〆私家版足利公方実紀

2016年3月 3日 (木)

私家版足利公方実紀(連載最終回)

二十三 足利義尋(1572年‐1605年)

 足利義尋〔ぎじん〕は最後の室町将軍足利義昭の庶長子であるが、義昭は正室を持たなかったため、義尋が嫡男扱いとなる。だが、彼は1歳の時、父が信長に京都を追放され、幕府が崩壊した後、信長の人質となったうえ、おそらくは将軍家嫡流の断絶を狙った信長の策により、直ちに出家させられた。
 僧籍に入った義尋は、若くして興福寺大僧正にまで栄進したが、突如還俗して、後に宮中に出仕し後陽成天皇の妃となる古市胤子と結婚し、二人の息子をもうけたとされる。還俗時期は、第一子の生年(1601年)からすると、父義昭が没した慶長二年(1597年)以降かと思われる。
 突然の還俗理由は定かでないが、大名として遇され、秀吉の御伽衆に編入されていた父の死没を受け、継嗣として改めて足利宗家再興を図った可能性もなくはないし、彼にはその資格が一応はあった。
 だが、秀吉も関ヶ原の勝者となった家康も、足利氏後裔としては古河公方家の流れを汲む喜連川氏を立て、義尋には関心を示さなかった。そして義尋自身も慶長十年、32歳にして没してしまうのである。結局、義尋の二人の息子たちも仏門に入り、生涯非婚を通したため、義昭系の足利将軍家嫡流は断絶することとなった。
 義尋については同時代の史料も乏しく、将軍子息でありながら、その生涯・人物像も不詳で影のような存在である。室町幕府滅亡期に将軍庶子として生を享けた者の悲運を体現していたのであろう。ほぼ同世代の一門女子ながら、喜連川氏の実質的な祖となる足利氏姫とは命運が分かれた。

二十四 足利氏姫(1574年‐1620年)

 古河公方家に男子継承者なく、天正十一年(1583年)の5代公方足利義氏の死をもって後任公方は任命されなかったことは前回述べたが、家臣団は義氏の存命中の9歳の娘氏姫を城主として擁立した。この時点では、関東の支配者は後北条氏であったから、おそらく氏姫擁立には後北条氏の了解もあったのであろう。
 しかし、周知のとおり、後北条氏は天正十八年(90年)の豊臣秀吉による小田原征伐により滅亡し、秀吉の天下となる。その際、秀吉は氏姫に対して古河城立ち退きを命じつつも、古河公方家の存続は認め、天正十九年(91年)、氏姫を旧小弓公方足利義明の孫に当たる足利国朝と結婚させ、古河公方家の再統合を実現させた。
 ただ、この政略結婚はうまくいかなかったようで、秀吉から新領地として一族本貫にも比較的近い下野の喜連川を安堵され、入部した国朝に対し、氏姫は古河に固執・在住し続け、別居状態となった。
 そうするうちに、文禄二年(93年)、国朝が秀吉の朝鮮出兵に参陣する途中で死去したことから、氏姫は国朝の弟で氏姫より六歳年下の頼氏と再婚させられることとなった。これも政略婚だったが、二人の間には、慶長四年(1599年)に嫡男・義親が誕生している。
 頼氏は慶長五年の関ヶ原の戦いには参陣しなかったが、勝者の家康に祝賀使を派遣したことが評価され、秀吉から安堵された3500石に1000石加増のうえ、喜連川藩としての存続を許され、初代藩主となる。
 しかし、氏姫は相変わらず喜連川入りせず、生涯を閉じるまで息子の義親、孫で2代藩主となる尊信とともにその御所周辺300石余りに切り縮められた古河の領地に在住し続けた。これは家康に対する無言の抵抗とも言える行動であったが、天下人といえども、足利氏直系の氏姫らを強制的に転居させることをあえてしなかった。
 こうして信長、秀吉、家康と「三英傑」すべての治世を経験した氏姫は時の天下人の政略によってではあったが、分裂していた古河公方家の統合者となり、かつ足利氏の流れを汲む近世喜連川氏へのつなぎ役を果たした中世足利氏最後の実質的な当主と言える人物であった。
 ところで、家康が喜連川氏を丁重に遇したのは、源氏長者を仮冒していた徳川氏がその不十分な格式を補うためにも、なお関東一円に威信を残していた「純正」な源氏系名門足利氏の存在を必要としていたこともあったと考えられている。
 そのため、喜連川氏は石高上は旗本級にもかかわらず、徳川氏とは主従関係にない客分的な地位のまま参勤交代義務も免除された特例的な大名格(享保年間以降は諸侯待遇)という半端な地位に置かれ続けたのであった。
 ちなみに、「純正さ」という点では、室町幕府11代将軍足利義澄の次男義維の末裔に当たる平島公方家のほうが足利将軍家直系と言えたのであるが、こちらは以前述べたとおり、蜂須賀氏の徳島藩客分にとどまり、その存在を迷惑視した藩からも冷遇されたうえ、19世紀には京都へ退去し、紀州徳川家の援助などに頼って生計を維持する窮状に置かれたのとは明暗を分けた。
 その対照性は明治維新後まで続き、実子で継いできた平島氏はすでに浪人化していたこともあり、華族への叙任努力も実らず、士族身分すら得られないまま、京都近郊で帰農し、平民身分となったのに対し、養子で幕末までつなぎ、血統的には絶えていた喜連川氏は新たな身分制度で子爵に叙せられ、近代足利氏の祖となった。 

2016年2月25日 (木)

私家版足利公方実紀(連載第18回)

二十二 足利晴氏(1508年‐1560年)/義氏(1541年‐1583年)

 古河公方体制終末期の4代足利晴氏・5代義氏父子時代(1535年~83年)は、室町幕府ではおおむね12代義晴から最後の15代義昭にかけての時代と重なっている。すでに見たように、この時代はまさに戦国時代只中であり、幕府も三好氏や織田氏のような下克上大名勢に乗っ取られていたが、事は関東でも同じであった。
 古河公方家では3代高基の時代に高基の弟の義明が小弓公方を分離独立させていたが、間もなく高基に対して、元服した嫡男晴氏が反逆して内紛となった。同時に関東管領山内上杉家中でも家督をめぐる内紛が起き、古河公方家・関東管領家同時内乱(関東享禄の内乱)に発展した。
 ただ、この内乱自体は2年ほどで片が付き、古河公方家側では享禄四年(1535年)、晴氏が勝利した。古河公方の地位を確立した晴氏は続いて天文四年(38年)、叔父に当たる小弓公方義明を討つべく時の後北条氏当主北条氏康と同盟し、義明を攻め滅ぼした(第一次国府台合戦)。
 こうして当時関東地方を席巻しつつあった後北条氏の力を借りたことは、ちょうど最後の将軍義昭が織田氏の力を借りた時のように、高くついた。晴氏は継室として氏康の異母妹に当たる芳春院を送り込まれ、その間に生まれたのが次男の義氏である。
 野心的な氏康はこうした婚姻戦略にとどまらず、古河公方家そのものの乗っ取りも狙っていたため、次第に晴氏と不和になる。両者はついに武力衝突に至り、晴氏は関東管領上杉氏と連合し、先に先代北条氏綱によって奪われていた本来扇谷上杉氏の居城だった河越城の奪還を図る。
 晴氏側は関東の主要な大名のほとんどを参集させた大勢力だったにもかかわらず、氏康側は膠着状態に持ち込んで相手の戦意を緩めたところを偽りの降伏申し入れで油断させたうえ、夜討ちをしかけるという奇襲作戦で勝利したとされる。結局のところ、これも室町最後の将軍義昭が織田信長にしかけた包囲網作戦と同様、百戦錬磨の下克上大名の実力を見誤った無謀な戦であったのだった。
 ただ、勝利した氏康も晴氏を処刑することはせず、しばらくは形ばかりの古河公方として留任させていたが、甥に当たる義氏がある程度成長した天文二十二年(52年)に至り、義氏を5代古河公方に擁立し、晴氏を幽閉した。
 しかし、この決定に不満を爆発させた義氏の異母兄で長男の藤氏は上杉氏や後に上杉氏の家督を継ぐ長尾景虎(上杉謙信)の支援を得て反乱決起し、永禄四年(61年)、いったんは義氏追放に成功する。しかし翌年反攻に出た後北条氏により捕らえられ、数年後に消息を絶った(後北条氏の手で抹殺されたとも言われる)。
 こうして義氏は古河公方の地位を奪回できたが、生母から後北条氏の血を引く彼の地位は徹頭徹尾後北条氏によって支えられた傀儡公方に過ぎず、短い中断をはさんで30年以上に及んだその在任中、実権を持つことはなかった。
 天正十一年(83年)に義氏が死去した時、後を継ぐ男子はなく、後任者は立てられなかった。こうして鎌倉公方時代から通算すれば九代(藤氏を数えれば十代)240年近くに及んだ関東の足利公方体制は終焉した。すでに室町幕府もおよそ10年先行して滅亡しており、これにより足利氏支配体制そのものが名実ともに終焉したことにもなる。

2016年2月18日 (木)

私家版足利公方実紀(連載第17回)

二十一 足利義昭(1537年‐1597年)

 室町幕府最後の将軍となった足利義昭は12代将軍義晴の次男として生まれ、幼少の時に興福寺の僧となったが、兄の13代将軍義輝が永禄の変で三好三人衆らに暗殺され、三人衆が擁立した14代義栄も一度も入京できず死去するという異常事態の中、にわかに将軍のお鉢が回ってきた。
 永禄の変の後、反三好派幕臣に援護されて奈良を脱出、還俗した義昭は上洛の機を窺う。最終的に、当時朝倉氏家臣だった明智光秀を介して、美濃の実力者として台頭してきた織田信長と接触し、彼の支援も取り付けたうえ上洛を果たし、永禄十一年(1568年)、15代将軍に就任する。
 しかし信長の力を借りたことで、以後の義昭は三歳年長で「室町殿御父」の称号を帯びた信長との関係に振り回されることになる。当然にも幕府の再興を構想していた義昭と自ら天下人たることを狙っていた信長の思惑は初めから食い違っており、両人の衝突は避け難かった。
 義昭の権限を制約して傀儡化しようとする信長に対し、義昭の不信感は募る。義昭は仇敵の三好三人衆とさえ連携し、信長包囲網を形成して対抗した。元亀三年(1572年)に信長が実質的な挑戦状である十七か条の意見書を送り付けるに至り、両人の対立は決定的となり、義昭は挙兵する。
 しかし長く仏門にあった義昭が寄せ集めの包囲網で百戦錬磨の信長を撃破できるはずもなく、頼みの綱だった武田信玄の死も打撃となり敗北、京都を追放される。以後、京都を含む畿内の支配権は信長が掌握する。この天正元年(1573年)をもって室町幕府は実質上終焉したものと解されている。
 とはいえ、畿内以外の地では義昭の支持勢力はまだ健在であった。義昭はそうした勢力の一つ毛利氏を頼り、その領国備後の鞆に逗留する。ここで義昭は毛利氏の庇護のもと、信長追討・復権を目指して外交工作を展開するため、「鞆幕府」とも呼ばれるが、実態は中国地方の実力者毛利氏の持ち駒であった。
 義昭に再びチャンスがめぐってくるのは、他でもない本能寺の変で信長父子が自害に追い込まれ、織田政権が崩壊した時である。信長追討の意思が固いことや、変の実行者である明智光秀との旧主従関係から、義昭自身が変の黒幕であったとする説もあるが、確証はない。
 ただ、信長討伐を決意した光秀が義昭を完全に蚊帳の外に置いたとも考えにくく、義昭が事前に何らかの情報を得ていた可能性は高いと思われる。しかし光秀が変の直後に羽柴秀吉に討たれ、新たに秀吉が政権を掌握したことで義昭の計算も狂ってしまう。
 その後、まだ形式上は将軍の地位にあった義昭は秀吉側と折衝して上洛の機を窺うが、老獪な秀吉は義昭を体制に取り込みつつ、無力化することを考えていた。その結果、義昭は最終的に天正十六年(1588年)に将軍辞職、山城国にわずか一万石の領地を与えられ、秀吉の御伽衆編入という名誉職待遇となった。
 ちなみに義昭は秀吉と同年の生まれで、没年は一年早く、その生涯はほぼ重なっている。天下人だった者が一庶民から成り上がった同年齢の天下人の臣下に下ったのは、まさに下克上の時代にふさわしい歴史の皮肉であった。

2016年2月11日 (木)

私家版足利公方実紀(連載第16回)

二十 足利義維(1509年‐1573年)/義栄(1538年‐1568年)

 足利義維〔よしつな〕は11代将軍義澄の次男である。年齢上は長男であったが、何らかの事情で異母弟の義晴が嫡男たる長男とされたため、当初は将軍候補から外され、京都を出奔した10代将軍義稙の養子として連れ出され、阿波国で養育されていた。
 転機が訪れたのは、時の管領細川高国と対立した細川晴元・三好元長に義晴の対抗馬として担ぎ出された時である。大永七年(1527年)、晴元らが高国を打ち破ると、義維は次期将軍含みで堺入りし、堺公方を称した。
 この時期の堺公方の実力については説が分かれ、「堺幕府」と呼ぶべき対抗政権がすでに成立していたという説もある。ただ、朝廷では義維を次期将軍が歴任する慣例となっていた従五位下左馬頭に叙任する一方で、改元に際してはまだ京都に存続していた義晴の幕府にだけ打診するなど、義維の権力は固まっていなかった。
 そうするうち、享禄四年(1531年)の高国敗死を契機に、義晴との和睦策に転じた晴元とあくまでも義維を擁立しようとする元長の亀裂が生じた。両人の対立は武力衝突に至ったが、晴元側は法華宗徒の元長に反感を抱く一向一揆を動員するという策で天文元年(32年)、元長を追い詰め、自害に追い込んだ。
 この後、後追い自害を止められた義維は阿波に退避し、堺公方は5年ほどで崩壊した。それから30年以上にわたる閉塞の時代を経て、再び義維にとって転機となったのは、義晴を継いだ13代将軍の甥義輝が暗殺された永禄の変である。
 ところが、不運にもこの頃、義維は脳卒中と見られる病気の後遺症で将軍職に就ける身体ではなかったため、実権を握った「三好三人衆」の後ろ盾を得て、嫡男義栄〔よしひで〕を14代将軍に立てることに成功、自身は後見役となった。
 しかし、「三人衆」政権は脆弱で、義栄擁立は幕臣総体の支持を受けていなかったうえ、「三人衆」と松永久秀との対立抗争が勃発したため、義栄は摂津国にとどまったまま入京することもできなかった。
 そうした中、とみに頭角を現していた織田信長が義輝の弟義昭を擁して京に攻め上ってくる。「三人衆」は抗戦するも、信長軍に駆逐され、抜け目のない久秀は信長に服従したことで、「三人衆」政権はあえなく崩壊してしまう。
 病身だった義栄は結局、一度も入京することのないまま、永禄十一年(68年)、在任わずか7か月にして死去してしまう。死亡した日付も場所も不明という。京都から放逐されたり、出奔したりした将軍は幾人かいたが、京都に一度も入京できなかった将軍は彼だけであり、それほどに室町幕府は風前の灯となっていた。
 義栄に先立たれた義維は阿波に帰国し、さらに5年ほど存命、失意のうちに死去した。彼の家系は次男の義助が継いで、阿波の平島を本拠地に平島公方を称し続けるが、その後は阿波に入部してきた蜂須賀氏の客将として細々と命脈をつなぐばかりであった。下克上ならぬ上落下の典型である。

2016年2月 3日 (水)

私家版足利公方実紀(連載第15回)

十九 足利義輝(1536年‐1565年)

 足利義輝は、12代将軍義晴の嫡男として、天文十五年(1546年)、11歳で将軍位を譲られた。しかし当時は義晴が近江に避難中であったため、就任式も近江で執り行われた。実権は義晴が死去する同十九年(50年)までは父が保持していた。
 義晴は前回見たように、細川晴元配下から下克上により台頭した三好長慶との抗戦の最中、病死したのであった。父の死後、自立した義輝は長慶討伐と和睦の可能性を天秤にかけていたようだが、結局、強大な軍事力を持つ長慶を討伐することはあきらめ、永禄元年(58年)、六角氏の仲介で長慶と和睦し、ようやく京都に落ち着くことができた。
 将軍としての義輝は、父と同様、決して無能ではなく、地に墜ちていた将軍の権威を回復することに努めたが、時代状況がそれを許さなかった。長慶は和睦後、形式上は将軍の臣下たる御相伴衆に編入されたが、彼はそうした従属的な地位に甘んじてはいなかった。
 長慶は晴元を最後に没落した細川管領家に代わって幕府の実権を掌握したため、以後の体制は三好政権と称されることもある。三好氏は信濃源氏の一族小笠原氏庶流で、本来の所領は阿波にあったが、次第に勢力を増し、長慶の頃には畿内一円も勢力圏に収める大大名に成長していた。
 そのため、長慶を信長に先立つ最初の下克上的戦国天下人と評する向きもあるが、これにはいささか過大評価が含まれている。長慶の勢力の大きさは認められるが、上述のように将軍義輝も決して長慶の傀儡的な地位に満足せず、独自に戦国大名の統制を図り、張り合ったため、長慶の下克上はさしあたり幕府機構内部で主家の細川氏を凌駕したことにとどまっていたからである。
 従って、長慶自身が死去するまでは、義輝と長慶の主導権争いの時代とも言える。それに加え、長慶存命中から三好氏自体の衰亡も始まっていた。永禄四年(61年)に実弟で三好政権確立の功労者でもあった十河一存〔そごうかずまさ〕が急死し、同六年(63年)には嫡男で武将としても有能だった一人息子義興も失った。
 こうした一族有力者の死の空隙を突いて、反三好勢力の攻勢が強まったが、これを撃退する中で、長慶腹心の松永久秀の権勢が増大する。出自不詳の久秀は、いかなる経緯でか三好氏の家宰に納まり、一代で立身した典型的な戦国大名であった。
 最晩年の長慶は失意の中で精神にも異常を来たしていた形跡があり、すでに執権者として機能しておらず、永禄七年(64年)には自らも病没してしまう。これを奇禍として、義輝は将軍親政体制を再構しようと立ち上がるが、これに立ちふさがったのが「三好三人衆」であった。
 三好三人衆とは、三好氏一門の三好長逸〔ながやす〕・三好宗渭〔そうい〕と岩成友通の三人であったが、かれらは長慶の養子として家督を継いだ義継(十河一存の子)が若年のため、これを後見する形で実権を握った集団指導陣であった。
 野心家の彼らは久秀の子久通と共謀したうえ、永禄八年(65年)、義輝を二条御所に急襲、暗殺するクーデターに出た(永禄の変)。室町将軍が臣下に暗殺されるのは、6代義教の「嘉吉の変」以来二例目である。室町幕府における将軍の存在の軽さを改めて露呈した事件であった。

2016年1月28日 (木)

私家版足利公方実紀(連載第14回)

十八 足利義晴(1511年‐1550年)

 足利義晴は、先代の10代将軍義稙に将軍の地位を追われた11代将軍義澄の子として、幼少期には赤松氏、次いでこれを下克上により破った浦上氏のもとで庇護・養育されるなどの苦労を味わった。
 そんな彼に将軍のお鉢が回ってきたのは、義稙が管領細川高国と対立して出奔・解任されたことがきっかけである。高国の政略により、義晴が次期将軍に決まり、永正十八年(1521年)、わずか10歳余りで12代将軍に就任した。
 しかし、すぐにまた苦難が始まった。細川管領家の新たな内紛に巻き込まれたのである。今度の内紛は細川政元の三養子の一人として、かつて高国と争った澄元の息子晴元と高国の間のものだった。晴元は配下の三好元長と組んで義晴より年長ながら何らかの事情で弟の扱いを受けていた義維〔よしつな〕を引っ張り出して将軍に立て替えようと画策していたのだった。
 大永七年(1526年)の桂川原合戦で高国勢が敗北すると、義晴も高国らとともに近江に逃れた。しかし、頼みの綱の高国は享禄四年(1531年)、義維の拠点であった堺への進攻に失敗し、自害に追い込まれる。
 これにより、義維が将軍に就任するのは時間の問題と思われたが、間もなく晴元と元長が対立、元長が討たれたことで事態が一変する。その状況を利用し、義晴は近江に幕府を移して、本格的な統治を開始する。
 その後、六角氏の仲介で晴元と和睦して京都に帰還するも、幕府の実権を握ろうとする晴元との主導権争いはおさまらず、義晴は京都と近江を頻回に出入りするありさまであった。そうした中、天文十五年(1546年)に息子の義輝に譲位し、大御所となった。
 最終的には晴元と和睦するが、この頃晴元配下から下克上的に台頭した三好長慶(元長嫡男)に晴元が敗れると、再び近江に逃れた義晴は京都奪回作戦のため出陣するも、その途上で病没した。
 こうして義晴は25年間在位したものの、その大半を都落ちと入京の反復に費やし、政権を安定させることはできなかった。時はすでに戦国時代に突入しており、将軍自身が戦争に明け暮れる戦国大名化していたのだった。
 ちなみに、義晴の同世代人としては、織田信長の父で織田氏(弾正忠家)台頭の基礎を築いた織田信秀や、徳川家康の祖父で、短い生涯の間に松平氏を躍進させた松平清康、後北条氏全盛期を築いた後北条氏3代目北条氏康らがいる。
 義晴自身は幕府機構の再編に取り組む一方、外交政略の手腕や武将としての技量も備えており、決して無能な将軍ではなかったが、戦国大名勃興期と重なる時期の足利将軍としての宿命から逃れることは最後までできなかった。

2016年1月20日 (水)

私家版足利公方実紀(連載第13回)

十六 足利政氏(1462年‐1531年)/高基(1485年‐1535年)

 足利政氏は、古河公方初代足利成氏から生前譲位を受けて2代古河公方に就任した。享徳の乱を戦い抜いて古河公方の地位を確立した父から有利な条件で家督を譲られたはずの政氏であったが、彼は継承者の役割を適切に果たすことはできなかった。
 まず延徳元年(1489年)の就任当時、すでに関東管領上杉氏の内紛に巻き込まれていた。上杉氏は享徳の乱の間は幕府方で結束していたものの、乱終結後は宗家の地位にあった山内上杉家とこれに対抗する扇谷上杉家の間に紛争が勃発した。この長享の乱は途中、扇谷家家宰・太田道灌の暗殺をはさんで長引き、永正二年(1505年)にようやく両家和睦に至った。
 これで一息ついたのもつかの間、翌永正三年(1506年)には成長した嫡男の高基が譲位を要求し、古河公方の地位をめぐって父子間で争いになった。これは、山内家当主の関東管領上杉顕定の調停により政氏留任の方向で和解した。
 しかし、その顕定が山内家自身の内紛で敗死すると、その後継者をめぐりまたも父子は対立、戦闘に発展した。曲折の末、永正九年(1512年)に至って高基は政氏を引退に追い込み、念願の公方の地位を手にした。
 政氏は本拠の古河城を退去し出家したうえ、久喜で余生を送ることになる。彼はこの久喜館に甘棠院〔かんとういん〕という臨済宗寺院を開いた。この寺院は、徳川時代になっても、最終回で述べる徳川氏の足利氏敬重策の一環として朱印地を与えられる格式をもって遇され、今日まで存続している。
 政氏は、正統的な公方‐関東管領体制の復活を構想していたとされるが、それにふさわしい政治的手腕に欠け、むしろ文化活動に傾斜していた。一方、政氏と争い続けた嫡男高基のほうは政治的野心に満ち、公方の地位に執着したが、やはり政治的手腕に欠け、晩年には自身の嫡男晴氏と争って、関東享禄の内乱を起こす始末であった。
 こうして成氏が一代で築いた古河府の基盤はその子と孫の代で早くも大きく揺らぎ、その弱みを突いて、やがて古河府を乗っ取ることになる後北条氏の関東進出が進行していくのである。

十七 足利義明(生年不詳‐1538年)

 足利義明は政氏の子で高基の弟に当たるが、嫡男ではなかったため、当時の慣習に従い、早くに僧籍に入っていた。しかし永正の乱で父兄が争うのを見て野心を起こしたらしく、出奔後、還俗して義明を名乗る。
 そこで甲斐源氏系武田氏から出た上総の支配者真里谷〔まりやつ〕氏の庇護を受け、その勢力拡大戦略に乗る形で、坂東平氏系千葉氏が拠っていた下総の小弓城を攻撃・占拠し、小弓公方を称した。これによって、兄が継いだ古河公方家は事実上分裂することになった。
 成立の経緯から小弓公方は真里谷氏の傀儡と思われたが、義明は野心家で、真里谷氏から独立して関東一円の支配者となることを夢見たようである。手始めに、彼は庇護者だった真里谷恕鑑が没すると、その跡目争いに介入して恕鑑の庶子ながら後継者に立てられていた信隆を追放して、弟の信応〔のぶまさ〕にすげ替えた。
 折から、後北条氏では早雲を継いだ北条氏綱が関東支配を狙い、鎌倉から江戸にも進出してきていた。氏綱は義明に追放された信隆を庇護し、さらに高基を継いだばかりの古河公方・足利晴氏とも同盟して義明と対峙した。
 こうした状況下で、義明は自身の野望達成のためにも、氏綱打倒を決意、ここに天文七年(1538年)、第一次国府台合戦が勃発した。しかし北条軍二万に対し、小弓軍は一万と初めから劣勢だったうえ、小弓軍の参謀だった里見義堯らと作戦をめぐって対立し、義堯の裏切りもあって小弓軍は敗北、義明も戦死してしまう。
 こうして、元来自称にすぎなかった小弓公方は実質義明一代限りで滅亡したのだが、義明の子孫は絶えることはなかった。嫡男義純は国府台合戦で戦死したが、次男の頼純が里見氏の庇護の下に生き延びた。
 最終的には頼純の娘を側室に迎えた豊臣秀吉の承認の下、小弓公方の家系が足利将軍家嫡流断絶後の足利氏の実質的な宗家となり、喜連川氏と改姓した後、徳川氏によっても事実上の大名格で遇され、幕末まで続いていくことになる。
 義明自身はそうした子孫の運命を予想してはいなかったに違いないが、結果的には、この風雲児的な異色の傍流公方が足利氏の継承者となったのは、歴史の皮肉であった。

2016年1月15日 (金)

私家版足利公方実紀(連載第12回)

十四 足利義澄(1481年‐1511年)

 足利義澄は、明応二年(1493年)、細川政元が主導したクーデター・明応の政変により先代で従兄に当たる10代将軍足利義材〔よしき〕が追放された後を受けて11代将軍に擁立された。しかし、このような不正常な就任経緯からも、彼は管領として新政権を独裁する政元の傀儡将軍にすぎなかった。
 元来、義澄は堀越公方足利政知の子であったが、嫡男ではなかったため、早くに僧籍に入っていたところを将軍として担ぎ出されたのだった。ちなみに政知の嫡男だった茶々丸は年少時から素行不良で、長じてからも暴虐のため家臣団の支持を失い、当時伊豆への進出を狙っていた北条早雲率いる反乱軍によって征伐されている。
 これは堀越公方という元来基盤の弱い足利将軍分家を転覆した地方的な事変にすぎないが、最初の戦国大名とも称される早雲を祖とする後北条氏が東国へ浸透していくステップとなる出来事でもあった。
 さて、成長した義澄は次第に傀儡の立場を脱しようとしてしばしば政元との関係がこじれ始めていたところ、永正四年(1507年)、細川氏の家督争いの結果、政元が暗殺されてしまう。これは修験道者であった政元が独身で実子を持たなかったことに加え、競合する三人の有力な養子を迎えたことから招いたお家騒動であった。
 この事変は義澄にとっては幕政の実権を細川氏から取り戻すチャンスともなり得たが、それを生かすことはできなかった。永正五年(1508年)に、義尹〔よしただ〕に改名していた前将軍を庇護・擁立する周防の守護大名大内義興が上洛軍を差し向けたため、義澄は近江に逃亡、あっけなく将軍の座を追われた。
 それでも義澄は将軍復帰の執念を燃やし、近江を拠点に反攻の機を窺い、永正八年(1511年)には幕府軍との合戦に備えていたところ急死、復帰の夢はかなわなかった。

十五 足利義稙(1466年‐1523年)

 足利義稙〔よしたね〕は当初義材を名乗り、10代将軍に擁立されたが、先述のように明応の政変で地位を追われ、諸国を下向して回る羽目となった。この間、義尹に改名した彼は将軍復帰への執念を持ち続け、最終的には周防の大内氏の軍事力に頼って上洛、念願の将軍復帰を果たしたのだった。
 とはいえ、上述のように義澄もまだ反攻の機を窺い、武力衝突が続いたため、彼の第二次政権がいちおう確定するのは、義澄が死去して以降のことであった。
 義尹は永正十年(1513年)以降、義稙と再改名、実権を掌握しようと努めるも、幕政は細川政元の養子の一人で家督争いに勝利して管領職に就いていた細川高国と義稙復帰への貢献から事実上のナンバー2に就いていた大内義興に握られており、不満から義稙は一時、近江へ出奔したほどであった。
 しかし永正十五年(1518年)に義興が諸事情から領国へ帰国すると、政元の三養子の一人で、高国の政敵細川澄元が挙兵した。高国はいったん敗れ、近江に逃亡するが、これを実権掌握の機会と見た義稙は澄元に接近していた。しかし反攻に出た高国が澄元を追い落とし、復権を果たしたことで、再び形勢は逆転する。
 これ以降、義稙と高国の関係は決定的に決裂、大永元年(1521年)に義稙はまたしても堺へ出奔した。これは天皇の即位式直前の職務放棄となり、天皇の怒りを買ったことから、高国はこれを名分として義稙を廃し、義澄の遺児義晴を12代将軍に擁立することができた。
 こうして、義稙は再び将軍の座を追われ、淡路島に逃れてなおも将軍復帰の機会を狙うが果たせず、最後は澄元の本拠でもあった阿波に逃れて大永三年(1523年)に客死した。
 このように、義稙と義澄が交互に擁立された15世紀末から16世紀初頭にかけての時期は将軍家と管領細川家の家督継承争いが絡み合い、応仁の乱で低下した幕府の権威の凋落は明白となった。
 とはいえ、この時点での戦乱は限られており、国政はまだ幕府を中心に動いていたが、将軍は管領をはじめとする諸公の傀儡的な存在に墜ち、地方の守護大名たちも次第に幕府を離れて、独自の領国経営に着手し始めていた。ある意味では、日本型の軍閥封建制が確立されていく始まりの時期でもあった。

2016年1月 7日 (木)

私家版足利公方実紀(連載第11回)

十三 足利成氏(1438年or34年‐1497年)

 足利成氏〔しげうじ〕は、永享の乱で敗死した第4代鎌倉公方足利持氏の遺児であった。乱による混乱からか、生年が確定していない。しかし、乱後の延長戦として起きた結城合戦で結城氏に担ぎ出されて敗北、幕命により殺害された二人の兄とは異なり、成氏は信濃源氏系の豪族大井氏のもとで庇護・育成された。
 彼にとって転機となるのは、嘉吉の乱で時の将軍足利義教が暗殺されたことである。これを機に鎌倉府再興運動が開始された結果、幕府は再興を許可する。時の将軍義政がまだ幼少期で幕府の体制が固まっていなかったこともプラスに影響したものであろう。
 こうして晴れて第5代鎌倉公方に就任した成氏であったが、自身まだ少年であり、実権は関東管領上杉憲忠に握られた。ところが、長じた成氏は父が敗死する原因を作ったのが憲忠の父憲実であることを根に持ち、憲忠への憎悪を露にするようになった。これは享徳三年(1455年)、成氏の命による憲忠暗殺という形で発現した。
 これをきっかけに、またも鎌倉公方と上杉氏の内戦が勃発する。幕府が上杉氏を支援する体制も、永享の乱の繰り返しであった。そして、今度も優勢な上杉‐幕府方が鎌倉を制圧して勝利するはずであった。
 ところが、成氏は鎌倉をあっさり放棄し、享徳四年以降、古河に移ってなおも抵抗を続けるのである。彼が鎌倉に執着しなかったのは、幼少期に鎌倉を脱出し、信濃育ちであったこと、迷わず古河に移ったのはこの地が鎌倉公方御料地として経済基盤となっていたことや、忠臣の小山氏や結城氏の拠点にも近いなどの戦略上の理由からであったと考えられる。
 こうした成氏の専断に対して、幕府側も将軍義政の異母兄政知を新たな鎌倉公方に任命し、鎌倉に向けて出立させた。しかし、成氏軍に阻止され、鎌倉入りできず、伊豆の堀越で足止めされた。政知は結局、最後まで鎌倉入りできず、堀越に定住することとなったため、堀越公方と呼ばれるようになる。
 こうして、関東は上杉‐幕府方の傀儡である堀越公方と古河公方間で二分され、内戦状態に突入するが、京都では間もなく応仁の乱が勃発し、幕府は関東に軍勢を割けなくなった。一方で、成氏も文明三年(1471年)の堀越公方攻めに失敗し、撤退するなど、両勢力とも決め手にかけ、内戦は膠着状態にあった。
 文明九年(1477年)に応仁の乱が終結したこと、同八年(1476年)には上杉家家宰長尾氏の内紛に端を発する長尾景春の乱が発生して家中が混乱状態に陥ったことなどを転機として、和平の機運が高まり、文明十年(1478年)に上杉氏と古河公方、同十四年(1483年)には幕府と古河公方の和睦が順次成立し(都鄙合体)、発生から30年近くに及んだ内戦・享徳の乱はようやく終結した。
 成氏の古河への移座は当初は暫定的な避難であった可能性もあるが、結局成氏は鎌倉へ帰還せず、古河を本拠とする初代古河公方の地位を確立し、以後は旧鎌倉府の後身として古河府が関東支配の拠点となり、「合体」よりも室町幕府と古河府の東西「分裂」が増すきっかけとなった。
 そして、成氏がほぼその全生涯をかけ、応仁の乱よりも長い30年に及んだ享徳の乱は義政・義尚父子時代における室町幕府権力の失墜を象徴するとともに、全国に先駆けて関東に戦国時代をもたらしたという点で、画期的な内乱であった。

2016年1月 2日 (土)

私家版足利公方実紀(連載第10回)

十一 足利義政(1436年‐1490年)/義尚(1465年‐1489年)

 8代将軍足利義政は父義教暗殺、兄義勝夭折というお家の危機に、8歳で将軍位に就いた。兄が長生していれば将軍になることもなく、数奇者として生涯を終えることもできたろうに、不運にして好きでもない政務に就くことになってしまった悲劇の人である。
 しかも、戦国時代初期までかぶる義政の治世は応仁の乱に象徴される中世の動乱期であったが、彼はそうした激動期の指導者にはふさわしくなく、また彼の政治的無能は動乱の要因でもあった。
 義政はある程度長じてからは祖父の義満を模した将軍親政を志した時期もあったようだが、すぐに断念し、側近政治に移行していった。その結果、奉行衆のような文官組織が発達し、幕府の行政機構が整備されるというプラス面もあった。
 こうして義政は最終的には政治から手を引き、銀閣寺に代表されるような文化事業の方面に沈潜していくため、彼の治世の政治的事績のどこまでが義政自身の政策と言えるかは曖昧になり、極端には彼は象徴的な将軍に過ぎず、真の執権者は妻の日野富子や彼女と結んだ有力守護大名だったとも言える。
 義政時代の動乱として最大級のものは何と言っても治世後半期の応仁の乱であるが、より初期に始まり、より長期に及んだのは関東を戦場とする享徳の乱であった。ただ、この乱については、その張本人である初代古河公方・足利成氏の項目で取り上げる。
 義政年少期には、南朝残党も再びうごめき出す。嘉吉三年(1443年)には時の後花園天皇暗殺を企てた集団が皇居に乱入し、三種の神器を奪って逃走する事件を起こした。この時に奪われた神璽は長禄元年(57年)に赤松家遺臣らの急襲によって奥吉野に立てこもる南朝残党からようやく回収された。
 応仁の乱は、富子との最初の子を失った後、異母弟の義視を養子としながら、富子との間の次子義尚が生まれると、いずれを後継者とするかを示さない義政の優柔さが一つの要因となって発生した動乱であった。
 もちろん、これには他の複雑な要因も絡んでおり、単純な後継者争いではなかったから、これを機に時代は戦国へと移行していく画期的な戦乱となった。乱後も幕府は存続し得たが、幕府の威信は低下し、守護大名の自立傾向が増す一方、守護代クラスによる守護職の下克上的奪取も始まった。
 義政は応仁の乱渦中の文明五年(73年)に実子の義尚に譲位し、いよいよ本格的な隠居生活に入った。その義尚は父とは異なり、母富子の期待に応え、乱後の処理と幕府権力の回復に努める姿勢を示した。武官集団の奉公衆を結集し、近江守護として専横が目立った六角氏を攻めたのもその象徴である。
 しかし、義尚は延徳元年(89年)、六角攻め陣中で父に一年先立ち二十代で病没してしまう。足利将軍家では三度目となる後継将軍の早世である。翌年には義政も病没し、こうして通算40年余りに及んだ義政・義尚父子の時代に幕府権力はすっかり凋落してしまうのだった。

十二 日野富子(1440年‐1496年)

 義政・義尚時代の実力者として欠かせないのが、義政の正室にして義尚の母であった日野富子である。とはいえ、彼女が実権を持ち始めるのは義政時代の後半期、応仁の乱渦中、義政との間の息子義尚が将軍職に就いてからと見られる。
 男尊女卑風潮の強かった中世に、女性の富子が政治的実力を持ち得た理由はいくつか考えられるが、一つには出自した日野家の威信が土台となっていた。日野家は藤原北家系の公家(堂上家)で、南北朝時代に北朝に付いた縁で足利将軍家との結びつきが生じ、3代義満以来、将軍正室を多く輩出する姻戚として高い権威を持っていた。
 義政自身も生母は側室ながら日野家出身で、富子の大叔母にも当たる日野重子であり、重子もまた政治的な実力を持ち、義政幼少期には幕政に関与した。そういう政治家としての重子の姿を間近で見ていた富子は、重子を自身のモデルとした可能性もあるだろう。
 富子の実権を直接に後押ししたのは、義政の政治的無能と早期の隠居であった。彼女は将軍の妻を意味する「御台」の名義で、実質上は9代将軍義尚生母の立場で後見的に政治に介入したが、彼女の政治の新しさはようやく貨幣経済が発達してきた時代にあって、武力よりも貨幣の力による金権政治にあった。
 実際、彼女は応仁の乱に際して、政治的には細川勝元を総帥とする東軍に与しながら、経済的には東西両軍の諸大名に資金を融通して戦乱を混迷させていた。また、京都七口に設けた関所で収納された公金を私的に横領・蓄財し、今日の貨幣価値にして数十億円の資産を形成するなど、日本における窃盗政治(クレプトクラシー)の先駆者でもあった。
 文明十二年(80年)に関所を破壊した徳政一揆はこうした富子政治に対する民衆の反発を象徴するものであったが、富子は意に介さず、民衆暴動には弾圧の強硬措置で臨んだ。
 義尚の死に際しては、将軍再登板を望んだ夫義政に反対し、かつては次期将軍位をめぐり対立した義政の異母弟義視の息子で、義理の甥に当たる義材〔よしき〕を後継に擁立するよう計らった。
 ところが、義材が10代将軍に就いて間もなく、富子は義視・義材父子と対立関係に陥り、幕政から追放されてしまう。富子は明応二年(93年)、出陣していた義材の留守を狙った細川政元のクーデターに関与するが、以後は新たな11代将軍足利義澄のもとで政元が実権を握る体制に移行する中、富子は明応五年(96年)に没した。
 富子は同時代にも後世にも「悪女」呼ばわりされたが、これには一定の根拠があると同時に、女性政治家をタブー視する男性中心的な視座による必要以上の悪評も込められているだろう。同種のことを男性政治家がしても、彼女ほどの悪評は受けなかったに違いない。

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