私家版琉球国王列伝

2017年4月30日 (日)

私家版琉球国王列伝(連載第12回)

十三 尚穆王(1739年‐1794年)/尚温王(1784年‐1802年)/尚成王(1800年‐1804年)

 14代尚穆〔しょうぼく〕王は、父の先代尚敬王が死去した時はまだ10代と若く、すでに退官していた蔡温が薩摩藩の命により引き続き実質的な宰相格を務めた。この間、1756年の清国冊封使の接受も蔡温が仕切っている。
 蔡温が完全に引退した後、彼に匹敵するような実力を持った宰相は出ず、尚穆王代には重臣の合議が機能したと見られる。その成果として、86年に発布された琉球発の成文刑法典・琉球科律がある。これは従来、不文慣習法や判例に委ねられた刑法を集大成して、法治国家としての基盤を整備した意義を持つ。
 尚穆王が在位した40数年は比較的安泰無事であり、清国や薩摩藩との関係も良好であった。世子尚哲は好学の秀才と謳われ、73年から翌年にかけて薩摩藩を表敬訪問し、時の藩主島津重豪の歓待を受けるが、88年、父に先立って30歳で早世した。
 そのため、尚穆王を継いだのは孫の尚温王であった。彼も年少での即位ながら、父尚哲に似て好学と見え、教育制度の改革に乗り出した。すなわち、従来福建人にルーツを持つ久米村出身者が独占してきた中国留学生(官生)の制度の改革と新たな最高学府・国学の創立である。
 この教育制度改革は自身も久米村出身であった国師・蔡世昌を中心に断行されたため、彼は久米村出身者から激しい糾弾攻撃を受けた。その結果、98年には暴動に発展したため、王府が強制介入し、久米村出身者を弾圧した。このいわゆる官生騒動は王府主導で鎮圧され、以後、国学による高等教育制度が定着する。
 だが、父以上の短命で、18歳にして夭折した尚温王を継いだのはわずか2歳の長男尚成王であったが、これも翌年に夭折したため、尚哲の四男尚灝(しょうこう)が17代国王に即位することとなるというように、この時期の琉球王朝は王位継承に揺らぎが生じていた。


六´ 島津重豪(1745年‐1833年)

 島津重豪〔しげひで〕が8代薩摩藩主となったのは先代の父重年が若年で死去した11歳の時であり、祖父継豊が死去するまで、その後見を受けた。継豊没後は外祖父による後見を経て、親政を開始する。
 重豪は薩摩藩では久方ぶりに長寿を保つ藩主となるが、その半生は大きく三期に分かれる。第一期は上述した年少時の後見期であるが、第二期が表向き隠居する天明七年(1787年)までの親政期である。
 この時代から、重豪は藩政改革に取り組む。好学の重豪が最も注力したのは文教政策であった。その一環として藩校や武芸道場、天文研究所、医学校などを矢継ぎ早に設立した。このような政策は、重豪が歓待した琉球王世子尚哲を通じて、その子である尚温王による上述の教育改革に影響を及ぼした可能性がある。
 ただ、財政的には父の時代に幕府(将軍家重)から「手伝普請」として不当に課せられた木曽三川の治水事業(宝暦治水)の負の遺産もあり、重豪の諸政策は終生を通して藩の財政悪化を促進することになる。
 中でも隠居後、大御所として主導した蘭学への傾斜と華美好みは、自身による粛正改革策への転換を導くことになるが、この重豪治世第三期については稿を改めて見ることにする。

2017年4月 2日 (日)

私家版琉球国王列伝(連載第11回)

十二 尚益王(1678年‐1712年)/尚敬王(1700年‐1752年)

 12代尚益王は30年間在位した祖父尚貞王の後を受けて即位したが、在位わずか2年で死去し、子の尚敬が継いだ。尚敬王の治世は大飢饉による被害という困難の中で始まるが、尚敬の時代は実質的な宰相格の三司官蔡温の手腕により、安泰なものとなった。
 蔡温は第一尚氏王朝成立以前の14世紀末、明から渡来した福建人職能集団久米三十六姓の一つである蔡氏の出で、父は尚貞王代に『中山世譜』を完成させた学者蔡鐸である。そのため幼少期から英才教育を受け、中国大陸赴任を経て王子時代の尚敬の師範となった。
 こうした縁から、蔡温は尚敬王即位後は史上初の国師に任ぜられ、事実上国政全般を委ねられた。1728年には正式に三司官に選出され、名実共に王国政治のトップに立った。彼が特に力を入れたのは農政であり、自ら農書『農務帳』や治山書『杣山法式仕次』を著すほどであった。中でも、田/畑交換禁止や農民への永代耕作権の付与は農業生産力の向上に寄与した。
 その他、イデオロギー的な面では士族、農民の身分道徳的な心得をまとめた『御教条』を公布し、王国における封建的身分秩序の確立にも努めている。また10年以上の歳月を費やして大々的な検地(元文検地)を実施し、封建制度の土台強化も行なった。
 外交面でも、清の冊封に対処しつつ、日本側宗主である薩摩藩からの信頼も獲得し、政敵平敷屋〔へしきや〕朝敏から薩摩藩に讒言された際は薩摩藩が讒言者らを処刑したほどであった。また尚敬王が在位約40年にして死去したことを機に三司官を引退した後も、薩摩藩の命により晩年まで実権を保持した。


五´ 島津吉貴(1675年‐1747年)/継豊(1700年‐1760年)

 島津吉貴は先代綱貴の嫡男として後を継いだ4代藩主である。享保七年(1721年)に嫡男継豊に家督を譲り、薩摩庭園仙巌園に隠居しているが、その治世はおおむね琉球側の尚益・尚敬王代に相応している。
 琉球との関わりでは、宝永七年(1710年)、前年の6代将軍徳川家宣就任に際しての琉球慶賀使聘礼を指導している。また吉貴自身が指導したわけではないが、前田利右衛門なる薩摩領民が琉球から持ち込んだ甘薯が米作不毛地を救う主産品として普及し、一大生産地となったことから、サツマイモの名が生まれたのも吉貴時代である。
 また、上述した蔡温讒言事件に際して讒言者朝敏らを処刑した一件は吉貴隠居後の享保十九年(1734年)のことであるが、吉貴はまだ存命しており、これにも仙巌園にて大御所として関与した可能性がある。
 一方、嫡男継豊は在位年数こそ約25年と長かったが、病気がちであり、いくつかの分家の創出以外にさしたる事績は見られないまま、先例にならい、延享三年(1746年)、家督を嫡男宗信に譲って隠居した。
 ところが、宗信も、続く次男重年も父に先立ち若年で早世する不幸に見舞われ、最終的に重年の子で継豊の孫に当たる重豪〔しげひで〕が宝暦五年(1755年)に11歳で家督を継ぐこととなり、継豊がこれを後見した。

2017年3月 9日 (木)

私家版琉球国王列伝(連載第10回)

十一 尚貞王(1646年‐1709年)

 11代尚貞王は先代の父尚質王から比較的安定した王権を承継した。ただ、王宮首里城は先代の1660年に焼失し、まだ再建中だったため、王家の冠婚葬祭場であった大美御殿で即位式を執り行うというハプニングもあった。なお、首里城は尚貞王在位中に再建を果たしている。
 尚貞王の在位年は40年に及んだわりに特筆すべき偉業は記録されていないが、それは安泰の証なのであろう。尚貞王は歴史に関心が深く、後に三司官として辣腕を振るう中国系官僚蔡温の父蔡鐸を起用し、漢文体の王国史『中山世譜』を編纂させている。
 また諸臣の家譜を管理する系図座を設置し、諸家の家譜を提出させ、その素性を明らかにしつつ、系図を認証された者を士族として姓を授与する身分制度を整備したのも、尚貞王である。経済面では、首里の壺屋に窯場を集中させ、陶業の発展を王の膝元で図ったが、これも身分制度と一体化した職能管理政策であったと考えられる。
 このように、尚貞王は身分制度の確立を通じて、王国支配を強化した功績を持つと言えるかもしれない。ただ、聡明の聞こえ高かった世子尚純は父に二年先立って早世したため、尚純の長男で孫の尚益が継ぐこととなる。
 ちなみに、尚益には口唇裂の障碍があったとされ、尚貞王は医師兼外交官の高嶺徳明に中国で形成外科の補唇術を学ばせ、帰国した高嶺に尚益の手術を施行させ、成功したという。これは日本に先立つ全身麻酔外科手術であったと評されることもある。


四´ 島津綱貴(1650年‐1704年)

 島津綱貴は尚貞王と年代的にほぼ重なる3代薩摩藩主である。前回触れたように、先代光久の嫡男で綱貴の父綱久が早世したため、40歳近くで祖父から直接に家督を継承したものである。その経緯は、尚貞王から尚益王への承継と似ている。
 綱貴は領民に慕われる人柄であったらしいが、藩政は災難続きであった。まずもともと鹿児島地方に多い自然災害はもちろん、幕府からその名も「御手伝」として課せられる普請義務の履行もあった。とりわけ徳川将軍家の祈祷所・菩提寺となった寛永寺本堂普請である。
 こうした「御手伝普請」は幕府が外様諸藩を統制する財政的な手段であったが、とりわけ幕府が開府以来警戒心を解いていなかった薩摩藩には集中的に「御手伝」を課す傾向があり、結果として藩財政は逼迫していた。
 こうして薩摩藩が藩政に追われる中、薩摩藩による琉球支配は弛緩していかざるを得なかったため、結果的に琉球の自治権が回復されていったのも、綱貴時代である。その治世は祖父光久が長生したため、17年ほどであった。

2017年2月15日 (水)

私家版琉球国王列伝(連載第9回)

 尚豊王(1590年‐1640年)/尚賢王(1625年‐1647年)/尚質王(1629年‐1668年)

 薩摩による侵攻・征服当時の尚寧王は世子を残さず、1620年に苦難の治世を終えて没した翌年、王統は再び本家筋に戻り、5代尚元王の孫に当たる尚豊王が即位した。彼は約20年在位したが、この間、薩摩藩から王号を剥奪され、琉球国司に落とされるなど屈辱的な待遇を受けた。
 結局、彼は薩摩藩の傀儡のまま世を去り、世子の尚賢が後を継いだ。尚賢の治世はおよそ6年と短いものだったが、彼の治世では後に琉球の主産業となる黒糖やウコンの専売制度が導入されるなど、農政面では一定の治績を残している。また尚質王は、中国で明を打倒して新王朝を形成した清と引き続き冊封関係を結び、清から印綬されている。
 尚豊・尚賢父子の治世は薩摩藩の統制がまだ厳しい時代であったが、尚賢の後を継いだ王弟で10代尚質王の時代になると、薩摩藩の統制が一定緩和されてきた。そうした状況下で、尚質王は一連の改革を実行した。
 その実務を担ったのが、王族羽地御殿出身の羽地朝秀であった。彼は薩摩藩へ留学して学問を修めた後に帰琉し、琉球初の正史『中山世鑑』の編纂に当たった。こうした功績に加え、おそらくは後述する北谷恵祖事件(1663年)に介入してきた薩摩藩対策からも、尚質王の摂政に抜擢され、改革の全権を委ねられたのであった。
 彼は薩摩藩への留学経験から、確信的な親薩摩派であり、琉球人の祖は日本人であるとする「琉日同祖論」に立って琉球伝統の神道を懐疑し、最高神官として大きな権威を持ってきた聞得大君を王妃より下位に格下げする宗教改革を実施した。
 その他、朝秀は倹約による財政再建などの世俗政策も実施し、薩摩侵攻以来疲弊していた国力の回復に努め、尚質を継いだ尚貞王代初期の1673年まで摂政を続けた。
 こうして、尚質王代には薩摩藩の支配が一種の間接支配に変化する中で、琉球は一定の独自性を回復し、以後も200年近く存続していくのである。そこには対日迎合の批判も向けられながら、現実的な改革に努めた朝秀の功績も寄与したであろう。


三´ 島津光久(1616年‐1692年)

 島津光久は薩摩藩初代藩主家久の嫡男で、2代薩摩藩主である。彼は幕命で幼少期を江戸で人質として過ごし、参勤交代の原型を作ったと言われるが、そのため父死去を受け急遽帰国し、若くして藩主に就任した後しばらくは藩政に動揺が続いた。
 さらに、幕府の鎖国政策転換により、薩摩藩が頼みとする貿易が著しく制約されたことは藩財政を圧迫した。活路を見出そうとした金山の発見・開発も幕府の妨害で断念せざるを得ず、窮地に陥った。彼の治世で琉球支配が緩んだのも、こうして光久が藩運営に苦慮していた結果と言えるかもしれない。
 もっとも、寛文七年(1667年)には、琉球が清に派遣した康熙帝即位の慶賀使恵祖一行が琉球人の賊に襲撃され、貢物を強奪された不祥事(北谷恵祖事件)には司法介入し、関係者を処断している。
 その他には光久の在位中、これといって見るべき事績は記録されておらず、彼が名を残しているのは大名による庭園造りの先駆けとも言える鹿児島の仙巌園を造園したことくらいである。
 ただ、光久は壮健だったらしく、当時としては相当の長寿である80歳近くまで長生し、子沢山でもあったことで不安定さを補強し、藩の存続を確保したのであった。嫡男には先立たれたが、貞享四年(1687年)には孫の綱貴に無事家督を譲り、隠居している。

2017年1月29日 (日)

私家版琉球国王列伝(連載第8回)

九 尚寧王(1564年‐1620年)

 先代尚永王は嫡男がないまま没したため、後継には甥(妹の子)の尚寧が就くこととなった。尚寧は第二尚氏王朝3代尚真王の長男尚維衡を祖とする大名小禄御殿の4世に当たる王族である。ここで王統が切り替わることになるが、特に動乱は記録されておらず、尚寧への継承は王朝総意であったと見られる。
 即位した尚寧が最初に直面したのは、日本との外交問題であった。1591年、時の天下人豊臣秀吉の朝鮮出兵に際して、糧食の提供を求める協力要請が薩摩の島津氏を通じてあったが、秀吉が最終的に狙う明の冊封国でもあった琉球王朝内では中国系渡来人を祖とする重臣謝名利山(親方)の強硬な反対もあり、協力は秘密裏の最小限とするほかなかった。
 実は九州征伐後の秀吉は琉球に服属をたびたび迫っていたが、秀吉存命中は実現しなかった。しかし徳川幕府が樹立されると、状況が変化する。仙台に漂着した琉球船の送還に家康が便宜を図ったことを理由に、薩摩藩を通じて謝恩使の派遣を求められるようになったのだ。
 1609年には初代薩摩藩主・島津家久が幕府への服属を要求してきたのに対し、かの謝名親方が反対し、使者を侮辱したとされる。これに激怒した島津藩は幕府の許可の下、琉球に侵攻、琉球はあっさり降伏した。島津藩の軍勢は3000人ほどであったが、太平が続き軍備を重視していなかった琉球側はこれに対抗し切れなかった。
 尚寧王は一時捕虜となり、江戸に連行され、時の将軍徳川秀忠と謁見させられた。最終的には琉球帰還を許されたものの、以後の琉球は奄美大島を割譲させられたうえ、薩摩藩の附庸国という地位に置かれ、「掟十五条」なる一方的な不平等条約に基づき、薩摩藩の在番奉行を通じて支配されることになった。
 同時に、琉球は国王の代替りごとに謝恩使を、徳川将軍の代替りごとに慶賀使を江戸上りで派遣する義務を負わされ、薩摩藩を介して幕府の陪臣的な関係にも置かれたのである。
 尚寧王の在位は約30年に及んだが、彼の治世は薩摩藩の琉球征服という屈辱的な史実とともに記憶されることとなってしまった。非主流派から即位した尚寧王は権力基盤が不十分なため、謝名親方のような親明・対日強硬派の重臣を抑え切れず、結果として軍事的征服という事態を招いてしまったように見える。


二´ 島津家久(1576年‐1638年)

 島津家久(旧名・忠恒)は島津氏全体では18代目だが、徳川幕藩体制下の薩摩藩主としては初代に当たる。先代で父の義弘は「個人的な判断」により関ヶ原の戦いで西軍に与したため、戦後の島津氏は改易の危機にあったところ、事実上の当主として講和交渉役を務めていた先々代で家久の伯父義久の反対を押し切って家久自ら上洛して家康に謝罪・服属し、本領安堵を得た。
 こうしたエピソードからも、家久は直情的な人物で、激しい気性の持ち主でもあったようである。とはいえ、義久も藩内では大御所として権勢を保っていたため、1611年に義久が没するまでは家久の権力には制約があったと考えられる。
 琉球征服も義久存命中の出来事であり、義久は琉球との関係を重視し、出兵に反対していたとされるが、ここでも家久が反対を押し切って強行した。このように、琉球出兵は島津家中でも統一された方針ではなかったようである。
 そもそも日本側では「琉球征伐」(琉球側では「己酉の乱」)と呼ばれる琉球侵攻の要因については、確固たる定説がない。論点は幕府と薩摩藩のいずれが主導したかであるが、家久が出兵を決めたのが幕府自ら琉球に水軍を派兵するとの情報を得た後であることや、最終的に琉球は幕府直轄地でなく、薩摩藩附庸国として幕末まで確定したことなどからも、薩摩藩の主導性が強かったと言える。
 土壌的に稲作に適さないため農民が少なく、中世的な半農半士体制が持続していた独特の構造を持つ薩摩藩は、台風・火山噴火などの災害の頻発とも合わせ、恒常的な財政難にあったことから、琉球の貿易利権を自ら管理統制し、密輸を含めた貿易で藩財政を補う狙いがあったと見られる。
 薩摩藩が琉球に介入しようとする動きはすでに16世紀後半の戦国時代から起きていたが、一介の南端辺境領主から徳川幕府を後ろ盾とする近世大名の地位を確保した島津氏としては、幕府の権威を借りつつ満を持して琉球を手中にしたということだったのかもしれない。それには、家久の武断主義的な傾向も寄与しただろう。

2017年1月 9日 (月)

私家版琉球国王列伝(連載第7回)

八 尚元王(1528年‐1572年)/尚永王(1559年‐1589年)

 通算78年に及んだ尚真・尚清父子王の治世が1555年の尚清王の死をもって終焉すると、大勢いた王子たちの間での王位継承抗争が起きるも、翌年、先代から後継指名を受けていた次男の尚元が王位に就くことで終息した。
 尚元王時代には、九州薩摩の戦国大名として実力をつけていた島津氏との外交関係が密になった。しかし、薩摩外交使節の接遇をめぐって摩擦も起こした。その意味で、この時代は次の世紀に起こる薩摩藩による侵攻・占領の予兆を感じさせる時代であったと言える。
 軍事的には倭寇撃退や奄美大島親征の事績が記録されるが、これが身体にたたったか、尚元王は奄美戦役の翌年に病没した。後を継いだのは、庶子の長男を飛び越え、まだ15歳ほどの嫡次男尚永だった。
 尚永王の時代、明からの冊封使が琉球国の忠義ぶりを「守礼之邦」と称賛したのを記念して首里城の大手門に「守礼之邦」の額が掲げられたことから、守礼門と通称されるようになったという。
 しかし、尚永王はこうした儀典以外にさしたる事績も残さないまま、30歳で死去してしまう。しかも子は女子のみで、世子がなかったため、後継者は王の異母弟尚久が順当であったが、彼が固辞したことから、尚真王長男を祖とする王族小禄御殿4世の尚寧が就くこととなった。


一´ 島津氏の台頭

 17世紀以降、琉球国の宗主となる薩摩島津氏は源氏流を称したが、本来は平安貴族惟宗氏を出自とし、元は藤原氏筆頭近衛家の所領であった九州の島津荘荘官に任じられ、九州に下向したことに始まるという。その点では、対馬領主として台頭していく宗氏とも同祖関係にある氏族である。
 鎌倉幕府樹立後、源氏により地頭に取り立てられ、薩摩・大隅・日向にまたがる日本最大級の荘園であった島津荘を継承する強大な守護職に就いた島津氏だが、1209年の比企能員の変に連座して薩摩一国の守護へと縮減され、薩摩領主としての地位が確立する。
 島津氏の所領薩摩は本州最南端の辺境地であったためか、以後の島津氏は浮沈を繰り返しながらも薩摩の地にとどまり続ける一種の辺境領主として定着した点では、対馬の宗氏や北方の辺境領主であった松前氏とも類似するところがある。
 戦国時代の島津氏は周辺国人勢力の蠕動や一族内紛などにより弱体化を見せるが、この状況を転換し、島津氏を戦国大名として確立したのが島津忠良・貴久父子であった。父子は島津氏分家伊作〔いざく〕家の出自であり、本来は傍流であったが、宗家との武力闘争に打ち勝ち、島津氏統一に成功したのだった。
 忠良・貴久父子の時代の島津氏は鹿児島の城下町の整備に加え、琉球を通じた対明貿易を盛んにして財力もつけ、九州統一へ向けた基礎を固めたが、貴久の息子義久は悲願の九州統一目前にして、豊臣秀吉の九州征伐に屈し、豊臣氏の軍門に下ったのであった。

2016年12月20日 (火)

私家版琉球国王列伝(連載第6回)

七 尚真王(1465年‐1527年)/尚清王(1497年‐1555年)

 前回の末尾で見たとおり、尚真王は生母宇喜也嘉の差配により、叔父を退けて12歳ほどで3代国王に就いた経緯から、治世初期には宇喜也嘉が実権を持ったと見られる。
 しかし、彼は若くして即位したうえ、比較的長生したため、在位50年に及び、この間に第二尚氏王朝の政治経済的な基礎が固められた。もっとも、宇喜也嘉も1505年の死去まで祭祀を通じて何らかの影響力を保持し続けた可能性があり、その意味では、宇喜也嘉存命中の時期は事実上尚真‐宇喜也嘉共治体制だったとも言える。
 そうした母に支えられ、尚真王は軍事面を担い、1500年には朝貢を懈怠した石垣島の豪族オヤケアカハチを討ち、琉球王府の支配がまだ手薄だったと見られる八重山諸島への支配を強化した。
 その翌年には、父尚円王の陵墓として玉陵を築造した。その際に刻まれた碑文によると、玉陵は宇喜也嘉や妹の初代聞得大君月清を含めた尚真王一族子孫の墓とされたため、玉陵は以後、尚氏王朝の墓域として定着した。
 こうした王統の保証に加え、政治面ではいまだ割拠していた地方按司の武器没収と首里集住義務付けにより、豪族の権勢を削ぎ、位階制度を備えた中央集権体制を整備した。また明との朝貢貿易を年次化し、宗主国明との関係強化を進めた。
 尚真王には七人の息子が確認されるが、このうち本来の世子である長男尚維衡は生母が事実上失権した2代国王尚宣威の娘だったためか、廃嫡とされ、浦添朝満として分家し、累代にわたり多数の重臣を輩出する大名小禄御殿の家祖となった。
 ちなみに、三男と四男も分家して御殿(ウドゥン)と呼ばれる大名家の家祖となっており、尚真王は以後の琉球王朝全体の血統的な起点となっている。その意味では、彼こそは第二尚氏王朝の実質的な開祖とも言える。
 さて、1526年の尚真王死去を受け、翌年4代国王に即位したのは、五男の尚清であった。尚清王は父王には及ばないものの、28年にわたり在位し、この間、首里城の防備強化や倭寇対策など軍事面で功績を上げている。
 こうして、尚真・尚清父子王の治世通算78年の間に琉球王朝の基盤が確固たるものとなり、以後、19世紀後半の大日本帝国による琉球併合まで存続していくこととなった。

2016年11月27日 (日)

私家版琉球国王列伝(連載第5回)

六 尚円王(1415年‐1476年)/尚宣威王(1430年‐1477年)

 第二尚氏を創始した尚円王は即位以前は金丸といい、伊是名島の農民の出とされる。しかし、若い頃、島を出て本島へ渡り、王子時代の尚泰久王の家臣となり、その即位にも貢献、以後は王府要職を経て、通商・外交を所管する御物城御鎖側官に昇進する。港市国家琉球にあって通商外交相は事実上の宰相格であった。
 農民から最終的に王に上り詰めた尚円王はさしずめ琉球の秀吉のような人物であったが、秀吉と異なり、持続的な王朝体制の樹立に成功した。その点で、第二尚氏王朝は世界史的にも多くはない農民出自王朝である。 
 もっとも、史書は一度引退していた金丸がクーデター勢力に請われて現役復帰・即位したように書かれているが、尚泰久王を継いだ尚徳王によって遠ざけられ、引退した経緯からしても、野心的で上昇志向の強い金丸がクーデターの糸を引いていた可能性は大いにある。即位後の尚円王は第一尚氏王家の王族を粛清し、根絶やしにしたことも、それを裏付ける。
 その一方で、彼が第一尚氏を継承して尚氏を称したのは、クーデターによる王位簒奪を正当化し、明朝から冊封を受けるための政治的な標榜であった。従って、第一尚氏と第二尚氏は実質上別個の王朝である。
 尚円王は1469年の即位時、当時としてはすでに50歳を越す「高齢」であり、治世7年ほどで没した。後を継いだのは世子ではなく、年の離れた弟・尚宣威王であった。理由として、世子・尚真が幼少のためとされている。ただ、尚宣威は尚円が伊是名島から連れ出し、養育した息子に近い存在であり、後継は尚円の遺志であった可能性もあろう。
 しかし、尚宣威王は尚真こそが王にふさわしいとの神託に基づいて半年で退位、その年のうちに死去している。この慌しい動きの背後には、尚円王妃宇喜也嘉〔おぎやか〕の策謀があったと考えられている。彼女は自身司祭でもあり、長男の尚真を3代国王に立てるとともに、長女は聞得大君〔きこえおおぎみ/チフィジン〕なる最高神官職に就けた。
 この聞得大君はこれ以降、琉球神道の司祭たる祝女(ノロ)の頂点に立つ第二尚氏王朝の守護神官として恒久的に制度化され、俗権を握る国王に対して、聖権を司る存在として確立される。聞得大君は政治的な発言権までは持たなかったとはいえ、このような琉球独自の女性参加型の聖俗二重王権は女性史的にも注目に値するだろう。
 こうして、初代没後の王位継承上の混乱を早期に収め、王国持続の礎を築いたのは王妃宇喜也嘉だったとも言える。そして、短命の王が続いた第一尚氏王朝と異なり、3代尚真王が半世紀にわたって王国の支配制度を整備していくことが、江戸幕府を超える400年以上にわたる王朝の持続を保証したのである。

2016年11月12日 (土)

私家版琉球国王列伝(連載第4回)

五 尚徳王(1441年‐1469年)

 尚徳王が父尚泰久王から円滑に王位を継承した時は、まだ20歳そこそこであったが、彼は間もなく強い指導力を発揮し始める。彼の時代に東南アジアの当代有力な港市国家マラッカとの貿易を開始し、琉球を東アジアの港市国家へと発展させた。
 また父の代から仕えていた京都五山の臨済宗僧侶芥隠承琥を使者として、日本の室町幕府に派遣、時の将軍足利義政と謁見し、日本との関係も深めた。芥隠承琥は第二尚氏王朝時代にもまたがって琉球で仏教禅宗の布教にも注力し、現在では失われた琉球王家菩提寺円覚寺を建立するなどの事績を持つ。
 しかし尚徳王代における最大の事績は、1466年の喜界島征服である。この作戦は王自らが親征するほどの力の入れようであった。結果は成功であったが、遠征は重臣らの反対を押し切って行なわれたうえ、王国側の損害も相当なものであったらしく、尚徳王は次第に重臣の信頼を失ったとされる。
 元来、尚徳王には国王親政の意思が強かったと見られる。父王以来の重臣であった金丸がいったん引退したのも、年齢的な理由以上に尚徳王との衝突が原因と考えられる。
 第二尚氏王朝成立後に編纂された史書が尚徳王を暴君として描くのは、やがて第一尚氏王朝を倒す金丸が創始した第二尚氏王朝の正当性を根拠づけるためのプロパガンダであろう。しかし、尚徳王代は領土も最大に広がり、相対的には第一尚氏王朝の全盛期であった。
 尚徳王が長生していれば、第一尚氏王朝はさらに持続した可能性があるが、そうはならず、尚徳王は1469年、30歳を前にして早世してしまう。この死は自然死だったと見られるが、この後、重臣らが尚徳王の世子を後継に立てようとしたところ、群臣がこれを殺し、引退していた金丸を新国王に推戴したという。
 このクーデターの後、第一尚氏王朝の王族はほぼ皆殺しにされ、尚円王となった金丸が第二尚氏王朝を開始するのである。こうして、琉球最初の統一王朝であった第一尚氏王朝は、計7代60年ほどで、その最盛期にあっけなく滅亡したのであった。

2016年10月29日 (土)

私家版琉球国王列伝(連載第3回)

三 尚金福王(1398年‐1453年)

 尚金福王は先代の甥尚思達王が継嗣を残さず没したために、王位に就くことになった。彼の四年ほどの在位中の事績としては、明使を迎えるために、港として整備した那覇と王城のある首里を結ぶ堤道として長紅堤を築造したことが挙げられる。
 この事業も尚巴志王時代からの明人国相懐機が指揮を執っており、第一尚氏王朝初期の国づくりにおいていかに彼の貢献が大きかったかがわかるが、そのことは同時に、初期の第一尚氏王朝が外国人頼みに陥っていたことをも示している。
 尚金福王は長生していれば、名君となった可能性があるが、不幸にして在位四年で没してしまう。その死は急だったようで、後継をめぐって王子志魯と王位を請求する王弟布里の間で紛争が起き、内戦にまで発展した。
 この志魯・布里の乱により王城首里城は焼失、志魯・布里両人ともに戦死という最悪の結果に終わった。この乱はいまだ不安定な第一尚氏王朝にとっては打撃であり、その命脈を自ら縮めたことは間違いない。

四 尚泰久王(1415年‐1460年)

 王位を争った志魯・布里両人の死により王位が回ってきたのが、尚巴志の存命中の七男尚泰久であった。彼は越来〔ごえく〕に領地を与えられた按司の立場にすぎなかったが、彼が抜擢し、後に第二尚氏王朝を建てる重臣の金丸らに擁立されたのである。
 そうした経緯もあって、尚泰久王は強力な王権を形成できず、金丸ら重臣の発言権の増大を抑え切れなかったようである。そうした王権の脆弱さが引き起こしたのが、有力按司間の争いである護佐丸・阿麻和利の乱である。
 乱の当事者のうち、護佐丸は尚巴志時代、第一尚氏王朝の成立に貢献した古参の功臣、阿麻和利は尚泰久王の擁立に寄与し、尚泰久王の娘婿でもある有力者であった。乱の発端は阿麻和利が護佐丸の謀反を王府に讒言し、王府の命により護佐丸を滅ぼしたことにあった。
 しかし、これは王位簒奪を狙う阿麻和利の策謀であったようで、護佐丸を滅ぼした阿麻和利は返す刀で首里を攻略するが、王府軍の反撃にあい、滅ぼされた。結果として、王権を脅かす二人の有力按司を両成敗的に排除することになり、王権はひとまず安定化に向かうはずであった。
 尚泰久王は乱から二年後の1460年に没したが、その後は息子の尚徳が円滑に継承した。第一尚氏王朝が名実共に統一王朝となったのは、この時期と言ってよいであろう。がしかし、尚徳王こそは、第一尚氏王朝最後の王となってしまうのである。

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