アメリカ合衆国大統領黒書

2018年7月 7日 (土)

アメリカ合衆国大統領黒書(連載第10回)

11 ジェームズ・ノックス・ポーク(1795年‐1849年)

 第11代大統領ジェームズ・ノックス・ポークは、アメリカの歴史上最も知名度の低い大統領かもしれない。ポークは弁護士となった後、下院議員・議長やテネシー州知事を歴任したアメリカではよくある履歴を持つベテラン政治家であったが、民主党から大統領候補に指名された時には全国的に無名に近い存在であった。
 彼が立候補した1844年大統領選では旧メキシコ領土のテキサス併合問題が大きな争点となっていた。この時、民主党から大統領返り咲きを目指していた元大統領ヴァン・ビューレンは「良識派」としてテキサス併合に反対したが、このことをめぐって民主党主流派の反発を買ったヴァン・ビューレンが指名を失ったため、代替候補として急遽立てられたのがポークであった。
 ポークはノースカロライナ州の奴隷所有農場主の家に生まれ、自身も父から奴隷を相続した奴隷所有者であった。そのため、ポークは一貫して南部奴隷州の擁護者であり、南部に基盤を持つ民主党にとっては知名度のなさを差し引いても好都合な候補者であった。
 本選挙でポークの対抗馬となったのは、より知名度の高いホイッグ党のヘンリー・クレイであった。彼は1824年以来、たびたび大統領選に挑戦してきた「常連」であった。クレイ陣営はポークの知名度のなさを揶揄する作戦で攻撃したが、僅差で勝利したのはポークであった。
 ポークは大統領就任に当たり、再選は目指さないことを公約し、それを守ったことで政治野心のなさを示したが、一期だけのポーク政権最大の“成果”は、米墨戦争の勝利であった。米墨戦争はテキサス州併合問題を契機として勃発した国境紛争であった。
大統領の地位には野心を示さなかったポーク大統領であるが、アメリカ領土の拡張に関しては、テキサス州の州境を拡張しようとする野心を隠さなかった。そのことが元々国境線が曖昧だった隣国との武力衝突を招いたのだ。
 彼の任期中の多くを費やした戦争で、ポークはアメリカに勝利に導いた。戦果として、広大なカリフォルニアを獲得したほか、戦争を終結させたされたグアダルーペ・イダルゴ条約により、メキシコ側に領土の三分の一程度を割譲させることに成功した。
 こうしてポーク大統領は現在、トランプ現職が「壁」を建設しようとしている米墨国境線の基礎を築いた“功労者”なのである。その代償であるかのごとく、ポークは大統領退任後、わずか三か月で急死することとなった。死因はコレラと見られている。

 

2018年6月16日 (土)

アメリカ合衆国大統領黒書(連載第9回)

9 ウィリアム・ヘンリー・ハリソン(1773年‐1841年)

 ジャクソニアン・デモクラシーの脆弱な継承者・第8代ヴァン・ビューレン大統領を破り、新たな時代を拓いたのは9代大統領ウィリアム・ヘンリー・ハリソンである。ニューヨーク出身のヴァン・ビューレンに対し、ハリソンはバージニア州の古い奴隷プランテーション経営者の家に生まれた。
 ここで再びバージニアの「名門」奴隷所有者という初期アメリカ支配層に政権が戻ったことになる。ただし、ハリソンはジャクソニアン・デモクラシーを専制的・反動的と批判し、産業発展のためのインフラ整備や国立銀行の創設、保護関税といった連邦主導の重商主義的「経済計画」を提唱して台頭したホイッグ党から当選した初の大統領という新しさもあった。
 しかし、経歴の点ではジャクソン同様、軍人出身であり、対先住民掃討作戦に参加した。特に米英戦争渦中、英国と連携する強力な部族であったショーニー族指導者テカムセを戦死させたテムズの戦いに勝利し、白人社会の英雄となった。
 こうした履歴を引っさげて政界に転身したハリソンは1836年大統領選でヴァン・ビューレンに敗北したものの、次期40年大統領選では「戦争の英雄」を前面に宣伝する派手なイメージ選挙運動を展開し、当選を勝ち取ったのだった。
 ところが、不運なことに、就任時68歳のハリソンは1841年3月、まだ寒風の吹く日にコートを着用せず、ほぼ二時間近い就任演説を行った強がりがたたり、肺炎を起こして就任からわずか31日で死去、史上最短在任大統領という不名誉な歴史を作ることとなった。


10 ジョン・タイラー
(1790年‐1862年)

 現職大統領急死という史上初の事態を受けて、取り急ぎ政権を継承したのが、副大統領ジョン・タイラーであった。もっとも、当時の合衆国憲法では副大統領の自動昇格は規定されておらず、憲法上は疑義が残ったため、「棚ぼた政権」と揶揄されることとなった。
 タイラーもハリソン同様、バージニア州の奴隷所有者の出身であり、所属もホイッグ党であったが、大統領としての彼はホイッグ党の綱領の大半に反して、南部諸州の権限擁護、南部の領土拡張策などを追求する守旧的態度をとった。 
 またタイラーは奴隷制を悪と認識し、自身の所有奴隷については厚遇していたと言われるが、南部奴隷州の権限擁護という守旧的姿勢から、奴隷制廃止を提起することはなかった。
 与党ホイッグ党に敵対したため、党を除名され、史上初の無党派大統領となったタイラーは議会を軽視する独裁的手法でたびたび議会と対立、在任中拒否権発動は9回にも及んだ。こうした脱ホイッグの集大成は政権末期のテキサス併合問題であった。
 元メキシコに属したテキサスはアメリカ人入植者による独立戦争の結果、「テキサス共和国」として分離独立していたところ、タイラー大統領はホイッグ党の反対を押して、テキサスのアメリカ併合・テキサス州成立を承認したのである。
 タイラーは1844年大統領選に出馬して再選を目指したが、この選挙ではテキサス併合問題が大きな争点となり、反対派のホイッグ党と賛成派の民主党という対立構図が作られていた。
 しかし、タイラーは併合賛成派の民主党からも支持を得られず、国民民主共和党なる小政党を結成して出馬せざるを得なかった。敗北は目に見えており、票の分裂を恐れた民主党からも引退要請を受けたタイラーは結局、大統領選からの撤退を余儀なくされたのである。

2018年5月21日 (月)

アメリカ合衆国大統領黒書(連載第8回)

8 マーティン・ヴァン・ビューレン(1782年‐1862年)

 第7代ジャクソン大統領による「ジャクソニアン・デモクラシー」は、引き続いて副大統領マーティン・ヴァン・ビューレンが第8代大統領に当選したことで、さらに四年間継続されることになった。とはいえ、ヴァン・ビューレンの経歴は前任者とはかなり違っていた。
 まず彼はニューヨーク州の出身であり、アメリカ独立宣言署名後に生まれた初の大統領であった。またニューヨーク(旧ニューアムステルダム)を建設した初期オランダ移民の子であった。様々な点で、初記録を持つ大統領である。
 一方で、生家があまり豊かでないため、十分な高等教育を受けることなく、徒弟修業的なプロセスを経て弁護士となり、成功を収めた点では、非名門の「庶民」の政治を強調した「ジャクソニアン・デモクラシー」の風潮に合致した人物であり、ジャクソンが副大統領に指名しただけの理由はあった。
 しかし、大統領としてのヴァン・ビューレンは成功しなかった。その主要因は、不運にも就任年度に始まった恐慌(いわゆる1837年恐慌)にあった。恐慌自体の原因論は本稿の主題から逸れるのでここでは詳論しないが、ヴァン・ビューレン政権期を越えて1840年代全般に余波の及んだこの恐慌には、ジャクソン前大統領の政策も関わっていた。
 特にジャクソンが連邦中央銀行に反対する教条主義的な発想から第二次合衆国銀行の免許延長を拒否したことに加え、正貨主義に基づく正貨流通令は地方銀行の破綻を招いた。ヴァン・ビューレンの就任は恐慌発生の5週間前であり、直接の責任はないはずだが、前政権の副大統領だったことで間接的な責任は免れなかった。
 他方、大統領としても恐慌に対して適切な対策を取ろうとせず、恐慌的デフレーションが彼の任期中続いたことで、大統領としての能力にも疑問符が付けられ、失業や負債に苦しむ大衆の怨念が募った。
 結局のところ、「ジャクソニアン・デモクラシー」の無為な延命者でしかなかったヴァン・ビューレンは先住民政策でも強制移住法を継承し、武力による土地の侵奪を継続した。もっとも、この面で白人有権者の反感を買うことはなかったのであるが、40年大統領選挙では再選を果たせず、一期で去ることになる。
 しかし、返り咲きへの執念は持ち続け、48年大統領では新党・自由土地党の候補者として出馬した。自由土地党は、ジャクソン、ヴァン・ビューレン両政権の与党であった民主党から分離し、奴隷制度が存在しない土地という意味での「自由土地」の推進を最大綱領とする当時としては進歩的な政党であった。
 とはいえ、自由土地党は西部開拓地における新規の奴隷州拡大に反対するものの、既存奴隷制度そのものの廃止には踏み込まない中途半端な立場に終始した。提訴力に欠け、ヴァン・ビューレンは10パーセントの得票率にとどまり落選、返り咲きは果たせなかった。
 もっとも、奴隷制に関するヴァン・ビューレンの比較的にリベラルな姿勢は長寿を保った最晩年の1860年大統領選で反奴隷制を掲げるリンカーン大統領候補を支援する立場を取らせ、リンカーン政権の成立に一役買ったことは特筆してよいことかもしれない。

2018年4月26日 (木)

アメリカ合衆国大統領黒書(連載第7回)

7 アンドリュー・ジャクソン(1767年‐1845年)

 アンドリュー・ジャクソンの名はこれまでにも数回登場しているが、それは先住民虐殺を指揮した冷酷な軍人としてであった。彼は大統領就任前から黒書に記すべき黒歴史を持つ人物である。その代表的なものは、クリーク族とセミノール族への民族浄化作戦であった。
 ジャクソンは職業軍人ではないが、13歳で大陸軍に義勇参加し、独立戦争の従軍経験を持つ人物としては最後の大統領となった。先住民虐殺作戦を指揮した頃は、当時ジャクソンが弁護士兼奴隷プランテーション経営者として移り住んでいた辺境地テネシーの民兵隊(州軍)に参加していた。
 このようにジャクソンはテネシーを地盤に対先住民強硬派として台頭し、大統領候補指名を獲得した点で、それまでの歴代大統領とはかなり異なる履歴を持っていた。出自的にも、父の代に移住してきた北アイルランド移民の子であり、古くからアメリカに土着した裕福な「名門」ではないため、十分な高等教育を受けておらず、様々な職を遍歴している。
 そのため、彼は二度目の出馬となった1828年の大統領選では「庶民」の代表者を標榜し、東部名門エリート出自の現職アダムズに挑んだのである。この選挙は、アダムズの項でも触れたように、史上初の汚いネガティブキャンペーンが展開されたが、その勝者は「戦争の英雄」イメージを売り込んだジャクソンであった。
 「ジャクソニアン・デモクラシー」の標語で知られるジャクソン大統領の政権運営は正式な閣議によらず、「キッチン・キャビネット」と揶揄された内輪的な外部の識者の非公式会合によることが多かった。そうした内輪のジャーナリストには、政権賛美の提灯記事を書かせて世論操作を行なった。
 こうした内輪重視の政権運営は、政府の官僚も大統領支持者からの自薦他薦による政治任命とする猟官制の導入へとつながった。政府官僚を短期間で入れ替えるこの制度は汚職防止に資するという触れ込みだったが、実際は大統領中心の権威主義的な政権運営の道具であった。
 ジャクソンは「庶民」の味方を標榜したが、この「庶民」とは彼のような白人開拓者を意味しており、先住民は明白に敵であった。ジャクソンの最も悪名高い政策として、先住民の集団強制移住がある。これは「インディアン移住法」を通じて先住民を不毛な西部の保留地へ囲い込む政策である。
 こうした強硬姿勢の裏には、「奴ら(先住民)には知性も勤勉さも道義的習慣さえない。奴らには我々が望む方向へ変わろうという向上心すらないのだ。我々優秀な市民に囲まれていながら、なぜ自分たちが劣っているのか知ろうともせず、わきまえようともしない奴らが環境の力の前にやがて消滅しなければならないのは自然の理だ。」という演説に象徴される確信的な白人優越思想があった。
 奴隷制に関しても、自身多数の黒人奴隷を所有する農園経営者でもあり、奴隷制廃止論者を嫌悪していた。もっとも、奴隷制擁護のようなイデオロギー的な問題に関しては、ジャクソン政権で最初の副大統領を務めた保守理論派のジョン・カルフーンに委ねられた部分が大きかった。
 ジャクソンは連邦に対して州の権限を尊重する州権主義者であり、その観点からマディソン政権下で創設されていた中央銀行(第二次合衆国銀行)の免許更新を認める法案に拒否権を発動した。その結果、金融政策の司令塔を失い、乱立された州銀行の多くが経営難となり、二期目任期末年の1837年恐慌とその後の長期不況の要因を作った。
 ジャクソンは中央銀行は庶民の利益にならないとも主張していたが、庶民の味方ジャクソンが1835年、失業した塗装工の男に銃撃され、史上初の大統領暗殺未遂に遭ったのは皮肉なことであった。ちなみにこの時、ジャクソンは群衆の面前で、取り押さえられた犯人をステッキで殴打したと伝えられるが、これも彼らしい「庶民的」な演出であったのだろう。
 名門エリートに対抗して「庶民」を強調する「ジャクソニアン・デモクラシー」の実態とは、選挙権(白人男性選挙権)の拡大を背景に大衆煽動と世論操作を手法とする白人ポピュリズムの先駆とも言え、これは遠く21世紀の現職トランプ政権の性格に最も酷似しているように思われる。

2018年4月 5日 (木)

アメリカ合衆国大統領黒書(連載第6回)

6 ジョン・クインジー・アダムズ(1767年‐1848年)

 第6代大統領ジョン・クインジー・アダムズは第2代ジョン・アダムズ大統領の子息であり、政治職の世襲を認めない米国にあって、現時点で二組しかない父子二代大統領のうち、最初の例に当たる。同時に、いわゆる「建国の父」の子女世代からの初の大統領という初記録に覆われた人物である。
 恵まれた政治一族の生まれにふさわしく、クインジーはヨーロッパでエリート教育を受け、多言語を身につけたうえ、帰国後はハーバード大学を卒業して弁護士となった。今日でも米国の政治家登竜門として有力なコースを歩んでいる。
 彼の政治歴は若干26歳の時、初代ワシントン大統領からオランダ担当閣僚に任命された時に始まっている。その後も父アダムズ政権を含む複数の政権でロシア担当閣僚や英国大使などを務め、外交で活躍した国際派であり、一代前のモンロー政権では二期にわたり国務長官を務め、モンロー主義外交の実務を担当した。
 クインジーは、こうした外交の実績を引っさげて1824年大統領選挙で勝利したのであった。しかし、大統領としてのクインジーの事績は芳しいものとはならなかった。前任モンロー大統領の下では民主共和党の実質的な一党政となり、「好感情の時代」と称される安定した政局であったが、24年大統領選がこの平穏を破ったからである。
 民主共和党がクインジーを支持する連邦主義的なグループと彼の対抗馬であった強硬派アンドリュー・ジャクソンを支持する州権主義的なグループに分裂し、クインジー派が国民共和党を名乗って分離したのである。その結果、クインジーの政権ではジャクソン派からの議事妨害が激化し、重要法案が通らないなど「呪われた政権」とまで称された。
 この対立はクインジーが再選を目指した28年大統領選に持ち越され、その後の米大統領選の宿痾となるネガティブ・キャンペーンが展開された。勝利したのは、かのジャクソンだった。結局、クインジーは父と同様に一期で大統領の座を去ることになった。
 この史上初のネガティブ・キャンペーン選挙で特に中傷されたのは、クインジーの先住民政策であった。クインジーはジャクソンのように武力により先住民から土地を奪うのではなく、条約に基づいて土地を購入するという穏健な方法を主張し、すでに白人が侵奪した土地についても再交渉しようとしていた。これが手ぬるいとして攻撃されたのだった。
 こうした施策からも見えるとおり、クインジーには良識的な一面があり、そのことは彼の奴隷制廃止論にも現れている。またしても史上初めて、かつ唯一、大統領退任後に改めて下院議員に転じたクインジーは、議会における奴隷制廃止派の代表格として南部の奴隷所有者層に対抗したのである。
 テキサス州を獲得した米墨戦争を南部奴隷州拡大の企てとして批判した彼は、いずれ米国が奴隷制をめぐって分裂し、内戦となることを予見していた。そうした点では、後のリンカーン大統領の予言者とも言える人物であった。
 クインジーは有能な外交家であり、「黒書」に含めるには惜しい良識と信念の人であったと思われるが、むしろそれゆえに、白人の「自由の帝国」を志向して対内的にも対外的にも膨張を続けていた合衆国民の野心と相容れず、大統領としては失敗者に終わったのだろう。

2018年3月26日 (月)

アメリカ合衆国大統領黒書(連載第5回)

5 ジェームズ・モンロー(1758年‐1831年)

 外交史における「モンロー主義」で記憶されている第5代大統領ジェームズ・モンローは、独立宣言に署名した「建国の父」以外から出た最初の大統領である。実際のところ、モンローは独立戦争に従軍し、独立前の植民地代表機関・大陸会議(連合会議)の代議員を歴任しているため、米国史上はモンローも「建国の父」に含めることが多い。そう見れば、モンローは「建国の父」世代最後の大統領とも言える。
 事実、彼もまた前任者たちと同様、バージニア州出身であるが、生家はつましい中流農園だった。そのため、彼の夢は実家を越える大農園主になることであったが、その夢は早くに諦め、政治の道に入った。その際、実家の農園を売却していたが、別に奴隷付きの小農園を保有し、奴隷を酷使していた。
 彼を有名にしたのは、最初に述べたように、合衆国外交の基本方針となった「モンロー主義」であった。この原則は南北アメリカに対する西欧列強の植民地化を以後認めず、西欧列強による新大陸干渉に反対するという南北アメリカ大陸全域での「独立宣言」にほかならない。
 これにより、中南米各国の独立が促進され、今日につながるラテンアメリカの地政学的勢力図が形成されたので、モンロー主義は歴史を大きく変える意義を持ったと評価される。しかし、この政策の裏には、若く不安定な諸国の多いラテンアメリカを合衆国の「裏庭」として自己の勢力圏内に収めようという帝国主義的狙いがあった。
 その一方で、モンローは合衆国内での白人開拓地を拡大すべく、先住民排除政策を推進した。その際、モンローは絶滅、強制移住、同化の三つを巧みに使い分けようとした。絶滅に関しては、一期目初年の1817年に発動したフロリダのセミノール族虐殺作戦がある。この作戦で司令官として派遣され名を上げたのが、後に大統領となるアンドリュー・ジャクソンであった。
 強制移住に関しては、二期目任期末年の1825年に議会を動かして強制移住法案を上程させたが、これは任期中に実現せず、後にジャクソン政権下で本格的に始動した。先住民を狩猟民から農耕民に転換させるという同化に関しては、先住民の文化的抵抗もあり、容易に実現しなかった。
 モンロー主義の他に彼の名を歴史に残したのは、アフリカのリベリアの首都モンロビアである。大西洋をまたいだ遠くアフリカの地に彼の名が刻まれたのは、モンローがリベリアへの奴隷帰還政策の強力な支持者として、任期中にもこれを推進したからである。
 モンローは大統領就任前、バージニア州知事在任中にたびたび奴隷の反乱事件に遭遇し、特に1800年には反乱グループによるモンロー知事誘拐計画が発覚したが、彼はこうした反乱事件には徹底した鎮圧策で応じていた。彼は奴隷制度を悪と認識していたが、それを英国のせいにし、奴隷制度廃止論を打ち出す代わりにアフリカ帰還という追い出し策を支持したのである。
 モンローは公然とレイシストの信条を口にするほど無神経な人間ではなかったけれども、国務長官時代にユダヤ系外交官を解雇したことがあり、反ユダヤ主義者でもあったと見られる。
 モンローの「名言」として知られる「この大地は、最大多数の人類を養うために与えられたのであり、特定の民族や国民は、自らの生活と安らぎに必要な分以上に、他者が欲するものを差し控えさせる権利を持たない。」という言葉も、表面上は英米で普及していた功利主義哲学の表現であるが、彼にとっての「最大多数」とは自らを含む白人を指していたことは明白である。

2018年3月 5日 (月)

アメリカ合衆国大統領黒書(連載第4回)

4 ジェームズ・マディソン・ジュニア(1751年‐1836年)

 第4代ジェームズ・マディソン大統領は、アメリカ独立宣言に署名した「建国の父」としては最後の大統領である。彼も前任ジェファーソンと同様にバージニア州出身で、生家は奴隷を所有するタバコ農園主というこの時代のアメリカ支配階級のまさに代表者であった。
 にもかかわらず、彼が歴代大統領の中で比較的好感されているのは、合衆国憲法の主たる起草者であり、なかんずく後から追加された人権宣言に相当する修正10箇条の起草者として名を残したからである。彼は抑制と均衡を旨とする権力分立とともに多数派の専制から個人の権利を擁護するという自由主義政治哲学の主唱者でもあった。
 しかし、マディソンのこうした自由主義の真意は、自身が出自した地主階級の利益の護持という点に隠されていた。実際、彼は将来地主階級が少数派に転落し、弱体化した場合を想定し、憲法は多数者に対抗して少数の富者の私有財産を守るために定立されるべきものと論じていたのである。
 また奴隷制に関しても、南部経済の重要な要素として存続を支持する典型的な南部人であり、前任ジェファーソンのように奴隷制廃止の思想と経済的社会的現実との間で道徳的な葛藤を示すこともなかった。その代わり、彼は大統領就任の前後を通じて、奴隷のアフリカ帰還運動の主唱者となり、大統領退任後の1830年代にはアフリカのリベリア植民地に奴隷を帰還させる役割を担ったアメリカ植民地協会の会長を務めている。
 大統領時代のマディソンはアメリカ史上最初の対外戦争となった米英戦争を指揮したことで記憶されている。米英戦争は表向きはまさに米国と旧宗主国英国との戦争であったが、その裏には先住民戦争という性格も色濃かった。実際、独立以後、白人入植活動の活発化につれ、先住民諸部族の抵抗も激しさを増しており、その先住民勢力を旧宗主国の英国が影で支援しているとみなされていたのだ。
 両国の準備不足もあって、膠着状態のまま3年近く続いたこの戦争の最大の犠牲者は先住民であり、多数の部族が殺戮され、土地を追われた。先住民が排除された土地は、当然にも白人植民者の新たな開拓地となった。
 もっとも、マディソン自身は先住民に対して保護者的な立場で臨み、白人入植者から先住民の土地を守る大統領令も発したが、これに異議を唱え拒否したのが、後に大統領にのし上がる米英戦争の「英雄」アンドリュー・ジャクソンであった。
 米英戦争中、アメリカ経済はインフレと財政赤字に見舞われ、独立以来最悪状況に陥った。マディソンはかねて連邦政府の権限拡大に反対する民主共和党の中心人物であったため、中央銀行の設立にも消極的であったが、戦費調達の必要から、最初の任期中に失効していた中央銀行を復活させた(第二次合衆国銀行)。
 この第二次合衆国銀行はマディソン大統領二期目任期の最終盤に業務を開始し、彼の置き土産となったが、白人の西部開拓を奨励するための無規律な貸付と大量の紙幣発行がインフレを助長し、マディソンの退任後、銀行の強硬な貸付金回収措置は1819年恐慌の引き金を引くことにもなる。
 米英戦争を機とするマディソンの日和見主義は、英軍による首都ワシントン焼き討ちと大統領の一時的な避難という屈辱的体験を経て、強力な連邦軍の保持に反対する持論を撤回し、今日の米軍に通じる強力な連邦軍の保持を支持するようにもなったのである。

2018年2月19日 (月)

アメリカ合衆国大統領黒書(連載第3回)

3 トーマス・ジェファーソン(1743年‐1826年)

 トーマス・ジェファーソンもまた「建国の父」の一人であるが、彼は政治哲学者でもあり、独立宣言の起草者となるなど、アメリカ合衆国の基層を成すイデオロギーの面で歴史的に重要な役割を果たした人物である。
 彼が初稿をものした格調高い独立宣言文はその実、自らが関わった先行のバージニア憲法などの憲法文書からの引用と継ぎはぎであったうえ、前回も見たように、初稿にはあった奴隷制廃止に関わる文言がアダムズの手により削除されたことで、空疎なものとなってしまったのだった。
 こうした経緯がジェファーソンとアダムズの関係を悪化させ、ジェファーソンは来る19世紀へ向けた節目となる1800年度大統領選挙に際しては、アダムズ大統領の再選を阻止すべく、アダムズが属する連邦党に反対する民主共和党から立候補し、当選を果たした。この連邦党対民主共和党の対立関係は、今日までアメリカ政治を規定し、その民主主義の発展を制約する二党支配政の萌芽となった。
 こうして満を持して第3代大統領となったジェファーソンは、今日の用語で言えば「リベラル」な政策を展開し、アダムズ前政権下の外国人及び煽動諸法の撤廃とそれによる被拘束者の釈放に努めた。しかし、奴隷解放に関してはジェファーソン自身奴隷制廃止論者を標榜していながら、政策的に進展させることはなかった。
 実際、彼はアダムズを僅差で破った大統領選挙でも、当時奴隷は選挙権を与えられていないにもかかわらず、奴隷人口の四分の三を州の有権者数に加算して選挙人数を割り当てるという歪んだ間接選挙制度の恩恵を受けていたため、“ニグロ大統領”などと揶揄される結果を招いていた。
 また、ジェファーソンは、現職トランプ大統領が会見で引き合いに出したことで波紋を呼んだように、個人的にも奴隷所有者であった。しかも、先立たれたマーサ夫人から相続した奴隷サリー・ヘミングスと事実婚関係にあり、複数の子どもをもうけたが、この事実を厳重に秘匿し、内縁妻のヘミングスさえも奴隷身分から解放しようとしなかった。
 ヘミングスは白人と黒人の混血の母と白人の父との間に生まれた四分の一黒人であり、外見上は白人化していたものと思われる。しかも、彼女はマーサ夫人と父を同じくする異母姉妹関係にあったとされる。こうした特殊事情が内縁関係につながったのだろうが、ジェファーソンは公式には異人種間婚姻に否定的であり、ここにも言行不一致が見られる。
 彼は思想的には奴隷制廃止論者ながら、終生経済的に多額の負債を抱えており、奴隷をその「担保物」として差し出していたため、奴隷を解放しようにもほとんどできなかったと弁明的に評されることもあるが、その思想上も黒人を白人より心身両面で劣った人種とみなし、同じ政府の下で共生できる存在ではないとする考えを捨てることはなかった。
 ましてや、アメリカ先住民に関してはより明白に排除の論理を有し、「アメリカ(白)人はインディアンどもを、森のけだものと一緒にストーニー山脈の奥へ押し込まなければならない」とか、「我々(アメリカ白人)は、かれら(先住民)のすべてを破壊する」などと公然と民族浄化を主張する人物でもあった。
 黒人観を含めた彼の人種観には後世の優生学思想の萌芽を思わせるものがあり、これがひいてはジェファーソンが構想し、現在まで合衆国の基本イデオロギーである「自由の帝国」(Empire for Liberty)―すなわち白人帝国主義―の土台となっているものと推察されるのである。
 ちなみに彼は、個人が武器を所持する自由の強力な擁護者でもあり、「非武装者は武装者よりも高い確率で攻撃されるかもしれないので、殺人を防ぐよりは奨励する」と論じて、個人の武器所持の自由をイデオロギー化している。
 こうした「自由」(リバティー)の空疎なイデオロギー化への寄与という点において、、まさしくジェファーソンこそは「アメリカン・イデオロギーの父」だと言えるだろう。

2018年2月 5日 (月)

アメリカ合衆国大統領黒書(連載第2回)

2 ジョン・アダムズ(1735年‐1826年)

 ジョン・アダムズは、ワシントン初代大統領の下、副大統領を二期務めた後、引き続いて第2代大統領に選出された。そのような経緯から、初代の影に隠れて目立たない宿命を負うこととなったが、アダムズも17世紀の古い開拓移民一族にルーツを持つ「建国の父」の一人である。
 アダムズの出自バックグラウンドはワシントンとは大きく異なる。アダムズはハーバード大学出身、法廷弁護士の経歴を持つが、その点で弁護士が政界への有力な登竜門となる米国の伝統の始まりを成す人物であった。しかも、ワシントンのような奴隷所有者でもなかった。そのため、アダムズは終生奴隷を所有することはなかったが、奴隷制廃止論者でもなく、彼の奴隷制に関する考え方は「棚上げ論」であった。
 そのことは、アメリカ独立宣言起草時から顕著であった。後に彼の再選を阻止して第3代大統領となるトマス・ジェファーソンが起草した独立宣言には当初、奴隷廃制止に関わる文言が予定されていたところ、奴隷所有者層が少なくなかった「建国の父」の間で異論が起き、分裂危機に直面したため、アダムズの仲裁により文言が削除されたのである。
 これにより、独立宣言は奴隷制廃止に言及せず、当初の合衆国憲法にも奴隷制禁止規定は置かれないこととなった。大統領となっても、アダムズは奴隷制に関しては議論しないことを主義とした。こうした態度は合衆国の分裂を避けるための法律家らしいプラグマティズムと評することもできるが、棚上げすることで合衆国における奴隷制廃止を、独立革命で倒した旧宗主国英国よりも遅らせる要因となった。
 一期だけで終わったアダムズ大統領の事績として特筆されるのは、外国人及び煽動諸法の制定である。これは米国市民権の取得要件を厳格化する改正帰化法、危険外国人の強制退去措置を定める友好的外国人法、戦時下での敵性外国人の強制収容・退去措置を定める適性外国人法、政府に対する虚偽・中傷文書の出版を禁止する煽動法という四法から成る総合治安立法であった。
 違憲論を押して推進されたこの立法は当時、フランスと敵対関係に陥り、戦争危機にあったという状況下での対策措置であったが、内容的には移民・外国人排斥と言論統制を強化するものであることは明らかであり、このうち適性外国人法はその後も存続し、第二次大戦当時の悪名高い日系人強制収容政策の根拠法としても援用された。
 それ以外の法律は時限法として改廃されたとはいえ、「自由」と「移民」の国と評されてきた合衆国の根底にある抑圧の要素を先取りする内容を有し、その潜在要素が入国規制の強化や「国境の壁」の建設に動き、かつ政権批判言論を「虚偽報道」とみなして排斥しようとする現職トランプ大統領の下で再び活性化されようとしているとも言えよう。
 大統領としては一期で終わったアダムズだったが、彼の子孫は第6代大統領となったジョン・クインシー・アダムズをはじめ、東部マサチューセッツを地盤に政治家を多く輩出する東部エリート政治門閥の先駆けともなった。その意味では、アダムズこそ公式の貴族制度を持たない米国におけるブルジョワ・エリート支配の創始者とみなすこともできる。

2018年1月11日 (木)

アメリカ合衆国大統領黒書(連載第1回)

小序

 アメリカ合衆国大統領(以下、米大統領と略す)は、国民の投票によって選出される世界初の国家元首として、初代ジョージ・ワシントンから現職ドナルド・トランプに至るまで45代を数える。
 米大統領は国王―王冠なき国王―になぞらえられるほど、君主に近い広範な権限を保持しながら、その200年以上の歴史の中で、これまでのところ専制的な独裁者を出さない仕組みを維持してきたため、民主主義の象徴として称賛されることが多い。
 実際、初代ワシントンをはじめ、「偉人」として語られる歴代大統領は多い。筆者も少年期に何人かの米大統領の子供向け偉人伝を読まされた記憶がある。たしかに、表面的に見れば米大統領は「偉人」揃いなのかもしれないが、物事には必ず裏面がある。
 当連載は目下、トランプ現職大統領が歴代米大統領とは異質に見える大統領像を示して国際的にも論議を呼び、改めて合衆国大統領に対する関心が高まっている中、現職と比較対照される歴代米大統領の「裏の顔」をあぶり出そうといういささか意地の悪い試みとなる。
 具体的には、初代ワシントンから最直近の44代オバマまでの44人の米大統領について、表に出ない「裏の顔」を一人ずつ探っていく。その際、人格的な中傷に及ぶのではなしに、あくまでも公的に記録された大統領としての事績に潜む裏面をあぶり出す手法による。前置きはこれまでとし、早速本論に入っていこう。


1 ジョージ・ワシントン(1732年‐1799年)

 ジョージ・ワシントンは、アメリカの首都ワシントンにその名を恒久的に残した言わずと知れた初代大統領である。その他、西海岸のワシントン州や現代の原子力空母ジョージ・ワシントン号に至るまで、ワシントンの名を冠した事物は多く、現代でも崇拝されている初代である。
 ワシントンは独立前のバージニア植民地で、プランテーション経営者の家庭に生まれた。ワシントン家はジョージの曽祖父が17世紀に英国から移住してきた古い移民一族であり、中流ではあったが、その時代の習慣どおり、黒人奴隷所有者でもあった。
 ジョージも代々のプランテーションを継承し、最盛期には300人を越える黒人奴隷を使役して、小麦栽培を中核に醸造にも手を広げる多角的なプランターとして成功していた。そうしたことから、大統領となってもワシントンは奴隷制に反対することはなく、大統領官邸に複数の家事奴隷を連行し、使用していた。
 記録によれば、ワシントンは「個人的に」奴隷制を嫌悪していたというが、そうした個人的な心情が奴隷制廃止に政策を導くことはなかった。それどころか、当時官邸が所在した進歩的なペンシルベニア州では州内に6か月居住する奴隷の解放を義務づけていたことから、官邸の奴隷使用人を自身の地元バージニアとの間で頻繁に入れ替える脱法行為をしてまで奴隷を維持していたのである。
 このような点で、ワシントンは南部奴隷州を代表する典型的な「名士」の一人だったのであり、であればこそ、初代大統領として旧13植民地を一つに統合することができたのであろう。ただ、彼が初代大統領となり得た決定的な理由は軍歴にある。
 ワシントンはアメリカ独立戦争時に創設されたレジスタンス組織で後の米軍の前身でもある大陸軍の総司令官を独立戦争期間を通じて務め、多くの戦果を上げている。これも米国正史上は大いに美化されているが、彼が独立戦争過程で多くの先住民を攻撃し、殺戮したことは故意に看過されている。
 ワシントンは先住民を蛮族視どころか、猛獣になぞらえてその絶滅を目標としていた。特に独立戦争過程で「敵の敵は味方」とばかり英国側についた東部のイロコイ族を標的とする1779年の大規模な掃討作戦では、革製品の素材とするためにイロコイ族の皮を剥いだとされるような非人道行為も辞さなかった。
 大統領就任後も、先住民を合衆国建設の障害物として絶滅させる民族浄化の考えを変えることはなく、新たに創設された正規陸軍による浄化作戦を継続した。こうしたことからも、先住民にとってのワシントンは独立の英雄などではなく、民族とかれらの町の破壊者なのであった。
 かくして、奴隷制と先住民絶滅という他民族の苦痛・流血の上にアメリカ白人合衆国の土台を築いたのは、まさしくワシントン初代大統領の「功績」なのである。その意味で、支配層白人種にとっての彼は「偉人」であるが、被支配層有色人種にとっては「悪人」である。

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