〆日本語史異説―悲しき言語

2016年8月25日 (木)

日本語史異説―史的総覧(連載最終回)

十二 悲しき言語―日本語

 現存言語で、1億人を超える使用者を持ちながら、一国でしか公用語として用いられていない言語は日本語くらいしかない。*インドネシア語も類例に属するが、使用者の多くは第二言語としてのものである。その意味で、日本語は世界最大級のローカル言語と言えるかもしれない。
 そのうえ、海外の諸言語の中にも、通訳をほとんど必要としないレベルで近縁的な言語が存在せず、明白に同系と証明される仲間の言語を見出すこともできない。*その中で、コリア語は相対的に最も近く、広域分類すれば同系にくくることもできるが、語彙的な差異は大きく、通訳なしには通じ合わない。

 こうした事情から、日本語使用者の外語学習も、また外語使用者の日本語学習もともに容易でない状況に置かれている。このことは、日本語を母語として成長した人にとっては、国際的コミュニケーションを困難にし、世界から孤立してしまいやすいという重大な不利益をもたらす。少なくとも、現状、日本語を母語とすることには、国際コミュニケーション上全くメリットはないと言ってよい。1億超の使用者を持つ大言語でありながら、なんとも悲しい位置づけにあるのが日本語である。当連載の副題を「悲しき言語」とした所以である。

 しかし、共通語としての日本語は日本列島内で極めて強固に定着しており、かつそれは新たな時代を迎えて変容し続けている。そこで、日本語が持つ特に不利な特徴のいくつかが今後どのように変容するか、最後に簡単な展望を示してみよう。

三種文字:
 基本的に漢字・平仮名・片仮名の三種文字を併用する稀有の文字体系は、変容する気配がない。おそらく、全文仮名だけで表記するという最も簡明な書記法は、仮名が「女文字」と考えられていた時代からの影響で、いささか稚拙とみなされるため、普及しまい。
 他方、明治時代以来のローマ字表記論も現在では下火であるうえ、ローマ字表記は同音異字の多さという難点をクリアすることが難しく、これをクリアできる漢字の使用は廃止されないだろう。
 もっとも、漢字はパソコンの普及により、記憶しておらずとも、自動変換による表示が可能となり、漢字は書く以上に読む字となりつつある。このことは、漢字学習の困難を少なからず軽減するだろう。

敬語体系:
 敬語体系も基本的には不変であろう。ただ、今日、敬語使用場面が慣習上減少し、若年者の間では「ため口」のような言語慣習も生まれてきている。現時点ではまだ非礼とみなされがちなこうした敬語の省略現象がどこまで進行するかは微妙だが、全般に、複雑な敬語体系の簡素化が進む可能性はある。このことをもって従来、敬語体系が規律してきた上下の垂直的な人間関係が変容し、より水平な社会編成へ移行しつつある兆候とみなし得るなら、必ずしも悪しき現象ではないだろう。

ジェンダー分割:
 他の言語では類例を見ない「男言葉」「女言葉」の峻別も、日本社会におけるジェンダー差別の解消を阻害してきた一面があるが、近年は女性が「女言葉」から脱却し、よりユニバーサルな言語使用をし始めているように見える。*他方で、あえて「女言葉」を使うことを売りにする男性芸能人も存在するが、これはあくまでも芸能的な言葉遣いであり、一般化しているとは言えない。このことは両性平等の一定の進展を示すとともに、言語のジェンダー分割の相対化は両性平等を促進するだろう。

情感性:
 従来、「日本語は論理的でなく、情感的である」といった評価もなされてきたが、元来、これには疑問もある。少なくとも、多くの漢語と外来語とを取り込んだ現代日本語はむしろ、かなり厳格に論理的な文章表記ないし発話を可能にする条件を備えている。
 それを阻むものがあるとすれば、明治以来の言文一致改革が行き過ぎて、文章語が口語化し過ぎたせいかもしれない。これを改革するには、言文峻別に戻すところまではいかないが、口語体とはいちおう区別された正統的な文章体を確立することである。当ブログが、そのささやか過ぎる実験となることを願って、連載を終える。(了)

2016年8月18日 (木)

日本語史異説―悲しき言語(連載第22回)

十一 情報社会と通俗日本語

 敗戦により帝国言語の時代が終焉すると、日本語は再び日本列島の「島言葉」の地位に戻っていったが、標準語としての日本語の骨格はすでに完成されており、戦前と戦後でラングとしての日本語に根本的な相違があるわけではない。しかし文字言語・音声言語両面において、戦後日本語は日本語史の新たな段階を画している。

 戦後日本語の目に見える最も大きな変化は、漢字に否定的な占領軍の国語政策を契機とする漢字の字体改革である。従来はおおむね康熙字典に搭載された字体に従っていたものを、慣習的に使われていた略字や誤字の類を正式に採用し、簡略な漢字に置換したのである。これにより、識字の妨げとなっていた画数の多い複雑な漢字が排除され、来る情報社会に不可欠な識字率の向上にも寄与したであろう。
 漢字の字体改革と同時に、仮名遣いの改革もなされ、従来の仮名遣い(歴史的仮名遣い)よりも実際の発音に即した表音主義的な仮名遣いに改訂された。この現代仮名遣いは、ローマ字表記論を退けつつ、ローマ字のように発音と文字を極力一致させることで表記を明快に整理したものであり、保守的な文学者たちからの批判を受けながらも、今日に至り、確実に定着を見た。

 また語彙における大きな変化として、英語・英語情報の流入による外来語の急増がある。戦後の占領を経て米国の文化的・学術的な影響が著しく強まると、専門的な術語を中心に、米国経由で英語起源の外来語が一挙に増加していった。同時に、日本独自の和製英語も加わる。この傾向は現在に至るまで続いており、おそらく年々、新規の外来語が累積していっているであろう。

 一方、話し言葉のレベルでも、テレビ放送の開始が日本語史に新たなページを開いた。明治維新とともに政策的に導入された標準語は、教育言語・公用言語として規範性を持たされていたが、ラジオ、続いてテレビの普及は、話し言葉のレベルで標準語の普及を促進し、慣習的な共通語としての日本語を確立させたのである。
 そうした標準語の共通語化過程において、ラジオの時代から音声メディアの中心を担っていた日本放送協会(NHK)の果たした役割は小さくなかったであろう。NHKの話し手であるアナウンサーの話す日本語が共通語の正統的な範例とみなされ、模倣されたからである。もっとも、NHKが日本語史において果たしてきた役割については未解明の点も多く、今後の検証が待たれる。
 NHKに続いて設立が相次いだ民間テレビ局は次第に娯楽性を強め、アナウンサー以上に番組に出演する芸能人と呼ばれる話術者の語りが大衆にも影響を及ぼすようになる。時に品格を欠くこともあるかれらの語り口や口癖がそのまま流行語となることも少なくなく、かれらの影響力はおそらく語りのプロであるアナウンサー以上である。

 さらに1990年代半ば以降、インターネットという新たなメディアが普及すると、従来はマスメディアの受動的な消費者であった大衆が自ら情報発信をするようになってきた。インターネットは基本的に文字情報の集積であるが、近年は動画を通じた音声情報の発信も容易になっている。
 インターネットを通じた発信は個別性が強いため、個人の語り口としてのパロールが前面に出てきやすい。その結果、ラングのレベルでの文法的規範が型崩れし、国語学者が「日本語の乱れ」を慨嘆するような言葉の誤用も増加してきている。学者の警告にもかかわらず、そうした誤用が模倣され、普及すれば、共通語としての日本語はさらに変容していくであろう。

 こうして、共通語としての日本語が定着し、通俗的に変容していくにつれ、かつての標準語はもはや規範的な言語ではなくなり、大衆化された言語手段となっている。それはある種の格調の喪失という犠牲も伴っているが、そうした通俗化は、英語なども含め、共通語として定着を見た言語全般に不可避的に訪れる言語発展段階である。

2016年8月 7日 (日)

日本語史異説―悲しき言語(連載第21回)

十 帝国言語の時代

 標準語という形で、さしあたり国内の方言抑圧に成功した日本語は、続いて海外に進出していく。これは、明治政府の帝国主義的膨張に伴う言語輸出として行なわれた。その嚆矢となったは日清戦争勝利の結果、獲得した台湾であった。*琉球語を「外国語」としてみた場合には、琉球「処分」後の琉球を嚆矢とみることもできるが、当連載では琉球語を日本語の強方言とみなすため(拙稿参照)、琉球は方言抑圧の事例とみなすことになる。

 台湾は日本の帝国主義的植民地支配の最初の実験場もあるが、言語政策においてもそうであった。日本は台湾統治開始直後にいち早く国語伝習所(後の公学校)を設置し、日本語普及政策の中核機関とした。これは、植民地経営において、現地人教育を通じ「国語」として標準日本語を普及させる政策であり、強制同化型植民地経営の特徴を示すものであった。
 このような台湾における言語強制を伴う日本独特の同化型植民地支配は、1910年の韓国併合後の韓国でも応用されることとなった。ただ、一方で、戦勝の結果獲得した台湾とは異なり、外交的・軍事的圧迫により併合を実現させた韓国では、慰撫的なバランス策として、「文化政治」が強調され、当初はコリア語の識字にも尽力するなどの二重政策が採られた。*この時代、コリア語は日本語の一分派であると主張する「日鮮同祖論」が言語学者・金沢庄三郎によって提唱されたが、これは比較言語学的な証明を欠いた謬論であり、二重政策下で日本語の優位性を強調するイデオロギーとして利用されただけであった。

 戦間期の1922年以降、第一次世界大戦敗戦国ドイツから継承した旧ドイツ領南洋諸島の委任統治が開始されると、南洋諸島でも公学校を通じた日本語教育の手法が踏襲され、この地域にも日本語が普及していった。特に南洋庁が置かれたパラオでは、オーストロネシア語族(マレー・ポリネシア語派)に属するパラオ語に日本語からの借用語が多く摂取され、パラオ語は今日でも、日本語と系統を異にする言語にあって最も日本語の影響を蒙った言語となっている。

 日中戦争・太平洋戦争に突入すると、台湾や朝鮮でも臨戦体制を固めるため、皇民化教育が徹底された。台湾では台湾語を含む現地語の使用が禁じられ、朝鮮でも学校教育からコリア語が排除されていった。また創氏改名のように、個人のアイデンティティに関わる氏名すらも日本人化するなどの民族抹殺政策が指向された。
 ちなみに、日中戦争の「成果」でもある日本の傀儡国家・満洲国では、建て前上は複数言語主義ながら、日本人が支配する官庁・軍など公的機関においては、事実上日本語が優先公用語であった。
 また太平洋戦争末期に占領し、軍政下に置いた東南アジア諸国地域でも、軍政の一環として日本語教育が実施されたほど、日本帝国主義は日本語の輸出に極めて熱心であったことが特徴的である。

 こうして、近世以前には日本列島の「島言葉」に過ぎなかったローカル性の強い日本語が、帝国主義的膨張を通じて、20世紀前半期には一挙にアジアの広範囲に拡散・普及することになったのであるが、それも第二次世界大戦での敗戦により崩れ去り、また元の「島言葉」に還っていったのである。

 同化教育によって日本語を強制された台湾や朝鮮では、その反動から解放・独立後、日本語が公用語として残されることはなかった。この点は、西欧の植民地支配から独立後の新興国家の多くで英語や仏語がなお公用語として残されているのと比較しても、対照的である。
 唯一の例外として、前出パラオの一州(アンガウル州)では州憲法の規定により日本語が公用語の一つに掲げられており、現時点で、日本国外において日本語が公用語とされている唯一の事例となっている。ただし、同州でも日本語が日常的に使用されているわけではなく、あくまでも憲法上の標榜にとどまる。

 日本語の帝国言語の時代はすでに何世代も過去のこととなり、忘れられがちであるが、日本語が正当な形で国際語になり損ねる契機ともなった不幸な時代として、日本人・日本語話者は努めて冷静にこれを見据える必要があるだろう。

2016年7月18日 (月)

日本語史異説―悲しき言語(連載第20回)

九 標準日本語の特徴

 現在では共通語として全国的に通用し、日本人にとっては空気のように当たり前になっている標準日本語だが、この言語は純然たる計画言語ではないにせよ、かなり人為的に作り出された言語として、いくつかの特徴を持っている。

 まずそれは関東方言の中でも、江戸方言、とりわけ上層武士層が使用し、明治維新後は高級住宅地となる山の手の言葉をベースとしていることである。そのため、敬語体系が発達しており、これが現代の標準日本語にも継承されている。
 それとも関連して、明治期の山の手住民の女学生間で流行的に発生した敬語体の変種である「上品」な女性言葉が標準日本語に取り込まれ、女性特有の言葉使いとして定着したため、表現の上でのジェンダー分割が他言語でも例を見ないほど高度化した。

 さらに言文一致体であり、従来の文語体と口語体の区別が存在しない。このことは、文章語を平易なものとし、庶民層にとっても文章を綴りやすくする効果を持ったが、反面、文章語の格調を相当程度低下させることにもなった。

 一方で、明治維新後に洪水のごとく流入してきた西洋文献の翻訳の必要上、数多くの新たな和製漢語が創出されたことも特徴である。その限りでは、標準日本語には一種の計画言語性も認められる。この点で個人として多大の貢献をしたのが、まさに「哲学」という漢語の創始者でもある哲学者・翻訳家の西周[にしあまね]であった。
 その西周は新漢語の創出に苦労したせいか、漢字仮名交じり文の廃止と、洋字(ローマ字)による表記法を提唱するに至ったが、これは採用されず、中世以降確立されていた漢字仮名交じり文体は標準日本語に引き継がれた。

 当初は漢字片仮名併用主義であったが、第二次大戦後、新たな外来語の流入により外来語が増大したこともあり、原則的に漢字平仮名交じり文とし、外来語を片仮名表記する形で、三種文字併用主義に定着した。ただし、外来語の一部やデザイン的な表記にあっては、ローマ字を使用することもあり、これを加えるなら、四種文字併用主義とも言える。
 こうした表記法の複雑さに対応して、政府が国語政策として表記法に介入するようになった。国家主義が高まる昭和初期には、正式に国語審議会(現文化審議会国語分科会)が設置され、特に漢字の使用制限に重点が置かれたが、漢字廃止論は採用されていない。

 以上のような特徴を持つ標準日本語は、語彙の点で和製漢語と外来語が増大し、本来の和語の比率が低下したことにより、日本語の前身体たる倭語からの隔たりが大きくなり、別言語とは言わないまでも、近代日本語という新たな言語発展段階を画するものとなったと言える。

2016年7月 3日 (日)

日本語史異説―悲しき言語(連載第19回)

八 日本語の分化と統一

 ある言語が支配的言語としていったん定着すれば、日常の口語としても常用され、しかも口語体の性質として方言分化が必至である。日本語の場合は、前段階の倭語の段階からすでに方言分化は進行していたが、日本語がひとまず確立された中世以降になると、方言分化も確固としたものとなった。
 その結果、前回見た琉球方言のように、部分通訳を必要とするほどの強方言も生じた。おそらく、今日でも部分通訳を要する東北地方の方言も北方の強方言として発達したものと思われる。

 こうした方言分化は、中世以降の封建的地方分立の時代には格別の問題を生じなかった。この時代、人々は自身が属する封建領土の属民・領民という意識しかなく、また人々の交渉も封土内とせいぜいその周辺地域にほぼ限局されていたから、全土的共通語は必要とされなかったのであった。
 ただし、中央言語としては、やはり天皇の伝統的な所在地であった京都の方言が高い権威を持っており、首府江戸の方言も関東の一方言に過ぎなかった。その状況が一変するのは、明治維新後のことである。

 維新政府が急いだのは、封建的分立体制の完全な解体と、西洋的な国民国家の建設であった。国民国家は全国民にとっての共通語を必要とする。ところが当時の日本語の方言差は、近代的な軍隊内で出身地の異なる兵士間では言葉が通じないほど大きかったとされ、指揮命令系統の確立にも障害が出た。
 それだけが理由ではないにせよ、政府は「標準語」の確立を急ぎ、その際、京都方言ではなく、江戸方言が基礎に据えられた。そのうえで、学校教育を通じた「方言矯正」の必要性が叫ばれ、方言使用者への罰として「方言札」が利用されるなど、方言抑圧政策が敷かれた。*特に琉球「処分」(併合)後の琉球では、琉球方言抑圧策が強化された

 このようにして、今日の標準語の基盤が築かれていくが、学校教育が十分普及せず、かつ全国的なマス・メディアが未発達な間は、標準語の普及も不十分であり、反面、方言はそれぞれの地方で残存し続けたのである。
 とはいえ、日本では政府が言語の「標準」を定め、国民に教化するという国語政策が当然のこととして定着した。このことは、政府当局が国語政策を通じて国民の思考様式や思考内容まで統制することを可能にしている点には、注意が必要である。

2016年6月24日 (金)

日本語史異説―悲しき言語(連載第18回)

七 琉球語の位置づけ

 日本語の発達を考えるうえで無視できない個別問題は、琉球語の位置づけである。琉球語は基本的な構造や語彙において、本土の日本語とかなりの共通点を持ちながらも、独自の発音体系や語彙も擁するという微妙な位置にあるため、方言なのか、独自言語なのかをめぐって専門家の意見も分かれている。

 この点、本土の平安時代頃に至るまで石器時代が長く続いた琉球の成り立ちから考えれば、元来は本土とは異なる言語が成立していたと見るべきであろう。*遺伝的には、沖縄人に本土日本人では少数派のハプログループM7aを持つ割合が比較的高い。
 これが根本的に変化するのは、12世紀頃、琉球も農耕社会に入ってからである。この革命的な社会変化の触媒となったのは、九州地方を中心とする本土人の移住であった。この移住は、琉球人を形質上も本土日本人と同質的なものに転換してしまうほどの大移住だったと考えられる。
 それだけまとまった規模の移住民があれば、原琉球語に代わって、本土日本語が共通語化する言語交代も説明できる。ただし、そうした外来土着言語の常として、先行現地語の特徴(琉球語の場合は特に発音)を相当に吸収したため、琉球語は特有の方言性を帯びることとなった。よって、琉球語は日本語と全く別個の独自言語ではなく、日本語の方言ということになるだろう。

 ちなみに、言語専門家は方言をその固有性によって分類するということをしないが、方言にも標準語からの偏差には濃淡があり、最大限度では、標準語との間に部分通訳を必要とするほど偏差が大きい場合もある。そのような方言を「強方言」と名づけるとすれば―その対語は「弱方言」―、琉球方言は日本語の強方言と言えるだろう。

 実際のところ、琉球方言はそれ自体がさらに北部方言と南部方言とに下位区分され、琉球王国時代の支配中心は北部方言域にあり、特に首里方言が公用語であった。これに対し、元来は独自の文化を持っていた先島諸島を中心とする後者は「方言の方言」としての固有性を持つ。南部方言は、琉球王朝の支配が先島諸島へも及ぶ過程で、長く維持されていた独自言語が琉球語化されていったものと考えられる。

2016年5月15日 (日)

日本語史異説―悲しき言語(連載第17回)

六 日本語の誕生と発達③

 漢字を当てた日本式表音文字体系の万葉仮名からより簡略な仮名文字が発明されたのがいつのことか、明確には判明していない。奈良時代の末頃には漢字を崩した草書体が散見されるというが、正規文字としての使用は平安時代に入ってのことと考えられている。まとまった書物としては、905年に出た『古今和歌集』序文が最初の平仮名文書と目されるので、10世紀初頭には平仮名はすでに開発されていたことになる。
 続いて、個人の散文作品としては935年頃に出た紀貫之『土佐日記』が最初の仮名文学とされるが、男性筆者の貫之が女性に仮託して執筆するというジェンダー論的にも興味深い作品である。筆者があえて女性を装ったのは、当時、平仮名書体は女性のものと見られていたことによると考えられる。
 つまり、教養程度が高い男性は依然として漢文体で綴るのに対し、漢文素養のない女性は平仮名でしか綴れないというジェンダー・バイアスである。実際のところ、紫式部をはじめ、平安時代の著名な女流作家たちは皆、漢文素養も十分に備えていた一方、男性たちも私信や和歌では平仮名を用いており、少なくとも文章家の間における漢字と仮名の使い分けはジェンダーよりも文章のジャンルによっていたものと見られる。

 ちなみに、もう一つの仮名文字である片仮名は平仮名に比べて遅れて発達し、当初は漢文和読に際しての訓点という補助記号的な性格の文字であった。しかし、10世紀後半に出た作者不詳の『うつほ物語』の中に片仮名の書体が現われていることから、この頃には片仮名の使用も普及していたが、なお不統一かつ限定的であり、現代のような形で正規文字として確立されたのは、12世紀以降と見られている。

 仮名文字の特徴は字形が簡略されており覚えやすいことであるが、音声的には母音を示す五十音ア行はともかく、カ行以下は子音と母音が文字上は区別されないため、表音文字としては万葉仮名よりも後退してしまったことである。
 この点、コリア語のハングル文字では、母音と子音が発音記号的に書き分けられるため、文字を見れば発音が一覧できるのとは異なり、仮名文字の場合、ア行以外は文字だけでは発音が部分的にしか判明しないという限界を持っている。*ただし、アラビア文字のように子音のみを示すアブジャドとは異なり、カ=k(+a)、キ=k(+i)・・・・のように、母音を隠す形で子音プラス母音の組み合わせが示されているとも言える。

 とはいえ、平仮名と片仮名の二種類の仮名体系は漢字を起源としながらも、日本語独自の表音文字として定着していき、これによって日本語は文字体系を備えた文章語としても確立される。
 しかし一方では、漢字も排除されることはなかった。この点、日本語は漢語を固有の和語に翻案して造語するという言語ナショナリズムを徹底することなく、多くの漢語をそのまま取り込んだために、漢語は漢字で表記する習慣が残されたのである。
 そこから、やがて漢字仮名交じり文という二種類の文字で混淆表記する異例の折衷的書式が確立された。これが日本語の悲劇の始まりである。日本語の文章語を習得するには、二種類の文字と、漢語と和語双方の単語を覚え、その選択法についても訓練しなければならなくなったからである。
 和漢混淆文による最初の作品と目される平安時代末の『今昔物語集』の段階では漢字・片仮名交じり文であったが、近代以降、西洋からの外来語をやはり和語に翻案せず、和語と区別して片仮名表記する習慣が定着したせいで、現代日本語では漢字・平仮名・片仮名の三種文字混淆体が標準である。
 このような三種文字併用策は、非ネイティブによる日本語の読み書き習得を著しく困難にし、日本語の国際性を妨げているばかりか、ネイティブ日本人自身の読み書き習得をさえ困難にしているのである!

2016年5月 8日 (日)

日本語史異説―悲しき言語(連載第16回)

六 日本語の誕生と発達②

 前日本語としての無文字の倭語から文字体系を備えた日本語への発展を促進するうえで架橋的な役割を果たしたのは、上代日本語の表記に用いられたいわゆる万葉仮名であった。上代日本語とは誕生したばかりの日本語であり、そこにはそれ以前の倭語の特徴が多く継承されている。その意味で、万葉仮名は日本語誕生前の倭語の痕跡を垣間見ることのできるプリズムであるとも言える。
 万葉仮名のユニークな点は、本来表意‐表語文字である漢字の音韻を借用する形で日本語を表記する体系として構成されていることである。言わば漢字をアルファベットのような表音文字化したのである。そのおかげで、上代日本語の音声・音韻を相当程度に再構することが可能となる。

 万葉仮名の研究から判明した事実で最も重要なのは、母音の数である。現代日本語はアイウエオのシンプルな五母音体系であるが、上代日本語はイエオがi e oと曖昧母音としてのï ë öに分かれ、a i ï u e ë o öの八母音体系であったと考えられている。この点では、十母音体系(単母音)の現代コリア語とも近いのは興味深い。
 また上掲八母音の組み合わせに一定の制限法則が存在することも確認されており(有坂・池上法則)、これがアルタイ諸語の共通的特徴である母音調和原則の痕跡ではないかとの指摘もある。
 ちなみに、日本語の大きな特徴である単語の母音終止(開音節)は、上代日本語にすでに認められることから、倭語から継承した相当に古い特徴と見られる。この点は、子音終止(閉音節)を特徴とする現代コリア語とは対照的である。この特徴が倭語の基層にある百済語(その祖語は高句麗語)からの継承であったのか、それ以前の弥生語(南方系)の特徴が混合されたのかは確定し難い。*高句麗語・百済語を開音節言語とする説もあるが、推定の域を出ない。

 万葉仮名はかなり壮大な表記システムではあったが、漢字は文字数があまりに膨大であるうえに、音韻にも地方的な相違が少なくないなど、表音文字化するには適さない面もあり、文字体系として確立を見ることはなかった。最終的には漢字を崩して簡略化した平仮名及び片仮名が開発され、これが言わば日本式アルファベットとして定着した。
 しかし、大幅に簡略化されたぶん、平仮名及び片仮名は表音文字としては不完全なものとなり、ï ë öのような曖昧母音を表記するには適さなくなった。そのゆえもあってか、日本語の母音は減数され、現在の五母音体系に確定したのかもしれない。*コリア語は真逆に、曖昧母音の表記も可能な発音記号を兼ねた独特のハングル文字の開発へと進んだ。

2016年4月21日 (木)

日本語史異説―悲しき言語(連載第15回)

六 日本語の誕生と発達①

 前日本語としては最終段階、従って日本語の直接的な祖語となる倭語が確立を見るのはおおむね6世紀代のことと考えられる。この時代はいわゆる古墳時代後期に相当し、この間、畿内の百済系倭王朝は精力的な征服活動によって、その支配領域を大きく拡張し、ヤマト王権へと成長した。
 その際、王権の地方支配機関として機能したミヤケでは当初、中央派遣の長官や役人によって公用語である倭語が地方にも伝えられたと考えられる。後には部民制を通じて地方豪族一族が中央で奉仕するシステムを通じても倭語が地方に拡散されていき、倭語は行政‐経済上ある種のリンガ・フランカとして、方言転訛を伴いつつ、地域における共通語の地位を獲得していったであろう。その点、ミヤケは倭語が共通語化するに当たり、言語政策的な役割も果たしたと考えられる。

 ただ、この時期の倭語は専ら口語であり、なおラングとしては不安定な構造を脱しておらず、行政上も日本では文書行政の仕組みがなかなか発達しなかった関係から、独自の文字体系を生み出すにも至らなかった。6世紀の偉大な大王であった欽明の頃には大王直属部として史部のような文書部局も設置されたと考えられるが、当時の行政文書類や政治的な碑文などは現存せず、確証はない。
 飛鳥時代以前の確実な文字史料となると、江田船山古墳出土大刀の銀象嵌銘と稲荷山古墳出土鉄剣の金象嵌銘文くらいであるが、いずれも漢文である。この時期の文章語は漢文体であったと考えられる。ただ「獲加多支鹵(ワカタケル)」のように、倭語を漢字で当てる後の万葉仮名の萌芽のような書式の存在は確認できる。

 倭語が日本語へと完成されるのは、形式的に言えば、7世紀の飛鳥時代後期に「日本」の国号を確立した時であるが、実質的に見れば、それ以前の飛鳥時代前期には上代日本語のラングとしての基礎的体系は確立されていたであろう。
 しかし日本語が文章語として記録されるようになるのは、さらに進んで8世紀の奈良時代のことである。この時代になると、ヤマト王権は天皇を戴く王朝としての体制を整え、文書行政や文学書・歴史書の編纂などの文治政策が大きく進展したからである。
 もっとも、文章語に欠かせない文字体系に関しては、奈良時代の段階ではまだ、音韻の似た漢字を転用する万葉仮名のような借字であり、仮名といういちおう独自の文字体系を備えた日本語が完成するのは、続く平安時代を待つ必要があった。

2016年4月13日 (水)

日本語史異説―悲しき言語(連載補遺)

五ノ二 倭語の特徴(続)

 前回、倭語の言語形態や語彙の特徴を見たが、ここで補足的に敬語体系についても触れておきたい。日本人自身がしばしば誤用する敬語体系の複雑さは、現代日本語にも認められる大きな特徴であるが、この特徴は上代日本語にすでに備わっていたことから、前段階の倭語から継承した特徴と見られる。

 言語地理的に見ても、二人称や状況に応じた表現法の上で実質的な敬語を持つ言語は世界に少なくないが、相手との関係性に応じ、動詞や名詞に至るまで詳細な敬語が要求される言語は多くない。知られているところでは、コリア語とバリ語ぐらいである。こうした敬語体系の発達は、支配層と被支配層の絶対的な非対称性に相応すると考えられる。

 では、倭語における敬語体系はどこに由来するかであるが、用言における丁寧語の存在はアルタイ諸語の特徴とされるところ、日本語がアルタイ諸語に属するかどうかについては論争がある。
 敬語体系が日本語と比較的類似しているのはコリア語であるが、現代コリア語は倭語とは距離のある新羅語ベースと考えられるので、倭語とコリア語の敬語体系が完全に同根のものとは思われない。
 そうなると、やはり従来論じてきたとおり、敬語体系も倭語の母体となった百済語由来のものと見るのが自然であろう。仮に百済語においてすでに複雑な敬語体系があったとすれば、その理由は百済が征服国家であるがゆえに、王室をはじめとする支配層と被支配層の身分差が強調され、そこから複雑な敬語体系が生じたと考えられる。

 同時に、倭語を公用語化した倭王権自体もまた、百済王子を実質的な祖とする外来系王朝であったとするならば、支配層と被支配層の身分差が強調され、なおかつこの王権はやがて神の化身とされる超越的な君主=天皇を戴く王朝に発展したことで、宮廷を中心にいっそう敬語体系が発達を遂げたと想定される。

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