〆弥助とガンニバル

2017年2月 8日 (水)

弥助とガンニバル(連載最終回)

九 エピローグ
 :アフリカ奴隷貿易のその後

 弥助とガンニバルは、奴隷貿易システムが生み出した東方のアフリカ黒人武人であり、その後、両者の再来と言えるような例は記録されていない。その意味では、奴隷貿易システムの国際的な広がりを象徴する特異な事例だったとも言える。
 弥助を日本にもたらしたポルトガル主導の奴隷貿易は、ポルトガルがオマーン海洋帝国の台頭に伴い後退していった後、後発の英国が主導するようになり、カリブ海の西インド諸島のプランテーション労働者として黒人奴隷を送り込む銃器‐奴隷‐砂糖の三角交換貿易に発展する。
 三角貿易による利益は産業革命の物質的土台となったとも理解されているが、17世紀以降鎖国による自足体制に入る日本がこのシステムに参画することはなかったし、広大なシベリア開拓に注力するロシアも海外プランテーションに利害関心を示さなかったため、やはり奴隷貿易システムの当事者とはならなかった。
 しかし、三角貿易は奴隷対象者の減少による奴隷価格高騰という経済的変化によってメリットが少なくなったところへ、次第に芽生えてきたキリスト教的人道主義の精神にも後押しされ、当の英国自身による提起により、19世紀前半期には廃止の潮流が起きる。これは奴隷貿易システムを新たな帝国主義植民地支配に置換する契機となった。
 ちなみに、東アフリカでポルトガルを駆逐して台頭していたオマーンは、1856年に全盛期を演出したサイード大王が没した後、跡目争いから分裂し、アフリカ側のザンジバルがブーサイード分家の下に分離独立していった。
 こうして新生されたザンジバル・スルターン国も1870年には英国との間で奴隷貿易禁止を協定するが、その陰では通称ティップー・ティプのようなアラブ系の血を引くスワヒリ豪商が丁子等のプランテーションを目的とした私的な奴隷取引を展開し、アフリカ本土内陸部まで勢力圏を広げた。
 一方、ロシアに拉致される以前のガンニバルが捕捉されていたオスマン帝国は1890年、ロシアを含む欧米列強にザンジバルも加えた17か国が集まったブリュッセル会議でアフリカ黒人奴隷貿易の禁止協定に調印したにもかかわらず、非公式の奴隷調達慣習は手放せず、帝国が終焉する20世紀前半まで温存されていたのである。

2017年1月22日 (日)

弥助とガンニバル(連載第9回)

八 ガンニバルの子孫Ⅱ

 ガンニバルの後裔として最も著名なのは、ロシア近代文学者アレクサンドル・プーシキンである。おそらく、彼の存在のおかげでガンニバルの名も後世に記憶されたと言えるかもしれない。プーシキンはガンニバルの息子オシップの娘ナジェージダの息子であり、従って母方からガンニバルの曾孫に当たる。
 プーシキンの父方プーシキン家もロシア人貴族であり、プーシキンは両親ともに貴族という名門家系に生まれている。文学者プーシキンの業績はここでの主題から外れるので論及しないが、曽祖父との関わりでは、最晩年にガンニバルをモデルとする人物を主人公とする歴史小説『ピョートル大帝の黒人』(未完)を著した。
 この小説は主人公をエチオピア人とする設定になっているが、これはガンニバルの女婿によるガンニバルの評伝の説を下敷きにしており、その根拠は疑われている。おそらく数奇な経歴の家祖をアフリカでも長い歴史を持つ古王国であるエチオピアに結びつけたいという親族の念慮が働いたのだろう。
 プーシキンは政治的には改革派に与し、当時の専制的な帝政ロシアには批判的な立場を採ったために当局からは迫害・監視の対象とされるなど、波乱の多い人生を送ったが、こうした批判的知識人としての生き方には、彼のアフリカ・ルーツのアウトサイダー的な自覚が投影されていたかもしれない。
 プーシキンは決闘による負傷がもとで38歳にして早世したが、四人の子を残した。このうち、末娘ナターリアは当初ロシアの軍人に嫁いだが、ドイツのナッサウ公国公子ニコラウス・ヴィルヘルム・フォン・ナッサウと不倫関係となった末に貴賎結婚するというこれまた波乱の生涯を送った。この結婚の結果として、二人の子孫はメーレンベルク伯爵の称号を与えられた。
 現在ドイツの貴族称号は形式的なものに過ぎないが、ガンニバルの血統はナターリアを通じてメーレンベルク伯一族に続いている。またフォン・ナッサウとナターリア夫妻の長女でロシア皇族と貴賎結婚したゾフィーの二人の娘の子孫は英国貴族である。
 中でもゾフィーの次女ナジェージダはヴィクトリア女王の曾孫に当たる英国貴族ジョージ・マウントバッテン(第2代ミルフォード・ヘイヴン侯爵)と結婚したため、英王室の縁戚でもあるミルフォード・ヘイヴン侯爵家にもガンニバルの血統が流れている。
 このようにして、ガンニバルの血脈はプーシキンを経由しつつ、女系で欧州貴族家系に継続されているのである。アフリカ黒人奴隷としては、これほどの“栄進”は歴史上なかったであろう。奴隷制がアフリカとヨーロッパを数奇に結合させたのであった。

2017年1月 5日 (木)

弥助とガンニバル(連載第8回)

七 ガンニバルの子孫Ⅰ

 黒人将軍ガンニバルは、信長の弥助とは異なり、ロシア帝国軍人・貴族としてロシアに定着したため、ロシアに子孫を残すこととなった。しかし、最初の結婚は不幸な失敗に終わっている。その相手はギリシャ人女性であったが、経緯は不明ながら、妻にとっては強いられた結婚だったため、妻は夫を嫌い、夫婦仲は不調であった。
 ガンニバルは肌の色の白い娘を生んだ妻の不貞を疑い―遺伝上は子の肌が白い可能性もあり得たが、18世紀の知識の範疇ではなかったろう―、妻を10年以上も監獄に閉じ込めるという過酷な挙に出た。この時期、彼はすでに一個の権勢家だったのだ。
 ガンニバルは、最初の妻と法的な婚姻が続いている間に、今度は北欧とドイツにルーツを持つ貴族女性と同居し始めた。これは重婚に当たるため、ガンニバルは処罰され、離婚後も再婚は非合法なままであったが、この事実婚はうまくいったようで、二人の間には長男イワンを筆頭に10人もの子が生まれた。
 イワンの肖像画を見ると、父と同様明らかに黒人系の風貌をしており、父も今度は満足だっただろう。彼は父と同様、職業軍人となり、海軍士官として栄進する。特に露土戦争では黒海艦隊を率いてトルコ要塞の占領で軍功を上げた。その後もいくつかの海戦で戦果を上げ、1777年には時のエカチェリーナ2世により、海軍トップである海軍総監に任命された。
 翌年には現ウクライナ領に属するヘルソンの要塞司令官となり、エカチェリーナ女帝の事実上の夫でもあったグリゴリー・ポチョムキン公爵の指揮の下、ヘルソンの都市建設にも関与した。その功績で、イワンは女帝から叙勲された。ヘルソンは後に、重要な軍港都市として発展する。
 しかし、イワンは84年、上司に当たるポチョムキンと衝突して引退に追い込まれた。引退後は3年前に没した父の領地で余生を送り、1801年に死去している。最終階級は、父と同じ大将だった。
 こうしてイワン・ガンニバルは軍人として父にもひけをとらない成功を収めたが、父とは異なり生涯独身を通し、子孫を残さなかった。その理由は不明だが―弟のオシップは子孫を残している―、比較的人種差別が少ないと言われるロシアにあっても、18世紀当時は肌の色による通婚障壁がなかったとは言い切れないだろう。

2016年12月17日 (土)

弥助とガンニバル(連載第7回)

六 ピョートル1世とガンニバル

 ポルトガルが斜陽化していった17世紀には、北方でも変化が起きていた。ロシアにロマノフ朝が成立したのである。当初は中世的な性格を脱し切れなかったこの王朝を北方の新帝国に押し上げたのが、大帝を冠せられるピョートル1世である。彼の終生の課題はロシアの西洋化であった。
 そうした西洋化政策の付随的な結果として現れたのが、後にオスマントルコ黒人奴隷からロシア軍人となるアブラム・ガンニバルである。ガンニバルもまた奴隷の常として本名は不詳であり、ガンニバルは古代カルタゴの英雄ハンニバルにちなんだものである。
 ガンニバルの出身地については諸説あり、従来の通説ではエチオピアとされてきたが、近年はこれを否定し、より西のチャドないしカメルーンとする説も有力化している。当時、オスマン帝国の奴隷調達地が内陸アフリカにまで広がっていたことを考慮すると、彼はエチオピアのコプト派教会経由でオスマン帝国に売られた黒人奴隷だった可能性は高いだろう。
 ガンニバルの匿名の評伝によれば、彼は貴族家庭の子女を人質として差し出す当時の慣習に従ってオスマン宮廷に連行されたという。いずれにせよ、彼は7歳の頃にオスマン帝国のコンスタンティノープルに連行された。そのままであれば、宮廷で黒人宦官として栄進する道もあっただろう。
 ところが、どのような経緯か、ガンニバルは間もなく、ロシア外交官の手で拉致され、北のロシアへ再連行されるのである。この拉致はピョートル1世の命令に基づくものだったという。彼の意図は明確でないが、当時西洋宮廷でも黒人児童を珍重することが流行していたといい、西洋化を推進していたピョートルも模倣したのかもしれない。
 ピョートルは聡明なガンニバルが気に入り、洗礼を受けさせ、自ら名付け親となるほどの寵愛ぶりであった。この点、やはり黒人奴隷の弥助が気に入り、武士として登用した織田信長に似て、珍奇なものに並々ならぬ関心を示す革新的なピョートルの性格が現れている。
 成長したガンニバルは当時西洋における学術の中心地であったパリへの留学を命じられ、5年間にわたり多方面の高等教育を受けた。その間、当時のフランス啓蒙思想家らと交流し、中でもヴォルテールはガンニバルを「濃い肌の啓蒙の星」と称えたとされるが、これには異論もあるようである。
 いずれにせよ、ガンニバルが才覚を発揮したのは人文学よりも軍事科学であり、当時のフランス軍でも従軍経験を得た彼は職業軍人・工兵士官の道を歩むことになった。彼は1722年にパリ留学を終え、帰国したが、不運にもパトロンのピョートルは25年に死去してしまう。このような経緯も主君信長を失った弥助に似ている。
 27年、ピョートルの幼い孫ピョートル2世が即位すると、敵視されたガンニバルはこうした場合の慣例としてシベリア送りの憂き目を見るが、3年後に赦される。幸いにも41年にはピョートルの娘エリザベータが女帝に即位したことから、ガンニバルは女帝の宮廷で軍事顧問として重用された。
 彼は少将に昇格するとともに、レバル(今日のエストニアのタリン)総督にも任命され、52年まで務めた。そのうえ、プスコフに農奴付きの土地を安堵され、地主貴族にも叙せられたのだった。奴隷身分から貴族身分への階級上昇であった。
 最終的に大将まで昇進した彼はエリザベータ女帝が没した62年に公職を退き、エカチェリーナ2世女帝時代まで生きて85歳の長寿を全うした。彼のような存在は長い帝政ロシアの歴史の中でも唯一無二であり、ピョートル1世という「玉座の革命家」の存在なくしては、おそらくあり得なかったであろう。

2016年11月23日 (水)

弥助とガンニバル(連載第6回)

五 オマーン海洋帝国の台頭

 弥助が日本から姿を消した後、彼の出自した東アフリカ情勢も転換期を迎える。16世紀初頭以来、ポルトガルの支配下に置かれていたアラビア半島南端のオマーンが台頭してくる。そのきっかけは17世紀前半、イスラーム少数宗派イバード派を奉じるヤアルビー家が台頭し、イマーム王朝を樹立したことにある。
 王朝創始者ナースィル・イブン・ムルシドは、ポルトガル勢力の放逐を掲げて分裂していた部族の統一を図り、強力な軍隊を組織して、各個撃破的な戦略でポルトガルが陣取る沿岸部の要塞を順次落としていった。一方で、彼は西欧の新興列強であった英国の東インド会社と手を組み、通商条約を締結することで、ポルトガル貿易圏への割り込みを図るという巧みな通商政策も展開した。
 彼は目標達成寸前にして没したが、後を継いだ従兄弟のスルターン・イブン・サイフが1650年に中心都市マスカットを占領し、オマーンからのポルトガル勢力一掃は完了した。その勢いで、インド洋を越えて東アフリカやインド西部のポルトガル勢力圏への進出も図る。
 特に16世紀初頭以来、ポルトガルが占領してきたザンジバル島の奪取を目指して40年近くもポルトガルと攻防戦を繰り広げた末、ついに17世紀末、これを攻略した。以後、ザンジバル島はオマーンの東アフリカ側拠点として確立されていく。
 弥助の故郷と目されるモザンビークは引き続き、ポルトガル領として維持されるが、王室のヤアルビー家の名をとってヤアーリバ朝と呼ばれたオマーンは斜陽化していくポルトガルを尻目に東アフリカ沿岸、紅海沿岸、ペルシア湾岸を結ぶ中継交易の利権を掌握する海洋貿易帝国として大いに繁栄した。
  しかし18世紀に入ると跡目相続から内乱に陥ったところをイランに軍事介入され、マスカットもイラン軍の手に落ちた。そのイランを駆逐して新たな支配者となったのが、やはりイバード派のブーサイード家であった。
 ブーサイード朝は当初は不安定であったが、19世紀に入り、5代君主サイイド・サイード(サイード大王)が内乱期にオマーンの支配から事実上独立していた東アフリカ沿岸部の征服を進め、1840年にはザンジバルに遷都した。
 50年間在位したサイード大王時代のオマーンは海洋貿易帝国オマーンの全盛期であり、東アフリカ沿岸部の貿易権益を英国と二分するほどであった。彼が建設したザンジバルの旧市街地ストーンタウンは世界遺産にも登録されている。
 ただ、オマーン海洋帝国の貿易手法は黒人奴隷ザンジュに由来するザンジバルを拠点とする奴隷貿易、しかも帆船を使った大船団交易という中世以来の伝統に沿った旧式のものであり、西欧に発する奴隷制廃止、さらには蒸気船の普及という技術革新の波を乗り切れず、間もなく消えゆく運命にあったのである。

2016年11月 9日 (水)

弥助とガンニバル(連載第5回)

四 信長と弥助

 ここで、ようやく本連載の主人公弥助の登場である。弥助は日本の歴史上、明確な活動記録の残る唯一の黒人武士である。出身は当時のポルトガル領東アフリカに属したモザンビーク、日本へ連行してきたのは、イタリア人のイエズス会司祭アレッサンドロ・ヴァリニャーノである。
 ヴァリニャーノは元来、イエズス会東インド管区の巡察師という地位にあり、ポルトガルのリスボンからモザンビークを経由して、ポルトガル領インドのゴアに渡航、そこからさらにポルトガル領マラッカ、さらにポルトガル居留地マカオを経て日本へ渡った。
 この来日ルートのどこで弥助を入手したかは不明であるが、弥助がモザンビーク出自とすれば、モザンビーク滞在中に弥助を入手して従者にしたと考えるのが最も自然だろう。いずれにせよ、司祭の従者になった弥助は、黒人奴隷としては幸運者だったと言える。
 さて、記録によれば、日本入りしたヴァリニャーノは1581年に時の最高執権者織田信長と会見し、この時に弥助も信長に引き合わされている。史書では「黒坊主」と表現されている弥助の本名は記録されていないが、名前の喪失は奴隷の宿命であった。
 好奇心が強く、新奇なものに飛びつく信長は「黒坊主」が気に入り、ヴァリニャーノに掛け合って譲渡を受け、弥助と命名して自身の家臣としたのであった。しかも、隷属的な奉公人ではなく、帯刀・扶持の武士として処遇したというから、信長の弥助に対する「愛情」は相当なものであった。
 しかし、このような破格の待遇は多分にして信長の個人的な性格によっており、当時の日本に差別的な意識がないわけではなかった。当時の記録では弥助を「黒坊主」とか「くろ男」などと表記しており、日本人が初めて見た肌の黒い人間に対する好奇の混じった蔑視的な視線も滲み出ている。
 本能寺の変後、弥助を捕らえた明智光秀が「無知な動物」であることを理由に弥助の処刑を免除し、教会(南蛮寺)預かりとしたのも、弥助に対する温情というよりは、黒人を人間とはみなさない当時の日本人の意識を反映した処遇であったと言える。
 信長は弥助をいずれは城持ちに昇格させる意向だったと言われるほど気に入っていたらしいが、弥助も体験した本能寺の変により、実現することはなかった。上述のように、弥助は明智方に囚われたが、処刑は免れて教会預かりとなる。
 以後の弥助の消息は記録に現れず、不明である。信長後継の豊臣秀吉が弥助の行方に関心を持った形跡もない。元主人のヴァリニャーノは変の前に天正遣欧使節に随行していったん日本を離れた後、1590年、98年と来日を重ねているが、彼も弥助の行方には関心を持たなかったようである。
 こうして、弥助はわずか1年余りの活動を残して、忽然と消えてしまうのである。黒人の存在は極めて珍しかった当時、どこかで存命していれば記録に残るはずである。それが全く残されていないのは、いずれかの時点で日本を離れた可能性が高い。
 その点、本能寺の変後の1584年、九州の戦国大名間の戦いである沖田畷の戦いでキリシタン大名有馬氏の軍中に黒人武士の存在が記録されており、弥助との同一性が問題となることもあるが、弥助が九州のキリシタン大名の下に移っていた可能性もゼロではなかろう。
 あるいは南蛮寺で身柄を保護されていたとしても、1587年の秀吉によるバテレン追放令後、京都の南蛮寺は破却され、宣教師たちも平戸周辺に潜伏した。目立つ黒人を連れているわけにもいかず、弥助のような黒人は真っ先に送還されたと考えられる。
 いずれにせよ、弥助の存在は二度と記録に現れず、また彼の子孫を称するような家系も実在しないので、彼は本能寺の変後、出国したと見るのが自然である。そして弥助を日本に登場させたポルトガルの奴隷貿易も、17世紀に入ると斜陽の時代を迎えるのである。

2016年10月26日 (水)

弥助とガンニバル(連載第4回)

三 大航海と奴隷貿易

 アッバース朝からオスマン帝国へと引き継がれ、確立されたアフリカ奴隷貿易システムに対する対抗者として現れたのが大航海時代を迎えた西欧である。ポルトガルが先陣を切った。アントン・ゴンサルベスなる15世紀のポルトガル人航海者が初めてアフリカ西海岸で奴隷狩りを行なった人物として記録されている。
 初期の時代はシステム化された奴隷貿易というよりも、こうした航海者や商人による私費での粗野な「奴隷狩り」が中心であったが、1452年に時のローマ教皇ニコラウス5世がポルトガル国王アフォンソ5世に異教徒の恒久的な奴隷化を勅許したことが転換点となる。
 これが一種の宗教的なお墨付きとみなされて、以後、奴隷貿易がシステマティックに行なわれるようになる。ポルトガルのアフリカ大陸踏査はオスマン帝国の貿易ネットワークを避けて西海岸を南下する形で進められていったことから、西海岸地帯が西欧系奴隷貿易の中心地となっていく。
 奴隷貿易すべてに共通することであるが、地元勢力の協力なしにはシステマティックな奴隷貿易は構築できない。西アフリカ沿岸の奴隷貿易では、地元黒人部族勢力が同胞黒人を拘束し、奴隷としてポルトガル人に売り渡すという仕組みが形成された。
 これら部族勢力はそうして奴隷貿易で蓄積した富を基盤に、強力な王国を形成すらした。中でも最も著名なのが、今日のベナン共和国の前身となるダホメー王国である。ダホメーは、奴隷の給源となる征服地の捕虜と西洋人の銃火器を交換して軍備の近代化を進め、専制的軍事国家を作り上げたのである。
 ポルトガルに続きスペインが台頭すると、両国は1482年にポルトガルにより今日のガーナに築かれたエルミナ城を拠点に、奴隷貿易を本格化させていく。特に、新大陸を次々と侵略して植民地を拡大していったスペインは、酷使や疫病による現地先住民の激減に伴い、新たな奴隷労働力として黒人の移入を必要とした。
 他方、オスマン帝国系奴隷貿易ネットワークへの食い込みを図り、東アフリカ方面にも侵出していったポルトガルは15世紀末、今日のモザンビークを中心とするポルトガル領東アフリカを成立させ、ここを新大陸側植民地ブラジルへの奴隷供給基地とする。本連載主人公の一人弥助もモザンビーク出自と伝えられるのも、このことに関わっている。

2016年10月13日 (木)

弥助とガンニバル(連載第3回)

二 オスマン帝国と奴隷制

 イスラーム世界における奴隷制はやがてイスラーム世界の覇者となったオスマン帝国に継承され、より大々的かつ体系的に制度化される。
 帝国の奴隷制には、主としてコーカサス・東欧方面から調達される白人系奴隷と、従来のザンジュ奴隷を引き継いだ黒人系奴隷の二種があったが、ここでは、主題との関わりで後者の黒人奴隷のみを概観する。
 オスマン帝国の黒人奴隷の供給源は、アフリカの大湖沼地域から中央アフリカなど比較的奥地にまで拡大されており、本連載の主人公の一人であるガンニバルも近年の研究では中央アフリカ付近の出身とみなされている。
 かれら黒人奴隷の大半は男性であり、帝国領内に連行された後は、家事奴隷のほか、下級兵士などとして使役されるのが通例であり、その立場は白人奴隷よりも低く、奴隷間にも人種差別があった。
 ただし、黒人奴隷にはもう一つ宦官の調達という別ルートがあった。これにはエチオピアのコプト派キリスト教会が協力しており、教会が黒人の少年を拘束し、去勢を施したうえ、オスマン帝国に売りつけていたのだった。
 このルートで購入された黒人去勢者は宦官として育成され、後宮に配属された。その頂点の宦官長は元来、黒人に限られたものではなかったが、次第に黒人宦官の独占ポストとなる。この黒人宦官長はスルターン及び後宮の実力者であるスルターン妃双方の権威を背景に、時に首相格の大宰相をも凌ぐ隠然たる政治的実力を備えるまでになる。
 著名な例として、1716年から30年にわたり宦官長を務めたベシル・アガーがいる。彼は時の大宰相によって引退に追い込まれかけると、対抗的にスルターン妃の力を借りて大宰相を罷免に追い込むほどの力を発揮したのだった。
 しかし、このような宦官としての栄達は黒人奴隷のごく一部の「幸運な」例であって、大多数の黒人奴隷の境遇は過酷なものだった。これらオスマン帝国の黒人奴隷の末裔たちは、現在でも「アフリカ系トルコ人」としてトルコ国民化されている。
 とはいえ、本連載の主人公ガンニバルは、一度はオスマン帝国に売られながら、奴隷化を免れ、ロシア帝国に「救出」された幸運児であった。

2016年9月21日 (水)

弥助とガンニバル(連載第2回)

一 プロローグ
 :アフリカ奴隷貿易の始まり

 アフリカ人を捕縛して連行、奴隷として市場で売買するアフリカ奴隷貿易の始まりを正確に捉えることは難しいようだが、少なくともこれをシステマティックに始めたのは、アラブ人商人であったことは間違いない。アラブ人による奴隷貿易は預言者ムハンマドによるイスラームの創唱以前から存在していたと見られる。
 ムハンマドは教理上、人種差別に否定的であり、彼の言行録ハディースでは「アラブ人の非アラブ人への優越、非アラブ人のアラブ人への優越、そして白人の黒人への優越、そして黒人の白人への優越も敬虔さによるもの以外は存在しない」と述べられている。
 しかしながら、預言者も奴隷制には反対せず、自身も奴隷所有者であった。同時に、ムハンマドは奴隷への温情を説き、奴隷主による奴隷解放を善行として奨励した。実際、ムハンマドの黒人奴隷ビラール・ビン‐ラバーフは預言者から大切にされ、最初期のイスラーム入信者となった。
 ムハンマドの没後、イスラーム教団が征服活動により帝国化していくのに伴い、奴隷貿易も次第に拡大していくが、アフリカ大陸ではアラビア半島からも近い東アフリカ沿岸部が中心地として開拓されていく。
 東アフリカ沿岸部からの黒人奴隷は、ザンジュと呼ばれた。この人々は今日のバントゥー系諸部族と見られるが、かれら自身、商人としてアラブ人やペルシャ人とも交易していた。そうしたバントゥー‐アラブの融合の結果、今日この地域における共通語であるスワヒリ語とスワヒリ文化が形成される。
 しかし、東アフリカ沿岸部のスワヒリ諸都市の支配層は移住してきたアラブ人商人層が占めており、ザンジュは被支配層にして奴隷供給源に貶められていく。特にイスラーム帝国としてのアッバース朝時代、ザンジュは兵士や農業労働力として使役させられた。
 そうした状況下、9世紀後半のアッバース朝下に発生した大規模な奴隷反乱がザンジュの乱である。もっとも、反乱首謀者はアリー・ブン・ムハンマドなる素性不詳のアラブ人であったが、反乱は彼に煽動されたメソポタミア南部のザンジュ農業奴隷が主体となって引き起こされた。かれらは、その過酷な待遇に不満を募らせていたのだった。
 ザンジュの乱は一過性にとどまらず、弱体化しつつあったアッバース朝の隙をついて10年以上に及ぶ一種の革命政権の樹立にまで至るが、最終的にはアッバース軍に敗北した。
 このような大規模な反乱はあったものの、それが奴隷制廃止に結びつくことはなく、ザンジュ奴隷の供給は何世紀も続いた。かれらは遠く中国にまで「輸出」され、ザンジュは中国語でも「僧祇」の漢字を当てられた。
 こうしたザンジュに対する扱いの根底には、10世紀のアラブ人地理学者アル‐ムカッダスィーの言葉「ザンジュは黒い皮膚、平らな鼻、縮れた髪を持つ、理解力や知能に乏しい人々である」に象徴される、ムハンマドの教えからも外れた人種差別的価値観があった。

2016年9月12日 (月)

弥助とガンニバル(連載第1回)

 本連載のタイトルに表れる弥助とガンニバルは、歴史上の人物として全く無名というわけではないが、頻繁に話題になるような人物ではない。共通するのは、どちらもアフリカ人であること、そして奴隷身分から解放され、縁もゆかりもない東の国で武人として活動したことである。
 弥助は17世紀後半、戦国日本の最高執権者・織田信長の家臣となったアフリカ人であり、記録に残る限り、おそらく唯一の黒人武士である。その生没年は一切不詳で、子孫と思しき家系も残されていない。
 一方のガンニバル(生年不詳‐ 1781年)は、正式にはアブラム・ペトロヴィッチ・ガンニバルといい、18世紀、帝政ロシアで軍人となり、最終的には地方総督・貴族にまで叙せられたアフリカ人である。彼はロシアに帰化・定着し、近代ロシアの文豪プーシキンは母方からガンニバルの曾孫に当たる。
 このように、異なる時代と場所で活動した二人のアフリカ武人は、いずれもアフリカ奴隷貿易の数奇な副産物であった。歴史上アフリカ奴隷貿易には大きく分けて、イスラーム‐オスマン系の奴隷貿易と西欧系の奴隷貿易とがあり、弥助は後者の、ガンニバルは前者の系統から出た奴隷の出身であった。
 奴隷は通常、商品として市場で売買されてそれぞれの主人の下で労役に従事させられる運命にあるが、弥助とガンニバルは日本やロシアの最高権力者との奇遇により解放され、武人として働くことになった「幸運」な者たちであった。
 彼らはもちろん奴隷貿易のシステムから生じた例外中の例外であり、他に記録の残る類例は見当たらない。その意味では、一般化できない当該時代限定の特殊例として扱うべき人物なのであるが、本連載ではそうした際物的な列伝を回避し、特殊例の二人を通して、二人を生み出した二系統のアフリカ奴隷貿易を史的に通覧してみたい。
 その際、弥助とガンニバルが組み入れられた中近世日本と近世ロシアという二つの辺境的な東方国家を奴隷貿易システムの中に位置づけ直すという稀少な試みにも出てみたいと思っている。また前面に押し出すことはあえてしないが、通奏低音的には人種差別の根源に触れることにもなるであろう。

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