神道と政治―史的総覧

2017年11月22日 (水)

神道と政治―史的総覧(連載第7回)

二 天皇制の創出と神道

第二次宗教改革:「天照教」の確立
 仏教を定着させた蘇我体制(蘇我王朝―私見)は、半世紀ほど続いた後、7世紀半ばのいわゆる大化の改新によって倒され、旧王朝が復活した。この復活王朝(後昆支朝―詳しくは拙稿参照)は、二度と王権を簒奪されないためにも、君主(オオキミ)の権威を高める必要に迫られていた。
 その表れが「天皇」称号の創始であり、天皇王朝を支える律令的諸制度・機構の整備という事業であったが、それが本格化したのは、壬申の乱を経て権力を掌握した天武天皇の時代からである。天皇称号の使用も彼の時代からと言われるゆえんである。
 天皇という称号自体に天皇の至上性が表現されているが、形式的な称号だけでは足らず、宗教的なイデオロギーとしても、天皇は神の化身とみなされた。万葉集掲載の天武代の和歌に、「大王は神にしませば」と詠まれたゆえんである。
 このような君主の神格化は、古代王権においては世界各地で見られるところであるが、日本の場合は古来の神道による権威付けが志向された。そうした権威付けの決定策として、新たな宗教改革が実行されたのである。その実行者は天武ではなく、その皇后で天武没後に皇位を継承した持統天皇である。
 持統主導で行なわれた宗教改革の本旨をひとことで言うなら、「天照教」の確立である。従前の神道は王朝始祖・応神天皇=昆支大王が実行した第一次宗教改革における三輪山イヅモ神道を基調としていたところ、持統はこれを覆したのである。
 そのうえで、天照大神という女神とこれを祀る伊勢神宮を新たに皇室祭祀の中心に持ち出したのである。天照大神は元来、三輪山周辺の土着信仰上の神であったらしいが、第一次宗教改革の結果、排除されていたものを改めて再発見したのは持統特有のある種フェミニズムの反映であったと思われる(拙稿参照)。
 持統がこうした宗教改革―ある面では復古的宗教反動―を断行するに当たっては、まさに三輪山イヅモ神道の代弁者とも言える大三輪氏の職を賭した反対を受けたが、彼女は対抗上、藤原氏の助力を得て改革を貫徹したのである。
 後に天皇王朝下最強の貴族となる藤原氏―旧姓中臣氏―は、神話上の祖が天孫降臨に随行したとされる伽耶系渡来人を遠祖とする豪族で、元は神と人とを媒介する霊媒者的な神官であったと見られる。かれらは仏教受容をめぐる内乱では反仏教派に与しながら、蘇我王朝下も生き延びた巧みな政略的一族であった。
 藤原氏の権勢をも高めた第二次宗教改革と「天照教」の確立は、同時に行なわれた律令的天皇王朝制度の整備と相まって、天皇王朝の永続性を担保する精神的な土台となっていったものと思われる。
 ただし、第二次宗教改革後も仏教は排斥されず、むしろ天武‐持統時代には多くの官寺が建立され、仏教の国家管理化も推進されていたが、仏教は天皇制そのものの基礎というよりは、護国祈願的な観点からの国教という位置づけを持ち、天皇制の基礎となる神道とは役割が分担された二元的な国教体制が確立されていくことになる。

2017年11月 5日 (日)

神道と政治―史的総覧(連載第6回)

二 天皇制の創出と神道

宗教戦争:仏教との相克
 昆支大王による宗教改革の成果は永続的なものであり、その基本路線は以後、ヤマト王権により継承されていくが、6世紀の欽明天皇(大王;当時、天皇号はまだ存在しなかった)の時代になると、王朝開祖である昆支大王=応神天皇の神格化が大規模に行なわれる。
 その経緯は、別連載の拙稿で明らかにしたように、私見によれば昆支=応神天皇の孫に当たる欽明はクーデターにより異母兄らを排除して王位に就いた経緯から、自身の王権の強力な正当化を必要としており、それが祖父の神格化であったのだろう。
 そうした目的から開始されたのが、後に八幡信仰として定着していく新たな信仰体系である。実際、伝・応神天皇陵に隣接し、実質上最初の八幡宮と考えられる誉田八幡宮や、後世になって八幡総社の地位を獲得する宇佐神宮が欽明時代の由緒と伝えられることも、その裏付けとなろう。
 一方で、6世紀前半には仏教が王朝の先祖の地でもある百済から伝わった。伝来年には諸説あるが、552年説を採る『日本書紀』によれば、欽明自身は仏典と仏像を献上した百済の使者に欣喜雀躍したとあり、仏教を素直に受容しようとしたことが窺える。
 ただし、同時に、欽明は、仏教の取り扱いについて、一人では決めないとして慎重姿勢を取り、群臣に諮問している。ここで、蘇我氏と物部・中臣氏が意見対立したため、仏教は当面、擁護派の蘇我氏に預けることとされた。
 天国排開広庭天皇(あめくにおしはらきひろにわのすめらみこと)の和風諡号どおり、ヤマト王権の領土を大きく拡張した征服王でもあった欽明の長期治世が終わると、王権は彼の軟弱な息子たちのために後退していく。そうした中で、改めて仏教の扱いをめぐり、王朝を揺るがす動乱が発生する。
 仏教擁護派の先頭に立った新興の豪族蘇我氏は、私見によれば自身も百済系豪族であり、心情的にも権勢確立のためにも仏教に依拠しようとしていた。対して、仏教排斥派の巨頭であった豪族物部氏は、私見によれば、ニニギのライバルとも言える伽耶系渡来集団の長ニギハヤヒを祖とする古来の豪族である(拙稿参照)。
 物部氏は、昆支大王による百済系王朝樹立後も巧みに生き残り、昆支大王による宗教改革の過程で、大神神社の神班物者(かみのものあかつひと;神への供物を分かつ人)に一族の伊香色雄が任命されたことを契機に、宗教・軍事両面で権勢を持つ最強豪族集団に成長していっただけに、古来の神道を脅かす外来宗教には敵対的であった。
 こうして、仏教派と排仏派の衝突は不可避であった。しかしよく知られているように、この宗教戦争は蘇我・仏教派の勝利に終わり、蘇我氏は王権を実質上簒奪する地位に上り詰める(拙稿で述べたとおり、私見は名実ともに蘇我王朝が成立したと解している)。
 これ以来、仏教は政治とも密接に結びつくが、神道に完全に取って代わったわけではなく、二元的な形で独特の神仏習合体系が形成されていく。しかし、これは続く第二次宗教改革とも関連してくるので、稿を改めて取り上げることにする。

2017年10月23日 (月)

神道と政治―史的総覧(連載第5回)

二 天皇制の創出と神道

第一次宗教改革:イヅモ神道の導入
 神道はヤマト王権の祭政一致体制を支える宗教的基盤となり、やがて天皇制律令国家の制度的基盤ともなるわけであるが、そこへ至るまでの過程は想定されている以上に複雑である。
 すなわち、二つの大規模な宗教改革の間に内乱を招いた仏教の伝来と受容という経過が挟まれる。このような見方はあくまでも私見であって、決して通説的に確立されたものではないが、一つの管見として提示する。
 まず、前章では行論上やや曖昧にヤマト神道とイヅモ神道の接合ということを述べたが、このような接合が成るに当たっては、政変を契機とする宗教改革の介在が想定される。このことはすでに別稿で詳論したので、そちらへ譲るが、遅くとも4世紀前葉までに成立したいわゆるヤマト王権は5世紀後葉に王朝交代の政変を経験している。
 それは、九州北部を経由して東征してきた伽耶系渡来人を主体とする王朝から、帰化した百済王子が創始した百済系渡来人を主体とする王朝への交代である。ヤマト神道とイヅモ神道の接合が起きたのは、この政変で成立した新王朝の宗教改革の結果である。
 伽耶系王朝下のヤマト王権の宗教は、天孫降臨に象徴される始祖神話に、三輪山を聖山拠点とするヤマトの土着的な信仰体系を継承加味したものであったろうが、この旧王朝を倒した百済系王朝は新たにイヅモ神道を導入したのである。
 そこには、イヅモ王権との神聖同盟という外交的な新政策が大きく影響しているが、旧王朝系勢力を宗教面から統制支配するという内政的な目的もあったと考えられる。そうした宗教改革を主導した君主(オオキミ)が、正史上にいわゆる「応神天皇」―昆支大王―であった。
 三輪山をイヅモ神道系聖山に作り変えたこの第一次宗教改革は、後に見るように、およそ一世紀後に再び覆されるのであるが、イヅモ神道の接合という成果は永続した。
 実際、三輪山自体を本殿とする大神神社の主祭神である大物主大神はイヅモ神道における大国主の「和魂」(=安らかな魂)とみなされ、配神としてまさに大己貴神(=大国主神)を祀っているのである。なお、昆支大王による宗教改革の詳細に係る私見も別稿にて詳論したので、これも管見ながら参照願いたい。

2017年10月11日 (水)

神道と政治―史的総覧(連載第4回)

一 古代国家と神道の形成

ヤマト神道とイヅモ神道
 いわゆる古墳時代は、全国に16万基を越える膨大な数の古墳が特定されていることからもわかるとおり、極めて地域性の強い首長制国家の乱立時代であったが、その中から、畿内を拠点とするいわゆるヤマト王権が有力化し、やがて全国的王権へと発展する。
 この畿内王権の起源に関して、筆者はつとに朝鮮半島南部の伽耶諸国から九州北部への渡来勢力がさらに東征して創始したものという説を公表しているが、その根拠として、故国に当たる金官伽耶国の始祖神話と日本神話に投影されたヤマト王権の始祖神話―いわゆる天孫降臨―の類似性を挙げた(拙稿参照)。
 この天孫系神々―天津神―の故地である「高天原」は、海を越えた大陸の暗示であり、「降臨」は渡海の暗示である。そして、天孫二二ギらの天津神にはヤマト王権を創始した集団の首長像が投影され、ヤマト朝廷の支配の根源とみなされるようになる。
 しかし、この天津神の優越性が示されるのは、国津神との対照性においてである。国津神は天津神が出現する以前から国土を治めていたとされる土着的な神々であり、その代表格たる首長神が大国主である。
 この国津神の故地はイヅモである。イヅモ王権は出雲東部に発祥し、山陰地方で勢力を張り、その影響性は北陸方面にも及ぶ裏日本における大勢力であったと見られる。
 天津神の優越性はいわゆる「イヅモの国譲り」というストーリーによって示され、この背景にはヤマト王権によるイヅモ王権の征服という史実があるという解釈が示されている。これについても、筆者は別の角度から私見を述べた(拙稿参照)。
 私見はイヅモ王権に関しても、一定の渡来的要素を認めるが(上記拙稿)、それはともかくとして、ある時点で、ヤマト王権とイヅモ王権は同盟関係を結び、やがてはヤマト朝廷へ収斂されていった過程で、ヤマトの優位性を正当化する「国譲り」の神話が政治的に作り出されたのであろう。
 ヤマト王権系の神道―ヤマト神道―は、その後現代に至る神道の基軸に据えられていき、皇室が奉ずる宗教でもあるが、一方で、イヅモ王権系の神道―イヅモ神道―も、統一神道の中に組み込まれていった。
 とはいえ、イヅモ神道も神道の個別流派として独自の地位を維持し、皇室もイヅモ神道のメッカとも言える出雲大社に礼を尽くすのは、ヤマト神道とイヅモ神道の微妙な政治的な接合関係を示している。

2017年9月28日 (木)

神道と政治―史的総覧(連載第3回)

一 古代国家と神道の形成

首長国家と氏族祭祀
 邪馬台国は弥生時代最末期のクニの集大成と言えるものであったが、『魏志倭人伝』の記述によれば、当時の倭では人が死ぬと、土を封じて塚を作ったとある。こうした盛り土型の墳墓が各地に盛んに築造された時代がいわゆる古墳時代であるが、この時代の神道のあり方はほとんど考古学的史料による推定しかできない。
 その点、初期の首長級墳墓から宗教儀礼的な用具が多く出土することに鑑みると、各首長は政治的な指導者であると同時に宗教指導者でもあったことが伺える。古墳時代後期にあっても、例えば群馬県高崎市の豪族居館遺跡・三ツ寺遺跡では祭祀施設の跡が検出されており、地域首長にとって祭祀が不可欠の役割であったことを示している。
 さらに、日本独特の墳墓形式とされる前方後円墳の構造は、主丘である円墳の前部に祭祀を行なう方形部を接続したものと見られ、前部で葬祭や祖先崇拝の宗教儀式が行なわれていたものと考えられる。言わば祭祀施設付き墳墓であり、祭祀の重要性がここからも伺える。
 ちなみに、近時は邪馬台国の所在地を畿内とみなしたうえ、初期の前方後円墳である奈良県桜井市の箸墓古墳を卑弥呼陵に比定するような向きも見られる。そうだとすれば、邪馬台国の祭祀がその後のヤマト王権祭祀の基礎となった可能性も出てくるであろう。
 ただ、邪馬台国では女王とその男弟が聖俗機能を分有する聖俗二元制が採られていた可能性を前回指摘したが、古墳時代における無数とも言える地域首長国ではこうした聖俗二元制を明確に示す証拠は見出せない。むしろ、首長(男性)は最高司祭を兼ねていた可能性が高く、邪馬台国の構造とは相違が見られる。また、ヤマト王権から発展した後の天皇制も聖俗一元制であった。
 そうしたことからすると、古墳時代を特徴付ける地域首長制国家の祭祀は、相互に類似性や影響性はあったとしても、それぞれの地域的な独自性を持った祭祀体系を備えていたと考えられる。そして、こうした地域首長が後にヤマト王権に服する有力氏族集団に発展したことから、草創期の神道は各氏族祭祀としての性格を帯びていたとも考えられるのである。

2017年9月17日 (日)

神道と政治―史的総覧(連載第2回)

一 古代国家と神道の形成

邪馬台国と国家祭祀
 神道は特定の創始者と創始年を特定できない伝統宗教であり、原初のアニミズムに起源を持つことはほぼ間違いない。そのため、初めから政治との関わりが濃厚だったいわゆる世界三大宗教とは異なり、元来は民間信仰の性格が強かったはずである。
 それがいつ頃から政治との結びつきを持ち始めたのかは史料もなく不明としか言いようがないが、日本の古代国家揺籃期における国家祭祀に関する最も古い記録は、やはり『魏志倭人伝』の記述であろう。とはいえ、その記述はごく簡潔である。
 そこではまず民間の宗教的習俗として、何らかの事を起こすに際して、骨を焼き、火の裂け目を見て吉兆を占う卜占の存在に言及され、それは亀の甲羅を用いる中国の「令亀の法」のやり方と似るとも指摘されている。これは邪馬台国に限らず、日本―中国側が「倭」と認識していた限りの領域―の共通習俗として描かれている。
 より政治と関わる記述としては、邪馬台国女王・卑弥呼の人物紹介の箇所で、女王が「鬼道」に使え、民衆をよく惑わすという簡単な記述があるのみである。ここで言う「鬼道」の内容について具体的な記述はないが、女王自身も卜占的な祭祀を執り行う立場にあり、民衆もそれを篤く信仰していた様子が伺える。
 卑弥呼推戴の経緯は、小国間での長年の内乱を終結させることにあったとも記されているから、卑弥呼が体現した宗教は民衆のみならず、小国の首長ら支配層をも従わせ、戦乱を収拾し、和平を保障するような力を帯びていたことをも裏書きしている。
 邪馬台国の地理的位置づけについてはいまだに論争は決着していないが、この国家が何処に所在しようと3世紀の弥生時代末期における日本の代表国家であったことは間違いなく、この国にはすでに祭政一致の政治体制が存在したことも間違いない。
 邪馬台国の政治では夫婿を持たない卑弥呼女王の男弟が摂政のような役割を負っていたとされ、また諸国の検察も邪馬台国傘下の伊都国に置かれた「一大率」が掌握したとあることからも、女王は俗権を超越し、専ら国家祭祀を受け持つ聖俗二元的な体制が採られていたとも解釈できる。この点、後の律令国家では天皇が聖俗にまたがる権威を持ったのとは構造が異なっている。
 そうしたことから、日本における3世紀の古代国家揺籃期の時代から国家祭祀が形成され始めていたことは確認できるとしても、それが後の神道の直接の祖と言えるかどうか、まして卑弥呼が神道における主神でもある天照大神の実在モデルかどうかについては断定できない。

2017年9月 3日 (日)

神道と政治―史的総覧(連載第1回)

小序 

 当連載は、日本の伝統宗教である神道と政治との関わりについて、史的に総覧することを目的とする。先般、筆者は「仏教と政治」に関しても、世界史的な視野から史的な総覧を試みたところであるが、当連載はそれに引き続く姉妹的な連載として位置づけられるものである。
 ただし、言うまでもなく、神道は仏教のように国境を越えて広く普及した国際宗教ではなく、日本の土着的伝統宗教であるので、史的総覧の範囲も日本史的視野に限局される。
 神道は日本人が最も気軽に参拝する宗教施設である神社に象徴されるれっきとした宗教であるが、「お稲荷さん」のようにあまりに日常化しているせいか、それが「宗教」であるという認識さえ持ちにくく、まして「お稲荷さん」を政治と結びつけて考えることなどまずない。
 しかし「お稲荷さん」の由来ですら、歴史的に立ち入れば政治と大いに関係がある。一方で、「神道と政治」と言えば、旧国家神道や現代の議会政治内での神道政治連盟などが想起されるが、こうした近・現代の生々しい政治的動向だけが「神道と政治」のすべてではない。
 神道は、先史日本のアニミズムに源流を持ちつつ、宗教的な祭祀体系として整備される過程で、時代により政治的な浮沈を経験してきており、政治との関わりは複雑微妙である。それを辿ることで、神道というどこかとらえどころのない独異な宗教の新たなかたちも見えてくるように思われる。
 このように、当連載は神道を宗教史的ではなく、あえて政治史的に検証することによって、仏教とともに日本人の精神性を形成してきた神道の姿を改めてとらえ直す小さな試みである。その点で、神道を国粋的に称揚する言説とも、反対に思想的に危険視する言説とも一線が画されるであろう。

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