アメリカ合衆国大統領黒書

2019年1月16日 (水)

アメリカ合衆国大統領黒書(連載第19回)

22 スティーブン・グローバー・クリーブランド(1837年‐1908年)

 南北戦争終結後、共和党の北軍功労者が大統領に選出される「南北戦争功労政権」は、1884年大統領選挙で民主党のスティーブン・グローバー・クリーブランドが勝利することで、ひとまず中断された。クリーブランドは南北戦争では合法的に代替者を立てることで徴兵回避をした人物だったからである。
 クリーブランドは南北戦争とは関わらず、ニューヨーク州で法律家として身を立て、成功を収めた。次いで政界への転進を図るというアメリカの野心的な法律家が通るお決まりの道を歩む。
 手始めは、地元の選挙制保安官への当選であった。その後、バッファロー市長、さらにニューヨーク州知事と上昇を続けた。こうした経歴からも、クリーブランドの選挙巧者ぶりが窺えるが、それに加えて、彼には実際的な行政管理能力が備わっていたことも、公選公職での成功を支えたのであろう。
 履歴の頂点を飾るのが、1884年大統領選挙での勝利である。選挙戦では接戦の中、両党の中傷合戦が激しく展開されたが、クリーブランドが共和党の一部を抱きこむことに成功したのが、勝因となった。彼の選挙巧者振りがここでも発揮された。
 かくしてクリーブランドは第22代大統領に就任し、民主党にとっては16年ぶりの政権奪回となった。このような転換点の大統領らしく、彼は権威主義的な施政方針を採り、拒否権発動が頻発した。こうした議会との確執で、クリーブランド政権は行き詰まる。
 彼の最大目玉政策は関税引下げによる自由貿易への転換であったが、再選を目指した1888年大統領選挙ではこれが命取りとなる。選挙期間中、英国の駐米大使が発したクリーブランド支持を示唆するような書簡が暴露されたが、これが英国産品を利する関税引き下げを歓迎する選挙干渉と受け取られ、クリーブランドの評判を落としたのだった。
 それでも、一般投票ではクリーブランドが上回ったものの、最終結果を決する選挙人投票では共和党のベンジャミン・ハリソン候補に敗れ、クリーブランドは一期で退任、政権は再び共和党へ戻ったのだった。
 ところが、クリーブランドの異例さは、次の1892年大統領選を征して、大統領に返り咲いたことである。クリーブランド以前にも返り咲きにチャレンジした元大統領はいたが、成功したのは現時点でクリーブランドただ一人である。
 こうして第23代ハリソンをはさんで、第24代復権大統領となったクリーブランドであるが、満を持したこの変則二期目は、意に反して苦いものとなる。93年からアメリカは恐慌に入り、経済財政は行き詰ったからである。
 全米に不況が広がる中で労働者のストライキが頻発するが、19世紀アメリカを象徴する鉄道大手・プルマン社のストライキが激化すると、クリーブランドは連邦軍を投入して、武力鎮圧を図った。妥協が苦手で、権威主義的なクリーブランドの一面が如実に表れた一件である。
 先住民対策に関しては文化的同化主義者であり、これを推進するドーズ法を後押しする一方、対外的な膨張に関しては消極的で、一部で陰謀的に進められていたハワイ併合やスペインからの独立運動に揺れるキューバへの介入は承認しなかった。
 結局、クリーブランド二期目は中間選挙での与党・民主党大敗により早くからレームダック状態に陥り、民主党の新たな支持基盤となっていた労働者階級からもスト弾圧を恨まれ、政権運営は一期目以上に行き詰った。悲願の関税引き下げも実現しないまま、1896年大統領選でも民主党候補が敗れる中、任期満了で退陣するのだった。

2018年12月19日 (水)

アメリカ合衆国大統領黒書(連載第18回)

20 ジェームズ・エイブラム・ガーフィールド(1831年‐1881年)

 第20代ジェームズ・エイブラム・ガーフィールド大統領は、第18代グラント大統領から続く「南北戦争功労政権」の三人目に当たる。オハイオ州出身の弁護士で、南北戦争に志願従軍という履歴は、前任のヘイズ大統領とそっくりで、ヘイズのコピーのようであった。
 連邦下院議員経験も同じであったが、州知事を経験したヘイズと異なり、ガーフィールドは下院議員から直接に大統領の座を射止めた。連邦上院議員や州知事より下位とみなされる連邦下院議員職から大統領に直行したのは、現時点でもガーフィールドただ一人である。
 彼は1880年大統領選挙で、返り咲きを狙ったグラントや「シャーマン法」に今も名を残すジョン・シャーマン上院議員といった大物を退けて、共和党の指名を獲得したうえ、本選挙では民主党が擁立した南北戦争の北軍英雄ウィンフィールド・スコット・ハンコックを破っての勝利であった。
 このようにガーフィールドは運と老練さを兼ね備えていた。下院議員時代にはグラント政権下の汚職事件で名前が挙がったが、起訴されず切り抜けており、抜け目のない人物でもあった。しかし、その抜け目なさがあだとなったか、ガーフィードの在位は彼の暗殺により、半年余りで突然終わった。
 リンカーンに続き史上二件目となった大統領暗殺事件の犯人は、チャールズ・ギトーなる弁護士であった。その犯行はリンカーン暗殺に見られたような政治的陰謀ではなく、ギトーがガーフィールドの選挙運動を支援したにもかからわず、政権にポストが得られなかったことへの私怨による単独犯行であった。
 こうして、ガーフィールド政権は史上二番目に短いわずか180日余りで終わったが、本来は自身もその犠牲となった猟官制の改革や、教育を通じた黒人の地位向上などの進歩的な政策を持っていた大統領であったが、在任が短期にすぎたため、実現は後継者に委ねられた。

21 チェスター・アラン・アーサー(1830年‐1886年)

 銃撃から二か月後に死去したガーフィールド大統領を引き継いで第21代大統領となったのは副大統領チェスター・アラン・アーサーである。彼もまた南北戦争ではニューヨーク州軍で従軍した経験がある。ただ、その活動は実戦より参謀や需品のような裏方ではあったが、アーサー政権もグラント政権以来続く「南北戦争功労政権」の一環とみてよいであろう。
 アーサーはカナダとの二重国籍であったため、出生地はカナダで、大統領資格を持たないのではないかとの疑惑が大統領選挙当時からくすぶったうえ、汚職に関与した疑いも持たれ、清廉なイメージはなかった。
 しかし、いざ大統領に就任すると、彼は前政権の政策を引き継ぎ、公務員制度改革に乗り出す。いわゆるペンドルトン法であり、これにより、連邦公務員の採用と昇任に試験が導入されることになった。猟官制が基本で官僚制と縁のなかったアメリカでは画期的であった。
 ただ、同法が適用されるのは連邦官庁の中級以下の職にとどまり、上級職はなお猟官制であると同時に、選挙を経ても入れ替わらない中級職以下は、「影の政府」と呼ばれる官僚制の跋扈を結果することになった。猟官制と官僚制の欠点の双方が不安定にミックスされた近代アメリカ行政機構の始まりである。
 さらに、アーサー大統領は中国系アメリカ人の公民権取得を認めない中国人排斥法や中国人女性の入国を制限するペイジ法に署名し、20世紀前半まで続く中国人排斥政策を追求した。他方で、南部の黒人や先住民のためには教育を通じた地位の向上を目指すも、有効な手を打つことはできなかった。
 アーサーは再選を目指して1884年大統領選挙の予備選に立候補したが、ベテラン議員で、ガーフィールド政権とアーサー政権初期に国務長官を歴任したジェームズ・ブレインに敗れ、引退した。すでに健康を害しており、引退から二年後には没している。総じて、ガーフィールド‐アーサー時代は、アメリカ大統領史上印象が薄いものとなった。

2018年11月25日 (日)

アメリカ合衆国大統領黒書(連載第17回)

19 ラザフォード・バーチャード・ヘイズ(1822年‐1893年)

 南北戦争英雄グラント大統領が周辺での汚職にまみれた不安定な二期目を終えた後、大統領に選出されたのは、同じ共和党のラザフォード・バーチャード・ヘイズである。
 著名な執権者の蔭に隠れる後継にありがちなように、第19代ヘイズ大統領は、アメリカ大統領史上でも最も知名度の低い一人となっている。
 彼は前任グラントとは異なり、ハーバード・ロー・スクール出身の弁護士というバックグランドの人物であったが、南北戦争に従軍志願し、何度も負傷しながら戦績を上げ、志願兵から名誉少将に昇任する栄誉を得た。この点では前任グラントと重なり、ヘイズ政権もグラント政権以来しばらく続く「南北戦争功労政権」の一つである。
 ヘイズは除隊後、地元オハイオ州選出連邦下院議員やオハイオ州知事も経験したが、全米的な知名度の点ではグラントに及ばず、1876年の大統領選挙は民主党対抗馬との歴史上稀に見る大接戦となった。このときの民主党対抗馬は、同じ弁護士出身で、ニューヨーク州知事経験者のサミュエル・ティルデンであった。
 この似た者対決は一般投票でティルデンが上回ったが、最終結果を決する選挙人投票ではわずか一票差でヘイズが制し、当選となったのである。この時、連邦選挙委員会は、不正が疑われた民主党側の選挙人投票について、集計のやり直しではなく、疑惑票分をすべてヘイズ票とみなして算出したことから、両党間の何らかの裏取引が疑われることになった。
 そのような「取引」の存在は何ら証明されていないにもかかわらず、当選したヘイズ大統領が民主党の意向に沿い、南部に駐留していた連邦軍を完全撤退させ、いわゆるリコンストラクションを終結させたことで、確信されるようになった。実際、一期で終わったヘイズ政権最大の「功績」は、この占領終了政策であった。
 その結果として、南部諸州では民主党を通じた白人至上支配が復活し、ポスト奴隷制としての人種隔離政策が世紀を越えて構造化されていった。「1877年の妥協」とも称されるヘイズの後退的政策は、解放された黒人たちにとっては、大きな裏切りとなった。
 一方、1877年にはもう一つの大きな出来事があった。それは、鉄道労働者による大ストライキである。時は1873年恐慌に始まる大不況時代、南北戦争後の経済成長を支えた鉄道各社が賃金カットに踏み切り、対抗的な労働運動が最高潮に達していた。
 ヘイズの地元オハイオ州を終点とするボルティモア・オハイオ鉄道の労働者のストに端を発した大ストは全米各地に広がる勢いを見せたが、これに対し、ヘイズ大統領は連邦軍を投入して力による鎮圧にかかった。その結果、ストは45日間で終了した。このような強硬な反労働運動の姿勢は、その後の共和党の先例となった。
 ヘイズは自身の不人気を自覚していたのか、一期で退く意向を固め、1880年大統領選挙への立候補を見送った。退任後は教育慈善活動に力を入れ、黒人学生の奨学にも寄与するなど、ヘイズには進歩的な一面もあった。
 とはいえ、そのことにより、ヘイズがリコンストラクションの終了を急いだあまり、南部諸州の構造的な人種隔離政策を助長することとなった黒歴史を相殺することはできないだろう。

2018年11月 7日 (水)

アメリカ合衆国大統領黒書(連載第16回)

18 ユリシーズ・グラント(1822年‐1885年)

 南北戦争終結後最初の大統領選挙となった1868年大統領選挙は、南北戦争を勝利に導いた共和党の独壇場となった。現職ながら不人気のジョンソン大統領は自党の民主党からも指名を得られず脱落、代わって指名されたニューヨーク州知事出身のホレイショ・シーモアも、共和党が指名した南北戦争の英雄ユリシーズ・グラントには太刀打ちできなかった。
 建国以来、戦争に明け暮れてきたアメリカでは戦争英雄出身の大統領はそれまでにも輩出していたが、いずれも正規軍人というよりは義勇軍人に近い存在であったところ、第18代大統領となったグラントは、史上初めての士官学校卒の正真正銘職業軍人であった。
 彼はオハイオ州で製革業者兼商人の中産階級家庭に生まれ、19世紀初頭に創設された陸軍士官学校を出た後、後に第12代大統領となるザカリー・テイラー配下で米墨戦争に従軍し、戦績を上げて昇進したが、飲酒がたたって除隊した。その後は職を転々とする不遇時代を過ごすが、南北戦争が運命を変える。
 軍に志願兵として復帰したグラントは、南北戦争で優れた作戦家としての力量を発揮して戦史に残る戦果を上げ、北軍の勝利に大きく寄与した。その戦歴は本稿の主題から外れるので割愛するが、南北戦争なかりせばグラントは歴史に名を残すこともなかったであろう。もちろん、大統領など望むべくもなかった。
 こうして政治歴ゼロのまま、共和党から大統領選挙に担ぎ出される形で立候補し、当選してしまったグラントは、誰が見ても政治の素人であった。しかし、それゆえに南北戦争後の再編リコンストラクションには適した人物でもあったのかもしれない。
 実際、彼は今日の共和党の姿からは考えられないほどリベラルな改革をいくつか実施している。その中には、人種的多様化政策の先駆けとも言えるアフリカ系やユダヤ系の連邦要職への登用が含まれている。また南北戦争後、南部の白人優越主義者によって結成されたテロ団体クー・クラックス・クランの摘発も進めた。
 また先住民政策も従来の強硬な殲滅作戦を離れ、先住民を連邦政府の保護下に置き保留地で「開化」させる新たな解決策を志向した。しかし、このような文明押し付けの「平和政策」は功を奏しなかったが、職業軍人出身ながら武断政策を回避しようとしたことは注目に値する。
 グラントのこのような穏健リベラル政策は、南部基盤の保守的な民主党及び共和党急進派双方の不満を招き、グラントの再選阻止が狙われたが、彼はこうした動きを跳ね返し、再選を果たした。しかし、二期目のグラント政権は1873年恐慌に始まる長期の大不況に見舞われた。それとともに、側近や閣僚らが関与する汚職事件も相次ぎ、グラント二期目は規律を欠くものとなった。
 特に汚職に関しては、自身の関与こそ問われなかったものの、歴代政権の中でも最も黒い記録を持つ。一方で、グラントは公務員改革策として、ジャクソン大統領以来の伝統である腐敗した猟官制を是正するべく、公務委員会を設置するなど改革策を進めたが、足元での汚職を抑止することはできなかった。
 こうして、第7代ジャクソン大統領以来、久方ぶりに二期八年を全うしたグラントであったが、大統領としては南北戦争英雄としての評価とは裏腹の不評が歴史的に定着してきた。一方、彼の人種的多様化政策には再評価もあるが、そうした北部リベラル傾向はグラント以降、20世紀前半にかけて断続的に続く共和党優位の時代に後退し、保守化傾向が進んでいく。

2018年10月17日 (水)

アメリカ合衆国大統領黒書(連載第15回)

17 アンドリュー・ジョンソン(1808年‐1875年)

 リンカーン大統領暗殺という衝撃的な事件の後、第17代大統領に昇格したのは当時の副大統領アンドリュー・ジョンソンであった。ジョンソンはノースカロライナ州の貧しい労働者階級出自で、いわゆる「プア・ホワイト」から立身した人物である。
 当時の習慣に従い、ジョンソンは正規の教育を受けず、10代から労働者として働いた。しかし、移住先のテネシー州で仕立て屋として小さな成功を収めた後、若干21歳にして地元グリーンビル市議会議員に当選したことを皮切りに政界に身を投じ、1850年代までに連邦両院の議員やテネシー州知事なども歴任した典型的な職業政治家として成功する。
 ジョンソンが政治的地盤としたテネシー州は南北戦争においては南部連合に参加したが、ジョンソン自身は南部連合に反対する連邦残留派に属していた。当時テネシー州選出上院議員だったジョンソンは、南部連合諸州選出上院議員のうちただ一人辞職しないという気骨も示したのであった。
 このように南部出身ながら合衆国の分裂に反対する姿勢は、当時のリンカーン大統領にとっては都合のよい人材と映った。そこで、二期目を目指すリンカーンは国民統一党名義―実態は共和党―で戦った1864年大統領選で、民主党員のジョンソンを副大統領候補に抜擢、当選後ジョンソンは第二次リンカーン政権の副大統領に就任した。
 そして翌年、リンカーンが凶弾に倒れると、大統領のお鉢が回ってきたというわけである。しかし、ジョンソンは連邦残留派とはいえ、南部出身の奴隷制護持派という点では、リンカーンとは明確な一線を画していた。そのため、リンカーン大統領から引き継いだ南北戦争の戦後再建策(リコンストラクション)においても、南部に対しては微温的な対応に終始したのである。
 具体的には、解放奴隷に公民権を付与する憲法修正14条に反対しつつ、解放奴隷の処遇を州の判断に委ね、南軍指導者の恩赦を積極的に行なった。これに対しては、南部の占領統治を主導していた共和党強硬派から強い反発を受けた。当時強硬派は議会で多数派を握っていたことから、ジョンソン大統領の拒否権発動が多発し、議会との対立は頂点に達した。
 そうした中、ジョンソンが不仲の陸軍長官を罷免したことが連邦法に違反するという理由で、史上初めて弾劾裁判にかけられる羽目になったが、審理を担当する上院でわずか一票の僅差で無罪となり、大統領の地位は保全された。
 こうしてどうにかリンカーン前大統領の残り任期を全うしたジョンソンであるが、二期目を目指した1868年大統領選では古巣の民主党から出馬したものの、予備選挙で敗退し、再選の望みは絶たれた。
 この予備選は「ここは白人の国だ、白人に統治させよ」という露骨に人種差別的なスローガンを掲げた当時の民主党の立ち位置を示す選挙となったところ、奴隷制支持者とはいえ、リンカーン政権の副大統領を務めたジョンソンは、南部に地盤のある民主党にとっては裏切り者と映じたのであろう。
 しかし、この後も、ジョンソンは国政への執念を捨てず、連邦議員への返り咲きを何度か試みた後、1875年に連邦上院議員への当選を果たし、大統領経験者としては至上唯一の連邦上院議員となるが、皮肉にも、その年の夏、体調を崩して急死した。
 こうして、ジョンソンは前任の“偉人”リンカーン大統領の影に隠れ、およそ100年後、暗殺されたケネディ大統領を引き継いだ奇しくも同名の大統領以上に目立たず、かつリンカーンとは異なり、奴隷制廃止に抵抗したことで歴史に悪名を残すこととなった。

2018年9月19日 (水)

アメリカ合衆国大統領黒書(連載第14回)

16 エイブラハム・リンカーン(1809年‐1865年)

 アメリカ大統領史上最も高名な人物と言えば、第16代リンカーンであろう。偉人伝の代表的な素材であり、筆者もかつて子供向け偉人伝を読んだ記憶がある。中でも画期的な「奴隷解放」の立役者として内外で尊敬されてきた人物である。その一般的な伝記ならば、もう十分すぎるくらいに公刊されてきたので、改めて紹介することは避け、ここではリンカーンという人物は果たしてさほど「偉人」だったのかどうかを検証したい。
 リンカーンが偉人視されてきた最大の功績とされるのが、奴隷解放宣言である。しかし、彼は一貫して奴隷制廃止論者だったわけではない。彼は法曹界から初めて政界に出た1830年代、イリノイ州下院議員の時代には、奴隷制と奴隷制廃止のいずれにも反対し、単に奴隷制拡大にのみ反対するという中道的な立ち位置を取った。
 このような中庸な―悪く言えば半端な―立場こそが、リンカーンの原点であったのだ。その後も、長くリンカーンの中道的立場は変わっていない。実際、彼は共和党から1860年大統領選挙に立候補し、当選した後も、奴隷制の全廃を宣言することは避けた。
 とはいえ、南部の奴隷制諸州では、北部に基盤を持ち、反奴隷制を掲げて1854年に発足した共和党の候補者が初めて大統領に当選したことに危機感を強めた。それは、リンカーンが就任演説で「奴隷制度が施行されている州におけるこの制度に、直接にも間接にも干渉する意図はない。私にはそうする法律上の権限がないと思うし、またそうしたいという意思もない。」と確約しても、信用しないほど強いものであった。
 すでにリンカーン就任前から南北の分裂は不可避なものとなっていたとはいえ、リンカーン共和党政権の発足は分裂を決定づけ、南部諸州の連邦離脱を食い止めることはできなかった。他方、南部の離脱を容認しないリンカーンは武力による制圧を決断する。
 こうして始まった南北戦争渦中で発せられたのが有名な奴隷解放宣言であるが、実はこの期に至っても、リンカーン自身は奴隷制廃止論者ではなかった。宣言を発したのは、南部奴隷の反乱やボイコットを誘発して南軍を弱体化させるという戦略的な意図に基づくものにすぎなかったのだ。
 事実、この宣言は南部諸州の奴隷の解放のみに焦点を当て、実は北部にも存在した奴隷制存置州には適用されないという非対称な仕掛けになっていた。けれども、歴史の流れはリンカーンの思惑を超えて進行し、彼が再選を果たした後の1865年には憲法修正13条の制定により、奴隷制は全米で廃止されることとなった。
 こうしてリンカーンは歴史を変えた「偉人」となるのであるが、南北戦争中は、抑圧者としての顔を覗かせ、孤島アルカトラズ島要塞を苛烈な軍事刑務所として使い、ここに南部連合派の政治犯を拘禁した。自由の擁護を改めて誓った有名なゲティスバーグ演説は、アルカトラズ島には届かなかった。
 リンカーンが知られざる抑圧者の顔を決定的に露にしたのは、対先住民政策である。リンカーンは大統領就任前の50年代に「白人の優越性を疑わない」と発言しているように、実のところ人種平等主義者ではなかった。従って、黒人奴隷制廃止に踏み切っても、先住民の人権について再考することはなかった。
 実際、彼は数々の先住民排除政策を施行している。西部領土の拡大―すなわち先住民居住圏の剥奪―にも積極的で、1862年に署名したホームステッド法に基づき、先住民を保留地へ強制移住させたほか、先住民の暴動に対する大量処刑も躊躇しなかった。
 彼の先住民政策における暗黒面については、すでに『赤のアメリカ史』で詳述したので(拙稿参照)、その“罪状”は繰り返さないが、ゲティスバーグ演説で「人民の人民による人民のための政治を地上から決して絶滅させない」決意を表明したリンカーンが、先住民の地上からの絶滅を容認していたことは確実である。
 しかし、リンカーンは二期目途中の1865年、南部連合を支持する暗殺者グループの凶弾に倒れ、アメリカ史上最初の暗殺された大統領となったことで、「偉人」を越えて「聖人」に近い偶像にまで高められたのである。同時に、リンカーン暗殺は100年後のケネディ大統領やキング牧師、マルコム・Xなど、およそ黒人解放に関わったキーマンがいずれも凶弾に倒れるというアメリカ暗黒史の始まりでもあった。

2018年9月 5日 (水)

アメリカ合衆国大統領黒書(連載第13回)

14 フランクリン・ピアース(1804年‐1869年)

 フランクリン・ピアースは、現職フィルモア大統領が自党ホイッグ党の指名獲得に失敗し、本選挙に進めない中で行なわれた1852年大統領選挙で手堅い勝利を収め、民主党に政権を奪還させた。彼の特質は、民主党の基盤が弱い北部ニューハンプシャー州出身にして、19世紀生まれ最初の大統領という点である。
 彼は北部出身ながら南部の奴隷制を支持し、奴隷制廃止運動には背を向けていた。このことが、彼をして民主党の大統領候補に押し上げ、本選挙でも勝利した最大の要因であった。
 実際、第14代大統領就任後のピアースはモンロー大統領時代に奴隷制度の拡大を抑制する狙いから合意されたいわゆるミズーリ妥協を廃し、新たに設定されたカンザスとネブラスカの両準州の奴隷制導入を両準州民の選択に委ねるとする法案に署名した。この法案は、両準州で奴隷制反対派と賛成派の暴力的衝突が南北戦争直前まで継続する要因となった。
 米墨戦争時、准将として従軍したピアースはまた、合衆国領土の拡張にも積極的で、当時スペイン領だったキューバのアメリカ併合を求めるオステンド・デスティニー文書への支持を表明した。このような帝国主義的衝動も、北部の進歩派やスペインはじめ欧州からの批判ないし警戒を招いた。
 在任中大きな失態のなかったピアースではあるが、地盤の北部の支持を喪失し、党内の分裂をまとめることもできなかったことから、1856年大統領選では党の指名を得ることに失敗し、一期で政権を去ることとなった。退任後は、リンカーン大統領に対する厳しい批判者となったが、私生活では酒に溺れ、肝臓病で命を落とした。

5 ジェームズ・ブキャナン・ジュニア(1791年‐1868年)

 現職ピアースに代わって民主党大統領選候補の指名を獲得したのは、ピアース政権下で英国担当閣僚を務めていたジェームズ・ブキャナン・ジュニアであった。彼は、いくつかの政権でロシア担当閣僚や国務長官を務めたこともあり、欧州との帝国主義的競争関係が高まる中、その外交経験に期待が集まったと見られる。
 長いキャリアを持つベテラン政治家であったブキャナン自身、大統領の座は悲願であり、過去三回の大統領選に立候補しているが、いずれも党の予備選で指名を得られず、四度目の正直でようやく念願を果たしたのだった。しかし、権力への執着はなく、就任演説で再選を求めないことを明らかにしている。
 ペンシルベニア州出身のブキャナンも北部出身の奴隷制支持派という点では、前任者と同様のバックグランドを持っていた。またオステンド・デスティニー文書の作成にも関与するなど、政策は前任者と変わらず、ただその政治経験の長さが違うだけであった。
 ブキャナンにとってマイナスとなったのは、初の世界恐慌の事例としても知られる1857年恐慌であった。アメリカではオハイオ生命保険信託会社の破綻に端を発したこの恐慌は、金融恐慌に発展し、当時投資ブームとなっていた鉄道会社の破産を招いた。ブキャナンは紙幣流通を抑制するという以外の対策を採ろうとせず、「(個人を)救済しない改革」という実にアメリカ的な政策を打ち出したのだった。
 57年恐慌は南部よりブキャナンの地盤でもある北部の経済に打撃を与えたこともあり、前任者同様、ブキャナンの北部での支持は失墜した。練達の政治家として調停力にも期待されたブキャナンだったが、前政権から続く民主党内の分裂を修復することはできなかった。
 しかし、一期で退くことを明言していた彼は、その言葉どおり、1860年大統領選に出馬することなく、引退した。リンカーンを当選させた同年の大統領選は19世紀の古い民主党に代わって共和党が台頭する新たな時代の始まりであり、出馬を見送った第15代ブキャナンは18世紀生まれ最後の大統領となった。

2018年8月19日 (日)

アメリカ合衆国大統領黒書(連載第12回)

13 ミラード・フィルモア(1800年‐1874年)

 ミラード・フィルモアは、前任テイラー大統領の急死を受け、副大統領から第13代大統領に昇格した。副大統領からの自動昇格としては、第10代タイラーに次いで史上二例目である。
 フィルモアは歴代大統領としては珍しく、ニューヨーク州の小作人の生まれであり、ブルジョワ階級出自が圧倒的に多い歴代アメリカ大統領中最も貧しい出自を持つ稀有の人物である。そうした生まれのため、正規の学校教育を受ける機会がなく、10代で徒弟に出された。
 しかし、判事の下で事務官の職を得たことを契機に、当時の制度上可能だった見習いから弁護士資格を取得する方法により、ニューヨーク州で法律事務所を開業した。短い法曹経験の後、政界に転身し、20代でニューヨーク州下院議員、30代で連邦下院議員に当選、40代にして副大統領、50代で大統領と立身していったフィルモアは「アメリカン・ドリーム」の体現者でもあった。
 フィルモアが1848年大統領選に際してホイッグ党から副大統領に指名されたのは、彼が非奴隷制州であるニューヨーク州を地盤としていながら、南部の奴隷制に反対しないという妥協姿勢が、北部の支持を得られにくいテイラー大統領の支えとして最適とみなされたからであった。
 このような「北部出身の保守派」というフィルモアの立場は大統領となっても変わらず、テイラー政権時代に持ち上がったいわゆる1850年協定という政治的妥協を成立させるうえでも、副大統領時代から引き続いて重要な役割を果たした。
 この協定には、逃亡奴隷の拘束・返還を認める逃亡奴隷法という悪法も含まれたが、フィルモアは奴隷制度が反キリスト的であると認めがらも、南部を慰撫し、合衆国の統一を優先する道を選ぶ“現実主義者”であった。ある意味では、典型的に政治的な人物であったのだ。
 妥協策の名手だったフィルモアは、国内の領土拡張に関しても、就任翌年の1851年にララミー砦条約を締結し、西部の広大な領域を先住民勢力から割譲させることに成功した。
 外交政策の面では、ペリー提督を日本へ派遣し、開国へ向けた外圧を加えた“功績”を持つ。これはその後のアメリカ外交を特徴付ける砲丸外交の初期の成功例の一つとなった。またハワイをフランスの干渉から守るなど、アジア太平洋地域におけるアメリカの覇権追求の先鞭を付けた人物でもあった。
 こうした“実績”を誇張することが不得手だったフィルモアは1852年大統領選で自党の指名を獲得することに失敗し、再選されることなく退任を余儀なくされた。その悔いからか、退任後のフィルモアは当時増加していたカトリック教徒の移民排斥を訴える秘密結社「ノウ・ナシング運動」に傾倒する。
 そして、この運動を基盤に結党された極右政党アメリカン党の候補者として1856年大統領選に改めて出馬するも、敗退した。とはいえ、この移民排斥運動は今日のトランプ反移民政策にもつながる萌芽であり、三位に終わったフィルモアが20パーセント余りの得票率を記録したことは記憶されてよいかもしれない。
 全般的に後世の評価は低いフィルモアであるが、親奴隷制・征先住民・反移民というアメリカ合衆国における白人優越主義的な暗部―ある種の人々にとっては光明―を象徴する大統領だったと言えるかもしれない。

2018年7月25日 (水)

アメリカ合衆国大統領黒書(連載第11回)

12 ザカリー・テイラー(1784年‐1850年)

 公約どおり一期のみで退任したポーク大統領の後を受けて第12代大統領となったのは、反対党ホイッグ党のザカリー・テイラーであった。テイラーは南部奴隷州の中心・バージニア州の奴隷農園主の生まれながら、一家がケンタッキーの辺境地へ開拓移住したことで、十分な教育は受けられなかった。
 そこでテイラーは軍に入隊し、以後40年にわたり軍人一筋に歩んだ。その軌跡は同じ党から出た第9代ハリソン大統領に似ている。テイラーの戦績は米英戦争に始まり、ブラックホーク戦争、セミノール戦争、米墨戦争等々、19世紀前半期アメリカが当事国となった重要な戦争のほぼすべてに及んだ。
 これらの戦争の多くは先住民殲滅作戦を伴っており、それを中心的に指揮したのがテイラーであった。南部領土を拡張した米墨戦争では、時のポーク大統領から司令官として派遣され、大統領命令に反してまでメキシコ軍を深追いして戦勝に大きく貢献、少将に昇任した。
 このようなアメリカの歴史を変える侵略戦争の戦歴者はアメリカ白人にとってはヒーローそのものであり、大統領選挙に引っ張り出されるに十分であった。特に政権奪還を目指していたホイッグ党にとって、テイラーはハリソンの再来と映ったろう。
 テイラーは選挙でもあえて自己投票しないほど政治的野心がない人物であり、すべて党の膳立てどおりに動き、当選を果たした。しかし、大統領に就任すると、議会から距離を置き、党派争いに巻き込まれることを避けた。
 彼の任期中最大の課題は、彼が戦勝に寄与した米墨戦争の結果獲得した南部新領土の扱いをめぐるものであった。つまり、奴隷制を新領土に拡大するかどうかである。テイラーは自ら奴隷所有者でありながら、奴隷制拡大には反対であった。
 与党内でも議論が紛糾したこの問題は、テイラーが今日コレラと推定されている急病で死去した後、「1850年協定」と呼ばれる政治的妥協策で当面解決されることとなった。
 この協定の結果、新領土のカリフォルニア州は奴隷制なしの自由州となる一方、他の新領土は奴隷制を導入できることとなった。テイラーはこのような妥協に反対していたが、彼の急死を受けて副大統領から昇格したミラード・フィルモアによって承認された。
 結局、史上最短で任期中急死したハリソンの再来よろしく、在任一年余りの道半ばで死去したテイラーであったが、奴隷所有者としては史上最後のアメリカ大統領となった。意図したものではなかったとはいえ、奴隷制に関しては、結果的に「白歴史」を残したと言えるかもしれない。

2018年7月 7日 (土)

アメリカ合衆国大統領黒書(連載第10回)

11 ジェームズ・ノックス・ポーク(1795年‐1849年)

 第11代大統領ジェームズ・ノックス・ポークは、アメリカの歴史上最も知名度の低い大統領かもしれない。ポークは弁護士となった後、下院議員・議長やテネシー州知事を歴任したアメリカではよくある履歴を持つベテラン政治家であったが、民主党から大統領候補に指名された時には全国的に無名に近い存在であった。
 彼が立候補した1844年大統領選では旧メキシコ領土のテキサス併合問題が大きな争点となっていた。この時、民主党から大統領返り咲きを目指していた元大統領ヴァン・ビューレンは「良識派」としてテキサス併合に反対したが、このことをめぐって民主党主流派の反発を買ったヴァン・ビューレンが指名を失ったため、代替候補として急遽立てられたのがポークであった。
 ポークはノースカロライナ州の奴隷所有農場主の家に生まれ、自身も父から奴隷を相続した奴隷所有者であった。そのため、ポークは一貫して南部奴隷州の擁護者であり、南部に基盤を持つ民主党にとっては知名度のなさを差し引いても好都合な候補者であった。
 本選挙でポークの対抗馬となったのは、より知名度の高いホイッグ党のヘンリー・クレイであった。彼は1824年以来、たびたび大統領選に挑戦してきた「常連」であった。クレイ陣営はポークの知名度のなさを揶揄する作戦で攻撃したが、僅差で勝利したのはポークであった。
 ポークは大統領就任に当たり、再選は目指さないことを公約し、それを守ったことで政治野心のなさを示したが、一期だけのポーク政権最大の“成果”は、米墨戦争の勝利であった。米墨戦争はテキサス州併合問題を契機として勃発した国境紛争であった。
 自身の再選には野心を示さなかったポーク大統領であるが、アメリカ領土の拡張に関しては、テキサス州の州境を拡張しようとする野心を隠さなかった。そのことが元々国境線が曖昧だった隣国との武力衝突を招いたのだ。
 彼の任期中の多くを費やした戦争で、ポークはアメリカに勝利に導いた。戦果として、広大なカリフォルニアを獲得したほか、戦争を終結させたされたグアダルーペ・イダルゴ条約により、メキシコ側に領土の三分の一程度を割譲させることに成功した。
 こうしてポーク大統領は現在、トランプ現職が「壁」を建設しようとしている米墨国境線の基礎を築いた“功労者”なのである。その代償であるかのごとく、ポークは大統領退任後、わずか三か月で急死することとなった。死因はコレラと見られている。

 

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