神道と政治―史的総覧

2018年9月 9日 (日)

神道と政治―史的総覧(連載第23回)

八 議会神道の時代

「神道指令」と国家神道の解体
 戦時体制下で、全体主義の精神的支柱となった国家神道は、敗戦とそれに続く連合軍の占領下で解体される運命にあった。その根拠となったのが、終戦の年1945年12月に連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)より発せられたいわゆる「神道指令」(以下、単に「指令」という)である。
 「国家神道、神社神道ニ対スル政府ノ保証、支援、保全、監督並ニ弘布ノ廃止ニ関スル件」という長い正式名称からも、国家神道の解体こそが日本の民主化における鍵であることを連合国軍が占領の早い段階で認識していたことが窺える。
 「指令」の目的はまさしくその名称どおり、神道を国家から切り離し、信教の自由と政教分離を軸とする世俗的民主体制へ移行させることにあった。これは明治憲法の廃棄と並び、明治維新当時の国家神道宣言とも言うべき「大教宣布の詔」を遡及的に取り消す革命的な転換を意味した。
 しかし「指令」は当初、神道行事の禁止などハーグ陸戦条約に明記された非占領地における信仰への不干渉という占領統治の原則に抵触する疑いのある内容を含んでいたため、事後的に適用範囲が緩和され、修正を余儀なくされた。とはいえ、「指令」と新憲法に明記された政教分離原則の影響は大きく、国家神道の存続余地はなくなったのである。
 国家神道の司令塔であった神祇院は廃止され、代わって全国の神職で結成していた財団法人・大日本神祇会(旧全国神職会)などが母体となり、全国の神社を束ねる民間団体としての神社本庁が設立された。民間団体でありながら、官庁並みに「庁」を称するのは、神道側の「指令」に対する対抗的団結意識の現われとも言える。
 実際、神社本庁の設立に当たっては、神道の存続に危機感を持った神道関係者や右翼思想家らを中心に、慎重な討議を経て、「指令」に抵触しない形で神道界の統一団体を結成することが目指されたのである。
 その結果、神社本庁は法律上宗教法人であるが、神社の単なる業界団体ではなく、皇室に直結する伊勢神宮を「本宗」と仰ぐ準公的団体として、政教分離原則を明示した新憲法下の議会政治の中で神道が新たな力を獲得していく過程において、隠然たる影響力を発揮することになる。

2018年8月26日 (日)

神道と政治―史的総覧(連載第22回)

七 国家神道の圧制

軍国神道への展開
 国家神道は、明治憲法体制が明治後期以降、帝国主義へ傾斜していく中で、次なる展開を見せ始める。それは軍事と結びついた言わば軍国神道である。その最初の契機は明治12年に東京招魂社が靖國神社と改称され、実質的に軍が管理する軍立神社となったことにあった。
 旧東京招魂社は元来、幕末維新の戦没者を慰霊する宗教施設として創建された「近代的」な神社という特異な性格を持ち、他の古社とは別格的な軍事的色彩の強い神道施設であった。しかし靖國神社は、たちまちにして皇室からも庇護を受ける特権的な神社となった。
 また、台湾・朝鮮・南洋諸島など植民地の拡大に伴い、一部神道家の反対を押して、これら「外地」にも神社の創建が推進された。このことは、神道が日本の帝国主義的膨張の象徴として意識されていたことを示しており、軍事的な海外進出と神道の結びつきを明確にする政策であった。
 しかし、軍国神道がその姿をはっきりと見せ始めるのは、日中戦争の勃発により、戦時体制に入ってからであった。昭和12年の戦争勃発直前には、文部省がパンフレット「国体の本義」を発行し、この中で神道的に正統化された天皇の神格化を明確にイデオロギーとして示した。
 これに前後して、神社参拝の実質的な義務付けも広がっていく。従来、国家神道は神道を宗教カテゴリーから外しつつ、神道信仰を義務づけることは回避するという巧妙なロジックを採ってきたわけだが、軍国色が強まるにつれ、神社参拝が「臣民の義務」として認識されるようになっていったのだ。
 それを象徴するのが、昭和7年の上智大学生靖國神社参拝拒否事件である。これは上智大学に軍事教練教員として配属されていた陸軍将校が学生を引率し靖國神社を参拝した際、カトリック信者の学生二名が参拝を拒否したことが問題視された事件である。
 「事件」といっても、時の当局は学生を検挙するなどの強硬措置は採らなかったのだが、保守系新聞の批判によりカトリック教会への糾弾が広がり、教会側も信徒の靖國神社参拝を容認する方針を明確にさせられた。これは他宗教が軍国神道に屈服した先例として重要な意味を持つ出来事であった。
 昭和14年には朝鮮でも、神社参拝を認めた教会の方針に反対して参拝拒否運動を起こした2000人の現地カトリック関係者が検挙され、余波として多くの教会が閉鎖される事件も起きており、外地でも同様の事態がより強硬な形で進行していた。
 他方、当局は「身内」のはずの神道系新興宗教への競合的警戒心も隠さず、本来は共産主義者弾圧のために制定された治安維持法を援用して、新興宗教の抑圧にも乗り出した。大正10年と昭和10年の二度にわたった大本教への弾圧はその象徴である。
 神武天皇即位紀元2600年とみなされた昭和15年の紀元二千六百年記念行事は、こうした軍国神道のクライマックスを成す一大国家行事となった。同年には、それまで国家神道の行政実務を担ってきた内務省神社局が神祇院として独立し、改めて国家神道の司令塔と位置づけられた。
 こうして、国家神道の新たな段階である軍国神道は、全体主義的ないわゆる「天皇制ファシズム」の精神的支柱として、その抑圧的な姿を露わにする。そのような状況下で、大日本帝国は昭和16年以降、太平洋戦争・日米戦争へと突入していくのである。

2018年7月28日 (土)

神道と政治―史的総覧(連載第21回)

七 国家神道の圧制

「神道=非宗教」テーゼ
 神道を宗教として公式に国教化することを早々と断念した明治政府であったが、神道のイデオロギー化そのものを放棄したわけではなかった。たしかに神道は表向き国教として打ち出されなかったが、その代わりに「神道は宗教に非ず」というテーゼが捻出されたのである。
 これは神道を宗教のカテゴリーからあえて外すことによって、一般宗教を越えた「超宗教」として国家の統一イデオロギーに昇華させんとする奇策であった。この概念操作により、明治政府は文言上信教の自由を認める近代憲法(明治憲法)ともロジック上は矛盾することなく、神道を優位に置くことができたのである。
 実際、憲法上「日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ信教ノ自由ヲ有ス」(第28条)という文言の下に、信教の自由に広範な制限を設けつつも、神道信仰の義務は明示しないという巧妙な策により、暗黙の神道国教化が図られたことである。
 こうした周到な用意の下、神道は国家丸抱えの特権宗教としての地位を獲得した。神社は国家の管理下に置かれ、新たな社格制度が導入されたが、皇室直属とも言える伊勢神宮には社格外の地位が認められ、伊勢神宮神職は官吏としての神官の身分が与えられた。
 さらに、明治維新以来実施されてきた神仏分離・廃仏毀釈―実質的な廃仏政策―の徹底とともに、明治末期には神社合祀令に基づく神社の統廃合(一町村一社原則)が推進された。これには一宗教施設を越えた国家イデオロギーの象徴となった神社を整理することで、国の統制及び地方公共団体による財政援助をも容易にする狙いがあった。
 他方で、「神道=非宗教」テーゼのロジックを踏襲するため、宗教としての教派神道と非宗教としての国家神道が分離された。その結果、政府が所管する官国弊社の神職は神葬祭(神道式葬儀)の主宰を禁じられるなど、「祭教分離」により神職が宗教的活動を制約されるという皮肉な矛盾も抱え込んだ。
 さらに教育の場では、文部省訓令により宗教教育が禁止された。一見して近代的な教育世俗化政策の表れに見えるこの施策の裏には、国家神道政策の妨げとなる他宗教の教宣を封じる狙いが込められていた。
 こうした暗黙の神道国教化政策という巧妙な裏道を設けることで、明治憲法体制は国家が国民を洗脳操作する強力な手段を獲得することに成功したと言える。この国家神道政策は天皇を至上とする政体=国体の支柱として固まり、軍国主義への国民動員にもつながっていく。

2018年7月14日 (土)

神道と政治―史的総覧(連載第20回)

七 国家神道の圧制

王政復古と神道
 幕末倒幕運動の精神的・宗教的なバックボーンとなったのは、復古神道ないしはそれの直接間接の影響下にある神道思想であった。このことが、近代化革命としての歴史的意義を持つ明治維新をして、他方では王政復古・祭政一致という反近代的な形態をまとった反動革命という両義的な「革命」たらしめたと言える。
 明治維新における革命宣言とも言える「王政復古の大号令」には神道に関わる直接の言及はないが、明治政府はいち早く旧律令制下で神道行政を担った神祇官を復活させ、内閣に相当する太政官からも独立した筆頭官庁とした。そのうえで、明治三年には「大教宣布の詔」を発布した。
 この明治天皇の名による新たな詔書は大号令では言及されなかった神道の位置づけを明確にした重要文書であり、神道を国教とし、神道でもって国民のイデオロギー的統一を図る祭政一致国家を建設せんとする国家神道宣言と呼ぶべき内容を伴っていた。
 その目的を達成すべく、明治政府はキリスト教の布教方法にならってか、神道布教に専従する「宣教使」なる専門官庁を神祇官の下に設けたが、神道学派間の対立や依然として儒教重視の地方藩の反発などもあり、失敗に終わった。
 またこのような宗教統一政策は当然にも、従来神道を押しのける勢力を保持してきた仏教界の反発を招いた。彼らの巻き返しにより、国民教化は神・儒・仏の合同布教という折衷的な路線に転換され、国民教化を任務とする教部省なる官庁が新設された。
 そのうえで、国民教化を担う中央教宣組織として大教院を設置し、正式に任命された教導職をして国民教化に従事させるという新体制が用意された。しかし、このような半端な妥協策に持続性はなく、大教院が廃止解散されたのに続き、教部省そのものも廃止されることとなった。
 明治十年以降、宗務行政は内政庶務を担う内務省の所管に移された。結局のところ、神道を国教と位置づけつつ、宗教として正面から教宣するという明治政府の施策は失敗に終わったと言える。このことは通常、明治政府が神道の国教化を断念したものと受け止められているが、実際のところ、明治政府のやり方はもっと巧妙だったのである。

2018年6月23日 (土)

神道と政治―史的総覧(連載第19回)

六 復古神道への道

垂加神道と復古神道
 林羅山が広めた神儒合一論は幕藩体制下の御用宗教となり、体制との密着性を強めたが、それは当然にも幕府支配の正統性を根拠づけることに狙いがあった。これに対する反発は同じ神儒合一論内部から現れた。山崎闇斎の創始した垂加神道がその初例である。
 闇斎は羅山と同様に浪人の子であったが、羅山とは異なり、体制に密着することはせず、在野の儒学者の立場にとどまった。彼の垂加神道も神儒合一論の亜種とはいえ、天照大神に対する信仰を中心に置き、その子孫たる天皇が統治する道こそが神道なりと説いた点で、復古神道につながる要素を包蔵していた。
 しかし、闇斎の生きた17世紀は江戸幕府の体制確立期でもあり、垂加神道が時代の波に乗ることはなく、在野の思想に終わった。しかしその影響は次の18世紀、尊王論という形を取って確実に結実した。闇斎の孫弟子に当たる竹内敬持は京の公家たちに垂加神道を講義したことで幕府に睨まれ、宝暦事件及び明和事件という二つの尊王派弾圧事件に連座して流刑に処せられた。
 江戸幕府全盛期とも言える18世紀に神道と結びつけて尊王論を提唱することは、政治的に危険な企てであった。しかし、国学という文芸論の形でならば幕府の検閲を潜り抜けることが可能であった。国学集大成者の本居宣長が弾圧されることなく生涯を終えた所以である。しかし、彼のキー概念である「神ながらの道=古道」には、神道的要素が内包されていた。
 そうした本居国学の密かな宗教的要素を実際に神道として抽出昇華させたのが、本居に傾倒した平田篤胤である。篤胤は本居の門弟ではなく、その没後に私淑したにすぎないが、本居の「神ながらの道=古道」をベースに、儒教や仏教を排除した純粋の日本神道の復活を提唱したことから、その流派は復古神道と呼ばれる。
 晩年の篤胤は自身の著作を上皇や天皇に献上するなど、朝廷への接近を図ったが、幕府の暦制を批判したため、江戸追放、著述禁止という弾圧処分を受けた。しかし、復古神道は尊王論を神道的に裏づけ、篤胤の死後、尊皇攘夷論に基づく倒幕運動に精神的な影響を及ぼした。
 また、篤胤は膨大な著作の一部を大衆にも向けたことから、彼の思想は識字層の町人や豪農といった庶民階級にも浸透し、幕末倒幕運動の土俗的なベースを形成した。こうして、復古神道は反体制の政治と強く結びついて、幕藩体制を揺さぶることになるのである。

2018年5月30日 (水)

神道と政治―史的総覧(連載第18回)

六 復古神道への道

神儒合一論と徳川幕府
 室町時代に吉田神道が神道界を制圧した後、戦国時代に入ると、戦国大名らはその出自の不確かさを補うかのように、自己を神格化する趣向が大なり小なり示したが、その頂点に立ったのが天下人神道であった。これは、宗教であると同時に、自己の権力の正統性を誇示するまさに政治そのものであった。
 このような神道と政治の混淆は、初代家康を神格化した東照宮信仰に依拠した徳川幕府の成立によっていっそう明瞭となった。しかし、幕府の政治理論上の体制イデオロギーは圧倒的に儒教(朱子学)に置かれたため、儒教と神道を整合的に説く必要性が生じた。
 この要請に応えたのが、浪人の子という低い身分から家康側近にのし上がった儒学者・林羅山である。羅山は神道と儒教を同視する神儒合一論の提唱者として知られるが、このような思想は羅山の師であった藤原惺窩に由来している。公家出身の惺窩自身、家康から仕官を要請されたが固辞し、門弟の羅山を推薦したという因縁がある。
 より政治的だった羅山は惺窩の比較的素朴寛容な神儒合一論を純化し、排仏思想を徹底するとともに、神道界のエースであった吉田神道をも批判の俎上に乗せた。結局のところ、羅山の神儒合一論は習合説ではなく、彼が体制イデオロギーの座に据えようとしていた儒教の優位を前提に、儒教と神道の同一性を相当強引に論じようとする教条であった。
 例えば皇室祭祀の象徴である三種の神器が『中庸』における智・仁・勇の三徳を表すものであるとの羅山の論は、十分な根拠を欠く類推的な憶断にすぎないが、これも儒教理論に神道を無理に同期させようとする羅山流合一化の特徴である。
 もっとも、宗教的には習合的な武家政権の本質を維持していた徳川幕府は羅山の理論に完全に準拠したわけではなく、徳川家宗派でもあった浄土宗を中心に仏教も保護統制しつつ、1665年の諸社禰宜神主法度制定以降、羅山が敵視した吉田神社を神道本所として全国の神社の総社的地位を認証している。
 羅山の儒教ベースの神儒合一論は江戸時代前期においては彼の権威とあいまって強い影響力を持ち、多くの追随者を得たが、中期以降になると変化が生じ、神道に重きを置く修正理論が台頭してきた。これはやがて国粋思想とも合流し、復古神道という幕藩体制を揺るがす反動的潮流を生み出す下地ともなる。

2018年5月 5日 (土)

神道と政治―史的総覧(連載第17回)

六 復古神道への道

神国思想の興隆
 神道はその後に流入してきた儒教や仏教―特に仏教―の影響を受け、習合宗教の色彩を強めていったが、こうした文化融合に対しては反動が現れるのが常である。神道においては、仏教と習合した本地垂迹説に対する反動が南北朝時代に顕著となる。
 その最初の隆起が皇室祭祀の本拠たる伊勢神宮に現れたことは偶然ではない。すなわち、伊勢神道である。伊勢神道は伊勢神宮外宮神職を世襲してきた度会氏が興した神道流派であり、仏より古来の神を優位に置く反本地垂迹説を軸とする。
 しかし、伊勢神道は単純な反本地垂迹説にとどまらず、皇祖とされる天照大神を祀る内宮に対して、外宮の主祭神たる豊受大神を天照大神よりも優位にある普遍神と規定し、ある種の一神教的な立場を打ち出したことに特徴があった。
 その一方で、伊勢神道は元寇以来、ナショナリズムの思想として台頭してきていた「神国思想」、すなわち日本を古来の神々によって加護された国と認識する国粋思想を改めて活性化させ、これを強く打ち出したのであった。
 神国思想を唱えながら、皇祖・天照大神を否定するかのような所論は一見矛盾しているように思えるが、伊勢神道がこのような逆説を提示した背景として、本来マイナーだった外宮の権威を上昇させようという伊勢神宮内部における権力闘争も絡んでいたと推測される。
 一方で、伊勢神道創始者たる度会家行が南北朝動乱渦中で南朝を支持したことで、伊勢神道は南朝、とりわけ南朝総帥となった北畠親房に影響を及ぼし、南朝の理論的支柱となった。ところが、南朝が最終的に敗れたことにより伊勢神道は勢力を失い、代わって京都の吉田神社神職の吉田兼倶が創始した吉田神道に道を譲ることになる。
 吉田神道は教理上は伊勢神道の反本地垂迹説・神国思想を継承するとされるが、実際のところは習合的で、他宗派を排斥するのではなく、儒・仏・道三教を枝・葉・花実になぞらえつつ、日本古来の随神(かんながら)の道を法の根本とする止揚的な立場を採った。
 しかし吉田神道の強みは教理以上にその政治力にあり、兼倶は北朝を擁して権力を確立した足利将軍家と深く結びつき、「神祇管領長上」を称して、全国の神職の位階を授ける権限すら獲得し、全神社の頂点に立った。
 同時に、敬虔な仏教徒でもあった時の後土御門天皇にも進講を通じて取り入り、天皇から本拠の吉田神社境内に建てた斎場所大元宮を「神国第一之霊場、本朝無双之斎庭」としてお墨付きを得ることにも成功したのである。

2018年4月18日 (水)

神道と政治―史的総覧(連載第16回)

五 天下人神道

東照宮と江戸幕府
 天下人を神格化する天下人神道の集大成は、徳川家康によって行なわれた。彼は臨終前の遺言で、実に事細かに神格化の手順を指示している。それはまず本拠駿府の久能山に遺体を安置したうえ、一周忌を終えた後、日光山と京都金地院に小堂を設置して拝礼させよというものであった。
 この遺命に従い、幕府は指定された三箇所に東照社を建立したのであるが、「東照」の名は家康が没後、朝廷から授与された「東照大権現」の神号に由来している。さらに、没後30年近く経過した1645年の宮号授与をもって「東照宮」と称されるようになる。
 家康がこのように詳細な遺言で自己の神格化を図ったのは、実質一代限りで終わった豊臣政権の轍を踏まず、徳川支配を恒久化するうえで支配に宗教的な権威付けを与えようとする狙いからであったのだろう。
 遺命に基づく三つの東照社のうち、久能山東照社は家康埋葬地として東照宮総社の位置づけにあり、その余は「小堂」にとどまったはずのところ、孫の3代将軍家光が江戸に最も近い日光東照社を豪勢に大改築したことから、以後は日光東照社が事実上の東照社総社的な存在となった。
 家光が日光東照社の大改築を通じて祖父家康の権威付けを改めて強化したのは、人々の記憶が薄れかけていた祖父の威光を再活性化することにより、「鎖国」という新たな段階を迎えた徳川支配体制の引き締めを図る狙いがあったと考えられる。
 家光は配下の諸大名に対しても東照社の造営を勧奨したため、徳川‐松平一門はもちろん、譜代大名や外様大名の間でもこぞって東照社の建立が流行し、今日では廃絶したものを含めれば最大でおよそ700の東照社が全国に建立されたと言われる。
 こうして江戸幕府の宗教的権威付けの支柱となった言わば「東照神道」は教義上、家康の側近でもあった天台宗僧侶・天海が提唱した山王一実神道と呼ばれる神道流派に属している。その根底にあるのは、比叡山に発祥した一種の山岳信仰である山王権現を釈迦の化身とみなす神仏習合流派であった。
 とはいえ、その最大の趣意は家康の神格化にあったから、神道としては内容空疎な、まさに政治の産物であった。実際、もう一人の家康側近であった臨済宗僧侶・以心崇伝は反習合的な吉田神道での祭祀を主張していたが、家康の遺言を盾に取った天海との論争に敗れ、山王神道での祭祀となったという経緯がある。
 ただ、崇伝が住した金地院は室町幕府4代将軍足利義持によって建立されたと伝えられる臨済宗寺院で、家康遺命による東照宮を擁し、それ自体も神仏習合を内包しつつ、全国の五山十刹以下全住職の任命権を掌握する僧録司が置かれた徳川体制における仏教統制機関に発展したのである。

2018年3月31日 (土)

神道と政治―史的総覧(連載第15回)

五 天下人神道

豊臣秀吉と豊国神社
 天下人を神格して祀る「天下人神道」が本格的に創始されるのは、戦国時代以後である。戦国の天下人たちはそれ以前の源氏に象徴される皇族由来の「由緒」ある武家ではなく、出自も不確かな下克上大名から出ているため、それぞれ家系を仮冒するばかりでは飽き足らず、自らを神格化して祭祀の対象とさせることを欲した。
 戦国天下人の先駆者となった織田信長は時に唯物論者・無神論者と評されることもあるが、八幡神を祀る石清水八幡宮の修復や長く途絶していた伊勢神宮式年遷宮の復活など、伝統的な神道復興に少なからず関心を示している。
 一方で、イエズス会宣教師ルイス・フロイスに対し「自分自身が神である」であると語り、安土城内に「梵山」と称する大石を安置して信長の御神体として家臣や領民に礼拝を求めたと言われ、自己神格化と見られる行動をも示している。
 彼が謀反を乗り切って存命していれば、信長を主祭神とする神社を自ら建立した可能性もなくはないが、周知のとおり天下統一の夢は道半ばで挫折したため、「信長神社」は残らなかった。ただ、明治初頭になって織田氏子孫が治めた旧天童藩が先祖信長を顕彰するため、京都の船岡山に信長を祀る建勲神社(たけいさおじんじゃ)を建立したが、これは近代の追善的な宗教施設にすぎない。
 信長を継いだ豊臣秀吉は、信長より自己神格化に積極的であった。秀吉は死に際して自身を「新八幡神」として祭祀するよう遺言したとされる。源氏とは程遠い低い出自の秀吉が自己を源氏氏神の八幡神になぞらえようとしたのは、源氏と同格たらんとする彼なりの強烈な上昇志向の表れだったのだろう。
 ところが、朝廷は秀吉の遺志に反して「豊国乃大明神」の神号を授与した。この新たな神号は「兵威を異域に振るう武神」を含意すると宣示され(朝鮮侵略を示唆)、結局、秀吉神社は「豊国神社」として、京都東山に建立された。遷宮は吉田神道を主宰する吉田家によって執り行なわれ、社務職・社僧とも吉田家が独占するなど、当時の神道界の領袖たる吉田家との関わりが深かった。
 しかし、天下人神道の悲哀は、天下人が交代すれば排除されることである。1615年に新たな天下人徳川家康によって豊臣氏が滅亡に追い込まれるや、秀吉は神号剥奪、豊国神社も容赦なく廃絶されるのである。その再興は、明治維新後、秀吉の「皇威を海外に宣べ(た)」功績(これも朝鮮侵略を示唆)を再評価した明治天皇の沙汰によってなされたのである。

2018年3月17日 (土)

神道と政治―史的総覧(連載第14回)

五 天下人神道

武家の八幡神信仰
 武家社会になると、天下を目指す武家が積極的に氏神を奉じ、家運と戦勝祈願の対象とするようになり、ついには自身を神格化した宗教施設の築造に及ぶ者まで現れた。こうした天下人―その志望者も含め―が奉じる神道は、当然にも強い政治性を帯びたが、この新たな神道のあり方を「天下人神道」と呼ぶことができる。
 その嚆矢をなしたのは、源氏による八幡神信仰であった。八幡神とは、応神天皇を神格化したもので、本来は平安時代以降、皇室が天照大神に次ぐ第二の皇祖神と位置づけて崇敬の対象としてきたものであった。それは、応神天皇こそが天皇王朝の実質的な始祖と言うべき存在だったからにほかならない。
 実は源氏台頭以前、平安時代中期の関東で大反乱を起こした平将門が天皇を凌駕せんとして「新皇」を称したとき、「八幡大菩薩」の神勅によりその地位を授与されたと主張したことがある。この「八幡大菩薩」とは八幡神と仏教の菩薩とが習合されたもので、元来は聖武天皇の血統が途絶え、桓武天皇が即位した時、天災が相次いだため、聖武天皇の霊の祟りを鎮めるためとして、八幡神が出家して菩薩となったとの想定で八幡神に授与された称号であった。
 将門がこれを持ち出したのは、自身が天皇王朝を凌駕しようとする野望を正当化するためであったろうが、興味深いことに、将門の乱を鎮圧する朝廷側も石清水八幡宮で調伏祈願を行なっているのである。このように八幡神が軍神的なシンボルとなったことで、武家の間で急速に信仰が広まったと見られる。
 なかでも清和天皇を始祖とする賜姓皇族である清和源氏は八幡神を氏神として明確に位置づけて全国に勧請するのであるが、その嚆矢は清和源氏中で最も繁栄した河内源氏二代目棟梁の源頼義であった。彼は前九年の役で勝利した後、河内の私邸に壺井神社を創建して八幡神を勧請、これを総氏神としたのである。
 これは以後、一族によって篤く継承され、やがて頼義の子孫である頼朝が鎌倉幕府を開いた際、八幡神を新たな「首都」となった鎌倉に勧請して、有名な鶴岡八幡宮を開いたのであった。その結果、鶴岡八幡宮は幕府及び鎌倉武士全体の守護神としての政治的権威をも帯びることとなった。
 もっとも、頼朝は自身を神格化して祀るほど自惚れてはいなかったようであるが、関東を中心とした東日本には頼朝を主祭神とする白旗神社が散在している。その中核は鶴岡八幡宮摂末社の白旗神社である。その由緒は必ずしも定かでないが、一説には頼朝の妻北条政子が1200年、前年に没した頼朝が朝廷より「白旗大明神」の神号を受けた時に創建したという。
 しかし、白幡神社はあくまでも鶴岡八幡宮に付属する摂末社にすぎず、その他の白旗神社には頼朝の政敵となった義経を祭る例すら混在している状況で、やはり源氏流を称した後の徳川家康を祀る東照宮のような形で個人的な神格化が公式に普及することはなかったのである。

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