アフリカ黒人の軌跡

2018年4月11日 (水)

アフリカ黒人の軌跡(連載第22回)

四 内陸アフリカの多様性

ダルフール首長国の盛衰
 「フール人の祖国」を意味するダルフール王国は、かつてサハラ交易圏の中央サハラ方面を超域的に支配したカネム‐ボルヌ帝国に従属していたが、16世紀末に独立王国を建設した。その担い手であるフール人は元来は南部アフリカからスーダン西部に移住、農耕民として定着したナイル‐サハラ語族系民族集団である。
 しかし、ダルフール首長国の由来はやや複雑である。ダルフール首長国の建国前、この地にはアラブ系またはナイロート系とも見られるツンジュル王国が存在していた。しかし、ツンジュル族は少数派であり、王は次第に多数派フール族と通婚し、フール化していった。
 16世紀に現れたツンジュルの王スルタン・ダリは母方からフール族の血を引く人物で、独自の法典を定めるなどダルフール王国化の基礎固めをした。そして実質的なダルフール首長国建国者と目されているのが、彼の曾孫に当たるスレイマン・ソロンである 
 スレイマンはツンジュル王国を解体し、数十回に及ぶ遠征を通じてダルフールの領土を拡張した。その領域は南のナイロート系センナール首長国を侵食するに至った。こうした遠征・領土拡張は奴隷狩りを兼ねており、スレイマンは武器や軍馬と奴隷のバーター取引を積極的に行い、軍備増強を進めていった。
 スレイマンはイスラーム教徒であり、ダルフール首長国をイスラーム国とする上でも創始者であったが、イスラームが正式に国教となったのは、彼の孫アフメド・バクルの時代と見られる。彼は領土の面でもナイル河東岸方面まで拡張し、ダルフールを多民族帝国に完成させた。
 しかし、彼の死後、息子たちの間で王位継承争いが起き、18世紀には60年近い内戦期に入り、帝国は衰退していく。18世紀末の内戦終結後、何人かのスルターンの下で中興が図られるが、最終的に1875年、オスマントルコ宗主下エジプトのムハンマド・アリー朝によって滅ぼされ、エジプトの支配に下った。
 ところで、ダルフールには13世紀以降にアラビア半島からダルフールに移住してきたアラブ系遊牧民集団バッガーラも割拠した。かれらは半独立状態を保ち、水や牧草地の権利をめぐってフール族とは緊張関係にあり、19世紀前半には時のスルターン、モハメド‐エル‐ファドルがバッガーラを攻め、数千人を虐殺した。
 このフール族とバッガーラの対立は、遠く21世紀になって今度はアラブ系政府軍に支援されたバッガーラによるフール族をはじめとする非アラブ系住民の虐殺という逆転した形を取って、より大規模な人道危機として発現することになる。

2018年3月29日 (木)

アフリカ黒人の軌跡(連載第21回)

四 内陸アフリカの多様性

マサイ勢力圏の形成と後退
 ナイロート系諸族の中でも、独自の生活様式を固守してきたのがマサイ族である。マサイ族自身の口伝によれば、かれらは元来トゥルカナ湖北方の低地ナイル谷付近に発祥したが、15世紀以降に南下を開始し、18世紀頃までに現住地であるケニア、タンザニア内陸部に定着した。
 その過程で先住民を征服・吸収していったと見られるが、その証拠はかれらのY-DNAにおいて、非黒人のソマリ族などと共通するハプログループE1b1bが最も高頻度に確認され、ナイロート系のハプログループA3b2は次順位にとどまることにも現れている。この結果は、南下してきたナイロート系征服者の数が決して多くなかったことを示唆する。
 少数集団が征服者となり得た秘訣は、強靭な身体を生かした戦闘力の高さにあったと見られる。実際、マサイ族の男性にとって最も重要な任務は戦士としてのそれであり、適齢男性全員がモランと呼ばれる訓練された戦士となり得る体制にある。こうした戦闘集団としての強さのゆえに、マサイ族は国家を形成せず、原初的な部族共同体を維持しながら、19世紀には大地溝帯のほぼ全域に及ぶ勢力圏を築いた。
 また奴隷化されることなく、民族的独立を維持し得たのも、マサイ族の戦闘能力を恐れた奴隷商人たちが奴隷狩りの対象としなかったがためであった。マサイ族自身、東アフリカのバントゥー系諸族のように自ら奴隷商人化して奴隷貿易に手を貸すようなこともなかった。
 前近代のアフリカ大陸において、奴隷化されず、かつ奴隷貿易に手を貸さずして独立した勢力圏を維持したマサイ族の存在は極めて稀有であった。こうした安定したマサイ勢力圏で、かれらはナイロート諸族のシンボルとも言える家産の牛の放牧を中心とする遊牧生活様式を固守していた。
 しかし19世紀末、おそらく外部から持ち込まれた牛肺疫や牛疫の蔓延による牛の大量死という災害で打撃を受けたことに続き、20世紀初頭には英国との二次の不平等条約によってマサイ族の土地は削減され、植民地主義が拡大する中、マサイ勢力圏は後退を余儀なくされていく。 

2018年3月13日 (火)

アフリカ黒人の軌跡(連載第20回)

四 内陸アフリカの多様性

ナイロート諸族とセンナール首長国
 内陸アフリカで大きな割合を占める民族集団として、ナイロート民族がある。かれらは、ナイル諸語として包括される言語を共有する集団である。代表的な所属民族としてルオ族、マサイ族、ディンカ族、ヌエル族、シルック族などがある。
 この集団の発祥地は今日の南スーダンに属する白ナイル河流域の大湿地スッド付近と見られ、紀元前3000年紀頃に現れ、牛を重要な物資とする牧畜民としての生活様式を確立していった。
 ナイロート民族中最初に王国を形成したのは、シルック族である。かれらは15世紀末に伝説的な王ニイカングの下に統一され、16世紀までには白ナイル河西岸に強力な王国を形成した。シルック王国は牛の牧畜を基礎に、穀物栽培や白ナイルでの漁業を組み合わせた経済活動を営み繁栄するとともに、白ナイルを航行する軍用カヌーを駆使した強力な水軍を擁した。
 シルック王国最大のライバルは、北で隣接するイスラーム系センナール首長国であった。センナール首長国の支配民族フンジは非ナイロート系であるが、その出自は不詳である。首長国の民族構成はヌビア系、ナイロート系からアラブ系まで含む多民族だったと見られる。
 シルックは17世紀前半、強力な騎兵隊を擁するセンナールに対し、白ナイルの交易ルートをめぐって長期の戦争に入ったが、最終的にセンナールが勝利した。しかし17世紀後半になると、それまでの首長連合的な体制を中央集権化することに成功したシルックが盛り返し、衰退するセンナールを尻目にファショダを首都として繁栄を続けた。
 他方、今日の南スーダンで最大人口を占めるディンカ族はナイロート民族発祥地スッドに長くとどまり、国家を形成しない伝統的な生活様式を維持していたと見られるが、17世紀後半にシルックとセンナールの境界域に進出し強勢化したため、シルックとセンナールは同盟に転じ、これを牽制した。
 しかし、センナールが衰亡した19世紀に入ると、ディンカ族とヌエル族の連合勢力が台頭し、ナイル水系のソバト河を越えて白ナイル流域に支配権を広げると、シルックも19世紀後半に衰亡していくのである。

2018年2月21日 (水)

アフリカ黒人の軌跡(連載第19回)

四 内陸アフリカの多様性

ピグミー諸族の苦難
 内陸アフリカの熱帯雨林には、ピグミーと総称される狩猟採集民族が伝統的な生活様式を守って生活してきた。ピグミーという用語は、ギリシャ神話で小人族を意味するピュグマイオイに由来する。実際、ピグミーに属する諸民族は全般に低身長(成人男性でも150センチ前後)という遺伝的特徴を持つ。
 ピグミーは様々な言語を話す諸民族の総称にすぎず、一つの民族集団ではないにもかかわらず、低身長という共通性を持つに至った理由は必ずしも定かでないが、内陸アフリカの熱帯雨林に住み、狩猟活動を効率的に行なううえで身を隠すに適した低身長に収斂進化した結果とも想定される。
 とはいえ、ピグミー諸族には遺伝上Y染色体ハプログループB系統が比較的高率で認められる。このハプログループB系統は元来東アフリカの大地溝帯に発した遺伝子であるので、ピグミー諸族はここから内陸密林地帯へ移住したグループを祖とする集団とも想定できる。
 しかし、言語と遺伝子系統は一致しないことが常であるから、このハプログループB系統集団が言語的に分化したのは、それぞれが周辺のバントゥー系農耕民と接触する過程で、農耕民系の言語を摂取していったためと考えられる。例外として、バカ族のバカ語は分類上ニジェール‐コンゴ語族に属するとされる独自言語であるが、バカ族も第二言語としてはバントゥー系言語を話す。
 このようにピグミー諸族は完全な非接触民族ではなく、農耕民社会と接点を持ってきた狩猟採集民族であるだけに、周辺農耕民族と交易を行なう一方で、差別や迫害にもさらされてきた。中でもコンゴのムブティ族に代表されるピグミーはバントゥー系農耕民の奴隷として使役されたり、女性はバントゥー系農耕民の嫁として取られる一方的通婚習慣が行なわれてきた。
 ピグミー諸族は狩猟採集民族に共通する特徴として、国家を形成することなく、家族を単位とする比較的平等な集団生活を守ってきたことからも、国家を形成するようになった周辺農耕民との関係で劣勢になっていったのである。このことは、とりわけ現代においてルワンダやコンゴなどで民族浄化にさらされる事態を招いている。
 またその原初的生活様式と低身長の形質特徴から、近代の誤った進化理論・人種理論の中で劣等的とみなされるようになり、動物として「人間動物園」に展示されるなどの非道な扱いを受けることにもなったが、この件は後に植民地時代のアフリカ人を扱う項で見ることにしたい。

2018年2月10日 (土)

アフリカ黒人の軌跡(連載第18回)

四 内陸アフリカの多様性

ルワンダ王国の少数支配体制
 キタラ帝国が解体していく過程でいくつかの王国が分流していったが、それら脱キタラ帝国群の中でも14世紀頃に建国されたルワンダは独特の少数支配構造により独自の地位を築き、最盛期コンゴ方面まで勢力圏を広げ、強勢化した。
 ルワンダ王国では人口の20パーセント程度にすぎない牧畜民が王(ムワミ)及び王に次ぐ高い権威を持つ王母をはじめとする支配階級を形成し、人口の大多数を占める農耕民を支配するという少数支配構造が早くに形成された。牧畜支配階級はトゥツィ、農耕被支配階級はフトゥと呼ばれ(他に狩猟被支配階級としてトゥワ)、両者は民族的に異質と認識されるようになった。
 しかし、トゥツィとフトゥは共にバントゥー系の言語と文化を共有し合う関係であり、民族としては近縁関係にある。それが民族的な相違として認識されるようになったのは、地域の牧畜民と農耕民の抗争の過程で、家畜所有者として経済的に優位にあった牧畜民が政治的にも農耕民を従属させる過程で支配の正統性を理由づける必要があったことによるものだろう。
 19世紀までにトゥツィ系の王から土地を安堵されたトゥツィ系族長がフトゥ系農耕民に労働させる準封建的なシステムが確立されると、フトゥはある種の農奴的存在の代名詞になった。その意味で、トゥツィ/フトゥは他のアフリカ諸国における民族・部族の種別ではなく、社会階級の種別とみなしたほうがより正確であろう。
 このような寡頭支配構造はしかし、ドイツ、続いてベルギーが19世紀末から20世紀半ば過ぎに至るまで、隣接のトゥツィ系王国ブルンディと併せて植民地支配を確立した際には極めて好都合であったので、大いに利用された。
 これに付随して、西洋近代的な「人種」の理論が持ち込まれ、支配階級トゥツィのハム族出自説―だとするとトゥツィは「黒人」ではないことになる―という擬似科学理論が流布されるようになった。
 こうした俗流人種理論に基づく分断政策は、ルワンダ独立期の共和革命により王国が打倒され、多数派フトゥが支配権を奪取すると、20世紀末には旧支配層トゥツィを標的とした民族大虐殺という惨事の遠因となったのであるが、この件に関しては後に改めて言及する。

2018年1月17日 (水)

アフリカ黒人の軌跡(連載第17回)

四 内陸アフリカの多様性

キタラ帝国とその解体
 広大なアフリカ大陸の内陸部は多様な農耕民と牧畜民・遊牧民が交錯割拠するところとなり、生活様式の相違ゆえの紛争が古くから絶えない領域であった。そのため、統一的な帝国の成立は大陸の他領域に比べてもいっそう困難であった。
 そうした中で、最も早くに広域的な王権を形成したのはバントゥー系のニョロ族であった。キタラ帝国とも呼ばれるその起源はアフリカ特有の口伝史のゆえに確定できないが、青銅器時代に遡るとする説もある。最盛期には、今日のウガンダを拠点にタンザニア、コンゴ、ルワンダ、ブルンディ、マラウィにまでまたがる広域を支配したため、大湖沼地域から東アフリカのスワヒリ文明圏をつなぐ交易ルートを押さえて経済的にも繁栄した。
 ただ、実際のところ、これら地域には部族単位の小首長国(王国)が林立しており、キタラ「帝国」の内実はそれら小首長国の連合体にすぎず、その統合性は常に不安定だったと見られる。各首長国はそれぞれの生活様式に適合するよりよい土地を求めて自立志向を強め、16世紀頃までに帝国は事実上解体され、名目的なものに移行したと見られる。
 伝承上は神聖なるオムカマの称号を持つ王の愛牛の死が悪い予兆となったとされるが、帝国解体の現実的な契機となったのは、北部からナイル‐サハラ語族に属するルオ族が侵入し、帝国の王権を簒奪したことにあったようである。その結果、旧支配層は南部に逃れ、統合性を失った帝国は分解し、アンコーレ、トロ、ブガンダ、ブソガ、ルワンダ等の諸王国が自立していった。
 名目上のキタラ帝国はその後もなお存続したが、19世紀中頃になると、ブガンダやルワンダ、アンコーレなどが国力をつけて台頭し、名目上の帝国を蚕食していったため、「帝国」は今日のウガンダの小王国ブニョロに断片化されることとなった。

2017年12月13日 (水)

アフリカ黒人の軌跡(連載第16回)

三 スワヒリ文明圏

島嶼部への拡大
 スワヒリ文明は東アフリカ沿岸部を発祥地とするため、それが海を越えてアフリカ島嶼部にも浸透していくのは必然であった。中でもコモロ諸島である。コモロは東アフリカの大島であるマダガスカルと大陸部(現モザンビーク)の中間に位置する四つの島を中心とした諸島である。
 大陸部に近い位置からも最初の入植者は大陸から移住してきたバントゥー系黒人と見られ、かれらが文化的な基層となった点では、東アフリカ大陸部と類似している。しかしコモロは海洋に開かれた性質上、その後アラブ人・ペルシャ人や隣接するマダガスカル人なども加わり、高度の人種的混成が進んだ。
 イスラームが到来したのは10世紀頃であり、キルワ王国の成立年代からさほど隔たっていないところを見ると、キルワ王国をはじめとするスワヒリ文明圏に早くから組み込まれていたと考えられる。実際、10世紀以降のコモロはスワヒリ文明圏の貿易圏における主要なハブ港市として発展していく。
 文化的にイスラームが恒久化し、言語的にもコモロ語は島嶼言語としての独自性を持ちながらバントゥー語系に属し、かつスワヒリ語に類似しており、コモロ諸島はスワヒリ文明圏の辺境を成している。
 後にオマーンがザンジバルを征服して東アフリカ一帯に勢力圏を広げた後も、コモロは総体として独立を維持したが、統一国家の形成には至らず、島ごと、あるいは島内の集落ごとに首長制を形成する分裂状態が長く続いた。
 ちなみにコモロの東沖に位置するマダガスカルはインドネシア方面からの移住者によって早くから開拓され、言語・文化的にマレー系の要素が強い「アフリカの中のアジア」と言うべき独異な性格を帯びたが、大陸からバントゥー系黒人の移住者もあり、マダガスカル人はアジア系とアフリカ系との混血性の強い民族である。
 中でもマダガスカルの民族構成上四番目に大きなツィミヘティ族は18世紀頃、東アフリカから逃亡してきた奴隷の子孫集団と見られており、バントゥー系の血統が最も濃い民族集団である。しかしかれらはスワヒリ語やスワヒリ文明圏の慣習を捨て、先行マダガスカルの文化に同化したため、脱スワヒリ化したスワヒリ文明人とも言える。

2017年11月26日 (日)

アフリカ黒人の軌跡(連載第15回)

三 スワヒリ文明圏

オマーン=ザンジバルの成立
 東アフリカの黒人奴隷ザンジュを語源とするザンジバル島は、前回見たキルワ王国の領土であったが、同王国が衰亡した後、ここを支配したのは最初はポルトガル、次いでアラビア半島南部のオマーンであった。
 オマーン自身、16世紀初頭以来、ポルトガルの支配下に置かれていたが、17世紀前半、イスラーム少数宗派イバード派を奉じるヤアルビー家が台頭し、イマーム王朝を樹立した。このヤアーリバ朝はポルトガルからの独立戦争に勝利し、ポルトガルを本国オマーンから撃退したばかりか、40年近い攻防戦を経てザンジバル島からも駆逐することに成功したのである。
 これ以降、ザンジバル島はオマーンの東アフリカ拠点となり、オマーンは東アフリカ沿岸、紅海沿岸、ペルシア湾岸を結ぶ中継貿易の利権を掌握する海洋貿易帝国として大いに繁栄していく。その後、ヤアーリバ朝はイランによって滅ぼされるが、すぐに同じイバード派のブーサイード家が奪回し、新たなブーサイード朝を建てた。
 その結果、ザンジバルは引き続きブーサイード朝オマーンの領土となる。このオマーン=ザンジバルの支配層は明白にアラブ系であり、アラブ支配下では旧来のキルワ支配層を成したイラン出自とされるシラージも、バントゥー系アフリカ人とともに従属階級に置かれた。
 しかしこの時代になると、シラージ系とバントゥー系の血統的相違はますます相対化され、バントゥー化したシラージはスワヒリ語を母語とし、スワヒリ語圏の商業を担いつつ、スワヒリ語を内陸部まで拡大する役割を果たしたと見られる。
 ザンジバルは19世紀前半にオマーンの新首都となるが、間もなく王朝の内紛から分離独立し、改めてザンジバル王国が成立する。しかし、支配層は引き続きアラブ系のブーサイード朝分家であった。この頃になると、アラブ系とバントゥー化したシラージ系の混血も進み、スルターン自身にも、残された写真からすると母系からバントゥー黒人の血が注入されていたように思われる。
 とはいえ、引き続き従属階級のままに置かれたアフリカ黒人がザンジバルで主体性を獲得するのは、シラージと共同して決起した1964年のザンジバル革命によってザンジバル王国が打倒されてからであった。

2017年11月 9日 (木)

アフリカ黒人の軌跡(連載第14回)

三 スワヒリ文明圏

キルワ貿易王国の盛衰
 スワヒリ文明圏は多くの交易都市国家に分かれ、領域的な国家はほとんど形成されなかったが、その例外として、10世紀半ば頃から16世紀初頭まで存続したキルワ王国がある。
 キルワ王国は、伝承上イラン南西部シーラーズの王子が創始したとされる。「王子」かどうかは別にしても、この地域の有力なペルシャ系商人層が王権を形成したとして不思議はない。
 王朝創設者のペルシャ人アリ・イブン・アル‐ハサン・シラージはキルワ島を在地バントゥー系部族長から買い取って都市を建設したという商業的な伝承からも、キルワ王国が商人によって建てられた可能性は高い。
 こうした建国経緯を反映して、キルワ王国には肌の白い支配層と黒人の奴隷層とが厳然と区別される人種差別的な身分制度が存在しており、バントゥー系黒人の地位は低かったが、一方で、イスラームに改宗したバントゥー系を含む中間層レベルでは混血が進み、実質的にはスワヒリ系国家として発展したものと見られる。 
 キルワ王国の経済基盤は圧倒的に、奴隷貿易を含む外国貿易に置かれていた。12世紀末に当時、金の集積地として繁栄していた現モザンビークの港湾都市ソファラを支配下に入れると、金交易の利権を独占して躍進した。この頃には、ザンジバル島も支配下に入れたキルワ王国は、13世紀以降、地域の大国となる。
 宗教的にはイスラーム系国家であり、キルワには大モスクも建設された。しかし、完全にはイスラーム化しない土着的な要素も残していたようである。13世紀頃にイエメンとの宗教的交流が深まったことを反映して、同世紀後半には王統もシラージ朝からイエメン系とされるマフダリ朝に交代している。
 これが実際の王朝交代か標榜上の宗旨替えかは不明であるが、このマフダリ朝の下、キルワ王国は最盛期を迎え、14世紀にキルワを旅した旅行家イブン・バットゥータは、キルワの壮麗さを称賛している。
  しかし、15世紀に入ると、王朝内部で権力闘争が激しくなり、王権が弱体化していく中、16世紀初頭にポルトガル艦隊の攻撃を受けて破壊された。その後は、統一性を失い、アラビア半島新興のオマーンの支配に下ることになる。

2017年10月26日 (木)

アフリカ黒人の軌跡(連載第13回)

三 スワヒリ文明圏

ザンジュ階級の形成
 スワヒリ文明圏で、人口構成上最大を占めていたのはバントゥー系黒人であったが、アラブ人はかれらをアラビア語で「黒人の土地」を意味する「ザンジュ」の名で呼んだ。この語は、今日タンザニアに属する自治地域ザンジバルに残されている。
 ザンジュはアラブ人らの交易相手でもあったが、アラブ人はザンジュに対して差別的な意識を持っていたことは間違いない。例えば、10世紀のアラブ人地理学者アル‐ムカッダシーは、ザンジュを「黒い皮膚、平らな鼻、縮れた髪を持つ、理解力や知能に乏しい人々」と決めつけているが、当代第一級の知識人ですらこの程度の認識であったことがわかる。
 その結果、ザンジュはアラブ‐ペルシャ商人層が主導したスワヒリ都市では奴隷階級として使役された。また何世紀にもわたって輸出され、アラブ奴隷貿易における中心的な「商品」とすらされたのである。ザンジュ奴隷は東南アジアを経由して、遠く中国王朝にまで「貢物」として献上され、中国文献に「僧祇奴」として転写記録されている。
 アッバース朝ではザンジュを奴隷兵士として徴用することもあったが、イラク南部の農業地帯では農園労働者としてザンジュが送り込まれた。かれらは過酷な労働条件下に置かれていたことから、9世紀後半、アラブ人革命家に煽動されて反乱を起こし、十数年にわたり地方革命政権を維持したほどの力量も示した。
 他方、ザンジュの乱直前期まで生きたアッバース朝の文学者で、アラビア散文文学の祖とも目されるアル‐ジャーヒズは、祖父がザンジュであったとされ、一部ではアラブ‐ザンジュ間の通婚もなされていたことがうかがえる。
 スワヒリ都市にあっては、アラブ‐ペルシャ系との通婚による混血はいっそう進んでいたと思われ、後代にはアラブ‐ペルシャ系とバントゥー系の区別は実質上つかなくなったであろうが、さしあたり初期スワヒリ文明圏の黒人ザンジュ階級は従属的なものであった。

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