アフリカ黒人の軌跡

2019年2月28日 (木)

アフリカ黒人の軌跡(連載第36回)

六 南部アフリカの蠕動

スワジ族とスワジ族の動向
 ズールー人と同じバントゥー系ングニ族に属する民族として、スワジ族がある。かれらは北東アフリカ方面から南下し、放浪した後、17世紀初頭には今日のエスワティニ王国(旧スワジランド)の領域に到達している。
 強力なズールー族との抗争を強いられながらも、スワジ族は比較的小規模のまとまった部族であるため、伝承上は相当に古くから多くの王名が記録されているが、現王国の直接的な創始者と目されるのは、18世紀後半に出たングワネ3世である。彼は領土を拡大し、現在のエスワティニ王国の基礎を築いた王であった。
 ングワネ3世の実父ドゥラミニ3世にちなんでドゥラミニ王朝と呼ばれるスワジ王朝は、順調に継承され、19世紀前半、ズールー王国のシャーカ王ともほぼ同世代のソブーザ1世の時、周辺諸部族を糾合して、王国を拡張した。その結果、スワジ王国はズールー王国に匹敵するほどに強大化した。
 ソブーザ1世を継いだ息子のムスワティ2世は30年近く君臨し、軍事的な征服活動を展開した。彼はズールー族のように連隊制度を導入しつつ、連隊を各前哨基地に配置して支配の核とした。軍略に長けた彼をシャーカ王になぞらえる者もある。
 しかし、1868年のムスワティ2世の死後、スワジ王国の軍事活動は収束する。結局、スワジ王国はそれ以上に強大化することなく、ボーア白人や西洋列強の侵出に直面し、曲折を経て20世紀初頭から60年近く英国領とされたのだった。
 一方、19世紀前半期におけるズールー族の膨張が周辺諸部族に動揺をもたらした「ムフェカーネ」(追い散らし)の時代にあって、独自の自立化を見せた部族としてソト族がある。
 ソト族はバントゥー族大移動の波に乗り、南部に移住後、今日の南アフリカ自由州を中心とする高原地帯に陣取り、多くの小首長国に分かれて展開していた。
 そうした中、ズールー族のシャーカによる征服戦争が始まると、ソト族も今日の内陸国レソト王国の辺りへ移動を余儀なくされたが、この困難の時代に現れた英君が現在のレソト王国の初代国王とみなされるモショエショエ1世であった。
 彼は元来、ソト族の小支族首長家の出自であるが、軍事以上に卓越した外交術によって、ソト族の全体を束ね、王国へと成長させた。折りしもズールー人の侵略で避難民が発生していたが、モショエショエはこれら避難民を領域内に保護しつつ、臣民に組み入れて王国を拡大していったのである。
 彼の外交術はアフリカ南部に手を伸ばす白人勢力との関係でも発揮された。この頃、南部アフリカには土着オランダ系のボーア人勢力とイギリス、さらにフランスが競合的に侵出するという複雑な情勢にあったが、モショエショエはボーア人に対抗すべく、フランスと結び、キリスト教の宣教を容認した。そのうえ、フランスを通じて近代兵器の購入を図ったのである。
 こうして近代化に一早く着手するとともに、モショエショエは1868年、イギリスの保護国となることを決断した。これは、彼が主敵とみなしたボーア人に西部領土を奪われたことを契機としていたが、あえて大英帝国の保護国化する屈辱を受け入れて王国存続の担保とするというモショエショエ流の現実外交の成果とも言える。
 しかし、その代償として、スワジ王国に先駆けて英領化されたレソトの再独立は、以後100年近くにわたって封印されることとなるのであった。

2019年2月 2日 (土)

アフリカ黒人の軌跡(連載第35回)

六 南部アフリカの蠕動

ズールー族の勃興
 今日の南アフリカ共和国を中心とするアフリカ最南部は、先史時代からコイサン諸族の割拠するところであったが、かれらは伝統的な部族社会を守り、王国を形成しなかった。バントゥー族の大移動によって、この奥地にも拡散していたバントゥー系諸族が王国を形成し始めるのもやや遅く、19世紀に入ってからである。
 そうした中で最初に強力な王国を築くのが、ズールー族である。元来、ズールー族はングニ語を話す小さな部族にすぎなかったが、1816年にズールー族長に就いたシャーカの時、突如強大化した。その秘訣は武器と戦法、組織にわたる軍事改革にあった。
 武器に関しては効率の悪い投槍を短槍に代えて接近戦を戦いやすくし、それに合わせて防御用の大楯を開発した。戦法に関しては「雄牛の角」戦略と呼ばれる三分割陣形を導入したとされるが、この戦法の原型はすでにチャンガミレのロズウィ帝国が先駆的に導入していたことは、前回見たとおりである。これが偶然の一致か、シャーカがロズウィの先例を知っていたのかは不明である。
 これらに加え、一種の連隊制度を導入し、組織的な戦闘力を高めたズールー族は周辺のバントゥー系諸族を次々と撃破し、王国版図に加えていった。その結果、最盛時には今日の南アフリカ共和国のクワズール・ナタール州全域に及ぶ王国に成長したが、シャーカは内政面ではしばしば残酷な粛清を行なうなど暴虐だったこともあり、1828年に異母弟ディンガネによって暗殺された。
 この後、シャーカを実質的な初代国王とするズールー王国はディンガネによって継承されるも、彼には異母兄のような軍事的統率力がなく、配下の諸部族の反乱に悩まされた末、1840年にはもう一人の異母弟ムパンデのクーデターにより殺害されてしまう。
 シャーカからディンガネまでのおおむね四半世紀は、ズールー族の攻撃的な膨張政策で南部アフリカが絶えず戦乱状態に置かれ、多数の難民を生んだことから、「ムフェカーネ」(追い散らし)の時代と呼ばれたが、ディンガネを倒したムパンデによる30年余りに及ぶ安定統治がそれを一応収束させた。
 一方、もう一つのズールー王国と呼ぶべき王国も台頭する。シャーカの副官だったムジリカジが今日のジンバブウェ西部に建てたムスワカジ王国である。ムジリカジは1823年、シャーカ王と対立して離脱、自身の配下を率いて放浪した末、衰退していたロズウィ帝国領域に侵入し、ここに自身の王国を建てたのである。
 ムジリカジはシャーカと袂を分かったとはいえ、シャーカ式の連隊制度を導入しつつ、シャーカを徹底した焦土作戦を展開し、周辺勢力を征服していった。そして、1840年までにブラワヨを首都とする強力な軍事国家を築いた。
 暗殺されたシャーカとは異なり、ムジリカジは1868年の死去まで君臨し、その死後は息子のロベングラが継承した。その際、ロベングラの生母の身分が低いことを疑問した配下の首長の反乱が起きたが、ロベングラはこれを鎮圧した。この時、彼は王子だった自身が殺されかけたという意味で、首都を「彼が殺されかけた場所」を意味するブラワヨと命名したという。
 こうしてズールー王国とそこから派生したムスワカジ王国が南部アフリカにおける二大ズールー族国家として並立するが、時の南部アフリカは英国を中心とする西欧列強とオランダ系を主力とする土着白人という二種の白人勢力によって侵食される新たな状況に直面していくのである。これは次章の主題とする。

2019年1月12日 (土)

アフリカ黒人の軌跡(連載第34回)

六 南部アフリカの蠕動

ロズウィ帝国の支配
 ジンバブウェ北東部ムタパ王国が栄えた頃、南西部にはブトワ王国が陣取っていた。この王国は 元ジンバブウェ王国を建てたカランガ人が再興し、西部の都市カミを拠点に建てた王国で、従ってその巨石文化も継承していた。世界遺産でもあるカミ遺跡群はその象徴である。
 経済的には、ムタパと同様に貿易を基盤とし、カミ遺跡群からは欧州や中国産の交易品も出土しており、同時代のムタパと並ぶ貿易立国ぶりがうかがえる。そのため、大航海時代のポルトガルとの通商外交関係を生じたことも同じである。結果、やはりポルトガルの内政干渉を受け、衰退していった。最終的には、1670年頃、新興のチャンガミレ勢力の侵攻を受け、滅亡した。
 チャンガミレ勢力はムタパ王国の王の牛飼いから身を起こしたという風雲児的な軍事指導者チャンガミレ・ドンボが編成した軍事勢力で、チャンガミレはショナ人と見られるが、その兵士はロズウィと呼ばれる強力な集団を形成した。
 アフリカの諸王国では、古くからの族長家が神性を帯びた王家として統治する伝統的支配の傾向が強く、チャンガミレのようなカリスマ風雲児が指導者にのし上がることは珍しいが、彼の強みは強力な石製武器、さらに「破壊者」を意味するロズウィ兵士のまさしく破壊性とにあったようである。
 そればかりでなく、チャンガミレ勢力は戦略的にもすぐれ、19世紀のズールー族が用い、英軍を苦しめた「雄牛の角」戦略と呼ばれる三分割陣形を先駆的に取り入れていたことを示すポルトガル側記録が残されている。
 チャンガミレ・ドンボはそうした強力な軍事力でポルトガル勢力を駆逐し、ジンバブウェ高原での支配力を広げた。彼の没後、指導者はチャンガミレの名称とマンボの王号を名乗り、王朝化していった。そして、やがては対ポルトガル戦争で協調したムタパ王国をも滅ぼし、ジンバブウェ高原の覇者となるのである。
 その軍隊の名称をとってロズウィ帝国とも呼ばれるこの新興国は、経済的にも牧畜農業を基盤に、金鉱、さらにはアラブ商人との交易など多角的な産業を展開し、19世紀後半まで存続した。兵器製造と併せれば、技術と経済を結合させたまさに帝国化の常道をたどったことになる。

2018年12月 5日 (水)

アフリカ黒人の軌跡(連載第33回)

六 南部アフリカの蠕動

ムタパ王国の盛衰
 前回見たように、ジンバブウェ王国に代わって台頭してきたのがムタパ王国であった。この王国は、一名ムウェネムタパ王国(ポルトガル語転訛モノモタパ)とも呼ばれるように、ジンバブウェ王国のムウェネ=王子が建てたムタパ=領土(国)という建国伝承に由来している。
 この伝承からすれば、王国建国者はジンバブウェ王国支配層のカランガ人だった可能性があるが、多数派を占める臣民は現代ジンバブウェで最大民族を占めるショナ人だったと見られる。その意味では、ムタパ王国が現代ジンバブウェの基礎を成したとも言える。
 ムタパ王国は15世紀前半頃の建国初期から積極的な膨張主義政策を志向し、王国の最大版図は今日のジンバブウェから隣国モザンビークの一部に及んだ。とはいえ、その内部構造は征服した小王国を従属支配する連合王国の性格が強く、その支配は集権的ではなかったと考えられる。
 しかし、勢力圏が拡張された結果、王国はジンバブウェ高原からインド洋沿岸に至るまでの交易路を確保し、経済的な基盤とした。また銅や金の採掘も行い、鉱物税を通じて資源国としても栄えたと見られる。
 こうして16世紀初頭までに、ムタパ王国は南部アフリカにおける最大級の交易国家として大国化していたが、それはポルトガルの大航海時代と重なっていた。16世紀前半、ムタパはポルトガルと通商関係を樹立するが、それは西アフリカのコンゴと同様、王国凋落の始まりであった。
 16世紀後半からポルトガル人宣教師によるキリスト教の布教が始まったことで、宮廷にもキリスト教徒が増加した。当初、王国は伝統宗教保守派に配慮し、宣教師を処刑したが、これはポルトガルによる報復的な十字軍介入を招いた。
 何とかこの介入を阻止した後も、ムタパ王は元来不安定な版図維持のためポルトガル人勢力に依存したため、17世紀初頭には経済基盤の鉱山をポルトガルに割譲する条約を締結させられた。
 これを機に、ムタパはポルトガルの間接支配を受けるようになる。その後、ポルトガルを排除する試みもなされたが、1629年、時のマブラ王が洗礼を受けたうえ、初のキリスト教徒王となり、ポルトガル王に臣従を誓ったことで、王国は公式にポルトガル属国となった。
 その後、17世紀末、ムタパ王国は王の牛飼いから身を起こしたというチャンガミレ・ドンボが南部に建国したロズウィ王国を頼ってポルトガル勢力の放逐に成功したことがあだとなり、同国に領土を蚕食されていき、18世紀前半までに事実上王国は崩壊、名目だけの存在として細々と存在するばかりとなった。

2018年11月15日 (木)

アフリカ黒人の軌跡(連載第32回)

六 南部アフリカの蠕動

バントゥー系民族の繁栄
 バントゥー人の大移動は、コイサン諸民族が蟠踞していた南部アフリカにも及んできた。その時期は不確かであるが、9世紀頃とされ、バントゥー人の大移動現象の中ではかなり後期のものであった。その中でも、今日のジンバブウェを拠点に定住したカランガ人(バカランガ人)は、11世紀以降、巨石文化を持つ独自の王国を形成した。
 その最初のものは、マプングブウェと呼ばれる丘陵を中心に形成されたマプングブウェ王国である。これは今日の南アフリカ共和国領リンポポ州に11世紀から13世紀にかけて繁栄した都市王国である。
 この王国は、遺跡の考古学的な検証から、宗教的な色彩を帯びた王をはじめとする指導層がマプングブウェの丘陵上、地区指導者が小丘陵上、庶民層は平地に住み分けるという高度に階級的な社会であったと推察されている。
 こうした居住地の階級的離隔は、南部アフリカでは最初例である。他方では、都市内には行政司法の場と見られる公堂も検出されており、文字記録は残さなかったものの、都市国家として相当高度な機能を備えていた可能性も窺わせる。
 このマプングブウェ王国がどのようにして衰退・滅亡したかは不詳であるが、13世紀末にはマプングブウェの都市国家は放棄されたと見られる。代わって、より東にジンバブウェ王国が台頭してくる。これもカランガ人が形成した古王国で、その由来は先行のマプングブウェ王国から何らかの理由でジンバブウェ高原へ移住した人々によって13世紀前半に建設されたと見られる。
 そのため、巨石文化や三階級制などの特質はマプングブウェ王国のそれと共通しているが、その中心遺跡であるグレート・ジンバブウェは、アクロポリスと呼ばれる王宮跡を中心に、城壁を思わせる石壁で囲まれたより高度な都市遺跡として建設されている。
 南部アフリカでは稀有な特質のゆえ、19世紀に遺跡を「発見」した西洋人は当初、アフリカ黒人に高度な文化を形成する能力はないとする差別的人種観から、グレート・ジンバブウェ遺跡を聖書上のシバ女王国やアラブ人の遺跡と誤認したほどであった。
 ジンバブウェ王国はその立地を生かして象牙・金を軸とする交易の中継地として栄えるようになり、最盛期には遠く中国の元や明からもたらされた陶磁器も出土している。国内的には鉄・銅製品の金属加工業が主産業であり、伝統的な農業・牧畜にとどまらない工業国家としての展開も見せた。
 しかし、そのような繁栄の代償として、森林の乱伐や農地の疲弊などの環境破壊が王国の衰退を促進し、15世紀半ばにはグレート・ジンバブウェが放棄されたと見られる。代わって、伝承によればジンバブウェ王国の一王族が北東部に遠征して建てたと言われるムタパ王国が台頭し、ジンバブウェ王国を侵食・併合したのは皮肉であった。

2018年10月24日 (水)

アフリカ黒人の軌跡(連載第31回)

六 南部アフリカの蠕動

先住者コイサン諸民族
 南部アフリカは元来、現存する人類中でも最も古い特徴を持つコイサン諸民族の割拠する所であった。コイサン諸民族はコイコイ族とサン族の総称であるが、両者には生活様式に明確な相違点が見られる。すなわち、コイコイ族が遊牧民であるのに対し、サン族は狩猟採集民であった。
 サン族のほうが人類発祥時の狩猟採集様式を固守していたことからすると、コイコイ族よりも古い種族と見られる。実際、サン族の社会は明確な首長のようなリーダーを持たない無頭社会であり、身分・職業階級も性別による差別もない平等性の高い原初的な協働社会の特徴を維持していた。
 一方、コイコイ族がいつ頃から遊牧生活に入ったかは不明であるが、かれらは元来今日のボツワナ北部に発祥した後発の民族グループであり、後からより南部に移住し、サン族の居住地を侵食する形で、さらに東の今日のナミビア方面にも拡散していったようである。
 両民族の間ではある程度の通婚関係があったようではあるが、両者の基本的な生活様式の相違は長く維持された。文化的な発展段階としては、サン族がコイコイ族のような遊牧生活へ移行することなく、伝統的な狩猟採集生活を固守したということになるだろう。
 とはいえ、両者はコイサン語族として包括される古い言語に加え、今日まで残され、世界遺産に指定されている岩絵のような芸術文化も共有している。特にサン族の岩絵は著名なツォディロ岩絵をはじめ、3000箇所も残され、かれらが優秀な美術文化の持ち主だったことを示している。
 コイコイ族も岩絵を残しているものの、岩絵文化はほぼサン族のものであったようである。その証拠に、やはりサン族の手になる岩絵が残るナミビアのトゥウェイフルフォンテーンは、コイコイ族が展開するようになると、岩絵の伝統が途絶えるからである。
 ただし、後にこの地に入植してきた白人ボーア人の言葉で「不確実な泉」を意味するように、かつては泉があったらしいトゥウェイフルフォンテーン自体は、サン族の時代から、コイコイ族が展開した後も、シャーマン儀礼が執り行われる両民族にとっての宗教聖地であり続けたようである。

2018年10月11日 (木)

アフリカ黒人の軌跡(連載第30回)

五 奴隷貿易諸国と新大陸黒人

シエラレオーネとライベリア
 19世紀に入り、イギリスを起点に奴隷貿易及び奴隷制廃止の流れが生じる中、西アフリカに二つの特異な植民地が設定された。今日ではそれぞれ独立国として存在しているシエラレオーネとライベリアである。*ライベリアは日本では「リベリア」と表記することが慣例化し、筆者も従来これに従ってきたが、本稿では正規発音に近い「ライベリア」と表記する。
 この両植民地が特異なのは、いずれも白人が征服植民地ではなく、反対に解放された黒人奴隷をアフリカに帰還させる形で「黒人植民地」として成立した点である。奴隷貿易・奴隷制廃止の潮流の中で、解放された黒人奴隷をアフリカへ送り返すという奴隷貿易とは逆の流れが生じたのである。
 このうちシエラレオーネは、イギリスの奴隷解放運動家グランヴィル・シャープが提案して最初の入植者を送り出すが、現地の先住部族テムネ人との衝突や風土病のマラリアなどの蔓延により失敗した。何度かの失敗の後、1792年、現在シエラレオーネの首都でもあるフリータウンが建設され、以後、「自由の町」を意味するこの地が英領西インド諸島やカナダからの解放奴隷の入植地として発展する。
 フリータウンは1808年以降、正式にイギリス領植民地となり、奴隷貿易取締りの拠点ともなる。この地に入植した解放奴隷たちは現地先住民と通婚しつつ、クリオと呼ばれる支配的勢力に成長し、その領域をフリータウンから今日のシエラレオーネを構成する広域に広げていったのである。
 一方、シエラレオーネの東で隣接するライベリアは、アメリカからの解放奴隷の入植地として建設された。アメリカでも19世紀に入ると、奴隷制廃止運動が隆盛化するが、そうした中で、シエラレオーネを参考に、西アフリカへ解放奴隷を帰還させるプロジェクトがアメリカ植民協会を中心に立ち上がる。
 その経緯については、すでに先行連載『ハイチとリベリア』の中で詳述したので(拙稿参照)、繰り返しは避けるが、シエラレオーネとの大きな相違点として、ライベリアは1847年にアフリカ大陸初の共和政国家として独立したことがある。これはライベリアの支配勢力となった解放奴隷アメリコ・ライベリアンがその名のとおり、思想的にも故地アメリカ合衆国の強い影響を受けていたためでもある。
 経緯や思想に違いはあれ、両植民地の支配勢力となった解放奴隷とその子孫集団は、人口構成上10パーセントにも満たない少数派ながら、それぞれの地で長く政治経済を掌握する支配勢力に上ったが、このような少数支配体制は後々、従属下に置かれた先住黒人諸部族からのある種階級闘争を惹起することになっただろう。

2018年9月26日 (水)

アフリカ黒人の軌跡(連載第29回)

五 奴隷貿易諸国と新大陸黒人

アメリカ奴隷制廃止運動と黒人
 アメリカの黒人奴隷は南部では人口の相当部分を占めていたとはいえ、少数派であることに変わりなく、ハイチのように革命的決起を可能にするような条件はなかった。そのため、ハイチ革命の影響が及ぶこともなく、19世紀の奴隷制廃止運動において必ずしも主体的役割を果たしていない。
 とはいえ、18世紀から裁判を通じて自由を勝ち取ろうとする奴隷が存在したことがアメリカの特徴である。その先駆けとして、マサチューセッツの黒人奴隷クウォク・ウォーカーがいる。ガーナ出自の奴隷二世と見られる彼は、1780年のマサチューセッツ憲法の文言「人は生まれながらにして自由かつ平等」を根拠に奴隷からの解放を訴えて勝訴、同州をアメリカ合衆国最初の奴隷制廃止州とするうえで貢献した。
 しかし、連邦のレベルで同様に解放を求めて提訴したドレッド・スコットは成功しなかった。彼は奴隷制廃止州へ転居し、自由身分となって同じ奴隷出身の女性と結婚しようとしたが、1857年、連邦最高裁判所は多数決をもって彼の解放を否定した。多数意見は奴隷制廃止州へ移転しても、奴隷は解放されず、黒人がアメリカ市民となることはできないとして、奴隷制護持に軍配を上げたのだった。
 他方、カリブ海域の奴隷たちのように、武器を取って反乱を起こす奴隷も見られた。あまり知られていないことだが、18世紀初頭のニューヨークでの奴隷反乱を皮切りに、19世紀半ばにかけて、未遂を含めた奴隷の反乱事件はアメリカでも300件近く起きていた。
 南部奴隷州の代表であるバージニア州では1800年、未遂に終わったガブリエルの反乱があった。ガブリエルは読み書きのできる鍛冶職人であり、仲間を集めて決起を企てたが、事前に計画が露見し、逮捕処刑された。これを機に、州当局は奴隷の解放を制限し、奴隷の教育を禁ずる反動的法律を制定、奴隷制を強化した。
 こうした抑圧の中で発生したのが、1831年のナット・ターナーの反乱である。決起に成功し、多数の白人を殺害したこの反乱については、別連載『奴隷の世界歴史』の中でも言及したが(拙稿参照)、この流血事態をもってしても奴隷制は動かなかった。
 例外的に、言論活動を通じて奴隷制廃止を訴えたのがフレデリック・ダグラスである。メリーランド州の奴隷だった彼は主人から密かに授けられた読み書き能力を元手に北部へ逃亡後、奴隷制廃止運動家となり、南北戦争から奴隷解放宣言までを見届けた。
 その後、ダグラスは連邦保安官や駐ハイチ総領事などの公職を歴任、泡沫政党ながら平等権党から黒人系では史上初めての副大統領候補に指名されるなど、奴隷出身者としては異例の経歴を積んだ。
 ダグラスと同年代の女性活動家として、ハリエット・タブマンも特筆すべき存在である。彼女もメリーランド州の奴隷として生まれ、奴隷を南部から北部の奴隷制廃止州へ逃す運動であったいわゆる「地下鉄道」を通じて北部へ逃れ、後に自らも地下鉄道の支援者として活躍した。
 彼女はまた南北戦争に従軍看護師兼北軍スパイとして参加し、北軍の勝利に貢献している。戦後は女性の権利運動家としても活躍を見せ、2020年には史上初めて、黒人系としてドル札紙幣の表面に肖像が印刷される予定となっている。

2018年8月29日 (水)

アフリカ黒人の軌跡(連載第28回)

五 奴隷貿易諸国と新大陸黒人

北米のアフリカ黒人
 大西洋奴隷貿易における黒人奴隷の輸出先は北アメリカにも及んだが、カナダでは黒人奴隷制が普及せず、北アメリカ奴隷制における圧倒的中心は今日のアメリカ合衆国、それもバージニア州に代表される南部に置かれた。
 奴隷貿易が合法的に行なわれていた17世紀から19世紀半ばまでの200年間ほどで今日のアメリカ合衆国を構成する植民地に送り込まれた黒人奴隷の総数は推計で60万人余りと見られる。
 これは大西洋奴隷貿易で南北両アメリカ大陸に輸出された黒人奴隷のうち5パーセント程度にすぎないが、その多くが南部植民地のプランテーション農園に投入され、独立後も南部諸州に引き継がれた。
 アメリカ奴隷制の南北格差は非常に大きく、南北戦争前の奴隷制末期の段階で、北部の黒人人口―当時奴隷は「動産」扱いのため、正式の「人口」には含まれなかったが―北部で1パーセントだったのに対し、南部では人口の三分の一にまで達していた。
 アメリカ黒人奴隷制の特徴は州ごとに法令によって整備されていったこと、逃亡防止のための監視が極めて厳格であったことから、中南米に比べても逃亡奴隷の共同体が形成されにくかったことである。例外として、当時スペイン領だったフロリダへ逃亡し、先住民に服属しつつ、自治的な共同体を形成したブラック・セミノールがある程度である(拙稿参照)。
 ちなみに逃亡奴隷ではないが、主としてサウスカロライナからジョージアにかけての沿岸部に自治的な共同体を形成した黒人奴隷集団がある。出身地の一つであるアンゴラに由来してガラ人と呼ばれたこの集団は、この地域の白人農園主が風土病をもたらす暑い気候を嫌って不在地主の形態を採った結果、自治的に農園管理をするようになったことに由来する。
 ガラ人は出身地のアフリカから持ち込んだ米作技術を応用して、この地域をアメリカ有数の米産地とすることにさえ成功した。かれらは文化的にもアフリカ独自のそれを維持し、アメリカでは珍しいクレオール文化と言語(ガラ語)を発達させた。
 こうした例外はあるものの、一般の黒人奴隷は何世代にもわたり従属した立場に置かれた結果として、言語文化的にも白人社会に同化させられ、出身地の言語文化は忘却された。その代わり、英語を話す白人のキリスト教文化と黒人の音楽的感性が融合された黒人霊歌のような新たな文化が形成されたのである。

2018年8月11日 (土)

アフリカ黒人の軌跡(連載第27回)

五 奴隷貿易諸国と新大陸黒人

ジャマイカ半革命とハイチ革命
 前回の末尾で言及したように、ジャマイカでは逃亡奴隷マルーンが18世紀を通じて反英闘争を展開し、限定的ながら自治権を獲得した。その後、ジャマイカでは1831年に奴隷かつバプティスト教会説教師のサム・シャープが主導する奴隷反乱が発生した。
 この反乱自体は短時日で鎮圧されたが、キリスト教徒によって主導された反乱を重く見た英国本国議会は、1833年、奴隷制度廃止法を制定、ジャマイカ黒人は法的に自由人となった。
 こうしたジャマイカでは、明確な革命の形ではないものの、世紀をまたいだ奴隷の闘争を経て自由を勝ち取るという半革命が成就したと言える。とはいえ、黒人の「自由」は貧困と同義であって、人口の圧倒的多数を占める黒人は形式上参政権を与えられながらも、有料投票制などの仕組みに妨げられ、選挙過程からは排除されていた。
 こうした状況下で1865年、やはり黒人のバプティスト派牧師ポール・ボーグルが反乱を起こした。これも短時日で鎮圧され、ボーグルと徒党は処刑された。事件地にちなみ「モラント湾事件」と呼ばれる反乱は本国でもその鎮圧行動の残酷さが論争を招き、ジャマイカの自治権剥奪・直轄植民地化の契機ともなったが、政治から排除された黒人の地位は19世紀を通じて変わらなかった。
 他方、フランス領のサン‐ドマング(ハイチ)では独立革命というより劇的な展開が見られた。その経緯については『奴隷の世界歴史』で触れたので繰り返さず(拙稿参照)、ここでは革命の舞台となったハイチの特殊性について見ておく。
 ハイチは大西洋奴隷貿易における奴隷の輸出先の最も中心的な場所であったため、主として西アフリカ出身の多数のアフリカ黒人が送り込まれ、ハイチ生まれの黒人も増加していった。結果として、ここでは西アフリカの文化―特にブードゥー教のような宗教文化―と言語が色濃く定着し、フランス語をベースとした典型的なクレオール言語が共通語となった。
 それとともに、ハイチに定住したフランス人農園主は黒人奴隷を愛人として子孫を残すケースが多かったことから、白人と黒人の混血ムラートという自由人階層が誕生し、自身も奴隷主であるような中間層を形成するようになった。また黒人奴隷の個別的な解放の結果、ムラートと合わせた「自由有色人」という新階層が形成された。
 こうした下地の上に、本国におけるフランス革命が影響し、ハイチ革命と史上初の黒人共和国の誕生という歴史的なエポックが実現したのである。
 もっとも、この新生ハイチ共和国のその後の歩みは平坦でなく、常に国家破綻危機と隣り合わせであった。その展開については、別連載『ハイチとリベリア』で詳論したので、そちらに譲る。

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