〆私家版琉球国王列伝

2017年7月26日 (水)

私家版琉球国王列伝(連載最終回)

十六 尚泰王〈続〉

 明治維新後の尚泰王政権は、明治新政府の廃藩置県政策の中で国の存亡がかかる正念場を迎える。明治政府は従来、清と薩摩藩への二重統属を認め、幕府とは薩摩藩を通じた間接支配関係を維持してきた徳川幕府とは異なり、琉球を正式に日本領土に組み込もうとしていたからである。
 結果、明治政府は1872年、いったん尚泰王を琉球藩王に奉じたうえ、日本の華族として処遇した。その後、明治政府は琉球に対し、清国との歴史的な冊封関係の解消を迫ったが、琉球側は難色を示した。これに業を煮やした政府は1879年、武力を背景とした外交圧力により琉球藩を廃し、沖縄県を設置した。
 日本側では「琉球処分」と称されるこの過程は、実態として、「琉球併合」であった。ある意味で、これはその後の大日本帝国による武力を通じた領土拡大政策の出発点ともなったと言える。これにより、日本領土は中国、東南アジア方面をも見据えた南方に延伸されたからである。
 この間、尚泰王の影は薄く、日本との交渉は三司官など伝統的な王府閣僚に任せ切りで、積極的に指導力を発揮した形跡はない。藩王の地位を剥奪された後の尚泰は東京移住を命じられ、沖縄を離れるとともに、侯爵の身分を与えられた。
 これに対し、尚泰の次男尚寅と四男尚順らは1890年代末、沖縄県知事職の尚家世襲制と自治権の付与を求める公同会運動を起こし、事実上の復藩を政府に陳情するも、認められず、結局、沖縄県の日本統合は確定した。
 尚泰は侯爵として静かな余生を過ごし、帰郷は許されないまま1901年に急逝するが、琉球国王経験者としては唯一、20世紀まで生きた人物となった。その後、旧尚王家(第二尚氏)は、長男尚典を介して、今日も一般人として存続している。


八´ 島津久光(1817年‐1887年)/忠義(1840年‐1897年)

 薩摩藩側で最後の藩主となったのは島津忠義であるが、彼は先代斉彬の甥であり、実父は斉彬と藩主の座を争った野心的な久光であった。そのため、忠義体制下では、久光が「国父」と称され、大御所として実権を握った。
 こうして正式に藩主に就かないまま最高実力者となった久光は藩政改革の中で、後に明治政府の首班として台頭する大久保利通ら、明治維新後に活躍する若手藩士を登用し、かつ自らも幕末の公武合体運動、さらには倒幕運動でも主導的役割を果たし、薩摩藩を明治維新の主役に押し立てる功績を残した。
 その後、旧大名級としては例外的に明治政府に関与を続けるも、本質的に保守的な久光は明治政府の急進的な政策にはついていけず、特に廃藩置県には強硬に反対した。結局、彼は1876年、鹿児島県となった郷里へ隠居する。そのため、本来は薩摩も宗主として当事者であるはずの「琉球処分」問題に関与することもなかった。
 一方、息子の忠義は当初は父久光の後見・実権体制下で主体的役割を果たすことなく、その後も、大久保や西郷隆盛らに藩政を委ね、終始受け身であった点、琉球最後の尚泰王とも通ずるところがある。そして、尚泰同様、維新後は政府の命により東京に移住した。
 忠義は父とともに公爵を授爵され、貴族院議員も務めたが、1888年には政府の許可で帰郷していた忠義が明治政府で重要な役割を果たすことはなく、父の死の10年後、1897年に鹿児島で死去した。東京で客死した尚泰に対する扱いとは対照的であった。

2017年7月19日 (水)

私家版琉球国王列伝(連載第15回)

十六 尚泰王(1843年‐1901年)

 尚泰王は先代の父尚育王が若くして没したことから、1848年、幼少で即位した。そのため、治世初期の欧米列強との相次ぐ条約締結で主導的役割を果たすことはなかった。
 1850年代に琉球が締結した一連の条約のうち最初は米琉修好条約であったが、このとき米側のペリー提督は琉球征服を日本開国の突破口と認識して琉球に現れ、強硬上陸したのだった。日本に先立つ黒船来航である。
 最終的に、琉球は日米和親条約に引き続いて、不平等条約の性質を持つ琉米修好条約の締結を半ば強制されることになる。これをきっかけに、フランス、オランダとも同種条約の締結を強いられた点は、日本本国の安政五か国条約の経緯と類似している。
 こうした不平等条約の締結は、江戸幕府(将軍徳川家定)、琉球王国ともに元首が弱体であったという事情が相当に影響していると思われる。
 幼少で即位し、琉球王国最後の王となった尚泰王の治世は、日本側の幕末から明治維新をはさんで24年に及んだが、明治維新後の治世に関しては、稿を改めて見ることにする。


八´ 島津斉彬(1809年‐1859年)

 薩摩藩主の中でも特に著名な島津斉彬は若くして洋学志向の改革派であったことから、緊縮財政派の父斉興に警戒され、庶子の久光への譲位が画策されたが、斉彬はこの企てを打ち破り、お家騒動(お由羅騒動)を利用して藩主の座を勝ち取ったことは前回述べた。
 1851年に藩主に就任した斉彬は開明・開国派として藩の富国強兵に務め、後の明治維新政府の先取りのような政策を藩内で実施するとともに、養女に取った親類の篤姫を将軍家定正室として送り込み、将軍家と姻戚関係を結び、幕府との人脈を生かし、外様ゆえに幕府要職には就かないまま、幕政改革にも介入した。
 斉彬はとりわけ洋式軍備に強い関心を寄せ、側近市来四郎を琉球に送り、琉球を介してフランスから兵器の購入を計画した。この際、薩摩藩に非協力的だった琉球王府の人事に干渉し、通訳官として薩摩の評価も高い牧志朝忠ら親薩摩派の陣容に立て替えている。
 他方、幕政では家定死後の将軍後継問題で一橋(徳川)慶喜を推し、大老井伊直弼と対立した。井伊は安政の大獄の強権発動で、紀州藩主徳川慶福(家茂)を将軍に擁立、反発した斉彬は挙兵上洛を企てるが、兵の観閲中に発病し、間もなく急死した。
 存命中の父斉興や異母弟久光ら守旧派による暗殺説も囁かれる斉彬の急死は、琉球王府の権力闘争にも直接波及し、大規模な疑獄政変を引き起こすが、これについては稿を改めて見ることとにする。

2017年6月21日 (水)

私家版琉球国王列伝(連載第14回)

十五 尚育王(1813年‐1847年)

 琉球にも西洋列強の手が及び始めた19世紀前半の時期に登位した尚育王は、前回も見たように、父王が晩年精神障碍のため執務不能となったことから、10代から摂政として政務を執っていた。
 在位中は、来航する列強との折衝に追われることが多かった。まず1844年にフランス海軍が宣教師テオドール‐オギュスタン・フォルカードを伴って来航した。王府はフォルカードの滞在を許したが、2年後には退去させている。
 同年には英国海軍が宣教師バーナード・ジャン・ベッテルハイムを伴って来航した。王府はフランスの先例どおり退去を求めるも、抗し切れず、医師でもあったベッテルハイムは琉球王室の祈願寺であった護国寺に居座り、当局の監視を受けながらも8年間にわたり医療及び布教活動を行なった。彼は聖書の琉球語翻訳も手がけるなど、琉球における最初のキリスト教宣教師として事績を残している。
 尚育王の国葬の際、ベッテルハイムが群衆に囲まれ、殴打されるという外交問題に発展しかねない事件が発生している。ベッテルハイムの布教が大衆間では快く思われていなかったことを示唆する事件であった。
 尚育王は年齢的にはさらに20年ほど生きて琉球王国最後の王となった可能性もあったが、47年、30代にして没した。摂政時代を合わせれば、約20年の治世であった。


七´ 島津斉興(1791年‐1859年)

 島津斉興は、いわゆる近思録崩れのクーデターにより隠居に追い込まれた父斉宣に代わって、祖父重豪によって若くして藩主に擁立された経緯から、祖父が没した1833年までは当然にも祖父の傀儡藩主に過ぎなかった。
 しかし親政を開始すると、晩年の祖父が見出していた下級藩士出身の調所広郷を家老に抜擢して、藩政改革を断行させた。そのため、斉興の時代は調所改革の時代と重なる。調所改革の目的は放漫財政家の重豪時代に500万両にまで達していた負債の整理ということに尽きていた。
 そのために調所は事実上のデフォルト策、琉球を通じた清との密貿易、琉球征服以来薩摩藩直轄となっていた旧琉球領奄美諸島での黒糖搾取(黒糖地獄)などの強硬策をもって比較的短期のうちに財政再建を果たし得たのであったが、そのつけは政争に巻き込まれての横死であった(自殺説あり)。
 政争とは、斉興の後継をめぐる嫡子斉彬と庶子久光の間でのお家騒動―町人出身の久光の生母お由羅の方の名にちなみ、「お由羅騒動」と呼ばれる―であった。封建的発想では嫡子の斉彬後継が正論だが、重豪の気質を受け継ぎ「蘭癖」のあった斉彬を嫌う調所は、主君の斉興とともに久光を推していた。
 だが、幕府中枢と通じた斉彬派の画策により、調所は密貿易の件を国策捜査で追及される中、急死したのである。その2年後には久光派であった斉興も幕府の介入によって隠居に追い込まれ、斉彬に藩主の座を譲ったのであった。

2017年6月 2日 (金)

私家版琉球国王列伝(連載第13回)

十四 尚灝王(1787年‐1834年)

 先代の尚成王が幼年のまま没すると、叔父の尚灝〔しょうこう〕が後を継ぐこととなったが、以後の琉球王統は彼の子孫で確定している。1804年の即位時は10代であったが、その後30年にわたり在位し、尚穆王以来の長期治世となった。
 彼の治世中の琉球は、日本と同様、西洋列強の来航という新状況に直面した。初発は1816年に来航したバジル・ホール率いる英国軍艦であった。その目的は極東探査にあった。続いて、21年にはオランダ商船、27年には英国商船が来航し、開港を要求するも、薩摩藩に従属する琉球独自の開港は不可であった。
 尚灝王は長い治世のわりに目立った事績は記録されておらず、晩年には精神疾患を患い、執務不能となり、28年には15歳の世子尚育が摂政として立った。列強の開港要求がより強硬になるのは、尚灝王が没して尚育が正式に王位に就いた後のことである。


六´ 島津重豪〈続〉

 琉球の尚灝王代は、長生した薩摩藩主島津重豪の晩年期にほぼ相応する。前回は触れなかった重豪治世第三期である。この時期の重豪はすでに家督を長男斉宣〔なりのぶ〕に譲って表向き隠居しつつ、後見人として実権を保持する院政を敷いていた。
 そうした中で勃発したのが、文化五年(1808年)から翌年にかけてのお家騒動・近思録崩れである。斉宣が朱子学教本『近思録』を奉じる家老らを起用して緊縮財政を主導しようとしたことに反発した重豪が家内クーデターを起こして斉宣を隠居に追い込み、孫の斉興に立て替えたたうえ、近思録派を粛清したのであった。
 これは従来、積極的な文教政策や蘭学への傾倒から驕奢に走り、財政破綻の危機を引き起こしていた重豪と、これに反発する一部家臣団の対立を背景とする政変であったが、重豪に反省の色はなかった。ただ、最晩年に自ら見出し、抜擢した下級藩士出身の調所広郷が、やがて次の斉興の時代に財政改革を主導することになる。
 当時としては異例の89歳まで長生した重豪は「蘭癖大名」の典型とされるが、オランダ商館を通じて交流のあったシーボルトによれば、開明的かつ聡明だったとされる。彼が、幕末の倒幕運動拠点となる薩摩藩の精神的な土台を築いたこともたしかであった。

2017年4月30日 (日)

私家版琉球国王列伝(連載第12回)

十三 尚穆王(1739年‐1794年)/尚温王(1784年‐1802年)/尚成王(1800年‐1804年)

 14代尚穆〔しょうぼく〕王は、父の先代尚敬王が死去した時はまだ10代と若く、すでに退官していた蔡温が薩摩藩の命により引き続き実質的な宰相格を務めた。この間、1756年の清国冊封使の接受も蔡温が仕切っている。
 蔡温が完全に引退した後、彼に匹敵するような実力を持った宰相は出ず、尚穆王代には重臣の合議が機能したと見られる。その成果として、86年に発布された琉球発の成文刑法典・琉球科律がある。これは従来、不文慣習法や判例に委ねられた刑法を集大成して、法治国家としての基盤を整備した意義を持つ。
 尚穆王が在位した40数年は比較的安泰無事であり、清国や薩摩藩との関係も良好であった。世子尚哲は好学の秀才と謳われ、73年から翌年にかけて薩摩藩を表敬訪問し、時の藩主島津重豪の歓待を受けるが、88年、父に先立って30歳で早世した。
 そのため、尚穆王を継いだのは孫の尚温王であった。彼も年少での即位ながら、父尚哲に似て好学と見え、教育制度の改革に乗り出した。すなわち、従来福建人にルーツを持つ久米村出身者が独占してきた中国留学生(官生)の制度の改革と新たな最高学府・国学の創立である。
 この教育制度改革は自身も久米村出身であった国師・蔡世昌を中心に断行されたため、彼は久米村出身者から激しい糾弾攻撃を受けた。その結果、98年には暴動に発展したため、王府が強制介入し、久米村出身者を弾圧した。このいわゆる官生騒動は王府主導で鎮圧され、以後、国学による高等教育制度が定着する。
 だが、父以上の短命で、18歳にして夭折した尚温王を継いだのはわずか2歳の長男尚成王であったが、これも翌年に夭折したため、尚哲の四男尚灝(しょうこう)が17代国王に即位することとなるというように、この時期の琉球王朝は王位継承に揺らぎが生じていた。


六´ 島津重豪(1745年‐1833年)

 島津重豪〔しげひで〕が8代薩摩藩主となったのは先代の父重年が若年で死去した11歳の時であり、祖父継豊が死去するまで、その後見を受けた。継豊没後は外祖父による後見を経て、親政を開始する。
 重豪は薩摩藩では久方ぶりに長寿を保つ藩主となるが、その半生は大きく三期に分かれる。第一期は上述した年少時の後見期であるが、第二期が表向き隠居する天明七年(1787年)までの親政期である。
 この時代から、重豪は藩政改革に取り組む。好学の重豪が最も注力したのは文教政策であった。その一環として藩校や武芸道場、天文研究所、医学校などを矢継ぎ早に設立した。このような政策は、重豪が歓待した琉球王世子尚哲を通じて、その子である尚温王による上述の教育改革に影響を及ぼした可能性がある。
 ただ、財政的には父の時代に幕府(将軍家重)から「手伝普請」として不当に課せられた木曽三川の治水事業(宝暦治水)の負の遺産もあり、重豪の諸政策は終生を通して藩の財政悪化を促進することになる。
 中でも隠居後、大御所として主導した蘭学への傾斜と華美好みは、自身による粛正改革策への転換を導くことになるが、この重豪治世第三期については稿を改めて見ることにする。

2017年4月 2日 (日)

私家版琉球国王列伝(連載第11回)

十二 尚益王(1678年‐1712年)/尚敬王(1700年‐1752年)

 12代尚益王は30年間在位した祖父尚貞王の後を受けて即位したが、在位わずか2年で死去し、子の尚敬が継いだ。尚敬王の治世は大飢饉による被害という困難の中で始まるが、尚敬の時代は実質的な宰相格の三司官蔡温の手腕により、安泰なものとなった。
 蔡温は第一尚氏王朝成立以前の14世紀末、明から渡来した福建人職能集団久米三十六姓の一つである蔡氏の出で、父は尚貞王代に『中山世譜』を完成させた学者蔡鐸である。そのため幼少期から英才教育を受け、中国大陸赴任を経て王子時代の尚敬の師範となった。
 こうした縁から、蔡温は尚敬王即位後は史上初の国師に任ぜられ、事実上国政全般を委ねられた。1728年には正式に三司官に選出され、名実共に王国政治のトップに立った。彼が特に力を入れたのは農政であり、自ら農書『農務帳』や治山書『杣山法式仕次』を著すほどであった。中でも、田/畑交換禁止や農民への永代耕作権の付与は農業生産力の向上に寄与した。
 その他、イデオロギー的な面では士族、農民の身分道徳的な心得をまとめた『御教条』を公布し、王国における封建的身分秩序の確立にも努めている。また10年以上の歳月を費やして大々的な検地(元文検地)を実施し、封建制度の土台強化も行なった。
 外交面でも、清の冊封に対処しつつ、日本側宗主である薩摩藩からの信頼も獲得し、政敵平敷屋〔へしきや〕朝敏から薩摩藩に讒言された際は薩摩藩が讒言者らを処刑したほどであった。また尚敬王が在位約40年にして死去したことを機に三司官を引退した後も、薩摩藩の命により晩年まで実権を保持した。


五´ 島津吉貴(1675年‐1747年)/継豊(1700年‐1760年)

 島津吉貴は先代綱貴の嫡男として後を継いだ4代藩主である。享保七年(1721年)に嫡男継豊に家督を譲り、薩摩庭園仙巌園に隠居しているが、その治世はおおむね琉球側の尚益・尚敬王代に相応している。
 琉球との関わりでは、宝永七年(1710年)、前年の6代将軍徳川家宣就任に際しての琉球慶賀使聘礼を指導している。また吉貴自身が指導したわけではないが、前田利右衛門なる薩摩領民が琉球から持ち込んだ甘薯が米作不毛地を救う主産品として普及し、一大生産地となったことから、サツマイモの名が生まれたのも吉貴時代である。
 また、上述した蔡温讒言事件に際して讒言者朝敏らを処刑した一件は吉貴隠居後の享保十九年(1734年)のことであるが、吉貴はまだ存命しており、これにも仙巌園にて大御所として関与した可能性がある。
 一方、嫡男継豊は在位年数こそ約25年と長かったが、病気がちであり、いくつかの分家の創出以外にさしたる事績は見られないまま、先例にならい、延享三年(1746年)、家督を嫡男宗信に譲って隠居した。
 ところが、宗信も、続く次男重年も父に先立ち若年で早世する不幸に見舞われ、最終的に重年の子で継豊の孫に当たる重豪〔しげひで〕が宝暦五年(1755年)に11歳で家督を継ぐこととなり、継豊がこれを後見した。

2017年3月 9日 (木)

私家版琉球国王列伝(連載第10回)

十一 尚貞王(1646年‐1709年)

 11代尚貞王は先代の父尚質王から比較的安定した王権を承継した。ただ、王宮首里城は先代の1660年に焼失し、まだ再建中だったため、王家の冠婚葬祭場であった大美御殿で即位式を執り行うというハプニングもあった。なお、首里城は尚貞王在位中に再建を果たしている。
 尚貞王の在位年は40年に及んだわりに特筆すべき偉業は記録されていないが、それは安泰の証なのであろう。尚貞王は歴史に関心が深く、後に三司官として辣腕を振るう中国系官僚蔡温の父蔡鐸を起用し、漢文体の王国史『中山世譜』を編纂させている。
 また諸臣の家譜を管理する系図座を設置し、諸家の家譜を提出させ、その素性を明らかにしつつ、系図を認証された者を士族として姓を授与する身分制度を整備したのも、尚貞王である。経済面では、首里の壺屋に窯場を集中させ、陶業の発展を王の膝元で図ったが、これも身分制度と一体化した職能管理政策であったと考えられる。
 このように、尚貞王は身分制度の確立を通じて、王国支配を強化した功績を持つと言えるかもしれない。ただ、聡明の聞こえ高かった世子尚純は父に二年先立って早世したため、尚純の長男で孫の尚益が継ぐこととなる。
 ちなみに、尚益には口唇裂の障碍があったとされ、尚貞王は医師兼外交官の高嶺徳明に中国で形成外科の補唇術を学ばせ、帰国した高嶺に尚益の手術を施行させ、成功したという。これは日本に先立つ全身麻酔外科手術であったと評されることもある。


四´ 島津綱貴(1650年‐1704年)

 島津綱貴は尚貞王と年代的にほぼ重なる3代薩摩藩主である。前回触れたように、先代光久の嫡男で綱貴の父綱久が早世したため、40歳近くで祖父から直接に家督を継承したものである。その経緯は、尚貞王から尚益王への承継と似ている。
 綱貴は領民に慕われる人柄であったらしいが、藩政は災難続きであった。まずもともと鹿児島地方に多い自然災害はもちろん、幕府からその名も「御手伝」として課せられる普請義務の履行もあった。とりわけ徳川将軍家の祈祷所・菩提寺となった寛永寺本堂普請である。
 こうした「御手伝普請」は幕府が外様諸藩を統制する財政的な手段であったが、とりわけ幕府が開府以来警戒心を解いていなかった薩摩藩には集中的に「御手伝」を課す傾向があり、結果として藩財政は逼迫していた。
 こうして薩摩藩が藩政に追われる中、薩摩藩による琉球支配は弛緩していかざるを得なかったため、結果的に琉球の自治権が回復されていったのも、綱貴時代である。その治世は祖父光久が長生したため、17年ほどであった。

2017年2月15日 (水)

私家版琉球国王列伝(連載第9回)

 尚豊王(1590年‐1640年)/尚賢王(1625年‐1647年)/尚質王(1629年‐1668年)

 薩摩による侵攻・征服当時の尚寧王は世子を残さず、1620年に苦難の治世を終えて没した翌年、王統は再び本家筋に戻り、5代尚元王の孫に当たる尚豊王が即位した。彼は約20年在位したが、この間、薩摩藩から王号を剥奪され、琉球国司に落とされるなど屈辱的な待遇を受けた。
 結局、彼は薩摩藩の傀儡のまま世を去り、世子の尚賢が後を継いだ。尚賢の治世はおよそ6年と短いものだったが、彼の治世では後に琉球の主産業となる黒糖やウコンの専売制度が導入されるなど、農政面では一定の治績を残している。また尚質王は、中国で明を打倒して新王朝を形成した清と引き続き冊封関係を結び、清から印綬されている。
 尚豊・尚賢父子の治世は薩摩藩の統制がまだ厳しい時代であったが、尚賢の後を継いだ王弟で10代尚質王の時代になると、薩摩藩の統制が一定緩和されてきた。そうした状況下で、尚質王は一連の改革を実行した。
 その実務を担ったのが、王族羽地御殿出身の羽地朝秀であった。彼は薩摩藩へ留学して学問を修めた後に帰琉し、琉球初の正史『中山世鑑』の編纂に当たった。こうした功績に加え、おそらくは後述する北谷恵祖事件(1663年)に介入してきた薩摩藩対策からも、尚質王の摂政に抜擢され、改革の全権を委ねられたのであった。
 彼は薩摩藩への留学経験から、確信的な親薩摩派であり、琉球人の祖は日本人であるとする「琉日同祖論」に立って琉球伝統の神道を懐疑し、最高神官として大きな権威を持ってきた聞得大君を王妃より下位に格下げする宗教改革を実施した。
 その他、朝秀は倹約による財政再建などの世俗政策も実施し、薩摩侵攻以来疲弊していた国力の回復に努め、尚質を継いだ尚貞王代初期の1673年まで摂政を続けた。
 こうして、尚質王代には薩摩藩の支配が一種の間接支配に変化する中で、琉球は一定の独自性を回復し、以後も200年近く存続していくのである。そこには対日迎合の批判も向けられながら、現実的な改革に努めた朝秀の功績も寄与したであろう。


三´ 島津光久(1616年‐1692年)

 島津光久は薩摩藩初代藩主家久の嫡男で、2代薩摩藩主である。彼は幕命で幼少期を江戸で人質として過ごし、参勤交代の原型を作ったと言われるが、そのため父死去を受け急遽帰国し、若くして藩主に就任した後しばらくは藩政に動揺が続いた。
 さらに、幕府の鎖国政策転換により、薩摩藩が頼みとする貿易が著しく制約されたことは藩財政を圧迫した。活路を見出そうとした金山の発見・開発も幕府の妨害で断念せざるを得ず、窮地に陥った。彼の治世で琉球支配が緩んだのも、こうして光久が藩運営に苦慮していた結果と言えるかもしれない。
 もっとも、寛文七年(1667年)には、琉球が清に派遣した康熙帝即位の慶賀使恵祖一行が琉球人の賊に襲撃され、貢物を強奪された不祥事(北谷恵祖事件)には司法介入し、関係者を処断している。
 その他には光久の在位中、これといって見るべき事績は記録されておらず、彼が名を残しているのは大名による庭園造りの先駆けとも言える鹿児島の仙巌園を造園したことくらいである。
 ただ、光久は壮健だったらしく、当時としては相当の長寿である80歳近くまで長生し、子沢山でもあったことで不安定さを補強し、藩の存続を確保したのであった。嫡男には先立たれたが、貞享四年(1687年)には孫の綱貴に無事家督を譲り、隠居している。

2017年1月29日 (日)

私家版琉球国王列伝(連載第8回)

九 尚寧王(1564年‐1620年)

 先代尚永王は嫡男がないまま没したため、後継には甥(妹の子)の尚寧が就くこととなった。尚寧は第二尚氏王朝3代尚真王の長男尚維衡を祖とする大名小禄御殿の4世に当たる王族である。ここで王統が切り替わることになるが、特に動乱は記録されておらず、尚寧への継承は王朝総意であったと見られる。
 即位した尚寧が最初に直面したのは、日本との外交問題であった。1591年、時の天下人豊臣秀吉の朝鮮出兵に際して、糧食の提供を求める協力要請が薩摩の島津氏を通じてあったが、秀吉が最終的に狙う明の冊封国でもあった琉球王朝内では中国系渡来人を祖とする重臣謝名利山(親方)の強硬な反対もあり、協力は秘密裏の最小限とするほかなかった。
 実は九州征伐後の秀吉は琉球に服属をたびたび迫っていたが、秀吉存命中は実現しなかった。しかし徳川幕府が樹立されると、状況が変化する。仙台に漂着した琉球船の送還に家康が便宜を図ったことを理由に、薩摩藩を通じて謝恩使の派遣を求められるようになったのだ。
 1609年には初代薩摩藩主・島津家久が幕府への服属を要求してきたのに対し、かの謝名親方が反対し、使者を侮辱したとされる。これに激怒した島津藩は幕府の許可の下、琉球に侵攻、琉球はあっさり降伏した。島津藩の軍勢は3000人ほどであったが、太平が続き軍備を重視していなかった琉球側はこれに対抗し切れなかった。
 尚寧王は一時捕虜となり、江戸に連行され、時の将軍徳川秀忠と謁見させられた。最終的には琉球帰還を許されたものの、以後の琉球は奄美大島を割譲させられたうえ、薩摩藩の附庸国という地位に置かれ、「掟十五条」なる一方的な不平等条約に基づき、薩摩藩の在番奉行を通じて支配されることになった。
 同時に、琉球は国王の代替りごとに謝恩使を、徳川将軍の代替りごとに慶賀使を江戸上りで派遣する義務を負わされ、薩摩藩を介して幕府の陪臣的な関係にも置かれたのである。
 尚寧王の在位は約30年に及んだが、彼の治世は薩摩藩の琉球征服という屈辱的な史実とともに記憶されることとなってしまった。非主流派から即位した尚寧王は権力基盤が不十分なため、謝名親方のような親明・対日強硬派の重臣を抑え切れず、結果として軍事的征服という事態を招いてしまったように見える。


二´ 島津家久(1576年‐1638年)

 島津家久(旧名・忠恒)は島津氏全体では18代目だが、徳川幕藩体制下の薩摩藩主としては初代に当たる。先代で父の義弘は「個人的な判断」により関ヶ原の戦いで西軍に与したため、戦後の島津氏は改易の危機にあったところ、事実上の当主として講和交渉役を務めていた先々代で家久の伯父義久の反対を押し切って家久自ら上洛して家康に謝罪・服属し、本領安堵を得た。
 こうしたエピソードからも、家久は直情的な人物で、激しい気性の持ち主でもあったようである。とはいえ、義久も藩内では大御所として権勢を保っていたため、1611年に義久が没するまでは家久の権力には制約があったと考えられる。
 琉球征服も義久存命中の出来事であり、義久は琉球との関係を重視し、出兵に反対していたとされるが、ここでも家久が反対を押し切って強行した。このように、琉球出兵は島津家中でも統一された方針ではなかったようである。
 そもそも日本側では「琉球征伐」(琉球側では「己酉の乱」)と呼ばれる琉球侵攻の要因については、確固たる定説がない。論点は幕府と薩摩藩のいずれが主導したかであるが、家久が出兵を決めたのが幕府自ら琉球に水軍を派兵するとの情報を得た後であることや、最終的に琉球は幕府直轄地でなく、薩摩藩附庸国として幕末まで確定したことなどからも、薩摩藩の主導性が強かったと言える。
 土壌的に稲作に適さないため農民が少なく、中世的な半農半士体制が持続していた独特の構造を持つ薩摩藩は、台風・火山噴火などの災害の頻発とも合わせ、恒常的な財政難にあったことから、琉球の貿易利権を自ら管理統制し、密輸を含めた貿易で藩財政を補う狙いがあったと見られる。
 薩摩藩が琉球に介入しようとする動きはすでに16世紀後半の戦国時代から起きていたが、一介の南端辺境領主から徳川幕府を後ろ盾とする近世大名の地位を確保した島津氏としては、幕府の権威を借りつつ満を持して琉球を手中にしたということだったのかもしれない。それには、家久の武断主義的な傾向も寄与しただろう。

2017年1月 9日 (月)

私家版琉球国王列伝(連載第7回)

八 尚元王(1528年‐1572年)/尚永王(1559年‐1589年)

 通算78年に及んだ尚真・尚清父子王の治世が1555年の尚清王の死をもって終焉すると、大勢いた王子たちの間での王位継承抗争が起きるも、翌年、先代から後継指名を受けていた次男の尚元が王位に就くことで終息した。
 尚元王時代には、九州薩摩の戦国大名として実力をつけていた島津氏との外交関係が密になった。しかし、薩摩外交使節の接遇をめぐって摩擦も起こした。その意味で、この時代は次の世紀に起こる薩摩藩による侵攻・占領の予兆を感じさせる時代であったと言える。
 軍事的には倭寇撃退や奄美大島親征の事績が記録されるが、これが身体にたたったか、尚元王は奄美戦役の翌年に病没した。後を継いだのは、庶子の長男を飛び越え、まだ15歳ほどの嫡次男尚永だった。
 尚永王の時代、明からの冊封使が琉球国の忠義ぶりを「守礼之邦」と称賛したのを記念して首里城の大手門に「守礼之邦」の額が掲げられたことから、守礼門と通称されるようになったという。
 しかし、尚永王はこうした儀典以外にさしたる事績も残さないまま、30歳で死去してしまう。しかも子は女子のみで、世子がなかったため、後継者は王の異母弟尚久が順当であったが、彼が固辞したことから、尚真王長男を祖とする王族小禄御殿4世の尚寧が就くこととなった。


一´ 島津氏の台頭

 17世紀以降、琉球国の宗主となる薩摩島津氏は源氏流を称したが、本来は平安貴族惟宗氏を出自とし、元は藤原氏筆頭近衛家の所領であった九州の島津荘荘官に任じられ、九州に下向したことに始まるという。その点では、対馬領主として台頭していく宗氏とも同祖関係にある氏族である。
 鎌倉幕府樹立後、源氏により地頭に取り立てられ、薩摩・大隅・日向にまたがる日本最大級の荘園であった島津荘を継承する強大な守護職に就いた島津氏だが、1209年の比企能員の変に連座して薩摩一国の守護へと縮減され、薩摩領主としての地位が確立する。
 島津氏の所領薩摩は本州最南端の辺境地であったためか、以後の島津氏は浮沈を繰り返しながらも薩摩の地にとどまり続ける一種の辺境領主として定着した点では、対馬の宗氏や北方の辺境領主であった松前氏とも類似するところがある。
 戦国時代の島津氏は周辺国人勢力の蠕動や一族内紛などにより弱体化を見せるが、この状況を転換し、島津氏を戦国大名として確立したのが島津忠良・貴久父子であった。父子は島津氏分家伊作〔いざく〕家の出自であり、本来は傍流であったが、宗家との武力闘争に打ち勝ち、島津氏統一に成功したのだった。
 忠良・貴久父子の時代の島津氏は鹿児島の城下町の整備に加え、琉球を通じた対明貿易を盛んにして財力もつけ、九州統一へ向けた基礎を固めたが、貴久の息子義久は悲願の九州統一目前にして、豊臣秀吉の九州征伐に屈し、豊臣氏の軍門に下ったのであった。

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