私家版朝鮮国王列伝[増補版]

2017年7月16日 (日)

私家版朝鮮国王列伝[増補版](連載第12回)

十二 光海君・李琿(1575年‐1641年)

 14代宣祖には長く嫡男が生まれず、その晩年は後継問題で揺れていた。庶長子の臨海君は性格上の問題から後継候補を脱落し、最有力候補は庶次子光海君だったが、これには明が長男でないことを理由に世子としての認証を拒否したため、後継者は容易に定まらなかった。
 そうした中、正室と死別した宣祖が嫡子にこだわり、後継問題の混乱を懸念する重臣らの反対を押して迎えた継室仁穆[インモク]王后が1606年に初の嫡男永昌大君を生んだことで懸念は的中し、永昌大君を推すグループ(小北派)と光海君を推すグループ(大北派)の対立が起きる。
 朝廷の党争に深入りしない主義だった宣祖が後継指名しないまま08年に死去すると、幼少の永昌大君ではなく、光海君を推す声が強まり、彼が15代国王に即位した。即位後の光海君は権力基盤を固めるため、永昌大君を処刑し、仁穆王后も廃位・幽閉するとともに、同母兄臨海君まで謀殺するという身内への容赦ない粛清を断行した。
 結果として、光海君政権は、大北派の天下となった。大北派とは、宣祖晩年に実権を握っていた東人派が南人派と北人派に分裂したうちの後者から、さらに先の後継問題をめぐって分裂した一派で、メンバーは古参官僚を主体としていた。
 光海君政権は、死の前年07年に第一回通信使を派遣して日本との和議に先鞭をつけていた父の方針を継承して、09年には成立間もない江戸幕府と正式に講和した。以後、この己酉約条が江戸時代を通じて朝日関係の基本的な修好条約として機能していく。
 また内政面では、李朝創始以来の税制であった貢納制を抜本的に改正し、これも父の在位中に食糧難対策として一年間の時限法として施行されたことのある大同法を正式に導入した。
 従来の貢納法では特産品による納税が困難であったことから、原則として土地ごとに定められた米で納税する方法に改めたのであった。この制度の施行は大地主層の両班や大商人の抵抗により当初は京畿道限定であったが、光海君の廃位後に拡大され、1677年までに一部地域を除いて、全国に拡大されていった。
 治世後期の課題は、女真系の後金(後の清)の攻勢に苦しむ明からの援軍要請であった。光海君は秀吉の朝鮮侵略時の明の援軍への謝意やかつて自身の世子冊封に反対した明への気兼ねから、援軍に応じたが、19年に大敗したため、後金と講和し、中立政策に転じた。これは間もなく後金が清として新たな中国大陸の覇者となったことからすると、先見であった。
 このように光海君は為政者として父以上の手腕を発揮したと言えるが、23年、雌伏していた西人派が幽閉中の仁穆王后を担ぎ出して決起し、光海君を拘束・廃位、江華島へ追放した。代わって、光海君の甥に当たる仁祖が即位した。
 このクーデターの結果、光海君は五代前の燕山君と並んで、後世の追贈によっても廟号を与えられない「暴君」として名を残すこととなったが、廃位直後に死亡した燕山君と異なり、20年近い配流生活を過ごし、66歳まで存命した。
 おそらく光海君が「暴君」とされたのは、異母弟や同母兄らを葬り去った身内への粛清のゆえであろうが、むしろ彼が息を吹き返した西人派によってあっけなく廃位に追い込まれたのは、「暴君」どころか、その権力基盤はなお磐石でなかったことを示している。
 光海君はその後も政治的には名誉回復されることはなかったが、これは以後の王統がすべて仁祖の子孫で占められたせいであろう。しかし現代の歴史的評価のうえでは、病的な逸脱行動が目立った燕山君とは異なり、二度にわたる日本の侵略で打撃を蒙った国土を立て直し、内政外交上実績を残した光海君は名誉回復されつつあるようである。


§9 宗義智〈続〉

 前回も見たとおり、義智は先代宣祖時代に対朝鮮関係改善の土台を築いていたが、当時、朝鮮側でも、宣祖から光海君への政権交代があった。しかし、義智は光海君の新政権とも巧みに交渉して1609年、ついに己酉約条の締結に成功した。これによって途絶していた対朝鮮貿易が再開された。
 朝鮮側は宗氏に朝鮮王朝の官職を付与し、日本国王使としての資格も認証したが、日本への警戒心はなお強く、宗氏使節団の漢城上京の原則禁止、またかつて紛争の元ともなった日本人居留民を制限するため、日本人の倭館からの禁足など厳しい統制を加えた。
 江戸幕府も宗氏を一種の辺境領主として遇し、対朝鮮の外交通商権を与え、対馬藩の負担で新たに釜山に建設された豆毛浦倭館を通じた貿易の独占権も付与するなど、厚遇している。ここには、まさに義と智を備えていたらしい義智の手腕への幕府の高評価が反映されているのだろう。
 もっとも、己酉約条交渉に当たっては、義智の養父で先代の義調が九州本土から招聘し、対朝鮮外交に当たらせていた臨済宗僧侶景轍玄蘇の補佐の功績も大きかったことはたしかである。
 しかし、徳川家康より一年先立ち1615年に48歳の壮年で義智が死去し、後を継いだ息子義成の代になると、対馬藩が朝鮮との和平交渉の過程で幕府の国書を偽造していた事実が発覚し、宗氏を揺るがす一大事に発展することになるのである。

2017年6月18日 (日)

私家版朝鮮国王列伝[増補版](連載第11回)

十一 宣祖・李昖(1552年‐1608年)

 宣祖は伯父に当たる先代の明宗の世子が夭折し、他に男子なく、しかも父の徳興大院君も早世していたことから1567年、明宗の死去を受けて14代国王に即位した。10代での即位から40年余りに及んだその治世は四期に分けられる。
 第一期は治世初期の改革期である。民生に配慮する若い国王は先代明宗が外戚を排除して開始した儒教的改革政治を継承し、引き続き士林派を重用した。その過程で、文学科目を偏重した科挙制度の改正も主導した。
 だが、この第一期の善政も士林派内部の派閥抗争のせいで暗転する。治世第二期の75年頃から始まるこの抗争は、沈義謙率いる東人派と金孝元率いる西人派の間で発生した。この両派の対立の根底には朱子学内部の理論党争があった。
 ここでは詳細に立ち入らないが、東人派は保守的で朱子の学説を踏襲する李滉、西人派は朱子の学説に拘泥せず、より合理主義的かつ実践的な志向性を持つ李珥に近い派閥であった。両派の争いは理論党争にとどまらず、官職をめぐる権力闘争に発展した。
 当初は柔軟な李珥が両派の仲介役として対立をある程度止揚していたが、84年に彼が他界すると、押さえが利かなくなり、以後は西人派と東人派の間で政権が行き来する政情不安に陥った。
 そうした中、対日防衛という重要問題をめぐる両派の対立が国家の存亡に関わる事態を招来する。元来、李珥は強兵論を説き、死の前年には女真や日本の侵略に備えるべく、「養兵十万」を宣祖に進言していた。これに対し、保守的かつある意味では平和主義の東人派は反対した。この対立は秀吉の朝鮮侵略の直前に派遣された日本視察団にも反映され、当時の東人派政権は日本の侵略可能性を警告した西人派正使の報告を無視した。
 この政策判断の誤りは、実際に警告が現実のものとなったとき、高くつくこととなった。朝鮮側では「壬辰倭乱」と呼ばれる豊臣秀吉による第一次朝鮮侵略(文禄の役)で、軽武装だった朝鮮軍は日本の封建領主連合軍を撃退できず、首都漢城は陥落、宣祖も義州まで逃亡して明の介入を要請しなければならなかった。
 しかし、明からは朝鮮朝廷の頭越しに対日講和交渉をされたあげく、その交渉も決裂して、「丁酉倭乱」と呼ばれる秀吉の第二次侵略(慶長の役)を受けるが、これは秀吉の急死による日本軍撤退という僥倖に助けられた。こうして92年の「壬辰倭乱」に始まり、98年の「丁酉倭乱」で終わる宣祖治世第三期は朝鮮王朝創始以来最大の亡国危機の時代であった。
 これを乗り切った宣祖晩年の第四期は後継者問題で揺れるが、その詳細は次の光海君の項で言及する。この時期の宣祖の外交上の功績は、豊臣政権から徳川政権に交代した日本と早期に講和し、1607年に第一回朝鮮通信使を派遣したことである。この対日国交回復を最後の事績として、宣祖は翌年死去したのである。
 その治世は中近世の過渡期にあって内憂外患に見舞われたが、自らは党争に深入りすることなく長期治世を保ち、どうにか内政外交上の課題を処理して李朝体制の命脈をつないだことは、宣祖の功績であった。


§9 宗義智(1568年‐1615年)

 宗義智〔よしとし〕は、宗氏にとって最も困難な戦国時代末期から江戸時代草創期の大変動期に宗氏当主となった人物である。本来、彼は追放された元当主宗将盛の息子の一人であったが、養父宗義調によって早世した二人の兄の後、当主に擁立された。
 しかし、秀吉の九州征伐という難局に対処するべく、いったん義調が当主に復帰したため、当主の地位が確定するのは、義調が死去した1588年である。この頃、宗氏は明を征服する際の先導役として朝鮮を日本に服属させるという無理難題を要求する秀吉の意向に沿って朝鮮との交渉を担わされ、苦慮していた。
 明の冊封国であった朝鮮が明の征服に手を貸す可能性はなく、義智の交渉も当然ながら挫折し、秀吉の朝鮮出兵を迎える。義智は名将小西行長の娘婿でもあり、行長とともに文禄・慶長の両戦役で大活躍し、戦績を上げている。朝鮮との交戦が義智の本意であったかは疑問であるが、対馬の辺境領主が天下人に逆らえる立場にはなかった。
 こうして、宗氏は秀吉配下の武将・大名としてその地位を確立するのであるが、そのことは秀吉死後に来る関ヶ原の戦いで反徳川の西軍に与するという結果をもたらすことになる。
 先にも触れたように、宗義智は豊臣派のキリシタン大名小西行長の娘婿であったことから、関ヶ原の戦いでは西軍の中心的部将として参戦、伏見城攻撃などで活躍している。しかし、周知のとおり、この天下分け目の戦いは西軍の敗北に終わった。
 義父の行長は捕らわれ、処刑されたが、義智は詰問にとどまり、改めて対馬藩を安堵される幸運を得、義父とは運命が分かれた。この特別措置は、二度にわたった秀吉の出兵で大きく損なわれた対朝鮮関係の改善を重視していた家康が誰よりも朝鮮に通じた宗氏の存在を不可欠と認識していたことによる。
 ただし、代償として、義智は最初の正室で行長の娘でもあったキリシタンの妙(洗礼名マリア)を離縁しなければならなかったが、宗氏は義智を初代とする近世大名として明治維新まで生き延びていくことになるのである。
 かくして初代対馬府中藩主となった義智にとって最初の大仕事は、朝鮮との和平条約の締結であった。しかし、当初朝鮮側の態度は硬く、朝鮮側は先行条件として、朝鮮出兵時に王陵を破壊した戦犯を引き渡すよう要求してきた。
 これに対し、対馬藩は朝鮮出兵とは全く無関係の罪人の喉を水銀で潰し、尋問に答えられぬよう発声不能にしたうえで該当の「戦犯」として引き渡すような術策を弄する交渉を展開した結果、朝鮮側の態度は軟化していった。
 これにより、早くも宣祖存命中の1605年には暫定的な和平が成立、07年には第一回朝鮮通信使の派遣にまで漕ぎ着けたのであるが、正式の和平条約の締結は宣祖の死去と続く朝鮮王朝内の政変により、持ち越しとなる。

2017年5月28日 (日)

私家版朝鮮国王列伝[増補版](連載第10回)

十 明宗・李峘(1534年‐1567年)

 短期の在位で死去した仁宗に代わって13代国王に立ったのが、年の離れた異母弟明宗であった。彼は、中宗の継室文定王后との間の子であり、即位時まだ12歳であったので、文定が大王大妃となり、垂簾聴政を取った。
 彼女は、すでに中宗晩期から弟の尹元衡とともにいわゆる小尹派を形成し国政に介入していたが、これに対抗したのが仁宗の生母章敬王后の兄尹任の率いる派閥・大尹派であった。両尹氏は親類関係ながら、激しいライバル関係に立っていた。
 仁宗の即位で一時は大尹派が実権を握るが、明宗即位により小尹派は乙巳士禍を起こして大尹派を弾圧、文定王后を後ろ盾とする国王外戚として政権を独占した。小尹派政権では、首相格である領議政に上り詰めた尹元衡の野心的な妻鄭蘭貞も権勢を張った。
 垂簾聴政は表向き明宗治世前半期の8年で終了したが、文定はその後も65年に死去するまで宮中で影響力を保持したため、明宗時代は鄭蘭貞ともども女性が権勢を張る李朝でも異例の「女人天下」の時代となった。
 中でも鄭蘭貞は妓生から身を起こし、夫の正妻を謀殺して正妻の地位を略奪したとされ、朝鮮王朝史上「悪女」の一人と目される女性権勢家であった。政治的な手腕には一定評価のある文定王后も李朝では抑圧された仏教を擁護したため批判され、総じて「女人天下」は李朝史上否定的に評される。しかし明宗が指導力を欠く中、朝廷を安定させたのは「女人天下」であったことも事実である。
 明宗は文定が没した65年になってようやく実権を取り戻し、親政を開始する。手始めに尹元衡・鄭蘭貞夫妻の粛清を図り、夫妻を問責、自殺に追い込んだ。そして士林派を呼び戻して改革を試みるが、親政開始わずか二年にして死去してしまう。兄仁宗の二の舞であった。
 こうして20年以上に及んだ明宗の治世は比較的安定していたが、大きな成果はないまま終わった。明宗には男子継承者なく、弟の子である甥の河城君が14代宣祖となる。時代は中近世の曲がり角にさしかかっていた。


§8 宗義調(1532年‐1588年)

 宗義調〔よししげ〕は1553年、強力だった先代の父晴康から家督を譲られ、宗氏当主となった。彼の任務は父の代で進展していた宗氏の戦国大名化をさらに確立させることにあった。そのためには、領地対馬を固めるのみならず、三浦の乱以来閉塞していた朝鮮通交の建て直しが急務であった。
 朝鮮通交に関しては、晴康時代に締結された丁未約条により、いっそう厳しい制約が課せられるようになっていた。そこで、義調は朝鮮当局が依然として手を焼いていた倭寇対策への協力を惜しまず、朝鮮王朝の信頼を得て、1557年には丁巳約条の締結に漕ぎ着けた。
 この条約では従来、宗氏の歳遣船を年25隻に制限されていたところを30隻に増便するという小さな成果を得たに過ぎないが、対朝鮮関係の改善と宗氏貿易の復活への契機とはなった。
 一方、1559年にはかねて当主の座を追われていた宗将盛の異母弟が謀反を起こすが、義調はこれを鎮圧、当主の座を守り通した。しかし明宗同様に実子の嫡男はなく、一族融和の意味でか、1566年の隠居後は将盛の三人の息子を次々に養子として継がせ、自身は後見人の立場で実権を保持した。
 義調が大御所として実権を持っていた間の本州では、周知のとおり、室町幕府の最終的滅亡に続き、織田氏、豊臣氏の台頭という大転換があり、九州本土では戦国大名間の抗争が激化して、戦国時代本番を迎えていた。
 そして最晩年の義調が直面した難局が秀吉の九州征伐とその後の朝鮮出兵であるが、この時期には前/次期当主の宗義智〔よしとし〕も参与しており、また朝鮮国王も明宗から宣祖に交代していたので、義調最晩年の事績については、次項に譲ることとする。

2017年5月 7日 (日)

私家版朝鮮国王列伝〔増補版〕(連載第9回)

九 中宗・李懌(1488年‐1544年)/仁宗・李峼(1515年‐1545年)

 暴君と化した燕山君を廃位に追い込んだ1506年のクーデターは「中宗反正」とも称されるように、新たな11代国王に擁立されたのは燕山君の異母弟に当たる中宗であった。しかし、燕山君即位時と同様、18歳の年少国王であり、彼の長い治世は「反正」には程遠かった。
 対外的には、治世初期の10年に三浦の乱が起きている。これは、15世紀前半以降、半島南部の三つの海港(三浦)に居留し、朝鮮当局の司法や徴税も及ばないような形で事実上自治を行なっていた日本人(恒居倭)が起こした反乱を対馬領主宗氏が援軍した武力衝突事件であり、その背景には朝鮮当局による日本人への管理統制強化への反発があった。
 三浦の乱を鎮圧した後は内政混乱が待っていた。中宗は勲旧派のクーデターで擁立されたにもかかわらず、彼らの増長を抑えるため、政権初期には燕山君時代に弾圧された士林派を復活させたため、これを巻き返しのチャンスと見た彼らの権勢が増した。
 特に15年から19年にかけては儒学者でもある趙光祖を中心とする士林派が実権を握り、儒学の理念に基づく急進的な改革を断行した。趙光祖は儒教的理想主義者であり、その主張には当時の朝鮮王朝では現実離れした点が多々あったうえ、科挙によらない人材登用や偽勲者の追放など勲旧派の権益を脅かす施策を進めたため、19年、勲旧派の謀略により、趙光祖をはじめとする士林派が弾圧され、趙光祖も流刑の後、賜死となった(己卯士禍)。
 これ以降、中宗治下では弾圧、陰謀、反逆事件が相次ぎ、燕山君時代に勝るとも劣らぬ政情不安に陥った。指導力を欠く中宗の宮廷では、勲旧派と姻戚の権力闘争が絶えなかった。晩年には継室文定王后とその親族の政治介入を招いた。ただ、唯一の救いは、燕山君と異なり中宗は暴君ではなかったことである。そのため、彼は44年に死去するまで、38年の長期治世を保った。
 中宗の死の前日に譲位を受けた長男の12代仁宗は成均館で学んだ好学の君主で、故・趙光祖の理想に基づく政治の復活によって父王時代に凋落した国政の改革を試みたが、李朝歴代国王中最短の在位わずか8か月にして死去した。
 その急死には不審な点もあり、仁宗の政治改革を快く思っていなかった育ての親である文定王后による謀殺説も提起されるが、真相は不明である。ただ、仁宗の早世は続く13代明宗の生母でもある文定王后とその親族にとっては密かな慶事であったことはたしかである。


§7 宗義盛(1476年‐1520年)/宗晴康(1475年‐1563年)

 宗義盛は先代材盛の嫡子として後を継いだが、時代は戦国期、対馬でも守護代家の権勢が増していた。そのような時に起きたのが、上記三浦の乱であった。この事件は直接には朝鮮在留日本人が起こしたものだが、義盛はこれに加勢する形で介入している。
 当時、宗氏はこうした朝鮮在留日本人に対しては三浦代官を派遣して管理するようになっていたため、乱に際してはむしろこれを鎮圧すべき立場にあったところ、援軍した背景には、当時権勢を増していた守護代家への対抗があったともされる。
 義盛は自ら軍勢を率いて参戦したが、結局は敗北した。結果は、朝鮮との通交断絶であった。しかし、それで終わらない粘りも宗氏の持ち味である。乱後から大内氏を通じた講和交渉に入り、わずか二年後には通交再開・講和条約に漕ぎ着けている。
 ただし、新条約(壬申条約)の内容は乱の根源であった恒居倭廃止はもとより、開港場は一箇所に制限、島主歳遣船の減便、通交許可審査の厳格化など、宗氏にとっては厳しい内容であった。しかし、宗氏はこれを受け入れるしかなかった。
 義盛の威信はこれによりいっそう低下したようであり、彼の没後、宗氏当主は宗家(本家)を離れ、盛長、将盛と分家に転々継承される混乱が続く。
 こうした家内混乱を収めたのが1539年、家臣団の反乱で追放された甥の先代当主将盛を継いだ宗晴康である。彼は混乱の原因であった多数の分家を整理し、宗家以外の宗氏公称を禁ずる措置を発動して、対馬所領の統一と戦国大名化を推進した。
 一度は僧籍に入っていた晴康は還俗してかなりの高齢で当主に就き、1553年に嫡子義調〔よししげ〕に家督を譲った後、当時としては異例の89歳という長寿を全うしている。年齢にかかわらず、有能かつ頑強な戦国大名型の当主であったのだろう。

2017年4月20日 (木)

私家版朝鮮国王列伝〔増補版〕(連載第8回)

八 燕山君・李㦕(1476年‐1506年)

 9代成宗が1494年に死去した後を継いだのは、18歳の世子李㦕であった。年齢的に見て大妃の後見が必要なはずであったが、生母尹氏は去る82年に賜薬を下され、処刑されていた。
 弱小両班の生まれながら成宗の寵愛を受けた王后尹氏は性格と素行に問題があり、呪詛事件を起こして降格されたうえ、尹氏のもとを訪れた成宗の顔面をひっかくという前代未聞の粗暴な不敬の罪により処刑に至ったのだった。この賜死事件が、燕山君の治世に大きな影を落とすことになる。
 即位当初こそ父王時代の施策を継承し安定した治世だったが、父王の時代に登用されるようになった士林派に対して、勲旧派の巻き返しが始まる。彼らは未熟な王を唆して士林派の追い落としを狙った。そのため、燕山君の治世では度重なる士林派弾圧が実行された。だが、弾圧は次第に相手を選ばぬものに変わっていく。
 決定的だったのは、1504年の甲子士禍である。この事件は、国王側近が生母尹氏の死の経緯を王に吹き込み、その死に関わった人物の大量検挙・処罰を断行させた事件であり、弾圧対象は士林派を越えて一部勲旧派にも及び、尹氏賜死を主導した燕山君の祖母仁粋大妃すら糾弾され憤死するほどであった。
 これらの弾圧事件は王自身が主導したというより、若い王を唆して政敵の排除を図ろうとする一部側近者らの画策によるものであり、ここには後見役を持たない若年君主の弱点が現われている。
 結果として多くの有為の人材が失われ、朝廷では姻戚や宦官が跋扈するようになった。とりわけ、賎民出身ながら芸能に優れていたため、燕山君に寵愛された後宮の張緑水は政治的にも権勢を持つようになり、その親類も栄進した。
 一方、燕山君は政務を放擲して女性たちとの遊興に耽るようになり、高麗王朝時代からの高等教育機関である成均館すら遊廓に変えてしまうほどであった。諫言する重臣は処刑され、もはや手に負えない乱心の暴君であった。
 そうした中、ついには勲旧派でさえ危機感を抱くようになり、1506年、クーデターが実行される。孤立無援状態にあった王はあえなく廃位され、江華島へ配流された。燕山君に封じられたのはこの時であり、後世の追贈を含めて廟号を持たない最初の李朝国王となった。
 このクーデターでは燕山君の側近者や先の張緑水のほか、王子も全員処刑されるという徹底した燕山君系統根絶が図られた。燕山君自身も配流からわずか二か月にして30歳で急死している。公式には病死とされているが、タイミング的には疑念もある。
 病的な燕山君の治世は李朝体制にとって一つの転機であり、これ以降、李朝ではしばらく英主を欠き、求心力を喪失した朝廷では重臣らが党争を繰り広げる動揺の時代に突入していく。


§6 宗材盛(1457年?‐1507年)

 宗材盛〔きもり〕は燕山君とほぼ同世代で重なる宗氏当主であった。偽使を用いた朝鮮通交を拡大したやり手の父貞国から家督を継承した材盛は父の政策を継承したと思われるが、時代は応仁の乱を経て戦国時代に入ろうとしていた。
 九州辺境地対馬でもその波を避けることはできなかったと見え、材盛の頃から下克上的な動きが見られる。それは、材盛が1501年に代官(事実上の守護代)に任命した一門の宗国親の権勢が増大したことである。材盛は最晩年には息子義盛に家督を生前譲与していたと見られるが、その頃には国親による領主権の侵食が顕著になっていた。そのことが、材盛死から三年後の日朝紛争・三浦の乱にもつながる。

2017年3月16日 (木)

私家版朝鮮国王列伝[増補版](連載第7回)

七 成宗・李娎(1457年‐1495年)

 7代世祖の早世した長男義敬世子の子である9代成宗は8代睿宗が幼児を残して死去した後、祖母慈聖大妃の主導で年少にして王位に就き、成長した76年までは大妃の垂簾聴政を受けた。この時期には世祖時代からの重臣申叔舟などの旧勲派長老と姻戚が政治を采配していた。
 76年に親政を開始すると、成宗は旧勲派を遠ざけて、新興の科挙官僚集団(士林派)を重用するようになった。彼らはこの頃儒学の理論武装により実力をつけてきた地方の在郷両班層から出た官僚であり、言わば新興中産階級であった。
 このような新旧の派閥形成は専ら成宗没後に巻き返しを図る旧勲派との間の党争の原因となるのだが、さしあたり成宗の時代は、世宗以来の英君の声望高い成宗の善政が敷かれ、垂簾聴政期を含めて25年に及ぶ久々に安定した長期治世となった。
 成宗時代は世宗時代同様に文教政策が充実し、文化的には李朝の黄金期を画した。世祖時代の陰謀事件に巻き込まれ、廃止されていた集賢殿に匹敵する王立研究機関弘文館も新たに設立されている。
 特に注目されるのは、地理学の発展である。すでに垂簾聴政期に、世宗時代の朝鮮通信使の一員として訪日経験を持つ申叔舟に命じて日本と琉球の地誌として史料的価値の高い『海東諸国紀』を公刊させたほか、親政期にも全五十巻に及ぶ朝鮮地理書『東国輿地勝覧』を編纂させている。
 こうした内外地理への関心は国土の確定を示すとともに、法制度面でも未完だった『経国大典』を最終的に完成・公布した成宗時代は、李朝体制がようやく名実ともに完成した時代と言えた。
 王があと20年ほど長生していれば、この後、再び体制を動揺させることとなる政治混乱は避けられていたかもしれなかったが、短命者が少なくない一族の遺伝的体質からか、成宗は95年、38歳にして死去し、王世子にして李朝史上最悪のトラブルメーカーとなる燕山君が即位する。


§5 宗貞国(1422年‐1495年)

 宗貞国は先々代貞盛の甥に当たるが、先代成職の養子となって後を継いだ。従って、貞国以降、宗氏の系統は実質上交替したと言ってよい。なお、貞国の実父盛国は大内氏との戦いで敗死し、すでに亡かった。
 45歳を過ぎての家督継承となった貞国には、弱体であった先代成職が積み残した家内的にも外交的にも難題が待っていた。家内的課題は先代時代に分裂していた宗一族再統一であったが、貞国はこれを解決し、一族再統一を成し遂げた。
 外交的課題は宗氏の生命線である朝鮮王朝との通商関係であったが、貞国はこれをライバル関係にあった博多商人及び大内氏双方と連携することで強化するという巧みな政略を確立したのだった。それを可能にしたのは1469年(応仁三年)の将軍足利義政の命による筑前出兵であった。
 これは本来大内氏牽制を目的とし、宗氏の主家筋少弐頼忠を擁して行なわれた軍事作戦であったが、上記の朝鮮側史書『海東諸国紀』によれば、貞国は頼忠とある雪中作戦をめぐり不和になり、間もなく対馬へ帰還してしまったという。そこへ大内氏が貞国抱き込みを図り、宗‐大内連携が成立したのである。
 一方、博多商人とは貞国の筑前出兵・博多進駐の際に連携関係が成立したと見られ、これによって貞国は二大ライバルと提携しつつ、新たな形態の偽使通交に道を開いた。新たな偽使通交とは、架空名義を使った偽王城大臣使通交である。本来は在京有力守護大名名義の王城大臣使通交を騙った偽使は先代の頃から宗氏の常套手段となっていたが、貞国の代では博多商人がこれに参加する形でより頻回に行なわれるようになった。
 しかし朝鮮側でもこうした偽装を見抜き、対策として1482年に室町幕府と協議のうえ、稀少な象牙製の割符をもって通交使節の査証を行う牙符制を導入した。これにより宗氏の偽使は大幅に抑制されるが、1493年の明応の政変を機に牙符は大内氏・大友氏の手に流出してしまう。
 この出来事は宗氏が偽使を再開するチャンスであったが、貞国はすでに政変の前年に家督を息子の材盛〔きもり〕に譲って隠居、政変の翌年には死去した。時代は戦国時代の入り口にさしかかろうとしていた。

2017年2月25日 (土)

私家版朝鮮国王列伝[増補版](連載第6回)

五 文宗・李珦(1414年‐1452年)/端宗・李弘暐(1441年‐1457年)

 世襲を基本とする君主制では、名君の長期治世の後に混乱が起きることは古今東西よくあることだが、世宗大王没後の李朝もその例外ではなかった。
 世宗は晩年健康を害していたため、存命中から長男の世子李珦が1442年以降、摂政として国政を代行するようになっていた。そのため、彼が50年の父王死去を経て円滑に王位を継承し、5代文宗となるが、文宗は不運にも在位わずか2年で病没してしまう。代わって、文宗の11歳の世子李弘暐が王位を継承し、6代端宗となる。
 しかし、年少のため、当然摂政を必要としたが、生母の顕徳王后は端宗を出産した直後に産褥死しており、後宮からの後見が期待できなかったため、父文宗は臨終の際に、世宗以来の重臣や学者に息子の補佐を遺言していた。ところが53年、文宗の弟で野心家の首陽大君(後の7代成祖)がクーデターを起こして、端宗側近団を殺害・排除し、実権を掌握した(癸酉靖難)。
 結果、首陽大君が集めた側近グループ(勲旧派)が国政を壟断し、55年には端宗を退位に追い込んだため、端宗は14歳にして上王の地位に退くことになった。しかし、57年、端宗の復位を図る六人の旧重臣(死六臣)を中心とした陰謀が未然に発覚すると、上王もこれに連座する形で魯山君に降格・追放のうえ、最終的に賜薬によって処刑された。
 こうして宮廷の策謀に巻き込まれ、わずか16歳にして処刑された悲劇の前国王魯山君は、没後241年後の1698年に至り、時の19代国王粛宗によって復位のうえ、端宗の廟号を追贈されたのであった。

六 世祖・李瑈(1417年‐1468年)/睿宗・李晄(1450年‐1469年)

 前述したように、世宗の次男首陽大君はクーデターによって甥の端宗を退位させて自らが7代国王に即位した。この経緯は後世、儒教的な道理に反する王位簒奪と解釈されるようになり、遠く17世紀末、19代粛宗の時に端宗の復位や「死六臣」の名誉回復もなされたのであった。
 とはいえ、当時としては世宗没後、不安定化した国政を強権をもって立て直したのは世祖であった。世祖の政策はほぼ父王のそれの継承発展であったが、クーデター政権の脆弱性を補強するためにも意識的に独裁的な恐怖支配を行なった。端宗復位事件に際しての関与者に対する残酷な拷問・処刑もそうした表れであった。
 独裁強化のため、父王の晩年に廃されていた国王による六曹直啓制を復活させ、王への権力集中を図った。一方で、いまだ完備されていなかった基本法典の整備にも注力し、吏典・戸典・礼典・兵典・刑典・工典の六典から成る「経国大典」の編纂を主導するが、さほど長くなかった治世の間に完成・公布されたのは戸典と刑典だけであった。とはいえ、これは民事と刑事に関する重要な法制度の整備を意味した。
 世祖は晩年、ハンセン病と見られる病気に侵され、死の前年には北辺の豪族・李施愛の反乱に見舞われるなど政情が不安定化する中、世子海陽大君に譲位したうえ、68年に死去した。在位13年余りと父世宗の半分にも満たない道半ばでの他界であった。
 後継者となった8代睿宗はまだ18歳と若く、母の貞熹王后が大妃(慈聖大妃)として摂政となり、勲旧派重臣とともに国政を主導した。朝鮮最初の垂簾聴政者となった慈聖大妃は首陽大君妃だった時にも夫を𠮟咤してクーデターを唆したと言われ、自らも政治に深く関与した女性であった。 
 しかし、睿宗政権は不安定化し、そのわずか1年余りの治世では筆禍事件や謀反事件などが立て続けに起こった。そうした中、睿宗は69年、19歳で死去してしまう。政情が再び安定に向かうのは、9代国王に擁立された世宗の早世した長男の子者山君が成長し、親政を開始した76年以降のことである。


§4 宗成職(1419年?‐1467年)

 名君が世を去った後、混乱が起きたのは宗氏側でも同じであった。宗氏の威信を大いに高めた貞盛が没した後は、嫡男成職〔しげもと〕が継ぐが、彼の時代、宗氏一族は結束を欠いた。
 その結果か―上述した朝鮮側の混乱もあったか―、1450年代になると、嘉吉条約適用外の深処倭(本土日本人)名義の朝鮮通交が多発している。そのため、朝鮮側は1455年にこれら深処倭の整理統制を宗氏に要求した。
 それでも深処倭名義通交は増発していくが、これは宗氏が名義借りや通行権譲渡の形で偽使として派遣したものと考えられている。こうした偽使を成職が単独で送っていたか、それとも宗氏関係者が個別に送っていたのかは不明である。
 成職時代の宗氏は、国内的にも後退があった。嘉吉の乱の首謀者・赤松満祐の弟則繁をかくまい、朝鮮逃亡を幇助したため、大内氏らの追討を受けた旧来の主家筋少弐教頼―成職の義兄弟―の筑前復帰を支援するも、大内氏に敗れた。
 結局、宗氏の再起は、成職が嫡男を残さず1467年(応仁元年)に没した後を継いだ従弟に当たる養子貞国の手に委ねられることとなったのである。

2017年2月 6日 (月)

私家版朝鮮国王列伝[増補版](連載第5回)

四 世宗・李祹(1397年‐1450年)

 前回太宗の項でも触れたように、世宗は先代太宗の三男であったが、世子だった兄が素行不良のため廃嫡されたことにより、入れ替わりで世子となり、太宗から生前譲位を受けて1418年、4代国王に即位した。
 世宗は上王として院政を敷いた父が死去した22年以降、親政を開始する。世宗の治績として最も著名なのは現代まで使用されているハングル文字の開発指導に代表される文教政策であるが、彼の治績はそれだけにとどまらず、多岐にわたっている。
 内政面では父が推進していた中央集権制の確立に努め、父の時代に作られた議政府(内閣)‐六曹(官庁)体制をいっそう集権化し、王が直接六曹に指揮命令できる直啓制を導入した(病弱化した晩年に撤回)。
 財政経済政策面では、銅銭・朝鮮通宝を発行して貨幣経済の普及を促進したが、銅銭1枚=米1升という高貨だったため、普及には至らなかった。また鉱業を統制し、明との朝貢貿易における貢納品である金・銀を朝鮮人参に改めるなど鉱山資源の管理に努めた。
 対外的には、太宗院政時代の対馬戦役の失敗を踏まえ、倭寇対策を対日友好関係の構築に求めた。その一環として在位中三度にわたる通信使を日本に派遣し、同時代の室町幕府と修好した。晩年には対馬領主の宗氏と通商協定を締結し、宗氏を被官に取り込むことで、日本側との仲介役とした。
 こうした平和外交の一方で、武力を用いた北方領土の拡張も積極的に行い、女真族支配地域への侵略戦争と占領地の入植・開拓による農地の拡大を推進した。
 こうした内政外交面の強化策を知的な面で支えたのが、積極的な文教政策であった。元来、世宗は王子時代から両親に心配されるほどの本の虫で、自身好学の君主であったことも文教政策への傾倒を促進したのであろう。
 ただ、このようなインテリ君主にありがちなこととして、世宗はイデオロギー統制にも熱心であった。すでに父の時代に始まっていた廃仏政策をいっそう強化し、寺院の閉鎖を強力に進めた。
 一方で、儒教・儒学を国教・国学として教化するべく、形骸化していた王立学問所・集賢殿を再編し、多くの儒学者を集めて多方面の研究活動に当たらせた。かのハングルを開発したのも、集賢殿の学者たちであった。
 世宗時代以降、朱子学が体制教義として確立される点では徳川幕藩時代の日本とも類似するが、徳川体制では正統朱子学が林羅山を祖とする林家が奉ずる林派に統一されたのに対し、朝鮮ではある種の思想的自由が保持され、林家に相当する世襲の御用儒家が存在しなかったため、朱子学の流派とも絡み、宮中を揺るがす党争がしばしば発生するようになった。ただ、世宗在位中はさしあたり大きな党争は発生せず、世宗時代は平穏無事であった。
 その30年余りの治世で李朝体制は強固に確立された。そのため、世宗はその業績をたたえて「大王」を冠されることが多いが、実のところ、その政策の多くは父太宗時代の継承発展であり、世宗を後継指名した決断を含め、太宗の存在なくして世宗は「大王」たり得なかったであろう。


§3 宗貞盛(1385年‐1452年)

 宗貞盛は対馬領主宗氏の支配の基礎を固めた先代貞茂の子として、家督を継いだ。奇しくも朝鮮の英君世宗即位の同年であり、在職期間も世宗とほぼ重なっていた。
 彼がまず直面したのが継承翌年の応永の外寇であった。この時、襲来した朝鮮軍は軍船227隻、兵員17285人と記録される大部隊で、倭寇取締りのベテラン李従茂将軍に率いられていた。これに対し、明らかに劣勢の対馬武士団であったが、貞盛は奮戦するとともに、台風の接近を匂わせて撤収させる情報戦も駆使して撃退した。
 朝鮮側も宗氏を討つ意図はなく、結局、再征論も沙汰止みとなった。貞盛は朝鮮側と戦後交渉に当たり、朝鮮側の要請に答えて倭寇対策を講じつつ、日本と朝鮮との通交に際して宗氏発行の渡航許可証を要する文引制を導入させ、朝鮮との通交権の独占を図った。
 これにより、宗氏は狭小な農地ではなく、対朝鮮通交権を知行として家臣団に分配することで領国支配を強化することができたのであった。総仕上げとして、1443年(嘉吉三年)に正式な通商協定を締結し(嘉吉条約)、朝鮮との通交関係を定めた。
 この条約により対馬‐朝鮮間の通交は宗氏の独占が認められるとともに、宗氏は朝鮮国王の被官という立場も保障され、室町幕府と朝鮮王朝への二重統属体制の基礎が築かれた。ただし、この条約では対馬からの歳遣船は毎年50隻を上限とされたため、宗氏の朝鮮通交は制限されたが、その後も偽使を含めた種々の手段で朝鮮への通交を活発に行なった。
 とはいえ、この時点では宗氏の朝鮮貿易独占はまだ確立されておらず、博多商人というライバルを擁したほか、百済王子の末裔を称し、独自に朝鮮との通交を行っていた周防の守護大名大内氏と対立するなど、なお不安定であった。
 そうした中にあっても、貞盛は相当なタフ・ネゴシエーターとして世宗の朝鮮王朝と渡り合い、後世対朝鮮申次役としての宗氏の土台を固めた人物と言える。

2017年1月18日 (水)

私家版朝鮮国王列伝[増補版](連載第4回)

三 定宗・李芳果(1357年‐1419年)/太宗・李芳遠(1367年‐1422年)

 太祖・李成桂の晩年を悩ませたのは、後継者問題であった。王子は8人いたが、本来なら後継者となるはずだった第一夫人神懿王后との間の長男芳雨が隠遁、早世したことから、太祖は寵愛する第二夫人神徳王后との間の八男(末男)芳碩を王后の推挙により後継指名した。
 言わば末子相続の形を選択したわけだが、この決定の裏には当時宰相格として宮中で絶大な権勢を持った鄭道伝の策があったと見られる。しかし芳碩はまだ年少であり、しかも、建国に当たっては神懿王后との間の五男芳遠の功績が特に大きかったため、彼の不満が爆発した。
 芳遠は98年、同母兄弟らを動員してクーデターを起こし、鄭道伝のほか、芳碩とその同母兄も殺害するという挙に出た。この事件を機に成桂は退位し、芳遠の同母兄で二男の芳果が2代国王(定宗)に即位する。しかし、定宗は名目的な王にすぎず、政治の実権は芳遠が掌握した。
 おそらくは時機を見て自らが即位する野望を抱いていた芳遠は、自身の権力固めのため、各王子が配下に持つことを許されていた私兵制度の廃止を推進した。これに不満と警戒を抱いた四男芳幹が1400年に武装反乱を起こすが、芳遠はこれを鎮圧した。
 最大のライバルだった芳幹を退けた芳遠は、定宗からの譲位を受けて、3代国王(太宗)として即位する。しかし、02年には故・神徳王后の親類趙思義が復讐を大義名分に東北地方で反乱を起こし、すでに引退していた父の太祖もこれを当初は支持したとされる。
 この反乱を鎮圧し、太祖とも和解を果たして、ようやく太宗の政権は安定し始める。その後も彼は王朝基盤の強化のため、しばしば功臣や外戚にも非情な粛清を行なったが、単なる暴君ではなく、行政制度や法令の整備なども進める有能な統治者でもあった。対外関係では明朝から冊封を受け、大陸関係を安定化させた。
 そして一応内政外交の基礎が固まったのを見届けると、18年に三男の李祹(忠寧大君)に譲位し、上王となる。太宗には李褆(譲寧大君)という長男がいたが、彼は不行跡のため後継者から外されたのであった。この判断の正しさは、譲寧大君が後に李朝最高の英主世宗となったことで証明された。
 太宗は太祖とは異なり、譲位後も22年の死去まで実権を保持し続けた。失敗に終わったものの、再び活発化していた倭寇征伐のため、19年に対馬攻撃を実行したのも、上王太宗の指揮によるものであった。
 こうして王朝初期の不安定な時期を時に強権を発動して乗り切り、王朝を軌道に乗せた事績の点では室町幕府3代将軍足利義満を思わせるところもある太宗が、父の意向に反してでも力づくで自ら実質的な後継者となったことは、李朝の存続にとっては明らかにプラスだったようである。


§2 宗貞茂〈続〉

 貞茂時代の宗氏は形式上は主家少弐氏の下で筑前守護代の地位にあったが、対馬にあっては守護職として実質的な領主の地位にあった。朝鮮半島に最も近い辺境領主として朝鮮における王朝交代の情報は把握しており、貞茂は当主の座に就くと、早速李氏朝鮮王朝との通交を開始している。
 それは1399年(応永六年)のこととされるから、朝鮮側では太祖が生前譲位した翌年、2代定宗の時代である。つまり、宗氏は太祖存命中の李氏王朝発足最初期から朝鮮との通交を開始していたことになる。
 宗氏がこれほどに朝鮮王朝との通交を重視したのは、元来山がちで耕作地が少なく、農業生産力に限界のある対馬にあって、貿易を主要財源とする必要に迫られていたからと考えられている。その点、同じく農産に限界があり、アイヌ交易を財政基盤とした北方の松前氏と類似する政略であった。そのためにも、九州本土での戦役動員が多い筑前守護代職は弟に譲り、自身は対馬経営に専心した。
 ちなみに、近代の大正時代になって、朝鮮が対馬を攻撃してきた1419年の応永の外寇における撃退の功績により貞茂が従四位を追贈されたのは史実誤認であり、彼は外寇前年の1418年(応永二十五年)にはすでに没しており、実際に撃退を指揮したのは嫡男の貞盛であったとされる。

私家版朝鮮国王列伝[増補版](連載第3回)

二 太祖・李成桂(1335年‐1408年)

 李朝創始者となる太祖・李成桂の生涯は大きく四期に分けることができる。第一期は、父の子春が死去した後、後を継いで北方軍閥となり、さしあたり高麗の武将として活動する時期である。実は、彼にとってはこの時期が最も長く、30年近くに及ぶ。
 この時期は高麗王朝末期であり、様々な国難に襲われていた。最初に成桂が直面したのは、元の反撃である。前回述べたように、元の高麗支配の拠点・双城総管府は子春の協力もあって壊滅していたが、まだ勢力を保っていた元は双城奪還を目指して大軍をもって反攻してきた。成桂はこれを迎撃・撃滅して、その武勇を天下に知らしめた。
 元の大規模な侵攻はもう一度起こるが、成桂はまたしてもこれを退け、最終的に高麗を元から完全に自立させることに成功した。さらに、隙を突いて北辺を占領していた女真族を駆逐して、占領地を解放した。
 以上は1360年代の事績であるが、70年代以降になると、今度は倭寇による寇略が課題となった。倭寇は国の組織された軍隊ではなく、私的な武装集団であるだけにかえって厄介な敵であったが、成桂は倭寇撃退作戦でも手腕を発揮し、幾度も勝利を収め、武将としての名声をいっそう高めた。
 80年代になると、中国大陸で元に取って代わり新たな王朝を樹立した明との関係がこじれた。明の一方的な旧元領土の割譲要求に対し、心情的に親元派だった時の高麗王・王禑は遼東地域の占領という無謀な作戦計画を立て、成桂に実行させようとした。
 これに対し、実戦経験豊富な成桂は軍事的合理性の見地から反対するも、却下され、やむなく出撃する。しかし遠征軍は梅雨による増水のため、鴨緑江の中洲にある威化島で立ち往生、窮地に陥ったことから、成桂は撤退を要請するが、またも却下されたことから、無断で撤退を決めた。これが有名な1388年の「威化島回軍」である。
 ところが、この無断撤退を反逆とみなした王禑は成桂の粛清を企てたことから、成桂は先制的に軍事クーデターを敢行し、宮廷の実権を掌握する。その後、成桂は自身に従順な恭譲王を傀儡の王に立て、事実上の最高執権者にのし上がった。この時から、自ら王位に就く92年までが彼の人生第二期である。
 実のところ、為政者としての彼の事績のほとんどはこの時期に集中している。為政者としての成桂は、従来の高麗王朝では傍流に置かれていた地方地主層や新興儒臣層を支持基盤にしていたため、李成桂政権は当然にもかれらの天下であった。
 特に重要な改革は、両班制の再構築である。簡単に言えば、高麗王朝時代の支配官僚層を自らの支持層である地方地主層や新興儒臣層と入れ替えたのであった。その手段として、科田制を導入した。
 科田制とは高麗末期に広がっていた荘園的大土地所有を否定し、土地を国有化したうえ、官等に応じて官僚らに田地(科田)を支給し、一律に十分の一の田税の収奪を認めるもので、それは実のところ、高麗王朝初期の旧田柴科制への回帰という反動政策であった。これは明らかに先の新興エリート層の利益に適う保守的「改革」であり、彼らの階級的勝利を意味していた。
 ただ、これにより従来は文班(文官)登用試験であった科挙制度が武班(武官)も含めた統一的な官吏登用試験として整理統合され、両班は科挙試験の受験資格を持つ家柄を指すことになった。
 これは一見すると、試験を通じた「能力主義」社会の到来に見え、事実、受験資格は農民以上の「良民」全般に開かれていながら、実際上は財力を持つ家系の子弟しか受験できず、両班身分の固定化が進行する。
 このように成桂の「改革」は、革新的というより保守的なものであったが、出発点においては、成桂を含め、従来の高麗王朝では傍流の階層が新たな支配層に上った点では、日本の戦国時代の下克上社会に似ていなくはない。
 しかし、成桂は武将のままではおらず、92年、周囲に推される形で自ら王位に就き、新王朝を樹立した。この点では、世襲制の幕府という特異な形で皇室と並存した日本の武家政権とは本質的に異なっている。
 実際、高麗王朝時代にも一時、軍閥が世襲的に政権を握る武臣政権時代があったが、長続きせず、成桂もこれを踏襲しようとはしなかった。朝鮮では中国的な一元的王朝政治の伝統が強く、日本のように公武二元政治の仕組みが根付くことはなかったのである。
 新王朝樹立後、将来の禍根を絶つため、旧高麗王族に対しては苛烈な粛清が加えられ、94年には成桂自身の傀儡として擁立され、王位を禅譲もした恭譲王を含む存命中の王族が皆殺しにされた。
 しかし、即位時すでに当時としては老齢の60歳近くに達していた太祖は王位に執着がなく、在位わずか6年にして生前譲位し、隠居してしまうのである。王位に就いてからは、旧高麗王族粛清と最初の基本法典「経済六典」の発布以外にこれといった事績も見当たらず、頂点を極めたこの第三期の人生は生前譲位という策も含め、王朝の基礎固めに終始したと言えよう。
 このような老齢での天下取り、旧体制根絶そして早期引退という軌跡はどこか徳川家康にも似ている。決して恣意的な独裁者ではないが、権力固めのためには冷酷な決断も辞さないという性格の点でも両者には共通性があり、ともに歴史的な長期安定支配体制を築いた始祖としての秘訣であるのかもしれない。
 太祖は譲位後もなお10年以上存命したが、この人生第四期は息子たちの間での熾烈な後継者争いが展開され、それに付随する反乱も発生した動乱の時期であった。これは、太祖の意に反して直面した国難であるため、稿を改めて見ることにする。


§2 宗貞茂(生年不詳‐1418年)

 李氏朝鮮王朝の太祖李成桂に相当する宗氏側人物は、おおむね同時代の宗貞茂であっただろう。貞茂は半ば伝承的な家祖重尚から数えて8代当主に当たるとされているが、一族では傍流にあり、先代から家督を奪取した簒奪者とみなされている。
 彼の当主簒奪は1398年(応永5年)のこととされる。李朝太祖はこの年、生前譲位し、2代目定宗が立っているので、太祖とは入れ替わりの形になっている。宗氏系図上では、貞茂は先代の刑部少輔経国(頼茂)の孫とされ、伯父盛真も右馬頭の官職を持っていたことからすると、伯父との家督継承争いに勝利したということも考えられる。
 いずれにせよ、貞茂は家内クーデターにより当主の座に就いたという限りで、同様にクーデターで王朝創始者となった李朝太祖と共通項を持っている。以後も家督継承争いはしばしば発生するも、基本的に宗氏当主は貞茂の後裔に継承されていく。

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