私家版朝鮮国王列伝[増補版]

2017年9月20日 (水)

私家版朝鮮国王列伝[増補版](連載第15回)

十五 粛宗・李焞(1661年‐1720年)/景宗・李昀(1688年‐1724年)

 父の第18代顕宗の後を受けて1674年に14歳で即位した第19代粛宗は、朝鮮王朝では久々に半世紀近い長期治世を保つ王となった。彼は政治的にも早熟と見え、年少で即位したにもかかわらず、当初から親政を試みた。
 しかし、当時の朝廷では顕宗時代の党争を制した南人派が専横していたため、粛宗は1680年、自ら介入して南人派を追放、西人派の政権に立て替えた(庚申換局)。西人には、嬪の立場から王妃、さらに大妃に栄進した母后の明聖王后や粛宗正室の仁顕王后も付いてこれを支えた。
 ところが、王と王妃の支持を得て国政を握った西人派も間もなく、王の外戚に近い少論派とこれに批判的な老論派とに分裂・抗争するありさまであった。そこで、粛宗は89年、一転して西人派を追放して、南人派を呼び戻した(己巳換局)。
 当時の南人派は粛宗の野心的な嬪で、後の20代景宗を産んだ禧嬪張氏を後ろ盾としており、89年の己巳換局は子どもを産めなかった仁顕王后を廃位して、禧嬪張氏を王妃に昇格させる彼女と南人派の策動という一面があった。
 禧嬪張氏は支配階層両班より下位の中人と呼ばれる一種の中産階級出自(生母は賎民)から王妃に栄進した異例の人物であるが、その野心家ぶりのゆえに「悪女」とみなされることも多い。実際、粛宗は彼女を頂点とする南人派の専横を懸念し、94年に再度介入して張氏を嬪に降格、仁顕王后を復位させたのであった(甲戌換局)。
 張氏は最終的に1701年、仁顕王后の死去に関連し、これを呪詛したとする罪で賜薬により処刑されたが、これは復権した西人派の謀略とも言われる(彼女の性格からすれば、王妃への復位を狙い、実際に呪詛した可能性もなくはない)
 こうして粛宗時代の前半期は党争とそれに王自らが介入して政権を立て替える「換局」と呼ばれる事態の繰り返しであった。しかし、こうした王主導での一種の政権交代が王権強化にとってプラスに作用した可能性もあり、粛宗は強力な王権を背景に内政外交上かなりの成果を上げている。
 まず税制面では従来地域限定適用にとどまっていた大同法の適用を咸鏡道、平安道、済州島を除く全域に拡大した。またかねてなかなか定着しなかった貨幣経済を普及させるため、統一銅銭・常平通宝を常時発行し、全国に流通させた。
 外交通商面では徳川幕府治下で安定繁栄し始めていた日本との関係を重視し、在位中三度にわたり通信使を派遣したほか、倭館貿易の振興にも努めた。また国境画定にも積極的で、大陸側では清との間の白頭山定界を明確にしたほか、日本との間でも鬱陵島の領有権を明確にした。 
 さらに従来タブーとされた歴史修正に踏み込んだのも粛宗の特質であり、彼は第7代世祖が起こした癸酉靖難で犠牲となった「死六臣」の名誉回復や廃位され年少で処刑された6代端宗の追贈などを主導したが、こうしたことも粛宗の強力な王権なくしてはあり得なかっただろう。
 粛宗時代の後半期は比較的平穏であったが、結局嫡男は生まれず、禧嬪張氏が産んだ息子を世子とするほかなかった。こうして1720年、粛宗の死を受けて即位したのが20代景宗である。しかし、彼は生母が処刑されたことを契機に精神疾患にかかっていたと言われ、王としては父と比べるべくもない弱体であった。
 そこで、当時実権を握っていた西人‐老論派はより壮健聡明と見られた異母弟の延礽君を後継者の世弟に立てたうえ、延礽君の代理聴政をもくろむが、これに少論派が反撃、老論派を弾圧し追い落とした。
 実権を握った少論派は病弱で生殖も望めない景宗に養子を取って延礽君を排除しようとするも、24年に景宗が急死したことで、このもくろみも潰えたのであった。後継者は予定どおり延礽君で決まり、これが第21代英祖となる。


§12 宗義方(1684年‐1718年)/義誠(1692年‐1730年)

 宗義方〔よしみち〕は兄の4代藩主義倫が夭折した後を10歳ほどで継いだが、当時はまだ父の義真が後見役として藩政を掌握していたため、義方が親政を開始したのは父が没した1702年以降のことである。
 義方時代の事績としては、農民を武装動員し、対馬農業の基軸であった焼畑の敵となる猪や鹿を駆除する「猪鹿追詰」に成功したことがある。
 地方自治体における害獣対策の先駆けとも言えるこの策は、時の将軍綱吉が看板政策としていた「生類憐みの令」に抵触する恐れのある政策であったが、問責されなかったのは、「生類憐みの令」の運用が存外柔軟であったとする近年の説を裏付けるかもしれない。
 一方、義方は同時代の朝鮮側で対日関係を重視した粛宗が派遣した朝鮮通信使の接待役を務め、特に6代将軍家宣の就任祝いとして朝鮮通信使が来日した際の接待を行なった功績により、江戸幕府から肥前の飛び地で若干の加増を認められた。
 とはいえ、実高2万石程度の小藩に変わりなかったうえ、義方の時代には父義真時代の繁栄が翳り始め、財政難が顕著になっていた。そこで、倹約令を出するも、効果は見られなかった。
 義方には嫡子がなく、後は弟の義誠〔よしのぶ〕が養子として継いだが、義誠もまた財政難に苦しみ、倹約令を発するも、効果は見られなかった。結局、義方・義誠兄弟藩主の通算36年余りは、対馬藩にとって長い斜陽の始まりの時代であったと言える。

2017年9月10日 (日)

私家版朝鮮国王列伝[増補版](連載第14回)

十四 孝宗・李淏(1619年‐1659年)/顕宗・李棩(1641年‐1674年)

 17代孝宗は、16代仁祖の次男(鳳林大君)として、丙子の乱で朝鮮が清に敗れた後、兄の昭顕世子とともに清に人質として送られた。抑留時代の鳳林大君は世子である兄を守り抜くため、兄の代わりに清の側で戦場に赴くことすらあった。
 ところが、8年間の抑留生活の後、1645年に帰国した昭顕世子は、国王の居室で急死した。彼は抑留中、中国大陸に現われていた西洋人宣教師と接触し、西洋的文物に感化され、また清に接近しすぎたため、警戒心を強めた仁祖と確執していたとされる。
 そのため、昭顕の急死には暗殺が疑われたが、真相は不明である。しかし昭顕の正室姜氏までが処刑され、子どもたちも流刑に処せられたことから、昭顕一家を排除する政変があったことは間違いないと見られる。
 結果として、49年の仁祖の死去に際しては、次男の鳳林大君が即位した。これが17代孝宗である。実際のところ、彼も抑留中に兄ととともに西洋人と接触していたのだが、同時に鳳林大君には新たな技術を取り入れ、朝鮮を強化し、清に反攻しようとするナショナリストとしての一面があった点が兄とは違っていた。
 そうした観点から、孝宗はまず軍備増強を即位後最初の課題とし、清への反転攻勢(北伐)を目指した。折りしも、オランダ東インド会社のヘンドリック・ハメル一行が漂着すると、孝宗は彼らを抑留して召し抱え、朝鮮初のマスケット銃の製造を命じている。
 とはいえ、明を打倒し、いよいよ中国大陸の覇者としての地位を固めた清の強大な軍事力に対抗することなど、事実上不可能であった。皮肉にも、孝宗の下で増強された朝鮮軍は清の要請により二度にわたる対ロシア戦に援護参戦し、戦果を挙げたのだった。
 孝宗が治世10年にして59年に死去すると、長男の18代顕宗が円滑に王位を継承した。しかし彼の治世では、父の時代には鳴りを潜めていた党争が再燃した。それは仁祖継室の慈懿大妃が服すべき服喪期間という儒教的な礼節問題(礼訟)の形を取りつつ、仁祖反正以来政権の座にあった西人派に対して、閉塞していた南人派が仕掛けた権力闘争であった。
 最初の礼訟は孝宗の死に際して、その翌年60年に持ち上がり、この時は西人派が勝利して権力を維持したが、74年に孝宗妃の仁宣王后が死去した際に持ち上がった第二次礼訟では南人派が勝利し、形勢が逆転した。
 こうした党争が再び宮廷を揺るがす最中、顕宗も治世15年ほどにして、死去したのである。父の孝宗時代を通算すれば25年になるが、この間、朝鮮は清への従属的な関係を強いられつつも、独自に近代的な文物を摂取し始めた模索の時期だったとも言える。


§
11 宗義真(1639年‐1702年)/義倫(1671年‐1694年)

 宗義真が先代の父義成を継いで第3代対馬藩主となったのは1657年、かの柳川一件のスキャンダルから20年の時を経て藩政が一応安定した時期であった。
 先代も、日本最古の銀山とされながら中世以来放置されていた対馬銀山の再開発や朝鮮通信使迎賓の簡素化を通じた財政改革に着手していたが、義真もこれを継承し、藩政全般の改革に乗り出した。ことに、江戸時代には各藩の主流となっていく蔵前知行制への移行である。
 この支配構造の改革は従来の封建的な領地安堵による知行から、石高に応じた俸禄による知行への変更であり、封建制を抜け出してある種の近代的な官僚制への過渡期となるような時代の変化に対応していたが、米作が低調で焼畑農業が主流だった対馬の実情に合わせ、焼畑の生産力を基準とする間高〔けんだか〕制という特殊な制度が採用された。
 また藩士や寺社への土地の集中を是正すべく、全国の藩に先駆けて、均田制度を実施した。すなわち、領内の土地をいったん藩に収公したうえ、あらためて農民に均分し、一年ごとに用益者を交替させる均田割替制であり、均田制度としても最も徹底したものである。
 しかし南九州の辺境領主島津氏の薩摩藩と同様に、兵農分離が進まず、地方給人による封建的な農民支配が残存する対馬藩では、義真の改革は不評であり、家臣団の不満が爆発した。その結果、知行制度改革の先頭に立って、その基礎となる寛文検地を実施した責任者を死罪に処すことを余儀なくされた。
 とはいえ、義真の改革は港湾整備から運河掘削、さらには小学校と称する藩校の建設など多岐にわたっており、その全体が否定されたわけではなく、1692年の隠居後も後を継いだ義倫〔よしつぐ〕、義倫夭折後は義方〔よしみち〕という二人の息子を後見する大御所として終生実権を保持した。
 対朝鮮関係では、祖父の時代に建設された釜山の豆毛浦倭館に代え、さらに広大な10万坪に及ぶ草梁倭館を建設し、新たな日本人居留地区として整備したのも義真の事績である。

2017年8月17日 (木)

私家版朝鮮国王列伝[増補版](連載第13回)

十三 仁祖・李倧(1595年‐1649年)

 16代仁祖は14代宣祖の孫に当たり、伯父の光海君を打倒した西人派のクーデターによって擁立された。そのため、このクーデターは仁祖反正とも称される。クーデターに際して最大の動機となったのは、光海君の中立的外交政策であった。
 その点、西人派は親明・反後金の保守的外交政策を掲げ、光海君と対立した。しかし、親明・反後金政策は、間もなく明が倒れ、後金が清として中国大陸の新たな覇者となったことにより、かえって国難を招くことになる。
 まず1627年、明の朝鮮駐留軍を撃破した後金軍に侵攻され、朝鮮は窮地に陥る。この時は後金に抑留されていた朝鮮武将の仲介により和議が成立するも、朝鮮は後金を兄とする兄弟盟約の締結を余儀なくされた。
 この後、明を打倒し、清朝を樹立した2代皇帝ホンタイジは36年、朝鮮に対して従来の兄弟関係から君臣関係への移行を要求してきた。仁祖政権は一部の有力な宥和論を退けてこれを拒否、戦争準備に入った。
 しかし、これは両国の軍事力の格差を見誤る策であった。36年、軍事力で勝る清は10万の大軍をもって電撃作戦で侵攻、わずか5日で首都漢城を制圧した。仁祖は漢城南方に退避して抗戦するも、45日で降伏した。
 その結果、仁祖はホンタイジの前で臣下として三跪九叩頭の礼を強制される屈辱を味わったうえ、朝鮮は11項目から成る従属的な講和条件をもって清の冊封に下ることとなり、この関係は以後王朝最期まで続く。かくして、仁祖反正はかえって朝鮮の国際的な地位を低める結果をもたらしたのである。
 一方、清に対する従属的な関係を強いられたはけ口を対日修好関係に求めるべく、仁祖は、光海君時代までは秀吉による朝鮮侵略の戦後処理を目的とした回答兼刷還使という名目での朝鮮通信使を正式の通信使に格上げさせつつ、在位中に三度派遣している。
 仁祖は26年在位した後、1649年に死去するが、以後の朝鮮国王はすべて仁祖の子孫の系統で占められることとなったので、清への従属という新展開とともに、爾後、王統的には「仁祖朝」とも呼ぶべき新たな歴史が始まると言える。


§10
 宗義成(1604年‐1657年)

 宗義成は、近世大名対馬藩主宗氏二代目として、初代の父義智の後を継いだ。二代目にはおうおう苦難がのしかかることが多いが、彼の場合は藩の存続に関わる重大な不祥事であった。先代が幕命により朝鮮との国交回復交渉に当たっていた際、幕府の国書を偽造していた一件が発覚したのである。
 対馬藩がこのような挙に出たのは、交渉過程で朝鮮側が幕府の国書の先提出を要求してきたところ、そのような屈辱的対応をしかねたことにあったようである。結局、藩では幕府の国書を改ざんして形式上朝鮮側の要求に応じつつ、朝鮮側の「回答使」を幕府側が求めた正式の「通信使」と偽って、その返書も改ざんするという二重改ざんという手の込んだ偽装で交渉をまとめていたのである。
 実のところ、こうした対朝鮮関係での文書偽造は、宗氏にとっては中世の守護大名時代からの常套手段であり、ある種のお家芸であったのだが、この件に限って露見したのは、自ら改ざんにも関与した家老柳川調興〔しげおき〕の内部告発による。
 野心家で、幕府中枢ともつながっていた調興は幕府直臣の旗本に昇進することを狙って義成と対立したため、対抗策として内部告発に出たようである。この一件は時の将軍家光自らが裁く公開訴訟に発展したが、調興敗訴・弘前藩預かり、義成は咎めなしという結果に終わった。
 このように内部告発者側だけが責任を問われたため、「柳川一件」とも称される不公平な裁定は、おそらく幕府としても、朝鮮情勢に明るい宗氏の存続を認めたほうが得策という政治判断の結果であろう。しかし、藩で対朝鮮外交に当たっていた調興や、臨済宗僧侶規伯玄方らの実務者が罪状を問われ追放された結果、宗氏の朝鮮外交は行き詰まった。
 それに付け入る形で、幕府は新たに宗氏の対朝鮮外交を補佐する朝鮮修文職を置き、京都五山僧を対馬に派遣する制度を創設した。これにより、以後の対朝鮮外交では幕府の統制権と宗氏の代官的性格が強まるのである。これは、家光政権の情報・貿易統制=「鎖国」政策とも関連する大きな転換点であった。

2017年7月16日 (日)

私家版朝鮮国王列伝[増補版](連載第12回)

十二 光海君・李琿(1575年‐1641年)

 14代宣祖には長く嫡男が生まれず、その晩年は後継問題で揺れていた。庶長子の臨海君は性格上の問題から後継候補を脱落し、最有力候補は庶次子光海君だったが、これには明が長男でないことを理由に世子としての認証を拒否したため、後継者は容易に定まらなかった。
 そうした中、正室と死別した宣祖が嫡子にこだわり、後継問題の混乱を懸念する重臣らの反対を押して迎えた継室仁穆[インモク]王后が1606年に初の嫡男永昌大君を生んだことで懸念は的中し、永昌大君を推すグループ(小北派)と光海君を推すグループ(大北派)の対立が起きる。
 朝廷の党争に深入りしない主義だった宣祖が後継指名しないまま08年に死去すると、幼少の永昌大君ではなく、光海君を推す声が強まり、彼が15代国王に即位した。即位後の光海君は権力基盤を固めるため、永昌大君を処刑し、仁穆王后も廃位・幽閉するとともに、同母兄臨海君まで謀殺するという身内への容赦ない粛清を断行した。
 結果として、光海君政権は、大北派の天下となった。大北派とは、宣祖晩年に実権を握っていた東人派が南人派と北人派に分裂したうちの後者から、さらに先の後継問題をめぐって分裂した一派で、メンバーは古参官僚を主体としていた。
 光海君政権は、死の前年07年に第一回通信使を派遣して日本との和議に先鞭をつけていた父の方針を継承して、09年には成立間もない江戸幕府と正式に講和した。以後、この己酉約条が江戸時代を通じて朝日関係の基本的な修好条約として機能していく。
 また内政面では、李朝創始以来の税制であった貢納制を抜本的に改正し、これも父の在位中に食糧難対策として一年間の時限法として施行されたことのある大同法を正式に導入した。
 従来の貢納法では特産品による納税が困難であったことから、原則として土地ごとに定められた米で納税する方法に改めたのであった。この制度の施行は大地主層の両班や大商人の抵抗により当初は京畿道限定であったが、光海君の廃位後に拡大され、1677年までに一部地域を除いて、全国に拡大されていった。
 治世後期の課題は、女真系の後金(後の清)の攻勢に苦しむ明からの援軍要請であった。光海君は秀吉の朝鮮侵略時の明の援軍への謝意やかつて自身の世子冊封に反対した明への気兼ねから、援軍に応じたが、19年に大敗したため、後金と講和し、中立政策に転じた。これは間もなく後金が清として新たな中国大陸の覇者となったことからすると、先見であった。
 このように光海君は為政者として父以上の手腕を発揮したと言えるが、23年、雌伏していた西人派が幽閉中の仁穆王后を担ぎ出して決起し、光海君を拘束・廃位、江華島へ追放した。代わって、光海君の甥に当たる仁祖が即位した。
 このクーデターの結果、光海君は五代前の燕山君と並んで、後世の追贈によっても廟号を与えられない「暴君」として名を残すこととなったが、廃位直後に死亡した燕山君と異なり、20年近い配流生活を過ごし、66歳まで存命した。
 おそらく光海君が「暴君」とされたのは、異母弟や同母兄らを葬り去った身内への粛清のゆえであろうが、むしろ彼が息を吹き返した西人派によってあっけなく廃位に追い込まれたのは、「暴君」どころか、その権力基盤はなお磐石でなかったことを示している。
 光海君はその後も政治的には名誉回復されることはなかったが、これは以後の王統がすべて仁祖の子孫で占められたせいであろう。しかし現代の歴史的評価のうえでは、病的な逸脱行動が目立った燕山君とは異なり、二度にわたる日本の侵略で打撃を蒙った国土を立て直し、内政外交上実績を残した光海君は名誉回復されつつあるようである。


§9 宗義智〈続〉

 前回も見たとおり、義智は先代宣祖時代に対朝鮮関係改善の土台を築いていたが、当時、朝鮮側でも、宣祖から光海君への政権交代があった。しかし、義智は光海君の新政権とも巧みに交渉して1609年、ついに己酉約条の締結に成功した。これによって途絶していた対朝鮮貿易が再開された。
 朝鮮側は宗氏に朝鮮王朝の官職を付与し、日本国王使としての資格も認証したが、日本への警戒心はなお強く、宗氏使節団の漢城上京の原則禁止、またかつて紛争の元ともなった日本人居留民を制限するため、日本人の倭館からの禁足など厳しい統制を加えた。
 江戸幕府も宗氏を一種の辺境領主として遇し、対朝鮮の外交通商権を与え、対馬藩の負担で新たに釜山に建設された豆毛浦倭館を通じた貿易の独占権も付与するなど、厚遇している。ここには、まさに義と智を備えていたらしい義智の手腕への幕府の高評価が反映されているのだろう。
 もっとも、己酉約条交渉に当たっては、義智の養父で先代の義調が九州本土から招聘し、対朝鮮外交に当たらせていた臨済宗僧侶景轍玄蘇の補佐の功績も大きかったことはたしかである。
 しかし、徳川家康より一年先立ち1615年に48歳の壮年で義智が死去し、後を継いだ息子義成の代になると、対馬藩が朝鮮との和平交渉の過程で幕府の国書を偽造していた事実が発覚し、宗氏を揺るがす一大事に発展することになるのである。

2017年6月18日 (日)

私家版朝鮮国王列伝[増補版](連載第11回)

十一 宣祖・李昖(1552年‐1608年)

 宣祖は伯父に当たる先代の明宗の世子が夭折し、他に男子なく、しかも父の徳興大院君も早世していたことから1567年、明宗の死去を受けて14代国王に即位した。10代での即位から40年余りに及んだその治世は四期に分けられる。
 第一期は治世初期の改革期である。民生に配慮する若い国王は先代明宗が外戚を排除して開始した儒教的改革政治を継承し、引き続き士林派を重用した。その過程で、文学科目を偏重した科挙制度の改正も主導した。
 だが、この第一期の善政も士林派内部の派閥抗争のせいで暗転する。治世第二期の75年頃から始まるこの抗争は、沈義謙率いる東人派と金孝元率いる西人派の間で発生した。この両派の対立の根底には朱子学内部の理論党争があった。
 ここでは詳細に立ち入らないが、東人派は保守的で朱子の学説を踏襲する李滉、西人派は朱子の学説に拘泥せず、より合理主義的かつ実践的な志向性を持つ李珥に近い派閥であった。両派の争いは理論党争にとどまらず、官職をめぐる権力闘争に発展した。
 当初は柔軟な李珥が両派の仲介役として対立をある程度止揚していたが、84年に彼が他界すると、押さえが利かなくなり、以後は西人派と東人派の間で政権が行き来する政情不安に陥った。
 そうした中、対日防衛という重要問題をめぐる両派の対立が国家の存亡に関わる事態を招来する。元来、李珥は強兵論を説き、死の前年には女真や日本の侵略に備えるべく、「養兵十万」を宣祖に進言していた。これに対し、保守的かつある意味では平和主義の東人派は反対した。この対立は秀吉の朝鮮侵略の直前に派遣された日本視察団にも反映され、当時の東人派政権は日本の侵略可能性を警告した西人派正使の報告を無視した。
 この政策判断の誤りは、実際に警告が現実のものとなったとき、高くつくこととなった。朝鮮側では「壬辰倭乱」と呼ばれる豊臣秀吉による第一次朝鮮侵略(文禄の役)で、軽武装だった朝鮮軍は日本の封建領主連合軍を撃退できず、首都漢城は陥落、宣祖も義州まで逃亡して明の介入を要請しなければならなかった。
 しかし、明からは朝鮮朝廷の頭越しに対日講和交渉をされたあげく、その交渉も決裂して、「丁酉倭乱」と呼ばれる秀吉の第二次侵略(慶長の役)を受けるが、これは秀吉の急死による日本軍撤退という僥倖に助けられた。こうして92年の「壬辰倭乱」に始まり、98年の「丁酉倭乱」で終わる宣祖治世第三期は朝鮮王朝創始以来最大の亡国危機の時代であった。
 これを乗り切った宣祖晩年の第四期は後継者問題で揺れるが、その詳細は次の光海君の項で言及する。この時期の宣祖の外交上の功績は、豊臣政権から徳川政権に交代した日本と早期に講和し、1607年に第一回朝鮮通信使を派遣したことである。この対日国交回復を最後の事績として、宣祖は翌年死去したのである。
 その治世は中近世の過渡期にあって内憂外患に見舞われたが、自らは党争に深入りすることなく長期治世を保ち、どうにか内政外交上の課題を処理して李朝体制の命脈をつないだことは、宣祖の功績であった。


§9 宗義智(1568年‐1615年)

 宗義智〔よしとし〕は、宗氏にとって最も困難な戦国時代末期から江戸時代草創期の大変動期に宗氏当主となった人物である。本来、彼は追放された元当主宗将盛の息子の一人であったが、養父宗義調によって早世した二人の兄の後、当主に擁立された。
 しかし、秀吉の九州征伐という難局に対処するべく、いったん義調が当主に復帰したため、当主の地位が確定するのは、義調が死去した1588年である。この頃、宗氏は明を征服する際の先導役として朝鮮を日本に服属させるという無理難題を要求する秀吉の意向に沿って朝鮮との交渉を担わされ、苦慮していた。
 明の冊封国であった朝鮮が明の征服に手を貸す可能性はなく、義智の交渉も当然ながら挫折し、秀吉の朝鮮出兵を迎える。義智は名将小西行長の娘婿でもあり、行長とともに文禄・慶長の両戦役で大活躍し、戦績を上げている。朝鮮との交戦が義智の本意であったかは疑問であるが、対馬の辺境領主が天下人に逆らえる立場にはなかった。
 こうして、宗氏は秀吉配下の武将・大名としてその地位を確立するのであるが、そのことは秀吉死後に来る関ヶ原の戦いで反徳川の西軍に与するという結果をもたらすことになる。
 先にも触れたように、宗義智は豊臣派のキリシタン大名小西行長の娘婿であったことから、関ヶ原の戦いでは西軍の中心的部将として参戦、伏見城攻撃などで活躍している。しかし、周知のとおり、この天下分け目の戦いは西軍の敗北に終わった。
 義父の行長は捕らわれ、処刑されたが、義智は詰問にとどまり、改めて対馬藩を安堵される幸運を得、義父とは運命が分かれた。この特別措置は、二度にわたった秀吉の出兵で大きく損なわれた対朝鮮関係の改善を重視していた家康が誰よりも朝鮮に通じた宗氏の存在を不可欠と認識していたことによる。
 ただし、代償として、義智は最初の正室で行長の娘でもあったキリシタンの妙(洗礼名マリア)を離縁しなければならなかったが、宗氏は義智を初代とする近世大名として明治維新まで生き延びていくことになるのである。
 かくして初代対馬府中藩主となった義智にとって最初の大仕事は、朝鮮との和平条約の締結であった。しかし、当初朝鮮側の態度は硬く、朝鮮側は先行条件として、朝鮮出兵時に王陵を破壊した戦犯を引き渡すよう要求してきた。
 これに対し、対馬藩は朝鮮出兵とは全く無関係の罪人の喉を水銀で潰し、尋問に答えられぬよう発声不能にしたうえで該当の「戦犯」として引き渡すような術策を弄する交渉を展開した結果、朝鮮側の態度は軟化していった。
 これにより、早くも宣祖存命中の1605年には暫定的な和平が成立、07年には第一回朝鮮通信使の派遣にまで漕ぎ着けたのであるが、正式の和平条約の締結は宣祖の死去と続く朝鮮王朝内の政変により、持ち越しとなる。

2017年5月28日 (日)

私家版朝鮮国王列伝[増補版](連載第10回)

十 明宗・李峘(1534年‐1567年)

 短期の在位で死去した仁宗に代わって13代国王に立ったのが、年の離れた異母弟明宗であった。彼は、中宗の継室文定王后との間の子であり、即位時まだ12歳であったので、文定が大王大妃となり、垂簾聴政を取った。
 彼女は、すでに中宗晩期から弟の尹元衡とともにいわゆる小尹派を形成し国政に介入していたが、これに対抗したのが仁宗の生母章敬王后の兄尹任の率いる派閥・大尹派であった。両尹氏は親類関係ながら、激しいライバル関係に立っていた。
 仁宗の即位で一時は大尹派が実権を握るが、明宗即位により小尹派は乙巳士禍を起こして大尹派を弾圧、文定王后を後ろ盾とする国王外戚として政権を独占した。小尹派政権では、首相格である領議政に上り詰めた尹元衡の野心的な妻鄭蘭貞も権勢を張った。
 垂簾聴政は表向き明宗治世前半期の8年で終了したが、文定はその後も65年に死去するまで宮中で影響力を保持したため、明宗時代は鄭蘭貞ともども女性が権勢を張る李朝でも異例の「女人天下」の時代となった。
 中でも鄭蘭貞は妓生から身を起こし、夫の正妻を謀殺して正妻の地位を略奪したとされ、朝鮮王朝史上「悪女」の一人と目される女性権勢家であった。政治的な手腕には一定評価のある文定王后も李朝では抑圧された仏教を擁護したため批判され、総じて「女人天下」は李朝史上否定的に評される。しかし明宗が指導力を欠く中、朝廷を安定させたのは「女人天下」であったことも事実である。
 明宗は文定が没した65年になってようやく実権を取り戻し、親政を開始する。手始めに尹元衡・鄭蘭貞夫妻の粛清を図り、夫妻を問責、自殺に追い込んだ。そして士林派を呼び戻して改革を試みるが、親政開始わずか二年にして死去してしまう。兄仁宗の二の舞であった。
 こうして20年以上に及んだ明宗の治世は比較的安定していたが、大きな成果はないまま終わった。明宗には男子継承者なく、弟の子である甥の河城君が14代宣祖となる。時代は中近世の曲がり角にさしかかっていた。


§8 宗義調(1532年‐1588年)

 宗義調〔よししげ〕は1553年、強力だった先代の父晴康から家督を譲られ、宗氏当主となった。彼の任務は父の代で進展していた宗氏の戦国大名化をさらに確立させることにあった。そのためには、領地対馬を固めるのみならず、三浦の乱以来閉塞していた朝鮮通交の建て直しが急務であった。
 朝鮮通交に関しては、晴康時代に締結された丁未約条により、いっそう厳しい制約が課せられるようになっていた。そこで、義調は朝鮮当局が依然として手を焼いていた倭寇対策への協力を惜しまず、朝鮮王朝の信頼を得て、1557年には丁巳約条の締結に漕ぎ着けた。
 この条約では従来、宗氏の歳遣船を年25隻に制限されていたところを30隻に増便するという小さな成果を得たに過ぎないが、対朝鮮関係の改善と宗氏貿易の復活への契機とはなった。
 一方、1559年にはかねて当主の座を追われていた宗将盛の異母弟が謀反を起こすが、義調はこれを鎮圧、当主の座を守り通した。しかし明宗同様に実子の嫡男はなく、一族融和の意味でか、1566年の隠居後は将盛の三人の息子を次々に養子として継がせ、自身は後見人の立場で実権を保持した。
 義調が大御所として実権を持っていた間の本州では、周知のとおり、室町幕府の最終的滅亡に続き、織田氏、豊臣氏の台頭という大転換があり、九州本土では戦国大名間の抗争が激化して、戦国時代本番を迎えていた。
 そして最晩年の義調が直面した難局が秀吉の九州征伐とその後の朝鮮出兵であるが、この時期には前/次期当主の宗義智〔よしとし〕も参与しており、また朝鮮国王も明宗から宣祖に交代していたので、義調最晩年の事績については、次項に譲ることとする。

2017年5月 7日 (日)

私家版朝鮮国王列伝〔増補版〕(連載第9回)

九 中宗・李懌(1488年‐1544年)/仁宗・李峼(1515年‐1545年)

 暴君と化した燕山君を廃位に追い込んだ1506年のクーデターは「中宗反正」とも称されるように、新たな11代国王に擁立されたのは燕山君の異母弟に当たる中宗であった。しかし、燕山君即位時と同様、18歳の年少国王であり、彼の長い治世は「反正」には程遠かった。
 対外的には、治世初期の10年に三浦の乱が起きている。これは、15世紀前半以降、半島南部の三つの海港(三浦)に居留し、朝鮮当局の司法や徴税も及ばないような形で事実上自治を行なっていた日本人(恒居倭)が起こした反乱を対馬領主宗氏が援軍した武力衝突事件であり、その背景には朝鮮当局による日本人への管理統制強化への反発があった。
 三浦の乱を鎮圧した後は内政混乱が待っていた。中宗は勲旧派のクーデターで擁立されたにもかかわらず、彼らの増長を抑えるため、政権初期には燕山君時代に弾圧された士林派を復活させたため、これを巻き返しのチャンスと見た彼らの権勢が増した。
 特に15年から19年にかけては儒学者でもある趙光祖を中心とする士林派が実権を握り、儒学の理念に基づく急進的な改革を断行した。趙光祖は儒教的理想主義者であり、その主張には当時の朝鮮王朝では現実離れした点が多々あったうえ、科挙によらない人材登用や偽勲者の追放など勲旧派の権益を脅かす施策を進めたため、19年、勲旧派の謀略により、趙光祖をはじめとする士林派が弾圧され、趙光祖も流刑の後、賜死となった(己卯士禍)。
 これ以降、中宗治下では弾圧、陰謀、反逆事件が相次ぎ、燕山君時代に勝るとも劣らぬ政情不安に陥った。指導力を欠く中宗の宮廷では、勲旧派と姻戚の権力闘争が絶えなかった。晩年には継室文定王后とその親族の政治介入を招いた。ただ、唯一の救いは、燕山君と異なり中宗は暴君ではなかったことである。そのため、彼は44年に死去するまで、38年の長期治世を保った。
 中宗の死の前日に譲位を受けた長男の12代仁宗は成均館で学んだ好学の君主で、故・趙光祖の理想に基づく政治の復活によって父王時代に凋落した国政の改革を試みたが、李朝歴代国王中最短の在位わずか8か月にして死去した。
 その急死には不審な点もあり、仁宗の政治改革を快く思っていなかった育ての親である文定王后による謀殺説も提起されるが、真相は不明である。ただ、仁宗の早世は続く13代明宗の生母でもある文定王后とその親族にとっては密かな慶事であったことはたしかである。


§7 宗義盛(1476年‐1520年)/宗晴康(1475年‐1563年)

 宗義盛は先代材盛の嫡子として後を継いだが、時代は戦国期、対馬でも守護代家の権勢が増していた。そのような時に起きたのが、上記三浦の乱であった。この事件は直接には朝鮮在留日本人が起こしたものだが、義盛はこれに加勢する形で介入している。
 当時、宗氏はこうした朝鮮在留日本人に対しては三浦代官を派遣して管理するようになっていたため、乱に際してはむしろこれを鎮圧すべき立場にあったところ、援軍した背景には、当時権勢を増していた守護代家への対抗があったともされる。
 義盛は自ら軍勢を率いて参戦したが、結局は敗北した。結果は、朝鮮との通交断絶であった。しかし、それで終わらない粘りも宗氏の持ち味である。乱後から大内氏を通じた講和交渉に入り、わずか二年後には通交再開・講和条約に漕ぎ着けている。
 ただし、新条約(壬申条約)の内容は乱の根源であった恒居倭廃止はもとより、開港場は一箇所に制限、島主歳遣船の減便、通交許可審査の厳格化など、宗氏にとっては厳しい内容であった。しかし、宗氏はこれを受け入れるしかなかった。
 義盛の威信はこれによりいっそう低下したようであり、彼の没後、宗氏当主は宗家(本家)を離れ、盛長、将盛と分家に転々継承される混乱が続く。
 こうした家内混乱を収めたのが1539年、家臣団の反乱で追放された甥の先代当主将盛を継いだ宗晴康である。彼は混乱の原因であった多数の分家を整理し、宗家以外の宗氏公称を禁ずる措置を発動して、対馬所領の統一と戦国大名化を推進した。
 一度は僧籍に入っていた晴康は還俗してかなりの高齢で当主に就き、1553年に嫡子義調〔よししげ〕に家督を譲った後、当時としては異例の89歳という長寿を全うしている。年齢にかかわらず、有能かつ頑強な戦国大名型の当主であったのだろう。

2017年4月20日 (木)

私家版朝鮮国王列伝〔増補版〕(連載第8回)

八 燕山君・李㦕(1476年‐1506年)

 9代成宗が1494年に死去した後を継いだのは、18歳の世子李㦕であった。年齢的に見て大妃の後見が必要なはずであったが、生母尹氏は去る82年に賜薬を下され、処刑されていた。
 弱小両班の生まれながら成宗の寵愛を受けた王后尹氏は性格と素行に問題があり、呪詛事件を起こして降格されたうえ、尹氏のもとを訪れた成宗の顔面をひっかくという前代未聞の粗暴な不敬の罪により処刑に至ったのだった。この賜死事件が、燕山君の治世に大きな影を落とすことになる。
 即位当初こそ父王時代の施策を継承し安定した治世だったが、父王の時代に登用されるようになった士林派に対して、勲旧派の巻き返しが始まる。彼らは未熟な王を唆して士林派の追い落としを狙った。そのため、燕山君の治世では度重なる士林派弾圧が実行された。だが、弾圧は次第に相手を選ばぬものに変わっていく。
 決定的だったのは、1504年の甲子士禍である。この事件は、国王側近が生母尹氏の死の経緯を王に吹き込み、その死に関わった人物の大量検挙・処罰を断行させた事件であり、弾圧対象は士林派を越えて一部勲旧派にも及び、尹氏賜死を主導した燕山君の祖母仁粋大妃すら糾弾され憤死するほどであった。
 これらの弾圧事件は王自身が主導したというより、若い王を唆して政敵の排除を図ろうとする一部側近者らの画策によるものであり、ここには後見役を持たない若年君主の弱点が現われている。
 結果として多くの有為の人材が失われ、朝廷では姻戚や宦官が跋扈するようになった。とりわけ、賎民出身ながら芸能に優れていたため、燕山君に寵愛された後宮の張緑水は政治的にも権勢を持つようになり、その親類も栄進した。
 一方、燕山君は政務を放擲して女性たちとの遊興に耽るようになり、高麗王朝時代からの高等教育機関である成均館すら遊廓に変えてしまうほどであった。諫言する重臣は処刑され、もはや手に負えない乱心の暴君であった。
 そうした中、ついには勲旧派でさえ危機感を抱くようになり、1506年、クーデターが実行される。孤立無援状態にあった王はあえなく廃位され、江華島へ配流された。燕山君に封じられたのはこの時であり、後世の追贈を含めて廟号を持たない最初の李朝国王となった。
 このクーデターでは燕山君の側近者や先の張緑水のほか、王子も全員処刑されるという徹底した燕山君系統根絶が図られた。燕山君自身も配流からわずか二か月にして30歳で急死している。公式には病死とされているが、タイミング的には疑念もある。
 病的な燕山君の治世は李朝体制にとって一つの転機であり、これ以降、李朝ではしばらく英主を欠き、求心力を喪失した朝廷では重臣らが党争を繰り広げる動揺の時代に突入していく。


§6 宗材盛(1457年?‐1507年)

 宗材盛〔きもり〕は燕山君とほぼ同世代で重なる宗氏当主であった。偽使を用いた朝鮮通交を拡大したやり手の父貞国から家督を継承した材盛は父の政策を継承したと思われるが、時代は応仁の乱を経て戦国時代に入ろうとしていた。
 九州辺境地対馬でもその波を避けることはできなかったと見え、材盛の頃から下克上的な動きが見られる。それは、材盛が1501年に代官(事実上の守護代)に任命した一門の宗国親の権勢が増大したことである。材盛は最晩年には息子義盛に家督を生前譲与していたと見られるが、その頃には国親による領主権の侵食が顕著になっていた。そのことが、材盛の死から三年後の日朝紛争・三浦の乱にもつながる。

2017年3月16日 (木)

私家版朝鮮国王列伝[増補版](連載第7回)

七 成宗・李娎(1457年‐1495年)

 7代世祖の早世した長男義敬世子の子である9代成宗は8代睿宗が幼児を残して死去した後、祖母慈聖大妃の主導で年少にして王位に就き、成長した76年までは大妃の垂簾聴政を受けた。この時期には世祖時代からの重臣申叔舟などの旧勲派長老と姻戚が政治を采配していた。
 76年に親政を開始すると、成宗は旧勲派を遠ざけて、新興の科挙官僚集団(士林派)を重用するようになった。彼らはこの頃儒学の理論武装により実力をつけてきた地方の在郷両班層から出た官僚であり、言わば新興中産階級であった。
 このような新旧の派閥形成は専ら成宗没後に巻き返しを図る旧勲派との間の党争の原因となるのだが、さしあたり成宗の時代は、世宗以来の英君の声望高い成宗の善政が敷かれ、垂簾聴政期を含めて25年に及ぶ久々に安定した長期治世となった。
 成宗時代は世宗時代同様に文教政策が充実し、文化的には李朝の黄金期を画した。世祖時代の陰謀事件に巻き込まれ、廃止されていた集賢殿に匹敵する王立研究機関弘文館も新たに設立されている。
 特に注目されるのは、地理学の発展である。すでに垂簾聴政期に、世宗時代の朝鮮通信使の一員として訪日経験を持つ申叔舟に命じて日本と琉球の地誌として史料的価値の高い『海東諸国紀』を公刊させたほか、親政期にも全五十巻に及ぶ朝鮮地理書『東国輿地勝覧』を編纂させている。
 こうした内外地理への関心は国土の確定を示すとともに、法制度面でも未完だった『経国大典』を最終的に完成・公布した成宗時代は、李朝体制がようやく名実ともに完成した時代と言えた。
 王があと20年ほど長生していれば、この後、再び体制を動揺させることとなる政治混乱は避けられていたかもしれなかったが、短命者が少なくない一族の遺伝的体質からか、成宗は95年、38歳にして死去し、王世子にして李朝史上最悪のトラブルメーカーとなる燕山君が即位する。


§5 宗貞国(1422年‐1495年)

 宗貞国は先々代貞盛の甥に当たるが、先代成職の養子となって後を継いだ。従って、貞国以降、宗氏の系統は実質上交替したと言ってよい。なお、貞国の実父盛国は大内氏との戦いで敗死し、すでに亡かった。
 45歳を過ぎての家督継承となった貞国には、弱体であった先代成職が積み残した家内的にも外交的にも難題が待っていた。家内的課題は先代時代に分裂していた宗一族再統一であったが、貞国はこれを解決し、一族再統一を成し遂げた。
 外交的課題は宗氏の生命線である朝鮮王朝との通商関係であったが、貞国はこれをライバル関係にあった博多商人及び大内氏双方と連携することで強化するという巧みな政略を確立したのだった。それを可能にしたのは1469年(応仁三年)の将軍足利義政の命による筑前出兵であった。
 これは本来大内氏牽制を目的とし、宗氏の主家筋少弐頼忠を擁して行なわれた軍事作戦であったが、上記の朝鮮側史書『海東諸国紀』によれば、貞国は頼忠とある雪中作戦をめぐり不和になり、間もなく対馬へ帰還してしまったという。そこへ大内氏が貞国抱き込みを図り、宗‐大内連携が成立したのである。
 一方、博多商人とは貞国の筑前出兵・博多進駐の際に連携関係が成立したと見られ、これによって貞国は二大ライバルと提携しつつ、新たな形態の偽使通交に道を開いた。新たな偽使通交とは、架空名義を使った偽王城大臣使通交である。本来は在京有力守護大名名義の王城大臣使通交を騙った偽使は先代の頃から宗氏の常套手段となっていたが、貞国の代では博多商人がこれに参加する形でより頻回に行なわれるようになった。
 しかし朝鮮側でもこうした偽装を見抜き、対策として1482年に室町幕府と協議のうえ、稀少な象牙製の割符をもって通交使節の査証を行う牙符制を導入した。これにより宗氏の偽使は大幅に抑制されるが、1493年の明応の政変を機に牙符は大内氏・大友氏の手に流出してしまう。
 この出来事は宗氏が偽使を再開するチャンスであったが、貞国はすでに政変の前年に家督を息子の材盛〔きもり〕に譲って隠居、政変の翌年には死去した。時代は戦国時代の入り口にさしかかろうとしていた。

2017年2月25日 (土)

私家版朝鮮国王列伝[増補版](連載第6回)

五 文宗・李珦(1414年‐1452年)/端宗・李弘暐(1441年‐1457年)

 世襲を基本とする君主制では、名君の長期治世の後に混乱が起きることは古今東西よくあることだが、世宗大王没後の李朝もその例外ではなかった。
 世宗は晩年健康を害していたため、存命中から長男の世子李珦が1442年以降、摂政として国政を代行するようになっていた。そのため、彼が50年の父王死去を経て円滑に王位を継承し、5代文宗となるが、文宗は不運にも在位わずか2年で病没してしまう。代わって、文宗の11歳の世子李弘暐が王位を継承し、6代端宗となる。
 しかし、年少のため、当然摂政を必要としたが、生母の顕徳王后は端宗を出産した直後に産褥死しており、後宮からの後見が期待できなかったため、父文宗は臨終の際に、世宗以来の重臣や学者に息子の補佐を遺言していた。ところが53年、文宗の弟で野心家の首陽大君(後の7代成祖)がクーデターを起こして、端宗側近団を殺害・排除し、実権を掌握した(癸酉靖難)。
 結果、首陽大君が集めた側近グループ(勲旧派)が国政を壟断し、55年には端宗を退位に追い込んだため、端宗は14歳にして上王の地位に退くことになった。しかし、57年、端宗の復位を図る六人の旧重臣(死六臣)を中心とした陰謀が未然に発覚すると、上王もこれに連座する形で魯山君に降格・追放のうえ、最終的に賜薬によって処刑された。
 こうして宮廷の策謀に巻き込まれ、わずか16歳にして処刑された悲劇の前国王魯山君は、没後241年後の1698年に至り、時の19代国王粛宗によって復位のうえ、端宗の廟号を追贈されたのであった。

六 世祖・李瑈(1417年‐1468年)/睿宗・李晄(1450年‐1469年)

 前述したように、世宗の次男首陽大君はクーデターによって甥の端宗を退位させて自らが7代国王に即位した。この経緯は後世、儒教的な道理に反する王位簒奪と解釈されるようになり、遠く17世紀末、19代粛宗の時に端宗の復位や「死六臣」の名誉回復もなされたのであった。
 とはいえ、当時としては世宗没後、不安定化した国政を強権をもって立て直したのは世祖であった。世祖の政策はほぼ父王のそれの継承発展であったが、クーデター政権の脆弱性を補強するためにも意識的に独裁的な恐怖支配を行なった。端宗復位事件に際しての関与者に対する残酷な拷問・処刑もそうした表れであった。
 独裁強化のため、父王の晩年に廃されていた国王による六曹直啓制を復活させ、王への権力集中を図った。一方で、いまだ完備されていなかった基本法典の整備にも注力し、吏典・戸典・礼典・兵典・刑典・工典の六典から成る「経国大典」の編纂を主導するが、さほど長くなかった治世の間に完成・公布されたのは戸典と刑典だけであった。とはいえ、これは民事と刑事に関する重要な法制度の整備を意味した。
 世祖は晩年、ハンセン病と見られる病気に侵され、死の前年には北辺の豪族・李施愛の反乱に見舞われるなど政情が不安定化する中、世子海陽大君に譲位したうえ、68年に死去した。在位13年余りと父世宗の半分にも満たない道半ばでの他界であった。
 後継者となった8代睿宗はまだ18歳と若く、母の貞熹王后が大妃(慈聖大妃)として摂政となり、勲旧派重臣とともに国政を主導した。朝鮮最初の垂簾聴政者となった慈聖大妃は首陽大君妃だった時にも夫を𠮟咤してクーデターを唆したと言われ、自らも政治に深く関与した女性であった。 
 しかし、睿宗政権は不安定化し、そのわずか1年余りの治世では筆禍事件や謀反事件などが立て続けに起こった。そうした中、睿宗は69年、19歳で死去してしまう。政情が再び安定に向かうのは、9代国王に擁立された世宗の早世した長男の子者山君が成長し、親政を開始した76年以降のことである。


§4 宗成職(1419年?‐1467年)

 名君が世を去った後、混乱が起きたのは宗氏側でも同じであった。宗氏の威信を大いに高めた貞盛が没した後は、嫡男成職〔しげもと〕が継ぐが、彼の時代、宗氏一族は結束を欠いた。
 その結果か―上述した朝鮮側の混乱もあったか―、1450年代になると、嘉吉条約適用外の深処倭(本土日本人)名義の朝鮮通交が多発している。そのため、朝鮮側は1455年にこれら深処倭の整理統制を宗氏に要求した。
 それでも深処倭名義通交は増発していくが、これは宗氏が名義借りや通行権譲渡の形で偽使として派遣したものと考えられている。こうした偽使を成職が単独で送っていたか、それとも宗氏関係者が個別に送っていたのかは不明である。
 成職時代の宗氏は、国内的にも後退があった。嘉吉の乱の首謀者・赤松満祐の弟則繁をかくまい、朝鮮逃亡を幇助したため、大内氏らの追討を受けた旧来の主家筋少弐教頼―成職の義兄弟―の筑前復帰を支援するも、大内氏に敗れた。
 結局、宗氏の再起は、成職が嫡男を残さず1467年(応仁元年)に没した後を継いだ従弟に当たる養子貞国の手に委ねられることとなったのである。

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