神道と政治―史的総覧

2018年5月 5日 (土)

神道と政治―史的総覧(連載第17回)

六 復古神道への道

神国思想の興隆
 神道はその後に流入してきた儒教や仏教―特に仏教―の影響を受け、習合宗教の色彩を強めていったが、こうした文化融合に対しては反動が現れるのが常である。神道においては、仏教と習合した本地垂迹説に対する反動が南北朝時代に顕著となる。
 その最初の隆起が皇室祭祀の本拠たる伊勢神宮に現れたことは偶然ではない。すなわち、伊勢神道である。伊勢神道は伊勢神宮外宮神職を世襲してきた度会氏が興した神道流派であり、仏より古来の神を優位に置く反本地垂迹説を軸とする。
 しかし、伊勢神道は単純な反本地垂迹説にとどまらず、皇祖とされる天照大神を祀る内宮に対して、外宮の主祭神たる豊受大神を天照大神よりも優位にある普遍神と規定し、ある種の一神教的な立場を打ち出したことに特徴があった。
 その一方で、伊勢神道は元寇以来、ナショナリズムの思想として台頭してきていた「神国思想」、すなわち日本を古来の神々によって加護された国と認識する国粋思想を改めて活性化させ、これを強く打ち出したのであった。
 神国思想を唱えながら、皇祖・天照大神を否定するかのような所論は一見矛盾しているように思えるが、伊勢神道がこのような逆説を提示した背景として、本来マイナーだった外宮の権威を上昇させようという伊勢神宮内部における権力闘争も絡んでいたと推測される。
 一方で、伊勢神道創始者たる度会家行が南北朝動乱渦中で南朝を支持したことで、伊勢神道は南朝、とりわけ南朝総帥となった北畠親房に影響を及ぼし、南朝の理論的支柱となった。ところが、南朝が最終的に敗れたことにより伊勢神道は勢力を失い、代わって京都の吉田神社神職の吉田兼倶が創始した吉田神道に道を譲ることになる。
 吉田神道は教理上は伊勢神道の反本地垂迹説・神国思想を継承するとされるが、実際のところは習合的で、他宗派を排斥するのではなく、儒・仏・道三教を枝・葉・花実になぞらえつつ、日本古来の随神(かんながら)の道を法の根本とする止揚的な立場を採った。
 しかし吉田神道の強みは教理以上にその政治力にあり、兼倶は北朝を擁して権力を確立した足利将軍家と深く結びつき、「神祇管領長上」を称して、全国の神職の位階を授ける権限すら獲得し、全神社の頂点に立った。
 同時に、敬虔な仏教徒でもあった時の後土御門天皇にも進講を通じて取り入り、天皇から本拠の吉田神社境内に建てた斎場所大元宮を「神国第一之霊場、本朝無双之斎庭」としてお墨付きを得ることにも成功したのである。

2018年4月18日 (水)

神道と政治―史的総覧(連載第16回)

五 天下人神道

東照宮と江戸幕府
 天下人を神格化する天下人神道の集大成は、徳川家康によって行なわれた。彼は臨終前の遺言で、実に事細かに神格化の手順を指示している。それはまず本拠駿府の久能山に遺体を安置したうえ、一周忌を終えた後、日光山と京都金地院に小堂を設置して拝礼させよというものであった。
 この遺命に従い、幕府は指定された三箇所に東照社を建立したのであるが、「東照」の名は家康が没後、朝廷から授与された「東照大権現」の神号に由来している。さらに、没後30年近く経過した1645年の宮号授与をもって「東照宮」と称されるようになる。
 家康がこのように詳細な遺言で自己の神格化を図ったのは、実質一代限りで終わった豊臣政権の轍を踏まず、徳川支配を恒久化するうえで支配に宗教的な権威付けを与えようとする狙いからであったのだろう。
 遺命に基づく三つの東照社のうち、久能山東照社は家康埋葬地として東照宮総社の位置づけにあり、その余は「小堂」にとどまったはずのところ、孫の3代将軍家光が江戸に最も近い日光東照社を豪勢に大改築したことから、以後は日光東照社が事実上の東照社総社的な存在となった。
 家光が日光東照社の大改築を通じて祖父家康の権威付けを改めて強化したのは、人々の記憶が薄れかけていた祖父の威光を再活性化することにより、「鎖国」という新たな段階を迎えた徳川支配体制の引き締めを図る狙いがあったと考えられる。
 家光は配下の諸大名に対しても東照社の造営を勧奨したため、徳川‐松平一門はもちろん、譜代大名や外様大名の間でもこぞって東照社の建立が流行し、今日では廃絶したものを含めれば最大でおよそ700の東照社が全国に建立されたと言われる。
 こうして江戸幕府の宗教的権威付けの支柱となった言わば「東照神道」は教義上、家康の側近でもあった天台宗僧侶・天海が提唱した山王一実神道と呼ばれる神道流派に属している。その根底にあるのは、比叡山に発祥した一種の山岳信仰である山王権現を釈迦の化身とみなす神仏習合流派であった。
 とはいえ、その最大の趣意は家康の神格化にあったから、神道としては内容空疎な、まさに政治の産物であった。実際、もう一人の家康側近であった臨済宗僧侶・以心崇伝は反習合的な吉田神道での祭祀を主張していたが、家康の遺言を盾に取った天海との論争に敗れ、山王神道での祭祀となったという経緯がある。
 ただ、崇伝が住した金地院は室町幕府4代将軍足利義持によって建立されたと伝えられる臨済宗寺院で、家康遺命による東照宮を擁し、それ自体も神仏習合を内包しつつ、全国の五山十刹以下全住職の任命権を掌握する僧録司が置かれた徳川体制における仏教統制機関に発展したのである。

2018年3月31日 (土)

神道と政治―史的総覧(連載第15回)

五 天下人神道

豊臣秀吉と豊国神社
 天下人を神格して祀る「天下人神道」が本格的に創始されるのは、戦国時代以後である。戦国の天下人たちはそれ以前の源氏に象徴される皇族由来の「由緒」ある武家ではなく、出自も不確かな下克上大名から出ているため、それぞれ家系を仮冒するばかりでは飽き足らず、自らを神格化して祭祀の対象とさせることを欲した。
 戦国天下人の先駆者となった織田信長は時に唯物論者・無神論者と評されることもあるが、八幡神を祀る石清水八幡宮の修復や長く途絶していた伊勢神宮式年遷宮の復活など、伝統的な神道復興に少なからず関心を示している。
 一方で、イエズス会宣教師ルイス・フロイスに対し「自分自身が神である」であると語り、安土城内に「梵山」と称する大石を安置して信長の御神体として家臣や領民に礼拝を求めたと言われ、自己神格化と見られる行動をも示している。
 彼が謀反を乗り切って存命していれば、信長を主祭神とする神社を自ら建立した可能性もなくはないが、周知のとおり天下統一の夢は道半ばで挫折したため、「信長神社」は残らなかった。ただ、明治初頭になって織田氏子孫が治めた旧天童藩が先祖信長を顕彰するため、京都の船岡山に信長を祀る建勲神社(たけいさおじんじゃ)を建立したが、これは近代の追善的な宗教施設にすぎない。
 信長を継いだ豊臣秀吉は、信長より自己神格化に積極的であった。秀吉は死に際して自身を「新八幡神」として祭祀するよう遺言したとされる。源氏とは程遠い低い出自の秀吉が自己を源氏氏神の八幡神になぞらえようとしたのは、源氏と同格たらんとする彼なりの強烈な上昇志向の表れだったのだろう。
 ところが、朝廷は秀吉の遺志に反して「豊国乃大明神」の神号を授与した。この新たな神号は「兵威を異域に振るう武神」を含意すると宣示され(朝鮮侵略を示唆)、結局、秀吉神社は「豊国神社」として、京都東山に建立された。遷宮は吉田神道を主宰する吉田家によって執り行なわれ、社務職・社僧とも吉田家が独占するなど、当時の神道界の領袖たる吉田家との関わりが深かった。
 しかし、天下人神道の悲哀は、天下人が交代すれば排除されることである。1615年に新たな天下人徳川家康によって豊臣氏が滅亡に追い込まれるや、秀吉は神号剥奪、豊国神社も容赦なく廃絶されるのである。その再興は、明治維新後、秀吉の「皇威を海外に宣べ(た)」功績(これも朝鮮侵略を示唆)を再評価した明治天皇の沙汰によってなされたのである。

2018年3月17日 (土)

神道と政治―史的総覧(連載第14回)

五 天下人神道

武家の八幡神信仰
 武家社会になると、天下を目指す武家が積極的に氏神を奉じ、家運と戦勝祈願の対象とするようになり、ついには自身を神格化した宗教施設の築造に及ぶ者まで現れた。こうした天下人―その志望者も含め―が奉じる神道は、当然にも強い政治性を帯びたが、この新たな神道のあり方を「天下人神道」と呼ぶことができる。
 その嚆矢をなしたのは、源氏による八幡神信仰であった。八幡神とは、応神天皇を神格化したもので、本来は平安時代以降、皇室が天照大神に次ぐ第二の皇祖神と位置づけて崇敬の対象としてきたものであった。それは、応神天皇こそが天皇王朝の実質的な始祖と言うべき存在だったからにほかならない。
 実は源氏台頭以前、平安時代中期の関東で大反乱を起こした平将門が天皇を凌駕せんとして「新皇」を称したとき、「八幡大菩薩」の神勅によりその地位を授与されたと主張したことがある。この「八幡大菩薩」とは八幡神と仏教の菩薩とが習合されたもので、元来は聖武天皇の血統が途絶え、桓武天皇が即位した時、天災が相次いだため、聖武天皇の霊の祟りを鎮めるためとして、八幡神が出家して菩薩となったとの想定で八幡神に授与された称号であった。
 将門がこれを持ち出したのは、自身が天皇王朝を凌駕しようとする野望を正当化するためであったろうが、興味深いことに、将門の乱を鎮圧する朝廷側も石清水八幡宮で調伏祈願を行なっているのである。このように八幡神が軍神的なシンボルとなったことで、武家の間で急速に信仰が広まったと見られる。
 なかでも清和天皇を始祖とする賜姓皇族である清和源氏は八幡神を氏神として明確に位置づけて全国に勧請するのであるが、その嚆矢は清和源氏中で最も繁栄した河内源氏二代目棟梁の源頼義であった。彼は前九年の役で勝利した後、河内の私邸に壺井神社を創建して八幡神を勧請、これを総氏神としたのである。
 これは以後、一族によって篤く継承され、やがて頼義の子孫である頼朝が鎌倉幕府を開いた際、八幡神を新たな「首都」となった鎌倉に勧請して、有名な鶴岡八幡宮を開いたのであった。その結果、鶴岡八幡宮は幕府及び鎌倉武士全体の守護神としての政治的権威をも帯びることとなった。
 もっとも、頼朝は自身を神格化して祀るほど自惚れてはいなかったようであるが、関東を中心とした東日本には頼朝を主祭神とする白旗神社が散在している。その中核は鶴岡八幡宮摂末社の白旗神社である。その由緒は必ずしも定かでないが、一説には頼朝の妻北条政子が1200年、前年に没した頼朝が朝廷より「白旗大明神」の神号を受けた時に創建したという。
 しかし、白幡神社はあくまでも鶴岡八幡宮に付属する摂末社にすぎず、その他の白旗神社には頼朝の政敵となった義経を祭る例すら混在している状況で、やはり源氏流を称した後の徳川家康を祀る東照宮のような形で個人的な神格化が公式に普及することはなかったのである。

2018年2月24日 (土)

神道と政治―史的総覧(連載第13回)

四 神道の軍事化

戦国時代と神職武家
 戦国時代に入ると、神職武家もいやおうなく戦国動乱に巻き込まれていく。織田氏神職出自説を採るなら、神職武家として最も強大化したのは織田氏だったことになるが、これは前回も述べたとおり、仮説的な域を出ていない。
 前回見たうち、織田氏を除く鈴木・諏訪・阿蘇の三氏の中で最も成功を収めたのは武士団棟梁として高度な軍事組織を擁していた諏訪氏であった。
 諏訪氏は内紛渦中で幼年にして当主となった諏訪頼満が成長後、巧みな手腕で領国を拡大し、武田氏を押しのけ諏訪地方の戦国大名にのし上がった。頼満から家督を継承した孫の頼重は時の武田氏当主・信虎の娘を正室に娶り、自身の娘も信虎の息子・晴信(武田信玄)に嫁入りさせるなど、武田氏との姻戚同盟関係が強化された。
 しかし、武田氏側で信玄が父を追放して主導権を握ると状況が一変し、諏訪氏は武田氏の進撃により降伏、頼重は甲府に連行後、弟とともに自害させられた。これにより、諏訪惣領家は滅亡するが、頼重従弟の頼忠は武田氏に臣従し、諏訪大社大祝としての地位を認証され、武田氏滅亡後に諏訪氏の当主を継承した。彼はいったんは対立した徳川氏とも和睦して諏訪地方を安堵されるが、後に上野総社に移封させられた。
 頼忠嫡子の頼水は関ヶ原の戦いで東軍に付き、功績を上げたことで改めて諏訪地方を安堵され、初代高島藩主となり、近世大名家諏訪氏の祖となった。その後、諏訪氏は大名家と大祝家に分離されたため、ある種の政教分離がなされ、宗教的権威を背景とした祭政一致的領国経営は廃止された。
 他方、肥後地方で下克上して戦国大名化していた阿蘇氏は、阿蘇惟豊の時代に最盛期を迎えた。しかし、彼の二人の息子が相次いで死去し、孫に当たるわずか2歳の惟光が当主になると、当時の新兵器であった鉄砲をいち早く取り入れた薩摩の島津氏の侵攻を受け降伏、惟光は山中に逃亡した。
 その後、惟光は加藤清正に庇護され豊臣秀吉の九州征伐を何とか切り抜けるが、秀吉は阿蘇氏の大名としての特権を一切認めなかったうえ、島津氏家臣が首謀した梅北一揆に家臣が参加したことを理由に12歳になった惟光を斬首する非情な措置により大名阿蘇氏の再興を阻止したのである。
 ただし、惟光の弟が加藤氏の援護を受け、阿蘇神社大宮司を継いだことから、阿蘇氏は純然たる神職として改めて再興され、存続していくことができた。
 藤白鈴木氏は戦国大名化することなく、戦国武将として織田信長と本願寺勢力が争った石山合戦で本願寺側に付いたため、敗北後は神領を失い、没落した。ただし、分家の雑賀党鈴木氏は信長、次いで豊臣秀吉に服属して命脈を保った。
 なお、伊豆に移った分家の江梨鈴木氏は鎌倉公方の水軍総大将を務め、戦国時代にも後北条氏の伊豆水軍武将として活躍したが、秀吉の小田原攻めで主君と運命をともにし、傍流は陸奥に落ち延びて、八戸藩郷士となった。

2018年2月15日 (木)

神道と政治―史的総覧(連載第12回)

四 神道の軍事化

神職武家の誕生
 武家支配体制が確立されると、有力神社の神職一族も次第に武装化し、武家化していく傾向を生じた。そうした神官武家の代表格として、前回見た熊野の関連の深い藤白鈴木氏がある。鈴木氏は神道の祖とも言える物部氏正統の古代氏族・穂積氏後裔を称し、熊野三山の一つ、熊野速玉大社の神職を世襲して強い勢力を持った熊野三党の一党を出自とする。
 鈴木一族は平安時代末期に武家化し、源氏方に付いて多くの軍功を上げた。その後、承久の乱では院方に付きながらもしぶとく生き延び、南北朝時代には一族が南朝方と北朝方に分裂したが、後者に付いた一派は伊豆の江梨に移住して江梨鈴木氏を興した。他にも、藤白鈴木氏は全国的に多くの分家を興して穂積姓鈴木氏の母体となった。
 次いで、東国では信州を拠点とした諏訪氏がある。諏訪氏は出雲神話の建御名方神(タケノミナカタヌシ)を神話上の始祖と称し―そうだとすると、出雲王権系出自の可能性あり―、古代より諏訪大社の神職・大祝を世襲してきた一族であり、鈴木氏同様、平安時代末期に武家化し、源氏方に付いて軍功を上げている。諏訪氏は鎌倉幕府御家人、次いで執権北条氏体制の下では北条得宗家被官(御内人)として勢力を持った。
 諏訪神社は源頼朝の崇敬と庇護を受けたため、東国の武神として東国武士の信仰を集め、勧請も盛んに行なわれたことから、諏訪神社が各地に普及する契機となった。諏訪氏を棟梁として諏訪神社氏人で固めた武士団は諏訪神党と称され、その結束力の高さを誇った。
 しかし、こうした鎌倉幕府との特段の結びつきから、幕府の滅亡時には一族の多くが運命を共にすることとなった。にもかかわらず、諏訪氏は神職としての宗教的威信を武器に、南北朝・室町時代を生き延びた。15世紀の文明年間には一族の内紛が発生したが、これを収束させた後はかえって勢力圏を拡大し、諏訪地方における戦国大名としての地位を確立していく。
 最後に、九州地方における神職武家として、阿蘇神社の神職・大宮司を世襲してきた阿蘇氏がある。阿蘇神社は土着性が強く、阿蘇氏の出自も元来は畿内王権から独立していた在地首長(阿蘇の君)の流れと見られる。畿内王権に服属してからは、朝廷から厚遇され、平安時代末期には地元武士団を統率するようになった。
 阿蘇氏も源氏方に付いて鎌倉幕府との結びつきを強め、かつ阿蘇社領が執権北条氏の預所とされたことで北条氏とも結ばれ、最盛期を迎える。しかし、南北朝時代には南朝側を強力に支持したため、北朝側から介入を受け、一族は分裂した。その後も阿蘇氏家中では内紛が常態化しながら、戦国時代には肥後守護職・菊池氏を下克上して戦国大名化していくのである。
 ちなみに、戦国期にいち早く天下人を目指した織田氏も、越前の劔神社神職の出自とする説がある。他方、織田氏は中臣氏に押しやられるまで朝廷祭祀を中心的に担っていた古代氏族・忌部氏の末裔とする説もある。
 劔神社は気比神宮に次ぐ越前二宮の地位を持つ古社であり、朝廷で力を失った忌部氏の一部が越前に流れて神職となったと想定することも可能である。そうだとすると、忌部=織田氏も神職武家の一つということになるが、織田氏自身は平氏または藤原氏末裔を称し、劔神社を崇敬しつつも神職を担った記録はなく、仮説の域を出ない。

2018年1月25日 (木)

神道と政治―史的総覧(連載第11回)

四 神道の軍事化

熊野別当と武家政権
 前章末尾で見たように、平安時代末の院政期になると、熊野三山が院の庇護を受けて政治的にも伸張したのであるが、熊野別当家は同時に軍事力も獲得するようになる。特に熊野水軍である。熊野水軍は紀伊半島南東部の熊野灘、枯木灘に面した地域を拠点とし、この時代の在地水軍勢力の例にならい、海賊を兼ねていた。
 熊野別当家はこの熊野水軍の統制権を掌握し、かれらを通じて瀬戸内海方面にもにらみを利かせた。一方で、武装化した熊野山衆徒も配下に抱え、一定の地上戦力も擁していた。
 そうした軍事力を背景に、熊野別当家は源平両氏の台頭期を生き延びていく。中でも平清盛と同時代の第18代別当湛快は清盛を支援し、平治の乱でも平氏の勝利に貢献して、平氏との密着関係を強めた。しかし、当時の熊野別当家は新宮別当家と田辺別当家の二大勢力に分かれ、源平両氏のいずれに付くかで内紛の様相を強めていた。
 折りしも清盛の死後、第21代別当に就任した湛増(前記湛快の次男)は、源平両氏の抗争が激化する中、両陣営から支援を要請されたため、一説によれば闘鶏で占いをしたと伝えられるほど、源平抗争の中で難しい舵取りを迫られていた。
 実のところ、湛増は当初、父の路線を継いで親平氏派であったのだが、親源氏派であった新宮家との戦闘に敗れたことや、平氏政権の瀬戸内海方面への勢力拡大を不満とする熊野水軍勢力の意向も汲み、親源氏派に乗り換えたのである。ちなみに、源義経の半伝説的な従者・武蔵坊弁慶が湛増の庶子と伝えられることも、弁慶以上に湛増と義経の結びつきを示唆するものかもしれない。
 実際、義経から平氏追討使に任じられた湛増は、源平最終合戦の壇ノ浦の戦いに自ら熊野水軍を率いて参戦、源氏の勝利に貢献した。この功績により、湛増は源頼朝から上総に所領を安堵されるとともに、熊野には地頭守護職を置かずに別当家の直接支配を維持するある種の自治特権が保証されたのである。
 熊野別当家はこうして財政的にも強大な地頭兼自治的領主として鎌倉幕府の機構に組み込まれていった。しかし、承久の乱が転機となる。この乱は熊野三山の伝統的な庇護者であった院と政治的な恩顧を受ける幕府の抗争であったため、両者の板ばさみとなった熊野別当家はいずれを支持するで家中が分裂、混乱した。
 乱が幕府勝利に終わると、幕府は息のかかった鶴岡八幡宮別当・定豪を熊野三山検校職に任じるとともに、乱で上皇方に付いた熊野反徒の追及を徹底し、熊野への統制を強めた。幕府も執権北条氏に乗っ取られて久しい14世紀に入ると、熊野別当家は勢力を失い、14世紀半ばを最後に史料上からも姿を消したのである。

2017年12月30日 (土)

神道と政治―史的総覧(連載第10回)

三 律令的神道祭祀の確立

院政と熊野信仰
 平安時代までに日本神道のあり方として定着した神仏習合が平安末期の複雑な政治情勢の中で独特の形態をまとって発現したのは、熊野信仰であった。紀伊の熊野には古くから山岳信仰の場として何らかの宗教的施設がすでにあったと考えられるが、いわゆる熊野三山として定着するのは、平安時代のことである。
 熊野の原信仰の内容は定かでないが、初期には修験道の霊場としてまず発展したと見られる。8世紀に役小角[えんのおづの]によって創始されたと伝えられる修験道という一種の神秘主義的宗教実践自体が神仏習合の土俗的な表象であり、修験者は祝とも僧とも取れる独特の宗教実践者であった。
 一方、仏教側では平安時代から浄土教の信仰が王侯貴族の間で隆盛化しており、神秘性を湛えた熊野が浄土と同視されるようになった。そうした中で、熊野本宮、熊野速玉、熊野那智の三大神社が有力化し、各社の祭神が仏教の如来や菩薩と同視される形でまさに神仏習合社として発展していったのだった。
 熊野三山は元来、別個の神社として発展してきたところ、平安初期には三山の統一が図られ、運営上も三山を統括する熊野別当職が置かれるようになっていた。熊野別当は神官ではなく、社僧であったが、仏僧が神社を管理するこの変則体制には、この時代の神仏習合が仏教優位のものとなっていたことを示している。
 とはいえ、熊野三山が単に宗教上のみならず、政治的にも強勢化した契機は歴代上皇の信仰と庇護を得たせいである。特に白河院の永久年間の参詣以降、上皇の熊野参詣が恒例化され、曾孫の後白河院の時代になると、30回を越す参詣を記録するまでになった。あたかも、熊野が院政の守護者となったかのごとくである。
 これに伴い、熊野別当の上に中央行政職として熊野三山検校が置かれたが、これは名誉職的存在で、熊野の行政管理はあくまでも熊野別当が執行した。熊野別当家は初代快慶に始まる世襲制であり、白河院から任命された長快以後、新宮別当家と田辺別当家に分裂しつつ、14世紀半ば頃まで続いていく。
 熊野別当は、院から寄進された所領を経営する封建領主となると同時に、熊野水軍の名で知られる軍事力をさえ掌握するようになり、平安末期に始まる武家の台頭という新たな情勢下で、武装化していくことにもなるのであるが、この神道の軍事化という事象については改めて次章に回すこととする。

2017年12月20日 (水)

神道と政治―史的総覧(連載第9回)

三 律令的神道祭祀の確立

鎮護国家と神仏習合
 
前回見たように、律令制の下、神道は神祇官によって中央管理される儀礼的な宗教として確立される一方、律令制確立期である奈良時代には、仏教が朝廷によっても高く奉じられるようになる。特に聖武天皇と光明皇后は仏教に深く帰依し、東大寺や国分寺の創建を主導、仏教を国家鎮護の支柱として据えた。
 このような鎮護仏教と神道の関係性は複雑であり、簡単にはとらえ難いが、さしあたり神道は天皇の権威の源泉であり、国家儀礼の支柱であるの対し、仏教は国家の精神性を補強する護国宗教として措定されたと言えるかもしれない。
 このような関係性は、神宮寺という新たな宗教施設の創出にもつながっている。神宮寺は古来の神社に付設された仏教寺院であり、その役割は神社に祭られた神々を守護することであったが、その根底には神道の神々を仏の化身とみなす本地垂迹思想があった。
 このような神宮寺は皇室祭祀の聖地である伊勢神宮にすら大神宮寺という名で存在した記録があるが、これは奈良時代末には廃絶したようである。理由は寺僧の乱妨によるとされるが、さすがに神道聖地への神宮寺付設は不適切とみなされたのかもしれない。
 神宮寺とは逆に仏教寺院を守護する鎮守社という宗教施設も創設され、その最も著名な例は藤原氏の氏寺である興福寺とその鎮守社・春日大社である。その他、聖武天皇肝いりの東大寺も九州の宇佐八幡宮を勧請する形で鎮守社とした。その本社宇佐八幡宮にも神宮寺として弥勒寺があった。また当初は平安京鎮護を目的とする官寺として創建された東寺は秦氏の氏神社であった伏見稲荷大社を鎮守社とした。
 このような神仏習合が政治的陰謀として発現したのが、宇佐八幡宮偽神託事件である。著名な事件の概要は省略するが、この件の発端は、時の女帝・称徳天皇の寵臣であった仏僧・道鏡の弟で大宰帥・弓削浄人〔ゆげのきよひと〕と大宰府で神祇を司る大宰主神の習宜阿曾麻呂〔すげのあそまろ〕が「道鏡に皇位を継がせるべし」旨の宇佐八幡宮神託が下ったと虚偽の奏上をしたことに始まる。
 事件の中心にあった道鏡自身、多くの門弟を育てた法相宗の高僧・義淵の門弟にして、禅にも通じた仏僧でありながら、祈祷や奇術も行なう男巫的な性格を併せ持つ“怪僧”であり、神仏習合を一身で体現した人物であったようである。
 この神託を通じた奇想天外な皇位簒奪未遂の陰謀は、勧請によって東大寺の鎮守社となり、その中央での権威を増した宇佐八幡宮が仏僧の道鏡と通じて皇位継承問題にまで関与しようとしたもので、神仏習合なくしては考えられなかった事件であろう。宗教の混淆が時に悪政も招く一例である。

2017年12月 8日 (金)

神道と政治―史的総覧(連載第8回)

三 律令的神道祭祀の確立

神祇官の創設
 持統天皇時代に最初の整備がなされ、彼女が準備した続く奈良朝下で完成を見た日本型律令体制においては、神道の管理も律令的統治の中に明確に位置づけられた。朝廷の祭祀を統括する神祇官の職制がそれである。
 神祇官は一般行政を統括する太政官とは別途、形式上はその上位に位置づけられる上級官署であったことからも、天皇王朝が統治上神道をいかに重視したかが看て取れる。
 もっとも、神祇官の長官職である神祇伯の官位は従四位下とされ、太政官長官職で実質的な宰相格であった左大臣の正二位または従二位相当に比較しても低位であったから、神祇官の優位性はまさに儀礼的な意味合いにおいてにほかならず、神祇官が国政において主導的な役割を果たすことはなかった。その意味では、律令的天皇王朝は厳密な意味での「祭政一致」ではなかったとも言える。
 とはいえ、神祇官の職掌は朝廷の祭祀に始まり、諸国の祝部名帳や神戸戸籍の管理、大嘗祭・鎮魂祭の挙行、巫や亀卜のような秘儀に至るまで、神道に関わるおよそすべての業務を司り、現代風に言えば宗務行政庁としての役割を果たした。
 神祇伯の初例は必ずしも明確でないが、記録上は大宝律令制定前、持統天皇に任命された中臣大嶋と目されることは元来、中臣氏が神官職を所掌してきたことからして順当である。中臣氏はやがて、持統天皇の寵臣として律令制整備に尽力し異例の立身を果たした傍系同族の藤原不比等の子孫のみが藤原姓を許されたことに伴い、本宗家中臣氏が神祇官職を歴任する家系として確立された。
 神祇伯は世襲職ではなかったが、大嶋以降、奈良時代中頃までは歴代中臣氏が独占しており、何代かの中断をはさんで大中臣氏と改姓し、さらに平安時代初期まで神祇伯を独占し続けた。言わば、祭祀は中臣氏が、政治は同族藤原氏が分担する体制ができたわけである。
 一方、実際の祭祀や亀卜など秘儀の実務を行なう職掌として、神部や卜部といった下級職があったが、中でも卜部は亀卜を主任務とする職掌であり、地方から卜術に優れた者が抜擢された。そうした中、その名も卜部氏が中央貴族集団として形成され、やがて天皇専属の亀卜職たる宮主職を独占するに至るのである。

2018年5月
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