アメリカ合衆国大統領黒書

2019年7月24日 (水)

アメリカ合衆国大統領黒書(連載第26回)

29 ジョン・カルバン・クーリッジ・ジュニア(1872年‐1933年)

 第29代ハーディング大統領が任期途中で死去した後、クーリッジ副大統領が自動昇格して第30代大統領となる。クーリッジは三人続いた戦間期共和党政権の二人目の大統領にして、唯一二期務めたため、三人の中で最長の政権を担う結果となった。
 クーリッジは地元マサチューセッツ州で市会議員や州議会議員、さらには州副知事・知事と地方政治の要職をあらかた経験したうえで、ハーディング前政権の副大統領に抜擢されるという経歴の持ち主であった。実際のところ、彼は1920年大統領選挙に立候補し、予備選挙でハーディングに敗れており、ハーディングとは本来は党内ライバル関係にあったが、融和のため本選挙では副大統領候補に抜擢されていたのだった。
 クーリッジは「無口のカル」とあだ名されるほど、余分な発言をしない人物で、何かをするよりしないことを主義とするような人間像だった。そうした人間像は、その政策にも現れている。
 彼が政権にあった1920年代は今日のアメリカにつながる金万能の資本主義が開花した時代であったが、クーリッジは市場介入を避ける自由放任主義を採った。その点で、クーリッジは後の共和党が志向する「小さな政府」イデオロギーの先駆者とみなされることもあるが、クーリッジ自身はさはどイデオロギーに染まった人物ではなく、実務主義的な人間であった。
 その他、彼が何かをしなかったこととして、公民権政策がある。クーリッジ自身は人種差別に反対していたが、公民権拡大のために積極的に動くこともしなかった。ただし、保留地に居住する全先住民にアメリカ公民権を付与する法律に署名したのは、数少ない前進的な成果であった。
 移民問題でも同様、クーリッジ自身は移民の社会的貢献に対し好意的であったにもかかわらず、アジア系移民を排斥することを狙った悪名高い1924年移民法に署名している。クーリッジは、移民受け入れに好意的ではあったが、人種の混血には否定的という両義的な価値観を抱いていたのだ。
 「無口のカル」は、バブル的好況の絶頂にあった1924年の大統領選挙で圧勝し、新たに独自の任期を得た。民主党が強力な対立候補を擁立できなかったこともあるが、好況の中、クーリッジの経済不干渉主義が好感された結果であった。このときのクーリッジ陣営の駄洒落スローガン「クーリッジとクールでいよう」は、まさに何事にも熱中しないクーリッジ政権の性格にぴったりだった。
 そして、恐慌の予兆が始まっていた1928年の大統領選挙に関してはきっぱり「出馬しない」と宣言し、引退の道を選んだこともクールだった。翌年、歴史的な大恐慌がアメリカを直撃した時には、風当たりの強いホワイトハウスにいなくてすんだからである。

2019年6月26日 (水)

アメリカ合衆国大統領黒書(連載第25回)

28 ウォレン・ガマリエル・ハーディング(1865年‐1923年)

 第一次世界大戦の余波が残る1920年の大統領選挙では、共和党のウォレン・ガマリエル・ハーディングがウィルソン後継の民主党候補に圧勝し、第29代大統領となった。ハーディングは南北戦争終結後に生まれた初の大統領であり、これ以降のアメリカ大統領史は名実ともにポスト南北戦争の時代に入る。
 それにしても、オハイオ州知事や連邦上院議員の経験はあったが、地方の新聞経営者出自でさして知名度もないハーディングが圧勝した要因は、反ウィルソン戦略にあった。
 この時、ウィルソン現職が病気で執務不能状態にあることはまだ公にされていなかったが、すでに政権は死に体であり、ウィルソンの人気も落ち目であった。そこで、ハーディングはウィルソン政権を否定し、「正常に戻ろう」という単純明快なスローガンで、戦争疲れした国民に戦時体制の終了を訴える戦略が功を奏したのである。
 彼の「正常化」政策が最も明確に現れたのは、外交政策であった。すなわち国際連盟への加盟見送りを確定させ、ドイツとの単独講和で戦争を終了させた一方、ワシントン軍縮会議では台頭していた日本の海軍力の制限とアメリカの覇権確立に努めた。
 内政面では、富裕層減税と保護関税を明確に打ち出し、連邦政府の予算会計制度の整備を進めるなど、今日の共和党保守主義につながる面を見せている。一方、南部で蔓延した黒人へのリンチを抑止する反リンチ法の制定を推進したが、これは人種差別的な南部民主党により阻止された。
 黒人の要職登用にも積極的だったハーディングの路線は反奴隷制を原点としていた初期共和党の進歩的な姿を残したものであったが、同時に移民法では当時欧州での迫害を逃れてくるユダヤ人が増加していたことから、移民規制を強化する緊急法を導入するなど、移民排斥政策の先鞭をつけた。
 ハーディング政権最大の暗黒面は、汚職であった。おそらくは彼自身のワシントンでの経験不足を補う目的もあり、先行共和党政権下の公務員制度改革により抑制されてきていた伝統の猟官制を再起動し、地元オハイオを中心とする友人知己を論功行賞で政府の重要ポストに就けたことで、政権は多くの汚職スキャンダルにまみれたのである。
 中でも、内務長官が軍保有の油田を民間賃貸するに際して収賄して摘発されたティーポット・ドーム事件はハーディング政権最大の汚点となった。その他、ハーディング自身の関与が疑われたケースはなかったとはいえ、周辺者の汚職疑惑が多発した。
 ハーディングは1923年、アメリカ大統領として初めて公式訪問したアラスカ(当時準州)とカナダから帰国した直後、心臓発作を起こして急死してしまう。実は、彼はアラスカ訪問中、政権要人の汚職に関する調査報告書を読まされ、ショックを受けたとされており、快適と言えない当時の鉄道や船の長旅疲れと相乗して、心身に打撃となったのかもしれない。
 こうして一期目途中で病死したことから二年余りの短命政権に終わったことや、前任ウィルソンに比べてカリスマ性に欠けることもあり、現代ではあまり知られない存在として埋もれてしまったハーディングであるが、彼は三人の大統領に順次率いられた戦間期共和党政権の最初の基礎を置いた人物であった。

2019年5月30日 (木)

アメリカ合衆国大統領黒書(連載第24回)

27 トマス・ウッドロー・ウィルソン(1856年‐1924年)

 1912年大統領選挙で共和党が再選を目指す現職タフト陣営と返り咲きを狙って離党したローズベルト陣営に事実上分裂したことで、民主党が漁夫の利を得る結果となり、ウィルソンの当選につながった。こうして第28代大統領となったウィルソンは20世紀に入って最初の民主党大統領となった。
 ウィルソンはアメリカ史上初めてのアカデミズム出身大統領でもあり、進歩主義者であった。彼はその学識に基づく様々な「理想」を掲げてはいたが、ほとんどは中途半端に終わり、支持者を失望させた。その意味で、ウィルソン政権のキーワードは「失望」である。
 ウィルソン政権の失望政策は内政外交両面に及ぶが、外交面では「平和主義」である。例えばローズベルトの「棍棒外交」には批判的で、より穏当な「宣教師外交」を対置したが、実現できず、ハイチやドミニカの占領、折からのメキシコ革命への干渉など、実際の結果は「棍棒」と変わりなかった。
 より国際的な失望政策は、第一次世界大戦とその処理をめぐるものである。大戦が欧州で始まった時、ウィルソン政権は中立を標榜したが、影ではドイツと対峙する連合国側に物資や資金提供などの物的支援を通じて「裏参戦」していた。
 そのことが多数のアメリカ人乗客が犠牲となったドイツ海軍によるルシタニア号撃沈事件で隠し切れなくなると、ウィルソンは正式に参戦を決め、アメリカ外征軍を組織して、欧州戦線に送った。これは建国以来、アメリカ史上初の本格的な海外派兵であり、このためにウィルソン政権は反戦運動を抑圧しつつ、徴兵制を復活し、のべ200万人を派兵、5万人以上の戦死者を出した。
 ウィルソンの理想派学者ぶりが発揮されたのは、戦後処理の過程である。ロシアのレーニン革命政権への対抗心もあり、新世界秩序を掲げてパリ講和会議を主宰、人類史上初とも言える野心的な国際平和機構・国際連盟の創設も主導した。
 しかし、いまだ帝国主義を追求していた列強に中国大陸を狙う新興の大日本帝国など主要各国の利害調整に失敗したうえ、パリ講和条約はモンロー中立主義の原理に固執する本国上院の批准も得られなかった。こうしてウィルソン平和主義は理念に終わり、数十年後の第二次大戦を抑止することはできなかった。
 内政面での失望政策の筆頭は人種問題であった。彼は第12代テイラー大統領以来の南部出身大統領ということもあり、人種隔離政策を維持する南部の支持票に依存していた。長老教会の牧師だった父は南北戦争当時、南部連合を支持した奴隷制擁護者である。
 そうした背景から、ウィルソンの「進歩主義」は人種問題には及んでいなかった。そのため、彼は南部出身者を政府に起用し、連邦官庁での人種隔離を推進していった。自身は会員ではなかったが、クー・クラックス・クランを称賛する白人至上主義者のプロパガンダ映画の上映も許した。
 しかし「進歩主義」のイメージ演出に長けていたウィルソンは民主党大統領としては実に第7代ジャクソン以来の再選を果たし、二期目を務めるも、その末期は彼の掲げる「民主主義」の理念を裏切る違憲統治であった。ウィルソンは1919年に脳梗塞で倒れ、執務不能となったにもかかわらず、その事実を隠したのであった。
 こうした場合、副大統領が代行するはずであったが、当時のマーシャル副大統領はウィルソンと確執しており、代行を拒否するという異例事態となったため、政府に何らの役職も持たないイーディス夫人が夫の名義で職務を事実上代行した。
 この民主的共和政にとってはスキャンダラスで非アメリカ的な秘密裏の“垂簾聴政”体制は必ずしもウィルソン自身の意思によるものでないとはいえ、任期切れまで2年間続き、大統領の死後まで国民には慎重に伏せられていたのだ。
 こうしてウィルソン政権は違憲状態のうちに二期八年を終えた。ウィルソンは1924年に死去したが、奇しくもこれはライバル・レーニンの死と同年であった。しかも、脳梗塞による執務不能もレーニンと同様であったが、事実を隠さなかったレーニン政権のほうが「民主的」に見えたのは皮肉である。

2019年5月 4日 (土)

アメリカ合衆国大統領黒書(連載第23回)

26 ウィリアム・ハワード・タフト(1857年‐1930年)

 種々の意味で派手な存在であった第26代セオドア・ローズベルトの後継となったのは、彼の友人でもあったウィリアム・ハワード・タフトである。タフトは祖父、父ともに法律家という法曹一族の出であり、父が創設に関わったイェール大学生の著名な秘密結社スカル・アンド・ボーンズのメンバーとして、イェール学閥の有力者でもあった。
 ハフトの前半生は法律家そのものであり、地元オハイオ州で検察官や裁判官、法学教授などを歴任し、ベンジャミン・ハリソン政権では連邦政府の訴訟で代理人を務める訟務長官に若干32歳で任命されるなど、法曹界で着実に栄進を続けた。
 政界へ転身する最初のきっかけは、1900年にマッキンリー大統領によりフィリピン民政長官に任命されたことである。同職はアメリカがスペインとの戦争に勝利し、獲得した旧スペイン領フィリピンの植民地統治に当たるもので、アメリカ帝国主義にとって最初の大きな成果であった。
 民政長官タフトは、当時の在比米国人の間にあったフィリピン人への人種差別観を排し、フィリピン人を対等な民族として扱おうとするなど、所詮は植民地行政官という限界の中でも、公正な姿勢を示そうとした。
 その後、ローズベルト大統領の知遇を得て戦争長官(現国防長官)に任命されるが、この時にアメリカ特使として訪日し、有名な桂‐タフト協定の締結を主導している。その主要な狙いはフィリピンに対する日本の領土的野心を抑制することであったが、引き換えに日本の朝鮮支配を容認する内容を含み、日本の植民地支配を追認する結果となった。
 こうしたローズベルト政権下での働きが評価され、ローズベルトから後継指名されたタフトは、1908年の大統領選挙を征して第27代大統領に就任したのである。議員歴や州知事歴もないままでのホワイトハウス制覇は多分にしてローズベルトの後ろ盾のおかげだったが、後にローズベルトに裏切られることになる。
 前任者に比べて地味なタフトが名を残したのは、外交政策における「ドル外交」である。これはアメリカ帝国主義がターゲットとしていたラテンアメリカや東アジアに対し、武力より資本進出を通じて経済支配を強める政策であった。
 タフトはローズベルトの傀儡と見られることを嫌ってか、内政面では次第にローズベルトの革新路線から離反し、共和党保守派ににじり寄っていく。人事政策では、タフトは黒人を連邦要職に就かせることを明白に拒否し、南部の黒人公職者を排除していった。
 こうしたタフトの保守化はローズベルトをして進歩党結成に動かしめたうえに、リンカーンの奴隷解放以来、共和党を支持してきた黒人層を民主党へ鞍替えさせる結果となった。タフトは再選を目指した1912年大統領選でその代償を払うことになる。予備選で共和党の指名を勝ち取ったタフトであったが、本選挙では民主党のウッドロー・ウィルソンに敗れたのである。
 かくして、タフト大統領は一期で去ることとなったが、彼が異例だったのは退任後、1921年に連邦最高裁判所長官に任命されたことである。これによって、彼はアメリカの行政と司法の長を両方経験した史上唯一の人物となった。しかし、タフトの本領は政治家より裁判官にあったのかもしれない。彼は知的で比較的公正な人物であったが、それは保守的な知性と公正さであり、言ってみれば裁判官的な資質なのである。

2019年4月 6日 (土)

アメリカ合衆国大統領黒書(連載第22回)

25 セオドア・ローズベルト(1858年‐1919年)

 記念すべき20世紀最初の年にマッキンリー大統領がアナーキストの手により暗殺されるという衝撃の後、副大統領から第26代大統領に自動昇格したのが、セオドア・ローズベルトであった。
 彼は南北戦争の当時まだ幼年であったから、南北戦争以降の共和党系大統領では初めて南北戦争従軍経験のない大統領となった。これにより、南北戦争以後の19世紀後半期アメリカのほとんどを統治してきた歴代の「南北戦争功労政権」は終焉することとなった。
 そうした意味で新しい世代に属し、かつアメリカ史上最年少(2019年現在)42歳の新大統領は、「進歩主義」を掲げていた。ここで言う進歩主義とはしかし、当時の西欧列強が志向していた帝国主義的な膨張政策にアメリカも歩みを進めるという「進歩」を意味していた。
 19世紀までのアメリカはその広大な「新大陸」の開拓―すなわち先住民族浄化作戦―に注力しており、対外的にはおおむね消極主義であり、「旧大陸」諸国の新基軸であった帝国主義的世界戦略には乗り遅れていた。その意味で、20世紀初頭のアメリカは、その広大さにおいてはすでに「大国」であったが、世界秩序においてはいまだ途上的新興国であった。
 そうした流れを変える先鞭をつけたのがマッキンリー前大統領であったが、暗殺により未完に終わったものを引き継いだのがローズベルトだとも言える。彼の有名な「穏やかに話し、棍棒を持ち歩く」という言葉にあるとおり、ローズベルトは軍事力を背景とした威嚇外交によって、アメリカの覇権を拡大しようとしていた。
 さしあたりは、「アメリカの裏庭」であるカリブ諸国への干渉を推進し、フランスが疑獄事件を契機に手を引いたパナマ運河の建設と租借を実現させたほか、キューバにもグアンタナモ基地の租借を認めさせた。これらはアメリカ大陸をアメリカの「縄張り」と宣言したモンロー主義の延長とも言える。
 しかし、ローズベルトは1904年の年次教書では、モンロー主義を超え出て、将来アメリカが世界に国際警察力を行使する時代の到来を予言したが、これは20世紀以降に様々な紛争火種となるアメリカ覇権主義政策のキーワード「世界の警察官」の先駆けを成す、言わば「ローズベルト宣言」であった。
 一方で、ローズベルトは日露戦争の仲介役を買って出て、ポーツマス条約の締結を導いた功績で、アメリカ大統領として初のノーベル平和賞受賞者となった。しかし同時に、ロシアに実質上勝利し、帝国主義化を推進していく気配を見せる極東の新興国・日本の脅威を感じ取ったローズベルトは、日本を仮想敵として戦争を想定する「オレンジ計画」の策定の先鞭をつけている。
 ローズベルトの「進歩主義」は経済政策では、大企業の独占を規制し、消費者保護を図る介入主義の流れを作ったほか、個人的に強い思い入れのあった自然保護の規制を強める環境政策の推進という新機軸を打ち出した。保守派から「社会主義」のレッテルを貼られたこれら新政策の一部は、後に対立政党・民主党から大統領となる遠縁のフランクリン・ローズベルトに継承されていく。
 ローズベルトの「進歩主義」はしかし、人種問題や先住民問題では進歩を見せなかった。先住民に関しては民族浄化を肯定し、困窮先住民の救済には消極的であったし、任期中には政治課題とならなかったものの、彼の日本脅威論は後の排日法にも影響を及ぼしている。
 ちなみに、ローズベルトは高い人気を背景に1904年大統領選挙で圧勝し、副大統領からの自動昇格者として初めて連続二期を務めた。退任後の1912年には当時の政治状況への不満から新党・進歩党を結成して大統領選挙に再出馬するも、選挙運動中に暗殺未遂事件にあったうえ、落選した。
 政治的背景のない銃撃事件ではあったが、彼の分派行動は共和党票を分裂させ、第一次世界大戦への対処をめぐってローズベルトを激怒させることになる民主党ウッドロー・ウィルソンの当選を許す結果となった。

2019年3月 9日 (土)

アメリカ合衆国大統領黒書(連載第21回)

24 ウィリアム・マッキンリー(1843年‐1901年)

 ウィリアム・マッキンリーは、民主党のクリーブランド大統領が一期おいて二度政権を担った後、共和党が政権を奪回する形で、第25代大統領に就任した。彼は南北戦争に若くして志願従軍して勇敢に戦い、一兵卒から大尉に昇進、名誉少佐を授与される活躍を見せた。世代的には、マッキンリー政権が最後の「南北戦争功労政権」となる。
 マッキンリーは除隊後、法律家となり、ストライキを決行した労働者の集団弁護を担当するなど、左派的な傾向も見せたが、北軍時代の上官でもあった第19代大統領ラザフォード・ヘイズの選挙運動陣営から政治活動に入り、間もなく連邦下院議員に当選、10年以上務めた後、オハイオ州知事を経て、1896年大統領選を征して大統領となった。近代アメリカにおける一つの典型的な政治的立身街道を歩んだと言える。
 頂点にたどり着いたマッキンリーは、内外政策で果断な政策を打ち出していく。内政面では、1893年の恐慌からの回復策である。これにマッキンリーは金本位制と高関税による保護貿易政策で臨んだ。その成果とだけは言えないが、幸い、1870年代からの大不況は、彼が当選した年に収束した。
 一方、外交面では西洋列強による帝国主義的膨張が最盛期に入っていた折、従来国内の開拓とそれに伴う先住民浄化作戦に注力してきたアメリカは出遅れ感があった。しかし、国内開拓が一段落しようとしていた折、マッキンリーは残り少なくなったアメリカ領土のキューバで独立運動を弾圧していたスペインに目を向け、米西戦争を仕掛けた。
 これに勝利したアメリカはフィリピンやプエルトリコを含むスペインの太平洋、カリブ海域の旧領を獲得し、遅ればせながら、海外膨張を実現したのだった。このとき、フィリピンの併合に反対して結成されたのが、クリーブランド前大統領も参加する「アメリカ反帝国主義連盟」であった。この団体は帝国主義的な海外膨張はアメリカの自主独立の精神に反するとして反対する近代史上初のアメリカ反戦団体とも言えるが、マッキンリーが耳を貸すことはなかった。
 同様に、マッキンリーはアメリカ人移住者がクーデターで成立を宣言していたハワイ共和国をアメリカの準州として編入した。これは、二代前のハリソン大統領が政権末期に調印しながら、クリーブランド前大統領が撤回していた条約を再度取り上げたのだったが、これにより、アメリカは今日に至る太平洋地域への拡大を実現したのである。
 他方、公民権に関しても、マッキンリーは南北戦争以来リベラルの旗手だった共和党の伝統を薄めようとしていた。彼の当選には黒人層が貢献していたにもかかわらず、マッキンリーは黒人の政権起用には熱心ではなく、南部の人種隔離政策や人種暴力に関しても積極的な関心を示さず、黒人層を失望させていた。
 しかし、史上初めて帝国主義を明確に打ち出し、アメリカ国民の愛国心を刺激することに成功したマッキンリーは、1900年大統領選を制して再選を果たした。そして記念すべき二期目に踏み出した20世紀最初の年、凶弾に倒れることとなった。
 犯人はレオン・チョルゴッシュなるポーランド移民のアナーキストであった。彼は女性アナーキストとして著名なエマ・ゴールドマンに影響され、強固なアナーキストとなっていた。エマも一時拘束されたが、関与しておらず、暗殺はチョルゴッシュ単独犯行とされ、狙撃事件からわずか50日ほどで死刑執行された。
 チョルゴッシュはかつて勤務していた圧延工場でストライキに加わり解雇された経験を持つ当時の典型的な移民労働者階級であった。その昔、弁護士としてスト労働者の弁護を担ったマッキンリーがスト労働者出身の暗殺者の手にかかるとは皮肉であった。
 こうして、20世紀最初のアメリカ大統領となったマッキンリーは、リンカーン、ガーフィールドに続き、史上三人目の暗殺されたアメリカ大統領として記憶されることになるのである。暗殺の要因はそれぞれに異なるが、三大統領がすべて共和党系であるということも、南北戦争以降における共和党支配の象徴と言えるかもしれない。

2019年2月 9日 (土)

アメリカ合衆国大統領黒書(連載第20回)

23 ベンジャミン・ハリソン(1833年‐1901年)

 第23代ベンジャミン・ハリソン大統領は、前任第22代と後任第24代をクリーブランドにはさまれる異例の形で一期だけ務めた共和党系大統領である。また彼は在任一か月で病死した第9代ウィリアム・ハリソン大統領の孫にして、父も連邦下院議員経験者という政治一族の生まれである。
 地元インディアナ州で弁護士として成功した後、州知事選挙では落選したものの、連邦上院議員に当選したことを契機に、1888年大統領選挙で共和党の指名を勝ち取り、民主党のクリーブランド大統領の再選を阻止したのである。
 ハリソンは南北戦争で北軍大佐として従軍し、上院から名誉准将を授与されており、ハリソン政権もこの時代の共和党政権の例に漏れず、南北戦争従軍者から選ばれる「南北戦争功労政権」としての性格を継承していた。
 歴代大統領の中で、ハリソン大統領の知名度は高くないが、その政策は野心的なものだった。まず財政経済政策では歴史的な保護関税制度を定め、保護貿易主義を鮮明にした。その一方、外交・軍事政策では従来手薄だった海軍の増強と近代化を実施しつつ、ラテンアメリカから南太平洋方面への覇権の拡大に先鞭をつけた。
 ラテンアメリカに関しては、第一回米州諸国国際会議を主宰し、関税・通貨統合の構想さえ示したが、これはずっと後に現在の米州機構の前身となるアメリカ中心の地域ブロックの始まりと位置づけられる。南太平洋では、サモアの権益をめぐってドイツ帝国と一触即発となったほか、ハワイでのアメリカ人グループによるクーデターを承認し、現在のハワイ州につながるハワイ併合条約に調印した。
 対内的にも、西部六州の編入を実現し、領土を拡張した。それとも関連する先住民政策では白人社会への同化論者であったが、1890年にサウスダコタのウンデット・ニーでスー族の反乱が起きると、精鋭の陸軍第七騎兵隊を投入して武力鎮圧・大量虐殺した。この作戦は19世紀における最後の民族浄化作戦と位置づけられている。
 ハリソンが比較的「リベラル」な姿勢を見せたのは黒人公民権問題であり、彼は南部諸州での黒人有権者登録と投票を促進する法案を支持・推奨したが、上院の反対で実現しなかった。また黒人の教育機会を促進する連邦助成金制度の創設にも失敗した。
 成否を問わずハリソンのこうした野心的な諸政策は、当時の共和党アジェンダを代表するものであり、そのうち公民権政策を除けば、20世紀以降保守化していく共和党アジェンダにも影響を残すものとなっているが、それだけに民主党との先鋭な対峙を避けられなかった。
 特に輸入品に対する50パーセント超の保護関税と、それに起因した10億ドルに上る連邦支出は民主党の攻撃材料となり、再選を目指した1892年大統領選挙では前任クリーブランドの返り咲きを許す。かくして、祖父と同様、ハリソン家の大統領は長持ちしないという歴史を作ることとなった。

2019年1月16日 (水)

アメリカ合衆国大統領黒書(連載第19回)

22 スティーブン・グローバー・クリーブランド(1837年‐1908年)

 南北戦争終結後、共和党の北軍功労者が大統領に選出される「南北戦争功労政権」は、1884年大統領選挙で民主党のスティーブン・グローバー・クリーブランドが勝利することで、ひとまず中断された。クリーブランドは南北戦争では合法的に代替者を立てることで徴兵回避をした人物だったからである。
 クリーブランドは南北戦争とは関わらず、ニューヨーク州で法律家として身を立て、成功を収めた。次いで政界への転進を図るというアメリカの野心的な法律家が通るお決まりの道を歩む。
 手始めは、地元の選挙制保安官への当選であった。その後、バッファロー市長、さらにニューヨーク州知事と上昇を続けた。こうした経歴からも、クリーブランドの選挙巧者ぶりが窺えるが、それに加えて、彼には実際的な行政管理能力が備わっていたことも、公選公職での成功を支えたのであろう。
 履歴の頂点を飾るのが、1884年大統領選挙での勝利である。選挙戦では接戦の中、両党の中傷合戦が激しく展開されたが、クリーブランドが共和党の一部を抱きこむことに成功したのが、勝因となった。彼の選挙巧者振りがここでも発揮された。
 かくしてクリーブランドは第22代大統領に就任し、民主党にとっては16年ぶりの政権奪回となった。このような転換点の大統領らしく、彼は権威主義的な施政方針を採り、拒否権発動が頻発した。こうした議会との確執で、クリーブランド政権は行き詰まる。
 彼の最大目玉政策は関税引下げによる自由貿易への転換であったが、再選を目指した1888年大統領選挙ではこれが命取りとなる。選挙期間中、英国の駐米大使が発したクリーブランド支持を示唆するような書簡が暴露されたが、これが英国産品を利する関税引き下げを歓迎する選挙干渉と受け取られ、クリーブランドの評判を落としたのだった。
 それでも、一般投票ではクリーブランドが上回ったものの、最終結果を決する選挙人投票では共和党のベンジャミン・ハリソン候補に敗れ、クリーブランドは一期で退任、政権は再び共和党へ戻ったのだった。
 ところが、クリーブランドの異例さは、次の1892年大統領選を征して、大統領に返り咲いたことである。クリーブランド以前にも返り咲きにチャレンジした元大統領はいたが、成功したのは現時点でクリーブランドただ一人である。
 こうして第23代ハリソンをはさんで、第24代復権大統領となったクリーブランドであるが、満を持したこの変則二期目は、意に反して苦いものとなる。93年からアメリカは恐慌に入り、経済財政は行き詰ったからである。
 全米に不況が広がる中で労働者のストライキが頻発するが、19世紀アメリカを象徴する鉄道大手・プルマン社のストライキが激化すると、クリーブランドは連邦軍を投入して、武力鎮圧を図った。妥協が苦手で、権威主義的なクリーブランドの一面が如実に表れた一件である。
 先住民対策に関しては文化的同化主義者であり、これを推進するドーズ法を後押しする一方、対外的な膨張に関しては消極的で、一部で陰謀的に進められていたハワイ併合やスペインからの独立運動に揺れるキューバへの介入は承認しなかった。
 結局、クリーブランド二期目は中間選挙での与党・民主党大敗により早くからレームダック状態に陥り、民主党の新たな支持基盤となっていた労働者階級からもスト弾圧を恨まれ、政権運営は一期目以上に行き詰った。悲願の関税引き下げも実現しないまま、1896年大統領選でも民主党候補が敗れる中、任期満了で退陣するのだった。

2018年12月19日 (水)

アメリカ合衆国大統領黒書(連載第18回)

20 ジェームズ・エイブラム・ガーフィールド(1831年‐1881年)

 第20代ジェームズ・エイブラム・ガーフィールド大統領は、第18代グラント大統領から続く「南北戦争功労政権」の三人目に当たる。オハイオ州出身の弁護士で、南北戦争に志願従軍という履歴は、前任のヘイズ大統領とそっくりで、ヘイズのコピーのようであった。
 連邦下院議員経験も同じであったが、州知事を経験したヘイズと異なり、ガーフィールドは下院議員から直接に大統領の座を射止めた。連邦上院議員や州知事より下位とみなされる連邦下院議員職から大統領に直行したのは、現時点でもガーフィールドただ一人である。
 彼は1880年大統領選挙で、返り咲きを狙ったグラントや「シャーマン法」に今も名を残すジョン・シャーマン上院議員といった大物を退けて、共和党の指名を獲得したうえ、本選挙では民主党が擁立した南北戦争の北軍英雄ウィンフィールド・スコット・ハンコックを破っての勝利であった。
 このようにガーフィールドは運と老練さを兼ね備えていた。下院議員時代にはグラント政権下の汚職事件で名前が挙がったが、起訴されず切り抜けており、抜け目のない人物でもあった。しかし、その抜け目なさがあだとなったか、ガーフィードの在位は彼の暗殺により、半年余りで突然終わった。
 リンカーンに続き史上二件目となった大統領暗殺事件の犯人は、チャールズ・ギトーなる弁護士であった。その犯行はリンカーン暗殺に見られたような政治的陰謀ではなく、ギトーがガーフィールドの選挙運動を支援したにもかからわず、政権にポストが得られなかったことへの私怨による単独犯行であった。
 こうして、ガーフィールド政権は史上二番目に短いわずか180日余りで終わったが、本来は自身もその犠牲となった猟官制の改革や、教育を通じた黒人の地位向上などの進歩的な政策を持っていた大統領であったが、在任が短期にすぎたため、実現は後継者に委ねられた。

21 チェスター・アラン・アーサー(1830年‐1886年)

 銃撃から二か月後に死去したガーフィールド大統領を引き継いで第21代大統領となったのは副大統領チェスター・アラン・アーサーである。彼もまた南北戦争ではニューヨーク州軍で従軍した経験がある。ただ、その活動は実戦より参謀や需品のような裏方ではあったが、アーサー政権もグラント政権以来続く「南北戦争功労政権」の一環とみてよいであろう。
 アーサーはカナダとの二重国籍であったため、出生地はカナダで、大統領資格を持たないのではないかとの疑惑が大統領選挙当時からくすぶったうえ、汚職に関与した疑いも持たれ、清廉なイメージはなかった。
 しかし、いざ大統領に就任すると、彼は前政権の政策を引き継ぎ、公務員制度改革に乗り出す。いわゆるペンドルトン法であり、これにより、連邦公務員の採用と昇任に試験が導入されることになった。猟官制が基本で官僚制と縁のなかったアメリカでは画期的であった。
 ただ、同法が適用されるのは連邦官庁の中級以下の職にとどまり、上級職はなお猟官制であると同時に、選挙を経ても入れ替わらない中級職以下は、「影の政府」と呼ばれる官僚制の跋扈を結果することになった。猟官制と官僚制の欠点の双方が不安定にミックスされた近代アメリカ行政機構の始まりである。
 さらに、アーサー大統領は中国系アメリカ人の公民権取得を認めない中国人排斥法や中国人女性の入国を制限するペイジ法に署名し、20世紀前半まで続く中国人排斥政策を追求した。他方で、南部の黒人や先住民のためには教育を通じた地位の向上を目指すも、有効な手を打つことはできなかった。
 アーサーは再選を目指して1884年大統領選挙の予備選に立候補したが、ベテラン議員で、ガーフィールド政権とアーサー政権初期に国務長官を歴任したジェームズ・ブレインに敗れ、引退した。すでに健康を害しており、引退から二年後には没している。総じて、ガーフィールド‐アーサー時代は、アメリカ大統領史上印象が薄いものとなった。

2018年11月25日 (日)

アメリカ合衆国大統領黒書(連載第17回)

19 ラザフォード・バーチャード・ヘイズ(1822年‐1893年)

 南北戦争英雄グラント大統領が周辺での汚職にまみれた不安定な二期目を終えた後、大統領に選出されたのは、同じ共和党のラザフォード・バーチャード・ヘイズである。
 著名な執権者の蔭に隠れる後継にありがちなように、第19代ヘイズ大統領は、アメリカ大統領史上でも最も知名度の低い一人となっている。
 彼は前任グラントとは異なり、ハーバード・ロー・スクール出身の弁護士というバックグランドの人物であったが、南北戦争に従軍志願し、何度も負傷しながら戦績を上げ、志願兵から名誉少将に昇任する栄誉を得た。この点では前任グラントと重なり、ヘイズ政権もグラント政権以来しばらく続く「南北戦争功労政権」の一つである。
 ヘイズは除隊後、地元オハイオ州選出連邦下院議員やオハイオ州知事も経験したが、全米的な知名度の点ではグラントに及ばず、1876年の大統領選挙は民主党対抗馬との歴史上稀に見る大接戦となった。このときの民主党対抗馬は、同じ弁護士出身で、ニューヨーク州知事経験者のサミュエル・ティルデンであった。
 この似た者対決は一般投票でティルデンが上回ったが、最終結果を決する選挙人投票ではわずか一票差でヘイズが制し、当選となったのである。この時、連邦選挙委員会は、不正が疑われた民主党側の選挙人投票について、集計のやり直しではなく、疑惑票分をすべてヘイズ票とみなして算出したことから、両党間の何らかの裏取引が疑われることになった。
 そのような「取引」の存在は何ら証明されていないにもかかわらず、当選したヘイズ大統領が民主党の意向に沿い、南部に駐留していた連邦軍を完全撤退させ、いわゆるリコンストラクションを終結させたことで、確信されるようになった。実際、一期で終わったヘイズ政権最大の「功績」は、この占領終了政策であった。
 その結果として、南部諸州では民主党を通じた白人至上支配が復活し、ポスト奴隷制としての人種隔離政策が世紀を越えて構造化されていった。「1877年の妥協」とも称されるヘイズの後退的政策は、解放された黒人たちにとっては、大きな裏切りとなった。
 一方、1877年にはもう一つの大きな出来事があった。それは、鉄道労働者による大ストライキである。時は1873年恐慌に始まる大不況時代、南北戦争後の経済成長を支えた鉄道各社が賃金カットに踏み切り、対抗的な労働運動が最高潮に達していた。
 ヘイズの地元オハイオ州を終点とするボルティモア・オハイオ鉄道の労働者のストに端を発した大ストは全米各地に広がる勢いを見せたが、これに対し、ヘイズ大統領は連邦軍を投入して力による鎮圧にかかった。その結果、ストは45日間で終了した。このような強硬な反労働運動の姿勢は、その後の共和党の先例となった。
 ヘイズは自身の不人気を自覚していたのか、一期で退く意向を固め、1880年大統領選挙への立候補を見送った。退任後は教育慈善活動に力を入れ、黒人学生の奨学にも寄与するなど、ヘイズには進歩的な一面もあった。
 とはいえ、そのことにより、ヘイズがリコンストラクションの終了を急いだあまり、南部諸州の構造的な人種隔離政策を助長することとなった黒歴史を相殺することはできないだろう。

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