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アフリカ黒人の軌跡

2019年5月25日 (土)

アフリカ黒人の軌跡(連載第39回)

七 アフリカ分割競争の時代

ベルギー領コンゴの暴虐
 ベルギー領コンゴは、アフリカ分割競争の出発点とも言える象徴的な場所である。今日のコンゴ民主共和国の領域をカバーする地域は1879年以降、ベルギー国王レオポルド2世の依頼を受けたイギリス人ヘンリー・モートン・スタンリーによる探検を契機にベルギーのものとなった。
 レオポルドはこれに先立つ1876年、欧米の探検家や資金提供者らを集めて国際アフリカ協会なる団体を結成していた。この団体はアフリカ中部の「文明化」を支援するという口実を伴っていたが、実際は未踏のアフリカ中部を我が物とすることを狙う隠れ蓑であった。
 この地域は在地首長に率いられた諸部族が割拠するところであり、スタンリーの巧みな交渉により、首長らは次々と不平等条約を締結させられた。これにより、武力行使なくしてこの地域はベルギーの手に落ちたのである。
 ただ、当初のベルギー領コンゴは厳密には「ベルギー領」ではなく、「レオポルド2世領」というほうが正確であった。すなわち王の私領地であり、その管理は前出のアフリカ国際協会から分離された「コンゴ国際協会」に委託されたのである。1885年のベルリン会議も、これを追認した。こうして正式に「コンゴ独立国」が発足した。
 しばしば「コンゴ自由国」とも通称されるものの、その統治は進歩的な立憲君主制を採る本国では望めないレオポルド2世の絶対支配であった。実態としては「国」というより、王の私領地であることに変わりはなかった。つまり、ベルギー政府でさえコンゴに介入できないのである。
 こうして「独立国」なる皮肉な名称の下、現地では象牙収集やゴム栽培などに現地人が動員され、残酷な刑罰の担保で奴隷労働が強いられた。こうした苛烈な実態は、まるで奴隷貿易時代のカリブ海域植民地のようであったが、王の私領地という封建的な性格の領地であったため、そのようなことになったのである。
 コンゴ独立国における現地アフリカ人の犠牲者数は、現在でも論争の的のままである。1998年にはコンゴ独立国における暴政の実態を記述したアメリカの著述家アダム・ホックシールドの『レオポルド王の霊』を契機に、当時はまだ未生成だったジェノサイドの概念にあてはまるかどうかをめぐり論争が起きている。
 しかしコンゴ独立国の実態はつとに同時代的にも批判の的となっており、1900年以降、イギリス人ジャーナリストのエドモンド・モレルによる調査報道で暴露され、1906年の著作『赤いゴム』にまとめられた。これは国際世論を刺激し、レオポルド自身も反論するなど、一連の国際的大論争に発展した。
 論争はジャーナリズムや人道家の間の批判にとどまらず、ベルギーのライバル列強諸国からの嫉視的な批判も高めたため、1908年、レオポルドはコンゴ独立国をベルギー政府の管理下に移す譲歩を余儀なくされた。
 これによって同地が解放されたわけではなく、これによってコンゴが正式にベルギーの領土に編入されただけのことである。言わば、近代的な植民地統治に変更されたのである。コンゴの完全な独立は、半世紀以上先の1960年を待たなければならなかった。

2019年4月30日 (火)

アフリカ黒人の軌跡(連載第38回)

七 アフリカ分割競争の時代

アフリカ分割競争の始まり
 サハラ以南のアフリカ大陸(以下、単に「アフリカ」・「アフリカ大陸」というときは、サハラ以南を指す)は、現南アフリカ共和国が占める南端部を除けば気候的に厳しく、現生人類発祥以来、アフリカにとどまってアフリカの気候に適応してきたアフリカ黒人でしかそこに定住することは困難な地理的環境下にあった。
 一方で、アフリカ黒人は膨大な数の民族・部族に分岐し、広大な領域を支配する帝国的な統治体を形成することなく、便宜上「帝国」と指称される王国にしても、それは征服した部族を配下に編入した連合体的な構制であることが多く、統合性と持続性には欠けていたのである。
 そうした中、西欧列強のアフリカ進出は、15世紀から専ら大航海時代のポルトガルにより先行展開されており、先駆的なアフリカ進出はポルトガルの独壇場と言ってよかった。その後に、順次帝国としての体制を整えた英仏蘭などの列強も参入するようになる。
 しかし、早くからアフリカを踏査していたポルトガルと異なり、これら後発列強のアフリカ進出は「新大陸」アメリカ・カリブ地域の植民地向けの奴隷貿易を目的としたもので、アフリカそのものの植民地化を目指したものではなかった。かれらにとって 直接入植するには、アフリカはあまりにも気候的・風土的に厳しいものがあったのだ。
 一方、南部アフリカには、列強とは別個に、後のボーア人となるオランダ系移民やユグノー派移民による入植活動が17世紀から始まる。これは喜望峰周辺の南部はアフリカ大陸でも気候的に温暖でヨーロッパ人にも入植しやすいという地理的な特質、さらに南部アフリカは人口まばらで、強力な黒人王国の樹立が遅れていたという事情に支えられてのことであっただろう。
 こうして、アフリカ大陸はポルトガル(人)とボーア人の入植を除けば、19世紀までおおむね独立が保たれていたが、奴隷貿易の禁止後、事情が一変する。奴隷貿易が禁止され、新大陸では独立が相次ぐと、西欧列強はアフリカの直接的な領有を図り始めたのだ。
 ベルギーのコンゴ侵出が新たな時代の始まりとなる。当時のベルギーはオランダから分離したばかりの新興小国であるがゆえに、海外膨張の野心を抱いた。これに刺激され、他の列強が続く。後発列強に押され、斜陽化していたポルトガルも改めて参入していく。こうして、列強による侵略的アフリカ分割競争が始まる。 
 後発列強の代表格ドイツが音頭を取って1884年‐85年に開催されたベルリン会議は、アフリカ分割を国際的に認知しつつ、その「ルール」を設定しようとした点で、歴史的な転換的となった。国際的認知といっても、本会議にアフリカ人は誰一人招かれず、欧州列強のための列強の会議にすぎなかったのであるが。
 非黒人系の北アフリカも分割対象だったが、サハラ以南のアフリカは多数の小王国に分岐し、まとまりを欠いていたため、攻められやすかった。非王国地域も多部族が割拠し、部族連合の形成は困難であった。そこで列強は王国・部族ごとに武器供与などの利益と引き換えに「保護」を名目とした不平等条約を各個的に結び、実質上植民地化していく手法が普及する。
 アフリカの諸部族は、こうした列強の恣意的な分割攻勢に対して知的に対抗する力量をまだ備えていなかった。そこから、ヨーロッパ社会に「アフリカ=遅れた非文明社会」という定式が刻み込まれていき、これが黎明期の未熟な遺伝学的知見と組み合わさって、人種差別的な白人優越主義のドグマが流布する結果ともなった。

2019年3月25日 (月)

アフリカ黒人の軌跡(連載第37回)

六 南部アフリカの蠕動

ボーア白人との衝突と混淆
 南部アフリカに関して特筆すべきは、17世紀以降、この地にオランダ人をはじめとするヨーロッパ白人が大量入植してきたことである。この入植は先行して始まっていたポルトガルによるものとは異なり、国家単位ではなく、宗教的迫害などを理由とした自主的な移住によるものであった。
 この入植白人勢力は現地に土着し、先住民であるアフリカ黒人を奴隷化して、農場を経営したため、オランダ語で「農民」を意味するブールの英語転訛でボーア人とも呼ばれた。こうした初期の経緯は北アメリカ植民地とも類似している。
 しかし、その後の展開はアメリカとは逆になる。18世紀末以降、英国が南部アフリカに触手を伸ばし、ボーア人発祥地の地とも言えるケープ植民地を占領すると、新たに英国からの移民が急増した。英国は奴隷制廃止を謳ったため、南部アフリカの黒人奴隷制はアメリカより一足先に終焉した。
 奴隷労働力を喪失したボーア人は1830年代以降、英国の支配を逃れるべく沿岸部を離れ、内陸部へ集団移住するが、この大移動グレート・トレックは、当然にも内陸部のバントゥー系黒人勢力との衝突を生み出した。特に強勢化していたズールー王国は1838年、策略により宴席でボーア人を奇襲し、壊滅的打撃を与えた。
 しかし、同年、劣勢ながら反転攻勢に出たボーア人勢力に大敗を喫したズールー王国は和平に転じ、ボーア人による最初の自治国家ナタール共和国の建設を許すことになる。ナタール共和国は間もなく英国の攻撃を受けて滅亡するが、ボーア人はグレート・トレックを諦めず、英国との条約に基づき、1850年代に相次いでオレンジ自由国とトランスヴァール共和国を建設した。
 この困難なグレート・トレックの過程で、ボーア人は民族意識を強め、アフリカ土着白人アフリカーナーを称するようになる。このオランダ語起源の人称は元来はアフリカ黒人を意味したが、いつしか土着白人の意味に転じたのである。
 とはいえ、アフリカーナーは南部アフリカ全体では圧倒的は少数派であったから、かれらがこの地でアメリカのような奴隷制によらずして勢力を拡大するうえでは黒人勢力を物理的にも血統的にも隔離する必要があった。このことは、後の統合されたアフリカーナー国家・南アフリカ共和国の人種隔離政策につながる。
 他方、ケープ植民地でボーア人が主に先住黒人コイコイ族の女性と通じて生まれた混血系の民族集団はグリカ族となり、グレート・トレックの時代にはボーア人と同様に、内陸部へ集団移住したうえ、1830年代に三つの独自の自治国家を形成した。
 中でも、ウォーターボーア家が世襲的に支配したグリカランドウェストは最も広域かつ強力であったが、ボーア人国家の属領的な地位を脱することはなく、地域にダイヤモンドが発見されると、権益を当て込んだ英国の武力介入を招き、1871年以降は英国植民地に編入されていった。

2019年2月28日 (木)

アフリカ黒人の軌跡(連載第36回)

六 南部アフリカの蠕動

スワジ族とスワジ族の動向
 ズールー人と同じバントゥー系ングニ族に属する民族として、スワジ族がある。かれらは北東アフリカ方面から南下し、放浪した後、17世紀初頭には今日のエスワティニ王国(旧スワジランド)の領域に到達している。
 強力なズールー族との抗争を強いられながらも、スワジ族は比較的小規模のまとまった部族であるため、伝承上は相当に古くから多くの王名が記録されているが、現王国の直接的な創始者と目されるのは、18世紀後半に出たングワネ3世である。彼は領土を拡大し、現在のエスワティニ王国の基礎を築いた王であった。
 ングワネ3世の実父ドゥラミニ3世にちなんでドゥラミニ王朝と呼ばれるスワジ王朝は、順調に継承され、19世紀前半、ズールー王国のシャーカ王ともほぼ同世代のソブーザ1世の時、周辺諸部族を糾合して、王国を拡張した。その結果、スワジ王国はズールー王国に匹敵するほどに強大化した。
 ソブーザ1世を継いだ息子のムスワティ2世は30年近く君臨し、軍事的な征服活動を展開した。彼はズールー族のように連隊制度を導入しつつ、連隊を各前哨基地に配置して支配の核とした。軍略に長けた彼をシャーカ王になぞらえる者もある。
 しかし、1868年のムスワティ2世の死後、スワジ王国の軍事活動は収束する。結局、スワジ王国はそれ以上に強大化することなく、ボーア白人や西洋列強の侵出に直面し、曲折を経て20世紀初頭から60年近く英国領とされたのだった。
 一方、19世紀前半期におけるズールー族の膨張が周辺諸部族に動揺をもたらした「ムフェカーネ」(追い散らし)の時代にあって、独自の自立化を見せた部族としてソト族がある。
 ソト族はバントゥー族大移動の波に乗り、南部に移住後、今日の南アフリカ自由州を中心とする高原地帯に陣取り、多くの小首長国に分かれて展開していた。
 そうした中、ズールー族のシャーカによる征服戦争が始まると、ソト族も今日の内陸国レソト王国の辺りへ移動を余儀なくされたが、この困難の時代に現れた英君が現在のレソト王国の初代国王とみなされるモショエショエ1世であった。
 彼は元来、ソト族の小支族首長家の出自であるが、軍事以上に卓越した外交術によって、ソト族の全体を束ね、王国へと成長させた。折りしもズールー人の侵略で避難民が発生していたが、モショエショエはこれら避難民を領域内に保護しつつ、臣民に組み入れて王国を拡大していったのである。
 彼の外交術はアフリカ南部に手を伸ばす白人勢力との関係でも発揮された。この頃、南部アフリカには土着オランダ系のボーア人勢力とイギリス、さらにフランスが競合的に侵出するという複雑な情勢にあったが、モショエショエはボーア人に対抗すべく、フランスと結び、キリスト教の宣教を容認した。そのうえ、フランスを通じて近代兵器の購入を図ったのである。
 こうして近代化に一早く着手するとともに、モショエショエは1868年、イギリスの保護国となることを決断した。これは、彼が主敵とみなしたボーア人に西部領土を奪われたことを契機としていたが、あえて大英帝国の保護国化する屈辱を受け入れて王国存続の担保とするというモショエショエ流の現実外交の成果とも言える。
 しかし、その代償として、スワジ王国に先駆けて英領化されたレソトの再独立は、以後100年近くにわたって封印されることとなるのであった。

2019年2月 2日 (土)

アフリカ黒人の軌跡(連載第35回)

六 南部アフリカの蠕動

ズールー族の勃興
 今日の南アフリカ共和国を中心とするアフリカ最南部は、先史時代からコイサン諸族の割拠するところであったが、かれらは伝統的な部族社会を守り、王国を形成しなかった。バントゥー族の大移動によって、この奥地にも拡散していたバントゥー系諸族が王国を形成し始めるのもやや遅く、19世紀に入ってからである。
 そうした中で最初に強力な王国を築くのが、ズールー族である。元来、ズールー族はングニ語を話す小さな部族にすぎなかったが、1816年にズールー族長に就いたシャーカの時、突如強大化した。その秘訣は武器と戦法、組織にわたる軍事改革にあった。
 武器に関しては効率の悪い投槍を短槍に代えて接近戦を戦いやすくし、それに合わせて防御用の大楯を開発した。戦法に関しては「雄牛の角」戦略と呼ばれる三分割陣形を導入したとされるが、この戦法の原型はすでにチャンガミレのロズウィ帝国が先駆的に導入していたことは、前回見たとおりである。これが偶然の一致か、シャーカがロズウィの先例を知っていたのかは不明である。
 これらに加え、一種の連隊制度を導入し、組織的な戦闘力を高めたズールー族は周辺のバントゥー系諸族を次々と撃破し、王国版図に加えていった。その結果、最盛時には今日の南アフリカ共和国のクワズール・ナタール州全域に及ぶ王国に成長したが、シャーカは内政面ではしばしば残酷な粛清を行なうなど暴虐だったこともあり、1828年に異母弟ディンガネによって暗殺された。
 この後、シャーカを実質的な初代国王とするズールー王国はディンガネによって継承されるも、彼には異母兄のような軍事的統率力がなく、配下の諸部族の反乱に悩まされた末、1840年にはもう一人の異母弟ムパンデのクーデターにより殺害されてしまう。
 シャーカからディンガネまでのおおむね四半世紀は、ズールー族の攻撃的な膨張政策で南部アフリカが絶えず戦乱状態に置かれ、多数の難民を生んだことから、「ムフェカーネ」(追い散らし)の時代と呼ばれたが、ディンガネを倒したムパンデによる30年余りに及ぶ安定統治がそれを一応収束させた。
 一方、もう一つのズールー王国と呼ぶべき王国も台頭する。シャーカの副官だったムジリカジが今日のジンバブウェ西部に建てたムスワカジ王国である。ムジリカジは1823年、シャーカ王と対立して離脱、自身の配下を率いて放浪した末、衰退していたロズウィ帝国領域に侵入し、ここに自身の王国を建てたのである。
 ムジリカジはシャーカと袂を分かったとはいえ、シャーカ式の連隊制度を導入しつつ、シャーカを徹底した焦土作戦を展開し、周辺勢力を征服していった。そして、1840年までにブラワヨを首都とする強力な軍事国家を築いた。
 暗殺されたシャーカとは異なり、ムジリカジは1868年の死去まで君臨し、その死後は息子のロベングラが継承した。その際、ロベングラの生母の身分が低いことを疑問した配下の首長の反乱が起きたが、ロベングラはこれを鎮圧した。この時、彼は王子だった自身が殺されかけたという意味で、首都を「彼が殺されかけた場所」を意味するブラワヨと命名したという。
 こうしてズールー王国とそこから派生したムスワカジ王国が南部アフリカにおける二大ズールー族国家として並立するが、時の南部アフリカは英国を中心とする西欧列強とオランダ系を主力とする土着白人という二種の白人勢力によって侵食される新たな状況に直面していくのである。これは次章の主題とする。

2019年1月12日 (土)

アフリカ黒人の軌跡(連載第34回)

六 南部アフリカの蠕動

ロズウィ帝国の支配
 ジンバブウェ北東部ムタパ王国が栄えた頃、南西部にはブトワ王国が陣取っていた。この王国は 元ジンバブウェ王国を建てたカランガ人が再興し、西部の都市カミを拠点に建てた王国で、従ってその巨石文化も継承していた。世界遺産でもあるカミ遺跡群はその象徴である。
 経済的には、ムタパと同様に貿易を基盤とし、カミ遺跡群からは欧州や中国産の交易品も出土しており、同時代のムタパと並ぶ貿易立国ぶりがうかがえる。そのため、大航海時代のポルトガルとの通商外交関係を生じたことも同じである。結果、やはりポルトガルの内政干渉を受け、衰退していった。最終的には、1670年頃、新興のチャンガミレ勢力の侵攻を受け、滅亡した。
 チャンガミレ勢力はムタパ王国の王の牛飼いから身を起こしたという風雲児的な軍事指導者チャンガミレ・ドンボが編成した軍事勢力で、チャンガミレはショナ人と見られるが、その兵士はロズウィと呼ばれる強力な集団を形成した。
 アフリカの諸王国では、古くからの族長家が神性を帯びた王家として統治する伝統的支配の傾向が強く、チャンガミレのようなカリスマ風雲児が指導者にのし上がることは珍しいが、彼の強みは強力な石製武器、さらに「破壊者」を意味するロズウィ兵士のまさしく破壊性とにあったようである。
 そればかりでなく、チャンガミレ勢力は戦略的にもすぐれ、19世紀のズールー族が用い、英軍を苦しめた「雄牛の角」戦略と呼ばれる三分割陣形を先駆的に取り入れていたことを示すポルトガル側記録が残されている。
 チャンガミレ・ドンボはそうした強力な軍事力でポルトガル勢力を駆逐し、ジンバブウェ高原での支配力を広げた。彼の没後、指導者はチャンガミレの名称とマンボの王号を名乗り、王朝化していった。そして、やがては対ポルトガル戦争で協調したムタパ王国をも滅ぼし、ジンバブウェ高原の覇者となるのである。
 その軍隊の名称をとってロズウィ帝国とも呼ばれるこの新興国は、経済的にも牧畜農業を基盤に、金鉱、さらにはアラブ商人との交易など多角的な産業を展開し、19世紀後半まで存続した。兵器製造と併せれば、技術と経済を結合させたまさに帝国化の常道をたどったことになる。

2018年12月 5日 (水)

アフリカ黒人の軌跡(連載第33回)

六 南部アフリカの蠕動

ムタパ王国の盛衰
 前回見たように、ジンバブウェ王国に代わって台頭してきたのがムタパ王国であった。この王国は、一名ムウェネムタパ王国(ポルトガル語転訛モノモタパ)とも呼ばれるように、ジンバブウェ王国のムウェネ=王子が建てたムタパ=領土(国)という建国伝承に由来している。
 この伝承からすれば、王国建国者はジンバブウェ王国支配層のカランガ人だった可能性があるが、多数派を占める臣民は現代ジンバブウェで最大民族を占めるショナ人だったと見られる。その意味では、ムタパ王国が現代ジンバブウェの基礎を成したとも言える。
 ムタパ王国は15世紀前半頃の建国初期から積極的な膨張主義政策を志向し、王国の最大版図は今日のジンバブウェから隣国モザンビークの一部に及んだ。とはいえ、その内部構造は征服した小王国を従属支配する連合王国の性格が強く、その支配は集権的ではなかったと考えられる。
 しかし、勢力圏が拡張された結果、王国はジンバブウェ高原からインド洋沿岸に至るまでの交易路を確保し、経済的な基盤とした。また銅や金の採掘も行い、鉱物税を通じて資源国としても栄えたと見られる。
 こうして16世紀初頭までに、ムタパ王国は南部アフリカにおける最大級の交易国家として大国化していたが、それはポルトガルの大航海時代と重なっていた。16世紀前半、ムタパはポルトガルと通商関係を樹立するが、それは西アフリカのコンゴと同様、王国凋落の始まりであった。
 16世紀後半からポルトガル人宣教師によるキリスト教の布教が始まったことで、宮廷にもキリスト教徒が増加した。当初、王国は伝統宗教保守派に配慮し、宣教師を処刑したが、これはポルトガルによる報復的な十字軍介入を招いた。
 何とかこの介入を阻止した後も、ムタパ王は元来不安定な版図維持のためポルトガル人勢力に依存したため、17世紀初頭には経済基盤の鉱山をポルトガルに割譲する条約を締結させられた。
 これを機に、ムタパはポルトガルの間接支配を受けるようになる。その後、ポルトガルを排除する試みもなされたが、1629年、時のマブラ王が洗礼を受けたうえ、初のキリスト教徒王となり、ポルトガル王に臣従を誓ったことで、王国は公式にポルトガル属国となった。
 その後、17世紀末、ムタパ王国は王の牛飼いから身を起こしたというチャンガミレ・ドンボが南部に建国したロズウィ王国を頼ってポルトガル勢力の放逐に成功したことがあだとなり、同国に領土を蚕食されていき、18世紀前半までに事実上王国は崩壊、名目だけの存在として細々と存在するばかりとなった。

2018年11月15日 (木)

アフリカ黒人の軌跡(連載第32回)

六 南部アフリカの蠕動

バントゥー系民族の繁栄
 バントゥー人の大移動は、コイサン諸民族が蟠踞していた南部アフリカにも及んできた。その時期は不確かであるが、9世紀頃とされ、バントゥー人の大移動現象の中ではかなり後期のものであった。その中でも、今日のジンバブウェを拠点に定住したカランガ人(バカランガ人)は、11世紀以降、巨石文化を持つ独自の王国を形成した。
 その最初のものは、マプングブウェと呼ばれる丘陵を中心に形成されたマプングブウェ王国である。これは今日の南アフリカ共和国領リンポポ州に11世紀から13世紀にかけて繁栄した都市王国である。
 この王国は、遺跡の考古学的な検証から、宗教的な色彩を帯びた王をはじめとする指導層がマプングブウェの丘陵上、地区指導者が小丘陵上、庶民層は平地に住み分けるという高度に階級的な社会であったと推察されている。
 こうした居住地の階級的離隔は、南部アフリカでは最初例である。他方では、都市内には行政司法の場と見られる公堂も検出されており、文字記録は残さなかったものの、都市国家として相当高度な機能を備えていた可能性も窺わせる。
 このマプングブウェ王国がどのようにして衰退・滅亡したかは不詳であるが、13世紀末にはマプングブウェの都市国家は放棄されたと見られる。代わって、より東にジンバブウェ王国が台頭してくる。これもカランガ人が形成した古王国で、その由来は先行のマプングブウェ王国から何らかの理由でジンバブウェ高原へ移住した人々によって13世紀前半に建設されたと見られる。
 そのため、巨石文化や三階級制などの特質はマプングブウェ王国のそれと共通しているが、その中心遺跡であるグレート・ジンバブウェは、アクロポリスと呼ばれる王宮跡を中心に、城壁を思わせる石壁で囲まれたより高度な都市遺跡として建設されている。
 南部アフリカでは稀有な特質のゆえ、19世紀に遺跡を「発見」した西洋人は当初、アフリカ黒人に高度な文化を形成する能力はないとする差別的人種観から、グレート・ジンバブウェ遺跡を聖書上のシバ女王国やアラブ人の遺跡と誤認したほどであった。
 ジンバブウェ王国はその立地を生かして象牙・金を軸とする交易の中継地として栄えるようになり、最盛期には遠く中国の元や明からもたらされた陶磁器も出土している。国内的には鉄・銅製品の金属加工業が主産業であり、伝統的な農業・牧畜にとどまらない工業国家としての展開も見せた。
 しかし、そのような繁栄の代償として、森林の乱伐や農地の疲弊などの環境破壊が王国の衰退を促進し、15世紀半ばにはグレート・ジンバブウェが放棄されたと見られる。代わって、伝承によればジンバブウェ王国の一王族が北東部に遠征して建てたと言われるムタパ王国が台頭し、ジンバブウェ王国を侵食・併合したのは皮肉であった。

2018年10月24日 (水)

アフリカ黒人の軌跡(連載第31回)

六 南部アフリカの蠕動

先住者コイサン諸民族
 南部アフリカは元来、現存する人類中でも最も古い特徴を持つコイサン諸民族の割拠する所であった。コイサン諸民族はコイコイ族とサン族の総称であるが、両者には生活様式に明確な相違点が見られる。すなわち、コイコイ族が遊牧民であるのに対し、サン族は狩猟採集民であった。
 サン族のほうが人類発祥時の狩猟採集様式を固守していたことからすると、コイコイ族よりも古い種族と見られる。実際、サン族の社会は明確な首長のようなリーダーを持たない無頭社会であり、身分・職業階級も性別による差別もない平等性の高い原初的な協働社会の特徴を維持していた。
 一方、コイコイ族がいつ頃から遊牧生活に入ったかは不明であるが、かれらは元来今日のボツワナ北部に発祥した後発の民族グループであり、後からより南部に移住し、サン族の居住地を侵食する形で、さらに東の今日のナミビア方面にも拡散していったようである。
 両民族の間ではある程度の通婚関係があったようではあるが、両者の基本的な生活様式の相違は長く維持された。文化的な発展段階としては、サン族がコイコイ族のような遊牧生活へ移行することなく、伝統的な狩猟採集生活を固守したということになるだろう。
 とはいえ、両者はコイサン語族として包括される古い言語に加え、今日まで残され、世界遺産に指定されている岩絵のような芸術文化も共有している。特にサン族の岩絵は著名なツォディロ岩絵をはじめ、3000箇所も残され、かれらが優秀な美術文化の持ち主だったことを示している。
 コイコイ族も岩絵を残しているものの、岩絵文化はほぼサン族のものであったようである。その証拠に、やはりサン族の手になる岩絵が残るナミビアのトゥウェイフルフォンテーンは、コイコイ族が展開するようになると、岩絵の伝統が途絶えるからである。
 ただし、後にこの地に入植してきた白人ボーア人の言葉で「不確実な泉」を意味するように、かつては泉があったらしいトゥウェイフルフォンテーン自体は、サン族の時代から、コイコイ族が展開した後も、シャーマン儀礼が執り行われる両民族にとっての宗教聖地であり続けたようである。

2018年10月11日 (木)

アフリカ黒人の軌跡(連載第30回)

五 奴隷貿易諸国と新大陸黒人

シエラレオーネとライベリア
 19世紀に入り、イギリスを起点に奴隷貿易及び奴隷制廃止の流れが生じる中、西アフリカに二つの特異な植民地が設定された。今日ではそれぞれ独立国として存在しているシエラレオーネとライベリアである。*ライベリアは日本では「リベリア」と表記することが慣例化し、筆者も従来これに従ってきたが、本稿では正規発音に近い「ライベリア」と表記する。
 この両植民地が特異なのは、いずれも白人が征服植民地ではなく、反対に解放された黒人奴隷をアフリカに帰還させる形で「黒人植民地」として成立した点である。奴隷貿易・奴隷制廃止の潮流の中で、解放された黒人奴隷をアフリカへ送り返すという奴隷貿易とは逆の流れが生じたのである。
 このうちシエラレオーネは、イギリスの奴隷解放運動家グランヴィル・シャープが提案して最初の入植者を送り出すが、現地の先住部族テムネ人との衝突や風土病のマラリアなどの蔓延により失敗した。何度かの失敗の後、1792年、現在シエラレオーネの首都でもあるフリータウンが建設され、以後、「自由の町」を意味するこの地が英領西インド諸島やカナダからの解放奴隷の入植地として発展する。
 フリータウンは1808年以降、正式にイギリス領植民地となり、奴隷貿易取締りの拠点ともなる。この地に入植した解放奴隷たちは現地先住民と通婚しつつ、クリオと呼ばれる支配的勢力に成長し、その領域をフリータウンから今日のシエラレオーネを構成する広域に広げていったのである。
 一方、シエラレオーネの東で隣接するライベリアは、アメリカからの解放奴隷の入植地として建設された。アメリカでも19世紀に入ると、奴隷制廃止運動が隆盛化するが、そうした中で、シエラレオーネを参考に、西アフリカへ解放奴隷を帰還させるプロジェクトがアメリカ植民協会を中心に立ち上がる。
 その経緯については、すでに先行連載『ハイチとリベリア』の中で詳述したので(拙稿参照)、繰り返しは避けるが、シエラレオーネとの大きな相違点として、ライベリアは1847年にアフリカ大陸初の共和政国家として独立したことがある。これはライベリアの支配勢力となった解放奴隷アメリコ・ライベリアンがその名のとおり、思想的にも故地アメリカ合衆国の強い影響を受けていたためでもある。
 経緯や思想に違いはあれ、両植民地の支配勢力となった解放奴隷とその子孫集団は、人口構成上10パーセントにも満たない少数派ながら、それぞれの地で長く政治経済を掌握する支配勢力に上ったが、このような少数支配体制は後々、従属下に置かれた先住黒人諸部族からのある種階級闘争を惹起することになっただろう。

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