仏教と政治―史的総覧

2017年4月 9日 (日)

仏教と政治―史的総覧(連載第30回)

十 東南アジア諸王朝と仏教

ビルマ諸王朝と仏教の定着
 ビルマ(ミャンマー)は最大勢力のビルマ族をはじめ多民族がひしめく地域であるが、宗教的には早くからほぼ仏教で統一されていた。ビルマ最初の統一的な王朝は、現代ミャンマーでは少数民族であるモン族が建てたタトゥン朝であった。タトゥン朝はスリランカとも交易をしたため、スリランカの上座部仏教が早くから伝播した。
 他方、タトゥン朝では大乗仏教系のアリー僧団と呼ばれる俗化した密教団が浸透し、王権を凌ぐと言われるほどの権勢を張った。この状況を変えたのは11世紀、ビルマ族初の王朝パガン朝を建てたアノーヤターである。軍閥出身の彼は自身、大乗系の信仰を持ちながら、アリー僧団を解体したうえ、あえて上座部仏教を国教の地位に据えた。タトゥン朝の基盤を解体するうえでは有利と見たためだろう。
 こうしてパガン朝は上座部仏教国となったが、実際のところは大乗仏教のほか、密教、ヒンドゥー教も混在していた点ではカンボジアと大差はなかった。ただ、王侯貴族は来世の冥福のため、競って寺院建立を行なったため、パガン朝下では壮麗な寺院仏塔が数多く出現し、今日に至るまで優れた仏教建築として残されているところである。
 その後、パガン朝で形成された仏教諸派は王権の支持を背景に国内外で広く伝道活動を進め、東南アジアで広く在家信徒を増やし、この地域に上座部仏教を浸透させるうえで大きな力を持った。
 しかし、王朝後期には再び俗化した密教団アラニャ僧団が勢力を広げ、広大な寺領を手中にするようになり、道徳的にも退廃した。王朝もモンゴル帝国の侵攻を受け、14世紀初頭には滅亡する。その後、ビルマでは諸民族の興亡が続くが、いずれも基本的に上座部仏教系の国である。
 ビルマ族が王権を奪回したのは、16世紀初頭のタウングー王朝からである。他方、今日のラカイン州にはビルマ族と近縁なラカイン族が15世紀に建てたやはり上座部仏教系アラカン朝があるが、この王朝も多くの仏教建築を残している。
 アラカン朝はイスラーム圏との交易も行い、イスラーム教にも寛容であったため、領内には従者、傭兵、商人等として定住したムスリムもあり、宗教的には融和されていたが、続くコウバウン朝による征服の後、ムスリムたちは隣のベンガル地方へ集団移住した。
 タウングーとアラカンの両王朝は18世紀にビルマ族の一首長であったアラウンパヤーが建てたコンバウン朝によって順次滅ぼされる。コンバウン朝も引き続き上座部仏教を擁護し、アラウンパヤーの四男で第6代国王ボードーパヤーは僧団の統合を進めて、統一僧団を設立した。
 彼の時代以後のビルマは上座部仏教の理論的中心地となり、仏教が閉塞していた上座部仏教先行地のスリランカへと逆輸入され、仏教復興を刺激するほどになった。
 しかし、英国によるビルマ侵略が進むと、キリスト教が浸透し始め、仏教界も分裂してきたため、1871年に第五回結集が当時の王都マンダレーにて開催された。しかし、86年にビルマ全土が英国の手に落ちて以降、植民地政府は世俗主義を採用しつつ、民衆にはキリスト教宣教師による改宗というお決まりの流れが生じた。
 英領インドに編入された英国植民治下、仏教僧の中には独立運動に関与する者もあったが、カンボジアほど急進化はせず、レディ僧院を創立したサヤドー師のように政治とは距離を置きつつ、独自の仏教哲学を深め、教宣に当たる高僧を輩出するようにもなったのが近代ビルマ仏教の特徴である。

2017年3月12日 (日)

仏教と政治―史的総覧(連載第29回)

十 東南アジア諸王朝と仏教

カンボジア王朝と仏教の変遷
 今日の東南アジアで仏教徒の割合が特に高いのはカンボジア、タイ、ミャンマーの三国で、いずれも九割を越える圧倒的な仏教優勢国である。その仏教はいずれも上座部系で共通している。ただ、仏教伝来のルートや態様には相違がある。
 実際のところ、上記三国に先立って仏教が伝来したのは今日では圧倒的にイスラームが優勢なインドネシア地域であり、5世紀にはスマトラ島に伝来したと言われる。そして7世紀から14世紀にかけてのシュリーヴィジャヤ王国が大乗仏教を信奉したほか、8世紀から9世紀にかけてのジャワ島のシャイレーンドラ王国も同様であったが、15世紀以降この地域の諸国は順次イスラーム教に改宗されていく。
 冒頭の三国中で最も早くに仏教が伝来したのはカンボジアであった。カンボジアが仏教国となるまでの経緯は複雑である。まずカンボジアには6世紀から9世紀にかけてクメール人王国真臘が存在した。真臘はカンボジアからベトナムにまたがって存在していた扶南国の属国からスタートしたため、ヒンドゥー教と仏教が並存していた扶南国の影響を強く受けていた。こうしたヒンドゥー‐仏教並存体制は以後しばらくはカンボジアの基調となる。
 真臘国は8世紀後半から9世紀初頭まで前記シャイレーンドラ王国の侵略・占領を受けたが、シャイレーンドラ王朝は大乗仏教を信奉し、世界最大級の仏教遺跡であるボロブドゥール大寺院を建造した。そこから独立して建国されたカンボジアのアンコール王朝は基本的にヒンドゥー教国家して出発するが、大乗仏教の影響も受け、大乗仏教が第二宗教的な位置を占めるようになった。
 転機となるのは、1181年に即位したジャヤーヴァルマン7世の治世である。彼はベトナム中部にあったヒンドゥー教国家チャンパ王国との戦争で荒廃した時期に即位し、復興を担った。その際の平和国家の理念として大乗仏教を置いたのであった。その点では、古代インド・マウリヤ朝のアショーカ王とも類似している。
 ジャヤーヴァルマン7世はヒンドゥー教由来の「王は神の権化なり」とする統治理念を「王は転輪聖王(仏教における理想王)なり」とする仏教的な理念に置換して、仏教国治の支柱としたのである。その点では、モンゴル元朝のクビライとも共通するところがある。
 一代で王国の繁栄を築いたジャヤーヴァルマン7世は在位中多くの仏教寺院を建立したが、伝統のヒンドゥー教も排除することなく、バイヨンのようなヒンドゥー‐仏教習合的な宗教施設も建設している。また彼はタマリンダ王子をスリランカに留学させ、当地の上座部仏教を学ばせた。
 王子が帰国後、カンボジアに上座部仏教を普及させて以降、カンボジアでは貴賎を越えて広く上座部仏教が浸透し、社会総体を仏教化する契機が開かれたのである。これはカンボジアでは上座部仏教が極めて階級横断的な形で布教されたためと言われる。
 ジャヤーヴァルマン7世の没後、アンコール朝は衰退し、モンゴルの侵攻を受けた13世紀のジャヤーヴァルマン8世の治世では廃仏・ヒンドゥー回帰の政策が採られたが、1295年にクーデターで王位を簒奪した娘婿のインドラヴァルマン3世は自ら信奉していた上座部仏教を改めて国教に据えた。
 これ以降、カンボジアは上座部仏教国として定着したが、国はタイやベトナムの侵略を受けるようになり、15世紀前半に首都アンコールが陥落して以後は都を転々とする流浪の歴史となる。この先、19世紀後半にフランス植民地となるまでの数百年間はカンボジア史において「暗黒時代」と呼ばれる閉塞の歴史であった。
 この長い閉塞の時代、とりわけたびたび侵略したタイの影響力が増大し、19世紀にはタイ流上座部仏教の二大教団の一つで後発のタンマユット僧団がカンボジア王室の庇護の下に拠点を築き、マハー僧団との対立を引き起こすことになる。
 なお、フランス植民地治下でベトナムやラオスとともに仏領インドシナに併合されたカンボジアでは、仏教僧ないし仏教主義者による聖戦的な反仏闘争が展開され、仏教は独立闘争のシンボルともなったところである。

2017年2月22日 (水)

仏教と政治―史的総覧(連載第28回)

九 モンゴルの崇仏諸王朝

清朝支配下モンゴルと仏教
 モンゴル本国に当たるモンゴル帝国はオイラト帝国に先立って17世紀前半には衰微した。1603年に即位したリンダン・ハーンは帝国再建を目指して精力的に動いたが、その強権支配が諸部族から反発を招くとともに、新興の女真族系後金(清)の圧迫も強まっていた。
 1634年、リンダン・ハーンがチベット遠征の途上で病死すると、後金軍の侵攻を受け、リンダンの遺子エジェイは元朝以来の玉璽を後金に譲渡し、その支配に下った。ここに、モンゴル帝国は正式に終焉した。
 18世紀まで続いたモンゴル亜種のオイラト帝国も、前回見たように、1755年には清に下ったため、これ以降、モンゴルは総体として清朝の支配下に編入されることとなった。清朝支配下モンゴルで有力化してきたのは、ハルハ部であった。
 ハルハ部は代々ハーンを輩出してきたチンギス・ハーン裔とは異なる傍系部族であったが、モンゴル中興の祖ダヤン・ハーンによる部族再編に際し、ダヤンの息子が婿入りして有力部族となった。ハルハはモンゴル帝国滅亡後、清といち早く朝貢関係を結び、オイラトから圧迫された際も援助を受けることができた。
 ハルハ部もチベット仏教に帰依したが、他の部族と異なるのは独自の活仏制度を持ったことである。その初代はハルハ有力部族長の息子ジェプツンタンパ1世であった。彼は幼くして出家し、チベットに留学、ダライ・ラマ5世よりチベット高僧チョナン・ターラナータの転生者として認定され、帰国した。彼はまた、清の康熙帝からもホトクト大ラマの称号を得て、ハルハの宗教的・政治的権威を承認された。
 以後、ジェプツンタンパ・ホトクトはモンゴル系活仏の名跡として継承されていった。ただし、清はモンゴル勢力がジェプツンタンパの下に再び糾合されることを警戒し、3代ジェプツンタンパ以降はチベット人を認定するよう策したため、モンゴル人ジェプツンタンパは最初の二代までであった。
 チベット人活仏を戴く新たな神権体制はモンゴルに根づき、20世紀の辛亥革命で清が滅亡する直前の1911年、モンゴル有力者らは時のジェプツンタンパ8世を元首ボグド・ハーンに擁立して清から独立した。
 この神権君主制ボグド・ハーン体制は近代モンゴル揺籃期を主導し、1913年には遅れて独立を目指していたチベットのダライ・ラマ体制と相互承認条約を結んで、チベット仏教を紐帯とするモンゴル‐チベット連携の構築を目指した。
 しかし、ボグド・ハーン体制は中国の辛亥革命とロシア革命を受けた地政学的変動に翻弄されて独立国家としての地位を確保できず、ロシア革命の余波から社会主義運動が高まる中、1924年のジェプツンタンパ8世死去を受け、世俗社会主義体制に転換された。

2017年2月 2日 (木)

仏教と政治―史的総覧(連載第27回)

九 モンゴルの崇仏諸王朝

オイラト王朝とチベット仏教
 元朝撤退後のモンゴルにあって、最も熱心なチベット仏教徒となったのはモンゴル族の亜族とも言えるオイラト族だった。かれらはモンゴル西部を本拠地とし、元はテュルク系とも言われるが、チンギス・ハーンに服属して以来、チンギス家の姻族として定着し、実質上はモンゴル族と変わらなくなった。
 オイラト族は15世紀以降、いくつかの部族に分かれてモンゴル本族に対抗する大連合を組むようになったが、モンゴルのハーンはチンギス末裔に限るという継承原理に阻まれ、15世紀に初めてオイラト族から出たエセン・ハーンも一代限りで滅ぼされた。
 そうした中、17世紀にはオイラト族ホシュート部が有力化し、部族長トゥルバイフ(グーシ・ハーン)が帰依していたゲルク派のダライ・ラマを擁してチベットを征服、グーシ・ハーン王朝を立てたことは以前にも触れたところである。このオイラト系チベット王朝は5代80年ほど存続した。
 一方、グーシ・ハーンはチベット遠征に同行させていたオイラト族ジュンガル部族長ホトゴチンに娘を嫁がせたうえ、バートル・ホンタイジの称号を与えてオイラト本拠地の統治を委ねた。ここに、ジュンガル部が治める強力なオイラト系遊牧国家ジュンガル帝国が発足した。
 ジュンガル帝国ではバートル・ホンタイジの没後、内乱に陥り、1672年にはバートルの子センゲが異母兄らに殺害されたが、弟のガルダンが決起し、敵を討伐して新たなジュンガル部族長に就任した。これが母方からグーシ・ハーンの孫に当たるガルダン・ハーンである。
 ちなみに、グーシ・ハーンにせよ、ガルダン・ハーンにせよ、本来チンギス末裔のみが名乗れるハーン称号をいずれもダライ・ラマ5世から授与されており、オイラト族とチベット仏教ゲルク派との結合の強さが窺える。
 ガルダン・ハーンは少年時代、さる高僧の転生と認定されたことから、チベットに留学し、ダライ・ラマ5世の下で学んだが、その後帰国・還俗したのであった。こうした緊密な師弟関係から、後にガルダン・ハーンが対立したホシュート部を討伐すると、ダライ・ラマ5世はガルダンに「持教受命王」の称号を授与した。
 これ以降、オイラト族ではジュンガル部が盟主格となり、ガルダン・ハーンは周辺勢力の征服を精力的に進め、中央アジア全域に及ぶ大帝国を一代にして築き上げた。しかし、その権勢は長く続かなかった。清と結ぶモンゴル族ハルハ部に介入して清朝とも対立したことがあだとなり、1696年、清軍に攻め込まれて敗北、敗走・潜伏中に病死してしまう。
 ガルダンの死後は兄センゲの子孫が部族長を継いでいき、1717年にはグーシ・ハーン王朝を一時征服するが、間もなく衰退し、最終的に1755年、清によって滅ぼされ、清の支配下に入った。以後、モンゴル系遊牧帝国は二度と再生することはなかったが、モンゴルとチベット仏教の結びつきは恒久的なものとなったのである。

2017年1月15日 (日)

仏教と政治―史的総覧(連載第26回)

九 モンゴルの崇仏諸王朝

モンゴル帝国と仏教
 モンゴル人の原宗教はアニミズムだったが、強大化し、中国大陸を支配するうえで、中国的宗教を利用する実益を認識したようである。そこで、初めは先行のモンゴル系大国・金の治下で隆盛化した道教を実質的な国教としたが、結果として華北を中心に栄えていた仏教との宗教対立をもたらした。
 そこで、モンケ・ハーンの治世以降たびたび道教・仏教間での問答会が開催された結果、道教は敗れ、仏教に軍配が上がった。当初は中国で盛んな禅宗が保護を受けたが、この流れを変えたのは、前章でも触れたように、チベット仏教サキャ派高僧パクパ(パスパ:モンゴル読み)がクビライ・ハーンにより帝師の称号と権限を付与されたことを契機とする。
 元来、パクパは1240年に時のオゴデイ・ハーンが王子コデンを派遣して行なったチベット征服戦を食い止めるため、おじの座主サキャ・パンディタに随行してモンゴル帝国との交渉に赴いた人物である。その時、まだハーンに即位する前のクビライの知己を得てその側近となり、そのままモンゴルにとどまったのであった。
 帝師となったパクパにはおじを継承するチベットにおける政治宗教的権威とともに、モンゴル帝国全体の仏教統制権も付与された。同時に、クビライを古代インドの理想王たる転輪聖王に擬してその個人崇拝的な支配の強化にも寄与した。
 これにより、チベット仏教はモンゴル帝国・元朝全体の実質的な国教の地位を占めた。とはいえ、モンゴル帝国の宗教政策は開放的であり、敗退した道教も弾圧は受けず、儒教も保護されたし、イスラーム教・キリスト教も流入を阻止されることはなかった。
 しかしモンゴル皇室はチベット仏教に染まり、歴代皇帝や皇族が傾倒し、信仰に濫費するなどの失策により財政難をきたすようになり、元朝衰微の一因となったとされる。
 実際のところ、14世紀に入ると、モンゴルのチベット仏教はパクパを祀る帝師殿の建立やパクパの塑像の製作などの偶像崇拝的なものへ変質していた。やがて14世紀末に元朝が中国大陸を撤退し、本拠地モンゴル高原で北元として縮小されると、隆盛を誇ったチベット仏教も一時衰退していったと見られる。
 モンゴルで再びチベット仏教が再生されたのは、16世紀、時のモンゴル最高実力者アルタン・ハーンがチベット仏教ゲルク派高僧であったスーナム・ギャツォにダライ・ラマの称号を贈った時以降である。
 アルタン・ハーンはモンゴル再興の立役者であったダヤン・ハーンの孫に当たり、自身は正式のハーンではなかったが、祖父の死後、再分裂していたモンゴル勢力を束ねた。彼がチベット仏教に帰依したことで、モンゴル有力者の間で再びチベット仏教信仰が浸透したとされる。
 ちなみにダライ・ラマ3世のスーナム・ギャツォを継いだダライ・ラマ4世ユンテン・ギャツォはアルタン・ハーンの曾孫に当たり、歴代ダライ・ラマ中で唯一のモンゴル人として、ゲルク派とモンゴルの結びつきを強化したが、チベット仏教政治の混乱に巻き込まれ、若くして不審死を遂げている。

2016年12月24日 (土)

仏教と政治―史的総覧(連載第25回)

八 チベット神権政治

ダライ・ラマとシャブドゥン
 チベットでは、モンゴル系オイラート族グーシ・ハーンが樹立した王朝(グーシ・ハーン朝)の下、ゲルク派最高指導者ダライ・ラマの地位が確立され、ダライ・ラマを事実上の君主として戴くガンデンポタンがチベットの新たな神権統治機関となる。
 ところで、ダライ・ラマとはゲルク派において観音菩薩の生まれ変わりたる化身僧とされ、世襲によらず、民間から該当する児童を発見・養成する転生継承という制度を採る。このような制度はカギュ派が創始したが、対立宗派であるゲルク派でも踏襲されたものである。
 ダライ・ラマの称号は元来、元朝崩壊後の16世紀にモンゴル勢力最高実力者となったアルタン・ハーンがチベット仏教に帰依するに際してゲルク派転生僧スーナム・ギャツォに贈った称号に由来する。スーナム・ギャツォは自らをダライ・ラマ3世とみなし、初代及び先代転生僧に1世と2世を追贈したことで、継承称号として確立した。
 グーシ・ハーン朝が成立した時のダライ・ラマは5世であった。彼は学僧として優れていたのみならず、統治者としても手腕を持ち、グーシ・ハーンの没後、王朝が弱体化する中、聖俗両面でのチベット支配を固めていった。
 しかし、5世の遺言により10年以上その死が秘匿された後に即位した次の6世が自堕落な人物として廃位されると、後継者をめぐりグーシ・ハーン朝内部で権力闘争が生じたことを契機に、王朝は急速に衰退し、1717年にはオイラト本国に当たるジュンガル帝国により攻められて実質上滅亡、最終的には中国大陸の支配者となっていた満州族系の清朝によって征服され、終焉した。
 時の清朝雍正帝はチベット分割という植民地支配的な政策を導入し、ダライ・ラマのガンデンポタンは西南部に限局された。ただし、清朝はダライ・ラマ5世の時代からチベットと交流があり、5世が時の順治帝に与えた「文殊皇帝」の称号が歴代継承されていた。
 こうしたチベット仏教尊重政策はチベット分割後も基本的に継承され、清朝皇帝は新たに支配下に入ったチベット民族に対しては「文殊皇帝」として君臨し、ガンデンポタン地域ではダライ・ラマの権威を承認する態度を採ったのである。
 一方、チベット南部の延長域ブータンの事情は相当に異なる。ここではカギュ派のガワン・ナムゲルを戴く政権が成立したことは前回見たが、ガワン・ナムゲルもゲルク派ダライ・ラマと同様に転生僧であり、初代シャブドゥンを称した。
 これ以降、ブータンではシャブドゥン制度が定着するのではあるが、1651年のガワン・ナムゲルの没後、次期シャブドゥンの選定を巡る争いを防ぐべく、ブータン有力者らは半世紀以上も初代の死を伏せたうえ、死亡事実公表後はシャブドゥンを身体・精神・言説の三者に分割するという策を敷いた。
 このうち、身体シャブドゥンは早くに絶え、精神と言説の二大シャブドゥンの系譜だけが残された。しかし、これはシャブドゥンの権威の低下につながり、ブータンではダライ・ラマのガンデンポタンに相当するような統一的神権体制は成立せず、20世紀初頭に今日まで続く世俗的なワンチュク朝が成立するまで、豪族の割拠状態が続いた。

2016年12月 3日 (土)

仏教と政治―史的総覧(連載第24回)

八 チベット神権政治

神権体制の創始
 チベットで確立される独特の神権体制の起源は、吐蕃王朝滅亡後、13世紀にモンゴルの侵攻を受けたことにあった。当時のチベットでは、分裂状況の中、有力氏族ごとの仏教系宗派集団が形成される傾向にあった。
 そうした中、中央チベットのツァンを本拠とするコン氏族系のサキャ派教団が有力化しており、同派4代座主サキャ・パンディタがモンゴルからチベット主要地域の政治的権限を付与されたことで、モンゴル帝国を後ろ盾とするサキャ派政権が成立した。
 続く5代座主のパクパはモンゴル皇帝クビライ・ハーンからチベットの政治的・宗教的権威とともに、初めてモンゴル帝国の最高宗教権威である帝師の称号を与えられた。これによって、モンゴルとチベットがチベット仏教を国教として共有する関係が形成された。
 この仏教を軸としたモンゴル‐チベット体制はモンゴル主導という点では属国関係であったが、宗教上はチベット側が守護者の立場に立つある種の神聖同盟であった。しかし14世紀以降、モンゴル帝国の衰退はチベットにも大きな余波を及ぼす。
 14世紀半ばには、密教的色彩の強いカギュ派分派のパクモドゥパ派が台頭、クーデターによりサキャ派政権を打倒して、中央チベットを掌握した。パクモドゥパ政権は元朝崩壊後、独立を回復するも、15世紀後半、座主家外戚のリンプン家が実権を掌握して、リンプン家体制が出現するが、これも長持ちせず、同家家宰ツェテン・ドルジェが政権を簒奪し、ツァントェ王を称して王国を樹立した。
 この歴代ツァントェ王による世襲のツァンパ政権はカギュ派分派カルマ派に依拠したが、神権体制というより、旧吐蕃王朝のような世俗王朝に近いものであったが、これも100年は持たなかった。17世紀前半、モンゴル高原西部を本拠とするモンゴル系オイラト族がグーシ・ハーンの下に台頭し、チベットに侵攻、ツァンパ政権を打倒したからである。
 この時代のチベットでは15世紀に学僧ツォンカパが開いた後発宗派ゲルク派が勢力を伸ばしており、グーシ・ハーンはゲルク派信者であったことから、彼は同派最高権威ダライ・ラマ5世を擁立し、新たな神権体制を立てたのである。
 一方、チベット南部の延長域とも言えるブータンでは、13世紀にチベットから伝わったカギュ派分派のドゥク派が普及していたところ、17世紀初頭、チベットのツァンパ政権が介入した内紛に敗れ、ドゥク派座主を追われたガワン・ナムゲルが現在のブータン地域に入り、亡命政権を立てた。
 これを認めないツァンパ政権、さらにその後のダライ・ラマ政権もガワン・ナムゲル政権をたびたび攻撃するが、ガワン・ナムゲルはこれらを撃退し、1651年に没するまで独自の神権体制の建設を進めた。

2016年11月16日 (水)

仏教と政治―史的総覧(連載第23回)

八 チベット神権政治

吐蕃王朝と仏教
 今日大乗仏教系で中国経由の北伝仏教と二大系統を成すチベット仏教の始まりは7世紀の吐蕃王朝の成立を契機とする。初代国王ソンツェン・ガンポは当時の地政学上、南で接するネパール(リッチャヴィ朝)と東で接する唐の双方から王妃を娶ることで、新興王国の保証とした。
 この東西から嫁いだ二人の王妃がチベットに仏教を持ち込んだと言われる。それ以前のチベットにはアニミズムの一種であるボン教と呼ばれる伝統宗教があったが、チベット仏教は在来のボン教とも競合・混淆しながら発展していくことになる。
 実際のところ、チベットで仏教が正式に国教化されたのは、ソンツェン・ガンポの時代から100年以上経過した8世紀後半のティソン・デツェン王代のことである。10代で即位した彼の治世初期には仏教に反発するボン教徒による廃仏が発生したが、成長した王は改めて仏教を国教と定め、王国の精神的基盤とした。
 当時のチベット仏教はインド系仏教と敦煌占領に際して招聘された禅宗僧侶摩訶衍の影響から中国系禅宗の二大派閥に分裂していたが、ティソン・デツェン自身はインドのナーランダ僧院の高僧シャーンタラクシタをチベットに招聘して教えを受けていたことから、最終的にインド系仏教を正統仏教として承認した。
 これに先立って、シャーンタラクシタはチベット初の仏教教団を設け、彼も建立を主導したチベット初の僧院・サムイェー寺を拠点に、チベット大蔵経に結実する本格的な訳経事業も開始していた。ちなみに、サムイェー寺の建立には密教を伝えたインド人僧侶パドマサンバヴァも関わっている。
 チベット大蔵経の原典が完成した頃の王は、ソンツェン・ガンポ、ティソン・デツェンと並びチベット三大護教王とも称されるティツク・デツェンであったが、彼は宰相により暗殺され、王位は弟のラン・ダルマに遷った。
 吐蕃王朝最後の王となるラン・ダルマは兄王とは対照的に廃仏政策に転じた暴君として描かれることが多いが、その真偽は疑問視されている。いずれにせよ、彼もまた宰相により暗殺され、吐蕃王朝はここに滅亡するのである。
 以後、チベットは再び分裂の時代に戻り、仏教も衰微するが、そうした中、吐蕃王朝王族によって西部に建国された地方王朝グゲ王国が仏教再興の地となる。11世紀にはインドのヴィクラマシーラ僧院長も務めた高僧アティーシャを招聘し、布教に当たらせた。
 アティーシャはすでに高齢だったにもかかわらず、その精力的な活動により、チベット仏教中興の祖となり、ダライ・ラマも属する現代チベット仏教主流派であるゲルク派の確立につながる流れを築いたのである。

2016年11月 2日 (水)

仏教と政治―史的総覧(連載第22回)

七 日本仏教と政治

仏教統制から廃仏毀釈へ
 鎌倉新仏教はその後、室町時代にも引き継がれ、特に臨済宗は幕府の保護を受け、中国の制にならった禅宗五山の制度も整備された。政教の距離はより縮まり、臨済宗僧侶の夢窓疎石やその門弟たちの中には、将軍や鎌倉公方の事実上の政治顧問格として政治に関与する者も現れた。
 他方で、民衆の間に定着した浄土真宗は本願寺教団(一向宗)にまとまり、各地で一揆を起こすまでになる。その中でも、守護大名の追放と自治体制確立にまで発展したのが1488年の加賀一向一揆である。この祭政一致的な封建自治体制は100年近く続いたため、単なる一揆を越えた一種の民衆革命であった。
 加賀の例は同時代の北陸・中部・近畿地方で多発した一向一揆の中でも異例のものであったが、この時期には一向宗と敵対する法華宗による法華一揆も起きるなど、戦国へ向かう中で、仏教宗団自身の戦国的武装勢力化も進んだ。
 戦国時代に一定の秩序をもたらした織田信長は、これら武装仏教勢力の打倒に冷酷な手法で注力した。かねてより強力な僧兵集団を抱えていた延暦寺の焼き討ちが著名であるが、10年近くにわたり反信長陣営と一向宗が組んで信長と対峙した包囲網を打ち破った石山合戦は信長の天下取りの大きなステップとなった。
 以後、仏教勢力の抑圧統制は天下取りの要諦となり、豊臣、徳川と時の天下人に継承されていく。最後の総仕上げは徳川幕府による寺院諸法度―寺社奉行による寺院統制の制度化である。一向宗の弱体化策としての本願寺の東西分裂策動、民衆統制の手段としての寺請制度の整備も徳川的仏教政策の一環であった。
 ただし、江戸幕府は仏教を完全に抑圧することはせず、寺院には寺領を安堵して封建領主的地位を保証しつつ、寺院諸法度で法的に統制し、檀家制度を通じて民衆管理の最前線の役割も持たせるというのが徳川的仏教政策の妙味である。
 ちなみに、徳川家は伝説的な家祖・松平親氏が浄土教系の時宗托鉢僧だったとされる縁からか浄土宗派であり、江戸開府後は浄土宗を保護している。一方で、初代家康は臨済宗僧侶以心崇伝を実質的な宰相格とし、聖俗様々な政策に関与させたほか、天台宗僧侶天海からも宗教政策や江戸の都市計画まで助言を受けるなど、徳川幕府の仏教政策は相当に実用主義的である。
 こうした実用主義的な仏教利用政策の結果、江戸時代を通じて日本仏教の通俗化が独特の神仏混淆を伴って進行したと見られる。そうした状況で明治維新を迎えると、表向き王政復古を呼号する明治政府は神仏分離令を発し、神道重視策を打ち出した。
 これが結果として廃仏毀釈の風潮を作り出し、仏教は冬の時代を迎える。神道は明確に国教とされることはなかったとはいえ、「神道は宗教にあらず」という国策理念がかえって神道の宗教を越えた特権化を暗示していた。日本仏教の冬の時代はおおむね、明治憲法体制が崩壊するまで続くと言ってよい。

2016年10月20日 (木)

仏教と政治―史的総覧(連載第21回)

七 日本仏教と政治

武家仏教と民衆仏教
 平安時代末期の平安ではなくなった時代、平安貴族らはこぞって浄土教に走り、来世での冥福を願ったが、現世での幸福はかなわず、かれらが権力保持のために依存するようになった武士層の増長を抑えることはできなかった。
 最初の武家政権を樹立した平氏は、興福寺を筆頭とする既成仏教勢力の抑圧に努め、特に東大寺・興福寺の弾圧を狙った南都焼き討ちは、後に戦国時代の織田氏の政策の先取りに近い寺社勢力への強硬策であった。
 平氏を打倒した源氏が本格的な武家政権を樹立すると、仏教と政治の関係も大きく変化する。従来の朝廷主導の鎮護国家思想は後退し、武家のニーズに合ったより実践的・現世的な仏教宗派が登場してくる。
 いわゆる鎌倉仏教はこうした新たな武家社会の実態に合った仏教の新潮流であり、とりわけ新たに中国からもたらされた禅宗系の臨済宗と曹洞宗が武家の信仰を集める二大宗派として台頭する。中でも臨済宗は事実上幕府の国教的地位を獲得し、南禅寺を頂点とする五山の制度が次第に整備されていく。
 もっとも、いわゆる鎌倉新仏教に属する六大宗派(浄土宗・浄土真宗・時宗・日蓮宗・臨済宗・曹洞宗)はいずれも天台宗に入門した僧侶が日本における開祖となっており、平安仏教の天台宗の教学的影響力は次代にも及んでいる。天台宗に代表される旧仏教と新仏教の対立関係は、室町時代に入って表面化し、政治問題化していく。
 一方、仏教は平安時代末期から、先の見えない不安感・閉塞感の中で民衆の間にも末法思想のような悲観的な形で浸透していたが、鎌倉時代になると、明確に民衆の側に立ち、民衆の教化を目指す民衆仏教も現れる。特に、六大宗派中の浄土真宗である。
 浄土真宗は、開祖の親鸞自身は政治的に穏健ながら、封建社会化の中で地頭に搾取される農民の救済に重点を置いた関係で、後世、真宗系本願寺教団は政治性の強い急進的宗派に成長し、いわゆる一向一揆のような革命的行動を各地で起こし、領主勢力との階級闘争を繰り広げることとなった。
 日蓮は他宗派とは様相を異にし、むしろ旧来の鎮護国家思想に基づき、法華経の信奉を主張する『立正安国論』を著し、あるべき政教関係を説いたが、時の北条氏政権からは敵視され、弾圧を受けた。以後、日蓮宗(法華宗)は反体制的性格を強めていく。
 こうして、鎌倉時代に発するいわゆる新仏教は、封建社会化の中で、様々な階級に広まっていった。しかし、その分、仏教諸宗派は諸階級の利益と結びつきつつ、応仁の乱以後、戦国時代へ向かう中で宗派間抗争も激化するようになる。

2017年4月
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