仏教と政治―史的総覧

2017年6月15日 (木)

仏教と政治―史的総覧(連載第33回)

十一 近代国家と仏教

チベット「自治」と仏教
 チベット仏教拠点のチベットの近代は、それぞれ革命によって樹立された中華民国にソ連という新興国、そして英国という大国による覇権争いに巻き込まれる辛酸を舐めた。
 しかし、その間、ダライ・ラマを元首とする祭政一致体制―ガンデンポタン―が本質的に変化することはなかった。それほど、チベット仏教とチベット政治は一体的であったのだった。
 その点、チベット仏教ドゥク派系ブータンでは、早くから聖界指導者シャブドゥンと俗界指導者デブが分離し、最終的には両者が統一され、1907年に豪族ウゲン・ワンチュクが世襲君主に選出されて以降、英領インド、次いで独立インドの庇護下で緩やかな独立を維持しつつ、漸進的に近代的な立憲君主制(ワンチュク朝)へ移行していったのとは対照的であった。
 とはいえ、19世紀末から20世紀初頭におけるチベットの困難な時期に統治したダライ・ラマ13世は、ある程度の近代化を試みた。特に税制や軍制の近代化と文化の欧化である。その背後にはチベット支配を強めようと画策する英国の援助があった。こうした親英・欧化政策は一部の保守的な寺院勢力の反乱を招いたが、13世はこれを乗り切った。
 しかし、13世が1933年に没すると、チベットに対する中華民国の影響力が強まる。後継のダライ・ラマ14世(現職)は39年に「発見」された後、中華民国によって庇護・擁立された。
 大きな転換点は、49年の中国共産党体制の樹立である。チベット政府はこれを機に完全な独立を狙ったが、独立を許さない中国が51年にチベットに侵攻、短時日で全土を征服した。これにより、チベットは中国の支配下に入り、形式的な「自治」が与えられることとなった。
 こうした武力制服に対するチベット人の抵抗は50年代を通じて激化し、動乱となる。対する中国軍の反撃も虐殺を辞さないすさまじいものであった。
 14世は59年、インドのダラムサラに脱出し、亡命政府を樹立する。一方、中国側はチベット仏教ゲルク派においてダライ・ラマに次ぐ権威を持つパンチェン・ラマ10世を優遇し、ある種の対立教皇のような形で庇護する政策を採った。
 チベット人の抵抗はその後も断続的に継続されているが、ダライ・ラマ14世は亡命政府を率いつつ、ガンジー的な非暴力主義抵抗を続け、こうした抵抗を「分離主義」とみなして容認しない中国政府がチベットに再び戒厳令を敷き、抑圧を強めた89年にはノーベル平和賞を受賞した。
 一方、中国側は89年のパンチェン・ラマ10世死没を受け、95年に当時6歳のチベット児童をパンチェン・ラマ11世に認定し、10世の後継に擁立したが、当局はその直前、ダライ・ラマ14世自らがパンチェン・ラマ11世に認定していた別のチベット児童を連行、失踪させたため、以後、パンチェン・ラマ自体も並立状態にある。
 その後、14世は2011年をもって政治的に「引退」し、政治権力を亡命政府に委譲するとともに、ダライ・ラマ転生制度の廃止も示唆している。これは実質的に政教分離体制への移行を促進するものであり、チベット仏教における歴史的な大転換となるため、議論を呼んでいる。
 また、14世は仏教とマルクス主義の融合を有効な統治体制として指摘するなどの思考実験的な提言も行なっている。現在、チベット仏教は中国支配と自身の現代化との間で岐路に立っていると言えよう。

2017年5月24日 (水)

仏教と政治―史的総覧(連載第32回)

十一 近代国家と仏教

社会主義体制と仏教
 近代になると、仏教も社会主義体制という新しい政治国家と直面する段階を迎えた。その最初の好例は、世界で二番目―アジアでは最初の―社会主義国家となったモンゴルである。
 中世にチベット仏教国として確立されたモンゴルの近代は、チベット出身の活仏ボグド・ハーンを戴く立憲君主制国家として始まったが、間もなくロシア革命の影響を受けた社会主義勢力が台頭し、最後のボグド・ハーンとなったジェプツンダンバ・ホトクト8世の逝去を機に社会主義共和制へ移行したのであった。
 その後、人民革命党社会主義体制下でもしばらく仏教は保護されていたが、1930年代、スターリンのソ連と衛星同盟した独裁者チョイバルサンの下、大々的な仏教弾圧が開始された。この時、3万人以上と言われる僧侶が殺戮される大粛清が断行され、仏教寺院は閉鎖された。
 仏教には「神」の概念はなく、社会主義的な無神論と両立できる面もあるが、当時のスターリン主義体制下ではそうした細密な考慮はなされず、宗教=反革命という定式の下、非弁証法的な仕方で仏教が否定されたのである。モンゴルで仏教が復興したのは、社会主義体制の抑圧がある程度緩和された1970年代のことであった。
 同様の事態は、共産党支配体制が確立された中国でも起きた。中国でも当初は1953年に設立された中国仏教協会を翼賛的な仏教団体として仏教が一定保護されたが、1960年代の文化大革命の時期、仏教は反革命的と断罪され、寺院は破壊の標的とされた。
 しかし、中国の場合は中国仏教そのものの弾圧に加え、後に改めて触れるチベット民族問題が絡み、チベット仏教への弾圧が激しく行なわれ、多くのチベット僧侶が迫害・殺戮された点で、二重構造的な弾圧政策であった。
 毛沢東の死没と文革終了後、その誤りが公式に認められると、中国仏教協会の指導下に仏教の復興がなされ、文革期に破壊され、荒廃した寺院の再建などの事業が行なわれたが、あくまでも共産党体制が許容する範囲内での活動である。
 他方、仏教と社会主義を対立させず、上座部仏教思想に基づく社会主義を指向したのが1950‐60年代のカンボジアとビルマであった。カンボジアではシハヌーク国王が王制の枠内での仏教社会主義を提唱した。また60年代に軍事クーデターで政権を掌握したネ・ウィンが提唱した「ビルマ式社会主義」もその系譜に含まれる。
 これら仏教社会主義体制は新奇ではあったが、内実に乏しく、カンボジアでは70年代に狂信的な大虐殺を断行する共産党の台頭を防げなかった。ビルマ式社会主義はネ・ウィン独裁体制の代名詞と化し、その民主化運動による崩壊は軍事独裁政権の反動を招いた。

2017年4月26日 (水)

仏教と政治―史的総覧(連載第31回)

十 東南アジア諸王朝と仏教

タイ系諸王朝と仏教政治
 現在、東南アジアで仏教と政治の関係が最も密で、上座部系仏教政治の「大国」と言えるのはタイであるが、元来は精霊信仰が盛んだったタイ族の仏教受容過程については記録が少なく、不明な点が多い。
 少なくとも、仏教が国教的地位になったのは周辺諸国と比べて決して早かったわけではなく、おおむね14世紀のことである。それには、二つの王朝的流れがあった。一つはタイ中心部に成立した王朝スコータイ朝、もう一つはタイ北部に成立したラーンナー朝である。
 後者はチェンマイを中心に栄えた王朝であるが、先住のモン族の影響を受け、上座部仏教を導入した。特に14世紀中葉の第5代パーユー王の頃から仏教を積極的に保護するようになった。しかしラーンナー朝は16世紀後半以降はビルマの支配に下り、短い復興後は後述チャクリー朝に吸収されていく。
 前者のスコータイ朝では元来その支配を受けてきたクメール王朝の影響下に上座部仏教が浸透したと考えられるが、仏教が本格的な国教的地位を確立するのはさらに下り14世紀後半、第6代リタイ王代であった。この頃の王朝は南に成立した同じタイ族系アユタヤ朝やタイ族の分派とも言えるラーオ族が建てたラーンサーン朝のような後発諸国の台頭により圧迫されていた。
 そこで、リタイ王は王朝建て直しのため遷都するとともに、仏教を国家の精神的支柱に据え、自ら出家して仏教に帰依した。「仏法王」を称したリタイ王は仏教書を執筆するほど仏教の普及に尽くした。彼はまた上座部仏教の聖地であるセイロンから高僧を招聘して寺院の長に据え、タイ仏教の中核となるサンガ制度の土台を築いた。
 こうしたスコータイ式仏教政治はライバルのアユタヤ朝やラーンナー朝、ラーンサーン朝にも伝わり、同様の仏教政治が導入される。スコータイ朝はリタイ王の努力にもかかわらず衰退を続け、15世紀前半にはアユタヤ朝に吸収された。そのアユタヤ朝も上座部仏教国ながら、クメール王朝の影響も強く、ヒンドゥー的な色彩も帯びていた。
 18世紀、ビルマのコンバウン朝によって破壊され、滅亡したアユタヤ朝の後、一代限りのトンブリー朝を経て成立し、今日まで続くチャクリー朝においても仏教政治の基本は継承されたが、19世紀、重要な改革が二代にわたる王によって加えられる。
 最初はラーマ4世によるサンガの規律強化であり、この時に厳格な戒律をもって統制された新サンガのタンマユット僧団と旧来のサンガであるマハー僧団の二大サンガの対抗状況が生じた。
 続くラーマ5世による大規模な社会改革では、サンガ法を通じたサンガの宗教法人化と全僧侶の僧籍編入という国家管理政策が導入された。この画期的な改革により、タイ仏教は国家の保護統制下に置かれるようになった。
 その後、タイは周辺諸国とは対照的に西洋列強の植民地支配を免れたため、キリスト教宣教というお決まりの改宗干渉を受けることなく社会に深く定着し、タイの国家・社会の上部構造的支柱として確立されていった。
 大僧正(ソムデートプラサンカラート)を頂点とするサンガ制度は20世紀の立憲革命を経て、法的に変遷を重ねており、特にタイ近代政治を特色づける歴代軍事政権はサンガの統制管理をめぐり、しばしばサンガと微妙な関係に立つとともに、サンガ自体の腐敗も指摘される。
 なお、タイと民族文化的に近縁なラオスについても言及すると、先述ラーンサーン朝も全盛期を作った16世紀のセーターティラート王代には国章ともなっている仏塔タート・ルアンの建立がなされるなど仏教国として栄えたが、同時にアニミズム信仰も根強く、仏教と混淆していた。
 ラーンサーン朝は17世紀末に王位継承をめぐって三分裂し、18世紀後半にはトンブリー朝、続いてチャクリー朝の支配に下った後、仏泰戦争の結果、19世紀末にフランスの保護国として実質的な植民地に編入された。そのため、この先、ラオス仏教はタイ仏教とは大きく運命が分かれる。
 第二次世界大戦後の独立、インドシナ戦争を経た1975年の革命後、ラオスはマルクス‐レーニン主義国家となり、標榜上は無神論体制であるため、仏教と政治は分離されたが、なお国民のおよそ70パーセントは仏教徒とされる。

2017年4月 9日 (日)

仏教と政治―史的総覧(連載第30回)

十 東南アジア諸王朝と仏教

ビルマ諸王朝と仏教の定着
 ビルマ(ミャンマー)は最大勢力のビルマ族をはじめ多民族がひしめく地域であるが、宗教的には早くからほぼ仏教で統一されていた。ビルマ最初の統一的な王朝は、現代ミャンマーでは少数民族であるモン族が建てたタトゥン朝であった。タトゥン朝はスリランカとも交易をしたため、スリランカの上座部仏教が早くから伝播した。
 他方、タトゥン朝では大乗仏教系のアリー僧団と呼ばれる俗化した密教団が浸透し、王権を凌ぐと言われるほどの権勢を張った。この状況を変えたのは11世紀、ビルマ族初の王朝パガン朝を建てたアノーヤターである。軍閥出身の彼は自身、大乗系の信仰を持ちながら、アリー僧団を解体したうえ、あえて上座部仏教を国教の地位に据えた。タトゥン朝の基盤を解体するうえでは有利と見たためだろう。
 こうしてパガン朝は上座部仏教国となったが、実際のところは大乗仏教のほか、密教、ヒンドゥー教も混在していた点ではカンボジアと大差はなかった。ただ、王侯貴族は来世の冥福のため、競って寺院建立を行なったため、パガン朝下では壮麗な寺院仏塔が数多く出現し、今日に至るまで優れた仏教建築として残されているところである。
 その後、パガン朝で形成された仏教諸派は王権の支持を背景に国内外で広く伝道活動を進め、東南アジアで広く在家信徒を増やし、この地域に上座部仏教を浸透させるうえで大きな力を持った。
 しかし、王朝後期には再び俗化した密教団アラニャ僧団が勢力を広げ、広大な寺領を手中にするようになり、道徳的にも退廃した。王朝もモンゴル帝国の侵攻を受け、14世紀初頭には滅亡する。その後、ビルマでは諸民族の興亡が続くが、いずれも基本的に上座部仏教系の国である。
 ビルマ族が王権を奪回したのは、16世紀初頭のタウングー王朝からである。他方、今日のラカイン州にはビルマ族と近縁なラカイン族が15世紀に建てたやはり上座部仏教系アラカン朝があるが、この王朝も多くの仏教建築を残している。
 アラカン朝はイスラーム圏との交易も行い、イスラーム教にも寛容であったため、領内には従者、傭兵、商人等として定住したムスリムもあり、宗教的には融和されていたが、続くコウバウン朝による征服の後、ムスリムたちは隣のベンガル地方へ集団移住した。
 タウングーとアラカンの両王朝は18世紀にビルマ族の一首長であったアラウンパヤーが建てたコンバウン朝によって順次滅ぼされる。コンバウン朝も引き続き上座部仏教を擁護し、アラウンパヤーの四男で第6代国王ボードーパヤーは僧団の統合を進めて、統一僧団を設立した。
 彼の時代以後のビルマは上座部仏教の理論的中心地となり、仏教が閉塞していた上座部仏教先行地のスリランカへと逆輸入され、仏教復興を刺激するほどになった。
 しかし、英国によるビルマ侵略が進むと、キリスト教が浸透し始め、仏教界も分裂してきたため、1871年に第五回結集が当時の王都マンダレーにて開催された。しかし、86年にビルマ全土が英国の手に落ちて以降、植民地政府は世俗主義を採用しつつ、民衆にはキリスト教宣教師による改宗というお決まりの流れが生じた。
 英領インドに編入された英国植民治下、仏教僧の中には独立運動に関与する者もあったが、カンボジアほど急進化はせず、レディ僧院を創立したサヤドー師のように政治とは距離を置きつつ、独自の仏教哲学を深め、教宣に当たる高僧を輩出するようにもなったのが近代ビルマ仏教の特徴である。

2017年3月12日 (日)

仏教と政治―史的総覧(連載第29回)

十 東南アジア諸王朝と仏教

カンボジア王朝と仏教の変遷
 今日の東南アジアで仏教徒の割合が特に高いのはカンボジア、タイ、ミャンマーの三国で、いずれも九割を越える圧倒的な仏教優勢国である。その仏教はいずれも上座部系で共通している。ただ、仏教伝来のルートや態様には相違がある。
 実際のところ、上記三国に先立って仏教が伝来したのは今日では圧倒的にイスラームが優勢なインドネシア地域であり、5世紀にはスマトラ島に伝来したと言われる。そして7世紀から14世紀にかけてのシュリーヴィジャヤ王国が大乗仏教を信奉したほか、8世紀から9世紀にかけてのジャワ島のシャイレーンドラ王国も同様であったが、15世紀以降この地域の諸国は順次イスラーム教に改宗されていく。
 冒頭の三国中で最も早くに仏教が伝来したのはカンボジアであった。カンボジアが仏教国となるまでの経緯は複雑である。まずカンボジアには6世紀から9世紀にかけてクメール人王国真臘が存在した。真臘はカンボジアからベトナムにまたがって存在していた扶南国の属国からスタートしたため、ヒンドゥー教と仏教が並存していた扶南国の影響を強く受けていた。こうしたヒンドゥー‐仏教並存体制は以後しばらくはカンボジアの基調となる。
 真臘国は8世紀後半から9世紀初頭まで前記シャイレーンドラ王国の侵略・占領を受けたが、シャイレーンドラ王朝は大乗仏教を信奉し、世界最大級の仏教遺跡であるボロブドゥール大寺院を建造した。そこから独立して建国されたカンボジアのアンコール王朝は基本的にヒンドゥー教国家して出発するが、大乗仏教の影響も受け、大乗仏教が第二宗教的な位置を占めるようになった。
 転機となるのは、1181年に即位したジャヤーヴァルマン7世の治世である。彼はベトナム中部にあったヒンドゥー教国家チャンパ王国との戦争で荒廃した時期に即位し、復興を担った。その際の平和国家の理念として大乗仏教を置いたのであった。その点では、古代インド・マウリヤ朝のアショーカ王とも類似している。
 ジャヤーヴァルマン7世はヒンドゥー教由来の「王は神の権化なり」とする統治理念を「王は転輪聖王(仏教における理想王)なり」とする仏教的な理念に置換して、仏教国治の支柱としたのである。その点では、モンゴル元朝のクビライとも共通するところがある。
 一代で王国の繁栄を築いたジャヤーヴァルマン7世は在位中多くの仏教寺院を建立したが、伝統のヒンドゥー教も排除することなく、バイヨンのようなヒンドゥー‐仏教習合的な宗教施設も建設している。また彼はタマリンダ王子をスリランカに留学させ、当地の上座部仏教を学ばせた。
 王子が帰国後、カンボジアに上座部仏教を普及させて以降、カンボジアでは貴賎を越えて広く上座部仏教が浸透し、社会総体を仏教化する契機が開かれたのである。これはカンボジアでは上座部仏教が極めて階級横断的な形で布教されたためと言われる。
 ジャヤーヴァルマン7世の没後、アンコール朝は衰退し、モンゴルの侵攻を受けた13世紀のジャヤーヴァルマン8世の治世では廃仏・ヒンドゥー回帰の政策が採られたが、1295年にクーデターで王位を簒奪した娘婿のインドラヴァルマン3世は自ら信奉していた上座部仏教を改めて国教に据えた。
 これ以降、カンボジアは上座部仏教国として定着したが、国はタイやベトナムの侵略を受けるようになり、15世紀前半に首都アンコールが陥落して以後は都を転々とする流浪の歴史となる。この先、19世紀後半にフランス植民地となるまでの数百年間はカンボジア史において「暗黒時代」と呼ばれる閉塞の歴史であった。
 この長い閉塞の時代、とりわけたびたび侵略したタイの影響力が増大し、19世紀にはタイ流上座部仏教の二大教団の一つで後発のタンマユット僧団がカンボジア王室の庇護の下に拠点を築き、マハー僧団との対立を引き起こすことになる。
 なお、フランス植民地治下でベトナムやラオスとともに仏領インドシナに併合されたカンボジアでは、仏教僧ないし仏教主義者による聖戦的な反仏闘争が展開され、仏教は独立闘争のシンボルともなったところである。

2017年2月22日 (水)

仏教と政治―史的総覧(連載第28回)

九 モンゴルの崇仏諸王朝

清朝支配下モンゴルと仏教
 モンゴル本国に当たるモンゴル帝国はオイラト帝国に先立って17世紀前半には衰微した。1603年に即位したリンダン・ハーンは帝国再建を目指して精力的に動いたが、その強権支配が諸部族から反発を招くとともに、新興の女真族系後金(清)の圧迫も強まっていた。
 1634年、リンダン・ハーンがチベット遠征の途上で病死すると、後金軍の侵攻を受け、リンダンの遺子エジェイは元朝以来の玉璽を後金に譲渡し、その支配に下った。ここに、モンゴル帝国は正式に終焉した。
 18世紀まで続いたモンゴル亜種のオイラト帝国も、前回見たように、1755年には清に下ったため、これ以降、モンゴルは総体として清朝の支配下に編入されることとなった。清朝支配下モンゴルで有力化してきたのは、ハルハ部であった。
 ハルハ部は代々ハーンを輩出してきたチンギス・ハーン裔とは異なる傍系部族であったが、モンゴル中興の祖ダヤン・ハーンによる部族再編に際し、ダヤンの息子が婿入りして有力部族となった。ハルハはモンゴル帝国滅亡後、清といち早く朝貢関係を結び、オイラトから圧迫された際も援助を受けることができた。
 ハルハ部もチベット仏教に帰依したが、他の部族と異なるのは独自の活仏制度を持ったことである。その初代はハルハ有力部族長の息子ジェプツンタンパ1世であった。彼は幼くして出家し、チベットに留学、ダライ・ラマ5世よりチベット高僧チョナン・ターラナータの転生者として認定され、帰国した。彼はまた、清の康熙帝からもホトクト大ラマの称号を得て、ハルハの宗教的・政治的権威を承認された。
 以後、ジェプツンタンパ・ホトクトはモンゴル系活仏の名跡として継承されていった。ただし、清はモンゴル勢力がジェプツンタンパの下に再び糾合されることを警戒し、3代ジェプツンタンパ以降はチベット人を認定するよう策したため、モンゴル人ジェプツンタンパは最初の二代までであった。
 チベット人活仏を戴く新たな神権体制はモンゴルに根づき、20世紀の辛亥革命で清が滅亡する直前の1911年、モンゴル有力者らは時のジェプツンタンパ8世を元首ボグド・ハーンに擁立して清から独立した。
 この神権君主制ボグド・ハーン体制は近代モンゴル揺籃期を主導し、1913年には遅れて独立を目指していたチベットのダライ・ラマ体制と相互承認条約を結んで、チベット仏教を紐帯とするモンゴル‐チベット連携の構築を目指した。
 しかし、ボグド・ハーン体制は中国の辛亥革命とロシア革命を受けた地政学的変動に翻弄されて独立国家としての地位を確保できず、ロシア革命の余波から社会主義運動が高まる中、1924年のジェプツンタンパ8世死去を受け、世俗社会主義体制に転換された。

2017年2月 2日 (木)

仏教と政治―史的総覧(連載第27回)

九 モンゴルの崇仏諸王朝

オイラト王朝とチベット仏教
 元朝撤退後のモンゴルにあって、最も熱心なチベット仏教徒となったのはモンゴル族の亜族とも言えるオイラト族だった。かれらはモンゴル西部を本拠地とし、元はテュルク系とも言われるが、チンギス・ハーンに服属して以来、チンギス家の姻族として定着し、実質上はモンゴル族と変わらなくなった。
 オイラト族は15世紀以降、いくつかの部族に分かれてモンゴル本族に対抗する大連合を組むようになったが、モンゴルのハーンはチンギス末裔に限るという継承原理に阻まれ、15世紀に初めてオイラト族から出たエセン・ハーンも一代限りで滅ぼされた。
 そうした中、17世紀にはオイラト族ホシュート部が有力化し、部族長トゥルバイフ(グーシ・ハーン)が帰依していたゲルク派のダライ・ラマを擁してチベットを征服、グーシ・ハーン王朝を立てたことは以前にも触れたところである。このオイラト系チベット王朝は5代80年ほど存続した。
 一方、グーシ・ハーンはチベット遠征に同行させていたオイラト族ジュンガル部族長ホトゴチンに娘を嫁がせたうえ、バートル・ホンタイジの称号を与えてオイラト本拠地の統治を委ねた。ここに、ジュンガル部が治める強力なオイラト系遊牧国家ジュンガル帝国が発足した。
 ジュンガル帝国ではバートル・ホンタイジの没後、内乱に陥り、1672年にはバートルの子センゲが異母兄らに殺害されたが、弟のガルダンが決起し、敵を討伐して新たなジュンガル部族長に就任した。これが母方からグーシ・ハーンの孫に当たるガルダン・ハーンである。
 ちなみに、グーシ・ハーンにせよ、ガルダン・ハーンにせよ、本来チンギス末裔のみが名乗れるハーン称号をいずれもダライ・ラマ5世から授与されており、オイラト族とチベット仏教ゲルク派との結合の強さが窺える。
 ガルダン・ハーンは少年時代、さる高僧の転生と認定されたことから、チベットに留学し、ダライ・ラマ5世の下で学んだが、その後帰国・還俗したのであった。こうした緊密な師弟関係から、後にガルダン・ハーンが対立したホシュート部を討伐すると、ダライ・ラマ5世はガルダンに「持教受命王」の称号を授与した。
 これ以降、オイラト族ではジュンガル部が盟主格となり、ガルダン・ハーンは周辺勢力の征服を精力的に進め、中央アジア全域に及ぶ大帝国を一代にして築き上げた。しかし、その権勢は長く続かなかった。清と結ぶモンゴル族ハルハ部に介入して清朝とも対立したことがあだとなり、1696年、清軍に攻め込まれて敗北、敗走・潜伏中に病死してしまう。
 ガルダンの死後は兄センゲの子孫が部族長を継いでいき、1717年にはグーシ・ハーン王朝を一時征服するが、間もなく衰退し、最終的に1755年、清によって滅ぼされ、清の支配下に入った。以後、モンゴル系遊牧帝国は二度と再生することはなかったが、モンゴルとチベット仏教の結びつきは恒久的なものとなったのである。

2017年1月15日 (日)

仏教と政治―史的総覧(連載第26回)

九 モンゴルの崇仏諸王朝

モンゴル帝国と仏教
 モンゴル人の原宗教はアニミズムだったが、強大化し、中国大陸を支配するうえで、中国的宗教を利用する実益を認識したようである。そこで、初めは先行のモンゴル系大国・金の治下で隆盛化した道教を実質的な国教としたが、結果として華北を中心に栄えていた仏教との宗教対立をもたらした。
 そこで、モンケ・ハーンの治世以降たびたび道教・仏教間での問答会が開催された結果、道教は敗れ、仏教に軍配が上がった。当初は中国で盛んな禅宗が保護を受けたが、この流れを変えたのは、前章でも触れたように、チベット仏教サキャ派高僧パクパ(パスパ:モンゴル読み)がクビライ・ハーンにより帝師の称号と権限を付与されたことを契機とする。
 元来、パクパは1240年に時のオゴデイ・ハーンが王子コデンを派遣して行なったチベット征服戦を食い止めるため、おじの座主サキャ・パンディタに随行してモンゴル帝国との交渉に赴いた人物である。その時、まだハーンに即位する前のクビライの知己を得てその側近となり、そのままモンゴルにとどまったのであった。
 帝師となったパクパにはおじを継承するチベットにおける政治宗教的権威とともに、モンゴル帝国全体の仏教統制権も付与された。同時に、クビライを古代インドの理想王たる転輪聖王に擬してその個人崇拝的な支配の強化にも寄与した。
 これにより、チベット仏教はモンゴル帝国・元朝全体の実質的な国教の地位を占めた。とはいえ、モンゴル帝国の宗教政策は開放的であり、敗退した道教も弾圧は受けず、儒教も保護されたし、イスラーム教・キリスト教も流入を阻止されることはなかった。
 しかしモンゴル皇室はチベット仏教に染まり、歴代皇帝や皇族が傾倒し、信仰に濫費するなどの失策により財政難をきたすようになり、元朝衰微の一因となったとされる。
 実際のところ、14世紀に入ると、モンゴルのチベット仏教はパクパを祀る帝師殿の建立やパクパの塑像の製作などの偶像崇拝的なものへ変質していた。やがて14世紀末に元朝が中国大陸を撤退し、本拠地モンゴル高原で北元として縮小されると、隆盛を誇ったチベット仏教も一時衰退していったと見られる。
 モンゴルで再びチベット仏教が再生されたのは、16世紀、時のモンゴル最高実力者アルタン・ハーンがチベット仏教ゲルク派高僧であったスーナム・ギャツォにダライ・ラマの称号を贈った時以降である。
 アルタン・ハーンはモンゴル再興の立役者であったダヤン・ハーンの孫に当たり、自身は正式のハーンではなかったが、祖父の死後、再分裂していたモンゴル勢力を束ねた。彼がチベット仏教に帰依したことで、モンゴル有力者の間で再びチベット仏教信仰が浸透したとされる。
 ちなみにダライ・ラマ3世のスーナム・ギャツォを継いだダライ・ラマ4世ユンテン・ギャツォはアルタン・ハーンの曾孫に当たり、歴代ダライ・ラマ中で唯一のモンゴル人として、ゲルク派とモンゴルの結びつきを強化したが、チベット仏教政治の混乱に巻き込まれ、若くして不審死を遂げている。

2016年12月24日 (土)

仏教と政治―史的総覧(連載第25回)

八 チベット神権政治

ダライ・ラマとシャブドゥン
 チベットでは、モンゴル系オイラート族グーシ・ハーンが樹立した王朝(グーシ・ハーン朝)の下、ゲルク派最高指導者ダライ・ラマの地位が確立され、ダライ・ラマを事実上の君主として戴くガンデンポタンがチベットの新たな神権統治機関となる。
 ところで、ダライ・ラマとはゲルク派において観音菩薩の生まれ変わりたる化身僧とされ、世襲によらず、民間から該当する児童を発見・養成する転生継承という制度を採る。このような制度はカギュ派が創始したが、対立宗派であるゲルク派でも踏襲されたものである。
 ダライ・ラマの称号は元来、元朝崩壊後の16世紀にモンゴル勢力最高実力者となったアルタン・ハーンがチベット仏教に帰依するに際してゲルク派転生僧スーナム・ギャツォに贈った称号に由来する。スーナム・ギャツォは自らをダライ・ラマ3世とみなし、初代及び先代転生僧に1世と2世を追贈したことで、継承称号として確立した。
 グーシ・ハーン朝が成立した時のダライ・ラマは5世であった。彼は学僧として優れていたのみならず、統治者としても手腕を持ち、グーシ・ハーンの没後、王朝が弱体化する中、聖俗両面でのチベット支配を固めていった。
 しかし、5世の遺言により10年以上その死が秘匿された後に即位した次の6世が自堕落な人物として廃位されると、後継者をめぐりグーシ・ハーン朝内部で権力闘争が生じたことを契機に、王朝は急速に衰退し、1717年にはオイラト本国に当たるジュンガル帝国により攻められて実質上滅亡、最終的には中国大陸の支配者となっていた満州族系の清朝によって征服され、終焉した。
 時の清朝雍正帝はチベット分割という植民地支配的な政策を導入し、ダライ・ラマのガンデンポタンは西南部に限局された。ただし、清朝はダライ・ラマ5世の時代からチベットと交流があり、5世が時の順治帝に与えた「文殊皇帝」の称号が歴代継承されていた。
 こうしたチベット仏教尊重政策はチベット分割後も基本的に継承され、清朝皇帝は新たに支配下に入ったチベット民族に対しては「文殊皇帝」として君臨し、ガンデンポタン地域ではダライ・ラマの権威を承認する態度を採ったのである。
 一方、チベット南部の延長域ブータンの事情は相当に異なる。ここではカギュ派のガワン・ナムゲルを戴く政権が成立したことは前回見たが、ガワン・ナムゲルもゲルク派ダライ・ラマと同様に転生僧であり、初代シャブドゥンを称した。
 これ以降、ブータンではシャブドゥン制度が定着するのではあるが、1651年のガワン・ナムゲルの没後、次期シャブドゥンの選定を巡る争いを防ぐべく、ブータン有力者らは半世紀以上も初代の死を伏せたうえ、死亡事実公表後はシャブドゥンを身体・精神・言説の三者に分割するという策を敷いた。
 このうち、身体シャブドゥンは早くに絶え、精神と言説の二大シャブドゥンの系譜だけが残された。しかし、これはシャブドゥンの権威の低下につながり、ブータンではダライ・ラマのガンデンポタンに相当するような統一的神権体制は成立せず、20世紀初頭に今日まで続く世俗的なワンチュク朝が成立するまで、豪族の割拠状態が続いた。

2016年12月 3日 (土)

仏教と政治―史的総覧(連載第24回)

八 チベット神権政治

神権体制の創始
 チベットで確立される独特の神権体制の起源は、吐蕃王朝滅亡後、13世紀にモンゴルの侵攻を受けたことにあった。当時のチベットでは、分裂状況の中、有力氏族ごとの仏教系宗派集団が形成される傾向にあった。
 そうした中、中央チベットのツァンを本拠とするコン氏族系のサキャ派教団が有力化しており、同派4代座主サキャ・パンディタがモンゴルからチベット主要地域の政治的権限を付与されたことで、モンゴル帝国を後ろ盾とするサキャ派政権が成立した。
 続く5代座主のパクパはモンゴル皇帝クビライ・ハーンからチベットの政治的・宗教的権威とともに、初めてモンゴル帝国の最高宗教権威である帝師の称号を与えられた。これによって、モンゴルとチベットがチベット仏教を国教として共有する関係が形成された。
 この仏教を軸としたモンゴル‐チベット体制はモンゴル主導という点では属国関係であったが、宗教上はチベット側が守護者の立場に立つある種の神聖同盟であった。しかし14世紀以降、モンゴル帝国の衰退はチベットにも大きな余波を及ぼす。
 14世紀半ばには、密教的色彩の強いカギュ派分派のパクモドゥパ派が台頭、クーデターによりサキャ派政権を打倒して、中央チベットを掌握した。パクモドゥパ政権は元朝崩壊後、独立を回復するも、15世紀後半、座主家外戚のリンプン家が実権を掌握して、リンプン家体制が出現するが、これも長持ちせず、同家家宰ツェテン・ドルジェが政権を簒奪し、ツァントェ王を称して王国を樹立した。
 この歴代ツァントェ王による世襲のツァンパ政権はカギュ派分派カルマ派に依拠したが、神権体制というより、旧吐蕃王朝のような世俗王朝に近いものであったが、これも100年は持たなかった。17世紀前半、モンゴル高原西部を本拠とするモンゴル系オイラト族がグーシ・ハーンの下に台頭し、チベットに侵攻、ツァンパ政権を打倒したからである。
 この時代のチベットでは15世紀に学僧ツォンカパが開いた後発宗派ゲルク派が勢力を伸ばしており、グーシ・ハーンはゲルク派信者であったことから、彼は同派最高権威ダライ・ラマ5世を擁立し、新たな神権体制を立てたのである。
 一方、チベット南部の延長域とも言えるブータンでは、13世紀にチベットから伝わったカギュ派分派のドゥク派が普及していたところ、17世紀初頭、チベットのツァンパ政権が介入した内紛に敗れ、ドゥク派座主を追われたガワン・ナムゲルが現在のブータン地域に入り、亡命政権を立てた。
 これを認めないツァンパ政権、さらにその後のダライ・ラマ政権もガワン・ナムゲル政権をたびたび攻撃するが、ガワン・ナムゲルはこれらを撃退し、1651年に没するまで独自の神権体制の建設を進めた。

より以前の記事一覧

2017年6月
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30