、リンカーンが就任演説で「奴隷制度が施行されている州におけるこの制度に、直接にも間接にも干渉する意図はない。私にはそうする法律上の権限がないと思うし、またそうしたいという意思もない。」と確約しても、信用しないほど強いものであった。
 すでにリンカーン就任前から南北の分裂は不可避なものとなっていたとはいえ、リンカーン共和党政権の発足は分裂を決定づけ、南部諸州の連邦離脱を食い止めることはできなかった。他方、南部の離脱を容認しないリンカーンは武力による制圧を決断する。
 こうして始まった南北戦争渦中で発せられたのが有名な奴隷解放宣言であるが、実はこの期に至っても、リンカーン自身は奴隷制廃止論者ではなかった。宣言を発したのは、南部奴隷の反乱やボイコットを誘発して南軍を弱体化させるという戦略的な意図に基づくものにすぎなかったのだ。
 事実、この宣言は南部諸州の奴隷の解放のみに焦点を当て、実は北部にも存在した奴隷制存置州には適用されないという非対称な仕掛けになっていた。けれども、歴史の流れはリンカーンの思惑を超えて進行し、彼が再選を果たした後の1865年には憲法修正13条の制定により、奴隷制は全米で廃止されることとなった。
 こうしてリンカーンは歴史を変えた「偉人」となるのであるが、南北戦争中は、抑圧者としての顔を覗かせ、孤島アルカトラズ島要塞を苛烈な軍事刑務所として使い、ここに南部連合派の政治犯を拘禁した。自由の擁護を改めて誓った有名なゲティスバーグ演説は、アルカトラズ島には届かなかった。
 リンカーンが知られざる抑圧者の顔を決定的に露にしたのは、対先住民政策である。リンカーンは大統領就任前の50年代に「白人の優越性を疑わない」と発言しているように、実のところ人種平等主義者ではなかった。従って、黒人奴隷制廃止に踏み切っても、先住民の人権について再考することはなかった。
 実際、彼は数々の先住民排除政策を施行している。西部領土の拡大―すなわち先住民居住圏の剥奪―にも積極的で、1862年に署名したホームステッド法に基づき、先住民を保留地へ強制移住させたほか、先住民の暴動に対する大量処刑も躊躇しなかった。
 彼の先住民政策における暗黒面については、すでに『赤のアメリカ史』で詳述したので(拙稿参照)、その“罪状”は繰り返さないが、ゲティスバーグ演説で「人民の人民による人民のための政治を地上から決して絶滅させない」決意を表明したリンカーンが、先住民の地上からの絶滅を容認していたことは確実である。
 しかし、リンカーンは二期目途中の1865年、南部連合を支持する暗殺者グループの凶弾に倒れ、アメリカ史上最初の暗殺された大統領となったことで、「偉人」を越えて「聖人」に近い偶像にまで高められたのである。同時に、リンカーン暗殺は100年後のケネディ大統領やキング牧師、マルコム・Xなど、およそ黒人解放に関わったキーマンがいずれも凶弾に倒れるというアメリカ暗黒史の始まりでもあった。

2018年9月 5日 (水)

アメリカ合衆国大統領黒書(連載第13回)

14 フランクリン・ピアース(1804年‐1869年)

 フランクリン・ピアースは、現職フィルモア大統領が自党ホイッグ党の指名獲得に失敗し、本選挙に進めない中で行なわれた1852年大統領選挙で手堅い勝利を収め、民主党に政権を奪還させた。彼の特質は、民主党の基盤が弱い北部ニューハンプシャー州出身にして、19世紀生まれ最初の大統領という点である。
 彼は北部出身ながら南部の奴隷制を支持し、奴隷制廃止運動には背を向けていた。このことが、彼をして民主党の大統領候補に押し上げ、本選挙でも勝利した最大の要因であった。
 実際、第14代大統領就任後のピアースはモンロー大統領時代に奴隷制度の拡大を抑制する狙いから合意されたいわゆるミズーリ妥協を廃し、新たに設定されたカンザスとネブラスカの両準州の奴隷制導入を両準州民の選択に委ねるとする法案に署名した。この法案は、両準州で奴隷制反対派と賛成派の暴力的衝突が南北戦争直前まで継続する要因となった。
 米墨戦争時、准将として従軍したピアースはまた、合衆国領土の拡張にも積極的で、当時スペイン領だったキューバのアメリカ併合を求めるオステンド・デスティニー文書への支持を表明した。このような帝国主義的衝動も、北部の進歩派やスペインはじめ欧州からの批判ないし警戒を招いた。
 在任中大きな失態のなかったピアースではあるが、地盤の北部の支持を喪失し、党内の分裂をまとめることもできなかったことから、1856年大統領選では党の指名を得ることに失敗し、一期で政権を去ることとなった。退任後は、リンカーン大統領に対する厳しい批判者となったが、私生活では酒に溺れ、肝臓病で命を落とした。

5 ジェームズ・ブキャナン・ジュニア(1791年‐1868年)

 現職ピアースに代わって民主党大統領選候補の指名を獲得したのは、ピアース政権下で英国担当閣僚を務めていたジェームズ・ブキャナン・ジュニアであった。彼は、いくつかの政権でロシア担当閣僚や国務長官を務めたこともあり、欧州との帝国主義的競争関係が高まる中、その外交経験に期待が集まったと見られる。
 長いキャリアを持つベテラン政治家であったブキャナン自身、大統領の座は悲願であり、過去三回の大統領選に立候補しているが、いずれも党の予備選で指名を得られず、四度目の正直でようやく念願を果たしたのだった。しかし、権力への執着はなく、就任演説で再選を求めないことを明らかにしている。
 ペンシルベニア州出身のブキャナンも北部出身の奴隷制支持派という点では、前任者と同様のバックグランドを持っていた。またオステンド・デスティニー文書の作成にも関与するなど、政策は前任者と変わらず、ただその政治経験の長さが違うだけであった。
 ブキャナンにとってマイナスとなったのは、初の世界恐慌の事例としても知られる1857年恐慌であった。アメリカではオハイオ生命保険信託会社の破綻に端を発したこの恐慌は、金融恐慌に発展し、当時投資ブームとなっていた鉄道会社の破産を招いた。ブキャナンは紙幣流通を抑制するという以外の対策を採ろうとせず、「(個人を)救済しない改革」という実にアメリカ的な政策を打ち出したのだった。
 57年恐慌は南部よりブキャナンの地盤でもある北部の経済に打撃を与えたこともあり、前任者同様、ブキャナンの北部での支持は失墜した。練達の政治家として調停力にも期待されたブキャナンだったが、前政権から続く民主党内の分裂を修復することはできなかった。
 しかし、一期で退くことを明言していた彼は、その言葉どおり、1860年大統領選に出馬することなく、引退した。リンカーンを当選させた同年の大統領選は19世紀の古い民主党に代わって共和党が台頭する新たな時代の始まりであり、出馬を見送った第15代ブキャナンは18世紀生まれ最後の大統領となった。

2018年8月19日 (日)

アメリカ合衆国大統領黒書(連載第12回)

13 ミラード・フィルモア(1800年‐1874年)

 ミラード・フィルモアは、前任テイラー大統領の急死を受け、副大統領から第13代大統領に昇格した。副大統領からの自動昇格としては、第10代タイラーに次いで史上二例目である。
 フィルモアは歴代大統領としては珍しく、ニューヨーク州の小作人の生まれであり、ブルジョワ階級出自が圧倒的に多い歴代アメリカ大統領中最も貧しい出自を持つ稀有の人物である。そうした生まれのため、正規の学校教育を受ける機会がなく、10代で徒弟に出された。
 しかし、判事の下で事務官の職を得たことを契機に、当時の制度上可能だった見習いから弁護士資格を取得する方法により、ニューヨーク州で法律事務所を開業した。短い法曹経験の後、政界に転身し、20代でニューヨーク州下院議員、30代で連邦下院議員に当選、40代にして副大統領、50代で大統領と立身していったフィルモアは「アメリカン・ドリーム」の体現者でもあった。
 フィルモアが1848年大統領選に際してホイッグ党から副大統領に指名されたのは、彼が非奴隷制州であるニューヨーク州を地盤としていながら、南部の奴隷制に反対しないという妥協姿勢が、北部の支持を得られにくいテイラー大統領の支えとして最適とみなされたからであった。
 このような「北部出身の保守派」というフィルモアの立場は大統領となっても変わらず、テイラー政権時代に持ち上がったいわゆる1850年協定という政治的妥協を成立させるうえでも、副大統領時代から引き続いて重要な役割を果たした。
 この協定には、逃亡奴隷の拘束・返還を認める逃亡奴隷法という悪法も含まれたが、フィルモアは奴隷制度が反キリスト的であると認めがらも、南部を慰撫し、合衆国の統一を優先する道を選ぶ“現実主義者”であった。ある意味では、典型的に政治的な人物であったのだ。
 妥協策の名手だったフィルモアは、国内の領土拡張に関しても、就任翌年の1851年にララミー砦条約を締結し、西部の広大な領域を先住民勢力から割譲させることに成功した。
 外交政策の面では、ペリー提督を日本へ派遣し、開国へ向けた外圧を加えた“功績”を持つ。これはその後のアメリカ外交を特徴付ける砲丸外交の初期の成功例の一つとなった。またハワイをフランスの干渉から守るなど、アジア太平洋地域におけるアメリカの覇権追求の先鞭を付けた人物でもあった。
 こうした“実績”を誇張することが不得手だったフィルモアは1852年大統領選で自党の指名を獲得することに失敗し、再選されることなく退任を余儀なくされた。その悔いからか、退任後のフィルモアは当時増加していたカトリック教徒の移民排斥を訴える秘密結社「ノウ・ナシング運動」に傾倒する。
 そして、この運動を基盤に結党された極右政党アメリカン党の候補者として1856年大統領選に改めて出馬するも、敗退した。とはいえ、この移民排斥運動は今日のトランプ反移民政策にもつながる萌芽であり、三位に終わったフィルモアが20パーセント余りの得票率を記録したことは記憶されてよいかもしれない。
 全般的に後世の評価は低いフィルモアであるが、親奴隷制・征先住民・反移民というアメリカ合衆国における白人優越主義的な暗部―ある種の人々にとっては光明―を象徴する大統領だったと言えるかもしれない。

2018年7月25日 (水)

アメリカ合衆国大統領黒書(連載第11回)

12 ザカリー・テイラー(1784年‐1850年)

 公約どおり一期のみで退任したポーク大統領の後を受けて第12代大統領となったのは、反対党ホイッグ党のザカリー・テイラーであった。テイラーは南部奴隷州の中心・バージニア州の奴隷農園主の生まれながら、一家がケンタッキーの辺境地へ開拓移住したことで、十分な教育は受けられなかった。
 そこでテイラーは軍に入隊し、以後40年にわたり軍人一筋に歩んだ。その軌跡は同じ党から出た第9代ハリソン大統領に似ている。テイラーの戦績は米英戦争に始まり、ブラックホーク戦争、セミノール戦争、米墨戦争等々、19世紀前半期アメリカが当事国となった重要な戦争のほぼすべてに及んだ。
 これらの戦争の多くは先住民殲滅作戦を伴っており、それを中心的に指揮したのがテイラーであった。南部領土を拡張した米墨戦争では、時のポーク大統領から司令官として派遣され、大統領命令に反してまでメキシコ軍を深追いして戦勝に大きく貢献、少将に昇任した。
 このようなアメリカの歴史を変える侵略戦争の戦歴者はアメリカ白人にとってはヒーローそのものであり、大統領選挙に引っ張り出されるに十分であった。特に政権奪還を目指していたホイッグ党にとって、テイラーはハリソンの再来と映ったろう。
 テイラーは選挙でもあえて自己投票しないほど政治的野心がない人物であり、すべて党の膳立てどおりに動き、当選を果たした。しかし、大統領に就任すると、議会から距離を置き、党派争いに巻き込まれることを避けた。
 彼の任期中最大の課題は、彼が戦勝に寄与した米墨戦争の結果獲得した南部新領土の扱いをめぐるものであった。つまり、奴隷制を新領土に拡大するかどうかである。テイラーは自ら奴隷所有者でありながら、奴隷制拡大には反対であった。
 与党内でも議論が紛糾したこの問題は、テイラーが今日コレラと推定されている急病で死去した後、「1850年協定」と呼ばれる政治的妥協策で当面解決されることとなった。
 この協定の結果、新領土のカリフォルニア州は奴隷制なしの自由州となる一方、他の新領土は奴隷制を導入できることとなった。テイラーはこのような妥協に反対していたが、彼の急死を受けて副大統領から昇格したミラード・フィルモアによって承認された。
 結局、史上最短で任期中急死したハリソンの再来よろしく、在任一年余りの道半ばで死去したテイラーであったが、奴隷所有者としては史上最後のアメリカ大統領となった。意図したものではなかったとはいえ、奴隷制に関しては、結果的に「白歴史」を残したと言えるかもしれない。

2018年7月 7日 (土)

アメリカ合衆国大統領黒書(連載第10回)

11 ジェームズ・ノックス・ポーク(1795年‐1849年)

 第11代大統領ジェームズ・ノックス・ポークは、アメリカの歴史上最も知名度の低い大統領かもしれない。ポークは弁護士となった後、下院議員・議長やテネシー州知事を歴任したアメリカではよくある履歴を持つベテラン政治家であったが、民主党から大統領候補に指名された時には全国的に無名に近い存在であった。
 彼が立候補した1844年大統領選では旧メキシコ領土のテキサス併合問題が大きな争点となっていた。この時、民主党から大統領返り咲きを目指していた元大統領ヴァン・ビューレンは「良識派」としてテキサス併合に反対したが、このことをめぐって民主党主流派の反発を買ったヴァン・ビューレンが指名を失ったため、代替候補として急遽立てられたのがポークであった。
 ポークはノースカロライナ州の奴隷所有農場主の家に生まれ、自身も父から奴隷を相続した奴隷所有者であった。そのため、ポークは一貫して南部奴隷州の擁護者であり、南部に基盤を持つ民主党にとっては知名度のなさを差し引いても好都合な候補者であった。
 本選挙でポークの対抗馬となったのは、より知名度の高いホイッグ党のヘンリー・クレイであった。彼は1824年以来、たびたび大統領選に挑戦してきた「常連」であった。クレイ陣営はポークの知名度のなさを揶揄する作戦で攻撃したが、僅差で勝利したのはポークであった。
 ポークは大統領就任に当たり、再選は目指さないことを公約し、それを守ったことで政治野心のなさを示したが、一期だけのポーク政権最大の“成果”は、米墨戦争の勝利であった。米墨戦争はテキサス州併合問題を契機として勃発した国境紛争であった。
 自身の再選には野心を示さなかったポーク大統領であるが、アメリカ領土の拡張に関しては、テキサス州の州境を拡張しようとする野心を隠さなかった。そのことが元々国境線が曖昧だった隣国との武力衝突を招いたのだ。
 彼の任期中の多くを費やした戦争で、ポークはアメリカに勝利に導いた。戦果として、広大なカリフォルニアを獲得したほか、戦争を終結させたされたグアダルーペ・イダルゴ条約により、メキシコ側に領土の三分の一程度を割譲させることに成功した。
 こうしてポーク大統領は現在、トランプ現職が「壁」を建設しようとしている米墨国境線の基礎を築いた“功労者”なのである。その代償であるかのごとく、ポークは大統領退任後、わずか三か月で急死することとなった。死因はコレラと見られている。

 

2018年6月16日 (土)

アメリカ合衆国大統領黒書(連載第9回)

9 ウィリアム・ヘンリー・ハリソン(1773年‐1841年)

 ジャクソニアン・デモクラシーの脆弱な継承者・第8代ヴァン・ビューレン大統領を破り、新たな時代を拓いたのは9代大統領ウィリアム・ヘンリー・ハリソンである。ニューヨーク出身のヴァン・ビューレンに対し、ハリソンはバージニア州の古い奴隷プランテーション経営者の家に生まれた。
 ここで再びバージニアの「名門」奴隷所有者という初期アメリカ支配層に政権が戻ったことになる。ただし、ハリソンはジャクソニアン・デモクラシーを専制的・反動的と批判し、産業発展のためのインフラ整備や国立銀行の創設、保護関税といった連邦主導の重商主義的「経済計画」を提唱して台頭したホイッグ党から当選した初の大統領という新しさもあった。
 しかし、経歴の点ではジャクソン同様、軍人出身であり、対先住民掃討作戦に参加した。特に米英戦争渦中、英国と連携する強力な部族であったショーニー族指導者テカムセを戦死させたテムズの戦いに勝利し、白人社会の英雄となった。
 こうした履歴を引っさげて政界に転身したハリソンは1836年大統領選でヴァン・ビューレンに敗北したものの、次期40年大統領選では「戦争の英雄」を前面に宣伝する派手なイメージ選挙運動を展開し、当選を勝ち取ったのだった。
 ところが、不運なことに、就任時68歳のハリソンは1841年3月、まだ寒風の吹く日にコートを着用せず、ほぼ二時間近い就任演説を行った強がりがたたり、肺炎を起こして就任からわずか31日で死去、史上最短在任大統領という不名誉な歴史を作ることとなった。

10 ジョン・タイラー(1790年‐1862年)

 現職大統領急死という史上初の事態を受けて、取り急ぎ政権を継承したのが、副大統領ジョン・タイラーであった。もっとも、当時の合衆国憲法では副大統領の自動昇格は規定されておらず、憲法上は疑義が残ったため、「棚ぼた政権」と揶揄されることとなった。
 タイラーもハリソン同様、バージニア州の奴隷所有者の出身であり、所属もホイッグ党であったが、大統領としての彼はホイッグ党の綱領の大半に反して、南部諸州の権限擁護、南部の領土拡張策などを追求する守旧的態度をとった。 
 またタイラーは奴隷制を悪と認識し、自身の所有奴隷については厚遇していたと言われるが、南部奴隷州の権限擁護という守旧的姿勢から、奴隷制廃止を提起することはなかった。
 与党ホイッグ党に敵対したため、党を除名され、史上初の無党派大統領となったタイラーは議会を軽視する独裁的手法でたびたび議会と対立、在任中拒否権発動は9回にも及んだ。こうした脱ホイッグの集大成は政権末期のテキサス併合問題であった。
 元メキシコに属したテキサスはアメリカ人入植者による独立戦争の結果、「テキサス共和国」として分離独立していたところ、タイラー大統領はホイッグ党の反対を押して、テキサスのアメリカ併合・テキサス州成立を承認したのである。
 タイラーは1844年大統領選に出馬して再選を目指したが、この選挙ではテキサス併合問題が大きな争点となり、反対派のホイッグ党と賛成派の民主党という対立構図が作られていた。
 しかし、タイラーは併合賛成派の民主党からも支持を得られず、国民民主共和党なる小政党を結成して出馬せざるを得なかった。敗北は目に見えており、票の分裂を恐れた民主党からも引退要請を受けたタイラーは結局、大統領選からの撤退を余儀なくされたのである。

2018年5月21日 (月)

アメリカ合衆国大統領黒書(連載第8回)

8 マーティン・ヴァン・ビューレン(1782年‐1862年)

 第7代ジャクソン大統領による「ジャクソニアン・デモクラシー」は、引き続いて副大統領マーティン・ヴァン・ビューレンが第8代大統領に当選したことで、さらに四年間継続されることになった。とはいえ、ヴァン・ビューレンの経歴は前任者とはかなり違っていた。
 まず彼はニューヨーク州の出身であり、アメリカ独立宣言署名後に生まれた初の大統領であった。またニューヨーク(旧ニューアムステルダム)を建設した初期オランダ移民の子であった。様々な点で、初記録を持つ大統領である。
 一方で、生家があまり豊かでないため、十分な高等教育を受けることなく、徒弟修業的なプロセスを経て弁護士となり、成功を収めた点では、非名門の「庶民」の政治を強調した「ジャクソニアン・デモクラシー」の風潮に合致した人物であり、ジャクソンが副大統領に指名しただけの理由はあった。
 しかし、大統領としてのヴァン・ビューレンは成功しなかった。その主要因は、不運にも就任年度に始まった恐慌(いわゆる1837年恐慌)にあった。恐慌自体の原因論は本稿の主題から逸れるのでここでは詳論しないが、ヴァン・ビューレン政権期を越えて1840年代全般に余波の及んだこの恐慌には、ジャクソン前大統領の政策も関わっていた。
 特にジャクソンが連邦中央銀行に反対する教条主義的な発想から第二次合衆国銀行の免許延長を拒否したことに加え、正貨主義に基づく正貨流通令は地方銀行の破綻を招いた。ヴァン・ビューレンの就任は恐慌発生の5週間前であり、直接の責任はないはずだが、前政権の副大統領だったことで間接的な責任は免れなかった。
 他方、大統領としても恐慌に対して適切な対策を取ろうとせず、恐慌的デフレーションが彼の任期中続いたことで、大統領としての能力にも疑問符が付けられ、失業や負債に苦しむ大衆の怨念が募った。
 結局のところ、「ジャクソニアン・デモクラシー」の無為な延命者でしかなかったヴァン・ビューレンは先住民政策でも強制移住法を継承し、武力による土地の侵奪を継続した。もっとも、この面で白人有権者の反感を買うことはなかったのであるが、40年大統領選挙では再選を果たせず、一期で去ることになる。
 しかし、返り咲きへの執念は持ち続け、48年大統領では新党・自由土地党の候補者として出馬した。自由土地党は、ジャクソン、ヴァン・ビューレン両政権の与党であった民主党から分離し、奴隷制度が存在しない土地という意味での「自由土地」の推進を最大綱領とする当時としては進歩的な政党であった。
 とはいえ、自由土地党は西部開拓地における新規の奴隷州拡大に反対するものの、既存奴隷制度そのものの廃止には踏み込まない中途半端な立場に終始した。提訴力に欠け、ヴァン・ビューレンは10パーセントの得票率にとどまり落選、返り咲きは果たせなかった。
 もっとも、奴隷制に関するヴァン・ビューレンの比較的にリベラルな姿勢は、長寿を保った最晩年の1860年大統領選でリンカーン大統領候補を支援する立場を取らせ、歴史を変えるリンカーン政権の成立に一役買ったことは特筆してよいことかもしれない。

2018年4月26日 (木)

アメリカ合衆国大統領黒書(連載第7回)

7 アンドリュー・ジャクソン(1767年‐1845年)

 アンドリュー・ジャクソンの名はこれまでにも数回登場しているが、それは先住民虐殺を指揮した冷酷な軍人としてであった。彼は大統領就任前から黒書に記すべき黒歴史を持つ人物である。その代表的なものは、クリーク族とセミノール族への民族浄化作戦であった。
 ジャクソンは職業軍人ではないが、13歳で大陸軍に義勇参加し、独立戦争の従軍経験を持つ人物としては最後の大統領となった。先住民虐殺作戦を指揮した頃は、当時ジャクソンが弁護士兼奴隷プランテーション経営者として移り住んでいた辺境地テネシーの民兵隊(州軍)に参加していた。
 このようにジャクソンはテネシーを地盤に対先住民強硬派として台頭し、大統領候補指名を獲得した点で、それまでの歴代大統領とはかなり異なる履歴を持っていた。出自的にも、父の代に移住してきた北アイルランド移民の子であり、古くからアメリカに土着した裕福な「名門」ではないため、十分な高等教育を受けておらず、様々な職を遍歴している。
 そのため、彼は二度目の出馬となった1828年の大統領選では「庶民」の代表者を標榜し、東部名門エリート出自の現職アダムズに挑んだのである。この選挙は、アダムズの項でも触れたように、史上初の汚いネガティブキャンペーンが展開されたが、その勝者は「戦争の英雄」イメージを売り込んだジャクソンであった。
 「ジャクソニアン・デモクラシー」の標語で知られるジャクソン大統領の政権運営は正式な閣議によらず、「キッチン・キャビネット」と揶揄された内輪的な外部の識者の非公式会合によることが多かった。そうした内輪のジャーナリストには、政権賛美の提灯記事を書かせて世論操作を行なった。
 こうした内輪重視の政権運営は、政府の官僚も大統領支持者からの自薦他薦による政治任命とする猟官制の導入へとつながった。政府官僚を短期間で入れ替えるこの制度は汚職防止に資するという触れ込みだったが、実際は大統領中心の権威主義的な政権運営の道具であった。
 ジャクソンは「庶民」の味方を標榜したが、この「庶民」とは彼のような白人開拓者を意味しており、先住民は明白に敵であった。ジャクソンの最も悪名高い政策として、先住民の集団強制移住がある。これは「インディアン移住法」を通じて先住民を不毛な西部の保留地へ囲い込む政策である。
 こうした強硬姿勢の裏には、「奴ら(先住民)には知性も勤勉さも道義的習慣さえない。奴らには我々が望む方向へ変わろうという向上心すらないのだ。我々優秀な市民に囲まれていながら、なぜ自分たちが劣っているのか知ろうともせず、わきまえようともしない奴らが環境の力の前にやがて消滅しなければならないのは自然の理だ。」という演説に象徴される確信的な白人優越思想があった。
 奴隷制に関しても、自身多数の黒人奴隷を所有する農園経営者でもあり、奴隷制廃止論者を嫌悪していた。もっとも、奴隷制擁護のようなイデオロギー的な問題に関しては、ジャクソン政権で最初の副大統領を務めた保守理論派のジョン・カルフーンに委ねられた部分が大きかった。
 ジャクソンは連邦に対して州の権限を尊重する州権主義者であり、その観点からマディソン政権下で創設されていた中央銀行(第二次合衆国銀行)の免許更新を認める法案に拒否権を発動した。その結果、金融政策の司令塔を失い、乱立された州銀行の多くが経営難となり、二期目任期末年の1837年恐慌とその後の長期不況の要因を作った。
 ジャクソンは中央銀行は庶民の利益にならないとも主張していたが、庶民の味方ジャクソンが1835年、失業した塗装工の男に銃撃され、史上初の大統領暗殺未遂に遭ったのは皮肉なことであった。ちなみにこの時、ジャクソンは群衆の面前で、取り押さえられた犯人をステッキで殴打したと伝えられるが、これも彼らしい「庶民的」な演出であったのだろう。
 名門エリートに対抗して「庶民」を強調する「ジャクソニアン・デモクラシー」の実態とは、選挙権(白人男性選挙権)の拡大を背景に大衆煽動と世論操作を手法とする白人ポピュリズムの先駆とも言え、これは遠く21世紀の現職トランプ政権の性格に最も酷似しているように思われる。

2018年4月 5日 (木)

アメリカ合衆国大統領黒書(連載第6回)

6 ジョン・クインジー・アダムズ(1767年‐1848年)

 第6代大統領ジョン・クインジー・アダムズは第2代ジョン・アダムズ大統領の子息であり、政治職の世襲を認めない米国にあって、現時点で二組しかない父子二代大統領のうち、最初の例に当たる。同時に、いわゆる「建国の父」の子女世代からの初の大統領という初記録に覆われた人物である。
 恵まれた政治一族の生まれにふさわしく、クインジーはヨーロッパでエリート教育を受け、多言語を身につけたうえ、帰国後はハーバード大学を卒業して弁護士となった。今日でも米国の政治家登竜門として有力なコースを歩んでいる。
 彼の政治歴は若干26歳の時、初代ワシントン大統領からオランダ担当閣僚に任命された時に始まっている。その後も父アダムズ政権を含む複数の政権でロシア担当閣僚や英国大使などを務め、外交で活躍した国際派であり、一代前のモンロー政権では二期にわたり国務長官を務め、モンロー主義外交の実務を担当した。
 クインジーは、こうした外交の実績を引っさげて1824年大統領選挙で勝利したのであった。しかし、大統領としてのクインジーの事績は芳しいものとはならなかった。前任モンロー大統領の下では民主共和党の実質的な一党政となり、「好感情の時代」と称される安定した政局であったが、24年大統領選がこの平穏を破ったからである。
 民主共和党がクインジーを支持する連邦主義的なグループと彼の対抗馬であった強硬派アンドリュー・ジャクソンを支持する州権主義的なグループに分裂し、クインジー派が国民共和党を名乗って分離したのである。その結果、クインジーの政権ではジャクソン派からの議事妨害が激化し、重要法案が通らないなど「呪われた政権」とまで称された。
 この対立はクインジーが再選を目指した28年大統領選に持ち越され、その後の米大統領選の宿痾となるネガティブ・キャンペーンが展開された。勝利したのは、かのジャクソンだった。結局、クインジーは父と同様に一期で大統領の座を去ることになった。
 この史上初のネガティブ・キャンペーン選挙で特に中傷されたのは、クインジーの先住民政策であった。クインジーはジャクソンのように武力により先住民から土地を奪うのではなく、条約に基づいて土地を購入するという穏健な方法を主張し、すでに白人が侵奪した土地についても再交渉しようとしていた。これが手ぬるいとして攻撃されたのだった。
 こうした施策からも見えるとおり、クインジーには良識的な一面があり、そのことは彼の奴隷制廃止論にも現れている。またしても史上初めて、かつ唯一、大統領退任後に改めて下院議員に転じたクインジーは、議会における奴隷制廃止派の代表格として南部の奴隷所有者層に対抗したのである。
 テキサス州を獲得した米墨戦争を南部奴隷州拡大の企てとして批判した彼は、いずれ米国が奴隷制をめぐって分裂し、内戦となることを予見していた。そうした点では、後のリンカーン大統領の予言者とも言える人物であった。
 クインジーは有能な外交家であり、「黒書」に含めるには惜しい良識と信念の人であったと思われるが、むしろそれゆえに、白人の「自由の帝国」を志向して対内的にも対外的にも膨張を続けていた合衆国民の野心と相容れず、大統領としては失敗者に終わったのだろう。

2018年3月26日 (月)

アメリカ合衆国大統領黒書(連載第5回)

5 ジェームズ・モンロー(1758年‐1831年)

 外交史における「モンロー主義」で記憶されている第5代大統領ジェームズ・モンローは、独立宣言に署名した「建国の父」以外から出た最初の大統領である。実際のところ、モンローは独立戦争に従軍し、独立前の植民地代表機関・大陸会議(連合会議)の代議員を歴任しているため、米国史上はモンローも「建国の父」に含めることが多い。そう見れば、モンローは「建国の父」世代最後の大統領とも言える。
 事実、彼もまた前任者たちと同様、バージニア州出身であるが、生家はつましい中流農園だった。そのため、彼の夢は実家を越える大農園主になることであったが、その夢は早くに諦め、政治の道に入った。その際、実家の農園を売却していたが、別に奴隷付きの小農園を保有し、奴隷を酷使していた。
 彼を有名にしたのは、最初に述べたように、合衆国外交の基本方針となった「モンロー主義」であった。この原則は南北アメリカに対する西欧列強の植民地化を以後認めず、西欧列強による新大陸干渉に反対するという南北アメリカ大陸全域での「独立宣言」にほかならない。
 これにより、中南米各国の独立が促進され、今日につながるラテンアメリカの地政学的勢力図が形成されたので、モンロー主義は歴史を大きく変える意義を持ったと評価される。しかし、この政策の裏には、若く不安定な諸国の多いラテンアメリカを合衆国の「裏庭」として自己の勢力圏内に収めようという帝国主義的狙いがあった。
 その一方で、モンローは合衆国内での白人開拓地を拡大すべく、先住民排除政策を推進した。その際、モンローは絶滅、強制移住、同化の三つを巧みに使い分けようとした。絶滅に関しては、一期目初年の1817年に発動したフロリダのセミノール族虐殺作戦がある。この作戦で司令官として派遣され名を上げたのが、後に大統領となるアンドリュー・ジャクソンであった。
 強制移住に関しては、二期目任期末年の1825年に議会を動かして強制移住法案を上程させたが、これは任期中に実現せず、後にジャクソン政権下で本格的に始動した。先住民を狩猟民から農耕民に転換させるという同化に関しては、先住民の文化的抵抗もあり、容易に実現しなかった。
 モンロー主義の他に彼の名を歴史に残したのは、アフリカのリベリアの首都モンロビアである。大西洋をまたいだ遠くアフリカの地に彼の名が刻まれたのは、モンローがリベリアへの奴隷帰還政策の強力な支持者として、任期中にもこれを推進したからである。
 モンローは大統領就任前、バージニア州知事在任中にたびたび奴隷の反乱事件に遭遇し、特に1800年には反乱グループによるモンロー知事誘拐計画が発覚したが、彼はこうした反乱事件には徹底した鎮圧策で応じていた。彼は奴隷制度を悪と認識していたが、それを英国のせいにし、奴隷制度廃止論を打ち出す代わりにアフリカ帰還という追い出し策を支持したのである。
 モンローは公然とレイシストの信条を口にするほど無神経な人間ではなかったけれども、国務長官時代にユダヤ系外交官を解雇したことがあり、反ユダヤ主義者でもあったと見られる。
 モンローの「名言」として知られる「この大地は、最大多数の人類を養うために与えられたのであり、特定の民族や国民は、自らの生活と安らぎに必要な分以上に、他者が欲するものを差し控えさせる権利を持たない。」という言葉も、表面上は英米で普及していた功利主義哲学の表現であるが、彼にとっての「最大多数」とは自らを含む白人を指していたことは明白である。

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