〆アフガニスタン―引き裂かれた近代史

2016年3月 5日 (土)

アフガニスタン―引き裂かれた近代史(16)

five 9・11事件とその後

nightカルザイ政権の10年
 9・11事件後の有志連合軍の攻撃でターリバーン政権が崩壊すると、国連の支援―実質は米国の影響下―で、暫定行政機構が設立され、ハミド・カルザイが議長に就任した。
 カルザイはザーヒル・シャー国王を支持したパシュトゥン系有力政治家一族の出で、内戦中はムジャーヒディーンに戦闘参加はせず、パキスタンを拠点に資金提供者として活動した。有力部族長でもある彼は米国の協力者として急浮上し、暫定政権トップに据えられたのであった。04年には正式に大統領に就任し、09年の再選をはさんで10年にわたり政権を維持した。
 カルザイ大統領は保守的ながら、海外で近代教育も受けた知識人でもあることを反映し、その政権は近代化を受容する穏健なイスラーム主義政権という性格を持った。そして米国の軍事的な後ろ盾のもとに長期に及ぶ内戦で疲弊した国土の回復と崩壊した国家機構の再建を課題としたが、それに立ちはだかったのが、パキスタン領内に退避し、カルザイ政権を米国の傀儡とみなす反政府武装組織として破壊活動を継続するターリバーンであった。
 他方、09年に発足したアメリカのオバマ政権は01年の開戦以降の作戦で2000人近い戦死者を出していた米軍を2011年7月以降撤退させる方針を示した。11年5月には逃亡中のビン‐ラディン容疑者を米軍特殊部隊がパキスタン国内で射殺したと発表されたが、9月には和平交渉機関の長に就任していたラバニ元大統領がターリバーンにより暗殺され、和平交渉は頓挫、撤退プランは危うくなった。
 米軍撤退を急ぐオバマ米政権とカルザイ政権の関係もこじれ、13年にはアフガンの頭越しにターリバーンとの交渉を試みたオバマ政権にカルザイ政権が反発し、和平交渉は暗礁に乗り上げた。そうした中、14年には任期満了をもってカルザイ大統領が退任、新たな大統領選でアシュラフ・ガニーが当選した。
 これはアフガニスタン共和制史上初の平和的な政権交代としての歴史的意義を持った。ガニー新大統領は世界銀行での勤務経験を持ち、暫定政権で財務相としても評価の高かった国際派テクノクラートである。このような履歴者がトップに就くのは、近年国家再建中の途上国でよく見られる現象であり、その成否が注目される。
 2014年は治安権限が国際治安支援部隊からアフガニスタン政府に返還された画期でもあるが、オバマ政権は15年、米軍のアフガニスタン駐留を16年以降も継続する方針に転換した。これは同政権が任期内でのアフガニスタン和平を断念し、次期政権の宿題として引き渡したことを意味している。
 これに対するターリバーン側では、かねて逃亡中だった最高指導者オマル師が13年に病死していたことが15年になって公式発表された。これをめぐってターリバーン内部でも動揺と新指導部への反発が見られ、ビン‐ラディンの死亡によるアル‐カーイダの弱体化とあいまって、中東のイスラーム過激派組織イスラーム国がアフガニスタンにも浸透する動きを見せている。こうして、アフガニスタン情勢は中東情勢とも連動し、混沌としてきている。
 見てきたように、アフガニスタンの近代は大国の覇権主義によって、また国家の枠に収まり切らない伝統的な部族主義によっても大きく引き裂かれ、依然として修復できないままである。国家なるものの暴力性と限界性とが最も露にされているのが、アフガニスタン近代史であるとも言える。(連載終了)

2016年2月28日 (日)

アフガニスタン―引き裂かれた近代史(15)

five 9・11事件とその後

night9・11事件と対米戦争
 内戦中は米国からも支援を受けたムジャーヒディーンの外国人義勇戦士から出たビン・ラーディンを指導者に戴くアル・カーイダが過激な反米活動に転じた契機は、91年のイラク戦争(湾岸戦争)で、サウジアラビアが米軍の駐留を認めたことへの反発にあったとされる。
 ビン・ラーディンはサウジアラビア王家と対立して祖国を出国した後、当初は89年以来イスラーム原理主義的な軍事政権が続いていたアフリカのスーダンを拠点としたが、スーダンから追放されると、アフガニスタンのターリバーン政権の客将的な立場で招かれ、アフガンを拠点とするようになった。
 ビン・ラーディンはターリバーン最高指導者オマル師とも個人的な親交で結ばれており、政治・軍事顧問的な役割も果たしていたと見られるため、ターリバーンとアル・カーイダの一体性が強まり、ターリバーン政権は正確には「ターリバーン‐アル・カーイダ連合政権」という特異な性格を帯びていたとも言える。
 アル・カーイダはアフガニスタン移転以前の93年の世界貿易センタービル爆破事件を皮切りに、国際的な反米破壊活動を本格化し、アフガン移転後も引き続き、駐ケニア・タンザニア米大使館爆破事件(98年)や米艦コール襲撃事件(00年)などを次々と引き起こした。
 ビン・ラーディンは98年と00年の事件で指名手配され、国連安保理からもターリバーン政権に対して身柄引き渡し要求決議がなされたが、政権は頑強に拒否した。そうした中、01年9月、未曾有の米国中枢同時多発爆破事件(9・11事件)が発生する。
 この事件でアル・カーイダは明確な犯行声明を出さなかったにもかかわらず、米国政府は即座にアル・カーイダの犯行と断定し、ターリバーン政権に改めてビン・ラーディンの引渡しを求めた。しかし、ターリバーン側は明確な証拠の欠如を理由に拒否した。
 こうした経緯からこの事件をめぐっては米国の自作自演説まで提起されたが、ターリバーン側が改めてアル・カーイダ庇護の強固な姿勢を示したことは、米国の軍事攻撃に大義名分を与えることとなった。
 米国とその有志連合軍は事件から一か月も経たない10月上旬に、アフガン攻撃に着手した。この合同軍事行動はクウェートを侵略したイラクを相手取った湾岸戦争時の多国籍軍によるものと比べても法的根拠は薄弱であったが、単なる爆破テロではなく、歴史上初の米国本土中枢への航空(機)攻撃という手法が拡大解釈されて「侵略」とみなされたのである。
 ともあれ、受けて立ったアフガニスタンにとっては、19世紀の英国、20世紀のソ連に続き、今度は米国という大国を相手取った戦争であった。しかし、今度の戦争は最も短期で決着せざるを得なかった。ターリバーン政権の軍事力は余りにも貧弱で、圧倒的な航空戦力を擁する連合軍には太刀打ちできなかったからである。
 この戦争は二か月で勝敗がつき、ターリバーン政権はあえなく崩壊した。だが、政権最高指導者オマル師もビン・ラーディンも捕らえることができなかったという点では、有志連合は「敗北」したとも言える。
 ここには、アフガニスタンの歴史地理的な特殊性が関わっている。19世紀に英国が戦略的に引いた旧英領インドとアフガニスタンの分割線デュアランド・ラインは有名無実化しており、ターリバーンもアル・カーイダも現在はアフガニスタン‐パキスタン間の国境線となった同ラインを越えてパキスタン側のパシュトゥン人居住地域へ退避し、活動を継続したと見られるからである。
 こうして、9・11事件後の米国もまた、旧ソ連とは異なる形ながら、アフガニスタンとの泥沼の紛争に引き込まれていくことになるのである。それは同時に、全世界がテロリズムとそれへの対抗戦争(対テロ戦争)に巻き込まれる時代の始まりであった。

2016年2月20日 (土)

アフガニスタン―引き裂かれた近代史(14)

four イスラーム主義の台頭

nightターリバーン革命
 ターリバーンの起源については半ば伝説化されており、詳細は不明であるが、ムジャーヒディーンから派生してきたことは間違いない。その初代最高指導者ムハンマド・オマルはパシュトゥン系元ムジャーヒディーン戦士で、戦闘で右目を失明したまさに独眼流の伝説的戦士であった。
 その生涯も詳細不明だが、主にパキスタンでイスラーム宗教思想を身につけ、非公式な宗教指導者となり、ムジャーヒディーン内部の抗争から第二の内戦が本格化した94年頃、同志らとともに郷里に近いカンダハールで活動を開始したとされる。
 そのようなマイナーな集団がなぜわずか数年で政権勢力にまで成長できたのかも謎だが、前回言及したように、旧ムジャーヒディーン内最大勢力だったヘクマティヤル派を見切ったパキスタン諜報機関が支援に乗り出し、当初は米国さえも代替勢力として好意的に見ていたことが決定的だったと考えられる。
 他方で、ラバニ大統領の軍閥連合政権はすでに内部崩壊しており、ターリバーンへ鞍替えする戦士らも相次ぎ、急速に勢力を拡大したターリバーンは早くも96年9月には首都カーブルを制圧して政権を掌握、オマルを指導者とするアフガニスタン・イスラーム首長国の樹立を宣言する。これは、歴史的に見れば、1973年共和革命以来の近代化の流れを逆流させるイスラーム反動革命としての意義を持った。
 とはいえ、この「国」を承認したのは、後ろ盾のパキスタンのほか、サウジアラビア、アラブ首長国連邦のみであり、国際社会においてはヘクマティヤル派を除く旧ムジャーヒディーン軍閥連合が一つにまとまった「北部同盟」としてアフガニスタンを代表し続けたが、「同盟」の支配地域は北部に限局され、しかも次第に狭められていった。
 ターリバーンはイスラーム法の厳格な施行を旗印とする原理主義勢力と見られ、当初は長期の内戦に疲弊した国民からも社会秩序の再建を期待されたが、その期待はすぐに恐怖に変わった。ターリバーンはカーブル制圧に際し、まだ国連施設に庇護されていた旧社会主義政権のナジブッラー元大統領を拘束したうえ、裁判なしに惨殺したように、反人道的衝動を持った全体主義的集団としての体質を露にし始めたからである。
 実際、2001年に米国の攻撃を受けて崩壊するまでの約五年間のターリバーン政権下では、娯楽や服装の規制、女性の抑圧などの全体主義的な統制がイスラームの名において大々的に行なわれるとともに、少数民族を中心とした住民虐殺や反対派に対する大量処刑などが日常化した。
 その実質をどう評価するかについて議論はあり得るが、ターリバーンが単純な宗教原理主義勢力でないことは明らかであり、パシュトゥン民族主義的傾向を含め、見方によってはイスラームの名による新たなファシズムと呼ぶべき性格を認めることもできる。
 ターリバーンはまた、スーダンからアフガニスタンに拠点を移したサウジアラビア人の元ムジャーヒディーン戦士ウサーマ・ビン・ラーディンと結託し、彼が率いるアラブ系イスラーム過激派組織アル・カーイダを庇護した。この結びつきは、ターリバーンをアル・カーイダが世界で展開する反米破壊活動のスポンサーにし、2001年の米国中枢同時多発テロ(9.11事件)というクライマックスへと導くことになる。

2016年2月13日 (土)

アフガニスタン―引き裂かれた近代史(13)

four イスラーム主義の台頭

night軍閥連合政権の破綻
 1992年4月に社会主義のPDPA政権が具体的な受け皿のないまま崩壊すると、イスラーム系反政府武装勢力ムジャーヒディーンが首都に殺到し、無政府騒乱状態に陥った。前述したように、同勢力は民族別に分かれた多数の武装集団の寄せ集めであったから、このような混乱は当然の帰結であった。
 とはいえ、この時点での反政府勢力は、多数派パシュトゥン人系の軍閥グルブッディン·ヘクマティヤルが率いるイスラーム党ヘクマティヤル派、イスラーム学者ブルハヌッディン・ラバニと軍閥アフマド・シャー・マスードが率いる少数派タジク人系のイスラーム協会を二大勢力とし、これにPDPA政権の軍人ながら半独立的な部隊を率い、政権末期に寝返った少数派ウズベク人ラシッド・ドスタムのイスラーム民族運動が合流する構図に収斂しつつあった。
 混乱の中から大統領に就任したのは、イスラーム協会のラバニである。少数民族タジク人出身ながら彼に白羽の矢が立ったのは、イスラーム主義政党として比較的古い歴史を持つイスラーム協会の権威とラバニの学識によるものと思われるが、同協会主導の政権には他派からの強い反発があった。
 とりわけヘクマティヤル派である。ヘクマティヤルは元来、PDPA党員からの転向組であったが、70年代を通じてパキスタンの軍事政権とサウジアラビアから多大の支援を受け、自派に多くの海外戦士を引き入れて最強集団を作り上げていた。当然、彼の強硬姿勢の背後にはパキスタンとサウジがあった。
 93年にはヘクマティヤルがラバニ政権の首相に就任することでいったんは妥協が成立したが、事前準備もないにわか作りの軍閥連合は当然にも長くは続かなかった。
 同年11月にヘクマティヤルは首都を離脱し、ドスタム派と同盟してラバニ政権打倒に乗り出すのである。こうして94年以降、新たな内戦が本格化し、軍閥連合政権は事実上崩壊する。今度の内戦は旧ムジャーヒディーン内部の対立に起因するものであり、内戦は第二段階に入った。
 この間、暫定政権構想を提示していた国連の介入的調停も有効に機能せず、ドスタム将軍の寝返りで首都脱出を阻止され、国連施設に逃げ込んだナジブッラー元大統領の身柄を保護せざるを得なくなったことも、国連の立場を苦しくした。
 その一方、水面下では、それまで強力に支援していたヘクマティヤルの政治手腕と宗教的な権威のなさにも失望し、彼を見限ったパキスタン諜報機関(軍統合諜報部)の支援の下、新たなイスラーム武装組織の結成がなされつつあった。これが、後に政権を握る過激集団ターリバーンである。

2016年2月 6日 (土)

アフガニスタン―引き裂かれた近代史(12)

three 社会主義革命と内戦

nightソ連軍撤退から政権崩壊へ
 1979年のソ連軍侵攻以来、PDPA政権は本来は非主流的な旗派が主導することになったが、最初のバブラク・カルマル政権は優柔不断な性格が強く、内戦終結への道筋を描くことはできなかった。他方、ソ連でも85年にミハイル・ゴルバチョフが新たな書記長に就任したことで、アフガン政策にも変化が現われる。
 ゴルバチョフは泥沼化したアフガニスタンからの段階的な撤退を構想していたため、アフガニスタンには自力で政権を維持できるより強力な指導者が必要と考えていた。そこでカルマルに代わる新指導者として白羽の矢が立てられたのが、ムハンマド・ナジブッラーであった。
 元来は医師であるナジブッラーも旗派の出身で、人民派の独裁期には亡命に追い込まれたが、ソ連軍侵攻後に帰国を果たし、カルマル政権下では秘密警察・国家保安局(KHAD)長官として政治犯の取締りに当たっていた。KHADはソ連のKGBに匹敵する政治保安機関であり、カルマル長官の下で同機関は肥大化し、大量人権侵害が断行されていた。
 ソ連がこのような恐怖の人物を抜擢したのは、ソ連のアフガニスタン介入で中心的役割を果たしていたKGBとも直結する保安畑の人間なら強力な指導性を発揮できると計算されたからであった。実際、ナジブッラー政権は表向き国民和解と民主化を演出する一方で、自らを大統領に据えたPDPA体制は固守するという二重的な政策で巧みな滑り出しを見せた。
 新憲法の下、ソ連軍撤退の直前に行なわれた複数政党制に基づく議会選挙では、PDPAは下院で過半数を割り込んだが、協力政党との連立で政権を維持した。しかし、この選挙を反革命武装勢力ムジャーヒディーンはボイコットしたため、内戦の終結にはつながらなかった。
 一方、ソ連軍のアフガニスタン撤退は、アフガニスタン・ソ連に、パキスタンとアメリカを加えて88年に署名された四か国間のジュネーブ協定に基づき、同年10月から順次開始され、翌年2月までに完了した。
 しかし肝心な内戦終結の見通しが立たず、かつナジブッラー政権が独力で体制を守り切るだけの軍事力を持たない中でのこの早期撤退は一方的なものでありすぎ、事実上はソ連がPDPAをほぼ見限ったことを意味していた。
 軍事的な後ろ盾を失ったナジブッラーはムジャーヒディーンへの懐柔策として、90年にはアフガニスタンがイスラーム国家であることを明記した憲法改正及びPDPAのマルクス‐レーニン主義路線の放棄と祖国党への党名変更を主導したが、78年革命体制そのものの打倒を目指すムジャーヒディーン側には何ら通用しなかった。
 91年にはソ連自体も保守派クーデターの失敗を契機に解体されたうえ、新生ロシアのエリツィン政権がアフガニスタンへの経済援助の停止という最後通告を突き付けると、軍事作戦の展開にも支障を来たしたナジブッラー政権は命脈を絶たれる。92年3月、ナジブッラーは国連が提案する暫定政権への権力移譲を表明し、翌月、辞任した。
 こうして78年革命以来のPDPA体制は終焉したが、とにもかくにも15年近くにわたり統治してきた体制を内戦が終結する前に梯子を外す形で瓦解させたことは、その後のアフガニスタンの破滅的な混乱の元を作った。このことに関して、内戦に介入した米ソ、パキスタン及び紛争調停者としての国連の責任は重いと言えるだろう。
 一方、PDPAもロシア革命後のボリシェヴィキ政権のように結束して軍事力を固め、外国が干渉する内戦に勝利して体制を確立するだけの力量を持ち合わせてはいなかった。結局、PDPAはソ連の傀儡的代理政党としての地位を最後まで脱することができなかったのである。

2016年1月30日 (土)

アフガニスタン―引き裂かれた近代史(11)

three 社会主義革命と内戦

night内戦の長期化
 1978年の社会主義革命以前、アフガニスタン史上近代主義的な大改革は王政時代のアマヌッラー国王による改革、共和革命後のダウード政権による改革と二度あったが、いずれもイスラーム保守層からの強い反発・反乱を招いている。PDPA社会主義政権もその例に漏れなかった。
 しかし、社会主義政権はさらに踏み込み、地主階級の部族長に所有された封建的な大土地制度にメスを入れ、大土地の無償接収と農民への再分配という農地改革を性急に断行したことで、部族長勢力の虎の尾を踏むことになった。
 歴史的に見れば、西洋に遅れて19世紀から近代化が進んでいたロシアでも10月革命は時期尚早であり、そのことが以後のロシア史にも影を落としていくが、20世紀後半を過ぎてもまだ中世的な部族主義が地方では克服されていなかったアフガニスタンではなおさらのことであった。
 反革命派の蜂起は革命直後から始まり、革命翌年の79年には全国に拡大し始めていたが、同年末のソ連軍侵攻はこうした反革命蜂起に反ソ抵抗運動の性格を与え、続く80年代をほぼ内戦一色に染めてしまった。
 反革命武装組織はムジャーヒディーン(聖戦遂行者)と総称されたが、最後まで統一戦線にまとまることはなく、主として民族ごとに組織され、戦闘は軍閥化した部族指導者が指揮して、ばらばらに行なわれた。戦闘に参加した組織は代表的なものだけでも優に10を越えるありさまであった。
 このようにばらばらな半封建的ゲリラ組織を、当時アメリカと並ぶ軍事大国となっていたソ連が粉砕するのはたやすいことのはずであったが、そうはならず、想定外の長期戦となったことにはいくつか理由があった。
 一つは、アフガニスタン部族勢力が山岳ゲリラ戦を得意としたことである。これは、19世紀にアフガニスタンと交戦した英国が敗北したのと同様の理由であった。
 もう一つは、西アジアへのソ連の覇権拡大を懸念したアメリカがムジャーヒディーンに対して、軍事援助を行なったことである。特に81年にソ連とイデオロギー上も厳しく対峙するレーガン共和党政権が発足すると、ムジャーヒディーン支援は本格化した。
 加えて、アフガニスタンとは真逆に、アフガン革命の前年77年にイスラーム保守的な反共親米の軍事独裁政権が樹立されていた隣国パキスタンも、軍諜報機関を通じてムジャーヒディーンを支援した。
 さらにアフガニスタン反革命戦争は反イスラーム無神論勢力(PDPA政権プラスソ連)からの解放戦争として宣伝されたため、ムジャーヒディーンには中東アラブ世界からも義勇兵が参加するようになった。その中には、後にイスラーム過激派組織アル・カーイダに結集するアラブ人勢力もあった。
 こうして、ソ連軍は拡大する反革命勢力を掃討することに手間取り、長期化したアフガニスタン内戦は、冷戦期における米ソの典型的な代理戦争の一例となっていくのである。特に最大で10万人余りの軍を投入したソ連にとって、アフガニスタンはアメリカにとってのベトナムとなった。

2016年1月17日 (日)

アフガニスタン―引き裂かれた近代史(10)

three 社会主義革命と内戦

night革命からソ連軍事介入へ
 アフガニスタンの1973年共和革命から78年の社会主義革命までの過程を見ると、ロシア革命の経過とよく似ている。第一次73年革命がロシアでは帝政を打倒した2月革命に相当するものだとすれば、第二次78年革命がボリシェヴィキによる10月革命である。
 異なるのは、第二次革命以降の経過である。78年中に言わばメンシェヴィキに相当する旗派を排除して全権を握った人民派であったが、今度は人民派内部で主導権争いに陥る。トップのタラキー革命評議会議長(PDPA書記長)に対して、ナンバー2のアミン外相が反旗を翻したのだった。
 元来、78年革命もアミン主導で実行されており、アミンには一定の実務能力が認められたが、タラキーは教条主義的なうえ、健康問題も抱えていた。二人の亀裂は深まり、タラキーがアミンの左遷を画策しようとした時、アミンが先制攻撃に出てタラキーを殺害、実権を掌握した。78年の革命からわずか一年余りである。
 このように、10月革命後レーニンを中心に結束を固めたボリシェヴィキとは異なり、アフガニスタンの革命家たちは内紛を抑えることに失敗した。新たなアミン政権は集団指導制を打ち出し、革命直後から開始されたイスラーム保守派の反革命蜂起を慰撫しようと、イスラーム信仰の尊重を認めた。対外的にも後ろ盾ソ連との関係を相対化し、隣国イランやパキスタンとの関係構築に動き、アメリカとの関係改善さえ模索しようとしていた。
 こうした穏健化路線でアミンは大衆的人気と党内基盤を確立しようとしていたものと思われるが、アミンの親西側路線はソ連の不信感を強めていった。もともとタラキーの排除にも批判的だったソ連はアミン排除の介入計画に着手する。
 79年12月、ソ連軍特殊部隊がアフガニスタンに侵攻し、アミン政権を転覆、アミンは殺害された。嵐333号作戦と名づけられたこの軍事介入は綿密に計画されたものであったため、アメリカをはじめとする西側陣営は激しく非難した。
 冷戦期のアメリカはソ連以上に同盟国への軍事介入を積極的に行なっていたから、この非難は笑止であったが、ソ連のアフガニスタン介入は収まりかけていた冷戦を再燃させる20世紀晩期の大事変となった。
 一方で、ソ連がここまで西アジアの一途上国にすぎないアフガニスタンに深入りした理由も不可解だが、すでに中央アジア一帯を領土に取り込んでいたソ連としては、中央アジアに接続するアフガニスタンを戦略的要衝として確保し、東のモンゴルのような衛星国として傀儡化しようという戦略的な意図があったとも考えられる。
 軍事介入後のソ連はタラキーとアミンという二大指導者の相次ぐ死で凋落した人民派に見切りをつけ、元来は穏健派の旗派擁立策に切り替えていた。そのため、人民派政権によりチェコスロバキア大使に左遷されていた旗派指導者のバブラク・カルマルを呼び戻す形で、新政権のトップに据えた。そのため、この軍事介入以降のPDPA政権は旗派政権となる。
 しかし、旗派のプログラムはもともと革命を時期尚早とするものであっただけに、ソ連の介入によって突如革命政権を率いることには無理があった。カルマル政権は民主改革と一党支配の間を中途半端に漂い、一方でイスラーム勢力の武装抵抗の拡大と泥沼の内戦化を抑え切れなかった。このことは、ソ連の不満を次第に高めていったであろう。

2016年1月 9日 (土)

アフガニスタン―引き裂かれた近代史(9)

three 社会主義革命と内戦

night1978年社会主義革命
 前回触れたように、1973年の共和革命はイスラーム保守勢力を後退させ、マルクス‐レーニン主義の人民民主党(以下、PDPAと略す)が台頭するきっかけを作った。しかし、共和革命を主導したダーウード大統領は革命当初友好的だったPDPAを次第に遠ざけ、78年には弾圧に出る。
 弾圧の引き金を引いたのは、暗殺されたPDPAのさる有力なイデオローグの葬儀の場を借りた大規模な抗議集会だった。反政府暴動につながることを恐れたダーウード政権が弾圧に出たものと思われるが、政権の動きは鈍かった。
 一方のPDPA側は大弾圧による組織壊滅を防止すべく、軍部内の支持勢力と連携し、78年4月、クーデターに及んだ。このクーデターは短時間で成功し、PDPAが全権を掌握した。
 事前に入念に計画されていたように見えないクーデターがこれほど簡単に成功した理由は必ずしも明確でなく、背後にPDPAの後援者であるソ連が介在した可能性も否定できないが、軍部内にPDPAが相当に浸透していたことに加え、ダーウード政権が国民的な支持を受けていなかったことも一因であろう。
 実際、ダーウードはこのクーデターの渦中、家族もろとも無残に殺害されていた。ダーウード殺害の事実は当初伏せられていたが、後に当時の関係者により埋葬場所が明かされ、2008年に至って首都カーブルの集団墓地でダーウードらの遺体が発見された。このように前国家元首一家を秘密裏に「処刑」し闇に葬り去るやり方は、ロシア革命のアナロジーだったのだろう。
 こうしてマルクス‐レーニン主義を標榜する政党が政権を掌握し、国名も「アフガニスタン民主共和国」に変更したうえ、以後ソ連を後ろ盾に社会主義的政策を遂行していくことになるので、78年クーデターは社会主義革命の性格を持った。イスラーム主義が強い西アジアでは歴史上も稀有の出来事である。
 しかし、一躍政権党となったPDPAは元来、段階的な革命を志向し、ダーウード政権に協力的な「旗派」と一挙革命を主張し、ダーウード政権に批判的な「人民派」とに分裂していた。この分裂はロシア革命当時のメンシェヴィキとボリシェヴィキの対立に相似し、諸国のマルクス主義政党ではお馴染みの党内路線対立でもあった。
 この対立は革命前年の77年に表面上は解消され、党は再統一を確認していた。しかし78年革命を主導したのは人民派であり、初代革命評議会議長に座ったのも同派指導者の党書記長ヌール・ムハンマド・タラキーであったので、政権掌握後、両派の確執はすぐに表面化した。
 タラキー指導部は旗派を政権から追放したうえ、旗派がクーデターを計画したという理由で同派幹部らを処刑もしくは投獄した。こうして78年8月までにタラキーと事実上のナンバー2だったハフィーズッラー・アミン外相を中心とする人民派が主導権を確立する。

2015年12月26日 (土)

アフガニスタン―引き裂かれた近代史(8)

two 独立アフガニスタン

night1973年共和革命
 1963年、ザーヒル・シャー国王は当時のアフガニスタンでは急進的すぎる近代化改革を推進していた従兄のダーウード首相を追放して、改めて親政を開始するが、それによって近代化路線が全面撤回されたわけではなく、スピードを落とされただけであった。
 64年には立憲君主制を基調とする新憲法が制定された。この憲法は西洋で教育された近代主義者たちにより起草され、普通・自由選挙に基づく議会や市民的権利、女性の人権などの西欧ブルジョワ憲法の諸要素を一応備えていた。
 しかし、当時のアフガニスタンでは西洋的教育を受けた者は政界でも少なく、この憲法を政治行政上使いこなすだけの土台を欠いていたため、民主化は円滑に進まなかった。王族が首相に就く慣例は排除されたが、政府‐議会関係が紛糾し、頻繁な内閣の交代が起き、安定した政権運営が妨げられた。
 そのように未熟で不安定な立憲政治が10年続いた後、ついに長い王制の終わりが訪れた。病気治療などのため、ザーヒル・シャーがイタリアを訪問中の73年、ダーウードが無血クーデターで政権を奪取したのだった。
 ダーウード自身王族の一員だったが、彼は新国王に即位するのでなく、王制廃止と共和制移行を主導し、自ら初代大統領に就任した。このように73年クーデターは単なる政権交代ではなく、政治制度そのものの変革にまで及んだため、共和革命の意義を持った。イスラーム王朝で、王族が共和革命を主導するのは極めて異例のことであった。
 大統領としてのダーウードは首相時代の政策の修正をいくつか試みている。一つは、ソ連との関係である。軍の近代化は依然として未完の課題だったが、そのためにダーウード大統領はソ連よりもエジプトからの援助に乗り換えようとした。
 当時のエジプトはソ連とは距離を置く独自のアラブ社会主義を追求しており、社会主義的傾向を帯びていたダーウードにとって、同じイスラーム圏に属するエジプトはいろいろな意味でモデルとして想定されていたように見える。しかし、このような「ソ連離れ」はソ連の心証を害し、ダーウード政権の命脈を縮める遠因となる。
 もう一つは、パシュトゥン民族主義である。政権発足当初こそ、彼は再びこれを蒸し返し、パキスタン領内のパシュトゥン人勢力を煽動してパキスタンと緊張関係に陥ったが、次第に当時のパキスタン側のブット左派政権との妥協に動いていった。
 一方、近代化推進路線は変わらず、むしろ大統領権力を使ってよりいっそう大規模な社会変革を試み、これに反発した宗教保守勢力の反政府運動を厳しく弾圧した。だが、外交面ではイスラーム保守主義のサウジアラビアに接近するなど、一貫しない面があった。
 ダーウード政権が短命に終わる直接の要因となったのは、マルクス主義政党の人民民主党との関係であった。同党はザーヒル・シャー親政時代の65年に結党された政党で、73年革命でもダーウードを支持した連立与党的な勢力だった。
 しかし、ダーウード自身は社会主義的傾向を持ちながらも、マルクス主義者ではなく、74年には自身の政党として国民革命党を立ち上げ、一党支配体制の構築を狙っていた。そのため、ダーウードは次第に人民民主党を遠ざけ、最後には弾圧を仕掛けるのだが、その時機遅れが命取りとなる。

2015年12月19日 (土)

アフガニスタン―引き裂かれた近代史(7)

two 独立アフガニスタン

nightザーヒル・シャー時代
 1933年にモハンマド・ナーディル・シャーが暗殺された後を受けて、新国王に即位したザーヒル・シャーの40年に及んだ治世は大きく三期に分けることができる。
 その第一期は、19歳での即位後、二人の叔父に実権を預けていた53年までの20年間、第二期は従兄に当たるモハンマド・ダーウードが実権を掌握した63年まで、第三期は、ザーヒル・シャーが親族に依存せず親政を開始し、共和革命で王位を喪失する73年までの最後の10年間となる。
 このザーヒル・シャーの40年間は総体的に、アフガニスタンが近代国家として漸進的に整備され、安定的な王制の下、ある程度までの発展と繁栄を享受した時代として記憶されている。
 特に最初の20年間は相対的に高度の安定期であった。この時代は、モハンマド・ハーシム・ハーンとその後を継いだシャー・マフムード・ハーンという国王の二人の叔父が相次いで首相として政府を主導した時代であった。
 最初のモハンマド・ハーシムは先王時代からの留任であり、先王暗殺後の混乱を収拾し、ザーヒル・シャーへの円滑な王位継承を後見するうえで大きな役割を果たした。戦後の46年まで首相を務めた彼の時代は、アフガニスタンの国際化が進展した時代でもあった。
 34年には遅れて国際連盟に加盟し、国際的な認知を受けた。さらに従来あまり縁のなかったドイツやイタリア、日本からの経済援助を引き出し、経済発展の土台とした。このように経済関係では第二次大戦の枢軸同盟側と親密であったが、大戦中は中立を守り、乗り切った。
 また中央アジア方面では、33年に中華民国からの独立を目指すウイグル族とキルギス族が建てた第一次東トルキスタン共和国を支援し、中央アジアに独自の勢力圏を築こうと試みたが、これは中国系回族軍閥の軍隊に破られ、成功しなかった。
 戦後、モハンマド・ハーシムを継いだもう一人の叔父であるシャー・マフムード・ハーンが53年に死去すると、ザーヒル・シャーは従兄のモハンマド・ダーウード・ハーンを新首相に任命した。ダーウードはすでに国防相や内相を歴任していた大物だったが、確信的な近代主義者でもあり、その政策や急進的な政治手法はかつてのアマヌッラー国王に似ていた。
 ダーウード政権は近代化路線を明確にし、女性の地位向上を含む社会の全般的な刷新に乗り出した。これに反発・抵抗した宗教保守勢力は容赦なく弾圧された。外交的には再びソ連に目を向け、特にソ連からの軍事援助で軍の近代化を進めた。
 一方で、ダーウードは近代的国民国家の建設のため、パシュトゥン民族主義を掲げたが、戦後英国から独立した隣国パキスタン領内のパシュトゥン人の再統合まで図ったことで、パキスタンとの摩擦を引き起こした。
 パキスタン側は国境封鎖で対抗したため、アフガニスタン側は経済危機に陥り、ソ連への経済的依存関係がいっそう強まる結果となった。1960年、ダーウードは事態打開のため、パキスタン領内に軍を侵攻させるが、大敗を喫した。
 このパキスタン危機を憂慮したザーヒル・シャーはようやく独自の行動に出る。63年、国王はダーウードを辞職させ、後任の首相に史上初めて王族ではないテクノクラート出身のモハンマド・ユスフを任命した。
 この国王自身による一種の自己クーデターにより、ザーヒル・シャーの親政が開始され、ダーウードはいったん政界を去ることになるが、彼は10年後、革命という手段で再び戻ってくる。その間のザーヒル・シャー時代第三期については、73年共和革命への伏線として、次回に回す。

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