神道と政治―史的総覧

2018年2月15日 (木)

神道と政治―史的総覧(連載第12回)

四 神道の軍事化

神職武家の誕生
 武家支配体制が確立されると、有力神社の神職一族も次第に武装化し、武家化していく傾向を生じた。そうした神官武家の代表格として、前回見た熊野の関連の深い藤白鈴木氏がある。鈴木氏は神道の祖とも言える物部氏正統の古代氏族・穂積氏後裔を称し、熊野三山の一つ、熊野速玉大社の神職を世襲して強い勢力を持った熊野三党の一党を出自とする。
 鈴木一族は平安時代末期に武家化し、源氏方に付いて多くの軍功を上げた。その後、承久の乱では院方に付きながらもしぶとく生き延び、南北朝時代には一族が南朝方と北朝方に分裂したが、後者に付いた一派は伊豆の江梨に移住して江梨鈴木氏を興した。他にも、藤白鈴木氏は全国的に多くの分家を興して穂積姓鈴木氏の母体となった。
 次いで、東国では信州を拠点とした諏訪氏がある。諏訪氏は出雲神話の建御名方神(タケノミナカタヌシ)を神話上の始祖と称し―そうだとすると、出雲王権系出自の可能性あり―、古代より諏訪大社の神職・大祝を世襲してきた一族であり、鈴木氏同様、平安時代末期に武家化し、源氏方に付いて軍功を上げている。諏訪氏は鎌倉幕府御家人、次いで執権北条氏体制の下では北条得宗家被官(御内人)として勢力を持った。
 諏訪神社は源頼朝の崇敬と庇護を受けたため、東国の武神として東国武士の信仰を集め、勧請も盛んに行なわれたことから、諏訪神社が各地に普及する契機となった。諏訪氏を棟梁として諏訪神社氏人で固めた武士団は諏訪神党と称され、その結束力の高さを誇った。
 しかし、こうした鎌倉幕府との特段の結びつきから、幕府の滅亡時には一族の多くが運命を共にすることとなった。にもかかわらず、諏訪氏は神職としての宗教的威信を武器に、南北朝・室町時代を生き延びた。15世紀の文明年間には一族の内紛が発生したが、これを収束させた後はかえって勢力圏を拡大し、諏訪地方における戦国大名としての地位を確立していく。
 最後に、九州地方における神職武家として、阿蘇神社の神職・大宮司を世襲してきた阿蘇氏がある。阿蘇神社は土着性が強く、阿蘇氏の出自も元来は畿内王権から独立していた在地首長(阿蘇の君)の流れと見られる。畿内王権に服属してからは、朝廷から厚遇され、平安時代末期には地元武士団を統率するようになった。
 阿蘇氏も源氏方に付いて鎌倉幕府との結びつきを強め、かつ阿蘇社領が執権北条氏の預所とされたことで北条氏とも結ばれ、最盛期を迎える。しかし、南北朝時代には南朝側を強力に支持したため、北朝側から介入を受け、一族は分裂した。その後も阿蘇氏家中では内紛が常態化しながら、戦国時代には肥後守護職・菊池氏を下克上して戦国大名化していくのである。

2018年1月25日 (木)

神道と政治―史的総覧(連載第11回)

四 神道の軍事化

熊野別当と武家政権
 前章末尾で見たように、平安時代末の院政期になると、熊野三山が院の庇護を受けて政治的にも伸張したのであるが、熊野別当家は同時に軍事力も獲得するようになる。特に熊野水軍である。熊野水軍は紀伊半島南東部の熊野灘、枯木灘に面した地域を拠点とし、この時代の在地水軍勢力の例にならい、海賊を兼ねていた。
 熊野別当家はこの熊野水軍の統制権を掌握し、かれらを通じて瀬戸内海方面にもにらみを利かせた。一方で、武装化した熊野山衆徒も配下に抱え、一定の地上戦力も擁していた。
 そうした軍事力を背景に、熊野別当家は源平両氏の台頭期を生き延びていく。中でも平清盛と同時代の第18代別当湛快は清盛を支援し、平治の乱でも平氏の勝利に貢献して、平氏との密着関係を強めた。しかし、当時の熊野別当家は新宮別当家と田辺別当家の二大勢力に分かれ、源平両氏のいずれに付くかで内紛の様相を強めていた。
 折りしも清盛の死後、第21代別当に就任した湛増(前記湛快の次男)は、源平両氏の抗争が激化する中、両陣営から支援を要請されたため、一説によれば闘鶏で占いをしたと伝えられるほど、源平抗争の中で難しい舵取りを迫られていた。
 実のところ、湛増は当初、父の路線を継いで親平氏派であったのだが、親源氏派であった新宮家との戦闘に敗れたことや、平氏政権の瀬戸内海方面への勢力拡大を不満とする熊野水軍勢力の意向も汲み、親源氏派に乗り換えたのである。ちなみに、源義経の半伝説的な従者・武蔵坊弁慶が湛増の庶子と伝えられることも、弁慶以上に湛増と義経の結びつきを示唆するものかもしれない。
 実際、義経から平氏追討使に任じられた湛増は、源平最終合戦の壇ノ浦の戦いに自ら熊野水軍を率いて参戦、源氏の勝利に貢献した。この功績により、湛増は源頼朝から上総に所領を安堵されるとともに、熊野には地頭守護職を置かずに別当家の直接支配を維持するある種の自治特権が保証されたのである。
 熊野別当家はこうして財政的にも強大な地頭兼自治的領主として鎌倉幕府の機構に組み込まれていった。しかし、承久の乱が転機となる。この乱は熊野三山の伝統的な庇護者であった院と政治的な恩顧を受ける幕府の抗争であったため、両者の板ばさみとなった熊野別当家はいずれを支持するで家中が分裂、混乱した。
 乱が幕府勝利に終わると、幕府は息のかかった鶴岡八幡宮別当・定豪を熊野三山検校職に任じるとともに、乱で上皇方に付いた熊野反徒の追及を徹底し、熊野への統制を強めた。幕府も執権北条氏に乗っ取られて久しい14世紀に入ると、熊野別当家は勢力を失い、14世紀半ばを最後に史料上からも姿を消したのである。

2017年12月30日 (土)

神道と政治―史的総覧(連載第10回)

三 律令的神道祭祀の確立

院政と熊野信仰
 平安時代までに日本神道のあり方として定着した神仏習合が平安末期の複雑な政治情勢の中で独特の形態をまとって発現したのは、熊野信仰であった。紀伊の熊野には古くから山岳信仰の場として何らかの宗教的施設がすでにあったと考えられるが、いわゆる熊野三山として定着するのは、平安時代のことである。
 熊野の原信仰の内容は定かでないが、初期には修験道の霊場としてまず発展したと見られる。8世紀に役小角[えんのおづの]によって創始されたと伝えられる修験道という一種の神秘主義的宗教実践自体が神仏習合の土俗的な表象であり、修験者は祝とも僧とも取れる独特の宗教実践者であった。
 一方、仏教側では平安時代から浄土教の信仰が王侯貴族の間で隆盛化しており、神秘性を湛えた熊野が浄土と同視されるようになった。そうした中で、熊野本宮、熊野速玉、熊野那智の三大神社が有力化し、各社の祭神が仏教の如来や菩薩と同視される形でまさに神仏習合社として発展していったのだった。
 熊野三山は元来、別個の神社として発展してきたところ、平安初期には三山の統一が図られ、運営上も三山を統括する熊野別当職が置かれるようになっていた。熊野別当は神官ではなく、社僧であったが、仏僧が神社を管理するこの変則体制には、この時代の神仏習合が仏教優位のものとなっていたことを示している。
 とはいえ、熊野三山が単に宗教上のみならず、政治的にも強勢化した契機は歴代上皇の信仰と庇護を得たせいである。特に白河院の永久年間の参詣以降、上皇の熊野参詣が恒例化され、曾孫の後白河院の時代になると、30回を越す参詣を記録するまでになった。あたかも、熊野が院政の守護者となったかのごとくである。
 これに伴い、熊野別当の上に中央行政職として熊野三山検校が置かれたが、これは名誉職的存在で、熊野の行政管理はあくまでも熊野別当が執行した。熊野別当家は初代快慶に始まる世襲制であり、白河院から任命された長快以後、新宮別当家と田辺別当家に分裂しつつ、14世紀半ば頃まで続いていく。
 熊野別当は、院から寄進された所領を経営する封建領主となると同時に、熊野水軍の名で知られる軍事力をさえ掌握するようになり、平安末期に始まる武家の台頭という新たな情勢下で、武装化していくことにもなるのであるが、この神道の軍事化という事象については改めて次章に回すこととする。

2017年12月20日 (水)

神道と政治―史的総覧(連載第9回)

三 律令的神道祭祀の確立

鎮護国家と神仏習合
 
前回見たように、律令制の下、神道は神祇官によって中央管理される儀礼的な宗教として確立される一方、律令制確立期である奈良時代には、仏教が朝廷によっても高く奉じられるようになる。特に聖武天皇と光明皇后は仏教に深く帰依し、東大寺や国分寺の創建を主導、仏教を国家鎮護の支柱として据えた。
 このような鎮護仏教と神道の関係性は複雑であり、簡単にはとらえ難いが、さしあたり神道は天皇の権威の源泉であり、国家儀礼の支柱であるの対し、仏教は国家の精神性を補強する護国宗教として措定されたと言えるかもしれない。
 このような関係性は、神宮寺という新たな宗教施設の創出にもつながっている。神宮寺は古来の神社に付設された仏教寺院であり、その役割は神社に祭られた神々を守護することであったが、その根底には神道の神々を仏の化身とみなす本地垂迹思想があった。
 このような神宮寺は皇室祭祀の聖地である伊勢神宮にすら大神宮寺という名で存在した記録があるが、これは奈良時代末には廃絶したようである。理由は寺僧の乱妨によるとされるが、さすがに神道聖地への神宮寺付設は不適切とみなされたのかもしれない。
 神宮寺とは逆に仏教寺院を守護する鎮守社という宗教施設も創設され、その最も著名な例は藤原氏の氏寺である興福寺とその鎮守社・春日大社である。その他、聖武天皇肝いりの東大寺も九州の宇佐八幡宮を勧請する形で鎮守社とした。その本社宇佐八幡宮にも神宮寺として弥勒寺があった。また当初は平安京鎮護を目的とする官寺として創建された東寺は秦氏の氏神社であった伏見稲荷大社を鎮守社とした。
 このような神仏習合が政治的陰謀として発現したのが、宇佐八幡宮偽神託事件である。著名な事件の概要は省略するが、この件の発端は、時の女帝・称徳天皇の寵臣であった仏僧・道鏡の弟で大宰帥・弓削浄人〔ゆげのきよひと〕と大宰府で神祇を司る大宰主神の習宜阿曾麻呂〔すげのあそまろ〕が「道鏡に皇位を継がせるべし」旨の宇佐八幡宮神託が下ったと虚偽の奏上をしたことに始まる。
 事件の中心にあった道鏡自身、多くの門弟を育てた法相宗の高僧・義淵の門弟にして、禅にも通じた仏僧でありながら、祈祷や奇術も行なう男巫的な性格を併せ持つ“怪僧”であり、神仏習合を一身で体現した人物であったようである。
 この神託を通じた奇想天外な皇位簒奪未遂の陰謀は、勧請によって東大寺の鎮守社となり、その中央での権威を増した宇佐八幡宮が仏僧の道鏡と通じて皇位継承問題にまで関与しようとしたもので、神仏習合なくしては考えられなかった事件であろう。宗教の混淆が時に悪政も招く一例である。

2017年12月 8日 (金)

神道と政治―史的総覧(連載第8回)

三 律令的神道祭祀の確立

神祇官の創設
 持統天皇時代に最初の整備がなされ、彼女が準備した続く奈良朝下で完成を見た日本型律令体制においては、神道の管理も律令的統治の中に明確に位置づけられた。朝廷の祭祀を統括する神祇官の職制がそれである。
 神祇官は一般行政を統括する太政官とは別途、形式上はその上位に位置づけられる上級官署であったことからも、天皇王朝が統治上神道をいかに重視したかが看て取れる。
 もっとも、神祇官の長官職である神祇伯の官位は従四位下とされ、太政官長官職で実質的な宰相格であった左大臣の正二位または従二位相当に比較しても低位であったから、神祇官の優位性はまさに儀礼的な意味合いにおいてにほかならず、神祇官が国政において主導的な役割を果たすことはなかった。その意味では、律令的天皇王朝は厳密な意味での「祭政一致」ではなかったとも言える。
 とはいえ、神祇官の職掌は朝廷の祭祀に始まり、諸国の祝部名帳や神戸戸籍の管理、大嘗祭・鎮魂祭の挙行、巫や亀卜のような秘儀に至るまで、神道に関わるおよそすべての業務を司り、現代風に言えば宗務行政庁としての役割を果たした。
 神祇伯の初例は必ずしも明確でないが、記録上は大宝律令制定前、持統天皇に任命された中臣大嶋と目されることは元来、中臣氏が神官職を所掌してきたことからして順当である。中臣氏はやがて、持統天皇の寵臣として律令制整備に尽力し異例の立身を果たした傍系同族の藤原不比等の子孫のみが藤原姓を許されたことに伴い、本宗家中臣氏が神祇官職を歴任する家系として確立された。
 神祇伯は世襲職ではなかったが、大嶋以降、奈良時代中頃までは歴代中臣氏が独占しており、何代かの中断をはさんで大中臣氏と改姓し、さらに平安時代初期まで神祇伯を独占し続けた。言わば、祭祀は中臣氏が、政治は同族藤原氏が分担する体制ができたわけである。
 一方、実際の祭祀や亀卜など秘儀の実務を行なう職掌として、神部や卜部といった下級職があったが、中でも卜部は亀卜を主任務とする職掌であり、地方から卜術に優れた者が抜擢された。そうした中、その名も卜部氏が中央貴族集団として形成され、やがて天皇専属の亀卜職たる宮主職を独占するに至るのである。

2017年11月22日 (水)

神道と政治―史的総覧(連載第7回)

二 天皇制の創出と神道

第二次宗教改革:「天照神道」の確立
 仏教を定着させた蘇我体制(蘇我王朝―私見)は、半世紀ほど続いた後、7世紀半ばのいわゆる大化の改新によって倒され、旧王朝が復活した。この復活王朝(後昆支朝―詳しくは拙稿参照)は、二度と王権を簒奪されないためにも、君主(オオキミ)の権威を高める必要に迫られていた。
 その表れが「天皇」称号の創始であり、天皇王朝を支える律令的諸制度・機構の整備という事業であったが、それが本格化したのは、壬申の乱を経て権力を掌握した天武天皇の時代からである。天皇称号の使用も彼の時代からと言われるゆえんである。
 天皇という称号自体に天皇の至上性が表現されているが、形式的な称号だけでは足らず、宗教的なイデオロギーとしても、天皇は神の化身とみなされた。万葉集所収の天武代の和歌に、「大君は神にしませば」と詠まれたゆえんである。
 このような君主の神格化は、古代王権においては世界各地で見られるところであるが、日本の場合は古来の神道による権威付けが志向された。そうした権威付けの決定策として、新たな宗教改革が実行されたのである。その実行者は天武ではなく、その皇后で天武没後に皇位を継承した持統天皇である。
 持統主導で行なわれた宗教改革の本旨をひとことで言うなら、天照大神を最高神とする「天照神道」の確立である。従前の神道は王朝始祖・応神天皇=昆支大王が実行した第一次宗教改革における三輪山イヅモ神道を基調としていたところ、持統はこれを覆したのである。
 そのうえで、天照大神という女神とこれを祀る伊勢神宮を新たに皇室祭祀の中心に持ち出したのである。天照大神は元来、三輪山周辺の土着信仰上の神であったらしいが、第一次宗教改革の結果、排除されていたものを改めて再発見したのは持統特有のある種フェミニズムの反映であったと思われる(拙稿参照)。
 持統がこうした宗教改革―ある面では復古的宗教反動―を断行するに当たっては、まさに三輪山イヅモ神道の代弁者とも言える大三輪氏の職を賭した反対を受けたが、彼女は対抗上、藤原氏の助力を得て改革を貫徹したのである。
 後に天皇王朝下最強の貴族となる藤原氏―旧姓中臣氏―は、神話上の始祖が天孫降臨に随行したとされる伽耶系渡来人を遠祖とする豪族で、元は神と人とを媒介する霊媒者的な神官であったと見られる。かれらは仏教受容をめぐる内乱では反仏教派に与しながら、蘇我王朝下も生き延びた巧みな政略的一族であった。
 藤原氏の権勢をも高めた第二次宗教改革と「天照神道」の確立は、同時に行なわれた律令的天皇王朝制度の整備と相まって、天皇王朝の永続性を担保する精神的な土台となっていったものと思われる。
 ただし、第二次宗教改革後も仏教は排斥されず、むしろ天武‐持統時代には多くの官寺が建立され、仏教の国家管理化も推進されていたが、仏教は天皇制そのものの基礎というよりは、護国祈願的な観点からの国教という位置づけを持ち、天皇制の基礎となる神道とは役割が分担された二元的な国教体制が確立されていくことになる。

2017年11月 5日 (日)

神道と政治―史的総覧(連載第6回)

二 天皇制の創出と神道

宗教戦争:仏教との相克
 昆支大王による宗教改革の成果は永続的なものであり、その基本路線は以後、ヤマト王権により継承されていくが、6世紀の欽明天皇(大王;当時、天皇号はまだ存在しなかった)の時代になると、王朝開祖である昆支大王=応神天皇の神格化が大規模に行なわれる。
 その経緯は、別連載の拙稿で明らかにしたように、私見によれば昆支=応神天皇の孫に当たる欽明はクーデターにより異母兄らを排除して王位に就いた経緯から、自身の王権の強力な正当化を必要としており、それが祖父の神格化であったのだろう。
 そうした目的から開始されたのが、後に八幡信仰として定着していく新たな信仰体系である。実際、伝・応神天皇陵に隣接し、実質上最初の八幡宮と考えられる誉田八幡宮や、後世になって八幡総社の地位を獲得する宇佐神宮が欽明時代の由緒と伝えられることも、その裏付けとなろう。
 一方で、6世紀前半には仏教が王朝の先祖の地でもある百済から伝わった。伝来年には諸説あるが、552年説を採る『日本書紀』によれば、欽明自身は仏典と仏像を献上した百済の使者に欣喜雀躍したとあり、仏教を素直に受容しようとしたことが窺える。
 ただし、同時に、欽明は、仏教の取り扱いについて、一人では決めないとして慎重姿勢を取り、群臣に諮問している。ここで、蘇我氏と物部・中臣氏が意見対立したため、仏教は当面、擁護派の蘇我氏に預けることとされた。
 天国排開広庭天皇(あめくにおしはらきひろにわのすめらみこと)の和風諡号どおり、ヤマト王権の領土を大きく拡張した征服王でもあった欽明の長期治世が終わると、王権は彼の軟弱な息子たちのために後退していく。そうした中で、改めて仏教の扱いをめぐり、王朝を揺るがす動乱が発生する。
 仏教擁護派の先頭に立った新興の豪族蘇我氏は、私見によれば自身も百済系豪族であり、心情的にも権勢確立のためにも仏教に依拠しようとしていた。対して、仏教排斥派の巨頭であった豪族物部氏は、私見によれば、ニニギのライバルとも言える伽耶系渡来集団の長ニギハヤヒを祖とする古来の豪族である(拙稿参照)。
 物部氏は、昆支大王による百済系王朝樹立後も巧みに生き残り、昆支大王による宗教改革の過程で、大神神社の神班物者(かみのものあかつひと;神への供物を分かつ人)に一族の伊香色雄が任命されたことを契機に、宗教・軍事両面で権勢を持つ最強豪族集団に成長していっただけに、古来の神道を脅かす外来宗教には敵対的であった。
 こうして、仏教派と排仏派の衝突は不可避であった。しかしよく知られているように、この宗教戦争は蘇我・仏教派の勝利に終わり、蘇我氏は王権を実質上簒奪する地位に上り詰める(拙稿で述べたとおり、私見は名実ともに蘇我王朝が成立したと解している)。
 これ以来、仏教は政治とも密接に結びつくが、神道に完全に取って代わったわけではなく、二元的な形で独特の神仏並立体系が形成されていく。しかし、これは続く第二次宗教改革とも関連してくるので、稿を改めて取り上げることにする。

2017年10月23日 (月)

神道と政治―史的総覧(連載第5回)

二 天皇制の創出と神道

第一次宗教改革:イヅモ神道の導入
 神道はヤマト王権の祭政一致体制を支える宗教的基盤となり、やがて天皇制律令国家の制度的基盤ともなるわけであるが、そこへ至るまでの過程は想定されている以上に複雑である。
 すなわち、二つの大規模な宗教改革の間に内乱を招いた仏教の伝来と受容という経過が挟まれる。このような見方はあくまでも私見であって、決して通説的に確立されたものではないが、一つの管見として提示する。
 まず、前章では行論上やや曖昧にヤマト神道とイヅモ神道の接合ということを述べたが、このような接合が成るに当たっては、政変を契機とする宗教改革の介在が想定される。このことはすでに別稿で詳論したので、そちらへ譲るが、遅くとも4世紀前葉までに成立したいわゆるヤマト王権は5世紀後葉に王朝交代の政変を経験している。
 それは、九州北部を経由して東征してきた伽耶系渡来人を主体とする王朝から、帰化した百済王子が創始した百済系渡来人を主体とする王朝への交代である。ヤマト神道とイヅモ神道の接合が起きたのは、この政変で成立した新王朝の宗教改革の結果である。
 伽耶系王朝下のヤマト王権の宗教は、天孫降臨に象徴される始祖神話に、三輪山を聖山拠点とするヤマトの土着的な信仰体系を継承加味したものであったろうが、この旧王朝を倒した百済系王朝は新たにイヅモ神道を導入したのである。
 そこには、イヅモ王権との神聖同盟という外交的な新政策が大きく影響しているが、旧王朝系勢力を宗教面から統制支配するという内政的な目的もあったと考えられる。そうした宗教改革を主導した君主(オオキミ)が、正史上にいわゆる「応神天皇」―昆支大王―であった。
 三輪山をイヅモ神道系聖山に作り変えたこの第一次宗教改革は、後に見るように、およそ一世紀後に再び覆されるのであるが、イヅモ神道の接合という成果は永続した。
 実際、三輪山自体を本殿とする大神神社の主祭神である大物主大神はイヅモ神道における大国主の「和魂」(=安らかな魂)とみなされ、配神としてまさに大己貴神(=大国主神)を祀っているのである。なお、昆支大王による宗教改革の詳細に係る私見も別稿にて詳論したので、これも管見ながら参照願いたい。

2017年10月11日 (水)

神道と政治―史的総覧(連載第4回)

一 古代国家と神道の形成

ヤマト神道とイヅモ神道
 いわゆる古墳時代は、全国に16万基を越える膨大な数の古墳が特定されていることからもわかるとおり、極めて地域性の強い首長制国家の乱立時代であったが、その中から、畿内を拠点とするいわゆるヤマト王権が有力化し、やがて全国的王権へと発展する。
 この畿内王権の起源に関して、筆者はつとに朝鮮半島南部の伽耶諸国から九州北部への渡来勢力がさらに東征して創始したものという説を公表しているが、その根拠として、故国に当たる金官伽耶国の始祖神話と日本神話に投影されたヤマト王権の始祖神話―いわゆる天孫降臨―の類似性を挙げた(拙稿参照)。
 この天孫系神々―天津神―の故地である「高天原」は、海を越えた大陸の暗示であり、「降臨」は渡海の暗示である。そして、天孫二二ギらの天津神にはヤマト王権を創始した集団の首長像が投影され、ヤマト朝廷の支配の根源とみなされるようになる。
 しかし、この天津神の優越性が示されるのは、国津神との対照性においてである。国津神は天津神が出現する以前から国土を治めていたとされる土着的な神々であり、その代表格たる首長神が大国主である。
 この国津神の故地はイヅモである。イヅモ王権は出雲東部に発祥し、山陰地方で勢力を張り、その影響性は北陸方面にも及ぶ裏日本における大勢力であったと見られる。
 天津神の優越性はいわゆる「イヅモの国譲り」というストーリーによって示され、この背景にはヤマト王権によるイヅモ王権の征服という史実があるという解釈が示されている。これについても、筆者は別の角度から私見を述べた(拙稿参照)。
 私見はイヅモ王権に関しても、一定の渡来的要素を認めるが(上記拙稿)、それはともかくとして、ある時点で、ヤマト王権とイヅモ王権は同盟関係を結び、やがてはヤマト朝廷へ収斂されていった過程で、ヤマトの優位性を正当化する「国譲り」の神話が政治的に作り出されたのであろう。
 ヤマト王権系の神道―ヤマト神道―は、その後現代に至る神道の基軸に据えられていき、皇室が奉ずる宗教でもあるが、一方で、イヅモ王権系の神道―イヅモ神道―も、統一神道の中に組み込まれていった。
 とはいえ、イヅモ神道も神道の個別流派として独自の地位を維持し、皇室もイヅモ神道のメッカとも言える出雲大社に礼を尽くすのは、ヤマト神道とイヅモ神道の微妙な政治的な接合関係を示している。

2017年9月28日 (木)

神道と政治―史的総覧(連載第3回)

一 古代国家と神道の形成

首長国家と氏族祭祀
 邪馬台国は弥生時代最末期のクニの集大成と言えるものであったが、『魏志倭人伝』の記述によれば、当時の倭では人が死ぬと、土を封じて塚を作ったとある。こうした盛り土型の墳墓が各地に盛んに築造された時代がいわゆる古墳時代であるが、この時代の神道のあり方はほとんど考古学的史料による推定しかできない。
 その点、初期の首長級墳墓から宗教儀礼的な用具が多く出土することに鑑みると、各首長は政治的な指導者であると同時に宗教指導者でもあったことが伺える。古墳時代後期にあっても、例えば群馬県高崎市の豪族居館遺跡・三ツ寺遺跡では祭祀施設の跡が検出されており、地域首長にとって祭祀が不可欠の役割であったことを示している。
 さらに、日本独特の墳墓形式とされる前方後円墳の構造は、主丘である円墳の前部に祭祀を行なう方形部を接続したものと見られ、前部で葬祭や祖先崇拝の宗教儀式が行なわれていたものと考えられる。言わば祭祀施設付き墳墓であり、祭祀の重要性がここからも伺える。
 ちなみに、近時は邪馬台国の所在地を畿内とみなしたうえ、初期の前方後円墳である奈良県桜井市の箸墓古墳を卑弥呼陵に比定するような向きも見られる。そうだとすれば、邪馬台国の祭祀がその後のヤマト王権祭祀の基礎となった可能性も出てくるであろう。
 ただ、邪馬台国では女王とその男弟が聖俗機能を分有する聖俗二元制が採られていた可能性を前回指摘したが、古墳時代における無数とも言える地域首長国ではこうした聖俗二元制を明確に示す証拠は見出せない。むしろ、首長(男性)は最高司祭を兼ねていた可能性が高く、邪馬台国の構造とは相違が見られる。また、ヤマト王権から発展した後の天皇制も聖俗一元制であった。
 そうしたことからすると、古墳時代を特徴付ける地域首長制国家の祭祀は、相互に類似性や影響性はあったとしても、それぞれの地域的な独自性を持った祭祀体系を備えていたと考えられる。そして、こうした地域首長が後にヤマト王権に服する有力氏族集団に発展したことから、草創期の神道は各氏族祭祀としての性格を帯びていたとも考えられるのである。

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