アフリカ黒人の軌跡

2017年12月13日 (水)

アフリカ黒人の軌跡(連載第16回)

三 スワヒリ文明圏

島嶼部への拡大
 スワヒリ文明は東アフリカ沿岸部を発祥地とするため、それが海を越えてアフリカ島嶼部にも浸透していくのは必然であった。中でもコモロ諸島である。コモロは東アフリカの大島であるマダガスカルと大陸部(現モザンビーク)の中間に位置する四つの島を中心とした諸島である。
 大陸部に近い位置からも最初の入植者は大陸から移住してきたバントゥー系黒人と見られ、かれらが文化的な基層となった点では、東アフリカ大陸部と類似している。しかしコモロは海洋に開かれた性質上、その後アラブ人・ペルシャ人や隣接するマダガスカル人なども加わり、高度の人種的混成が進んだ。
 イスラームが到来したのは10世紀頃であり、キルワ王国の成立年代からさほど隔たっていないところを見ると、キルワ王国をはじめとするスワヒリ文明圏に早くから組み込まれていたと考えられる。実際、10世紀以降のコモロはスワヒリ文明圏の貿易圏における主要なハブ港市として発展していく。
 文化的にイスラームが恒久化し、言語的にもコモロ語は島嶼言語としての独自性を持ちながらバントゥー語系に属し、かつスワヒリ語に類似しており、コモロ諸島はスワヒリ文明圏の辺境を成している。
 後にオマーンがザンジバルを征服して東アフリカ一帯に勢力圏を広げた後も、コモロは総体として独立を維持したが、統一国家の形成には至らず、島ごと、あるいは島内の集落ごとに首長制を形成する分裂状態が長く続いた。
 ちなみにコモロの東沖に位置するマダガスカルはインドネシア方面からの移住者によって早くから開拓され、言語・文化的にマレー系の要素が強い「アフリカの中のアジア」と言うべき独異な性格を帯びたが、大陸からバントゥー系黒人の移住者もあり、マダガスカル人はアジア系とアフリカ系との混血性の強い民族である。
 中でもマダガスカルの民族構成上四番目に大きなツィミヘティ族は18世紀頃、東アフリカから逃亡してきた奴隷の子孫集団と見られており、バントゥー系の血統が最も濃い民族集団である。しかしかれらはスワヒリ語やスワヒリ文明圏の慣習を捨て、先行マダガスカルの文化に同化したため、脱スワヒリ化したスワヒリ文明人とも言える。


〔お知らせ〕
当連載は、筆者の都合により、以後は同一筆者が管理する新規ブログ「ラ・ヒストリーオ」にての不定期連載とさせていただくこととなりました。連載の統一URLは、定まり次第、追って本記事にてお知らせ致します。

2017年11月26日 (日)

アフリカ黒人の軌跡(連載第15回)

三 スワヒリ文明圏

オマーン=ザンジバルの成立
 東アフリカの黒人奴隷ザンジュを語源とするザンジバル島は、前回見たキルワ王国の領土であったが、同王国が衰亡した後、ここを支配したのは最初はポルトガル、次いでアラビア半島南部のオマーンであった。
 オマーン自身、16世紀初頭以来、ポルトガルの支配下に置かれていたが、17世紀前半、イスラーム少数宗派イバード派を奉じるヤアルビー家が台頭し、イマーム王朝を樹立した。このヤアーリバ朝はポルトガルからの独立戦争に勝利し、ポルトガルを本国オマーンから撃退したばかりか、40年近い攻防戦を経てザンジバル島からも駆逐することに成功したのである。
 これ以降、ザンジバル島はオマーンの東アフリカ拠点となり、オマーンは東アフリカ沿岸、紅海沿岸、ペルシア湾岸を結ぶ中継貿易の利権を掌握する海洋貿易帝国として大いに繁栄していく。その後、ヤアーリバ朝はイランによって滅ぼされるが、すぐに同じイバード派のブーサイード家が奪回し、新たなブーサイード朝を建てた。
 その結果、ザンジバルは引き続きブーサイード朝オマーンの領土となる。このオマーン=ザンジバルの支配層は明白にアラブ系であり、アラブ支配下では旧来のキルワ支配層を成したイラン出自とされるシラージも、バントゥー系アフリカ人とともに従属階級に置かれた。
 しかしこの時代になると、シラージ系とバントゥー系の血統的相違はますます相対化され、バントゥー化したシラージはスワヒリ語を母語とし、スワヒリ語圏の商業を担いつつ、スワヒリ語を内陸部まで拡大する役割を果たしたと見られる。
 ザンジバルは19世紀前半にオマーンの新首都となるが、間もなく王朝の内紛から分離独立し、改めてザンジバル王国が成立する。しかし、支配層は引き続きアラブ系のブーサイード朝分家であった。この頃になると、アラブ系とバントゥー化したシラージ系の混血も進み、スルターン自身にも、残された写真からすると母系からバントゥー黒人の血が注入されていたように思われる。
 とはいえ、引き続き従属階級のままに置かれたアフリカ黒人がザンジバルで主体性を獲得するのは、シラージと共同して決起した1964年のザンジバル革命によってザンジバル王国が打倒されてからであった。

2017年11月 9日 (木)

アフリカ黒人の軌跡(連載第14回)

三 スワヒリ文明圏

キルワ貿易王国の盛衰
 スワヒリ文明圏は多くの交易都市国家に分かれ、領域的な国家はほとんど形成されなかったが、その例外として、10世紀半ば頃から16世紀初頭まで存続したキルワ王国がある。
 キルワ王国は、伝承上イラン南西部シーラーズの王子が創始したとされる。「王子」かどうかは別にしても、この地域の有力なペルシャ系商人層が王権を形成したとして不思議はない。
 王朝創設者のペルシャ人アリ・イブン・アル‐ハサン・シラージはキルワ島を在地バントゥー系部族長から買い取って都市を建設したという商業的な伝承からも、キルワ王国が商人によって建てられた可能性は高い。
 こうした建国経緯を反映して、キルワ王国には肌の白い支配層と黒人の奴隷層とが厳然と区別される人種差別的な身分制度が存在しており、バントゥー系黒人の地位は低かったが、一方で、イスラームに改宗したバントゥー系を含む中間層レベルでは混血が進み、実質的にはスワヒリ系国家として発展したものと見られる。 
 キルワ王国の経済基盤は圧倒的に、奴隷貿易を含む外国貿易に置かれていた。12世紀末に当時、金の集積地として繁栄していた現モザンビークの港湾都市ソファラを支配下に入れると、金交易の利権を独占して躍進した。この頃には、ザンジバル島も支配下に入れたキルワ王国は、13世紀以降、地域の大国となる。
 宗教的にはイスラーム系国家であり、キルワには大モスクも建設された。しかし、完全にはイスラーム化しない土着的な要素も残していたようである。13世紀頃にイエメンとの宗教的交流が深まったことを反映して、同世紀後半には王統もシラージ朝からイエメン系とされるマフダリ朝に交代している。
 これが実際の王朝交代か標榜上の宗旨替えかは不明であるが、このマフダリ朝の下、キルワ王国は最盛期を迎え、14世紀にキルワを旅した旅行家イブン・バットゥータは、キルワの壮麗さを称賛している。
  しかし、15世紀に入ると、王朝内部で権力闘争が激しくなり、王権が弱体化していく中、16世紀初頭にポルトガル艦隊の攻撃を受けて破壊された。その後は、統一性を失い、アラビア半島新興のオマーンの支配に下ることになる。

2017年10月26日 (木)

アフリカ黒人の軌跡(連載第13回)

三 スワヒリ文明圏

ザンジュ階級の形成
 スワヒリ文明圏で、人口構成上最大を占めていたのはバントゥー系黒人であったが、アラブ人はかれらをアラビア語で「黒人の土地」を意味する「ザンジュ」の名で呼んだ。この語は、今日タンザニアに属する自治地域ザンジバルに残されている。
 ザンジュはアラブ人らの交易相手でもあったが、アラブ人はザンジュに対して差別的な意識を持っていたことは間違いない。例えば、10世紀のアラブ人地理学者アル‐ムカッダシーは、ザンジュを「黒い皮膚、平らな鼻、縮れた髪を持つ、理解力や知能に乏しい人々」と決めつけているが、当代第一級の知識人ですらこの程度の認識であったことがわかる。
 その結果、ザンジュはアラブ‐ペルシャ商人層が主導したスワヒリ都市では奴隷階級として使役された。また何世紀にもわたって輸出され、アラブ奴隷貿易における中心的な「商品」とすらされたのである。ザンジュ奴隷は東南アジアを経由して、遠く中国王朝にまで「貢物」として献上され、中国文献に「僧祇奴」として転写記録されている。
 アッバース朝ではザンジュを奴隷兵士として徴用することもあったが、イラク南部の農業地帯では農園労働者としてザンジュが送り込まれた。かれらは過酷な労働条件下に置かれていたことから、9世紀後半、アラブ人革命家に煽動されて反乱を起こし、十数年にわたり地方革命政権を維持したほどの力量も示した。
 他方、ザンジュの乱直前期まで生きたアッバース朝の文学者で、アラビア散文文学の祖とも目されるアル‐ジャーヒズは、祖父がザンジュであったとされ、一部ではアラブ‐ザンジュ間の通婚もなされていたことがうかがえる。
 スワヒリ都市にあっては、アラブ‐ペルシャ系との通婚による混血はいっそう進んでいたと思われ、後代にはアラブ‐ペルシャ系とバントゥー系の区別は実質上つかなくなったであろうが、さしあたり初期スワヒリ文明圏の黒人ザンジュ階級は従属的なものであった。

2017年10月19日 (木)

アフリカ黒人の軌跡(連載第12回)

三 スワヒリ文明圏

スワヒリ文明圏の発祥
 今日のアフリカ東海岸中央部には、バントゥー語群を代表するスワヒリ語を共通語とする大連環地域が広がっているが、この地域はまさにバントゥー人の西からの大移動によって始まった。
 バントゥー人はすでに紀元前1000年頃には大湖沼地帯に移住し、農耕文化を担っていたと見られるが、人口増の圧力により、紀元2世紀頃までには東海岸地域に進出した。
 しかし、スワヒリ文明圏の誕生に当たっては、イスラームの伝来が不可欠の触媒となった。アラビア半島で6世紀末に創唱されたイスラームは7世紀末までには紅海を越えてアラブ商人によってアフリカ東海岸にも伝えられていた。
 その結果、バントゥー人のイスラーム化が進むとともに、アラブ人やペルシャ人の定住者も加わり、血統的にも混合しながら、アラビア語の語彙を大幅に取り込んだバントゥー語変種であるスワヒリ語が地域のリンガフランカとして形成・定着し、スワヒリ語を共有する文明圏が築かれていったのである。
 こうしたイスラームを文明化触媒とする形成過程は前章で見たサハラ交易文明圏とも類似しているが、大きく異なるのは、スワヒリ文明圏ではアフリカ黒人自身を主体とする大帝国は築かれなかったことである。その代わりに、キルワやザンジバルなど島嶼部に発達した交易都市群が栄えた。
 その理由として、この地域の民族的・文化的混淆性と海に向かって開かれた交易都市文明としての性格が想定できる。実際、この地域では共同体の発祥をシラージと呼ばれる外来のペルシャ人に求める伝承など、受動的な発祥が強調されるのである。
 しかし考古学的な証拠は、この地域の中心勢力がやはりバントゥー系黒人であり、アラブ人やペルシャ人は文明形成の触媒的な役割を担ったことを示唆している。とはいえ、政治経済的な面でのアラブ人やペルシャ人の主導性は否めなかった。

2017年10月 4日 (水)

アフリカ黒人の軌跡(連載第11回)

二 サハラ交易文明圏

カネム‐ボルヌ帝国
 カネム‐ボルヌ帝国は、古代から近代までチャドを拠点に広域支配した複数の継起的な王朝の総称であり、単一の帝国ではない。その全存続期間はアフリカの諸王国でも最長の1200年近くに及ぶが、チャド湖北東部に拠点を置いた前半の時代をカネム帝国、同西部に遷都した後半をボルヌ帝国と呼ぶ。
 チャドはトリポリを起点とするサハラ交易ルートの南端部に当たる地域であり、西アフリカ方面へのまさに中継地に当たり、ここを広域支配したカネム‐ボルヌ帝国もまたサハラ交易文明圏に包摂される。
 その最初期のカネム王朝はナイル・サハラ語族系の遊牧民カネンブ族によって建てられた。かれらは民族籍不詳の先住サオ人の都市国家を征服して定住化し、その高度な文化を吸収しつつ、新王朝を発展させた。しかし、11世紀後半、フマイと名乗る実力者が王権を簒奪し、新王朝を建てた。
 この新王朝の民族的出自も不詳であるが、アラブ系イエメン人の系譜を名乗るセフワ朝を称した。しかし、実際のところ、セフワ朝はやはりナイル・サハラ語族系のカヌリ人を主体としていたと考えられる。セフワ朝は13世紀に出たドゥナマ・ダッバレミ王の時、イスラーム化し、イスラーム帝国として強勢化する。
 しかし14世紀には衰退し、1376年、チャド湖西南部のボルヌ地方への遷都を余儀なくされた。王室も分裂し、存亡の瀬戸際に立たされたが、15世紀後半に出たアリ・ガジ王が王室の統一とカネム帝国時代の王都ンジミの奪回を果たした。
 16世紀後半のイドリス・アルーマ王の時代にカネム帝国時代の領域をほぼ奪回し、ハウサ諸王国も支配下に置き、ニジェール東部にまで及ぶ帝国全盛期を迎えた。その中央サハラにおける覇権は、19世紀初頭にニジェール・コンゴ語族系のフラニ人が台頭するまで続いていく。

2017年9月24日 (日)

アフリカ黒人の軌跡(連載第10回)

二 サハラ交易文明圏

ハウサ諸王国群
 
サハラ交易文明圏で活動したもう一つのグループとして、ハウサ人を挙げなくてはならない。ハウサ人は今日では西アフリカの大国ナイジェリアで最大人口を擁する主要民族となっているが、その故地は東アフリカのヌビア地方と見られている。
 もっとも、伝承上はイラクのバクダッドの王子バヤジダを遠祖とするというが、遺伝子上ハウサ人が最も近いのはナイル・サハラ語族系のナイロート族であるとされるから、かれらは元来、ナイル・サハラ語族だったと推定される。
 とはいえ、現在のかれらの言語ハウサ語は、古代エジプト語やアラビア語も広く包含されるアフロ・アジア語族の一分岐チャド語派に分類される。これはおそらく、かれらが西方へ大移動する過程のチャド付近で、使用言語の交替を経験したためと考えられる。
 ハウサ人は西暦700年頃までに大移動を終え、13世紀頃から今日のニジェール南部・ナイジェリア北部にかけての地域に多数の都市国家を形成した。これらの都市にはそれぞれ王ないし首長がおり、都市王国の形態を取っていた。
 西アフリカ定着後は周辺のマンデ系民族などからイスラームを受容し、イスラーム化していった。ただ、ハウサ諸王国は統一されることなく、時の西アフリカ覇権国家ソンガイ帝国とチャド方面の覇権を握るカネム‐ボルヌ帝国の間を埋める緩衝国家群としてそれぞれがサハラ交易の中継ぎで収益を上げていた。
 強いて言えば、最も古いハウサ都市国家の一つであるザリアと後発のケッビが二強としてライバル関係にあったが、いずれも統一帝国を形成するには至らなかった。ハウサ諸王国は19世紀初頭に新興のソコト帝国に征服されるまで長く持続したが、これはあえて不安定な統一帝国を構築しなかったおかげとも言えるだろう。
 こうしてハウサ人は政治的に分裂しながらも、商業を通じて総体としてはナイジェリア北部で強固な地盤を確立し、西アフリカ最大の民族集団に成長するとともに、その言語ハウサ語はスワヒリ語と並びブラックアフリカにおける商取引上の共通語(リンガ・フランカ)の一つとなっていった。

2017年9月13日 (水)

アフリカ黒人の軌跡(連載第9回)

二 サハラ交易文明圏

マリ/ソンガイ帝国の繁栄
 ガーナがムラービト朝の攻撃を受けて衰亡した後、西アフリカはしばらく混沌とした情勢に陥るが、その中で優勢だったのは、やはりマンデ語派のスースー族が建てたスースー王国であった。
 これに対し、スースー王国の支配下にあったマンディンカ族が伝説的英雄スンジャータ・ケイタの指導で反乱を起こして勝利、ケイタがマリ王国を建てた。この新王国は非常な成功を収め、ガーナの実質的な後継者として、金を資源的基盤としたサハラ交易を掌握し、経済的にも繁栄を極めた。
 この頃から次のソンガイ帝国の時代にかけ、ニジェール河中流域のオアシス都市トンブクトゥはサハラ交易の中継拠点として繁栄し、西欧にも「黄金郷」として知られるほどとなった。トンブクトゥにはイスラーム商人のほか、知識人も集まったことから、西アフリカにおけるイスラーム教学の中心ともなり、この地域のイスラーム化をさらに深化させる役割も果たした。
 マリは14世紀前半に出たマンサ・ムーサ王の時、その最盛期を迎える。彼は巨額の資産を有するとともに、敬虔なイスラーム教徒でもあり、1324年に大がかりなイスラーム聖地メッカ巡礼を挙行して名を残した。その際、大量の金の喜捨を行なったため、金相場が暴落したとの逸話も残る。 
 周辺小王国を服属させ、域内人口が5000万人ともされる帝国的隆盛を極めたマリであったが、14世紀後半以降は弱体化し、南北から外部勢力の侵攻をたびたび受け、衰退していく(最終的滅亡は17世紀前半)。代わって、覇権を握ったのはソンガイ王国であった。
 その発祥民族であるソンガイ族はガーナやマリを担ったニジェール・コンゴ語族ではなく、ナイル・サハラ語族に属しており、元はニジェール上流域のガオを首都とする独立王国として繁栄したが、マリ帝国時代はマリに服属していた。
 ガオはマリが衰退した14世紀後半以降、優勢となり、スンニ・アリ王の時、マリを破りソンガイ帝国の基礎を築く。しかし、後を継いだ息子のスンニ・バルは1493年、ソニンケ族出身の軍人アスキア・ムハンマドのクーデターで王位を追われた。
 このクーデターの背景には、イスラームへの帰依を拒否したスンニ・バルへのイスラーム勢力の反発とガーナ以来、閉塞していたソニンケ族の権力奪還という二つの要素があったように見える。アスキア・ムハンマド王は、イスラーム教を主軸とする体制を確立するとともに、伝統のサハラ交易をいっそう強化し、ソンガイ帝国の全盛期を作った。
 しかし、晩年失明したアスキア・ムハンマドが息子たちによって廃位された後は、王位継承争いが激化する中、ソンガイは衰退していく。最終的には16世紀末の1592年、北アフリカで勢力を強めていたモロッコに侵攻され、滅亡した。

2017年9月 7日 (木)

アフリカ黒人の軌跡(連載第8回)

二 サハラ交易文明圏

イスラームの受容
 アフリカ黒人は、隣接するエジプト文明から多大な影響を受けたヌビア人を除けば、高度な文明圏から地理的に隔絶されていたため、独自の文化を発達させつつも、文字体系も備えた高度文明を創出することには難儀していた。その状況を変えたのは、西アジアから到来してイスラーム教であった。
 アフリカ黒人のイスラームの受容は、西アフリカから始まった。その先覚者はサハラ交易を掌握するようになったガーナである。ガーナは7世紀にイスラームによって北アフリカが征服され、隊商交易のネットワークが確立されると、サハラ交易ニジェール・ルートの中継点を押さえて利益を得たが、その資源的基盤となったのは、「黄金の国」とも評される由来ともなった金であった。
 ガーナに関する最初の史料情報は9世紀のイスラーム学者によってもたらされているが、ガーナ自身は史料を残さなかったため、その実態の詳細は必ずしも明らかでない。今日的な知見によると、ガーナ王国はマンデ語派の中でもソニンケ族と呼ばれる民族集団を主体とする国家で、それぞれの王を持つ都市国家の連合王国という構造を有していたと見られるが、連合王国の王は高い権威を持っていたようである。
 アフリカ旅行者からの情報を収集し、ガーナの繁栄ぶりを描写した11世紀のコルドバの学者アブ・ウバイド・アル‐バクリによると、この時代のガーナはイスラームの受容を始めた唯一の黒人国家とされ、遅くとも11世紀にはイスラーム教がガーナに浸透していたことがわかる。
 しかし皮肉なことに、イスラームの受容はガーナ王国の文明化とともに衰退をもたらした。その要因として、1076年、ガーナの交易利益の横取りを狙った北アフリカのアマジク系イスラーム王朝ムラービト朝による攻撃を受けて事実上征服されたことがあった。
 ガーナはその後も小国として細々と存続したが、13世紀に入ると、同じマンデ語派系マンディンカ族が建てた新興のイスラーム系マリ王国の興隆により、同国に吸収され消滅した。これ以降、西アフリカの覇権はマリが握ることになる。

2017年8月 9日 (水)

アフリカ黒人の軌跡(連載第7回)

二 サハラ交易文明圏

サハラ交易と文明開化
 ヌビア人の王国が衰亡した後、アフリカ黒人の活動中心は西アフリカへ遷移し、西アフリカの文明開化を刺激するが、その契機となったのは、サハラ砂漠をルートとする交易活動―サハラ交易であった。
 かつて緑地だったと想定されるサハラも紀元後には砂漠化が進行しており、紀元3世紀頃には乾燥に強いラクダが移入され、ラクダを使役する交易が盛んになり始めていた。気候変動に伴う砂漠化の進行が人々から生活の場を奪う一方で、砂漠をルートとする交易は活発化するという歴史の皮肉であった。
 この地域でラクダ交易を最初に開始したのは、北アフリカ地域全体に割拠したアマジクの諸族であったが、かれらはアフリカ黒人ではなく、アフロ・アジア語族に属するコーカソイドである。アマジクはイスラーム勢力の北アフリカ征服により順次イスラーム化し、後に強力なイスラーム諸王朝を築く。
 サハラ交易の主要ルートは、現モロッコからニジェール河北部へ通ずるニジェール・ルートと現チュニジアからチャド湖付近へ通ずるチャド・ルートの二本があったが、前者のニジェール河流域では紀元前3000年紀から先行の農耕文化圏が拓けている。しかし、それはナイル河流域のような文明圏に発展することはなかった。
 やがてこの流域ではバントゥー人とも同系のニジェール‐コンゴ語族に属するマンデ語派諸族の村落群が出現するが、その中からガーナが優勢化し、早ければ紀元4世紀には王国を形成したとされる。後にガーナ王国は隊商交易で巨富を築くことになる。
 このガーナを嚆矢として、西アフリカからチャド湖付近にかけてのサハラ交易ルート沿いには、アフリカ黒人を担い手とする商業文明圏―サハラ交易文明圏―が築かれていくのである。

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