私家版朝鮮国王列伝[増補版]

2017年4月20日 (木)

私家版李朝国王列伝〔増補版〕(連載第8回)

八 燕山君・李㦕(1476年‐1506年)

 9代成宗が1494年に死去した後を継いだのは、18歳の世子李㦕であった。年齢的に見て大妃の後見が必要なはずであったが、生母尹氏は去る82年に賜薬を下され、処刑されていた。
 弱小両班の生まれながら成宗の寵愛を受けた王后尹氏は性格と素行に問題があり、呪詛事件を起こして降格されたうえ、尹氏のもとを訪れた成宗の顔面をひっかくという前代未聞の粗暴な不敬の罪により処刑に至ったのだった。この賜死事件が、燕山君の治世に大きな影を落とすことになる。
 即位当初こそ父王時代の施策を継承し安定した治世だったが、父王の時代に登用されるようになった士林派に対して、勲旧派の巻き返しが始まる。彼らは未熟な王を唆して士林派の追い落としを狙った。そのため、燕山君の治世では度重なる士林派弾圧が実行された。だが、弾圧は次第に相手を選ばぬものに変わっていく。
 決定的だったのは、1504年の甲子士禍である。この事件は、国王側近が生母尹氏の死の経緯を王に吹き込み、その死に関わった人物の大量検挙・処罰を断行させた事件であり、弾圧対象は士林派を越えて一部勲旧派にも及び、尹氏賜死を主導した燕山君の祖母仁粋大妃すら糾弾され憤死するほどであった。
 これらの弾圧事件は王自身が主導したというより、若い王を唆して政敵の排除を図ろうとする一部側近者らの画策によるものであり、ここには後見役を持たない若年君主の弱点が現われている。
 結果として多くの有為の人材が失われ、朝廷では姻戚や宦官が跋扈するようになった。とりわけ、賎民出身ながら芸能に優れていたため、燕山君に寵愛された後宮の張緑水は政治的にも権勢を持つようになり、その親類も栄進した。
 一方、燕山君は政務を放擲して女性たちとの遊興に耽るようになり、高麗王朝時代からの高等教育機関である成均館すら遊廓に変えてしまうほどであった。諫言する重臣は処刑され、もはや手に負えない乱心の暴君であった。
 そうした中、ついには勲旧派でさえ危機感を抱くようになり、1506年、クーデターが実行される。孤立無援状態にあった王はあえなく廃位され、江華島へ配流された。燕山君に封じられたのはこの時であり、後世の追贈を含めて廟号を持たない最初の李朝国王となった。
 このクーデターでは燕山君の側近者や先の張緑水のほか、王子も全員処刑されるという徹底した燕山君系統根絶が図られた。燕山君自身も配流からわずか二か月にして30歳で急死している。公式には病死とされているが、タイミング的には疑念もある。
 病的な燕山君の治世は李朝体制にとって一つの転機であり、これ以降、李朝ではしばらく英主を欠き、求心力を喪失した朝廷では重臣らが党争を繰り広げる動揺の時代に突入していく。


§6 宗材盛(1457年?‐1507年)

 宗材盛〔きもり〕は燕山君とほぼ同世代で重なる宗氏当主であった。偽使を用いた朝鮮通交を拡大したやり手の父貞国から家督を継承した材盛は父の政策を継承したと思われるが、時代は応仁の乱を経て戦国時代に入ろうとしていた。
 九州辺境地対馬でもその波を避けることはできなかったと見え、材盛の頃から下克上的な動きが見られる。それは、材盛が1501年に代官(事実上の守護代)に任命した一門の宗国親の権勢が増大したことである。材盛は最晩年には息子義盛に家督を生前譲与していたと見られるが、その頃には国親による領主権の侵食が顕著になっていた。そのことが、材盛死から三年後の日朝紛争・三浦の乱にもつながる。

2017年3月16日 (木)

私家版李朝国王列伝[増補版](連載第7回)

七 成宗・李娎(1457年‐1495年)

 7代世祖の早世した長男義敬世子の子である9代成宗は8代睿宗が幼児を残して死去した後、祖母慈聖大妃の主導で年少にして王位に就き、成長した76年までは大妃の垂簾聴政を受けた。この時期には世祖時代からの重臣申叔舟などの旧勲派長老と姻戚が政治を采配していた。
 76年に親政を開始すると、成宗は旧勲派を遠ざけて、新興の科挙官僚集団(士林派)を重用するようになった。彼らはこの頃儒学の理論武装により実力をつけてきた地方の在郷両班層から出た官僚であり、言わば新興中産階級であった。
 このような新旧の派閥形成は専ら成宗没後に巻き返しを図る旧勲派との間の党争の原因となるのだが、さしあたり成宗の時代は、世宗以来の英君の声望高い成宗の善政が敷かれ、垂簾聴政期を含めて25年に及ぶ久々に安定した長期治世となった。
 成宗時代は世宗時代同様に文教政策が充実し、文化的には李朝の黄金期を画した。世祖時代の陰謀事件に巻き込まれ、廃止されていた集賢殿に匹敵する王立研究機関弘文館も新たに設立されている。
 特に注目されるのは、地理学の発展である。すでに垂簾聴政期に、世宗時代の朝鮮通信使の一員として訪日経験を持つ申叔舟に命じて日本と琉球の地誌として史料的価値の高い『海東諸国紀』を公刊させたほか、親政期にも全五十巻に及ぶ朝鮮地理書『東国輿地勝覧』を編纂させている。
 こうした内外地理への関心は国土の確定を示すとともに、法制度面でも未完だった『経国大典』を最終的に完成・公布した成宗時代は、李朝体制がようやく名実ともに完成した時代と言えた。
 王があと20年ほど長生していれば、この後、再び体制を動揺させることとなる政治混乱は避けられていたかもしれなかったが、短命者が少なくない一族の遺伝的体質からか、成宗は95年、38歳にして死去し、王世子にして李朝史上最悪のトラブルメーカーとなる燕山君が即位する。


§5 宗貞国(1422年‐1495年)

 宗貞国は先々代貞盛の甥に当たるが、先代成職の養子となって後を継いだ。従って、貞国以降、宗氏の系統は実質上交替したと言ってよい。なお、貞国の実父盛国は大内氏との戦いで敗死し、すでに亡かった。
 45歳を過ぎての家督継承となった貞国には、弱体であった先代成職が積み残した家内的にも外交的にも難題が待っていた。家内的課題は先代時代に分裂していた宗一族再統一であったが、貞国はこれを解決し、一族再統一を成し遂げた。
 外交的課題は宗氏の生命線である朝鮮王朝との通商関係であったが、貞国はこれをライバル関係にあった博多商人及び大内氏双方と連携することで強化するという巧みな政略を確立したのだった。それを可能にしたのは1469年(応仁三年)の将軍足利義政の命による筑前出兵であった。
 これは本来大内氏牽制を目的とし、宗氏の主家筋少弐頼忠を擁して行なわれた軍事作戦であったが、上記の朝鮮側史書『海東諸国紀』によれば、貞国は頼忠とある雪中作戦をめぐり不和になり、間もなく対馬へ帰還してしまったという。そこへ大内氏が貞国抱き込みを図り、宗‐大内連携が成立したのである。
 一方、博多商人とは貞国の筑前出兵・博多進駐の際に連携関係が成立したと見られ、これによって貞国は二大ライバルと提携しつつ、新たな形態の偽使通交に道を開いた。新たな偽使通交とは、架空名義を使った偽王城大臣使通交である。本来は在京有力守護大名名義の王城大臣使通交を騙った偽使は先代の頃から宗氏の常套手段となっていたが、貞国の代では博多商人がこれに参加する形でより頻回に行なわれるようになった。
 しかし朝鮮側でもこうした偽装を見抜き、対策として1482年に室町幕府と協議のうえ、稀少な象牙製の割符をもって通交使節の査証を行う牙符制を導入した。これにより宗氏の偽使は大幅に抑制されるが、1493年の明応の政変を機に牙符は大内氏・大友氏の手に流出してしまう。
 この出来事は宗氏が偽使を再開するチャンスであったが、貞国はすでに政変の前年に家督を息子の材盛〔きもり〕に譲って隠居、政変の翌年には死去した。時代は戦国時代の入り口にさしかかろうとしていた。

2017年2月25日 (土)

私家版李朝国王列伝[増補版](連載第6回)

五 文宗・李珦(1414年‐1452年)/端宗・李弘暐(1441年‐1457年)

 世襲を基本とする君主制では、名君の長期治世の後に混乱が起きることは古今東西よくあることだが、世宗大王没後の李朝もその例外ではなかった。
 世宗は晩年健康を害していたため、存命中から長男の世子李珦が1442年以降、摂政として国政を代行するようになっていた。そのため、彼が50年の父王死去を経て円滑に王位を継承し、5代文宗となるが、文宗は不運にも在位わずか2年で病没してしまう。代わって、文宗の11歳の世子李弘暐が王位を継承し、6代端宗となる。
 しかし、年少のため、当然摂政を必要としたが、生母の顕徳王后は端宗を出産した直後に産褥死しており、後宮からの後見が期待できなかったため、父文宗は臨終の際に、世宗以来の重臣や学者に息子の補佐を遺言していた。ところが53年、文宗の弟で野心家の首陽大君(後の7代成祖)がクーデターを起こして、端宗側近団を殺害・排除し、実権を掌握した(癸酉靖難)。
 結果、首陽大君が集めた側近グループ(勲旧派)が国政を壟断し、55年には端宗を退位に追い込んだため、端宗は14歳にして上王の地位に退くことになった。しかし、57年、端宗の復位を図る六人の旧重臣(死六臣)を中心とした陰謀が未然に発覚すると、上王もこれに連座する形で魯山君に降格・追放のうえ、最終的に賜薬によって処刑された。
 こうして宮廷の策謀に巻き込まれ、わずか16歳にして処刑された悲劇の前国王魯山君は、没後241年後の1698年に至り、時の19代国王粛宗によって復位のうえ、端宗の廟号を追贈されたのであった。

六 世祖・李瑈(1417年‐1468年)/睿宗・李晄(1450年‐1469年)

 前述したように、世宗の次男首陽大君はクーデターによって甥の端宗を退位させて自らが7代国王に即位した。この経緯は後世、儒教的な道理に反する王位簒奪と解釈されるようになり、遠く17世紀末、19代粛宗の時に端宗の復位や「死六臣」の名誉回復もなされたのであった。
 とはいえ、当時としては世宗没後、不安定化した国政を強権をもって立て直したのは世祖であった。世祖の政策はほぼ父王のそれの継承発展であったが、クーデター政権の脆弱性を補強するためにも意識的に独裁的な恐怖支配を行なった。端宗復位事件に際しての関与者に対する残酷な拷問・処刑もそうした表れであった。
 独裁強化のため、父王の晩年に廃されていた国王による六曹直啓制を復活させ、王への権力集中を図った。一方で、いまだ完備されていなかった基本法典の整備にも注力し、吏典・戸典・礼典・兵典・刑典・工典の六典から成る「経国大典」の編纂を主導するが、さほど長くなかった治世の間に完成・公布されたのは戸典と刑典だけであった。とはいえ、これは民事と刑事に関する重要な法制度の整備を意味した。
 世祖は晩年、ハンセン病と見られる病気に侵され、死の前年には北辺の豪族・李施愛の反乱に見舞われるなど政情が不安定化する中、世子海陽大君に譲位したうえ、68年に死去した。在位13年余りと父世宗の半分にも満たない道半ばでの他界であった。
 後継者となった8代睿宗はまだ18歳と若く、母の貞熹王后が大妃(慈聖大妃)として摂政となり、勲旧派重臣とともに国政を主導した。朝鮮最初の垂簾聴政者となった慈聖大妃は首陽大君妃だった時にも夫を𠮟咤してクーデターを唆したと言われ、自らも政治に深く関与した女性であった。 
 しかし、睿宗政権は不安定化し、そのわずか1年余りの治世では筆禍事件や謀反事件などが立て続けに起こった。そうした中、睿宗は69年、19歳で死去してしまう。政情が再び安定に向かうのは、9代国王に擁立された世宗の早世した長男の子者山君が成長し、親政を開始した76年以降のことである。


§4 宗成職(1419年?‐1467年)

 名君が世を去った後、混乱が起きたのは宗氏側でも同じであった。宗氏の威信を大いに高めた貞盛が没した後は、嫡男成職〔しげもと〕が継ぐが、彼の時代、宗氏一族は結束を欠いた。
 その結果か―上述した朝鮮側の混乱もあったか―、1450年代になると、嘉吉条約適用外の深処倭(本土日本人)名義の朝鮮通交が多発している。そのため、朝鮮側は1455年にこれら深処倭の整理統制を宗氏に要求した。
 それでも深処倭名義通交は増発していくが、これは宗氏が名義借りや通行権譲渡の形で偽使として派遣したものと考えられている。こうした偽使を成職が単独で送っていたか、それとも宗氏関係者が個別に送っていたのかは不明である。
 成職時代の宗氏は、国内的にも後退があった。嘉吉の乱の首謀者・赤松満祐の弟則繁をかくまい、朝鮮逃亡を幇助したため、大内氏らの追討を受けた旧来の主家筋少弐教頼―成職の義兄弟―の筑前復帰を支援するも、大内氏に敗れた。
 結局、宗氏の再起は、成職が嫡男を残さず1467年(応仁元年)に没した後を継いだ従弟に当たる養子貞国の手に委ねられることとなったのである。

2017年2月 6日 (月)

私家版李朝国王列伝[増補版](連載第5回)

四 世宗・李祹(1397年‐1450年)

 前回太宗の項でも触れたように、世宗は先代太宗の三男であったが、世子だった兄が素行不良のため廃嫡されたことにより、入れ替わりで世子となり、太宗から生前譲位を受けて1418年、4代国王に即位した。
 世宗は上王として院政を敷いた父が死去した22年以降、親政を開始する。世宗の治績として最も著名なのは現代まで使用されているハングル文字の開発指導に代表される文教政策であるが、彼の治績はそれだけにとどまらず、多岐にわたっている。
 内政面では父が推進していた中央集権制の確立に努め、父の時代に作られた議政府(内閣)‐六曹(官庁)体制をいっそう集権化し、王が直接六曹に指揮命令できる直啓制を導入した(病弱化した晩年に撤回)。
 財政経済政策面では、銅銭・朝鮮通宝を発行して貨幣経済の普及を促進したが、銅銭1枚=米1升という高貨だったため、普及には至らなかった。また鉱業を統制し、明との朝貢貿易における貢納品である金・銀を朝鮮人参に改めるなど鉱山資源の管理に努めた。
 対外的には、太宗院政時代の対馬戦役の失敗を踏まえ、倭寇対策を対日友好関係の構築に求めた。その一環として在位中三度にわたる通信使を日本に派遣し、同時代の室町幕府と修好した。晩年には対馬領主の宗氏と通商協定を締結し、宗氏を被官に取り込むことで、日本側との仲介役とした。
 こうした平和外交の一方で、武力を用いた北方領土の拡張も積極的に行い、女真族支配地域への侵略戦争と占領地の入植・開拓による農地の拡大を推進した。
 こうした内政外交面の強化策を知的な面で支えたのが、積極的な文教政策であった。元来、世宗は王子時代から両親に心配されるほどの本の虫で、自身好学の君主であったことも文教政策への傾倒を促進したのであろう。
 ただ、このようなインテリ君主にありがちなこととして、世宗はイデオロギー統制にも熱心であった。すでに父の時代に始まっていた廃仏政策をいっそう強化し、寺院の閉鎖を強力に進めた。
 一方で、儒教・儒学を国教・国学として教化するべく、形骸化していた王立学問所・集賢殿を再編し、多くの儒学者を集めて多方面の研究活動に当たらせた。かのハングルを開発したのも、集賢殿の学者たちであった。
 世宗時代以降、朱子学が体制教義として確立される点では徳川幕藩時代の日本とも類似するが、徳川体制では正統朱子学が林羅山を祖とする林家が奉ずる林派に統一されたのに対し、朝鮮ではある種の思想的自由が保持され、林家に相当する世襲の御用儒家が存在しなかったため、朱子学の流派とも絡み、宮中を揺るがす党争がしばしば発生するようになった。ただ、世宗在位中はさしあたり大きな党争は発生せず、世宗時代は平穏無事であった。
 その30年余りの治世で李朝体制は強固に確立された。そのため、世宗はその業績をたたえて「大王」を冠されることが多いが、実のところ、その政策の多くは父太宗時代の継承発展であり、世宗を後継指名した決断を含め、太宗の存在なくして世宗は「大王」たり得なかったであろう。


§3 宗貞盛(1385年‐1452年)

 宗貞盛は対馬領主宗氏の支配の基礎を固めた先代貞茂の子として、家督を継いだ。奇しくも朝鮮の英君世宗即位の同年であり、在職期間も世宗とほぼ重なっていた。
 彼がまず直面したのが継承翌年の応永の外寇であった。この時、襲来した朝鮮軍は軍船227隻、兵員17285人と記録される大部隊で、倭寇取締りのベテラン李従茂将軍に率いられていた。これに対し、明らかに劣勢の対馬武士団であったが、貞盛は奮戦するとともに、台風の接近を匂わせて撤収させる情報戦も駆使して撃退した。
 朝鮮側も宗氏を討つ意図はなく、結局、再征論も沙汰止みとなった。貞盛は朝鮮側と戦後交渉に当たり、朝鮮側の要請に答えて倭寇対策を講じつつ、日本と朝鮮との通交に際して宗氏発行の渡航許可証を要する文引制を導入させ、朝鮮との通交権の独占を図った。
 これにより、宗氏は狭小な農地ではなく、対朝鮮通交権を知行として家臣団に分配することで領国支配を強化することができたのであった。総仕上げとして、1443年(嘉吉三年)に正式な通商協定を締結し(嘉吉条約)、朝鮮との通交関係を定めた。
 この条約により対馬‐朝鮮間の通交は宗氏の独占が認められるとともに、宗氏は朝鮮国王の被官という立場も保障され、室町幕府と朝鮮王朝への二重統属体制の基礎が築かれた。ただし、この条約では対馬からの歳遣船は毎年50隻を上限とされたため、宗氏の朝鮮通交は制限されたが、その後も偽使を含めた種々の手段で朝鮮への通交を活発に行なった。
 とはいえ、この時点では宗氏の朝鮮貿易独占はまだ確立されておらず、博多商人というライバルを擁したほか、百済王子の末裔を称し、独自に朝鮮との通交を行っていた周防の守護大名大内氏と対立するなど、なお不安定であった。
 そうした中にあっても、貞盛は相当なタフ・ネゴシエーターとして世宗の朝鮮王朝と渡り合い、後世対朝鮮申次役としての宗氏の土台を固めた人物と言える。

2017年1月18日 (水)

私家版朝鮮国王列伝[増補版](連載第4回)

三 定宗・李芳果(1357年‐1419年)/太宗・李芳遠(1367年‐1422年)

 太祖・李成桂の晩年を悩ませたのは、後継者問題であった。王子は8人いたが、本来なら後継者となるはずだった第一夫人神懿王后との間の長男芳雨が隠遁、早世したことから、太祖は寵愛する第二夫人神徳王后との間の八男(末男)芳碩を王后の推挙により後継指名した。
 言わば末子相続の形を選択したわけだが、この決定の裏には当時宰相格として宮中で絶大な権勢を持った鄭道伝の策があったと見られる。しかし芳碩はまだ年少であり、しかも、建国に当たっては神懿王后との間の五男芳遠の功績が特に大きかったため、彼の不満が爆発した。
 芳遠は98年、同母兄弟らを動員してクーデターを起こし、鄭道伝のほか、芳碩とその同母兄も殺害するという挙に出た。この事件を機に成桂は退位し、芳遠の同母兄で二男の芳果が2代国王(定宗)に即位する。しかし、定宗は名目的な王にすぎず、政治の実権は芳遠が掌握した。
 おそらくは時機を見て自らが即位する野望を抱いていた芳遠は、自身の権力固めのため、各王子が配下に持つことを許されていた私兵制度の廃止を推進した。これに不満と警戒を抱いた四男芳幹が1400年に武装反乱を起こすが、芳遠はこれを鎮圧した。
 最大のライバルだった芳幹を退けた芳遠は、定宗からの譲位を受けて、3代国王(太宗)として即位する。しかし、02年には故・神徳王后の親類趙思義が復讐を大義名分に東北地方で反乱を起こし、すでに引退していた父の太祖もこれを当初は支持したとされる。
 この反乱を鎮圧し、太祖とも和解を果たして、ようやく太宗の政権は安定し始める。その後も彼は王朝基盤の強化のため、しばしば功臣や外戚にも非情な粛清を行なったが、単なる暴君ではなく、行政制度や法令の整備なども進める有能な統治者でもあった。対外関係では明朝から冊封を受け、大陸関係を安定化させた。
 そして一応内政外交の基礎が固まったのを見届けると、18年に三男の李祹(忠寧大君)に譲位し、上王となる。太宗には李褆(譲寧大君)という長男がいたが、彼は不行跡のため後継者から外されたのであった。この判断の正しさは、譲寧大君が後に李朝最高の英主世宗となったことで証明された。
 太宗は太祖とは異なり、譲位後も22年の死去まで実権を保持し続けた。失敗に終わったものの、再び活発化していた倭寇征伐のため、19年に対馬攻撃を実行したのも、上王太宗の指揮によるものであった。
 こうして王朝初期の不安定な時期を時に強権を発動して乗り切り、王朝を軌道に乗せた事績の点では室町幕府3代将軍足利義満を思わせるところもある太宗が、父の意向に反してでも力づくで自ら実質的な後継者となったことは、李朝の存続にとっては明らかにプラスだったようである。


§2 宗貞茂(続)

 貞茂時代の宗氏は形式上は主家少弐氏の下で筑前守護代の地位にあったが、対馬にあっては守護職として実質的な領主の地位にあった。朝鮮半島に最も近い辺境領主として朝鮮における王朝交代の情報は把握しており、貞茂は当主の座に就くと、早速李氏朝鮮王朝との通交を開始している。
 それは1399年(応永六年)のこととされるから、朝鮮側では太祖が生前譲位した翌年、2代定宗の時代である。つまり、宗氏は太祖存命中の李氏王朝発足最初期から朝鮮との通交を開始していたことになる。
 宗氏がこれほどに朝鮮王朝との通交を重視したのは、元来山がちで耕作地が少なく、農業生産力に限界のある対馬にあって、貿易を主要財源とする必要に迫られていたからと考えられている。その点、同じく農産に限界があり、アイヌ交易を財政基盤とした北方の松前氏と類似する政略であった。そのためにも、九州本土での戦役動員が多い筑前守護代職は弟に譲り、自身は対馬経営に専心した。
 ちなみに、近代の大正時代になって、朝鮮が対馬を攻撃してきた1419年の応永の外寇における撃退の功績により貞茂が従四位を追贈されたのは史実誤認であり、彼は外寇前年の1418年(応永二十五年)にはすでに没しており、実際に撃退を指揮したのは嫡男の貞盛であったとされる。

私家版朝鮮国王列伝[増補版](連載第3回)

二 太祖・李成桂(1335年‐1408年)

 李朝創始者となる太祖・李成桂の生涯は大きく四期に分けることができる。第一期は、父の子春が死去した後、後を継いで北方軍閥となり、さしあたり高麗の武将として活動する時期である。実は、彼にとってはこの時期が最も長く、30年近くに及ぶ。
 この時期は高麗王朝末期であり、様々な国難に襲われていた。最初に成桂が直面したのは、元の反撃である。前回述べたように、元の高麗支配の拠点・双城総管府は子春の協力もあって壊滅していたが、まだ勢力を保っていた元は双城奪還を目指して大軍をもって反攻してきた。成桂はこれを迎撃・撃滅して、その武勇を天下に知らしめた。
 元の大規模な侵攻はもう一度起こるが、成桂はまたしてもこれを退け、最終的に高麗を元から完全に自立させることに成功した。さらに、隙を突いて北辺を占領していた女真族を駆逐して、占領地を解放した。
 以上は1360年代の事績であるが、70年代以降になると、今度は倭寇による寇略が課題となった。倭寇は国の組織された軍隊ではなく、私的な武装集団であるだけにかえって厄介な敵であったが、成桂は倭寇撃退作戦でも手腕を発揮し、幾度も勝利を収め、武将としての名声をいっそう高めた。
 80年代になると、中国大陸で元に取って代わり新たな王朝を樹立した明との関係がこじれた。明の一方的な旧元領土の割譲要求に対し、心情的に親元派だった時の高麗王・王禑は遼東地域の占領という無謀な作戦計画を立て、成桂に実行させようとした。
 これに対し、実戦経験豊富な成桂は軍事的合理性の見地から反対するも、却下され、やむなく出撃する。しかし遠征軍は梅雨による増水のため、鴨緑江の中洲にある威化島で立ち往生、窮地に陥ったことから、成桂は撤退を要請するが、またも却下されたことから、無断で撤退を決めた。これが有名な1388年の「威化島回軍」である。
 ところが、この無断撤退を反逆とみなした王禑は成桂の粛清を企てたことから、成桂は先制的に軍事クーデターを敢行し、宮廷の実権を掌握する。その後、成桂は自身に従順な恭譲王を傀儡の王に立て、事実上の最高執権者にのし上がった。この時から、自ら王位に就く92年までが彼の人生第二期である。
 実のところ、為政者としての彼の事績のほとんどはこの時期に集中している。為政者としての成桂は、従来の高麗王朝では傍流に置かれていた地方地主層や新興儒臣層を支持基盤にしていたため、李成桂政権は当然にもかれらの天下であった。
 特に重要な改革は、両班制の再構築である。簡単に言えば、高麗王朝時代の支配官僚層を自らの支持層である地方地主層や新興儒臣層と入れ替えたのであった。その手段として、科田制を導入した。
 科田制とは高麗末期に広がっていた荘園的大土地所有を否定し、土地を国有化したうえ、官等に応じて官僚らに田地(科田)を支給し、一律に十分の一の田税の収奪を認めるもので、それは実のところ、高麗王朝初期の旧田柴科制への回帰という反動政策であった。これは明らかに先の新興エリート層の利益に適う保守的「改革」であり、彼らの階級的勝利を意味していた。
 ただ、これにより従来は文班(文官)登用試験であった科挙制度が武班(武官)も含めた統一的な官吏登用試験として整理統合され、両班は科挙試験の受験資格を持つ家柄を指すことになった。
 これは一見すると、試験を通じた「能力主義」社会の到来に見え、事実、受験資格は農民以上の「良民」全般に開かれていながら、実際上は財力を持つ家系の子弟しか受験できず、両班身分の固定化が進行する。
 このように成桂の「改革」は、革新的というより保守的なものであったが、出発点においては、成桂を含め、従来の高麗王朝では傍流の階層が新たな支配層に上った点では、日本の戦国時代の下克上社会に似ていなくはない。
 しかし、成桂は武将のままではおらず、92年、周囲に推される形で自ら王位に就き、新王朝を樹立した。この点では、世襲制の幕府という特異な形で皇室と並存した日本の武家政権とは本質的に異なっている。
 実際、高麗王朝時代にも一時、軍閥が世襲的に政権を握る武臣政権時代があったが、長続きせず、成桂もこれを踏襲しようとはしなかった。朝鮮では中国的な一元的王朝政治の伝統が強く、日本のように公武二元政治の仕組みが根付くことはなかったのである。
 新王朝樹立後、将来の禍根を絶つため、旧高麗王族に対しては苛烈な粛清が加えられ、94年には成桂自身の傀儡として擁立され、王位を禅譲もした恭譲王を含む存命中の王族が皆殺しにされた。
 しかし、即位時すでに当時としては老齢の60歳近くに達していた太祖は王位に執着がなく、在位わずか6年にして生前譲位し、隠居してしまうのである。王位に就いてからは、旧高麗王族粛清と最初の基本法典「経済六典」の発布以外にこれといった事績も見当たらず、頂点を極めたこの第三期の人生は生前譲位という策も含め、王朝の基礎固めに終始したと言えよう。
 このような老齢での天下取り、旧体制根絶そして早期引退という軌跡はどこか徳川家康にも似ている。決して恣意的な独裁者ではないが、権力固めのためには冷酷な決断も辞さないという性格の点でも両者には共通性があり、ともに歴史的な長期安定支配体制を築いた始祖としての秘訣であるのかもしれない。
 太祖は譲位後もなお10年以上存命したが、この人生第四期は息子たちの間での熾烈な後継者争いが展開され、それに付随する反乱も発生した動乱の時期であった。これは、太祖の意に反して直面した国難であるため、稿を改めて見ることにする。


§2 宗貞茂(生年不詳‐1418年)

 李氏朝鮮王朝の太祖李成桂に相当する宗氏側人物は、おおむね同時代の宗貞茂であっただろう。貞茂は半ば伝承的な家祖重尚から数えて8代当主に当たるとされているが、一族では傍流にあり、先代から家督を奪取した簒奪者とみなされている。
 彼の当主簒奪は1398年(応永5年)のこととされる。李朝太祖はこの年、生前譲位し、2代目定宗が立っているので、太祖とは入れ替わりの形になっている。宗氏系図上では、貞茂は先代の刑部少輔経国(頼茂)の孫とされ、伯父盛真も右馬頭の官職を持っていたことからすると、伯父との家督継承争いに勝利したということも考えられる。
 いずれにせよ、貞茂は家内クーデターにより当主の座に就いたという限りで、同様にクーデターで王朝創始者となった李朝太祖と共通項を持っている。以後も家督継承争いはしばしば発生するも、基本的に宗氏当主は貞茂の後裔に継承されていく。

2017年1月 2日 (月)

私家版朝鮮国王列伝[増補版](連載第2回)

一 桓祖・李子春(1315年‐1360年)

 李朝の王家となった李氏の出自民族については韓族とみなすのが通説だが、遠祖を漢族とする史料もあるほか、異説として女真族説も提出されている。
 女真族説は李氏の本拠は朝鮮半島でも最北部であり、14世紀初頭頃の同地域には女真族が多数居住していたことから提起される。しかし、女真族は韓族からは蛮族視されており、明らかに女真の出自で韓族を束ねる王家に就く可能性は乏しく、女真族説には無理があるだろう。仮に女真系としても、相当に韓族に同化していたものと考えられる。
 役職的には、李一族は元朝の千戸長・ダルガチの地位を世襲して、女真族の統制を担当してきた軍閥であることから、在地の女真系有力者と通婚し混血していた可能性はあるかもしれない。
 正史上は、元来全州を本拠とする全州李氏の一派が北部へ移住し、現地で元朝から認められて千戸長・ダルガチに任命されたことになっている。ただ、千戸長やダルガチは元朝に忠実なモンゴル族を充てることが通例であったため、このような韓族功臣説にも難点がないわけではない。
 いずれにせよ、北方軍閥として台頭してきた王朝創始者の太祖・李成桂自身には異民族風の性格は特に見られず、韓族からも異論なく政治的実力者として認められているところからすれば、出自はともあれ、実質上は韓族と変わりなかったと考えられる。
 ただ、彼の王朝樹立への道程は一代限りのものではなく、第3代国王太宗が後に桓祖の廟号を追贈した成桂の父(太宗の祖父)李子春の活躍にも負う面があった。吾魯思不花(ウルス・ブカ)の蒙古名を持った子春の代ではまだ表向きは元に仕える身であったが、当時の高麗は元の間接支配下に置かれていたから、李一族は高麗の上位支配層側にいたことになる。
 しかし、時の恭愍王は元朝の衰退を見て、元からの自立政策を主導した。当時元が高麗支配の拠点としていたのが今日の北朝鮮咸鏡南道に属する地域に設置した出先機関の双城総管府だったため、元を撃退するには戦略上ここを叩く必要があった。
 そこで、王は当時北方の半独立的軍閥として実力をつけていた李子春に役職を与えて取り込み、双城総管府攻撃に協力させた。作戦は成功し、1356年、総管府は陥落する。その軍功から、子春は従二品・東北面兵馬使という地方軍区司令官に任命された。
 その後、子春はさらに栄進するも、中央政官界には進出できないまま、1360年に死去した。その後を継いだのが1335年生まれの次男成桂であった。


§1 宗氏の台頭

 中近世の日本側で朝鮮との窓口役を担った宗氏は本姓惟宗氏といい、平安時代には大宰府の在庁官人にすぎなかった。宗氏は大名化してからは、平氏流を称するようになるが、本来の惟宗氏は渡来系豪族秦氏―『日本書紀』によれば、朝鮮古代王国百済の出自―を祖とする平安貴族である。
 宗氏の家伝では、鎌倉時代の13世紀前半、幕府の許可を得ずに国交のない朝鮮の高麗と交易をしていた当時の対馬の支配者阿比留〔あびる〕氏を大宰府が咎めたのに対し、阿比留氏がこれを無視したことが反乱とみなされ、討伐のため対馬に送り込まれた宗重尚が阿比留氏を討って対馬国主となったとされてきた。
 今日でも対馬に子孫が多く分布する阿比留氏とは、関東の上総畔蒜〔あひる〕郡を出自とすると言われる氏族で、9世紀初頭に対馬に入り、在庁官人となり、11世紀には刀伊(女真族)の入寇に際して活躍するなどし、事実上の島主として豪族化していた。
 阿比留氏が鎌倉時代に勢力を失ったことはたしかだが、宗重尚の実在性や阿比留氏討伐譚は史実としては疑われており、確実に実在が証明できる宗氏の最も古い当主は第一回元寇(文永の役)で高齢を押して参戦・戦死した宗助国(1207年?‐1274年)である。
 助国の後の宗氏系図には生没年不詳者が多く、不明点が少なくないが、宗氏が当時北九州の有力御家人・地頭・守護であった少弐氏の配下で武家として実力をつけ、少弐氏の衰退とともに、次第に対馬守護として取って代わっていったこと自体は間違いない。
 しかし李朝樹立以前の宗氏はまだ対馬領主としての支配権を確立しておらず、朝鮮との交易も九州の諸大名、北九州や対馬の有力商人らがばらばらに行なっている状況であった。そうした中、14世紀末の李朝の樹立は独自の通交を始めた宗氏にとっても大きな転機となったのである。

私家版朝鮮国王列伝[増補版](連載第1回)

 李朝(朝鮮王朝)は、14世紀末から20世紀初頭に至るまで、日本では室町・江戸時代から明治時代末に至る極めて長い時期に並立した隣国王朝である。同時代にこれほど長きにわたって存続した王朝といえば、西アジアのオスマン朝くらいしか見当たらないほど異例の長期王朝体制であった。
 その間、宮廷では国家教義であった儒学(朱子学)の流派と絡む党争とそれとも連動した王位継承抗争が頻発し、政情不安が常態化していたが、それにもかかわらず王朝自体は滅亡することなく、500年以上も持続したのであった。
 日本では室町・戦国の軍閥封建制から江戸の準集権的な幕藩体制を経由して近代的中央集権制に変貌していく中、李朝では近代化に向けておずおずと舵を切り始めた終末期を除けば、体制枠内での制度変更などはあっても、両班制を基盤とした封建的官僚制という基本枠組みは一貫して不変であった。大日本帝国が朝鮮支配を強めていく過程で「朝鮮社会停滞論」を名分としたことにも一定の理由があった。
 とはいえ、これほど長きにわたって体制が持続したのは、それだけ李朝には揺るぎない基盤が築かれていたことを意味する。それがいったい何であったのかを探ることは、逆に同時代の日本の歴史の特色を対照的に浮き彫りにすることにもなるだろう。
 他方で、李朝時代は帝国主義化した近代日本による植民地支配を経由して現代の南北朝鮮に接続する時代でもあるので、とかく相互理解に困難を生じがちな現代南北朝鮮と日本を対照理解するうえで、李朝時代の再考は決して無益ではないはずである。
 本連載は、日本に隣接しつつ、日本とは相当に異なる歴史を演出した李朝の歴史を通覧する試みである。その際、歴代国王の紀伝というあえて古典的な手法による。これは、すでに日本の江戸時代及び室町時代に関して試みているのと同様である。ここでは、それら先行連載とも対照させながら、比較史的な叙述を試みてみたいと思う。
 なお、本連載では、王位に就いていないため正史上は国王に数えられないが、太祖・李成桂の父で、桓祖の廟号を追贈され、王朝始祖の位置にある李子春と王朝晩期に国王高宗の若年期、摂政として最高実力者となった王父の興宣大院君・李昰応の二人も独立して取り上げることとする。

 ところで、李朝との関わりで無視できないのは、朝鮮との「国境」の島・対馬の島主として長く続いた封建領主宗氏の存在である。在庁官人として鎌倉時代に対馬に入った宗氏はやがて朝鮮王朝の被官となり、朝鮮との貿易特権を与えられ、中世を通じて対馬の島主としての支配権を確立した。
 こうした朝鮮半島との窓口としての宗氏の役割は近世にも引き継がれ、徳川幕藩体制下では対馬府中藩を安堵され、鎖国体制下でも外交関係を持った数少ない国である朝鮮との外交通商窓口として幕末まで機能し続けた。また不幸な結果に終わったものの、明治維新後の宗氏は大日本帝国による朝鮮併合という新状況下で日本皇族に準じた地位を与えられた旧王室李氏と一時的に姻族関係を持つことにもなった。
 当連載の初版では李朝歴代国王にだけ焦点を当てて記述していたが、新版では朝鮮王朝と日本の幕府体制の双方に統属して朝鮮半島との窓口機能を担った独異な封建領主である宗氏歴代の列伝を付加する。ただし、歴代すべてを扱うのではなく、時の李朝国王と同時代に対応する宗氏当主を列記する形を原則とする。

2016年8月 4日 (木)

私家版朝鮮国王列伝(連載最終回)

二十二 高宗・李熙(1852年‐1919年)/純宗・李坧(1874年‐1926年)

 李昰応・興宣大院君(大院君)の項でも先取りしたように、26代高宗は大院君の次男であり、先代哲宗との血縁の遠さからすれば、実質上高宗をもって王朝交代があったとみなしてもよいほどの断絶がある。
 それを裏書きするように、高宗治世の前半期はまず実父大院君、続いて正室閔妃に実権を握られ、国王は名目的な存在であった。実際、高宗は年少で即位したうえ、長じてからも政治的に無関心で、放蕩に興じていたとされる。
 従って、高宗治世の前半期は大院君及び閔妃の項で述べたことがほぼそのままあてはまることになる。高宗が図らずも親政に転じなければならなかったのは1895年、閔妃が殺害された乙未事変以降のことである。
 乙未事変の直後、親露派が巻き返しの対抗クーデター(春生門事件)で高宗を奪還しようとするも失敗、しかし親露派は翌年、再び民衆暴動を煽動する形で決起し、高宗をロシア公使館に逃げ込ませることに成功した。
 こうして親露派は高宗をロシアの庇護下に置きつつ、反露・親日派を粛清排除し、実権を掌握した。この親露政策は晩年の閔妃の路線でもあり、当面これが踏襲された形となった。そのことが、どの程度高宗自身の意思によるものかは定かでない。
 ともあれ、一国の王が外国公館内にあって執務を行なうことは、もはや独立性を喪失したに等しく、この親露期の朝鮮王朝は事実上帝政ロシアの属国であった。この状況に対し、立憲君主制への移行を目指す開化派が独立協会を結成して対抗した。
 その結果、高宗は97年、ロシア公使館を出て王宮に帰還、同年には国号を大韓帝国と改称し、自身が改めて初代皇帝(光武皇帝)に即位した。高宗光武帝は立憲君主制こそ受け入れなかったが、一定の近代化改革に乗り出す積極姿勢を見せるも、改革をやりぬくための財政基盤と手腕が欠けていた。
 そうした中、朝鮮に対する支配力の奪回を虎視眈々と狙う大日本帝国は帝政ロシアに対する攻勢を強め、領国の緊張関係はついに開戦につながる。この戦争は大方の予想に反し、日本の勝利に終わった。
 この間、日本は戦時中の1904年には第一次日韓協約をもって大韓の内政外交に関与する権限を獲得し、これを米国にも認めさせることに成功していた(桂‐タフト密約)。その延長上で、日露講和条約(ポーツマス条約)をもって日本の大韓に対する優越権を承認させた。
 この第二次日韓協約は大韓を事実上日本の保護国とするもので、もはや完全な併合まであと一歩であった。こうした日本の攻勢に対し、高宗側も抵抗を示し、07年には第二次協約の無効性を主張する密書を万国平和会議に送ったが、当時の帝国主義的な国際法常識に照らし、高宗側の主張は容れられず、この密使事件はかえって日本側の不興を買い、高宗は親露派から親日派に転じていた李完用総理の画策により退位に追い込まれることになった。
 こうして、最後まで優柔な高宗はその40年以上に及ぶ長い治世を通じてほとんど主体性を発揮することはなかった。高宗に代わって2代皇帝に即位したのは、閔妃との間の長男純宗であった。
 純宗はすでに30代に達していたが、何の実権も与えられず、日本とその代理である親日勢力の傀儡皇帝にすぎなかった。そうした中、日本は第三次日韓協約をもって大韓の国政全般の干渉権を手中にし、軍の解散にまで及んだ。
 これに対する大韓義勇軍人による抗日闘争(義兵闘争)が激化する中、日本は完全な併合を急ぎ、1910年、条約をもってついに正式の併合を実現させた。皮肉にも、自主独立への決意を込めて大韓帝国に再編してわずか13年での亡国であった。
 併合後、旧李王家は法的には日本の王公族として、皇族に準じた地位を与えられ、高宗は徳寿宮李太王の称号で19年まで、純宗も徳寿宮李王の称号で26年まで存命したが、もはや形ばかりの存在であった。
 純宗には子がなく、最後の皇太子となった高宗七男李垠は日本皇族梨本宮方子と婚姻し、その間に生まれた次男李玖が次代当主となるも、子はなく、この韓日混血王統は2005年の玖の死去により断絶した。なお、現在の李家は一般公民化したうえ、高宗五男の庶流系統が継承している。

2016年7月24日 (日)

私家版朝鮮国王列伝(連載第21回)

二十一 閔玆暎・明成皇后(1851年‐1894年)

 26代高宗の正室・閔玆暎は通称で「閔妃」と呼ばれるように、驪興閔氏の出であった。閔氏は孔子の高弟・閔子騫の末裔を称する中国系の豪族であったが、さほど有力家系ではなかったところ、大院君の正室にして高宗の生母が閔氏の出であったことで、俄然有力化したのだった。
 閔玆暎(以下、通称により閔妃という)が高宗妃に選定されたのも、高宗生母の推薦あってのことであった。当時の実権者で閔妃の舅となる大院君としても、従来勢道政治で権勢を誇った安東金氏を一掃するうえで、閔妃は利用しやすいと考えたようであるが、この目論見は外れた。
 閔氏は政治的な野心家であり、嫡男(後の純宗)を生むと、大院君追い落としのため、閔氏の派閥を作って権力闘争に乗り出すようになった。その結果、彼女は、大院君追放に成功し、閔氏を中心とする新たな勢道政治が復活した。
 実権を握った閔氏は、排外主義的だった大院君の路線を転換し、開国へ向かった。手始めは、明治維新直後の日本との関係構築であり、その結晶が1876年の日朝修好条規である。しかし、この条約は朝鮮にとり極めて過酷な不平等条約であり、後代の日韓併合につながる伏線であった。
 当時の閔妃は日本の力を借りて朝鮮近代化を図ろうとしており、特に軍の近代化を急ぎ、西欧的な新式軍隊を創設した。しかし、これが裏目となる。封建的な旧式軍隊を放置したことで、旧軍人の不満が高まり、1882年のクーデター(壬午事変)につながる。
 閔妃暗殺を狙ったこの事変では、多数の閔妃派要人が殺害されたが、辛くも脱出に成功した閔妃は清の軍事力に頼り、事変の首謀者と名指した大院君を清に連行させることで、復権を果たした。
 これにより清に借りを作った閔妃は日本をさしおいて清に接近するが、他方でロシアにも接近するなど、閔妃には時々の情勢に応じて周辺大国の後ろ盾を得ようとする事大主義的な傾向があり、このことは文字どおり、自身の命取りにもなる。
 1884年に親日開化派が起こしたクーデター事件(甲申政変)では、再び清の軍事力を借りて、復権した大院君を三日天下で追い落とすことに成功したが、日清戦争で閔妃の最大の後ろ盾となっていた清が敗れると、今度は親露政策に活路を見出そうとする。
 これに不信感を抱いた日本と結託した大院君ら反閔妃勢力が蜂起し、宮殿に乱入して閔妃を殺害した(乙未事変)。こうして、大院君との20年に及ぶ熾烈な権力闘争に明け暮れた閔妃体制は突如、終幕した。
 この間、閔妃は正式に女王に即位することなく、王后の立場のまま、政治的に無関心・無能な高宗に代わって実権を保持していたのだが、周囲や外国からは事実上の朝鮮君主とみなされていた。その意味で、彼女は従来、朝鮮王朝でしばしば見られた垂簾聴政型の王后とは異なり、君主と同格の王后であった。
 彼女の反動的な勢道政治と事大主義は朝鮮王朝の命脈を縮めたが、一方で限定的ながら朝鮮近代化の先鞭をつけたのも、閔妃であった。特に文教分野では、キリスト教宣教師を招聘して朝鮮初の西洋式宮廷学院や女学校の設立を主導し、西洋近代的な文物・価値観の導入にも寛容であった。
 しかし、一方で呪術に凝るなど近代主義者としては限界があり、その政治路線も日和見主義的で、一貫しなかった。その点では、ほぼ同時期の清で実権を持った西太后と対比され、ともに近世から近代へ移り変わる激動期の中朝両国に出現した独異な女性権力者として注目すべきものがある。

2017年4月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30