〆仏教と政治―史的総覧

2017年8月30日 (水)

仏教と政治―史的総覧(連載最終回)

十二 現代政治と仏教

宗教対立の中の仏教②
 現代における上座部仏教と他宗教との対立紛争の事例として、東南アジアの上座部仏教系の二大国であるタイとミャンマーでは少数派イスラーム教徒との対立紛争が生じている。
 このうち、タイでもマレーシアとの国境に近い深南部はマレー系住民が多く、14世紀から20世紀初頭まで、イスラーム教を奉ずるマレー系のパタニ王国が所在していたところである。パタニは全盛期の17世紀には貿易立国として栄えたが、タイ諸王朝に対しては属国の関係にあり、国力が衰退した20世紀初頭にはタイに併合された。
 こうした経緯から、タイ深南部にはイスラーム教徒が多く、反中央政府の気風が伝統的に強い。タイ政府は反政府運動を厳しく抑圧しつつ、この地域の民族同化政策を展開してきたが、開発の遅れや貧困は必ずしも解決せず、同化政策への積年の反発も強いと見られる。
 特に2000年代以降は、中東でのイスラーム過激主義の浸透により、パタニ王国再興やマレー系イスラーム国家の樹立を掲げた分離独立運動が活発化し、武装テロ事件が相次ぐ状況となっているが、反政府側も多数の組織に分裂しており、現時点では内戦と言える段階には達していない。
 他方、ミャンマーでは、バングラデシュと接するラカイン州を中心に居住してきたイスラーム教徒集団ロヒンギャへの抑圧と大量難民化が国際問題となっている。
 ロヒンギャの起源は必ずしも明らかでないが、ミャンマー多数派のビルマ系ではなく、英国統治下で英領インドの一部であったバングラデシュから移住(または帰還)してきたベンガル人の末裔と見る説が強い。
 戦後独立したビルマはロヒンギャの国籍を剥奪したことから、かれらは無国籍者となり、元来難民化しやすい状況にあった。ただ、長い軍事政権下では徹底した抑圧により動きは封じられていたが、民主化の過程でロヒンギャ側も武装反政府運動を活発化させ、2012年頃から政府軍との武力衝突がたびたび起きている。
 その結果、大量のロヒンギャが密航船で海上脱出を図り、ボートピープル化した。2015年に長年の民主化運動指導者アウンサンスーチーを事実上の指導者とする新政権が成立した後も、新政権はロヒンギャ問題に正面から取り組まず、むしろテロ対策として軍による強権的な掃討作戦を展開し、仏教徒側の排斥運動も活発化しているため、ロヒンギャ難民は増大している。
 タイ、ミャンマーいずれの事例でも、イスラーム教側は少数劣勢であるため、多数派仏教側が単なる「テロ対策」で片付けることなく、仏教本来の寛容や慈悲の教理に立ち戻り、宗教問題として正面から取り組むことが期待されるだろう。

2017年8月27日 (日)

仏教と政治―史的総覧(連載第36回)

十二 現代政治と仏教

宗教対立の中の仏教①
 仏教が政治的な優越宗教として他宗教との間で深刻な対立紛争を引き起こす例は決して多くはないが、戒律が厳格で保守的な上座部仏教系においてはいくつかの事例が見られる。中でも、スリランカ内戦は最も代表的かつ深刻な一例である。
 上座部仏教の源流地スリランカでは、英国植民地統治下で一時仏教は閉塞したが、仏教はキリスト教に押さえ込まれることなく生き延び、19世紀後半以降はアナガーリカ・ダルマパーラのようなシンハラ知識人を中心に仏教を精神的な基盤とするナショナリズムが興隆する。
 一方、スリランカには古くから多くはヒンドゥー教徒のタミル人が居住していたことに加え、英国は紅茶プランテーション労働力としてインドから移入したタミル人を優遇し、その子孫は1948年の独立後も定住化したため、スリランカ・タミル人は少数派ながら無視できない勢力となった。
 そうした中、独立後のスリランカでは植民地時代の反動から、多数派シンハラ人によるシンハラ優越主義の風潮が強まり、選挙権の剥奪などタミル人差別が構造化されていった。その際、シンハラ支配層側は仏教を至高宗教と位置づけたことから、この両民族の対立は、宗教上は仏教対ヒンドゥー教の対立として現れることになった。
 タミル人側は対抗上、独立国家タミル・イーラムの樹立を目指し、1970年代半ばから活動家ヴェルピライ・プラバカランを指導者とする武装ゲリラ組織「タミル・イーラム解放の虎」(LTTE)を結成して、分離独立運動を開始する。
 この対立は1983年以降、完全な内戦に突入する。LTTEは武装化を進め、ゲリラ戦と大統領暗殺などの爆弾テロを併用しつつ、北部の都市キリノッチを拠点として事実上の占領地を設定した。内戦は親タミル派のインドの介入が失敗した後、ノルウェーの中立的な仲介により和平が成立するかに見えたが、これも挫折した。
 最終的には、2006年から政府軍による大規模な掃討作戦が展開され、09年、LTTEの実質的な降伏宣言とそれに続くプラバカランらLTTE指導部の全員殺害を経て、内戦はシンハラ政府軍の全面勝利に終わった。この四半世紀余りに及んだ戦争の犠牲者数は、最大推計で10万人に達する。
 09年以降は、内戦からの復興と民族的・宗教的和解のプロセスの段階にあるが、シンハラ人優位の構造は内戦勝利によりいっそう強化され、なおタミル人差別・迫害が続いているという報告もあり、楽観を許さない状況である。

2017年8月 6日 (日)

仏教と政治―史的総覧(連載第35回)

十二 現代政治と仏教

日本の「議会政仏教」
 日本では明治政府による廃仏毀釈政策の結果、中世以来の伝統仏教勢力が急速に閉塞することとなり、仏教は神道に劣後する二級宗教に転落した。その一方で、昭和に入ると、伝統仏教勢力の外部で新興の仏教団体を創立する動きが見られた。
 それらの教団には日蓮宗・法華系標榜宗派が多いことが特徴であるが、そこには、既存宗派の枠にはまらない日蓮宗の持つ在野的性格が影響しているのかもしれない。しかし、戦時体制下で神道系も含む新興宗派全般に対する当局の監視が強まり、創価学会のように幹部が検挙され、弾圧される場合もあった。
 戦後は、憲法で保障された信教の自由の下、新興仏教団体が無数に創立されていく。そうした中で、戦前創立の大規模な教団の中には、議会政治に直接間接に参加するものも現れた。いち早く系列政党を結成し、国政に進出したのは法華系の創価学会(以下、学会と略す)である。
 学会は1956年に初めて傘下参議院議員を出したのを契機に、64年には正式に公明党を結成し、67年総選挙で25名の当選者を出して以来、中道を標榜する議会政党として今日まで定着、1990年代以降は、たびたび連立政権の一角を担うに至っている。
 ちなみに近年、学会同様に系列政党の幸福実現党を通じた議会参加を試みているのは仏教ベースの独異な教義を持つ幸福の科学であるが、現状、少数の地方議員を擁するものの、国政では地歩を築いておらず、現時点で国政レベルへの進出で学会以上の成功を収めている仏教系団体は存在しない。
 また、戦前に法華系の霊友会から分派した立正佼成会は戦後の選挙運動を通じて主として自由民主党(自民党)を支援してきたが、ライバル関係にある学会系の公明党が自民党と連立を組むと流動化・個別化し、旧民主党・民進党系の支持に傾斜していると言われる。
 このように日本の戦後政治は、伝統仏教勢力以上に新興仏教勢力と議会政とのつながりにおいて、他の仏教諸国にも見られない独自の展開を見せている。もっとも、こうした言わば「議会政仏教」は、憲法が信教の自由とともに規定する政教分離原則との緊張関係を常にはらんでおり、特に教団系列政党の政権参加は憲法上も機微な問題を提起することは否定できない。
 ところで、90年代半ば、松本と東京で神経ガスのサリンを散布する化学テロ事件を起こし、世界を震撼させたオウム真理教は、日本では珍しい上座部仏教に近い教義を持つ新興仏教団体であったが、かれらも当初は国政参加を狙い、選挙に参加するも目的は達成されなかった。それを契機に教団は過激化・武装化に走り、テロ事件を惹起するに至ったとされる。
 平和なイメージの仏教がテロに関与することは稀であり、教団被害対策に当たった弁護士一家惨殺など敵対人物を標的とする多数の凶悪事件を組織的に起こしたオウム真理教はあまりにも特異な存在であったが、「国家」の樹立まで目論んだとされる教団は現代日本における議会政仏教への過激なアンチテーゼだったのかもしれない。

2017年7月 5日 (水)

仏教と政治―史的総覧(連載第34回)

十一 近代国家と仏教

インドの仏教復興運動
 発祥地インドでは伝統的なバラモン→ヒンドゥー教に押し返されて極小宗派となった仏教であるが、近現代になって、反カースト差別の政治運動と結びつく形で部分的な復興の動きがある。
 その創始者ビームラーオ・アンベードカルはカースト制度最下層身分ダリットに出自し、戦後独立したばかりのインドの法務大臣や憲法起草者を務め、「インド憲法の父」とも称される法律家・政治家であって、宗教家ではない。政治家としての彼の最大の目標はインドの宿痾とも言うべきカースト差別廃絶にあった。
 彼は死の直前に仏教に改宗したにすぎないが、この時、彼の支持者である50万人規模のダリットも集団改宗したことで、戦後インドにおける仏教復興運動が開始されたとみなされる。
 こうした経緯から、この運動はアンベードカル独自の仏典解釈に強く影響されている。例えば、仏教における根本概念である輪廻転生・因果応報はカースト差別の正当化に利用されかねないことから否定されるなど、合理主義的な性格が強い。
 従って、このアンベードカル主義仏教を厳密に分類することは難しいが、内容上は上座部仏教を土台としながらも、後発の大乗仏教や密教まで包摂した止揚的な新仏教であり、ある種の仏教系新興宗派とみなすこともできるかもしれない。
 こうしたアンベードカル主義の仏教運動は、彼の死後も支持者らによって継承され、インドにおいて一定の勢力を保持している。政党では、ダリットを支持基盤とする中道左派政党である大衆社会党にも浸透し、同党は2007年のウッタル・プラデーシュ州議会選挙に勝利して、州政権を獲得した(12年選挙では敗北下野)。
 とはいえ、インドにおける仏教徒人口は1パーセントに満たず、釈迦による創唱当初の勢いは見られない。多数派ヒンドゥー教からの批判も根強く、全国的な広がりには程遠いが、現代インド仏教はカースト差別克服問題と結びつく形で独自の展開を見せていることは間違いない。
 なお、前回も見たとおり、インドは1959年以来、北部ヒマーチャル・プラデーシュ州のダラムサラ(ダラムシャーラー)にダライ・ラマ14世とチベット亡命政府の存在を認め、庇護している。結果として、ダラムサラはインドにおけるチベット仏教拠点として定着した。
 しかし、インド連邦政府は中国との関係維持のため、ダライ・ラマあるいはその支持勢力による政治的活動には否定的であり、もともと微妙な中印間における微妙な外交問題となっている。

2017年6月15日 (木)

仏教と政治―史的総覧(連載第33回)

十一 近代国家と仏教

チベット「自治」と仏教
 チベット仏教拠点のチベットの近代は、それぞれ革命によって樹立された中華民国にソ連という新興国、そして英国という大国による覇権争いに巻き込まれる辛酸を舐めた。
 しかし、その間、ダライ・ラマを元首とする祭政一致体制―ガンデンポタン―が本質的に変化することはなかった。それほど、チベット仏教とチベット政治は一体的であったのだった。
 その点、チベット仏教ドゥク派系ブータンでは、早くから聖界指導者シャブドゥンと俗界指導者デブが分離し、最終的には両者が統一され、1907年に豪族ウゲン・ワンチュクが世襲君主に選出されて以降、英領インド、次いで独立インドの庇護下で緩やかな独立を維持しつつ、漸進的に近代的な立憲君主制(ワンチュク朝)へ移行していったのとは対照的であった。
 とはいえ、19世紀末から20世紀初頭におけるチベットの困難な時期に統治したダライ・ラマ13世は、ある程度の近代化を試みた。特に税制や軍制の近代化と文化の欧化である。その背後にはチベット支配を強めようと画策する英国の援助があった。こうした親英・欧化政策は一部の保守的な寺院勢力の反乱を招いたが、13世はこれを乗り切った。
 しかし、13世が1933年に没すると、チベットに対する中華民国の影響力が強まる。後継のダライ・ラマ14世(現職)は39年に「発見」された後、中華民国によって庇護・擁立された。
 大きな転換点は、49年の中国共産党体制の樹立である。チベット政府はこれを機に完全な独立を狙ったが、独立を許さない中国が51年にチベットに侵攻、短時日で全土を征服した。これにより、チベットは中国の支配下に入り、形式的な「自治」が与えられることとなった。
 こうした武力制服に対するチベット人の抵抗は50年代を通じて激化し、動乱となる。対する中国軍の反撃も虐殺を辞さないすさまじいものであった。
 14世は59年、インドのダラムサラに脱出し、亡命政府を樹立する。一方、中国側はチベット仏教ゲルク派においてダライ・ラマに次ぐ権威を持つパンチェン・ラマ10世を優遇し、ある種の対立教皇のような形で庇護する政策を採った。
 チベット人の抵抗はその後も断続的に継続されているが、ダライ・ラマ14世は亡命政府を率いつつ、ガンジー的な非暴力主義抵抗を続け、こうした抵抗を「分離主義」とみなして容認しない中国政府がチベットに再び戒厳令を敷き、抑圧を強めた89年にはノーベル平和賞を受賞した。
 一方、中国側は89年のパンチェン・ラマ10世死没を受け、95年に当時6歳のチベット児童をパンチェン・ラマ11世に認定し、10世の後継に擁立したが、当局はその直前、ダライ・ラマ14世自らがパンチェン・ラマ11世に認定していた別のチベット児童を連行、失踪させたため、以後、パンチェン・ラマ自体も並立状態にある。
 その後、14世は2011年をもって政治的に「引退」し、政治権力を亡命政府に委譲するとともに、ダライ・ラマ転生制度の廃止も示唆している。これは実質的に政教分離体制への移行を促進するものであり、チベット仏教における歴史的な大転換となるため、議論を呼んでいる。
 また、14世は仏教とマルクス主義の融合を有効な統治体制として指摘するなどの思考実験的な提言も行なっている。現在、チベット仏教は中国支配と自身の現代化との間で岐路に立っていると言えよう。

2017年5月24日 (水)

仏教と政治―史的総覧(連載第32回)

十一 近代国家と仏教

社会主義体制と仏教
 近代になると、仏教も社会主義体制という新しい政治国家と直面する段階を迎えた。その最初の好例は、世界で二番目―アジアでは最初の―社会主義国家となったモンゴルである。
 中世にチベット仏教国として確立されたモンゴルの近代は、チベット出身の活仏ボグド・ハーンを戴く立憲君主制国家として始まったが、間もなくロシア革命の影響を受けた社会主義勢力が台頭し、最後のボグド・ハーンとなったジェプツンダンバ・ホトクト8世の逝去を機に社会主義共和制へ移行したのであった。
 その後、人民革命党社会主義体制下でもしばらく仏教は保護されていたが、1930年代、スターリンのソ連と衛星同盟した独裁者チョイバルサンの下、大々的な仏教弾圧が開始された。この時、3万人以上と言われる僧侶が殺戮される大粛清が断行され、仏教寺院は閉鎖された。
 仏教には「神」の概念はなく、社会主義的な無神論と両立できる面もあるが、当時のスターリン主義体制下ではそうした細密な考慮はなされず、宗教=反革命という定式の下、非弁証法的な仕方で仏教が否定されたのである。モンゴルで仏教が復興したのは、社会主義体制の抑圧がある程度緩和された1970年代のことであった。
 同様の事態は、共産党支配体制が確立された中国でも起きた。中国でも当初は1953年に設立された中国仏教協会を翼賛的な仏教団体として仏教が一定保護されたが、1960年代の文化大革命の時期、仏教は反革命的と断罪され、寺院は破壊の標的とされた。
 しかし、中国の場合は中国仏教そのものの弾圧に加え、後に改めて触れるチベット民族問題が絡み、チベット仏教への弾圧が激しく行なわれ、多くのチベット僧侶が迫害・殺戮された点で、二重構造的な弾圧政策であった。
 毛沢東の死没と文革終了後、その誤りが公式に認められると、中国仏教協会の指導下に仏教の復興がなされ、文革期に破壊され、荒廃した寺院の再建などの事業が行なわれたが、あくまでも共産党体制が許容する範囲内での活動である。
 他方、仏教と社会主義を対立させず、上座部仏教思想に基づく社会主義を指向したのが1950‐60年代のカンボジアとビルマであった。カンボジアではシハヌーク国王が王制の枠内での仏教社会主義を提唱した。また60年代に軍事クーデターで政権を掌握したネ・ウィンが提唱した「ビルマ式社会主義」もその系譜に含まれる。
 これら仏教社会主義体制は新奇ではあったが、内実に乏しく、カンボジアでは70年代に狂信的な大虐殺を断行する共産党の台頭を防げなかった。ビルマ式社会主義はネ・ウィン独裁体制の代名詞と化し、その民主化運動による崩壊は軍事独裁政権の反動を招いた。

2017年4月26日 (水)

仏教と政治―史的総覧(連載第31回)

十 東南アジア諸王朝と仏教

タイ系諸王朝と仏教政治
 現在、東南アジアで仏教と政治の関係が最も密で、上座部系仏教政治の「大国」と言えるのはタイであるが、元来は精霊信仰が盛んだったタイ族の仏教受容過程については記録が少なく、不明な点が多い。
 少なくとも、仏教が国教的地位になったのは周辺諸国と比べて決して早かったわけではなく、おおむね14世紀のことである。それには、二つの王朝的流れがあった。一つはタイ中心部に成立した王朝スコータイ朝、もう一つはタイ北部に成立したラーンナー朝である。
 後者はチェンマイを中心に栄えた王朝であるが、先住のモン族の影響を受け、上座部仏教を導入した。特に14世紀中葉の第5代パーユー王の頃から仏教を積極的に保護するようになった。しかしラーンナー朝は16世紀後半以降はビルマの支配に下り、短い復興後は後述チャクリー朝に吸収されていく。
 前者のスコータイ朝では元来その支配を受けてきたクメール王朝の影響下に上座部仏教が浸透したと考えられるが、仏教が本格的な国教的地位を確立するのはさらに下り14世紀後半、第6代リタイ王代であった。この頃の王朝は南に成立した同じタイ族系アユタヤ朝やタイ族の分派とも言えるラーオ族が建てたラーンサーン朝のような後発諸国の台頭により圧迫されていた。
 そこで、リタイ王は王朝建て直しのため遷都するとともに、仏教を国家の精神的支柱に据え、自ら出家して仏教に帰依した。「仏法王」を称したリタイ王は仏教書を執筆するほど仏教の普及に尽くした。彼はまた上座部仏教の聖地であるセイロンから高僧を招聘して寺院の長に据え、タイ仏教の中核となるサンガ制度の土台を築いた。
 こうしたスコータイ式仏教政治はライバルのアユタヤ朝やラーンナー朝、ラーンサーン朝にも伝わり、同様の仏教政治が導入される。スコータイ朝はリタイ王の努力にもかかわらず衰退を続け、15世紀前半にはアユタヤ朝に吸収された。そのアユタヤ朝も上座部仏教国ながら、クメール王朝の影響も強く、ヒンドゥー的な色彩も帯びていた。
 18世紀、ビルマのコンバウン朝によって破壊され、滅亡したアユタヤ朝の後、一代限りのトンブリー朝を経て成立し、今日まで続くチャクリー朝においても仏教政治の基本は継承されたが、19世紀、重要な改革が二代にわたる王によって加えられる。
 最初はラーマ4世によるサンガの規律強化であり、この時に厳格な戒律をもって統制された新サンガのタンマユット僧団と旧来のサンガであるマハー僧団の二大サンガの対抗状況が生じた。
 続くラーマ5世による大規模な社会改革では、サンガ法を通じたサンガの宗教法人化と全僧侶の僧籍編入という国家管理政策が導入された。この画期的な改革により、タイ仏教は国家の保護統制下に置かれるようになった。
 その後、タイは周辺諸国とは対照的に西洋列強の植民地支配を免れたため、キリスト教宣教というお決まりの改宗干渉を受けることなく社会に深く定着し、タイの国家・社会の上部構造的支柱として確立されていった。
 大僧正(ソムデートプラサンカラート)を頂点とするサンガ制度は20世紀の立憲革命を経て、法的に変遷を重ねており、特にタイ近代政治を特色づける歴代軍事政権はサンガの統制管理をめぐり、しばしばサンガと微妙な関係に立つとともに、サンガ自体の腐敗も指摘される。
 なお、タイと民族文化的に近縁なラオスについても言及すると、先述ラーンサーン朝も全盛期を作った16世紀のセーターティラート王代には国章ともなっている仏塔タート・ルアンの建立がなされるなど仏教国として栄えたが、同時にアニミズム信仰も根強く、仏教と混淆していた。
 ラーンサーン朝は17世紀末に王位継承をめぐって三分裂し、18世紀後半にはトンブリー朝、続いてチャクリー朝の支配に下った後、仏泰戦争の結果、19世紀末にフランスの保護国として実質的な植民地に編入された。そのため、この先、ラオス仏教はタイ仏教とは大きく運命が分かれる。
 第二次世界大戦後の独立、インドシナ戦争を経た1975年の革命後、ラオスはマルクス‐レーニン主義国家となり、標榜上は無神論体制であるため、仏教と政治は分離されたが、なお国民のおよそ70パーセントは仏教徒とされる。

2017年4月 9日 (日)

仏教と政治―史的総覧(連載第30回)

十 東南アジア諸王朝と仏教

ビルマ諸王朝と仏教の定着
 ビルマ(ミャンマー)は最大勢力のビルマ族をはじめ多民族がひしめく地域であるが、宗教的には早くからほぼ仏教で統一されていた。ビルマ最初の統一的な王朝は、現代ミャンマーでは少数民族であるモン族が建てたタトゥン朝であった。タトゥン朝はスリランカとも交易をしたため、スリランカの上座部仏教が早くから伝播した。
 他方、タトゥン朝では大乗仏教系のアリー僧団と呼ばれる俗化した密教団が浸透し、王権を凌ぐと言われるほどの権勢を張った。この状況を変えたのは11世紀、ビルマ族初の王朝パガン朝を建てたアノーヤターである。軍閥出身の彼は自身、大乗系の信仰を持ちながら、アリー僧団を解体したうえ、あえて上座部仏教を国教の地位に据えた。タトゥン朝の基盤を解体するうえでは有利と見たためだろう。
 こうしてパガン朝は上座部仏教国となったが、実際のところは大乗仏教のほか、密教、ヒンドゥー教も混在していた点ではカンボジアと大差はなかった。ただ、王侯貴族は来世の冥福のため、競って寺院建立を行なったため、パガン朝下では壮麗な寺院仏塔が数多く出現し、今日に至るまで優れた仏教建築として残されているところである。
 その後、パガン朝で形成された仏教諸派は王権の支持を背景に国内外で広く伝道活動を進め、東南アジアで広く在家信徒を増やし、この地域に上座部仏教を浸透させるうえで大きな力を持った。
 しかし、王朝後期には再び俗化した密教団アラニャ僧団が勢力を広げ、広大な寺領を手中にするようになり、道徳的にも退廃した。王朝もモンゴル帝国の侵攻を受け、14世紀初頭には滅亡する。その後、ビルマでは諸民族の興亡が続くが、いずれも基本的に上座部仏教系の国である。
 ビルマ族が王権を奪回したのは、16世紀初頭のタウングー王朝からである。他方、今日のラカイン州にはビルマ族と近縁なラカイン族が15世紀に建てたやはり上座部仏教系アラカン朝があるが、この王朝も多くの仏教建築を残している。
 アラカン朝はイスラーム圏との交易も行い、イスラーム教にも寛容であったため、領内には従者、傭兵、商人等として定住したムスリムもあり、宗教的には融和されていたが、続くコウバウン朝による征服の後、ムスリムたちは隣のベンガル地方へ集団移住した。
 タウングーとアラカンの両王朝は18世紀にビルマ族の一首長であったアラウンパヤーが建てたコンバウン朝によって順次滅ぼされる。コンバウン朝も引き続き上座部仏教を擁護し、アラウンパヤーの四男で第6代国王ボードーパヤーは僧団の統合を進めて、統一僧団を設立した。
 彼の時代以後のビルマは上座部仏教の理論的中心地となり、仏教が閉塞していた上座部仏教先行地のスリランカへと逆輸入され、仏教復興を刺激するほどになった。
 しかし、英国によるビルマ侵略が進むと、キリスト教が浸透し始め、仏教界も分裂してきたため、1871年に第五回結集が当時の王都マンダレーにて開催された。しかし、86年にビルマ全土が英国の手に落ちて以降、植民地政府は世俗主義を採用しつつ、民衆にはキリスト教宣教師による改宗というお決まりの流れが生じた。
 英領インドに編入された英国植民治下、仏教僧の中には独立運動に関与する者もあったが、カンボジアほど急進化はせず、レディ僧院を創立したサヤドー師のように政治とは距離を置きつつ、独自の仏教哲学を深め、教宣に当たる高僧を輩出するようにもなったのが近代ビルマ仏教の特徴である。

2017年3月12日 (日)

仏教と政治―史的総覧(連載第29回)

十 東南アジア諸王朝と仏教

カンボジア王朝と仏教の変遷
 今日の東南アジアで仏教徒の割合が特に高いのはカンボジア、タイ、ミャンマーの三国で、いずれも九割を越える圧倒的な仏教優勢国である。その仏教はいずれも上座部系で共通している。ただ、仏教伝来のルートや態様には相違がある。
 実際のところ、上記三国に先立って仏教が伝来したのは今日では圧倒的にイスラームが優勢なインドネシア地域であり、5世紀にはスマトラ島に伝来したと言われる。そして7世紀から14世紀にかけてのシュリーヴィジャヤ王国が大乗仏教を信奉したほか、8世紀から9世紀にかけてのジャワ島のシャイレーンドラ王国も同様であったが、15世紀以降この地域の諸国は順次イスラーム教に改宗されていく。
 冒頭の三国中で最も早くに仏教が伝来したのはカンボジアであった。カンボジアが仏教国となるまでの経緯は複雑である。まずカンボジアには6世紀から9世紀にかけてクメール人王国真臘が存在した。真臘はカンボジアからベトナムにまたがって存在していた扶南国の属国からスタートしたため、ヒンドゥー教と仏教が並存していた扶南国の影響を強く受けていた。こうしたヒンドゥー‐仏教並存体制は以後しばらくはカンボジアの基調となる。
 真臘国は8世紀後半から9世紀初頭まで前記シャイレーンドラ王国の侵略・占領を受けたが、シャイレーンドラ王朝は大乗仏教を信奉し、世界最大級の仏教遺跡であるボロブドゥール大寺院を建造した。そこから独立して建国されたカンボジアのアンコール王朝は基本的にヒンドゥー教国家して出発するが、大乗仏教の影響も受け、大乗仏教が第二宗教的な位置を占めるようになった。
 転機となるのは、1181年に即位したジャヤーヴァルマン7世の治世である。彼はベトナム中部にあったヒンドゥー教国家チャンパ王国との戦争で荒廃した時期に即位し、復興を担った。その際の平和国家の理念として大乗仏教を置いたのであった。その点では、古代インド・マウリヤ朝のアショーカ王とも類似している。
 ジャヤーヴァルマン7世はヒンドゥー教由来の「王は神の権化なり」とする統治理念を「王は転輪聖王(仏教における理想王)なり」とする仏教的な理念に置換して、仏教国治の支柱としたのである。その点では、モンゴル元朝のクビライとも共通するところがある。
 一代で王国の繁栄を築いたジャヤーヴァルマン7世は在位中多くの仏教寺院を建立したが、伝統のヒンドゥー教も排除することなく、バイヨンのようなヒンドゥー‐仏教習合的な宗教施設も建設している。また彼はタマリンダ王子をスリランカに留学させ、当地の上座部仏教を学ばせた。
 王子が帰国後、カンボジアに上座部仏教を普及させて以降、カンボジアでは貴賎を越えて広く上座部仏教が浸透し、社会総体を仏教化する契機が開かれたのである。これはカンボジアでは上座部仏教が極めて階級横断的な形で布教されたためと言われる。
 ジャヤーヴァルマン7世の没後、アンコール朝は衰退し、モンゴルの侵攻を受けた13世紀のジャヤーヴァルマン8世の治世では廃仏・ヒンドゥー回帰の政策が採られたが、1295年にクーデターで王位を簒奪した娘婿のインドラヴァルマン3世は自ら信奉していた上座部仏教を改めて国教に据えた。
 これ以降、カンボジアは上座部仏教国として定着したが、国はタイやベトナムの侵略を受けるようになり、15世紀前半に首都アンコールが陥落して以後は都を転々とする流浪の歴史となる。この先、19世紀後半にフランス植民地となるまでの数百年間はカンボジア史において「暗黒時代」と呼ばれる閉塞の歴史であった。
 この長い閉塞の時代、とりわけたびたび侵略したタイの影響力が増大し、19世紀にはタイ流上座部仏教の二大教団の一つで後発のタンマユット僧団がカンボジア王室の庇護の下に拠点を築き、マハー僧団との対立を引き起こすことになる。
 なお、フランス植民地治下でベトナムやラオスとともに仏領インドシナに併合されたカンボジアでは、仏教僧ないし仏教主義者による聖戦的な反仏闘争が展開され、仏教は独立闘争のシンボルともなったところである。

2017年2月22日 (水)

仏教と政治―史的総覧(連載第28回)

九 モンゴルの崇仏諸王朝

清朝支配下モンゴルと仏教
 モンゴル本国に当たるモンゴル帝国はオイラト帝国に先立って17世紀前半には衰微した。1603年に即位したリンダン・ハーンは帝国再建を目指して精力的に動いたが、その強権支配が諸部族から反発を招くとともに、新興の女真族系後金(清)の圧迫も強まっていた。
 1634年、リンダン・ハーンがチベット遠征の途上で病死すると、後金軍の侵攻を受け、リンダンの遺子エジェイは元朝以来の玉璽を後金に譲渡し、その支配に下った。ここに、モンゴル帝国は正式に終焉した。
 18世紀まで続いたモンゴル亜種のオイラト帝国も、前回見たように、1755年には清に下ったため、これ以降、モンゴルは総体として清朝の支配下に編入されることとなった。清朝支配下モンゴルで有力化してきたのは、ハルハ部であった。
 ハルハ部は代々ハーンを輩出してきたチンギス・ハーン裔とは異なる傍系部族であったが、モンゴル中興の祖ダヤン・ハーンによる部族再編に際し、ダヤンの息子が婿入りして有力部族となった。ハルハはモンゴル帝国滅亡後、清といち早く朝貢関係を結び、オイラトから圧迫された際も援助を受けることができた。
 ハルハ部もチベット仏教に帰依したが、他の部族と異なるのは独自の活仏制度を持ったことである。その初代はハルハ有力部族長の息子ジェプツンタンパ1世であった。彼は幼くして出家し、チベットに留学、ダライ・ラマ5世よりチベット高僧チョナン・ターラナータの転生者として認定され、帰国した。彼はまた、清の康熙帝からもホトクト大ラマの称号を得て、ハルハの宗教的・政治的権威を承認された。
 以後、ジェプツンタンパ・ホトクトはモンゴル系活仏の名跡として継承されていった。ただし、清はモンゴル勢力がジェプツンタンパの下に再び糾合されることを警戒し、3代ジェプツンタンパ以降はチベット人を認定するよう策したため、モンゴル人ジェプツンタンパは最初の二代までであった。
 チベット人活仏を戴く新たな神権体制はモンゴルに根づき、20世紀の辛亥革命で清が滅亡する直前の1911年、モンゴル有力者らは時のジェプツンタンパ8世を元首ボグド・ハーンに擁立して清から独立した。
 この神権君主制ボグド・ハーン体制は近代モンゴル揺籃期を主導し、1913年には遅れて独立を目指していたチベットのダライ・ラマ体制と相互承認条約を結んで、チベット仏教を紐帯とするモンゴル‐チベット連携の構築を目指した。
 しかし、ボグド・ハーン体制は中国の辛亥革命とロシア革命を受けた地政学的変動に翻弄されて独立国家としての地位を確保できず、ロシア革命の余波から社会主義運動が高まる中、1924年のジェプツンタンパ8世死去を受け、世俗社会主義体制に転換された。

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