〆私家版朝鮮国王列伝[増補版]

2017年12月28日 (木)

私家版朝鮮国王列伝[増補版](連載最終回)

二十二 高宗・李熙(1852年‐1919年)/純宗・李坧(1874年‐1926年)

 李昰応・興宣大院君(大院君)の項でも先取りしたように、26代高宗は大院君の次男であり、先代哲宗との血縁の遠さからすれば、実質上高宗をもって王朝交代があったとみなしてもよいほどの断絶がある。
 それを裏書きするように、高宗治世の前半期はまず実父大院君、続いて正室閔妃に実権を握られ、国王は名目的な存在であった。実際、高宗は年少で即位したうえ、長じてからも政治的に無関心で、放蕩に興じていたとされる。
 従って、高宗治世の前半期は大院君及び閔妃の項で述べたことがほぼそのままあてはまることになる。高宗が図らずも親政に転じなければならなかったのは1895年、閔妃が殺害された乙未事変以降のことである。
 乙未事変の直後、親露派が巻き返しの対抗クーデター(春生門事件)で高宗を奪還しようとするも失敗、しかし親露派は翌年、再び民衆暴動を煽動する形で決起し、高宗をロシア公使館に逃げ込ませることに成功した。
 こうして親露派は高宗をロシアの庇護下に置きつつ、反露・親日派を粛清排除し、実権を掌握した。この親露政策は晩年の閔妃の路線でもあり、当面これが踏襲された形となった。そのことが、どの程度高宗自身の意思によるものかは定かでない。
 ともあれ、一国の王が外国公館内にあって執務を行なうことは、もはや独立性を喪失したに等しく、この親露期の朝鮮王朝は事実上帝政ロシアの属国であった。この状況に対し、立憲君主制への移行を目指す開化派が独立協会を結成して対抗した。
 その結果、高宗は97年、ロシア公使館を出て王宮に帰還、同年には国号を大韓帝国と改称し、自身が改めて初代皇帝(光武皇帝)に即位した。高宗光武帝は立憲君主制こそ受け入れなかったが、一定の近代化改革に乗り出す積極姿勢を見せるも、改革をやりぬくための財政基盤と手腕が欠けていた。
 そうした中、朝鮮に対する支配力の奪回を虎視眈々と狙う大日本帝国は帝政ロシアに対する攻勢を強め、領国の緊張関係はついに開戦につながる。この戦争は大方の予想に反し、日本の勝利に終わった。
 この間、日本は戦時中の1904年には第一次日韓協約をもって大韓の内政外交に関与する権限を獲得し、これを米国にも認めさせることに成功していた(桂‐タフト密約)。その延長上で、日露講和条約(ポーツマス条約)をもって日本の大韓に対する優越権を承認させた。
 この第二次日韓協約は大韓を事実上日本の保護国とするもので、もはや完全な併合まであと一歩であった。こうした日本の攻勢に対し、高宗側も抵抗を示し、07年には第二次協約の無効性を主張する密書をハーグ万国平和会議に送ったが、当時の帝国主義的な国際法常識に照らし、高宗側の主張は容れられず、この密使事件はかえって日本側の不興を買い、高宗は親露派から親日派に転じていた李完用総理の画策により退位に追い込まれることになった。
 こうして、最後まで優柔な高宗はその40年以上に及ぶ長い治世を通じてほとんど主体性を発揮することはなかった。高宗に代わって2代皇帝に即位したのは、閔妃との間の長男純宗であった。
 純宗はすでに30代に達していたが、何の実権も与えられず、日本とその代理である親日勢力の傀儡皇帝にすぎなかった。そうした中、日本は第三次日韓協約をもって大韓の国政全般の干渉権を手中にし、軍の解散にまで及んだ。
 これに対する大韓義勇軍人による抗日闘争(義兵闘争)が激化する中、日本は完全な併合を急ぎ、1910年、条約をもってついに正式の併合を実現させた。皮肉にも、自主独立への決意を込めて大韓帝国に再編してわずか13年での亡国であった。
 併合後、旧李王家は法的には日本の王公族として、皇族に準じた地位を与えられ、高宗は徳寿宮李太王の称号で19年まで、純宗も徳寿宮李王の称号で26年まで存命したが、もはや形ばかりの存在であった。
 純宗には子がなく、最後の皇太子となった高宗七男李垠は日本皇族梨本宮方子と婚姻し、その間に生まれた次男李玖が次代当主となるも、子はなく、この韓日混血王統は2005年の玖の死去により断絶した。なお、現在の李家は一般公民化したうえ、高宗五男の庶流系統が継承している。


◇伊藤博文(1841年‐1909年)

 長州閥の明治元勲かつ明治政府の初代内閣総理大臣として日本ではよく知られる伊藤が大韓帝国と改称していた朝鮮王朝と直接の関わりを持ったのは、最晩年の1905年、第二次日韓協約を受けて初代韓国統監に就任した時である。
 元来、伊藤は明治初期のいわゆる征韓論争に際しては征服反対・内治重視派に与しており、明治末の韓国併合論争に際しても国際協調を重視しつつ、併合でなく韓国の国力がつくまでの保護国化にとどめるという穏健な立場を主張していた。
 とはいえ、保護国化も完全な独立を認めず、ある種の属国として支配下に置く帝国主義的な手段であって、伊藤が反帝国主義者であったことにはならないが、大陸侵出の一環として韓国併合を急ごうとする維新以来のライバル山縣有朋ら陸軍勢力とは一線を画していたことは間違いない。
 こうした伊藤の韓国「保護」の意志は相当に固かったらしく、すでに四度も首相を経験した元老でありながら、あえて格下かつ海外常駐となる初代の韓国統監職を引き受けたことにも現れている。
 もっとも、時の韓国皇帝・高宗が日韓協約の無効を訴えたハーグ密使事件を受けても変化しなかった伊藤の穏健な立場は、韓国内での抗日義兵闘争の激化を契機に転換したとも言われる。しかし、伊藤が併合を声高に唱えた形跡は見られず、義兵闘争は併合派が併合を急ぐうえで障害となりかねない伊藤に辞職を促す口実として利用されたものと考えられる。
 実際、時の韓国併合派かつ陸軍重鎮でもあった桂太郎首相から併合の最終解決策を提示されると、伊藤はこれを受諾し、保護を前提とした統監職を辞し、併合へ向けたプロセスにも協力したのであった。その四か月後、伊藤は韓国人ナショナリスト・安重根によりハルビンで暗殺されることとなる。
 安は独立運動家を多く輩出する開化派両班一族の出であり、初代韓国統監だった伊藤を日本帝国主義の象徴として標的にしたのだったが、おそらく元来日和見主義的な伊藤自身は最後まで併合強行派ではなかったのであり、独立派の真の敵は別にいたのである。

◇宗武志(1908年‐1985年)

 近世に朝鮮との通商を一手に担いながら、明治維新による廃藩後はその役目を終え、日本の一華族(伯爵)となっていた宗氏であったが、韓国併合後、旧朝鮮王家と姻戚関係を持つ数奇な運命を得た。1931年、時の宗氏当主である宗武志伯爵に高宗の王女・徳恵翁主が嫁いだのである。
 通商関係を独占していた時代にも縁戚関係を持つことがなかった両家が関係の途絶えた近代になって縁戚関係を生じた背景には、上述のように高宗七男李垠が日本皇族梨本宮方子と通婚したのと同様、日韓併合下で日韓上流階層の血統的一体化も演出するという政治力学が働いたのかもしれない。
 徳恵翁主は高宗が日韓併合後、日本王族徳寿宮李太王熈と改称した最晩年の1912年に生まれた娘で、父は幼少の頃に死去している。一方、武志は対馬藩最後の藩主だった宗重正の甥に当たり、父は旧上総久留里藩主黒田家の婿養子に出ていたが、重正の子が継嗣なく死去したため、宗氏当主の家督を継いだ。
 併合の象徴のような宋‐李婚姻はしかし、徳恵の精神疾患のため、不幸な結果に終わった。彼女の病状は長女出産後に悪化し、武志の献身的な介護によっても改善せず、戦後の1955年に離婚、62年に韓国に帰国した(89年死去)。
 ちなみに二人の間の一人娘・正恵は日本で大学に進学、日本人と結婚するが、やはり何らかの精神疾患に悩み、両親離婚の翌56年に遺書を残して失踪、行方不明のまま離婚に至るという二重の悲劇に見舞われている。なお、戦後、英文学者・詩人として身を立てていた武志は徳恵と離婚直後に日本人と再婚し、大学教授・理事として職務を全うしている。

2017年12月17日 (日)

私家版朝鮮国王列伝[増補版](連載第21回)

二十一 閔玆暎・明成皇后(1851年‐1895年)

 26代高宗の正室・閔玆暎は通称で「閔妃」と呼ばれるように、驪興閔氏の出であった。閔氏は孔子の高弟・閔子騫の末裔を称する中国系の豪族であったが、さほど有力家系ではなかったところ、大院君の正室にして高宗の生母が閔氏の出であったことで、俄然有力化したのだった。
 閔玆暎(以下、通称により閔妃という)が高宗妃に選定されたのも、高宗生母の推薦あってのことであった。当時の実権者で閔妃の舅となる大院君としても、従来勢道政治で権勢を誇った安東金氏を一掃するうえで、閔妃は利用しやすいと考えたようであるが、この目論見は外れた。
 閔妃は政治的な野心家であり、嫡男(後の純宗)を生むと、大院君追い落としのため、閔氏の派閥を作って権力闘争に乗り出すようになった。その結果、彼女は、大院君追放に成功し、閔氏を中心とする新たな勢道政治が復活した。
 実権を握った閔氏は、排外主義的だった大院君の路線を転換し、開国へ向かった。手始めは、明治維新直後の日本との関係構築であり、その結晶が1876年の日朝修好条規である。しかし、この条約は朝鮮にとり極めて過酷な不平等条約であり、後代の日韓併合につながる伏線であった。
 当時の閔妃は日本の力を借りて朝鮮近代化を図ろうとしており、特に軍の近代化を急ぎ、西欧的な新式軍隊を創設した。しかし、これが裏目となる。封建的な旧式軍隊を放置したことで、旧軍人の不満が高まり、1882年のクーデター(壬午事変)につながる。
 閔妃暗殺を狙ったこの事変では、多数の閔妃派要人が殺害されたが、辛くも脱出に成功した閔妃は清の軍事力に頼り、事変の首謀者と名指した大院君を清に連行させることで、復権を果たした。
 これにより清に借りを作った閔妃は日本をさしおいて清に接近するが、他方でロシアにも接近するなど、閔妃には時々の情勢に応じて周辺大国の後ろ盾を得ようとする事大主義的な傾向があり、このことは文字どおり、自身の命取りにもなる。
 1884年に親日開化派が起こしたクーデター事件(甲申政変)では、再び清の軍事力を借りて、復権した大院君を三日天下で追い落とすことに成功したが、日清戦争で閔妃の最大の後ろ盾となっていた清が敗れると、今度は親露政策に活路を見出そうとする。
 これに不信感を抱いた日本と結託した大院君ら反閔妃勢力が蜂起し、宮殿に乱入して閔妃を殺害した(乙未事変)。こうして、大院君との20年に及ぶ熾烈な権力闘争に明け暮れた閔妃体制は突如、終幕した。
 この間、閔妃は正式に女王に即位することなく、王后の立場のまま、政治的に無関心・無能な高宗に代わって実権を保持していたのだが、周囲や外国からは事実上の朝鮮君主とみなされていた。その意味で、彼女は従来、朝鮮王朝でしばしば見られた垂簾聴政型の王后とは異なり、君主と同格の王后であった。
 彼女の反動的な勢道政治と事大主義は朝鮮王朝の命脈を縮めたが、一方で限定的ながら朝鮮近代化の先鞭をつけたのも、閔妃であった。特に文教分野では、キリスト教宣教師を招聘して朝鮮初の西洋式宮廷学院や女学校の設立を主導し、西洋近代的な文物・価値観の導入にも寛容であった。
 しかし、一方で呪術に凝るなど近代主義者としては限界があり、その政治路線も日和見主義的で、一貫しなかった。その点では、ほぼ同時期の清で実権を持った西太后と対比され、ともに近世から近代へ移り変わる激動期の中朝両国に出現した独異な女性権力者として注目すべきものがある。


◇黒田清隆(1840年‐1900年)

 明治維新後、近代的外交制度の下、長く朝鮮との通商関係を担ってきた対馬の宗家が退き、対朝鮮外交も外務省の所管に移った。初期の対朝鮮外交を政治レベルで主導したのが、後に第2代内閣総理大臣となる黒田清隆である。
 黒田は下級薩摩藩士の家に生まれた典型的な倒幕志士出身の明治元勲である。明治新政府ではまず北海道開拓という地味な分野からキャリアをスタートさせている。黒田は近代陸軍軍人でもありながら、帝国主義的な膨張には消極的で、征韓論に対しては内治重視の反対の論陣を張った。
 そういう黒田が1876年、朝鮮との国交交渉を担当する全権弁理大臣(大使)として締結したのが、日朝修好条規である。朝鮮の武力征服には反対しながらも、不平等条約としての性格が強い修好条規を通じて朝鮮を操縦していくという内治派の政略が反映されていたと見られる。
 もっとも、条約締結までの下交渉で活躍したのは外交官の森山茂(1842年‐1919年)であり、森山は77年に退官し元老院に転じるまで、ほぼ一貫して対朝鮮外交を担当したエキスパートであった。彼は当初、宋氏を通じた交渉に固執していた朝鮮側で大院君が失権し、明成皇后が実権を握った政変をとらえ、巧みに交渉して修好条規締結の環境整備をしたのだった。
 一方、黒田は森山の義弟(実妹の夫)でもあった政商・五代友厚との癒着が問題視された開拓使官有物払下げ疑獄で糾弾されながら、訴追は免れ、薩長重鎮として1888年には内閣総理大臣に就任している。
 しかし、朝鮮との不平等条約締結に寄与した黒田が、自国と欧米列強との不平等条約の改正交渉では頓挫し、国粋主義者による大隈外相襲撃事件を機にわずか1年半で内閣総辞職に追い込まれたのは皮肉であった。

◇三浦梧楼(1847年‐1926年)

 三浦は長州藩士・奇兵隊出身の近代陸軍軍人であり、西南戦争では政府軍の側で戦績を上げたが、黒田とは対照的に薩長藩閥政治に反対の論陣を張り、開拓使官有物払下げ疑獄では糾弾側に身を置いた。同時に議会開設・憲法制定を求める建白書を提出して左遷されるなど、民権派とは距離を置きつつ軍部内で反主流派を形成した。
 結局、三浦は黒田らに象徴される藩閥政治が跋扈した間は冷遇され、陸軍中将で退役せざるを得なかった。彼が再び日の目を見るのは、第二次伊藤博文内閣下で1895年、駐朝鮮全権公使に任命された時である。時の朝鮮は明成皇后の天下であった。
 ところが、着任後間もなく、三浦は皇后が王宮内で暗殺された乙未事変首謀者として検挙されることとなった。三浦は本国召喚後、広島で拘束され、旧司法制度の予審にかかるが、証拠不十分で免訴となり、釈放された。本国主導でのこの司法処理は、正式裁判を回避する真相隠蔽の疑いが強い。
 事変の黒幕は復権を狙い、日本にも接近していた大院君であった可能性が高いが、当時の複雑な朝鮮内政及び国際情勢の中、駐在外交官の三浦がどのような役割を果たしたのかは結局、不明のままである。その後の三浦は枢密顧問官となりながら終始藩閥打倒を唱え、政党政治の仲介人となるなど、内政上の立場は首尾一貫していた。

2017年12月 3日 (日)

私家版朝鮮国王列伝[増補版](連載第20回)

二十 李昰応・興宣大院君(1820年‐1898年)

 勢道政治に呑まれ、全く権能を発揮できなかった25代哲宗が1863年に没すると、転機が訪れた。まだ存命していた24代憲宗生母の神貞王后が動き、26代国王として、全くの王室傍流にあった李昰応の次男・高宗を即位させる。
 李昰応は22代正祖の異母弟の養子の四男という王室の遠縁で、血統上は16代仁祖の子孫に当たるが、すでに王族としての待遇はされていない一族の出自であった。従って、李昰応自ら王位に就くことはできず、その次男を神貞王后の養子とした上で即位させるという変則的な手法が採られたのだった。
 李昰応の一族は先述したように、王族待遇を受けていなかったため、青年時代の彼はならず者と交際するなどの無頼生活を送っていたが、実のところ、政治的な野心は隠し持っていたようで、さしあたり神貞王后に接近し、その評価を勝ち取ったことが、立身出世の契機となった。
 李昰応には長男もあったが、年少の次男に白羽の矢が立ったのは、そのほうが神貞王后‐李昰応ラインで操作しやすいと踏んだからであろう。この新体制では、李昰応が国王実父・大院君の立場で政治の実権を握った。
 実権を掌握した大院君・李昰応は正式の国王ではないものの、彼が実権者だった時期には、事実上国王を凌ぐ実質的な君主であった。彼の新体制には、改革的な要素と保守的な要素の二面性があった。
 改革的要素は主として内政面で、従来弊害著しかった勢道政治の一掃を図ったことである。最高機関である議政府を立て直し、勢道勢力以外からの人材登用を行なったほか、三政の紊乱を正すため、法典の整備や監察制度の強化なども断行した。
 他方で、王族を要職に就けて王室の権力を強化したほか、改めて国教・国学としての儒教を重視し、キリスト教を弾圧するなどの保守的な一面があった。
 しかし、大院君政治の保守的な一面が最も色濃く現れたのは、対外政策であった。この頃になると、ロシアやフランス、アメリカなど列強が朝鮮に開国を迫るようになってきたが、李昰応はこれをことごとく排撃する強硬方針で臨み、たびたび洋擾事件を引き起こした。
 李昰応の失敗は、勢道勢力排除の目的から、息子高宗の妃として、自身の正室の出身でもあった傍流門閥・驪興閔氏出身の閔妃を立てたことであった。彼女は野心家であり、次第に大院君と敵対するようになる。
 しかし、専制君主のように振舞う大院君に対しては、王室家長的な立場の神貞王后からも批判を受けるに至り、1873年、ついに大院君弾劾書が提出され、大院君は失権することとなった。
 代わって実権を握ったのは、高宗ではなく、閔妃であった。しかし、闘争的な李昰応の政治生命はこれで尽きることなく、ここからさらに二度の復権を果たすのである。
 一度目の復権は、1882年、壬午軍乱の時である。この政変は、閔妃体制が導入した新式軍隊に不満を持つ旧式軍隊の軍人らが主導したクーデター事件であったが、この際、大院君が担ぎ出される形で復権したのである。
 しかし、第二次大院君政権は清と結託した閔妃側の策略によって失敗に終わり、大院君は清国に連行、幽閉されてしまう。しかし、大院君はなおも復権を画策し、清から帰国すると、新興宗教の東学党に接近するという奇策に出る。
 1894年には東学党を主力とする甲午農民戦争を利用しつつ、閔妃と険悪化していた明治日本にも接近し、日本を後ろ盾に、二度目の復権を果たすのである。しかし、これは日本の傀儡に近い政権であり、たちまち日本との不和に陥り、短期間で失権させられた。
 すでに70歳を越えていた李昰応はなおも復権に執着し、ついには改めて日本と結託し、閔妃暗殺計画に加担することになる。彼は閔妃を排除して、孫の永宣君を新国王に擁立する計略を練っていたのだった。こうして閔妃暗殺は1895年、実際に起きたが(乙未事変)、直後に親露派の対抗クーデターが起き、李昰応の計略は砕かれた。
 乙未事変を機に、従来から不和だった高宗とも決裂、以後の李昰応は完全に政治の表舞台から退き、98年、その波乱に満ちた長い生涯を閉じた。彼は生涯正式の国王とはならなかったが、孫の純宗の時、国王に準じて大院王を追号されている。
 李昰応は、政治的に無能な息子の高宗に代わり、衰退の一途だった朝鮮王朝を一時的に建て直し、延命しようとしたが、対外政策が保守的に過ぎたことや、晩年は野心的な嫁の閔妃との権力闘争に明け暮れたことで、その延命努力は相当に減殺されてしまったと言える。


§17 宗義達(1847年‐1902年)

 宗義達〔よしあきら〕は、前回も見たように、当初世子に決定されていながら、異母兄との家督継承争いに巻き込まれ、一度廃嫡された後、最終的に世子として返り咲くという異例の登位を経験している。また、父が親長州派・義党の圧力で隠居に追い込まれた後、若くして継承した経緯からも、藩政は義党に握られた。
 これに対して、反義党派は佐幕的な俗論党を結成して対抗し、幕末の対馬藩政は若い藩主の下、倒幕派と佐幕派の二大派閥に分裂し、揺れ動いたのである。そうした中、第一次長州征伐で長州藩が幕府に敗北したことを契機に俗論党が決起し、家老大浦和礼に率いられた義党を大量検挙・処刑するという政変を起こした。俗論党のリーダーで、義達の伯父でもあった勝井員周の名を取り、勝井騒動と呼ばれるこの政変は義党の巻き返しにより混沌を極めた。
 義達はここでようやく派閥対立の解消に乗り出し、まず自身の後見人でもあった勝井を討伐したうえ、義党の新指導者であった平田達弘をも斬首し、両派の内紛を鎮圧した。そうした情勢下、戊辰戦争が勃発すると、義達は新政府側に立って親征するが、大坂まで進軍したところで終戦となった。
 明治維新後、義達改め重正は、版籍奉還により対馬府中藩主を返上し、改めて厳原藩知事に任命されたことで、最後の対馬藩主となる。明治最初期の重正に与えられた役割は、明治政府と朝鮮王朝との外交窓口となることであった。旧対馬藩と朝鮮の歴史的な通商関係が考慮されてのことである。
 しかし、これも廃藩置県により重正が藩知事を免官されると、国交交渉も新設されたばかりの外務省に移管され、重正は外務省ナンバー4の外務大丞に任ぜられた。近代外交官への転進である。しかし、時の朝鮮王朝は保守的な大院君が実権を持ち、旧来の対馬藩外交使節以外による国交交渉を拒否した。
 外務省を通じた近代外交を基本方針とする明治政府はこれに応じず、大院君の失権まで対朝鮮外交は閉塞を余儀なくされた。二度にわたり外務大丞を務めた義達も充分な役割を果たせないまま、外務省を去ることになった。重正は後に伯爵に叙せられるも、明治政府で要職に就くことはなく、20世紀をまたいで没した。

2017年11月15日 (水)

私家版朝鮮国王列伝[増補版](連載第19回)

十九 哲宗・李昪(1831年‐1863年)

 先代の24代憲宗は世子を残さず、夭折したため、後継問題が生じた。この時、23代純祖の王妃だった安東金氏出身の純元王后が動き、憲宗生母の神貞王后が出自した豊壌趙氏の機先を制する形で、22代正祖の弟の孫を担ぎ出した。これが25代哲宗である。
 こうした即位の経緯から、最初の三年間は大王大妃となった純元王后が垂簾聴政を取った。当然にも安東金氏の天下となり、こうした安東勢道政治は、哲宗が一応親政を開始してからも最後まで続いた。
 こうして、哲宗時代は勢道政治の弊害が最大限に発現する時代となった。具体的には、汚職の蔓延と財政破綻である。後者は、田政・軍政・還穀のいわゆる三政の紊乱という形で国家の基盤を揺るがした。
 こうした衰退現象はすでに前世紀から忍び寄っていたが、哲宗時代には、両班の事実上の私有地の拡大による農民搾取、兵役忌避と兵役代替課税の負担増、また貸米制度の高利貸化といった制度劣化現象として集中的に発現したのである。
 こうした体制の揺らぎのすべてを勢道政治の責めに帰することは困難であるが、本質的に腐敗した権力支配体制であった勢道政治には、体制を改革し、立て直す意思も能力も備わっていなかった。
 他方、ほとんど棚ぼた的に担ぎ出された哲宗も王としての資質には欠けていたようである。個人的には民心への配慮があったと言われるが、勢道政治を抑える気概も政略も持ち合わさず、晩年には政務を放棄して、酒色に溺れていった。
 民衆の体制への不満と将来への不安は、農民反乱と新興宗教への傾倒という二つの現象を引き起こした。農民反乱は、つとに純祖時代の1812年に勃発した平安道民衆蜂起が嚆矢であったが、この時は体制側にこれを短期で鎮圧するだけの余力があった。
 しかし、哲宗時代の反乱は忠清道、全羅道、慶尚道の南部地域で広範囲に継起するゲリラ戦的なものとなり、体制もこれを鎮圧し切れず、体制を内部から弱体化させる要因となった。
 一方、カトリック信者も増加し、両班層や宮廷人にまで信者が出現するほどであったが、慶尚北道出身の宗教家・崔済愚が創始した東洋的な新興宗教・東学も急速に信者を獲得していった。こうした「邪教」に対して体制は弾圧で臨むも、効果はなかった。
 不穏な情勢下、健康を害した哲宗は1863年、世子を残さず死去した。国王が二代続けて世子を残さず短命で没する事態は、体制の存続そのものにとっての危機であった。


§16 宗義和(1818年‐1890年)

 宗義和〔よしより〕は、兄の先代義章が嫡男なく死去した後を養子として受け、15代藩主に就任した。朝鮮との通商関係が閉塞した対馬藩にとって激動期の藩主であり、特に幕末と重なる治世晩期は波乱に満ちていた。
 最初の問題は、家督問題であった。義和は多くの側室を抱えていたが、中でも碧という平民出自の側室を寵愛するあまり、野心的な碧の教唆により、士分出自の側室が生んだ子を廃嫡し、碧の生んだ子を嫡子とする恣意的な決定を下したことで、お家騒動を招いたのだった。
 正室との間に子がなかったことが原因とはいえ、このような恣意的世襲は封建法の精神に反していた。しかし結局、碧の子が夭折したことを契機に決定は撤回され、碧も追放処分となった。この時、反碧派を形成したのが、義党という保守的な一派である。
 この問題が決着したのもつかの間、1861年には帝政ロシア軍艦ポサドニックが対馬に来航し、半年ほど対馬芋崎を占拠するという事変が勃発した。ロシア側の狙いは極東進出に必要な不凍港の租借という点にあった。その目的に沿って、ロシア側は無断で兵舎や練兵場などの建設を強行した。
 これは、大名封土とはいえ、江戸時代の日本が初めて外国に侵略された重大事件であった。事件は英国の介入を得て解決したが、辺境防備の無力をさらけ出した対馬藩では、江戸家老が幕府と密議し、宗氏の河内移封・幕府の対馬直轄移行が決まりかけた。
 しかし、これに反発した国元の義党が決起し、移封計画の中心人物であった江戸家老・佐須伊織を暗殺した。義党は尊皇攘夷派であり、前藩主義章の長州出身の正室であった慈芳院を通じて長州と結び、対長同盟を成立させたのであった。
 こうして実質的なクーデターを成功させた義党は、義和にも隠居を求め、藩主を嫡子に復帰していた義達〔よしあきら〕に交代させた。これにより、対馬藩では若い新藩主を擁した義党主導で、親長州の攘夷政治が展開されていくことになる。
 ちなみに、1863年に隠居した後の義和は明治維新を越えて20年近く長生し、廃藩置県後は余生を主に地元神社の神職として過ごして、明治23年(1890年)に没した。

2017年10月29日 (日)

私家版朝鮮国王列伝[増補版](連載第18回)

十八 純祖・李玜(1790年‐1834年)/憲宗・李奐(1827年‐1848年)

 23代純祖は先代正祖の次男であったが、11歳での即位となったため、先々代英祖の継室で、正祖没後に政治的に復権した貞純王后の垂簾聴政を受けた。貞純王后は反正祖の実力者として、雌伏しつつ復権の機を窺っていたのである。
 彼女の垂簾聴政期は3年ほどだったが、その間、正祖時代に台頭した実学派学者らを弾圧・粛清する反動政治を展開し、かつ自身が出自した安東金氏の政治力を高め、以後「勢道政治」と呼ばれる安東金氏の専横時代の道筋を準備した。
 純祖は、晩年になって安東金氏を牽制すべく、もう一つの豪族豊壌趙氏を対抗的に起用して競わせるが、このような政策は両氏の権力闘争を激化させ、かえって政情不安を招いただけであった。さらに、妃の出身である豊壌趙氏を起用し、摂政として政務を主導していた孝明世子に先立たれたことも、純祖にとっては打撃であった。
 結局、純祖は34年に及ぶ長期治世だったわりに具体的な成果には乏しく、この間に朝鮮王朝を衰微させる反動的な「勢道政治」が確立されただけであった。
 純祖に続いて立った24代憲宗は孝明世子の遺子で、純祖の孫に当たるが、父と同様、7歳という年少での即位となり、祖母の純元王后が7年にわたり垂簾聴政を取った後に、親政を開始した。
 しかし、先述したとおり、憲宗の母神貞王后は豊壌趙氏であったため、安東金氏との権力闘争はいっそう激化した。そうした政情不安に加え、憲宗自身も病弱のため、国王権力は決定的に低下し、その15年ほどの治世中に二度のクーデター未遂事件に見舞われた。
 一方で、従来からのカトリック弾圧政策にもかかわらず、社会の動揺と将来への不安から、キリスト教信者の増加を抑止することはできていなかった。体制は頑強に弾圧の度を増し、多くの殉教者を出すが、効果はなかった。
 治世末期になると、東アジアへの進出を狙う西洋列強の外国船の朝鮮接近が頻発した。この状況は隣国日本の幕末とも似ていたが、朝鮮当局の対応は徹底した排撃一辺倒であった。
 そうした中、憲宗は1849年、23歳で早世してしまう。かくして、西洋暦でちょうど1800年に即位した純祖から数えて、19世紀前半をほぼカバーした純祖/憲宗の時代は、朝鮮王朝が内憂外患に悩まされる時代の始まりとなった。


§15 宗義質(1800年‐1838年)/義章(1818年‐1842年)

 宗義質〔よしかた〕は先代の父義功から死の前年1811年に年少で家督を継承し、13代藩主となった。そうした事情から、成長するまでは親政を行なえず、家臣団は派閥・利権抗争に走った。父の時代からの藩政の動揺が継続したのである。
 財政経済面でも、朝鮮貿易の収支が悪化をたどる中、治世中1823年と31年の二度にわたる城下府中の大火が追い討ちをかけ、藩の斜陽化は覆うべくもなかった。対馬藩が接待役を務める朝鮮通信使も、朝鮮王朝・幕府双方の財政難もあり、義質が家督を継いだ1811年が最後となったが、財政難の藩にとってはこれ幸いだったかもしれない。
 こうして対馬藩主の栄進の最大足がかりでもあった朝鮮通信使接待がなくなったにもかかわらず、義質は歴代藩主中でも最高位の左近衛少将に昇任したが、その翌年、死去した。享年39歳ながら、在任期間は26年と比較的長かった。
 後を長男義章〔よしあや〕が継いだが、病弱と見え、わずか3年で死去した。幕末へ向けた転換期に短命藩主が続いたことは、藩政の行方を危うくした。加えて、義章が正室を長州藩主毛利家から迎え、長州藩との姻戚関係を生じたことが、幕末、長州藩の動静に巻き込まれる要因ともなるのだった。

2017年10月15日 (日)

私家版朝鮮国王列伝[増補版](連載第17回)

十七 正祖・李祘(1752年‐1800年)

 22代正祖は、父荘献世子が祖父の21代英祖によって処刑されたため、一代飛ばす形で英祖の後継者となった。彼は荘献世子の子であることに内心誇りを抱いていたようであるが、君主としては祖父の路線の継承者であった。
 彼は父の刑死に関わった老論派を嫌悪し、その権益を抑制しつつも、党争は避け、祖父が敷いた蕩平策を維持し、国王権力を強化する集権的な政策を施行した。国王権力の強化は軍制改革にも及び、正祖は国王直属の親衛隊として壮勇営を創設し、国王の統帥権を強化した。こうして、国王の政軍関係の掌握力を高めることが、正祖の終生にわたる施政方針であった。
 正祖はまた、好学だった英祖から文化政策も継承し、発展させた。ことに王立図書館・公文書館の性格を持つ奎章閣を設立し、ここに重要な書籍・文献を集積するとともに、文官の研修と政策立案なども併せて行なう一種のシンクタンクとしての機能も持たせたのであった。
 正祖の時代には、従来の朝鮮にありがちだった観念論的な儒学の気風に代えて、より実証的・実用的な実学の気風が広がり、奎章閣はそうした実学研究機関としての役割も担っていた。それは、正祖の改革政治の方向性ともマッチするものでもあった。
 こうした学問の平易な実学化は伝統的な学問の担い手であった両班階級から中人以下の階級まで学問的な志向が普及する契機となり、正祖時代は朝鮮王朝史上、文化が最も花開いた時代、ある種の啓蒙時代としても記憶されている。
 一方で、この時代の朝鮮社会はキリスト教(天主教)との直面を本格的に経験した。キリスト教は先代英祖の時代に一部地方に流入してきていたが、英祖はこれを邪教と断じ、すぐさま禁圧した。
 正祖時代になると朝鮮への布教が始まり、朝鮮人カトリック教徒の活動も目立ってきた。朝鮮史上初のキリスト教会が設立されたのも、正祖時代のことである。
 正祖自身は儒学を正統思想とし、カトリック(西学)を否定しつつも、弾圧は慎重に避けていたが、身内の葬儀をカトリック式で執り行って社会問題化した両班尹持忠を処刑したことで 朝鮮初の殉教者を出した。
 キリスト教の流入は西洋人の来航ともリンクしており、正祖晩年の1797年にはウィリアム・ロバート・ブロートンに率いられた英国軍艦プロヴィデンス号が釜山に漂着するという出来事もあった。
 18世紀最後の四半世紀をほぼカバーした正祖の時代は、朝鮮社会の大きな転換点に当たっており、正祖は彼なりに時代の波をとらえた改革を進めていたが、1800年、道半ばにして没した。
 彼の政治的失敗は、父荘献世子の死にも関与した英祖の野心的な継室貞純王后に報復せず、生かしておいたことだったかもしれない。正祖よりも長生した彼女は、正祖没後、再び動き出し、正祖の息子の23代純祖を垂簾聴政によって操り、正祖の諸改革を覆してしまうのである。


§14 宗猪三郎〈義功〉(1771年‐1785年)/義功(1773年‐1813年)

 10代藩主宗義暢が1778年に死去した時、彼には三人の幼年の息子たちが残されていた。そのうち最年長の四男猪三郎がまず家督を継いだが、彼は病弱であったのか、慣例であった将軍との御目見も果たさないまま、1785年、15歳で夭折する。
 当然継嗣もなく、宗家はお家断絶危機に直面する。ここで発揮されたのが、宗氏お家芸とも言える偽装工作であった。重臣らは慎重に幕閣とも謀ったうえ、死亡したのは末男の種寿であることにし、六男の富寿が猪三郎になりすまして継承するという工作を幕府黙認の下に行なったのである。
 こうして富寿が実質上の12代藩主におさまり、元服後は義功〔よしかつ〕を名乗り、先代の故・猪三郎にも偽装のため、同名を追贈した。とはいえ、就任時12歳だった義功治世の初期は重臣による集団指導体制であり、親政を開始したのは元服後の1787年以降のことである。
 義功は同時代の朝鮮国王正祖に似て、文教政策に力を入れ、新たな藩校として講学所(思文館)を開設したほか、後には九州本土側の飛び地田代領にも東明館を開設している。そのほか、幕府に数十年先立って、武芸の訓練を施す講武所を開設するなど、文武での人材基盤の強化に努めた。
 また義功の時代には、異国船を警戒する幕府の命により遠見番所を設置したほか、朝鮮への外国船来航にも対処するため、釜山倭館にも兵士を配置するなど、防備体制の強化を強いられたため、兄の時代に15万両にまで達していた幕府からの借財を含め、藩財政を圧迫した。
 しかし、財政難は解消されず、倹約令も実効を見なかった。義功自身も病気がちで指導力に欠けたため、家臣団の派閥・権益争いなどが絶えなかった。しかし在位期間は27年と比較的長く、死の前年には次男に無事家督を譲り、隠居した。

2017年10月 1日 (日)

私家版朝鮮国王列伝[増補版](連載第16回)

十六 英祖・李昑(1694年‐1776年)

 20代景宗が急死した後を受けて即位した異母弟の21代英祖は、生母淑嬪崔氏が最下層の賤民階級出自という異例の王である。景宗の生母禧嬪張氏も中人階級出自ながら一時は王妃に昇格した異例の人物であったように、父王である19代粛宗の姻戚には出自身分を問わない気風があったようである。
 兄景宗の急死は延礽君を名乗っていた世弟英祖もしくはその支持勢力である老論派による毒殺とする風評もあるが、真相は不明のままである。ただ、英祖は即位するや、兄王の支持勢力であった少論派を排除し、老論派政権を形成したことはたしかである。
 しかし、1728年に少論派によるクーデター未遂事件(戊申政変)を経験した英祖は父王のように相対立する党派を交互に入れ替える「換局」の手法を採らず、老論派と少論派を平等に遇し、相互に牽制させる「蕩平策」と呼ばれる勢力均衡策を編み出した。
 この方法で英祖は以後、長期にわたる安定的な治世を維持した。その間、減税策や飢饉対策となるサツマイモ栽培の奨励など、民生に配慮する政治を行なった。また印刷技術の改良により、書籍の出版を支援し、庶民の知識の向上も図るなど、生母が下層階級出自の英祖の治世は歴代王の誰よりも庶民に篤い傾向を見せた。
 しかし、治世後半期、健康問題を抱えた英祖は後継者の荘献世子に代理聴政を取らせるようになっていたところ、少論派に近い荘献世子は老論派と対立し、1762年、老論派による告発により、英祖の命で廃位、米櫃への監禁による餓死という残酷な手法で処刑された。
 荘献世子の罪状は殺人を含む非行とされていたが、彼は当時、政争の中で精神を病むようになっていたとされ、荘献世子の刑死を招いた壬午士禍は、当時英祖の継室貞純王后を後ろ盾とした老論派による謀略だった可能性も指摘される。
 ただ、英祖は荘献世子存命中の1759年に荘献の子で自身の孫に当たる8歳の李祘を世孫に冊立していたところを見ると、荘献世子は実際病んでおり、後継候補としての可能性は事実上すでに消失しかけていたのかもしれない。
 後に、英祖は荘献世子に「思悼世子」の諡号を追贈したが、完全に赦したわけではなく、世孫李祘を正式に後継者とするに当たり、夭折した長男孝章世子の養子としたうえで後を託している。こうして、英祖は李氏王朝歴代王では最長の52年に及ぶ治世を終え、これまた歴代王で最長寿の83歳で死去した。
 英祖は強力だった父王粛宗の後継者にふさわしいまさに英君であり、その善政は次代の孫正祖にも継承された。粛宗から短命の景宗をはさみ、英祖、そして正祖の治世が終わる18世紀末年までの120年余りは、完全には封じ込め難い党争に左右されながらも、朝鮮王朝にとって最後の繁栄期だったと言える。


§13 宗義如(1716年‐1752年)/義蕃(1717年‐1775年)

 宗義如〔よしゆき〕は先代義誠の嫡男であったが、父が1730年に死去した際は年少のため家督を継げず、二年間は叔父の方熈〔みちひろ〕が中継ぎ的に藩主を務め、32年に正式に藩主となった。義如は享保元年の生まれであり、彼が藩主となった時、幕府側では将軍吉宗による改革が断行されていた。
 しかし、吉宗の享保改革は、対馬藩にとっては悪夢の一面があった。それは朝鮮貿易における主要な輸入品であった木綿や朝鮮人参の国産化奨励策である。特に後者は義如が藩主となる直前、日光御薬園にて国産化に成功、幕府は諸藩のみならず、一般向けにも国産人参の種子(御種人参)を配布し、栽培が普及したことから、1760年代には輸入の必要性がほぼ消失してしまったのである。
 このため、対馬藩の生命線である朝鮮貿易の収支が落ち込み、かねてからの財政難を悪化させた。そのため、家臣の知行借り上げや幕府からの年一万両に及ぶ補助金支給といった緊急経済対策を講じる羽目となった。そのうえ、義如自身も52年、折から流行していた天然痘のため急逝した。
 嫡男はまだ幼少のため、後を継いだのは、1739年以来、家老職にあった弟の義蕃〔よししげ〕であった。彼は家老として幕府からの補助金獲得交渉に当たるなど、兄藩主の右腕として藩政を支えていた。義蕃は十年の治世の後、甥で義如の嫡男義暢〔よしなが〕に譲位し隠居したが、自身が死去する前年まで実権を保持するなど野心的な一面があった。
 しかも、義暢は親政開始から四年で死去したため、義蕃の治世はほぼ義蕃時代の継続期間であった。この間も財政難は続き、朝鮮通信使接待費まで幕府からの援助に頼り、元来難儀な離島からの参勤交代を三年一度に軽減する措置を受けるなど、藩の維持に苦心している。

2017年9月20日 (水)

私家版朝鮮国王列伝[増補版](連載第15回)

十五 粛宗・李焞(1661年‐1720年)/景宗・李昀(1688年‐1724年)

 父の第18代顕宗の後を受けて1674年に14歳で即位した第19代粛宗は、朝鮮王朝では久々に半世紀近い長期治世を保つ王となった。彼は政治的にも早熟と見え、年少で即位したにもかかわらず、当初から親政を試みた。
 しかし、当時の朝廷では顕宗時代の党争を制した南人派が専横していたため、粛宗は1680年、自ら介入して南人派を追放、西人派の政権に立て替えた(庚申換局)。西人には、嬪の立場から王妃、さらに大妃に栄進した母后の明聖王后や粛宗正室の仁顕王后も付いてこれを支えた。
 ところが、王と王妃の支持を得て国政を握った西人派も間もなく、王の外戚に近い少論派とこれに批判的な老論派とに分裂・抗争するありさまであった。そこで、粛宗は89年、一転して西人派を追放して、南人派を呼び戻した(己巳換局)。
 当時の南人派は粛宗の野心的な嬪で、後の20代景宗を産んだ禧嬪張氏を後ろ盾としており、89年の己巳換局は子どもを産めなかった仁顕王后を廃位して、禧嬪張氏を王妃に昇格させる彼女と南人派の策動という一面があった。
 禧嬪張氏は支配階層両班より下位の中人と呼ばれる一種の中産階級出自(生母は賎民)から王妃に栄進した異例の人物であるが、その野心家ぶりのゆえに「悪女」とみなされることも多い。実際、粛宗は彼女を頂点とする南人派の専横を懸念し、94年に再度介入して張氏を嬪に降格、仁顕王后を復位させたのであった(甲戌換局)。
 張氏は最終的に1701年、仁顕王后の死去に関連し、これを呪詛したとする罪で賜薬により処刑されたが、これは復権した西人派の謀略とも言われる(彼女の性格からすれば、王妃への復位を狙い、実際に呪詛した可能性もなくはない)
 こうして粛宗時代の前半期は党争とそれに王自らが介入して政権を立て替える「換局」と呼ばれる事態の繰り返しであった。しかし、こうした王主導での一種の政権交代が王権強化にとってプラスに作用した可能性もあり、粛宗は強力な王権を背景に内政外交上かなりの成果を上げている。
 まず税制面では従来地域限定適用にとどまっていた大同法の適用を咸鏡道、平安道、済州島を除く全域に拡大した。またかねてなかなか定着しなかった貨幣経済を普及させるため、統一銅銭・常平通宝を常時発行し、全国に流通させた。
 外交通商面では徳川幕府治下で安定繁栄し始めていた日本との関係を重視し、在位中三度にわたり通信使を派遣したほか、倭館貿易の振興にも努めた。また国境画定にも積極的で、大陸側では清との間の白頭山定界を明確にしたほか、日本との間でも鬱陵島の領有権を明確にした。 
 さらに従来タブーとされた歴史修正に踏み込んだのも粛宗の特質であり、彼は第7代世祖が起こした癸酉靖難で犠牲となった「死六臣」の名誉回復や廃位され年少で処刑された6代端宗の追贈などを主導したが、こうしたことも粛宗の強力な王権なくしてはあり得なかっただろう。
 粛宗時代の後半期は比較的平穏であったが、結局嫡男は生まれず、禧嬪張氏が産んだ息子を世子とするほかなかった。こうして1720年、粛宗の死を受けて即位したのが20代景宗である。しかし、彼は生母が処刑されたことを契機に精神疾患にかかっていたと言われ、王としては父と比べるべくもない弱体であった。
 そこで、当時実権を握っていた西人‐老論派はより壮健聡明と見られた異母弟の延礽君を後継者の世弟に立てたうえ、延礽君の代理聴政をもくろむが、これに少論派が反撃、老論派を弾圧し追い落とした。
 実権を握った少論派は病弱で生殖も望めない景宗に養子を取って延礽君を排除しようとするも、24年に景宗が急死したことで、このもくろみも潰えたのであった。後継者は予定どおり延礽君で決まり、これが第21代英祖となる。


§12 宗義方(1684年‐1718年)/義誠(1692年‐1730年)

 宗義方〔よしみち〕は兄の4代藩主義倫が夭折した後を10歳ほどで継いだが、当時はまだ父の義真が後見役として藩政を掌握していたため、義方が親政を開始したのは父が没した1702年以降のことである。
 義方時代の事績としては、農民を武装動員し、対馬農業の基軸であった焼畑の敵となる猪や鹿を駆除する「猪鹿追詰」に成功したことがある。
 地方自治体における害獣対策の先駆けとも言えるこの策は、時の将軍綱吉が看板政策としていた「生類憐みの令」に抵触する恐れのある政策であったが、問責されなかったのは、「生類憐みの令」の運用が存外柔軟であったとする近年の説を裏付けるかもしれない。
 一方、義方は同時代の朝鮮側で対日関係を重視した粛宗が派遣した朝鮮通信使の接待役を務め、特に6代将軍家宣の就任祝いとして朝鮮通信使が来日した際の接待を行なった功績により、江戸幕府から肥前の飛び地で若干の加増を認められた。
 とはいえ、実高は2万石程度の小藩に変わりなかったうえ、義方の時代には父義真時代の繁栄が翳り始め、財政難が顕著になっていた。そこで、倹約令を出するも、効果は見られなかった。
 義方には嫡子がなく、後は弟の義誠〔よしのぶ〕が養子として継いだが、義誠もまた財政難に苦しみ、倹約令を発するも、効果は見られなかった。結局、義方・義誠兄弟藩主の通算36年余りは、対馬藩にとって長い斜陽の始まりの時代であったと言える。

2017年9月10日 (日)

私家版朝鮮国王列伝[増補版](連載第14回)

十四 孝宗・李淏(1619年‐1659年)/顕宗・李棩(1641年‐1674年)

 17代孝宗は、16代仁祖の次男(鳳林大君)として、丙子の乱で朝鮮が清に敗れた後、兄の昭顕世子とともに清に人質として送られた。抑留時代の鳳林大君は世子である兄を守り抜くため、兄の代わりに清の側で戦場に赴くことすらあった。
 ところが、8年間の抑留生活の後、1645年に帰国した昭顕世子は、国王の居室で急死した。彼は抑留中、中国大陸に現われていた西洋人宣教師と接触し、西洋的文物に感化され、また清に接近しすぎたため、警戒心を強めた仁祖と確執していたとされる。
 そのため、昭顕の急死には暗殺が疑われたが、真相は不明である。しかし昭顕の正室姜氏までが処刑され、子どもたちも流刑に処せられたことから、昭顕一家を排除する政変があったことは間違いないと見られる。
 結果として、49年の仁祖の死去に際しては、次男の鳳林大君が即位した。これが17代孝宗である。実際のところ、彼も抑留中に兄ととともに西洋人と接触していたのだが、同時に鳳林大君には新たな技術を取り入れ、朝鮮を強化し、清に反攻しようとするナショナリストとしての一面があった点が兄とは違っていた。
 そうした観点から、孝宗はまず軍備増強を即位後最初の課題とし、清への反転攻勢(北伐)を目指した。折りしも、オランダ東インド会社のヘンドリック・ハメル一行が漂着すると、孝宗は彼らを抑留して召し抱え、朝鮮初のマスケット銃の製造を命じている。
 とはいえ、明を打倒し、いよいよ中国大陸の覇者としての地位を固めた清の強大な軍事力に対抗することなど、事実上不可能であった。皮肉にも、孝宗の下で増強された朝鮮軍は清の要請により二度にわたる対ロシア戦に援護参戦し、戦果を挙げたのだった。
 孝宗が治世10年にして59年に死去すると、長男の18代顕宗が円滑に王位を継承した。しかし彼の治世では、父の時代には鳴りを潜めていた党争が再燃した。それは仁祖継室の慈懿大妃が服すべき服喪期間という儒教的な礼節問題(礼訟)の形を取りつつ、仁祖反正以来政権の座にあった西人派に対して、閉塞していた南人派が仕掛けた権力闘争であった。
 最初の礼訟は孝宗の死に際して、その翌年60年に持ち上がり、この時は西人派が勝利して権力を維持したが、74年に孝宗妃の仁宣王后が死去した際に持ち上がった第二次礼訟では南人派が勝利し、形勢が逆転した。
 こうした党争が再び宮廷を揺るがす最中、顕宗も治世15年ほどにして、死去したのである。父の孝宗時代を通算すれば25年になるが、この間、朝鮮は清への従属的な関係を強いられつつも、独自に近代的な文物を摂取し始めた模索の時期だったとも言える。


§
11 宗義真(1639年‐1702年)/義倫(1671年‐1694年)

 宗義真が先代の父義成を継いで第3代対馬藩主となったのは1657年、かの柳川一件のスキャンダルから20年の時を経て藩政が一応安定した時期であった。
 先代も、日本最古の銀山とされながら中世以来放置されていた対馬銀山の再開発や朝鮮通信使迎賓の簡素化を通じた財政改革に着手していたが、義真もこれを継承し、藩政全般の改革に乗り出した。ことに、江戸時代には各藩の主流となっていく蔵前知行制への移行である。
 この支配構造の改革は従来の封建的な領地安堵による知行から、石高に応じた俸禄による知行への変更であり、封建制を抜け出してある種の近代的な官僚制への過渡期となるような時代の変化に対応していたが、米作が低調で焼畑農業が主流だった対馬の実情に合わせ、焼畑の生産力を基準とする間高〔けんだか〕制という特殊な制度が採用された。
 また藩士や寺社への土地の集中を是正すべく、全国の藩に先駆けて、均田制度を実施した。すなわち、領内の土地をいったん藩に収公したうえ、あらためて農民に均分し、一年ごとに用益者を交替させる均田割替制であり、均田制度としても最も徹底したものである。
 しかし南九州の辺境領主島津氏の薩摩藩と同様に、兵農分離が進まず、地方給人による封建的な農民支配が残存する対馬藩では、義真の改革は不評であり、家臣団の不満が爆発した。その結果、知行制度改革の先頭に立って、その基礎となる寛文検地を実施した責任者を死罪に処すことを余儀なくされた。
 とはいえ、義真の改革は港湾整備から運河掘削、さらには小学校と称する藩校の建設など多岐にわたっており、その全体が否定されたわけではなく、1692年の隠居後も後を継いだ義倫〔よしつぐ〕、義倫夭折後は義方〔よしみち〕という二人の息子を後見する大御所として終生実権を保持した。
 対朝鮮関係では、祖父の時代に建設された釜山の豆毛浦倭館に代え、さらに広大な10万坪に及ぶ草梁倭館を建設し、新たな日本人居留地区として整備したのも義真の事績である。

2017年8月17日 (木)

私家版朝鮮国王列伝[増補版](連載第13回)

十三 仁祖・李倧(1595年‐1649年)

 16代仁祖は14代宣祖の孫に当たり、伯父の光海君を打倒した西人派のクーデターによって擁立された。そのため、このクーデターは仁祖反正とも称される。クーデターに際して最大の動機となったのは、光海君の中立的外交政策であった。
 その点、西人派は親明・反後金の保守的外交政策を掲げ、光海君と対立した。しかし、親明・反後金政策は、間もなく明が倒れ、後金が清として中国大陸の新たな覇者となったことにより、かえって国難を招くことになる。
 まず1627年、明の朝鮮駐留軍を撃破した後金軍に侵攻され、朝鮮は窮地に陥る。この時は後金に抑留されていた朝鮮武将の仲介により和議が成立するも、朝鮮は後金を兄とする兄弟盟約の締結を余儀なくされた。
 この後、明を打倒し、清朝を樹立した2代皇帝ホンタイジは36年、朝鮮に対して従来の兄弟関係から君臣関係への移行を要求してきた。仁祖政権は一部の有力な宥和論を退けてこれを拒否、戦争準備に入った。
 しかし、これは両国の軍事力の格差を見誤る策であった。36年、軍事力で勝る清は10万の大軍をもって電撃作戦で侵攻、わずか5日で首都漢城を制圧した。仁祖は漢城南方に退避して抗戦するも、45日で降伏した。
 その結果、仁祖はホンタイジの前で臣下として三跪九叩頭の礼を強制される屈辱を味わったうえ、朝鮮は11項目から成る従属的な講和条件をもって清の冊封に下ることとなり、この関係は以後王朝最期まで続く。かくして、仁祖反正はかえって朝鮮の国際的な地位を低める結果をもたらしたのである。
 一方、清に対する従属的な関係を強いられたはけ口を対日修好関係に求めるべく、仁祖は、光海君時代までは秀吉による朝鮮侵略の戦後処理を目的とした回答兼刷還使という名目での朝鮮通信使を正式の通信使に格上げさせつつ、在位中に三度派遣している。
 仁祖は26年在位した後、1649年に死去するが、以後の朝鮮国王はすべて仁祖の子孫の系統で占められることとなったので、清への従属という新展開とともに、爾後、王統的には「仁祖朝」とも呼ぶべき新たな歴史が始まると言える。


§10
 宗義成(1604年‐1657年)

 宗義成は、近世大名対馬藩主宗氏二代目として、初代の父義智の後を継いだ。二代目にはおうおう苦難がのしかかることが多いが、彼の場合は藩の存続に関わる重大な不祥事であった。先代が幕命により朝鮮との国交回復交渉に当たっていた際、幕府の国書を偽造していた一件が発覚したのである。
 対馬藩がこのような挙に出たのは、交渉過程で朝鮮側が幕府の国書の先提出を要求してきたところ、そのような屈辱的対応をしかねたことにあったようである。結局、藩では幕府の国書を改ざんして形式上朝鮮側の要求に応じつつ、朝鮮側の「回答使」を幕府側が求めた正式の「通信使」と偽って、その返書も改ざんするという二重改ざんという手の込んだ偽装で交渉をまとめていたのである。
 実のところ、こうした対朝鮮関係での文書偽造は、宗氏にとっては中世の守護大名時代からの常套手段であり、ある種のお家芸であったのだが、この件に限って露見したのは、自ら改ざんにも関与した家老柳川調興〔しげおき〕の内部告発による。
 野心家で、幕府中枢ともつながっていた調興は幕府直臣の旗本に昇進することを狙って義成と対立したため、対抗策として内部告発に出たようである。この一件は時の将軍家光自らが裁く公開訴訟に発展したが、調興敗訴・弘前藩預かり、義成は咎めなしという結果に終わった。
 このように内部告発者側だけが責任を問われたため、「柳川一件」とも称される不公平な裁定は、おそらく幕府としても、朝鮮情勢に明るい宗氏の存続を認めたほうが得策という政治判断の結果であろう。しかし、藩で対朝鮮外交に当たっていた調興や、臨済宗僧侶規伯玄方らの実務者が罪状を問われ追放された結果、宗氏の朝鮮外交は行き詰まった。
 それに付け入る形で、幕府は新たに宗氏の対朝鮮外交を補佐する朝鮮修文職を置き、京都五山僧を対馬に派遣する制度を創設した。これにより、以後の対朝鮮外交では幕府の統制権と宗氏の代官的性格が強まるのである。これは、家光政権の情報・貿易統制=「鎖国」政策とも関連する大きな転換点であった。

2018年8月
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