アフリカ黒人の軌跡

2018年7月18日 (水)

アフリカ黒人の軌跡(連載第26回)

五 奴隷貿易諸国と新大陸黒人

中南米のアフリカ黒人〈2〉
 カリブ海島嶼も大西洋奴隷貿易によって送り込まれたアフリカ黒人の「輸出」先として、代表的な地域である。中でも今日ドミニカ(共和国)とハイチが分け合っているイスパニョラ島は、スペインによるアメリカ大陸初の植民地―サントドミンゴ―となった記念すべき場所である。
 当初、スペインは先住民族タイノを奴隷化して金鉱山で酷使したが、かれらが激減すると、アフリカ黒人を奴隷として連行し、先住民奴隷に置換する政策に転換した。折りしもサトウキビのプランテーションが導入されると、黒人奴隷はプランテーション労働力として使役されたのである。
 しかし、スペインの領土関心は次第にメキシコ以南の中南米大陸部に移っていき、イスパニョラ島の統治は弱化していった。その間隙を突き、新興のフランスが侵出の手を伸ばす。フランスは1659年以降、イスパニョラ島の侵略を開始し、やがて島西部の領有を宣言、1697年のライスワイク条約をもって島の西部三分の一ほどが正式にフランス領土となった。
 このフランス領サン‐ドマングはたちまちにして砂糖、コーヒー、タバコ等多角的なプランテーション経営で繁栄し、18世紀にはこの小さな島がフランス海外植民地の中でも最も富裕な場所となった。それを支えたのが黒人の奴隷労働であり、当地は18世紀大西洋奴隷貿易の一大中心地ともなったのである。
 黒人奴隷はサン‐ドマング人口の大半を占めながら、フランス政府が制定した黒人法という人種差別法制によってその劣悪な境遇が法的に正当化されていた。これに対抗して、ここでも逃亡奴隷マウォン(マルーン)が自立化した。
 しかし、ハイチのマウォンは、ブラジルのマルーンとは異なり、国家的な共同体を作らず、ゲリラ的組織として白人農園の襲撃などのテロ活動を展開した。このハイチ・マウォンのゲリラ活動はやがて史上初の黒人共和国の樹立を実現した革命へとつながっていくが、ハイチ革命に関しては後に別稿をもって改めて見ることにする。
 一方、イングランドも17世紀以降、カリブ海域への入植活動を活発化させており、セントクリストファー島を皮切りに続々とカリブ海島嶼を征服し、黒人奴隷を使役したプランテーションを営んだ。清教徒革命を成功させたクロムウェルはイスパニョラ島の征服をももくろんだが、これに失敗すると、当時スペイン領だったジャマイカを攻略・征服した。
 ジャマイカでも逃亡奴隷マルーンが18世紀を通じて戦争規模の反英闘争を展開する中で、限定的ながら自治権を獲得した。ジャマイカのマルーンによる抵抗戦争は最終的に19世紀初頭、英国が奴隷貿易廃止にいち早く踏み切る契機ともなったことで、半革命的な性格を持った(後述)。

2018年6月30日 (土)

アフリカ黒人の軌跡(連載第25回)

五 奴隷貿易諸国と新大陸黒人

中南米のアフリカ黒人〈1〉
 大西洋奴隷貿易によって奴隷として送り込まれたアフリカ黒人たちが集中したのは、中南米(ラテンアメリカ)地域であった。初期の大西洋奴隷貿易はポルトガルが主導したため、ポルトガル植民地であったブラジルに送り込まれた奴隷が多かった。
 1500年代からおよそ三世紀にわたって続いたブラジル黒人奴隷制において、ブラジルに送り込まれた黒人の総数は400万人とも言われ、現在でもブラジル人口の約7パーセントをアフリカ黒人系が占めているところである。
 ブラジルの黒人奴隷は金鉱労働者のほか、砂糖、タバコなどのプランテーション労働者として使役された。かれらの出自も遺伝子系統の研究調査によって次第に判明してきているが、主としてオヨやダホメなどアフリカ西海岸の奴隷供給諸国から送り込まれた西アフリカのヨルバ族系と、アンゴラやコンゴから送り込まれたバントゥー系に大別される。
 ヨルバ族系奴隷の間では、アフリカから持ち込まれた部族宗教にカトリックや先住民信仰などが習合して形成されたカンドンブレと呼ばれる民間信仰儀礼が発展し、今日までアフリカ系人口の多い北東部を中心に保持されている。
 今日ブラジルの民族舞踊として著名なサンバも、北東部のアフリカ黒人奴隷が伝統的な舞踊に西洋舞踊の要素を取り込んで形成した舞踊音楽と考えられている。カポエイラのようにアフリカ伝統の格闘技と組み合わさった舞踊音楽もまた、アンゴラ人奴隷が発祥させたと言われる。このように、ブラジルのアフリカ黒人たちはブラジル独自の文化の形成にも寄与した。
 他方で、アフリカ人奴隷の置かれた重労働に虐待的な懲罰という過酷な状況は、多くの逃亡奴隷マルーンを生んだ。逃亡奴隷はブラジル各地でキロンボと呼ばれる共同体を形成して独自の自給自足ないし相互交易を行い、またしばしば白人プランテーションを襲撃・略奪した。
 中でも17世紀初頭、北東部に形成されたキロンボ・ドス・パルマーレスは、キロンボの連合拡大により最盛期2万人の人口を擁する一種の自治国家に発展した。カポエイラは、パルマーレス戦士の戦闘術でもあった。
 先住民や貧困層白人なども吸収しつつ独立を目指したパルマーレスは17世紀後半、ポルトガルに敗れて奴隷として連行されたコンゴ王国王族の出身とも言われるガンガ・ズンバとその甥ズンビの下で一種の王国として最盛期を迎えるが、ズンビがポルトガル植民地軍に敗れ、一世紀近い歴史を閉じた。

2018年6月 6日 (水)

アフリカ黒人の軌跡(連載第24回)

五 奴隷貿易諸国と新大陸黒人

オヨとダホメ
 西アフリカにおける奴隷供給諸国の中で、最も歴史が古いと見られるのはオヨ王国である。オヨはナイジェリアにおける主要民族の一つであるヨルバ族が立てた王国であり、1400年頃、ヨルバ系最古の王国であるイフェよりも遅れて西方に建国された。
 当初はマイナーな存在であったが、ハウサ諸王国やソンガイ帝国とともにサハラ交易に参画して蓄積した富を元手に台頭した。大航海時代のヨーロッパに対しては奴隷供給を通じていち早く通商関係を持ち、見返りに軍備増強を推進したのである。こうしてオヨはヨルバ系諸国唯一と言われる騎兵隊を擁し、16世紀末までにイフェを圧倒して、ヨルバ系諸国の頂点に立つ。
 他方、17世紀半ば、オヨの南にはアジャ族が建てたダホメ王国が建設された。アジャ族は元来、今日のベニンの海岸地方にいたが、内陸に移住して当地のフォン族を服属させ、王国を建設した。こうした征服王朝の常として、ダホメは当初から中央集権的な軍事国家の性格が濃厚であった。
 オヨとダホメは、コンゴと異なり、共に西欧列強に対する奴隷供給国家として富国強兵を図ることに躊躇いがない点で、互いにライバル関係に立った。18世紀前半に出たダホメのアガジャ王はダホメの領土を拡張し、奴隷供給国家としての地位を確立したが、オヨとの戦争には勝てず、治世末期の1730年以降、ダホメはオヨの属国となった。
 この時から約1世紀の間はオヨが全盛期を迎えるが、ダホメの従属は形式的なものにとどまり、ダホメは実質的な独立を維持し、繁栄を続けた。一方、オヨは19世紀に入ると、フラニ族系の新興イスラーム系国家ソコト帝国に圧迫され、衰退する。
 ちょうどそのタイミングでダホメに登場した9代国王ゲゾは1830年、オヨを攻撃して実質的な滅亡に追込み、オヨに取って代わりダホメの全盛期を築いた。ゲゾは大規模な奴隷狩りで奴隷供給国家としての基盤を強化しつつ、西欧における奴隷貿易禁止の動向にも留意し、将来を見越してパームオイルの輸出に注力するなど経済基盤の多角化も図った。
 一方で、ゲゾは4000人規模の女性銃士隊を組織するなど軍備を強化しつつ、国内にはスパイ網を形成して恐怖政治を敷くなど専制君主として君臨したが、暗殺と見られる1858年の彼の死後、ダホメは衰退する。
 衰退の要因は奴隷貿易の廃止と関わっている。ゲゾ王は治世中に奴隷貿易の廃止を宣言したが、実際にはなお続行しており、彼の後継者もそうであったが、19世紀末になると立ち行かなくなり、1890年から94年にかけて、フランスとの二次の戦争に敗れ、フランス領土に下ったのである。

2018年4月30日 (月)

アフリカ黒人の軌跡(連載第23回)

五 奴隷供給諸国と新大陸黒人

コンゴとンドンゴ
 アフリカ黒人はイスラーム勢力によって奴隷化され、北アフリカ・中東地域からインドにも送り込まれてきたが、より組織的かつ大洋をまたぐ遠距離の人口移送が展開されるようになるのは、西欧列強主導の大西洋奴隷貿易が開始されてからのことである。
 奴隷貿易のシステムにおいては、アフリカの地元国家が奴隷狩りによって奴隷を集めて奴隷商人に売却することが慣習化されていたが、そのシステムは大西洋奴隷貿易ではよりいっそう露骨に現れていた。黒人奴隷の積み出し窓口となったことから「奴隷海岸」と称されるようになったアフリカ西海岸沿いの諸国は多くがそうした奴隷供給国家として台頭し、かつそのために衰亡する運命をたどった。
 大西洋奴隷貿易の初期において奴隷供給国家として台頭したのは、アフリカ中部大西洋岸に位置したコンゴ王国である。コンゴ王国が発祥したコンゴ河流域は熱帯雨林地帯であり、紀元前5000年紀から狩猟採集文化が発達した。その担い手民族は不詳だが、バントゥー人大移動で移住してきたバントゥー系民族が鉄器と農耕をもたらすことで、最初の文化的発展の土台が築かれたと推定される。
 この流域の民族は稠密な交易ネットワークでつながったバントゥー系で統一されていったが、政治的な王国形成はやや遅れ、14世紀末にルケニ・ルア・ニミなる人物が初めて王国を建設した。以来マニコンゴと称される王が統治した。
 コンゴ王国は大航海時代のポルトガルといち早く通商関係を持ち、キリスト教も受け入れた。15世紀末のンジンガ・ンクウ王が洗礼を受けてポルトガル風にジョアン1世を名乗って以来、ポルトガル化が進む。
 ジョアン1世の息子ンジンガ・ムベンバ=アフォンソ1世が16世紀前半期、長期治世で王国の全盛期を築いたが、その財源は主に奴隷輸出で得ていた。しかし、沖合いのサントメ島に拠点を置く奴隷商人の横暴を統制できず、奴隷貿易の規制に失敗したアフォンソ1世の死後、コンゴは衰退し、ポルトガルの属国として名目的な存在に落ちる。
 落ち目のコンゴに代わって南隣のコンゴ属国だったンドンゴが16世紀後半頃台頭し、奴隷供給国家としての座を争い、実質的な独立を勝ち取る。しかし、その代償としてポルトガルによる植民地化が進んだ。ンドンゴはポルトガル支配に抵抗を試みるが、最終的に1671年に征服された。

2018年4月11日 (水)

アフリカ黒人の軌跡(連載第22回)

四 内陸アフリカの多様性

ダルフール首長国の盛衰
 「フール人の祖国」を意味するダルフール王国は、かつてサハラ交易圏の中央サハラ方面を超域的に支配したカネム‐ボルヌ帝国に従属していたが、16世紀末に独立王国を建設した。その担い手であるフール人は元来は南部アフリカからスーダン西部に移住、農耕民として定着したナイル‐サハラ語族系民族集団である。
 しかし、ダルフール首長国の由来はやや複雑である。ダルフール首長国の建国前、この地にはアラブ系またはナイロート系とも見られるツンジュル王国が存在していた。しかし、ツンジュル族は少数派であり、王は次第に多数派フール族と通婚し、フール化していった。
 16世紀に現れたツンジュルの王スルタン・ダリは母方からフール族の血を引く人物で、独自の法典を定めるなどダルフール王国化の基礎固めをした。そして実質的なダルフール首長国建国者と目されているのが、彼の曾孫に当たるスレイマン・ソロンである 
 スレイマンはツンジュル王国を解体し、数十回に及ぶ遠征を通じてダルフールの領土を拡張した。その領域は南のナイロート系センナール首長国を侵食するに至った。こうした遠征・領土拡張は奴隷狩りを兼ねており、スレイマンは武器や軍馬と奴隷のバーター取引を積極的に行い、軍備増強を進めていった。
 スレイマンはイスラーム教徒であり、ダルフール首長国をイスラーム国とする上でも創始者であったが、イスラームが正式に国教となったのは、彼の孫アフメド・バクルの時代と見られる。彼は領土の面でもナイル河東岸方面まで拡張し、ダルフールを多民族帝国に完成させた。
 しかし、彼の死後、息子たちの間で王位継承争いが起き、18世紀には60年近い内戦期に入り、帝国は衰退していく。18世紀末の内戦終結後、何人かのスルターンの下で中興が図られるが、最終的に1875年、オスマントルコ宗主下エジプトのムハンマド・アリー朝によって滅ぼされ、エジプトの支配に下った。
 ところで、ダルフールには13世紀以降にアラビア半島からダルフールに移住してきたアラブ系遊牧民集団バッガーラも割拠した。かれらは半独立状態を保ち、水や牧草地の権利をめぐってフール族とは緊張関係にあり、19世紀前半には時のスルターン、モハメド‐エル‐ファドルがバッガーラを攻め、数千人を虐殺した。
 このフール族とバッガーラの対立は、遠く21世紀になって今度はアラブ系政府軍に支援されたバッガーラによるフール族をはじめとする非アラブ系住民の虐殺という逆転した形を取って、より大規模な人道危機として発現することになる。

2018年3月29日 (木)

アフリカ黒人の軌跡(連載第21回)

四 内陸アフリカの多様性

マサイ勢力圏の形成と後退
 ナイロート系諸族の中でも、独自の生活様式を固守してきたのがマサイ族である。マサイ族自身の口伝によれば、かれらは元来トゥルカナ湖北方の低地ナイル谷付近に発祥したが、15世紀以降に南下を開始し、18世紀頃までに現住地であるケニア、タンザニア内陸部に定着した。
 その過程で先住民を征服・吸収していったと見られるが、その証拠はかれらのY-DNAにおいて、非黒人のソマリ族などと共通するハプログループE1b1bが最も高頻度に確認され、ナイロート系のハプログループA3b2は次順位にとどまることにも現れている。この結果は、南下してきたナイロート系征服者の数が決して多くなかったことを示唆する。
 少数集団が征服者となり得た秘訣は、強靭な身体を生かした戦闘力の高さにあったと見られる。実際、マサイ族の男性にとって最も重要な任務は戦士としてのそれであり、適齢男性全員がモランと呼ばれる訓練された戦士となり得る体制にある。こうした戦闘集団としての強さのゆえに、マサイ族は国家を形成せず、原初的な部族共同体を維持しながら、19世紀には大地溝帯のほぼ全域に及ぶ勢力圏を築いた。
 また奴隷化されることなく、民族的独立を維持し得たのも、マサイ族の戦闘能力を恐れた奴隷商人たちが奴隷狩りの対象としなかったがためであった。マサイ族自身、東アフリカのバントゥー系諸族のように自ら奴隷商人化して奴隷貿易に手を貸すようなこともなかった。
 前近代のアフリカ大陸において、奴隷化されず、かつ奴隷貿易に手を貸さずして独立した勢力圏を維持したマサイ族の存在は極めて稀有であった。こうした安定したマサイ勢力圏で、かれらはナイロート諸族のシンボルとも言える家産の牛の放牧を中心とする遊牧生活様式を固守していた。
 しかし19世紀末、おそらく外部から持ち込まれた牛肺疫や牛疫の蔓延による牛の大量死という災害で打撃を受けたことに続き、20世紀初頭には英国との二次の不平等条約によってマサイ族の土地は削減され、植民地主義が拡大する中、マサイ勢力圏は後退を余儀なくされていく。 

2018年3月13日 (火)

アフリカ黒人の軌跡(連載第20回)

四 内陸アフリカの多様性

ナイロート諸族とセンナール首長国
 内陸アフリカで大きな割合を占める民族集団として、ナイロート民族がある。かれらは、ナイル諸語として包括される言語を共有する集団である。代表的な所属民族としてルオ族、マサイ族、ディンカ族、ヌエル族、シルック族などがある。
 この集団の発祥地は今日の南スーダンに属する白ナイル河流域の大湿地スッド付近と見られ、紀元前3000年紀頃に現れ、牛を重要な物資とする牧畜民としての生活様式を確立していった。
 ナイロート民族中最初に王国を形成したのは、シルック族である。かれらは15世紀末に伝説的な王ニイカングの下に統一され、16世紀までには白ナイル河西岸に強力な王国を形成した。シルック王国は牛の牧畜を基礎に、穀物栽培や白ナイルでの漁業を組み合わせた経済活動を営み繁栄するとともに、白ナイルを航行する軍用カヌーを駆使した強力な水軍を擁した。
 シルック王国最大のライバルは、北で隣接するイスラーム系センナール首長国であった。センナール首長国の支配民族フンジは非ナイロート系であるが、その出自は不詳である。首長国の民族構成はヌビア系、ナイロート系からアラブ系まで含む多民族だったと見られる。
 シルックは17世紀前半、強力な騎兵隊を擁するセンナールに対し、白ナイルの交易ルートをめぐって長期の戦争に入ったが、最終的にセンナールが勝利した。しかし17世紀後半になると、それまでの首長連合的な体制を中央集権化することに成功したシルックが盛り返し、衰退するセンナールを尻目にファショダを首都として繁栄を続けた。
 他方、今日の南スーダンで最大人口を占めるディンカ族はナイロート民族発祥地スッドに長くとどまり、国家を形成しない伝統的な生活様式を維持していたと見られるが、17世紀後半にシルックとセンナールの境界域に進出し強勢化したため、シルックとセンナールは同盟に転じ、これを牽制した。
 しかし、センナールが衰亡した19世紀に入ると、ディンカ族とヌエル族の連合勢力が台頭し、ナイル水系のソバト河を越えて白ナイル流域に支配権を広げると、シルックも19世紀後半に衰亡していくのである。

2018年2月21日 (水)

アフリカ黒人の軌跡(連載第19回)

四 内陸アフリカの多様性

ピグミー諸族の苦難
 内陸アフリカの熱帯雨林には、ピグミーと総称される狩猟採集民族が伝統的な生活様式を守って生活してきた。ピグミーという用語は、ギリシャ神話で小人族を意味するピュグマイオイに由来する。実際、ピグミーに属する諸民族は全般に低身長(成人男性でも150センチ前後)という遺伝的特徴を持つ。
 ピグミーは様々な言語を話す諸民族の総称にすぎず、一つの民族集団ではないにもかかわらず、低身長という共通性を持つに至った理由は必ずしも定かでないが、内陸アフリカの熱帯雨林に住み、狩猟活動を効率的に行なううえで身を隠すに適した低身長に収斂進化した結果とも想定される。
 とはいえ、ピグミー諸族には遺伝上Y染色体ハプログループB系統が比較的高率で認められる。このハプログループB系統は元来東アフリカの大地溝帯に発した遺伝子であるので、ピグミー諸族はここから内陸密林地帯へ移住したグループを祖とする集団とも想定できる。
 しかし、言語と遺伝子系統は一致しないことが常であるから、このハプログループB系統集団が言語的に分化したのは、それぞれが周辺のバントゥー系農耕民と接触する過程で、農耕民系の言語を摂取していったためと考えられる。例外として、バカ族のバカ語は分類上ニジェール‐コンゴ語族に属するとされる独自言語であるが、バカ族も第二言語としてはバントゥー系言語を話す。
 このようにピグミー諸族は完全な非接触民族ではなく、農耕民社会と接点を持ってきた狩猟採集民族であるだけに、周辺農耕民族と交易を行なう一方で、差別や迫害にもさらされてきた。中でもコンゴのムブティ族に代表されるピグミーはバントゥー系農耕民の奴隷として使役されたり、女性はバントゥー系農耕民の嫁として取られる一方的通婚習慣が行なわれてきた。
 ピグミー諸族は狩猟採集民族に共通する特徴として、国家を形成することなく、家族を単位とする比較的平等な集団生活を守ってきたことからも、国家を形成するようになった周辺農耕民との関係で劣勢になっていったのである。このことは、とりわけ現代においてルワンダやコンゴなどで民族浄化にさらされる事態を招いている。
 またその原初的生活様式と低身長の形質特徴から、近代の誤った進化理論・人種理論の中で劣等的とみなされるようになり、動物として「人間動物園」に展示されるなどの非道な扱いを受けることにもなったが、この件は後に植民地時代のアフリカ人を扱う項で見ることにしたい。

2018年2月10日 (土)

アフリカ黒人の軌跡(連載第18回)

四 内陸アフリカの多様性

ルワンダ王国の少数支配体制
 キタラ帝国が解体していく過程でいくつかの王国が分流していったが、それら脱キタラ帝国群の中でも14世紀頃に建国されたルワンダは独特の少数支配構造により独自の地位を築き、最盛期コンゴ方面まで勢力圏を広げ、強勢化した。
 ルワンダ王国では人口の20パーセント程度にすぎない牧畜民が王(ムワミ)及び王に次ぐ高い権威を持つ王母をはじめとする支配階級を形成し、人口の大多数を占める農耕民を支配するという少数支配構造が早くに形成された。牧畜支配階級はトゥツィ、農耕被支配階級はフトゥと呼ばれ(他に狩猟被支配階級としてトゥワ)、両者は民族的に異質と認識されるようになった。
 しかし、トゥツィとフトゥは共にバントゥー系の言語と文化を共有し合う関係であり、民族としては近縁関係にある。それが民族的な相違として認識されるようになったのは、地域の牧畜民と農耕民の抗争の過程で、家畜所有者として経済的に優位にあった牧畜民が政治的にも農耕民を従属させる過程で支配の正統性を理由づける必要があったことによるものだろう。
 19世紀までにトゥツィ系の王から土地を安堵されたトゥツィ系族長がフトゥ系農耕民に労働させる準封建的なシステムが確立されると、フトゥはある種の農奴的存在の代名詞になった。その意味で、トゥツィ/フトゥは他のアフリカ諸国における民族・部族の種別ではなく、社会階級の種別とみなしたほうがより正確であろう。
 このような寡頭支配構造はしかし、ドイツ、続いてベルギーが19世紀末から20世紀半ば過ぎに至るまで、隣接のトゥツィ系王国ブルンディと併せて植民地支配を確立した際には極めて好都合であったので、大いに利用された。
 これに付随して、西洋近代的な「人種」の理論が持ち込まれ、支配階級トゥツィのハム族出自説―だとするとトゥツィは「黒人」ではないことになる―という擬似科学理論が流布されるようになった。
 こうした俗流人種理論に基づく分断政策は、ルワンダ独立期の共和革命により王国が打倒され、多数派フトゥが支配権を奪取すると、20世紀末には旧支配層トゥツィを標的とした民族大虐殺という惨事の遠因となったのであるが、この件に関しては後に改めて言及する。

2018年1月17日 (水)

アフリカ黒人の軌跡(連載第17回)

四 内陸アフリカの多様性

キタラ帝国とその解体
 広大なアフリカ大陸の内陸部は多様な農耕民と牧畜民・遊牧民が交錯割拠するところとなり、生活様式の相違ゆえの紛争が古くから絶えない領域であった。そのため、統一的な帝国の成立は大陸の他領域に比べてもいっそう困難であった。
 そうした中で、最も早くに広域的な王権を形成したのはバントゥー系のニョロ族であった。キタラ帝国とも呼ばれるその起源はアフリカ特有の口伝史のゆえに確定できないが、青銅器時代に遡るとする説もある。最盛期には、今日のウガンダを拠点にタンザニア、コンゴ、ルワンダ、ブルンディ、マラウィにまでまたがる広域を支配したため、大湖沼地域から東アフリカのスワヒリ文明圏をつなぐ交易ルートを押さえて経済的にも繁栄した。
 ただ、実際のところ、これら地域には部族単位の小首長国(王国)が林立しており、キタラ「帝国」の内実はそれら小首長国の連合体にすぎず、その統合性は常に不安定だったと見られる。各首長国はそれぞれの生活様式に適合するよりよい土地を求めて自立志向を強め、16世紀頃までに帝国は事実上解体され、名目的なものに移行したと見られる。
 伝承上は神聖なるオムカマの称号を持つ王の愛牛の死が悪い予兆となったとされるが、帝国解体の現実的な契機となったのは、北部からナイル‐サハラ語族に属するルオ族が侵入し、帝国の王権を簒奪したことにあったようである。その結果、旧支配層は南部に逃れ、統合性を失った帝国は分解し、アンコーレ、トロ、ブガンダ、ブソガ、ルワンダ等の諸王国が自立していった。
 名目上のキタラ帝国はその後もなお存続したが、19世紀中頃になると、ブガンダやルワンダ、アンコーレなどが国力をつけて台頭し、名目上の帝国を蚕食していったため、「帝国」は今日のウガンダの小王国ブニョロに断片化されることとなった。

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