オセアニア―世界の縮図

2017年5月21日 (日)

オセアニア―世界の縮図(連載第17回)

第二部 現況~未来

(6)政情不安事例①:フィジー
 平穏でのどかな印象さえ強いオセアニアであるが、ここにも民族紛争に起因する政情不安の事例がいくつか見られる。幸いそのほとんどは現時点で一応解決を見ており、現代史の出来事となりつつあるが、再燃の可能性がないわけではない。
 その一つフィジーは旧宗主国英国が移入させたインド系労働者の子孫が人口の高い割合を占めてきた点でオセアニアでも特異な状況にあったが、インド系フィジー人は独立後、経済を主導する富裕層の地位に上った。これには、多数派先住フィジー人の不満が鬱積していた。
 87年の総選挙でインド系政権が誕生すると、そうした不満を背景に、1987年に二度の軍事クーデターが勃発する。オセアニアでは極めて稀な事態であった。
 クーデター指導者シティベニ・ランブカ中佐は先住フィジー人であり、英連邦離脱・共和制移行と先住フィジー人を優遇する憲法改正を主導したことから、彼のクーデターには民族革命的要素が加わった。
 ランブカ自身、文民として92年から99年まで首相を務め、この間にフィジーは英連邦復帰を果たした。しかしランブカは99年の総選挙で敗れ、インド系のチョードリー政権に交替した。
 これに反発した先住民系武装グループによる国会占拠事件が起きると、軍部が介入、武装グループとチョードリー政権双方を排除し、ガラセ首相の先住民系政権を発足させた。しかし、06年にはガラセ首相と対立したフランク・バイニマラマ軍司令官がクーデターを起こし、政権を奪取する。
 これに対してオーストラリアやEUをはじめとする国際社会が制裁を科す中、バイニマラマは巧妙な生き残り戦術で14年の総選挙まで軍事政権を維持し続けたのであった。同年の総選挙で、バイニマラマは民族融和的なフィジーファースト党を率いて圧勝し、改めて文民政権首相として支配を維持している。
 こうして、最近十数年のフィジーはバイニマラマの長期政権下で政治的な安定は確保できているかに見えるが、打ち続くクーデターや先住民優遇策を嫌ったインド系ビジネスパーソンの海外流出やクーデター後の経済制裁の影響から、経済の低迷が続く。
 そうした中、経済制裁に加わらない中国の経済援助的進出が目立つ。中国の着眼はフィジーの水産資源にあるとされ、すでに中国国営水産会社がバイニマラマ政権とのパイプを軸に展開している。こうした新動向は、中国の太平洋進出を象徴している。

2017年4月22日 (土)

オセアニア―世界の縮図(連載第16回)

第二部 現況~未来

(5)日系オセアニア人たち
 戦後の日本は敗戦の結果、オセアニア地域の領土をすべてアメリカの信託統治の形で没収されて以降、この地域にもはや領土は保有していないが、今日でもオセアニアにおいて無視できない人的勢力として、日本人の血を引く日系オセアニア人がある。
 その中心はアメリカのハワイ州である。ハワイ州はアメリカ50州中、アジア系住民が優位を占める唯一の州であるが、その中で日系は現在、フィリピン系に次ぐ第二位で、約18万人と推計される。
 かれらの多くは明治維新後、1924年の排日的な移民法の制定に至るまで続いた移民の子孫たちであり、第二世代以降は日系ハワイ人として定着し、社会に根を張って政治的にも力を持つようになる。
 その象徴は、日系人初―アジア系としても初―の州知事として1974年から86年まで3期12年にわたりハワイ州知事職を全うした日系二世のジョージ・アリヨシである。さらに、2014年には日系人として二人目のデービッド・イゲが州知事に当選した。イゲはハワイ日系人に多い沖縄移民系としては初となる州知事である。
 また各州代表院としての性格が強い連邦議会上院では、故ダニエル・イノウエがハワイ州選出上院議員として1963年から半世紀近く多選を重ね、民主党で重きをなした。彼は大統領継承順位第3位となる上院仮議長まで務め、規定上は合衆国大統領に最も近い位置まで届いた日系人でもあった。
 なお、2013年にハワイ州選出上院議員に当選した戦後の日系一世メイジー・ヒロノは、全米で初のアジア系女性上院議員でもある。
 日系人の政界進出は戦前、南洋諸島統治の中心であったパラオにも見られる。純粋の日系人とみなすことができるか微妙だが、85年に暗殺されたハルオ・レメリク初代大統領はパラオ人男性と日本人女性の間に生まれている。第5代のクニオ・ナカムラ大統領も混血だが、父が日本人であり、日系人とみなされている。
 ミクロネシアの故トシオ・ナカヤマ初代大統領も父が日本人の混血日系人であり、第7代マニー・モリ大統領は日系四世である。その他、マーシャル諸島でも、第3代ケーサイ・ノート大統領は祖父が日本人の日系三世である。
 これら混血系も含めた日系オセアニア人の多くは戦前の貧しさゆえの経済移民、あるいは植民地統治の結果としての移民の子孫たちであるが、戦後もビジネス目的や生活目的で、オーストラリアやニュージーランドにも場所を広げて続いているオセアニア移住者の子孫が現地で定着すれば、新たなメンバーを加えて日系オセアニア人の勢力が発展していくであろう。

2017年3月26日 (日)

オセアニア―世界の縮図(連載第15回)

第二部 現況~未来

(4)オセアニアン・アメリカ
 アメリカはオセアニアに本土を持たないが、重要な海外領土を持つことで、この領域において一個のプレゼンスを保持している。これを「オセアニアン・アメリカ」と呼ぶことができる。
 この語は国際関係用語としては知られていないようであるが、先述したように、オーストラリア及びニュージーランドとともに太平洋安全保障条約の当事国となっているアメリカはオセアニアの枢要な構成国にほかならない。
 オセアニアン・アメリカを構成する統治体は一元的ではなく、いくつかの種別から成っている。その中心は言うまでもなく、全米50州の一つであるハワイ州である。ハワイは19世紀末にアメリカの関与したクーデターで独立王国が転覆された後、準州として編入され、1959年に50番目の州に昇格している。
 次に自治的未編入領域として、北マリアナ諸島とグアムがある。両者は合わせて東南アジア方面から先史時代に渡ってきたと見られるチャモロ族を先住民とする島嶼域で、9世紀頃には石柱遺跡ラッテストーンで知られる古代王朝も成立していたが、その後の歴史は分かれた。
 北マリアナ諸島はスペイン領からドイツ領、日本の信託委任領を経て第二次大戦後、アメリカの信託統治領に渡り、86年の信託統治終了に伴い、コモンウェルスという形式で自治領となった。他方、グアムはスペイン支配の後、米西戦争に勝利したアメリカの植民地に渡り、1950年に限定的な自治地域となったが、コモンウェルスの地位は認められず、自治権はなお制約されている。
 最後に、非自治的未編入領域ながら、事実上の自治権を付与された米領サモア(東サモア)である。「事実上」というのは、連邦法上は正式に自治権が付与されないまま、1967年に自主憲法が施行されているからである。皮肉にも、正式に自治権を持たないサモアが最も自治的であるが、代償として開発は進んでいない。
 こうした複雑な構成のオセアニアン・アメリカの中核は当然にも、正式の州であるハワイにあり、まさしくアメリカはオセアニアにも張り出していることになる。これは、アメリカの歴史的な戦略である太平洋・東アジア進出の象徴とも言える。
 オセアニアン・アメリカは総体として軍事的にも、最古の米統合軍である太平洋軍の枢要地であり、同軍司令部はハワイに置かれ、グアムは島の三分の一が米軍基地用地という「基地の島」となっている。そうしたこともあり、グアムでは北マリアナ同様のコモンウェルス昇格が実現せず、まさに要塞植民地的状況が続いている。
 このように、オセアニアン・アメリカの総面積は決して大きくないながら、アメリカの世界戦略において不可欠の領域となっており、独立運動は全般に低調で、今後も現状維持が続くと考えられる。

2017年3月 5日 (日)

オセアニア―世界の縮図(連載第14回)

第二部 現況~未来

(3)ニュージーランドの独自位置
 オセアニアにおいて、オーストラリアと似た英国移民を中心とするヨーロッパ白人主体の歴史・文化、人口構成を持ちながら、しかしオーストラリアとは異なる独自位置を保持してきたのが、ニュージーランドである。
 ニュージーランドはオーストラリアとは異なり、移民制限的な白人優越政策を採らず、先住民マオリとの関係でも、差別はあったものの、民族浄化的な政策は志向されず、マオリの権利を擁護する施策が進んできた。
 しかし、両国の相違が明白に現れるのは、安全保障政策である。ニュージーランドもオーストラリアとともにアメリカとの太平洋安全保障条約に加盟しているが、1980年代のロンギ労働党政権は非核政策を追求し、核兵器搭載艦船のニュージーランド水域進入と寄航を禁じ、ニュージーランド領土・領海を非核兵器・非原子力推進艦艇地帯に指定するという世界でも徹底した非核政策を敷いた。
 これにより、アメリカは上記条約に基づく対ニュージーランド防衛義務を停止したため、ニュージーランドは事実上条約を脱退したに等しくなった。その反面、ニュージーランドは南太平洋非核地帯条約の旗手としての地位を獲得したとも言える。
 他方で、ニュージーランドはオセアニア域内でトケラウ島を領有し、クック諸島、ニウエを自由連合下に置くなど、小国なりの覇権主義的なプレゼンスも保持するなど、巧妙な外交安保政策を志向している。
 もう一つ、ニュージーランドを特徴づけてきたのは、北欧と並び第二次大戦前から建設された福祉国家としての側面であった。対外的には、第二次大戦後、戦争被害が甚大だった旧宗主国英国の思惑もあり、ニュージーランドが英国農産品の主要な輸出先として特恵待遇を受けたことから、英国市場との結びつきを利用して経済成長を遂げることができた。
 しかし、この特恵関係が英国のEC(現EU)加盟ととともに終了し、一転して経済的苦境に立たされると、80年代半ば以降は脱福祉国家のプロセスを歩んだ。最初に舵を切ったのは、先のロンギ労働党政権であった。労働党はまさにニュージーランド福祉国家建設の旗手であったのだが、自ら築いた遺産の切り崩しに着手したのである。
 このプロセスは90年代、明確に新自由主義的な保守系ボルジャー国民党政権に継承されて、一定の完成を見たが、結果は同様の改革を経た英国と同様の経済格差の拡大や貧困化の発現であった。
 99年に政権を奪還した労働党はクラーク首相(女性)の下で、再度福祉修復的な政策を志向するも、クラークは一方で、米中との自由貿易も推進するなど、新自由主義政策を放棄はしなかった。
 08年以降は再び国民党が政権党に返り咲き、脱福祉国家・新自由主義路線は既定的となっている。その結果、ニュージーランドは世界でも最も経済規制の少ない投資先と評価されており、そうした投資面での優位性で独自の存在感を発揮しようとしていると思われる。
 一方で、アジア系移民の制限を主要な公約とするニュージーランド・ファースト党が90年代以降台頭し、国民党政権と連立し、あるいは労働党政権に閣外協力する形で議会にキャスティングボート的な地歩を固めている。
 この党のピータース創立者兼党首は父方がマオリ系(母方はスコットランド系)という人物であり、アジア人排斥の一方でマオリの権利向上も主張するなど、党の立ち位置は複雑にねじれており、ここにもニュージーランドの特殊性が滲んでいる。

2017年2月12日 (日)

オセアニア―世界の縮図(連載第13回)

第二部 現況~未来

(2)オーストラリアの地域覇権
 地球を全体として概観した場合にその島嶼部に相当するオセアニアにあって、オーストラリアは最大の「島」にして、最大人口を要する準大陸国家である。そのため、その規模のゆえにオセアニア地域では盟主的地位にある。
 英国植民地からの独立に始まり、先住民族を殺戮/強制同化する民族浄化によって白人中心国家を築いていったその歴史的歩みはアメリカ合衆国に類似しているが、1970年代まではアメリカ以上に明確に白人優先主義―白豪主義―を採り、非白人移民の制限と先住民差別を公然と行なっていた。
 しかし、独立後も後ろ盾であり続けた英国の欧州共同体(EC→現EU)加盟を契機に、70年代半ばに白豪主義政策を多文化主義政策に転換して以降、オセアニアにおける独自の地位を確立し、政治経済的な盟主として国際関係上も重みを増していった。
 軍事的にも6万人近い現役兵力を有する国防軍はオセアニア地域最大であり、域内紛争やオセアニアに連なる東ティモール紛争の解決にも介入関与してきた。一方、2000年代以降はアメリカに協力し、アフガニスタンやイラクにおける軍事作戦にも派兵するなど、域外派兵も増発している。
 後に改めて見るように、アメリカはハワイ州を拠点にオセアニアにおいても領土を有し、「オセア二アン・アメリカ」と呼ぶべきオセアニアの構成国でもあることから、オーストラリアとしても歴史や価値観の近似性が高いアメリカとは協調・同盟関係を取りつつ、オセアニアにおける盟主的地位を維持する戦略である。
 一方で、1980年代には労働党政権の下、非核地帯設定を主導し、85年の南太平洋非核地帯条約の締結に結実させ、核政策ではアメリカと一線を画す姿勢を見せている。ただし、アメリカは同条約を批准していないため、域内のアメリカ領土に条約の適用はなく、アメリカと自由連合を締結している準独立諸国も批准していない。
 加えて、オーストラリア自身もアメリカとの太平洋安全保障条約を通じてアメリカの「核の傘」に依存する政策を事実上採用していると見られ、国際社会での核兵器禁止に反対するなどの両義的態度が見られる。
 経済面では近年オセアニアへの進出を活発化させている中国との結びつきを強め、中国が最大貿易相手国となっている。国際金融分野でも中国が主導するアジアインフラ投資銀行(AIIB)に参加するなど、中国との結びつきは加速している。
 こうして、オーストラリアは政治・軍事⇔アメリカ、経済・通商⇔中国という形で、米中両大国を機能的に両天秤にかけるバランス政策を通じてオセアニアにおける地域覇権を保持していかんとしているように見える。
 なお、2016年の国民投票によりEU脱退を決めた英国が欧州を離れ、再び独自的な地位を回復する見込みとなったことで、現在も英連邦加盟を通じて友好を維持する豪英関係が新たな展開を見せるかどうかが注目される。

2017年1月25日 (水)

オセアニア―世界の縮図(連載第12回)

第二部 現況~未来

(1)オセアニアの地政情勢
 第一部でも述べたように、現在オセアニアの地理的区分として教科書的・事典的に引き継がれているポリネシア・メラネシア・ミクロネシアの三分類は、19世紀にフランスの海軍提督ジュール・デュモン・デュルヴィルが提唱した古典的な分類である。
 しかし、この分類ではオセアニアの海洋島嶼部しかカバーされず、大陸的なオーストラリアは埒外となるし、メラネシアのように住民の肌色にのみ着目した分類も学問的とは言い難いものであった。
 現在のオセアニアの地政情勢を考慮に入れて、再分類し直すならば、独立国・準独立国・残留海外領土の三つ(環礁を付加すれば四つ)に分類する方が妥当であろう。このような三区分に従って、個々に見ていくと次のようになる。

○独立国
最大国オーストラリアを筆頭に、パプアニューギニア、フィジー、キリバス、ニュージーランド、ソロモン諸島、トンガ、ツバル、バヌアツ、サモア(以上、すべて英連邦加盟)

○準独立国
クック諸島、ニウエ(以上、ニュージーランドとの自由連合)、ミクロネシア連邦、マーシャル諸島、パラオ(以上、アメリカとの自由連合)

○残留海外領土
米領サモア、グアム、北マリアナ諸島、ハワイ(以上、アメリカ領土)、ニューカレドニア、仏領ポリネシア、ウォリス‐フツナ(以上、フランス領土)、ピトケアン諸島(イギリス領土)、ココス諸島、クリスマス島、ノーフォーク島(以上、オーストラリア領土)、トケラウ諸島(ニュージーランド領土)、イースター島(チリ領土)、パプア及び西パプア(インドネシア領土)

△環礁
ウェーク環礁、ジョンストン環礁、ミッドウェー環礁(以上、いずれもアメリカ領土)

 こうしてみると、独立国は現在、儀礼的・名目的な連合体ながら英連邦にそろって加盟し親英路線を採っている。準独立国はニュージーランドまたはアメリカとの自由連合の形で両国の傘下にある。
 残留海外領土では米・仏領土が大半を占め、中でもアメリカが環礁を含め圧倒的であるが、オセアニア盟主格のオーストラリアとそれに次ぐニュージーランドも部分的に域内海外領土を保持するほか、東からインドネシアが、西からはチリもせり出している形である。

2017年1月11日 (水)

オセアニア―世界の縮図(連載第11回)

第一部 誕生~歴史

(10)継起する独立運動
 
分割されたアフリカ大陸に遅れて1970年代から80年代にかけて独立の潮流が生じたオセアニアであったが、潮流に乗れなかったいくつかの島嶼地域でも独立運動は継起した。とりわけ、フランス領である仏領ポリネシアとニューカレドニアである。
 仏領ポリネシアの中心島であるタヒチの独立運動は第二次世界大戦直後、ポウヴァナア・オオパによって開始された。彼はデンマーク人の父とポリネシア人の母を持つ混血であったが、ナショナリストとしてタヒチ人民民主大会議を設立してフランスの植民地支配に抵抗した。
 しかし、58年にフランス主導で行なわれた独立是非を問う住民投票で敗れた後、仏当局によって起訴、投獄され、独立運動も解散に追い込まれた。こうしてタヒチ独立運度は力で抑え込まれ、60年代以降、仏領ポリネシアはフランスの核実験場として利用されることになる。
 しかし90年代前半、タヒチ民衆の怒りは反核実験運動の形で噴出し、95年には大規模な抗議デモが一部暴動化する事態となった。結果、フランスの核実験は96年を最後に事実上中止されている。
 後発ながらより激しい独立運動が巻き起こったのは、ニューカレドニアであった。ここでは、60年代にメラネシア系少数先住民族カナクによる社会主義的な独立運動政党が結成されていたが、80年代になると、ジャン‐マリー・チバウを中心に、より急進的なカナク社会主義民族解放戦線が結成され、独立国家の樹立宣言に至ったため、非常事態宣言が布告される騒乱状態となった。
 結果、87年に住民投票が行なわれ、翌年には自治権拡大で合意したが、これに反対する過激派による人質立てこもり事件が発生、フランスは軍特殊部隊を投入して武断解決した。翌89年には合意に賛成したチバウも強硬派の手で暗殺された。それからおよそ10年を経た98年にニューカレドニア自治の拡大が合意され、独自の旗や市民権、さらに大幅な内政自治権が付与されるに至った。
 他方、前回も言及したように、インドネシアの支配下に置かれたニューギニア島西部の西パプアでは、60年代に結成された自由パプア運動が71年に西パプア共和国の樹立を一方的に宣言したが、国際的には承認されず、インドネシア軍による掃討作戦とインドネシアからの大量植民政策が展開された。
 運動は80年代以降、テロ活動に転じた。そうした中、2000年に住民大会が再びパプアの独立を宣言するも、インドネシア当局は対抗的に西パプアを東西二つの州に分割し、住民の分断を図った。
 なお、アメリカの州として定着したかに見えるハワイでも、90年代以降、先住ハワイアンによる民族回復運動が隆起したが、すでに少数派に転じて久しい先住民主体の独立は事実上困難で、ここでは先住民に自治的な政策決定権を付与する09年の先住ハワイアン政府再編成法に結実した。

2016年12月28日 (水)

オセアニア―世界の縮図(連載第10回)

第一部 誕生~歴史

(9)独立の潮流
 
オセアニアは小さな島嶼地域が多いことから、先行して独立していた白人主導のオーストラリアとニュージーランドを別とすれば、第二次世界大戦後における旧植民地の独立潮流にも乗り遅れがちであったが、1970年から80年代にかけて、ようやく独立の潮流が生じてきた。
 もっとも、第一次大戦後ニュージーランド領領となっていた西サモアは、流血事態も含む長年の独立運動の末、1962年、オセアニアの島嶼国家として初の独立を果たした。60年代、これに続いたのは英国から独立したナウルであった。
 この二か国の独立が契機となり、70年代以降、80年のバヌアツまで独立の潮流が隆起したのである。ちなみに、英国の保護国とされながらも実質的な独立王国としての状態を唯一保持してきたトンガも、70年に完全な独立を回復している。
 しかし、他方で新たな植民地主義にさらされたのがニューギニアである。先述したように、英蘭分断統治を経験した同島では、英国からオーストラリアに譲渡された東部が75年にパプアニューギニアとして独立したが、旧蘭領の西部は自治権付与に動くオランダに対し、オランダから独立したインドネシアが領有権を主張し、係争化していた。
 61年にはオランダが独立を認めたことに対抗してインドネシアが西パプアに軍を侵攻させ、占領した。これに対し、冷戦時代のインドネシアを地政学上「反共の砦」として重視した米国が「調停」という形で事実上インドネシアの西パプア権益を黙認した。
 そうした中、インドネシアは69年、国軍管理下で住民投票を操作して西パプアを西イリアン州(現パプア州及び西パプア州)として併合し、今日まで未解決のパプア紛争が継続している。この紛争は、インドネシアのような列強植民地主義を脱した第三世界の新興独立国が植民地主義を模倣するかのような膨張主義的戦略を志向するという歴史の皮肉を示す事例と言える。
 そうした中、完全な独立よりも旧宗主国との自由連合という形態を採った緩やかな「独立」を選択する国も増加した。これは完全な独立を回避しつつ、内政自治や独自の外交権限も保持するという形で、半独立状態を確保しようとするもので、小島嶼国家が自立する上での困難を多々抱えていることに鑑みての現実的な妥協策と言えよう。
 その先駆けは、70年代にニュージーランドとの自由連合国となったクック諸島及びニウエであるが、いずれも国連に加盟することなく、住民はニュージーランド公民権も保持するため、真の意味での独立国とは言い難い。
 一方、80年代以降、米国との自由連合国となったのは、マーシャル諸島、ミクロネシア連邦、90年代のパラオである。この場合、防衛は米国が担い、外交権も一部米国が保持するが、独自に国連に加盟しており、独立国に準じて扱われている。

2016年12月12日 (月)

オセアニア―世界の縮図(連載第9回)

第一部 誕生~歴史

(8)近代戦場から核実験場へ
 
近代オセアニアは、英国保護国とされながらも実質的な独立を維持したトンガ王国と、南米チリ領へと売却されていったイースター島を除けば、欧米列強―後には日本―の領土として分割された。それは、アフリカ分割と等しいものであった。
 ただし、英国植民地のうち、ヨーロッパ白人が主体となって形成されたオーストラリア及びニュージーランドについては、それぞれ1901年と1907年に内政自治権を持つ自治領として半独立した(完全な独立は、ともに1940年代まで持ち越される)。
 欧米によるオセアニア分割でも、アフリカ分割同様の不自然な分割線による伝統社会の分断現象を経験している。そのうち現代まで典型的な分断が生じている事例として、ニューギニアがある。
 ニューギニアでは東西が分断され、西はオランダ、東は英独分割統治を経て豪領に渡った。このうち西はオランダから独立したインドネシアにより強制的に併合されたが、東はパプアニューギニアとして独立したため、東西分断状況が固定化している。
 米独で分断統治されたサモアも、独領を継承したニュージーランド領から独立した西サモアと、なお米領にとどまる東サモアの分断も類似の例である。
 一方、バヌアツでは英仏共同統治という変則支配により、英語使用住民と仏語使用住民の言語分断が生じ、現代に至っても言語別政党の拮抗関係が続いている。
 アフリカ分割競争に乗り遅れ、南太平洋に侵出していたドイツが獲得した南洋諸島領土は、第一次世界大戦での敗戦後、委任統治領の形で日、豪、ニュージーランドの分割統治下に移行された。
 その結果、南洋諸島は太平洋戦争における日米戦争の主戦場となる。まさに「太平洋戦争」の名称由来である。ここでは住民を巻き込んだいくつもの有名な戦闘が展開されたが、中でも決死のゲリラ戦を展開した日本軍1万人余りが壊滅したパラオのペリリュー島の戦いは象徴的であった。
 太平洋戦争を含む第二次大戦は1945年に終結したが、オセアニアの「戦後」は先延ばしにされた。小さな島嶼地域の独立は容易でなかったうえ、間もなく始まった冷戦時代には核大国の核実験場とされたからである。
 とりわけアメリカはマーシャル諸島に太平洋核実験場を設定し、50年代にたびたび大気圏内核実験を実施、日本の第五福竜丸被曝事故を惹起した1954年のビキニ環礁での水爆実験(キャッスル作戦)は周辺域の放射能汚染と住民の強制移住・帰還不能を今日まで持続させている。
 イギリスも50年代を通じて、完全独立後のオーストラリア領内を借りての核実験をたびたび実施したほか、フランスは60年代から最終は96年に至るまで仏領ポリネシアで核実験を続けていたのである。

2016年11月19日 (土)

オセアニア―世界の縮図(連載第8回)

第一部 誕生~歴史

(7)オセアニア近代諸王国の明暗
 
前近代オセアニア社会の大部分は部族首長制を維持していたと見られるが、いくつかの島では首長制が君主制に展開し、ある程度内発的な近代化によって、近代的王国に発展した例がある。その最も早期かつ挫折例はタヒチであった。
 長く首長制が乱立していたタヒチでは1791年、一首長からのし上がったポマレがバウンティ号反乱事件を起こした反乱者たちの助力を得て、全島の武力統一に成功し、ポマレ朝を興した。
 ポマレ朝では初代ポマレ1世を継いだ息子ポマレ2世の時、キリスト教への改宗と西洋化が推進されるとともに、オーストラリアとの豚肉貿易などで経済的な発展も享受し、当時のオセアニアでは随一の豊かな王国となっていた。
 しかし、ポマレ2世の娘ポマレ4世女王の治世ではタヒチの権益をめぐる英仏の対立に巻き込まれ、混乱と衰退の時代となる。1842年に初めてフランスの保護国とされるが、これに反発した先住民勢力がポマレ4世を立てて、対仏戦争を起こした。しかし、これも46年には敗北、ポマレ4世は捕らえられてしまう。
 先住民の人気が高いポマレ4世の王位は保たれたものの、王権はなし崩しにフランスの傀儡化されていき、77年、在位50年にして女王が没した時には、独立国家としての主権はほぼ形骸化していた。当時、タヒチを給炭補給基地として確保する必要のあったフランスは80年、女王を継いだ息子ポマレ5世に対し、併合条約への署名を求めた。
 すでにフランスの傀儡と化していたポマレ5世に選択の余地はなく、タヒチ王国はここに消滅、フランス領ポリネシアに編入されたのである。結局、ポマレ朝は内発的な形で近代王国とはなり切れないまま、90年近い歴史を終えたことになる。

 次いで、タヒチより成功しながら、最終的に同様の経緯をたどったのはハワイである。ハワイでも長く島ごとの首長制が乱立していたところ、18世紀後半の西洋との初接触から間もない1795年、ハワイ島首長カメハメハが英国の支援を受けてハワイ諸島の武力統一に成功し、1810年までにハワイ王国を建国した。
 初代カメハメハ1世は、英米から軍事援助を受けて近代的軍備を伴った独立王国の確立に努め、彼の息子で3代国王となったカメハメハ3世時代の1840年には、近代憲法を制定し、立憲君主国となった。
 ここまでは順調だったハワイだが、実は、カメハメハ1世没後からアメリカ人によるプランテーションのための土地収奪が広がっていた。40年代には英仏が相次いで一方的にハワイ領有を宣言するなど、砂糖栽培の利権を付け狙う列強によるハワイ侵出が激化する。
 カメハメハ朝が断絶した後、1874年の選挙で国王に就いたカラカウアは増大するアメリカの勢力を抑え、明治維新直後の日本と移民条約を通じて連携しつつ、ハワイ中心のポリネシア連合の形成をもくろむが、かえってアメリカ人勢力によるクーデターに遭い、王権を制限される結果となった。
 カラカウア王を継いだ妹のリリウオカラニ女王は兄の遺志を受け継ぎ、王権を再強化する新憲法草案を提起するが、アメリカ人が支配する閣議により否決された。
 新憲法案を支持する先住ハワイ人勢力と共和制移行を主張するアメリカ人勢力の間の緊張が高まる中、アメリカ人勢力が海兵隊を動かしてクーデターに成功、94年にサンフォード・ドールを大統領とする共和国を樹立した。翌年にはリリウオカラニ女王も廃位され、ここにハワイ王国は滅亡した。
 アメリカ人勢力の最終的な狙いはハワイを本国アメリカに併合することにあったため、98年にはハワイ共和国とアメリカの間でハワイ併合条約が締結され、98年にハワイは準州としてアメリカに正式に併合されたのである。

 近代王国として最も成功を収めたと言えるのは、ハワイの後を追ったトンガであった。(3)でも見たとおり、トンガでは17世紀以来、俗権を握るトゥイ・カノクポル朝が優勢となったが、全島的王朝として確立されたのは、19世紀に出たタウファアハウ王の時である。
 彼は西洋列強の侵出という時流を巧みに利用した。手始めに、キリスト教プロテスタント(メソジスト派)に改宗し、洗礼名ジョージとし、ジョージ・トゥポウ1世を名乗った。しかし、まだ残存していた神権を握る伝統的なトゥイ・トンガ朝末裔のラウフィリトンガがカトリックに改宗したうえ、トゥポウ1世に挑戦したため、プロテスタント勢力の支援を受けたトゥポウ1世とカトリック勢力の支援を受けたラウフィリトンガの間で内戦となった。
 トゥポウ1世はこの難局を乗り切り、1875年には、英国人のメソジスト派牧師シャーリー・ベーカーを顧問(後に首相)に迎えて近代的憲法を制定し、立憲君主国として整備したのであった。この体制は今日までオセアニアで唯一、英国王を君主としない独自君主国トンガとして持続している。
 トゥポウ1世はフィジー併合を狙うなど、列強的手法を真似た帝国主義を志向したが、この野望は列強の妨害により挫折した。96歳まで長生したトゥポウ1世を継いだ曾孫ジョージ・トゥポウ2世は、1900年、英国との間で友好条約を締結し、トンガは英国の実質的な保護国となった。
 ジョージ・トゥポウ2世は結婚相手の選択をめぐる混乱から国を分裂させており、統治基盤を維持するため積極的に英国の庇護を求めたのであった。しかし、友好条約下では外交権の制限にとどまり、トンガはオセアニアで唯一主権を保持する国となった。

2017年5月
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