私家版朝鮮国王列伝[増補版]

2017年11月15日 (水)

私家版朝鮮国王列伝[増補版](連載第19回)

十九 哲宗・李昪(1831年‐1863年)

 先代の24代憲宗は世子を残さず、夭折したため、後継問題が生じた。この時、23代純祖の王妃だった安東金氏出身の純元王后が動き、憲宗生母の神貞王后が出自した豊壌趙氏の機先を制する形で、22代正祖の弟の孫を担ぎ出した。これが25代哲宗である。
 こうした即位の経緯から、最初の三年間は大王大妃となった純元王后が垂簾聴政を取った。当然にも安東金氏の天下となり、こうした安東勢道政治は、哲宗が一応親政を開始してからも最後まで続いた。
 こうして、哲宗時代は勢道政治の弊害が最大限に発現する時代となった。具体的には、汚職の蔓延と財政破綻である。後者は、田政・軍政・還穀のいわゆる三政の紊乱という形で国家の基盤を揺るがした。
 こうした衰退現象はすでに前世紀から忍び寄っていたが、哲宗時代には、両班の事実上の私有地の拡大による農民搾取、兵役忌避と兵役代替課税の負担増、また貸米制度の高利貸化といった制度劣化現象として集中的に発現したのである。
 こうした体制の揺らぎのすべてを勢道政治の責めに帰することは困難であるが、本質的に腐敗した権力支配体制であった勢道政治には、体制を改革し、立て直す意思も能力も備わっていなかった。
 他方、ほとんど棚ぼた的に担ぎ出された哲宗も王としての資質には欠けていたようである。個人的には民心への配慮があったと言われるが、勢道政治を抑える気概も政略も持ち合わさず、晩年には政務を放棄して、酒色に溺れていった。
 民衆の体制への不満と将来への不安は、農民反乱と新興宗教への傾倒という二つの現象を引き起こした。農民反乱は、つとに純祖時代の1812年に勃発した平安道民衆蜂起が嚆矢であったが、この時は体制側にこれを短期で鎮圧するだけの余力があった。
 しかし、哲宗時代の反乱は忠清道、全羅道、慶尚道の南部地域で広範囲に継起するゲリラ戦的なものとなり、体制もこれを鎮圧し切れず、体制を内部から弱体化させる要因となった。
 一方、カトリック信者も増加し、両班層や宮廷人にまで信者が出現するほどであったが、慶尚北道出身の宗教家・崔済愚が創始した東洋的な新興宗教・東学も急速に信者を獲得していった。こうした「邪教」に対して体制は弾圧で臨むも、効果はなかった。
 不穏な情勢下、健康を害した哲宗は1863年、世子を残さず死去した。国王が二代続けて世子を残さず短命で没する事態は、体制の存続そのものにとっての危機であった。


§16 宗義和(1818年‐1890年)

 宗義和〔よしより〕は、兄の先代義章が嫡男なく死去した後を養子として受け、15代藩主に就任した。朝鮮との通商関係が閉塞した対馬藩にとって激動期の藩主であり、特に幕末と重なる治世晩期は波乱に満ちていた。
 最初の問題は、家督問題であった。義和は多くの側室を抱えていたが、中でも碧という平民出自の側室を寵愛するあまり、野心的な碧の教唆により、士分出自の側室が生んだ子を廃嫡し、碧の生んだ子を嫡子とする恣意的な決定を下したことで、お家騒動を招いたのだった。
 正室との間に子がなかったことが原因とはいえ、このような恣意的世襲は封建法の精神に反していた。しかし結局、碧の子が夭折したことを契機に決定は撤回され、碧も追放処分となった。この時、反碧派を形成したのが、義党という保守的な一派である。
 この問題が決着したのもつかの間、1861年には帝政ロシア軍艦ポサドニックが対馬に来航し、半年ほど対馬芋崎を占拠するという事変が勃発した。ロシア側の狙いは極東進出に必要な不凍港の租借という点にあった。その目的に沿って、ロシア側は無断で兵舎や練兵場などの建設を強行した。
 これは、大名封土とはいえ、江戸時代の日本が初めて外国に侵略された重大事件であった。事件は英国の介入を得て解決したが、辺境防備の無力をさらけ出した対馬藩では、江戸家老が幕府と密議し、宗氏の河内移封・幕府の対馬直轄移行が決まりかけた。
 しかし、これに反発した国元の義党が決起し、移封計画の中心人物であった江戸家老・佐須伊織を暗殺した。義党は尊皇攘夷派であり、前藩主義章の長州出身の正室であった慈芳院を通じて長州と結び、対長同盟を成立させたのであった。
 こうして実質的なクーデターを成功させた義党は、義和にも隠居を求め、藩主を嫡子に復帰していた義達〔よしあきら〕に交代させた。これにより、対馬藩では若い新藩主を擁した義党主導で、親長州の攘夷政治が展開されていくことになる。
 ちなみに、1863年に隠居した後の義和は明治維新を越えて20年近く長生し、廃藩置県後は余生を主に地元神社の神職として過ごして、明治23年(1890年)に没した。

2017年10月29日 (日)

私家版朝鮮国王列伝[増補版](連載第18回)

十八 純祖・李玜(1790年‐1834年)/憲宗・李奐(1827年‐1848年)

 23代純祖は先代正祖の次男であったが、11歳での即位となったため、先々代英祖の継室で、正祖没後に政治的に復権した貞純王后の垂簾聴政を受けた。貞純王后は反正祖の実力者として、雌伏しつつ復権の機を窺っていたのである。
 彼女の垂簾聴政期は3年ほどだったが、その間、正祖時代に台頭した実学派学者らを弾圧・粛清する反動政治を展開し、かつ自身が出自した安東金氏の政治力を高め、以後「勢道政治」と呼ばれる安東金氏の専横時代の道筋を準備した。
 純祖は、晩年になって安東金氏を牽制すべく、もう一つの豪族豊壌趙氏を対抗的に起用して競わせるが、このような政策は両氏の権力闘争を激化させ、かえって政情不安を招いただけであった。さらに、妃の出身である豊壌趙氏を起用し、摂政として政務を主導していた孝明世子に先立たれたことも、純祖にとっては打撃であった。
 結局、純祖は34年に及ぶ長期治世だったわりに具体的な成果には乏しく、この間に朝鮮王朝を衰微させる反動的な「勢道政治」が確立されただけであった。
 純祖に続いて立った24代憲宗は孝明世子の遺子で、純祖の孫に当たるが、父と同様、7歳という年少での即位となり、祖母の純元王后が7年にわたり垂簾聴政を取った後に、親政を開始した。
 しかし、先述したとおり、憲宗の母神貞王后は豊壌趙氏であったため、安東金氏との権力闘争はいっそう激化した。そうした政情不安に加え、憲宗自身も病弱のため、国王権力は決定的に低下し、その15年ほどの治世中に二度のクーデター未遂事件に見舞われた。
 一方で、従来からのカトリック弾圧政策にもかかわらず、社会の動揺と将来への不安から、キリスト教信者の増加を抑止することはできていなかった。体制は頑強に弾圧の度を増し、多くの殉教者を出すが、効果はなかった。
 治世末期になると、東アジアへの進出を狙う西洋列強の外国船の朝鮮接近が頻発した。この状況は隣国日本の幕末とも似ていたが、朝鮮当局の対応は徹底した排撃一辺倒であった。
 そうした中、憲宗は1849年、23歳で早世してしまう。かくして、西洋暦でちょうど1800年に即位した純祖から数えて、19世紀前半をほぼカバーした純祖/憲宗の時代は、朝鮮王朝が内憂外患に悩まされる時代の始まりとなった。


§15 宗義質(1800年‐1838年)/義章(1818年‐1842年)

 宗義質〔よしかた〕は先代の父義功から死の前年1811年に年少で家督を継承し、13代藩主となった。そうした事情から、成長するまでは親政を行なえず、家臣団は派閥・利権抗争に走った。父の時代からの藩政の動揺が継続したのである。
 財政経済面でも、朝鮮貿易の収支が悪化をたどる中、治世中1823年と31年の二度にわたる城下府中の大火が追い討ちをかけ、藩の斜陽化は覆うべくもなかった。対馬藩が接待役を務める朝鮮通信使も、朝鮮王朝・幕府双方の財政難もあり、義質が家督を継いだ1811年が最後となったが、財政難の藩にとってはこれ幸いだったかもしれない。
 こうして対馬藩主の栄進の最大足がかりでもあった朝鮮通信使接待がなくなったにもかかわらず、義質は歴代藩主中でも最高位の左近衛少将に昇任したが、その翌年、死去した。享年39歳ながら、在任期間は26年と比較的長かった。
 後を長男義章〔よしあや〕が継いだが、病弱と見え、わずか3年で死去した。幕末へ向けた転換期に短命藩主が続いたことは、藩政の行方を危うくした。加えて、義章が正室を長州藩主毛利家から迎え、長州藩との姻戚関係を生じたことが、幕末、長州藩の動静に巻き込まれる要因ともなるのだった。

2017年10月15日 (日)

私家版朝鮮国王列伝[増補版](連載第17回)

十七 正祖・李祘(1752年‐1800年)

 22代正祖は、父荘献世子が祖父の21代英祖によって処刑されたため、一代飛ばす形で英祖の後継者となった。彼は荘献世子の子であることに内心誇りを抱いていたようであるが、君主としては祖父の路線の継承者であった。
 彼は父の刑死に関わった老論派を嫌悪し、その権益を抑制しつつも、党争は避け、祖父が敷いた蕩平策を維持し、国王権力を強化する集権的な政策を施行した。国王権力の強化は軍制改革にも及び、正祖は国王直属の親衛隊として壮勇営を創設し、国王の統帥権を強化した。こうして、国王の政軍関係の掌握力を高めることが、正祖の終生にわたる施政方針であった。
 正祖はまた、好学だった英祖から文化政策も継承し、発展させた。ことに王立図書館・公文書館の性格を持つ奎章閣を設立し、ここに重要な書籍・文献を集積するとともに、文官の研修と政策立案なども併せて行なう一種のシンクタンクとしての機能も持たせたのであった。
 正祖の時代には、従来の朝鮮にありがちだった観念論的な儒学の気風に代えて、より実証的・実用的な実学の気風が広がり、奎章閣はそうした実学研究機関としての役割も担っていた。それは、正祖の改革政治の方向性ともマッチするものでもあった。
 こうした学問の平易な実学化は伝統的な学問の担い手であった両班階級から中人以下の階級まで学問的な志向が普及する契機となり、正祖時代は朝鮮王朝史上、文化が最も花開いた時代、ある種の啓蒙時代としても記憶されている。
 一方で、この時代の朝鮮社会はキリスト教(天主教)との直面を本格的に経験した。キリスト教は先代英祖の時代に一部地方に流入してきていたが、英祖はこれを邪教と断じ、すぐさま禁圧した。
 正祖時代になると朝鮮への布教が始まり、朝鮮人カトリック教徒の活動も目立ってきた。朝鮮史上初のキリスト教会が設立されたのも、正祖時代のことである。
 正祖自身は儒学を正統思想とし、カトリック(西学)を否定しつつも、弾圧は慎重に避けていたが、身内の葬儀をカトリック式で執り行って社会問題化した両班尹持忠を処刑したことで 朝鮮初の殉教者を出した。
 キリスト教の流入は西洋人の来航ともリンクしており、正祖晩年の1797年にはウィリアム・ロバート・ブロートンに率いられた英国軍艦プロヴィデンス号が釜山に漂着するという出来事もあった。
 18世紀最後の四半世紀をほぼカバーした正祖の時代は、朝鮮社会の大きな転換点に当たっており、正祖は彼なりに時代の波をとらえた改革を進めていたが、1800年、道半ばにして没した。
 彼の政治的失敗は、父荘献世子の死にも関与した英祖の野心的な継室貞純王后に報復せず、生かしておいたことだったかもしれない。正祖よりも長生した彼女は、正祖没後、再び動き出し、正祖の息子の23代純祖を垂簾聴政によって操り、正祖の諸改革を覆してしまうのである。


§14 宗猪三郎〈義功〉(1771年‐1785年)/義功(1773年‐1813年)

 10代藩主宗義暢が1778年に死去した時、彼には三人の幼年の息子たちが残されていた。そのうち最年長の四男猪三郎がまず家督を継いだが、彼は病弱であったのか、慣例であった将軍との御目見も果たさないまま、1785年、15歳で夭折する。
 当然継嗣もなく、宗家はお家断絶危機に直面する。ここで発揮されたのが、宗氏お家芸とも言える偽装工作であった。重臣らは慎重に幕閣とも謀ったうえ、死亡したのは末男の種寿であることにし、六男の富寿が猪三郎になりすまして継承するという工作を幕府黙認の下に行なったのである。
 こうして富寿が実質上の12代藩主におさまり、元服後は義功〔よしかつ〕を名乗り、先代の故・猪三郎にも偽装のため、同名を追贈した。とはいえ、就任時12歳だった義功治世の初期は重臣による集団指導体制であり、親政を開始したのは元服後の1787年以降のことである。
 義功は同時代の朝鮮国王正祖に似て、文教政策に力を入れ、新たな藩校として講学所(思文館)を開設したほか、後には九州本土側の飛び地田代領にも東明館を開設している。そのほか、幕府に数十年先立って、武芸の訓練を施す講武所を開設するなど、文武での人材基盤の強化に努めた。
 また義功の時代には、異国船を警戒する幕府の命により遠見番所を設置したほか、朝鮮への外国船来航にも対処するため、釜山倭館にも兵士を配置するなど、防備体制の強化を強いられたため、兄の時代に15万両にまで達していた幕府からの借財を含め、藩財政を圧迫した。
 しかし、財政難は解消されず、倹約令も実効を見なかった。義功自身も病気がちで指導力に欠けたため、家臣団の派閥・権益争いなどが絶えなかった。しかし在位期間は27年と比較的長く、死の前年には次男に無事家督を譲り、隠居した。

2017年10月 1日 (日)

私家版朝鮮国王列伝[増補版](連載第16回)

十六 英祖・李昑(1694年‐1776年)

 20代景宗が急死した後を受けて即位した異母弟の21代英祖は、生母淑嬪崔氏が最下層の賤民階級出自という異例の王である。景宗の生母禧嬪張氏も中人階級出自ながら一時は王妃に昇格した異例の人物であったように、父王である19代粛宗の姻戚には出自身分を問わない気風があったようである。
 兄景宗の急死は延礽君を名乗っていた世弟英祖もしくはその支持勢力である老論派による毒殺とする風評もあるが、真相は不明のままである。ただ、英祖は即位するや、兄王の支持勢力であった少論派を排除し、老論派政権を形成したことはたしかである。
 しかし、1728年に少論派によるクーデター未遂事件(戊申政変)を経験した英祖は父王のように相対立する党派を交互に入れ替える「換局」の手法を採らず、老論派と少論派を平等に遇し、相互に牽制させる「蕩平策」と呼ばれる勢力均衡策を編み出した。
 この方法で英祖は以後、長期にわたる安定的な治世を維持した。その間、減税策や飢饉対策となるサツマイモ栽培の奨励など、民生に配慮する政治を行なった。また印刷技術の改良により、書籍の出版を支援し、庶民の知識の向上も図るなど、生母が下層階級出自の英祖の治世は歴代王の誰よりも庶民に篤い傾向を見せた。
 しかし、治世後半期、健康問題を抱えた英祖は後継者の荘献世子に代理聴政を取らせるようになっていたところ、少論派に近い荘献世子は老論派と対立し、1762年、老論派による告発により、英祖の命で廃位、米櫃への監禁による餓死という残酷な手法で処刑された。
 荘献世子の罪状は殺人を含む非行とされていたが、彼は当時、政争の中で精神を病むようになっていたとされ、荘献世子の刑死を招いた壬午士禍は、当時英祖の継室貞純王后を後ろ盾とした老論派による謀略だった可能性も指摘される。
 ただ、英祖は荘献世子存命中の1759年に荘献の子で自身の孫に当たる8歳の李祘を世孫に冊立していたところを見ると、荘献世子は実際病んでおり、後継候補としての可能性は事実上すでに消失しかけていたのかもしれない。
 後に、英祖は荘献世子に「思悼世子」の諡号を追贈したが、完全に赦したわけではなく、世孫李祘を正式に後継者とするに当たり、夭折した長男孝章世子の養子としたうえで後を託している。こうして、英祖は李氏王朝歴代王では最長の52年に及ぶ治世を終え、これまた歴代王で最長寿の83歳で死去した。
 英祖は強力だった父王粛宗の後継者にふさわしいまさに英君であり、その善政は次代の孫正祖にも継承された。粛宗から短命の景宗をはさみ、英祖、そして正祖の治世が終わる18世紀末年までの120年余りは、完全には封じ込め難い党争に左右されながらも、朝鮮王朝にとって最後の繁栄期だったと言える。


§13 宗義如(1716年‐1752年)/義蕃(1717年‐1775年)

 宗義如〔よしゆき〕は先代義誠の嫡男であったが、父が1730年に死去した際は年少のため家督を継げず、二年間は叔父の方熈〔みちひろ〕が中継ぎ的に藩主を務め、32年に正式に藩主となった。義如は享保元年の生まれであり、彼が藩主となった時、幕府側では将軍吉宗による改革が断行されていた。
 しかし、吉宗の享保改革は、対馬藩にとっては悪夢の一面があった。それは朝鮮貿易における主要な輸入品であった木綿や朝鮮人参の国産化奨励策である。特に後者は義如が藩主となる直前、日光御薬園にて国産化に成功、幕府は諸藩のみならず、一般向けにも国産人参の種子(御種人参)を配布し、栽培が普及したことから、1760年代には輸入の必要性がほぼ消失してしまったのである。
 このため、対馬藩の生命線である朝鮮貿易の収支が落ち込み、かねてからの財政難を悪化させた。そのため、家臣の知行借り上げや幕府からの年一万両に及ぶ補助金支給といった緊急経済対策を講じる羽目となった。そのうえ、義如自身も52年、折から流行していた天然痘のため急逝した。
 嫡男はまだ幼少のため、後を継いだのは、1739年以来、家老職にあった弟の義蕃〔よししげ〕であった。彼は家老として幕府からの補助金獲得交渉に当たるなど、兄藩主の右腕として藩政を支えていた。義蕃は十年の治世の後、甥で義如の嫡男義暢〔よしなが〕に譲位し隠居したが、自身が死去する前年まで実権を保持するなど野心的な一面があった。
 しかも、義暢は親政開始から四年で死去したため、義蕃の治世はほぼ義蕃時代の継続期間であった。この間も財政難は続き、朝鮮通信使接待費まで幕府からの援助に頼り、元来難儀な離島からの参勤交代を三年一度に軽減する措置を受けるなど、藩の維持に苦心している。

2017年9月20日 (水)

私家版朝鮮国王列伝[増補版](連載第15回)

十五 粛宗・李焞(1661年‐1720年)/景宗・李昀(1688年‐1724年)

 父の第18代顕宗の後を受けて1674年に14歳で即位した第19代粛宗は、朝鮮王朝では久々に半世紀近い長期治世を保つ王となった。彼は政治的にも早熟と見え、年少で即位したにもかかわらず、当初から親政を試みた。
 しかし、当時の朝廷では顕宗時代の党争を制した南人派が専横していたため、粛宗は1680年、自ら介入して南人派を追放、西人派の政権に立て替えた(庚申換局)。西人には、嬪の立場から王妃、さらに大妃に栄進した母后の明聖王后や粛宗正室の仁顕王后も付いてこれを支えた。
 ところが、王と王妃の支持を得て国政を握った西人派も間もなく、王の外戚に近い少論派とこれに批判的な老論派とに分裂・抗争するありさまであった。そこで、粛宗は89年、一転して西人派を追放して、南人派を呼び戻した(己巳換局)。
 当時の南人派は粛宗の野心的な嬪で、後の20代景宗を産んだ禧嬪張氏を後ろ盾としており、89年の己巳換局は子どもを産めなかった仁顕王后を廃位して、禧嬪張氏を王妃に昇格させる彼女と南人派の策動という一面があった。
 禧嬪張氏は支配階層両班より下位の中人と呼ばれる一種の中産階級出自(生母は賎民)から王妃に栄進した異例の人物であるが、その野心家ぶりのゆえに「悪女」とみなされることも多い。実際、粛宗は彼女を頂点とする南人派の専横を懸念し、94年に再度介入して張氏を嬪に降格、仁顕王后を復位させたのであった(甲戌換局)。
 張氏は最終的に1701年、仁顕王后の死去に関連し、これを呪詛したとする罪で賜薬により処刑されたが、これは復権した西人派の謀略とも言われる(彼女の性格からすれば、王妃への復位を狙い、実際に呪詛した可能性もなくはない)
 こうして粛宗時代の前半期は党争とそれに王自らが介入して政権を立て替える「換局」と呼ばれる事態の繰り返しであった。しかし、こうした王主導での一種の政権交代が王権強化にとってプラスに作用した可能性もあり、粛宗は強力な王権を背景に内政外交上かなりの成果を上げている。
 まず税制面では従来地域限定適用にとどまっていた大同法の適用を咸鏡道、平安道、済州島を除く全域に拡大した。またかねてなかなか定着しなかった貨幣経済を普及させるため、統一銅銭・常平通宝を常時発行し、全国に流通させた。
 外交通商面では徳川幕府治下で安定繁栄し始めていた日本との関係を重視し、在位中三度にわたり通信使を派遣したほか、倭館貿易の振興にも努めた。また国境画定にも積極的で、大陸側では清との間の白頭山定界を明確にしたほか、日本との間でも鬱陵島の領有権を明確にした。 
 さらに従来タブーとされた歴史修正に踏み込んだのも粛宗の特質であり、彼は第7代世祖が起こした癸酉靖難で犠牲となった「死六臣」の名誉回復や廃位され年少で処刑された6代端宗の追贈などを主導したが、こうしたことも粛宗の強力な王権なくしてはあり得なかっただろう。
 粛宗時代の後半期は比較的平穏であったが、結局嫡男は生まれず、禧嬪張氏が産んだ息子を世子とするほかなかった。こうして1720年、粛宗の死を受けて即位したのが20代景宗である。しかし、彼は生母が処刑されたことを契機に精神疾患にかかっていたと言われ、王としては父と比べるべくもない弱体であった。
 そこで、当時実権を握っていた西人‐老論派はより壮健聡明と見られた異母弟の延礽君を後継者の世弟に立てたうえ、延礽君の代理聴政をもくろむが、これに少論派が反撃、老論派を弾圧し追い落とした。
 実権を握った少論派は病弱で生殖も望めない景宗に養子を取って延礽君を排除しようとするも、24年に景宗が急死したことで、このもくろみも潰えたのであった。後継者は予定どおり延礽君で決まり、これが第21代英祖となる。


§12 宗義方(1684年‐1718年)/義誠(1692年‐1730年)

 宗義方〔よしみち〕は兄の4代藩主義倫が夭折した後を10歳ほどで継いだが、当時はまだ父の義真が後見役として藩政を掌握していたため、義方が親政を開始したのは父が没した1702年以降のことである。
 義方時代の事績としては、農民を武装動員し、対馬農業の基軸であった焼畑の敵となる猪や鹿を駆除する「猪鹿追詰」に成功したことがある。
 地方自治体における害獣対策の先駆けとも言えるこの策は、時の将軍綱吉が看板政策としていた「生類憐みの令」に抵触する恐れのある政策であったが、問責されなかったのは、「生類憐みの令」の運用が存外柔軟であったとする近年の説を裏付けるかもしれない。
 一方、義方は同時代の朝鮮側で対日関係を重視した粛宗が派遣した朝鮮通信使の接待役を務め、特に6代将軍家宣の就任祝いとして朝鮮通信使が来日した際の接待を行なった功績により、江戸幕府から肥前の飛び地で若干の加増を認められた。
 とはいえ、実高は2万石程度の小藩に変わりなかったうえ、義方の時代には父義真時代の繁栄が翳り始め、財政難が顕著になっていた。そこで、倹約令を出するも、効果は見られなかった。
 義方には嫡子がなく、後は弟の義誠〔よしのぶ〕が養子として継いだが、義誠もまた財政難に苦しみ、倹約令を発するも、効果は見られなかった。結局、義方・義誠兄弟藩主の通算36年余りは、対馬藩にとって長い斜陽の始まりの時代であったと言える。

2017年9月10日 (日)

私家版朝鮮国王列伝[増補版](連載第14回)

十四 孝宗・李淏(1619年‐1659年)/顕宗・李棩(1641年‐1674年)

 17代孝宗は、16代仁祖の次男(鳳林大君)として、丙子の乱で朝鮮が清に敗れた後、兄の昭顕世子とともに清に人質として送られた。抑留時代の鳳林大君は世子である兄を守り抜くため、兄の代わりに清の側で戦場に赴くことすらあった。
 ところが、8年間の抑留生活の後、1645年に帰国した昭顕世子は、国王の居室で急死した。彼は抑留中、中国大陸に現われていた西洋人宣教師と接触し、西洋的文物に感化され、また清に接近しすぎたため、警戒心を強めた仁祖と確執していたとされる。
 そのため、昭顕の急死には暗殺が疑われたが、真相は不明である。しかし昭顕の正室姜氏までが処刑され、子どもたちも流刑に処せられたことから、昭顕一家を排除する政変があったことは間違いないと見られる。
 結果として、49年の仁祖の死去に際しては、次男の鳳林大君が即位した。これが17代孝宗である。実際のところ、彼も抑留中に兄ととともに西洋人と接触していたのだが、同時に鳳林大君には新たな技術を取り入れ、朝鮮を強化し、清に反攻しようとするナショナリストとしての一面があった点が兄とは違っていた。
 そうした観点から、孝宗はまず軍備増強を即位後最初の課題とし、清への反転攻勢(北伐)を目指した。折りしも、オランダ東インド会社のヘンドリック・ハメル一行が漂着すると、孝宗は彼らを抑留して召し抱え、朝鮮初のマスケット銃の製造を命じている。
 とはいえ、明を打倒し、いよいよ中国大陸の覇者としての地位を固めた清の強大な軍事力に対抗することなど、事実上不可能であった。皮肉にも、孝宗の下で増強された朝鮮軍は清の要請により二度にわたる対ロシア戦に援護参戦し、戦果を挙げたのだった。
 孝宗が治世10年にして59年に死去すると、長男の18代顕宗が円滑に王位を継承した。しかし彼の治世では、父の時代には鳴りを潜めていた党争が再燃した。それは仁祖継室の慈懿大妃が服すべき服喪期間という儒教的な礼節問題(礼訟)の形を取りつつ、仁祖反正以来政権の座にあった西人派に対して、閉塞していた南人派が仕掛けた権力闘争であった。
 最初の礼訟は孝宗の死に際して、その翌年60年に持ち上がり、この時は西人派が勝利して権力を維持したが、74年に孝宗妃の仁宣王后が死去した際に持ち上がった第二次礼訟では南人派が勝利し、形勢が逆転した。
 こうした党争が再び宮廷を揺るがす最中、顕宗も治世15年ほどにして、死去したのである。父の孝宗時代を通算すれば25年になるが、この間、朝鮮は清への従属的な関係を強いられつつも、独自に近代的な文物を摂取し始めた模索の時期だったとも言える。


§
11 宗義真(1639年‐1702年)/義倫(1671年‐1694年)

 宗義真が先代の父義成を継いで第3代対馬藩主となったのは1657年、かの柳川一件のスキャンダルから20年の時を経て藩政が一応安定した時期であった。
 先代も、日本最古の銀山とされながら中世以来放置されていた対馬銀山の再開発や朝鮮通信使迎賓の簡素化を通じた財政改革に着手していたが、義真もこれを継承し、藩政全般の改革に乗り出した。ことに、江戸時代には各藩の主流となっていく蔵前知行制への移行である。
 この支配構造の改革は従来の封建的な領地安堵による知行から、石高に応じた俸禄による知行への変更であり、封建制を抜け出してある種の近代的な官僚制への過渡期となるような時代の変化に対応していたが、米作が低調で焼畑農業が主流だった対馬の実情に合わせ、焼畑の生産力を基準とする間高〔けんだか〕制という特殊な制度が採用された。
 また藩士や寺社への土地の集中を是正すべく、全国の藩に先駆けて、均田制度を実施した。すなわち、領内の土地をいったん藩に収公したうえ、あらためて農民に均分し、一年ごとに用益者を交替させる均田割替制であり、均田制度としても最も徹底したものである。
 しかし南九州の辺境領主島津氏の薩摩藩と同様に、兵農分離が進まず、地方給人による封建的な農民支配が残存する対馬藩では、義真の改革は不評であり、家臣団の不満が爆発した。その結果、知行制度改革の先頭に立って、その基礎となる寛文検地を実施した責任者を死罪に処すことを余儀なくされた。
 とはいえ、義真の改革は港湾整備から運河掘削、さらには小学校と称する藩校の建設など多岐にわたっており、その全体が否定されたわけではなく、1692年の隠居後も後を継いだ義倫〔よしつぐ〕、義倫夭折後は義方〔よしみち〕という二人の息子を後見する大御所として終生実権を保持した。
 対朝鮮関係では、祖父の時代に建設された釜山の豆毛浦倭館に代え、さらに広大な10万坪に及ぶ草梁倭館を建設し、新たな日本人居留地区として整備したのも義真の事績である。

2017年8月17日 (木)

私家版朝鮮国王列伝[増補版](連載第13回)

十三 仁祖・李倧(1595年‐1649年)

 16代仁祖は14代宣祖の孫に当たり、伯父の光海君を打倒した西人派のクーデターによって擁立された。そのため、このクーデターは仁祖反正とも称される。クーデターに際して最大の動機となったのは、光海君の中立的外交政策であった。
 その点、西人派は親明・反後金の保守的外交政策を掲げ、光海君と対立した。しかし、親明・反後金政策は、間もなく明が倒れ、後金が清として中国大陸の新たな覇者となったことにより、かえって国難を招くことになる。
 まず1627年、明の朝鮮駐留軍を撃破した後金軍に侵攻され、朝鮮は窮地に陥る。この時は後金に抑留されていた朝鮮武将の仲介により和議が成立するも、朝鮮は後金を兄とする兄弟盟約の締結を余儀なくされた。
 この後、明を打倒し、清朝を樹立した2代皇帝ホンタイジは36年、朝鮮に対して従来の兄弟関係から君臣関係への移行を要求してきた。仁祖政権は一部の有力な宥和論を退けてこれを拒否、戦争準備に入った。
 しかし、これは両国の軍事力の格差を見誤る策であった。36年、軍事力で勝る清は10万の大軍をもって電撃作戦で侵攻、わずか5日で首都漢城を制圧した。仁祖は漢城南方に退避して抗戦するも、45日で降伏した。
 その結果、仁祖はホンタイジの前で臣下として三跪九叩頭の礼を強制される屈辱を味わったうえ、朝鮮は11項目から成る従属的な講和条件をもって清の冊封に下ることとなり、この関係は以後王朝最期まで続く。かくして、仁祖反正はかえって朝鮮の国際的な地位を低める結果をもたらしたのである。
 一方、清に対する従属的な関係を強いられたはけ口を対日修好関係に求めるべく、仁祖は、光海君時代までは秀吉による朝鮮侵略の戦後処理を目的とした回答兼刷還使という名目での朝鮮通信使を正式の通信使に格上げさせつつ、在位中に三度派遣している。
 仁祖は26年在位した後、1649年に死去するが、以後の朝鮮国王はすべて仁祖の子孫の系統で占められることとなったので、清への従属という新展開とともに、爾後、王統的には「仁祖朝」とも呼ぶべき新たな歴史が始まると言える。


§10
 宗義成(1604年‐1657年)

 宗義成は、近世大名対馬藩主宗氏二代目として、初代の父義智の後を継いだ。二代目にはおうおう苦難がのしかかることが多いが、彼の場合は藩の存続に関わる重大な不祥事であった。先代が幕命により朝鮮との国交回復交渉に当たっていた際、幕府の国書を偽造していた一件が発覚したのである。
 対馬藩がこのような挙に出たのは、交渉過程で朝鮮側が幕府の国書の先提出を要求してきたところ、そのような屈辱的対応をしかねたことにあったようである。結局、藩では幕府の国書を改ざんして形式上朝鮮側の要求に応じつつ、朝鮮側の「回答使」を幕府側が求めた正式の「通信使」と偽って、その返書も改ざんするという二重改ざんという手の込んだ偽装で交渉をまとめていたのである。
 実のところ、こうした対朝鮮関係での文書偽造は、宗氏にとっては中世の守護大名時代からの常套手段であり、ある種のお家芸であったのだが、この件に限って露見したのは、自ら改ざんにも関与した家老柳川調興〔しげおき〕の内部告発による。
 野心家で、幕府中枢ともつながっていた調興は幕府直臣の旗本に昇進することを狙って義成と対立したため、対抗策として内部告発に出たようである。この一件は時の将軍家光自らが裁く公開訴訟に発展したが、調興敗訴・弘前藩預かり、義成は咎めなしという結果に終わった。
 このように内部告発者側だけが責任を問われたため、「柳川一件」とも称される不公平な裁定は、おそらく幕府としても、朝鮮情勢に明るい宗氏の存続を認めたほうが得策という政治判断の結果であろう。しかし、藩で対朝鮮外交に当たっていた調興や、臨済宗僧侶規伯玄方らの実務者が罪状を問われ追放された結果、宗氏の朝鮮外交は行き詰まった。
 それに付け入る形で、幕府は新たに宗氏の対朝鮮外交を補佐する朝鮮修文職を置き、京都五山僧を対馬に派遣する制度を創設した。これにより、以後の対朝鮮外交では幕府の統制権と宗氏の代官的性格が強まるのである。これは、家光政権の情報・貿易統制=「鎖国」政策とも関連する大きな転換点であった。

2017年7月16日 (日)

私家版朝鮮国王列伝[増補版](連載第12回)

十二 光海君・李琿(1575年‐1641年)

 14代宣祖には長く嫡男が生まれず、その晩年は後継問題で揺れていた。庶長子の臨海君は性格上の問題から後継候補を脱落し、最有力候補は庶次子光海君だったが、これには明が長男でないことを理由に世子としての認証を拒否したため、後継者は容易に定まらなかった。
 そうした中、正室と死別した宣祖が嫡子にこだわり、後継問題の混乱を懸念する重臣らの反対を押して迎えた継室仁穆[インモク]王后が1606年に初の嫡男永昌大君を生んだことで懸念は的中し、永昌大君を推すグループ(小北派)と光海君を推すグループ(大北派)の対立が起きる。
 朝廷の党争に深入りしない主義だった宣祖が後継指名しないまま08年に死去すると、幼少の永昌大君ではなく、光海君を推す声が強まり、彼が15代国王に即位した。即位後の光海君は権力基盤を固めるため、永昌大君を処刑し、仁穆王后も廃位・幽閉するとともに、同母兄臨海君まで謀殺するという身内への容赦ない粛清を断行した。
 結果として、光海君政権は、大北派の天下となった。大北派とは、宣祖晩年に実権を握っていた東人派が南人派と北人派に分裂したうちの後者から、さらに先の後継問題をめぐって分裂した一派で、メンバーは古参官僚を主体としていた。
 光海君政権は、死の前年07年に第一回通信使を派遣して日本との和議に先鞭をつけていた父の方針を継承して、09年には成立間もない江戸幕府と正式に講和した。以後、この己酉約条が江戸時代を通じて朝日関係の基本的な修好条約として機能していく。
 また内政面では、李朝創始以来の税制であった貢納制を抜本的に改正し、これも父の在位中に食糧難対策として一年間の時限法として施行されたことのある大同法を正式に導入した。
 従来の貢納法では特産品による納税が困難であったことから、原則として土地ごとに定められた米で納税する方法に改めたのであった。この制度の施行は大地主層の両班や大商人の抵抗により当初は京畿道限定であったが、光海君の廃位後に拡大され、1677年までに一部地域を除いて、全国に拡大されていった。
 治世後期の課題は、女真系の後金(後の清)の攻勢に苦しむ明からの援軍要請であった。光海君は秀吉の朝鮮侵略時の明の援軍への謝意やかつて自身の世子冊封に反対した明への気兼ねから、援軍に応じたが、19年に大敗したため、後金と講和し、中立政策に転じた。これは間もなく後金が清として新たな中国大陸の覇者となったことからすると、先見であった。
 このように光海君は為政者として父以上の手腕を発揮したと言えるが、23年、雌伏していた西人派が幽閉中の仁穆王后を担ぎ出して決起し、光海君を拘束・廃位、江華島へ追放した。代わって、光海君の甥に当たる仁祖が即位した。
 このクーデターの結果、光海君は五代前の燕山君と並んで、後世の追贈によっても廟号を与えられない「暴君」として名を残すこととなったが、廃位直後に死亡した燕山君と異なり、20年近い配流生活を過ごし、66歳まで存命した。
 おそらく光海君が「暴君」とされたのは、異母弟や同母兄らを葬り去った身内への粛清のゆえであろうが、むしろ彼が息を吹き返した西人派によってあっけなく廃位に追い込まれたのは、「暴君」どころか、その権力基盤はなお磐石でなかったことを示している。
 光海君はその後も政治的には名誉回復されることはなかったが、これは以後の王統がすべて仁祖の子孫で占められたせいであろう。しかし現代の歴史的評価のうえでは、病的な逸脱行動が目立った燕山君とは異なり、二度にわたる日本の侵略で打撃を蒙った国土を立て直し、内政外交上実績を残した光海君は名誉回復されつつあるようである。


§9 宗義智〈続〉

 前回も見たとおり、義智は先代宣祖時代に対朝鮮関係改善の土台を築いていたが、当時、朝鮮側でも、宣祖から光海君への政権交代があった。しかし、義智は光海君の新政権とも巧みに交渉して1609年、ついに己酉約条の締結に成功した。これによって途絶していた対朝鮮貿易が再開された。
 朝鮮側は宗氏に朝鮮王朝の官職を付与し、日本国王使としての資格も認証したが、日本への警戒心はなお強く、宗氏使節団の漢城上京の原則禁止、またかつて紛争の元ともなった日本人居留民を制限するため、日本人の倭館からの禁足など厳しい統制を加えた。
 江戸幕府も宗氏を一種の辺境領主として遇し、対朝鮮の外交通商権を与え、対馬藩の負担で新たに釜山に建設された豆毛浦倭館を通じた貿易の独占権も付与するなど、厚遇している。ここには、まさに義と智を備えていたらしい義智の手腕への幕府の高評価が反映されているのだろう。
 もっとも、己酉約条交渉に当たっては、義智の養父で先代の義調が九州本土から招聘し、対朝鮮外交に当たらせていた臨済宗僧侶景轍玄蘇の補佐の功績も大きかったことはたしかである。
 しかし、徳川家康より一年先立ち1615年に48歳の壮年で義智が死去し、後を継いだ息子義成の代になると、対馬藩が朝鮮との和平交渉の過程で幕府の国書を偽造していた事実が発覚し、宗氏を揺るがす一大事に発展することになるのである。

2017年6月18日 (日)

私家版朝鮮国王列伝[増補版](連載第11回)

十一 宣祖・李昖(1552年‐1608年)

 宣祖は伯父に当たる先代の明宗の世子が夭折し、他に男子なく、しかも父の徳興大院君も早世していたことから1567年、明宗の死去を受けて14代国王に即位した。10代での即位から40年余りに及んだその治世は四期に分けられる。
 第一期は治世初期の改革期である。民生に配慮する若い国王は先代明宗が外戚を排除して開始した儒教的改革政治を継承し、引き続き士林派を重用した。その過程で、文学科目を偏重した科挙制度の改正も主導した。
 だが、この第一期の善政も士林派内部の派閥抗争のせいで暗転する。治世第二期の75年頃から始まるこの抗争は、沈義謙率いる東人派と金孝元率いる西人派の間で発生した。この両派の対立の根底には朱子学内部の理論党争があった。
 ここでは詳細に立ち入らないが、東人派は保守的で朱子の学説を踏襲する李滉、西人派は朱子の学説に拘泥せず、より合理主義的かつ実践的な志向性を持つ李珥に近い派閥であった。両派の争いは理論党争にとどまらず、官職をめぐる権力闘争に発展した。
 当初は柔軟な李珥が両派の仲介役として対立をある程度止揚していたが、84年に彼が他界すると、押さえが利かなくなり、以後は西人派と東人派の間で政権が行き来する政情不安に陥った。
 そうした中、対日防衛という重要問題をめぐる両派の対立が国家の存亡に関わる事態を招来する。元来、李珥は強兵論を説き、死の前年には女真や日本の侵略に備えるべく、「養兵十万」を宣祖に進言していた。これに対し、保守的かつある意味では平和主義の東人派は反対した。この対立は秀吉の朝鮮侵略の直前に派遣された日本視察団にも反映され、当時の東人派政権は日本の侵略可能性を警告した西人派正使の報告を無視した。
 この政策判断の誤りは、実際に警告が現実のものとなったとき、高くつくこととなった。朝鮮側では「壬辰倭乱」と呼ばれる豊臣秀吉による第一次朝鮮侵略(文禄の役)で、軽武装だった朝鮮軍は日本の封建領主連合軍を撃退できず、首都漢城は陥落、宣祖も義州まで逃亡して明の介入を要請しなければならなかった。
 しかし、明からは朝鮮朝廷の頭越しに対日講和交渉をされたあげく、その交渉も決裂して、「丁酉倭乱」と呼ばれる秀吉の第二次侵略(慶長の役)を受けるが、これは秀吉の急死による日本軍撤退という僥倖に助けられた。こうして92年の「壬辰倭乱」に始まり、98年の「丁酉倭乱」で終わる宣祖治世第三期は朝鮮王朝創始以来最大の亡国危機の時代であった。
 これを乗り切った宣祖晩年の第四期は後継者問題で揺れるが、その詳細は次の光海君の項で言及する。この時期の宣祖の外交上の功績は、豊臣政権から徳川政権に交代した日本と早期に講和し、1607年に第一回朝鮮通信使を派遣したことである。この対日国交回復を最後の事績として、宣祖は翌年死去したのである。
 その治世は中近世の過渡期にあって内憂外患に見舞われたが、自らは党争に深入りすることなく長期治世を保ち、どうにか内政外交上の課題を処理して李朝体制の命脈をつないだことは、宣祖の功績であった。


§9 宗義智(1568年‐1615年)

 宗義智〔よしとし〕は、宗氏にとって最も困難な戦国時代末期から江戸時代草創期の大変動期に宗氏当主となった人物である。本来、彼は追放された元当主宗将盛の息子の一人であったが、養父宗義調によって早世した二人の兄の後、当主に擁立された。
 しかし、秀吉の九州征伐という難局に対処するべく、いったん義調が当主に復帰したため、当主の地位が確定するのは、義調が死去した1588年である。この頃、宗氏は明を征服する際の先導役として朝鮮を日本に服属させるという無理難題を要求する秀吉の意向に沿って朝鮮との交渉を担わされ、苦慮していた。
 明の冊封国であった朝鮮が明の征服に手を貸す可能性はなく、義智の交渉も当然ながら挫折し、秀吉の朝鮮出兵を迎える。義智は名将小西行長の娘婿でもあり、行長とともに文禄・慶長の両戦役で大活躍し、戦績を上げている。朝鮮との交戦が義智の本意であったかは疑問であるが、対馬の辺境領主が天下人に逆らえる立場にはなかった。
 こうして、宗氏は秀吉配下の武将・大名としてその地位を確立するのであるが、そのことは秀吉死後に来る関ヶ原の戦いで反徳川の西軍に与するという結果をもたらすことになる。
 先にも触れたように、宗義智は豊臣派のキリシタン大名小西行長の娘婿であったことから、関ヶ原の戦いでは西軍の中心的部将として参戦、伏見城攻撃などで活躍している。しかし、周知のとおり、この天下分け目の戦いは西軍の敗北に終わった。
 義父の行長は捕らわれ、処刑されたが、義智は詰問にとどまり、改めて対馬藩を安堵される幸運を得、義父とは運命が分かれた。この特別措置は、二度にわたった秀吉の出兵で大きく損なわれた対朝鮮関係の改善を重視していた家康が誰よりも朝鮮に通じた宗氏の存在を不可欠と認識していたことによる。
 ただし、代償として、義智は最初の正室で行長の娘でもあったキリシタンの妙(洗礼名マリア)を離縁しなければならなかったが、宗氏は義智を初代とする近世大名として明治維新まで生き延びていくことになるのである。
 かくして初代対馬府中藩主となった義智にとって最初の大仕事は、朝鮮との和平条約の締結であった。しかし、当初朝鮮側の態度は硬く、朝鮮側は先行条件として、朝鮮出兵時に王陵を破壊した戦犯を引き渡すよう要求してきた。
 これに対し、対馬藩は朝鮮出兵とは全く無関係の罪人の喉を水銀で潰し、尋問に答えられぬよう発声不能にしたうえで該当の「戦犯」として引き渡すような術策を弄する交渉を展開した結果、朝鮮側の態度は軟化していった。
 これにより、早くも宣祖存命中の1605年には暫定的な和平が成立、07年には第一回朝鮮通信使の派遣にまで漕ぎ着けたのであるが、正式の和平条約の締結は宣祖の死去と続く朝鮮王朝内の政変により、持ち越しとなる。

2017年5月28日 (日)

私家版朝鮮国王列伝[増補版](連載第10回)

十 明宗・李峘(1534年‐1567年)

 短期の在位で死去した仁宗に代わって13代国王に立ったのが、年の離れた異母弟明宗であった。彼は、中宗の継室文定王后との間の子であり、即位時まだ12歳であったので、文定が大王大妃となり、垂簾聴政を取った。
 彼女は、すでに中宗晩期から弟の尹元衡とともにいわゆる小尹派を形成し国政に介入していたが、これに対抗したのが仁宗の生母章敬王后の兄尹任の率いる派閥・大尹派であった。両尹氏は親類関係ながら、激しいライバル関係に立っていた。
 仁宗の即位で一時は大尹派が実権を握るが、明宗即位により小尹派は乙巳士禍を起こして大尹派を弾圧、文定王后を後ろ盾とする国王外戚として政権を独占した。小尹派政権では、首相格である領議政に上り詰めた尹元衡の野心的な妻鄭蘭貞も権勢を張った。
 垂簾聴政は表向き明宗治世前半期の8年で終了したが、文定はその後も65年に死去するまで宮中で影響力を保持したため、明宗時代は鄭蘭貞ともども女性が権勢を張る李朝でも異例の「女人天下」の時代となった。
 中でも鄭蘭貞は妓生から身を起こし、夫の正妻を謀殺して正妻の地位を略奪したとされ、朝鮮王朝史上「悪女」の一人と目される女性権勢家であった。政治的な手腕には一定評価のある文定王后も李朝では抑圧された仏教を擁護したため批判され、総じて「女人天下」は李朝史上否定的に評される。しかし明宗が指導力を欠く中、朝廷を安定させたのは「女人天下」であったことも事実である。
 明宗は文定が没した65年になってようやく実権を取り戻し、親政を開始する。手始めに尹元衡・鄭蘭貞夫妻の粛清を図り、夫妻を問責、自殺に追い込んだ。そして士林派を呼び戻して改革を試みるが、親政開始わずか二年にして死去してしまう。兄仁宗の二の舞であった。
 こうして20年以上に及んだ明宗の治世は比較的安定していたが、大きな成果はないまま終わった。明宗には男子継承者なく、弟の子である甥の河城君が14代宣祖となる。時代は中近世の曲がり角にさしかかっていた。


§8 宗義調(1532年‐1588年)

 宗義調〔よししげ〕は1553年、強力だった先代の父晴康から家督を譲られ、宗氏当主となった。彼の任務は父の代で進展していた宗氏の戦国大名化をさらに確立させることにあった。そのためには、領地対馬を固めるのみならず、三浦の乱以来閉塞していた朝鮮通交の建て直しが急務であった。
 朝鮮通交に関しては、晴康時代に締結された丁未約条により、いっそう厳しい制約が課せられるようになっていた。そこで、義調は朝鮮当局が依然として手を焼いていた倭寇対策への協力を惜しまず、朝鮮王朝の信頼を得て、1557年には丁巳約条の締結に漕ぎ着けた。
 この条約では従来、宗氏の歳遣船を年25隻に制限されていたところを30隻に増便するという小さな成果を得たに過ぎないが、対朝鮮関係の改善と宗氏貿易の復活への契機とはなった。
 一方、1559年にはかねて当主の座を追われていた宗将盛の異母弟が謀反を起こすが、義調はこれを鎮圧、当主の座を守り通した。しかし明宗同様に実子の嫡男はなく、一族融和の意味でか、1566年の隠居後は将盛の三人の息子を次々に養子として継がせ、自身は後見人の立場で実権を保持した。
 義調が大御所として実権を持っていた間の本州では、周知のとおり、室町幕府の最終的滅亡に続き、織田氏、豊臣氏の台頭という大転換があり、九州本土では戦国大名間の抗争が激化して、戦国時代本番を迎えていた。
 そして最晩年の義調が直面した難局が秀吉の九州征伐とその後の朝鮮出兵であるが、この時期には前/次期当主の宗義智〔よしとし〕も参与しており、また朝鮮国王も明宗から宣祖に交代していたので、義調最晩年の事績については、次項に譲ることとする。

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