アフリカ黒人の軌跡

2017年11月 9日 (木)

アフリカ黒人の軌跡(連載第14回)

三 スワヒリ文明圏

キルワ貿易王国の盛衰
 スワヒリ文明圏は多くの交易都市国家に分かれ、領域的な国家はほとんど形成されなかったが、その例外として、10世紀半ば頃から16世紀初頭まで存続したキルワ王国がある。
 キルワ王国は、伝承上イラン南西部シーラーズの王子が創始したとされる。「王子」かどうかは別にしても、この地域の有力なペルシャ系商人層が王権を形成したとして不思議はない。
 王朝創設者のペルシャ人アリ・イブン・アル‐ハサン・シラージはキルワ島を在地バントゥー系部族長から買い取って都市を建設したという商業的な伝承からも、キルワ王国が商人によって建てられた可能性は高い。
 こうした建国経緯を反映して、キルワ王国には肌の白い支配層と黒人の奴隷層とが厳然と区別される人種差別的な身分制度が存在しており、バントゥー系黒人の地位は低かったが、一方で、イスラームに改宗したバントゥー系を含む中間層レベルでは混血が進み、実質的にはスワヒリ系国家として発展したものと見られる。 
 キルワ王国の経済基盤は圧倒的に、奴隷貿易を含む外国貿易に置かれていた。12世紀末に当時、金の集積地として繁栄していた現モザンビークの港湾都市ソファラを支配下に入れると、金交易の利権を独占して躍進した。この頃には、ザンジバル島も支配下に入れたキルワ王国は、13世紀以降、地域の大国となる。
 宗教的にはイスラーム系国家であり、キルワには大モスクも建設された。しかし、完全にはイスラーム化しない土着的な要素も残していたようである。13世紀頃にイエメンとの宗教的交流が深まったことを反映して、同世紀後半には王統もシラージ朝からイエメン系とされるマフダリ朝に交代している。
 これが実際の王朝交代か標榜上の宗旨替えかは不明であるが、このマフダリ朝の下、キルワ王国は最盛期を迎え、14世紀にキルワを旅した旅行家イブン・バットゥータは、キルワの壮麗さを称賛している。
  しかし、15世紀に入ると、王朝内部で権力闘争が激しくなり、王権が弱体化していく中、16世紀初頭にポルトガル艦隊の攻撃を受けて破壊された。その後は、統一性を失い、アラビア半島新興のオマーンの支配に下ることになる。

2017年10月26日 (木)

アフリカ黒人の軌跡(連載第13回)

三 スワヒリ文明圏

ザンジュ階級の形成
 スワヒリ文明圏で、人口構成上最大を占めていたのはバントゥー系黒人であったが、アラブ人はかれらをアラビア語で「黒人の土地」を意味する「ザンジュ」の名で呼んだ。この語は、今日タンザニアに属する自治地域ザンジバルに残されている。
 ザンジュはアラブ人らの交易相手でもあったが、アラブ人はザンジュに対して差別的な意識を持っていたことは間違いない。例えば、10世紀のアラブ人地理学者アル‐ムカッダシーは、ザンジュを「黒い皮膚、平らな鼻、縮れた髪を持つ、理解力や知能に乏しい人々」と決めつけているが、当代第一級の知識人ですらこの程度の認識であったことがわかる。
 その結果、ザンジュはアラブ‐ペルシャ商人層が主導したスワヒリ都市では奴隷階級として使役された。また何世紀にもわたって輸出され、アラブ奴隷貿易における中心的な「商品」とすらされたのである。ザンジュ奴隷は東南アジアを経由して、遠く中国王朝にまで「貢物」として献上され、中国文献に「僧祇奴」として転写記録されている。
 アッバース朝ではザンジュを奴隷兵士として徴用することもあったが、イラク南部の農業地帯では農園労働者としてザンジュが送り込まれた。かれらは過酷な労働条件下に置かれていたことから、9世紀後半、アラブ人革命家に煽動されて反乱を起こし、十数年にわたり地方革命政権を維持したほどの力量も示した。
 他方、ザンジュの乱直前期まで生きたアッバース朝の文学者で、アラビア散文文学の祖とも目されるアル‐ジャーヒズは、祖父がザンジュであったとされ、一部ではアラブ‐ザンジュ間の通婚もなされていたことがうかがえる。
 スワヒリ都市にあっては、アラブ‐ペルシャ系との通婚による混血はいっそう進んでいたと思われ、後代にはアラブ‐ペルシャ系とバントゥー系の区別は実質上つかなくなったであろうが、さしあたり初期スワヒリ文明圏の黒人ザンジュ階級は従属的なものであった。

2017年10月19日 (木)

アフリカ黒人の軌跡(連載第12回)

三 スワヒリ文明圏

スワヒリ文明圏の発祥
 今日のアフリカ東海岸中央部には、バントゥー語群を代表するスワヒリ語を共通語とする大連環地域が広がっているが、この地域はまさにバントゥー人の西からの大移動によって始まった。
 バントゥー人はすでに紀元前1000年頃には大湖沼地帯に移住し、農耕文化を担っていたと見られるが、人口増の圧力により、紀元2世紀頃までには東海岸地域に進出した。
 しかし、スワヒリ文明圏の誕生に当たっては、イスラームの伝来が不可欠の触媒となった。アラビア半島で6世紀末に創唱されたイスラームは7世紀末までには紅海を越えてアラブ商人によってアフリカ東海岸にも伝えられていた。
 その結果、バントゥー人のイスラーム化が進むとともに、アラブ人やペルシャ人の定住者も加わり、血統的にも混合しながら、アラビア語の語彙を大幅に取り込んだバントゥー語変種であるスワヒリ語が地域のリンガフランカとして形成・定着し、スワヒリ語を共有する文明圏が築かれていったのである。
 こうしたイスラームを文明化触媒とする形成過程は前章で見たサハラ交易文明圏とも類似しているが、大きく異なるのは、スワヒリ文明圏ではアフリカ黒人自身を主体とする大帝国は築かれなかったことである。その代わりに、キルワやザンジバルなど島嶼部に発達した交易都市群が栄えた。
 その理由として、この地域の民族的・文化的混淆性と海に向かって開かれた交易都市文明としての性格が想定できる。実際、この地域では共同体の発祥をシラージと呼ばれる外来のペルシャ人に求める伝承など、受動的な発祥が強調されるのである。
 しかし考古学的な証拠は、この地域の中心勢力がやはりバントゥー系黒人であり、アラブ人やペルシャ人は文明形成の触媒的な役割を担ったことを示唆している。とはいえ、政治経済的な面でのアラブ人やペルシャ人の主導性は否めなかった。

2017年10月 4日 (水)

アフリカ黒人の軌跡(連載第11回)

二 サハラ交易文明圏

カネム‐ボルヌ帝国
 カネム‐ボルヌ帝国は、古代から近代までチャドを拠点に広域支配した複数の継起的な王朝の総称であり、単一の帝国ではない。その全存続期間はアフリカの諸王国でも最長の1200年近くに及ぶが、チャド湖北東部に拠点を置いた前半の時代をカネム帝国、同西部に遷都した後半をボルヌ帝国と呼ぶ。
 チャドはトリポリを起点とするサハラ交易ルートの南端部に当たる地域であり、西アフリカ方面へのまさに中継地に当たり、ここを広域支配したカネム‐ボルヌ帝国もまたサハラ交易文明圏に包摂される。
 その最初期のカネム王朝はナイル・サハラ語族系の遊牧民カネンブ族によって建てられた。かれらは民族籍不詳の先住サオ人の都市国家を征服して定住化し、その高度な文化を吸収しつつ、新王朝を発展させた。しかし、11世紀後半、フマイと名乗る実力者が王権を簒奪し、新王朝を建てた。
 この新王朝の民族的出自も不詳であるが、アラブ系イエメン人の系譜を名乗るセフワ朝を称した。しかし、実際のところ、セフワ朝はやはりナイル・サハラ語族系のカヌリ人を主体としていたと考えられる。セフワ朝は13世紀に出たドゥナマ・ダッバレミ王の時、イスラーム化し、イスラーム帝国として強勢化する。
 しかし14世紀には衰退し、1376年、チャド湖西南部のボルヌ地方への遷都を余儀なくされた。王室も分裂し、存亡の瀬戸際に立たされたが、15世紀後半に出たアリ・ガジ王が王室の統一とカネム帝国時代の王都ンジミの奪回を果たした。
 16世紀後半のイドリス・アルーマ王の時代にカネム帝国時代の領域をほぼ奪回し、ハウサ諸王国も支配下に置き、ニジェール東部にまで及ぶ帝国全盛期を迎えた。その中央サハラにおける覇権は、19世紀初頭にニジェール・コンゴ語族系のフラニ人が台頭するまで続いていく。

2017年9月24日 (日)

アフリカ黒人の軌跡(連載第10回)

二 サハラ交易文明圏

ハウサ諸王国群
 
サハラ交易文明圏で活動したもう一つのグループとして、ハウサ人を挙げなくてはならない。ハウサ人は今日では西アフリカの大国ナイジェリアで最大人口を擁する主要民族となっているが、その故地は東アフリカのヌビア地方と見られている。
 もっとも、伝承上はイラクのバクダッドの王子バヤジダを遠祖とするというが、遺伝子上ハウサ人が最も近いのはナイル・サハラ語族系のナイロート族であるとされるから、かれらは元来、ナイル・サハラ語族だったと推定される。
 とはいえ、現在のかれらの言語ハウサ語は、古代エジプト語やアラビア語も広く包含されるアフロ・アジア語族の一分岐チャド語派に分類される。これはおそらく、かれらが西方へ大移動する過程のチャド付近で、使用言語の交替を経験したためと考えられる。
 ハウサ人は西暦700年頃までに大移動を終え、13世紀頃から今日のニジェール南部・ナイジェリア北部にかけての地域に多数の都市国家を形成した。これらの都市にはそれぞれ王ないし首長がおり、都市王国の形態を取っていた。
 西アフリカ定着後は周辺のマンデ系民族などからイスラームを受容し、イスラーム化していった。ただ、ハウサ諸王国は統一されることなく、時の西アフリカ覇権国家ソンガイ帝国とチャド方面の覇権を握るカネム‐ボルヌ帝国の間を埋める緩衝国家群としてそれぞれがサハラ交易の中継ぎで収益を上げていた。
 強いて言えば、最も古いハウサ都市国家の一つであるザリアと後発のケッビが二強としてライバル関係にあったが、いずれも統一帝国を形成するには至らなかった。ハウサ諸王国は19世紀初頭に新興のソコト帝国に征服されるまで長く持続したが、これはあえて不安定な統一帝国を構築しなかったおかげとも言えるだろう。
 こうしてハウサ人は政治的に分裂しながらも、商業を通じて総体としてはナイジェリア北部で強固な地盤を確立し、西アフリカ最大の民族集団に成長するとともに、その言語ハウサ語はスワヒリ語と並びブラックアフリカにおける商取引上の共通語(リンガ・フランカ)の一つとなっていった。

2017年9月13日 (水)

アフリカ黒人の軌跡(連載第9回)

二 サハラ交易文明圏

マリ/ソンガイ帝国の繁栄
 ガーナがムラービト朝の攻撃を受けて衰亡した後、西アフリカはしばらく混沌とした情勢に陥るが、その中で優勢だったのは、やはりマンデ語派のスースー族が建てたスースー王国であった。
 これに対し、スースー王国の支配下にあったマンディンカ族が伝説的英雄スンジャータ・ケイタの指導で反乱を起こして勝利、ケイタがマリ王国を建てた。この新王国は非常な成功を収め、ガーナの実質的な後継者として、金を資源的基盤としたサハラ交易を掌握し、経済的にも繁栄を極めた。
 この頃から次のソンガイ帝国の時代にかけ、ニジェール河中流域のオアシス都市トンブクトゥはサハラ交易の中継拠点として繁栄し、西欧にも「黄金郷」として知られるほどとなった。トンブクトゥにはイスラーム商人のほか、知識人も集まったことから、西アフリカにおけるイスラーム教学の中心ともなり、この地域のイスラーム化をさらに深化させる役割も果たした。
 マリは14世紀前半に出たマンサ・ムーサ王の時、その最盛期を迎える。彼は巨額の資産を有するとともに、敬虔なイスラーム教徒でもあり、1324年に大がかりなイスラーム聖地メッカ巡礼を挙行して名を残した。その際、大量の金の喜捨を行なったため、金相場が暴落したとの逸話も残る。 
 周辺小王国を服属させ、域内人口が5000万人ともされる帝国的隆盛を極めたマリであったが、14世紀後半以降は弱体化し、南北から外部勢力の侵攻をたびたび受け、衰退していく(最終的滅亡は17世紀前半)。代わって、覇権を握ったのはソンガイ王国であった。
 その発祥民族であるソンガイ族はガーナやマリを担ったニジェール・コンゴ語族ではなく、ナイル・サハラ語族に属しており、元はニジェール上流域のガオを首都とする独立王国として繁栄したが、マリ帝国時代はマリに服属していた。
 ガオはマリが衰退した14世紀後半以降、優勢となり、スンニ・アリ王の時、マリを破りソンガイ帝国の基礎を築く。しかし、後を継いだ息子のスンニ・バルは1493年、ソニンケ族出身の軍人アスキア・ムハンマドのクーデターで王位を追われた。
 このクーデターの背景には、イスラームへの帰依を拒否したスンニ・バルへのイスラーム勢力の反発とガーナ以来、閉塞していたソニンケ族の権力奪還という二つの要素があったように見える。アスキア・ムハンマド王は、イスラーム教を主軸とする体制を確立するとともに、伝統のサハラ交易をいっそう強化し、ソンガイ帝国の全盛期を作った。
 しかし、晩年失明したアスキア・ムハンマドが息子たちによって廃位された後は、王位継承争いが激化する中、ソンガイは衰退していく。最終的には16世紀末の1592年、北アフリカで勢力を強めていたモロッコに侵攻され、滅亡した。

2017年9月 7日 (木)

アフリカ黒人の軌跡(連載第8回)

二 サハラ交易文明圏

イスラームの受容
 アフリカ黒人は、隣接するエジプト文明から多大な影響を受けたヌビア人を除けば、高度な文明圏から地理的に隔絶されていたため、独自の文化を発達させつつも、文字体系も備えた高度文明を創出することには難儀していた。その状況を変えたのは、西アジアから到来してイスラーム教であった。
 アフリカ黒人のイスラームの受容は、西アフリカから始まった。その先覚者はサハラ交易を掌握するようになったガーナである。ガーナは7世紀にイスラームによって北アフリカが征服され、隊商交易のネットワークが確立されると、サハラ交易ニジェール・ルートの中継点を押さえて利益を得たが、その資源的基盤となったのは、「黄金の国」とも評される由来ともなった金であった。
 ガーナに関する最初の史料情報は9世紀のイスラーム学者によってもたらされているが、ガーナ自身は史料を残さなかったため、その実態の詳細は必ずしも明らかでない。今日的な知見によると、ガーナ王国はマンデ語派の中でもソニンケ族と呼ばれる民族集団を主体とする国家で、それぞれの王を持つ都市国家の連合王国という構造を有していたと見られるが、連合王国の王は高い権威を持っていたようである。
 アフリカ旅行者からの情報を収集し、ガーナの繁栄ぶりを描写した11世紀のコルドバの学者アブ・ウバイド・アル‐バクリによると、この時代のガーナはイスラームの受容を始めた唯一の黒人国家とされ、遅くとも11世紀にはイスラーム教がガーナに浸透していたことがわかる。
 しかし皮肉なことに、イスラームの受容はガーナ王国の文明化とともに衰退をもたらした。その要因として、1076年、ガーナの交易利益の横取りを狙った北アフリカのアマジク系イスラーム王朝ムラービト朝による攻撃を受けて事実上征服されたことがあった。
 ガーナはその後も小国として細々と存続したが、13世紀に入ると、同じマンデ語派系マンディンカ族が建てた新興のイスラーム系マリ王国の興隆により、同国に吸収され消滅した。これ以降、西アフリカの覇権はマリが握ることになる。

2017年8月 9日 (水)

アフリカ黒人の軌跡(連載第7回)

二 サハラ交易文明圏

サハラ交易と文明開化
 ヌビア人の王国が衰亡した後、アフリカ黒人の活動中心は西アフリカへ遷移し、西アフリカの文明開化を刺激するが、その契機となったのは、サハラ砂漠をルートとする交易活動―サハラ交易であった。
 かつて緑地だったと想定されるサハラも紀元後には砂漠化が進行しており、紀元3世紀頃には乾燥に強いラクダが移入され、ラクダを使役する交易が盛んになり始めていた。気候変動に伴う砂漠化の進行が人々から生活の場を奪う一方で、砂漠をルートとする交易は活発化するという歴史の皮肉であった。
 この地域でラクダ交易を最初に開始したのは、北アフリカ地域全体に割拠したアマジクの諸族であったが、かれらはアフリカ黒人ではなく、アフロ・アジア語族に属するコーカソイドである。アマジクはイスラーム勢力の北アフリカ征服により順次イスラーム化し、後に強力なイスラーム諸王朝を築く。
 サハラ交易の主要ルートは、現モロッコからニジェール河北部へ通ずるニジェール・ルートと現チュニジアからチャド湖付近へ通ずるチャド・ルートの二本があったが、前者のニジェール河流域では紀元前3000年紀から先行の農耕文化圏が拓けている。しかし、それはナイル河流域のような文明圏に発展することはなかった。
 やがてこの流域ではバントゥー人とも同系のニジェール‐コンゴ語族に属するマンデ語派諸族の村落群が出現するが、その中からガーナが優勢化し、早ければ紀元4世紀には王国を形成したとされる。後にガーナ王国は隊商交易で巨富を築くことになる。
 このガーナを嚆矢として、西アフリカからチャド湖付近にかけてのサハラ交易ルート沿いには、アフリカ黒人を担い手とする商業文明圏―サハラ交易文明圏―が築かれていくのである。

2017年6月28日 (水)

アフリカ黒人の軌跡(連載第6回)

一 「残アフリカ」した人々

ヌビア人の文明化
 西洋中心的な視点で、しばしば「非文明的」ととらえられがちなアフリカ黒人であるが、紀元前の時代にいち早く文明化したのは、エジプト南部からスーダン北部にかけてナイル流域に展開したヌビア人であった。
 ヌビア人は、ナイル・サハラ語族に属する代表的な民族であり(アフロ・アジア語族説もあるが、立ち入らない)、エジプト第1王朝時代と同時期にすでに発達した都市国家のようなものを形成したとの説もあるが、史料・情報不足のため、詳細は把握できない。
 鉱物資源の豊富なヌビア地方は強勢化したエジプト王国の侵略を受け、植民地支配下に置かれたが、エジプト新王国時代の紀元前11世紀前半頃、エジプトの混乱を突いてナパタを首都に独立したと見られる。このいわゆるクシュ王国は、王都と王朝を代えながらも紀元後350年まで持続していく。
 ヌビア人は長くエジプトの支配下にあった関係上、初期クシュ王国(ナパタ朝)はエジプト文明の強い影響を受け、ヒエログリフ文字やエジプト神アモンの信仰、ミイラ製作、ピラミッド築造技術などを取り込んだ派生文明の性格を帯びていた。
 強勢化したクシュ王国は、紀元前760年から656年までの約一世紀、ついに斜陽の「本家」エジプトを征服・併合し、第25王朝を樹立した。しかし、下エジプトでリビア人主導の反乱が起き、下エジプトを失ったのに続き、アッシリアの侵攻を受けて第25王朝は崩壊、クシュ王国自体も南のメロエに遷都を余儀なくされた。
 しかし、この敗退は新たにメロエを首都とする新時代の始まりであり、クシュ王国の全盛期を築いたのである。メロエは鉱物資源、農業土壌ともに豊富で、交易上もアビシニア(エチオピア)経由で紅海からインド洋で出る拠点となったからである。
 他文明の摂取に長けていたらしいヌビア人はアッシリアが得意とした鉄器製造技術を取り入れ、鉄製兵器製造で軍事的にも強大化し、エジプト文字とギリシャ文字双方から形成した独自のメロエ文字を創案した。「本家」より小ぶりながらも、王墓ピラミッドの築造も精力的に行なわれた。聖書でも、クシュ王国の繁栄ぶりは記されている。
 ちなみに、メロエ朝独自の特徴として、その時代としては異例なことに、ローマ軍との交戦で勝利し、ストラボンの歴史書にも言及されたアマニレナスや、全盛期を演出し、ヌビア独自のライオン神アペデマクの神殿で知られるアマニトレら、女王を多く輩出したことがある。女王はカンダケと呼ばれ、女戦士としての性格も持っていたようである。
 しかし、クシュ王国は北アフリカ、エジプトへの拡大を狙うローマ帝国の圧迫に加え、王朝の内紛も手伝って、衰退に向かう。最終的には、紀元350年、南アラビアから移住してきたと見られるセム系民族の新興アクスム王国(エチオピア)によって滅ぼされたのである。
 その後、ヌビア人はキリスト教を受容したアクスム王国の影響下に、三つのキリスト教系小国を形成したが、これらは統一されることのないまま、7世紀以降、イスラーム勢力の侵攻により、衰滅の道をたどる。

2017年6月 7日 (水)

アフリカ黒人の軌跡(連載第5回)

一 「残アフリカ」した人々

バントゥー人大移動
 現在、アフリカ黒人中における最大勢力を形成しているバントゥー系諸民族は、西アフリカでの誕生から間もなく、拡大・大移動を開始する。このバントゥー人大移動は、ずっと後にゲルマン人大移動が欧州大陸の歴史を作ったように、アフリカ大陸の歴史を作った。
 バントゥー人大移動はゲルマン人のそれに比べても長く、紀元前1000年頃から紀元後300年頃に及ぶ千年単位の長い年月をかけて行なわれたと考えられる。その契機は、オリエント方面から移住してきた集団から農耕を学んだことにあるとされる。
 この集団は欧州にも農耕をもたらした民族で、Y染色体ハプログループR1bを共通指標とするコーカソイド系民族である。かれらはアフリカではチャド、カメルーン付近に定住し、そこにいた原バントゥー人に農耕を伝えるとともに、現在までその遺伝子を西アジア的なアフロ‐アフリカ語族に属するチャド系民族に残している。
 農耕を体得したバントゥー人らは、より肥沃な農耕適地を求めて移動を開始する。最初は中央アフリカの熱帯雨林が目指されたが、東アフリカのサバンナ地帯や大湖沼地域にも拡大していく。アフリカ黒人故地とも言える南アフリカへの拡大はやや遅れ、紀元後に大湖沼地域から部族ごとに移動していったようである。
 こうして、バントゥー人はいったん故地の南アフリカを出た後、農耕を身につけ、長い年月をかけて再び故地へ帰還する「帰ってきたアフリカ人」となったのである。現在、バントゥー系に包含される民族数は数百に及ぶ。
 ただ、かれらは移動先で土着した15世紀頃に至るまで政治的な国家を形成することはなく、族長に率いられた部族共同体社会を維持していたと見られる。この点、既存のローマ帝国内に侵入して、帝国から国家形成のノウハウを吸収し得たゲルマン人と異なり、当時のアフリカ大陸にはローマ帝国に匹敵する統一国家は存在していなかった。
 アフリカへ侵出していったローマ帝国自身も北アフリカ以南にまで手を伸ばそうとはしなかった。一方、ナイル河沿いのエジプトとその影響下に栄えたヌビア人の王国も地中海や西アジアに目を向けており、アフリカ大陸全土をカバーするような帝国には膨張しなかったため、バントゥー人がその支配下に入り込むこともなかったのである。

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