生と死の手帖

2016年8月11日 (木)

「平安死」の概念提起

 先月発生した障碍者施設襲撃殺傷事件の犯人が「安楽死」という語を使用したために、すっかり汚れてしまった「安楽死」であるが、実際のところ、犯人が個人的に、またナチスが政策的に実行した障碍者抹殺は「安楽死」などではなく、まさに殺戮そのものである。

 本来の「安楽死」とは、自然死の苦しみから解放されるため、患者個人の意志により平安な人為的死をもたらすことであって、医師が実施する医療行為の一種である。しかも、法律上明確に根拠と条件・方法とが定められなければならず、医師が個人的に実施することはあくまでも違法行為である。

 そのようなものであるとすれば、「安楽死」という用語もこの際、改訂したようがよさそうである。安楽という語には、いささか安易というニュアンスが付着しており、闘病せず安易に死を選ぶという非難がましい含みが混ざり込む恐れがある。

 如上のような本来の趣旨からすれば、用語上も「安楽死」よりも「平安死」のほうが適切ではないかと思われる。とはいえ、言葉を変えても、そのような「平安死」を容認するかどうかは、まさしく生と死に関わる重いテーマであることに変わりない。

 筆者はこれまで「宿命死」という思想から、人為的に死をもたらすことに他ならない「平安死」については否定的であったが、最近、心境の揺れも生じている。心身の痛みのコントロールによって死苦が緩和できる限りにおいて、平安死は必要性がないと考えるが、もしそうしたコントロールに限界があるとしたらどうか。

 自分自身が末期癌の痛みに耐えられるか、また筋萎縮性側索硬化症(ALS)のように、身体は麻痺しながら意識だけは明晰に保たれた状態で死を待つ身となった場合、その状態に耐えられるか、という問いに答えることは難しい。

 この問いに関して、現時点では依然明快な解答を出せないのであるが、少なくとも「安楽死」という語は「平安死」に取って代えることで、それを切望する人々の心境を理解する手がかりとはしてみたいと思うものである。

2016年6月14日 (火)

西洋医学の思考枠組み

 かつて、生と死の問題を司るのは宗教と呪術であったが、今や、圧倒的に西洋医学とそれに基づく医療である。もちろん、国や地域間の格差はなお相当にあり、いまだに宗教と呪術が盛んな場所もあろうが、ここではいわゆる先進諸国・地域を前提とする。

 個人的には宗教と呪術もお断りだが、西洋医学の病院は超の付く苦手である。子ども時代は学習された恐怖心からであったように思うが、現在は西洋医学への違和感が大きい。検査や手術への恐怖心もありますが。その感覚がどこから来るのかよく考えてみると、西洋医学の基本的な思考枠組みにあるようである。

 西洋医学は人体を機械のように見立て、病気は機械の故障であり、その故障を修理するのが病院であると発想している。だから患者は壊れた機械として扱われ、体の内部を放射線や内視鏡によってスキャンされたうえ、故障箇所を特定され、故障の内容・状態によって修理法が導出される。
 投薬は動きの悪くなった機械部品への薬品による回復術であり、西洋医学の真骨頂である外科手術は壊れた機械部品の分解修理であり、近年定着してきた臓器移植手術は機械部品の交換そのものである。
 こうした一連の修理作業を実施する病院は機械の修理場であり、大規模総合病院ほど工場に似たシステムを実際に備えている。

 病院に行ったときに感じる独特の違和感は、こうした人間修理工場的な雰囲気から来ているとわかる。近年でこそ、「患者様の人権」「QOL(クオリティ・オブ・ライフ)」等々がリップサービス的に掲げられているが、西洋医学が人間機械論的な発想を維持する限り、患者は壊れた機械扱いのままである。

 西洋医学が人体を独自の人生や価値観や死生観を背負った有機体として尊重し、言葉だけでない「患者の人権」「QOL」を徹底的に保障する思考枠組みに変革される可能性はあるだろうか。そうあってほしいと願うが、そういう変革を阻む学界権威主義や製薬/医療機器資本と結びついた営利主義といった阻害要因はあまりにも多いと感じられる。

2015年10月27日 (火)

孤独死考

 単身高齢者が増え、「孤独死」対策が各地で取り組まれるようになってきた。こうした「対策」は一様に「孤独死」を好ましくないこととみなしている。しかし、なぜ好ましくないのか、突き詰めて考えられているようには見えない。実際、「孤独死」は良くないことなのだろうか。

 そもそも「孤独死」の定義もはっきりしない。典型的な事例では、一人暮らしの高齢者が部屋で病死し、長期間誰にも気づかれず、腐敗臭を発して初めて通報・発見されるというようなケースであろう。
 しかし、誰にも看取られずに死ぬという意味なら、家族と同居している人が就寝中、あるいは家族の長時間外出中に死亡するのも、「孤独死」と言える。ただ、この場合は、家族がすぐに気がつくであろうから、いわゆる「孤独死」とは違うというのだろう。

 いずれにせよ、人知れず死を迎えるということは、家族の有無にかかわらずあり得ることで、誰かに看取られつつ死ぬのは末期がんなど死期が事前に告知される一部の病気の場合に限られていると言えるのではないだろうか。急性的に起こる病死の場合は、孤独死の確率は高くなる。

 しばしば「看取り」は人間と動物の違いとして強調される。野生動物は野垂れ死にするか、誰にも知られず土に還るのが普通の死に方だが、人間はそうでなく、他人に看取られつつ死ぬのが人間らしい死に方なのだ、と。
 しかし、それも価値観次第である。筆者などは野生動物のように人知れず土に還るのが理想的な死に方だと思っているが、野生でない人間にはかえって難しい死に方である。自宅で人知れず死ねば、いつか腐敗臭を発して近所に気づかれてしまうからだ。そして警察・行政・家主の手を煩わせることにもなる。

 人間の「孤独死」にはそういう心苦しさがつきまとうのはたしかであり、筆者も予備軍である単身高齢者はやはり早めに施設入りするなどして、「孤独死」をなるべく避ける用意はしておいたほうがいいのかもしれない。

2015年9月30日 (水)

反闘病論

 「闘病」という言葉が気に入らない。「闘病」にはいかにも病気という敵と戦う英雄的なイメージがあって、勇ましい。世間ではその点が気に入られて、この言葉が膾炙しているのだろう。「闘病記」というエッセイのサブジャンルも確立されている。

 病気の治療を目的とする医学も、ある意味では病気と闘うための戦略学であるから、医学の実践者たる医師たちにとっても「闘病」という言葉は、受容しやすいのだろう。特に、癌治療は体に巣食う悪性新生物のイメージから、「闘病」の主戦場となっている。
 かねてより癌の「放置」を推奨する医師が医学界でつまはじきにされるのも、単にエビデンス云々以前に、病気と闘って打ち負かすという医学の戦略的本質を否定するかのような言説への職業的嫌悪感からなのではないかと思う。

 しかし、癌に限らず病気とは戦争の相手ではない。共存できるに越したことはない。癌にしても、癌細胞を殺す「抗癌剤」ではなく、癌細胞と共存したまま命を保持できる「共癌剤」が開発されればどんなにいいかと思うが、そういうものはまだないらしい。
 となると、今のところは各自の生き方の選択の問題となるが、あえて「闘病」しないという非英雄的な選択肢があってもよいだろう。これは「宿命死」ともつながる生き方で、癌になっても、成り行きに任せるのである。まさに「放置」である。

 このような選択は、周囲で少なからず波紋を呼ぶ一定の勇気ある決断となるだろうが、実際のところ、癌を放置した場合、何らかの治療を施した場合より確実に余命が縮まるという大量的なデータは存在しない。なぜなら、医師の側から癌をあえて放置させて大量の比較データを取るという行為は、ある種の消極的な「人体実験」となる恐れがあって、医療倫理上困難だからである。

 ・・・・というわけで、「反闘病」は必ずしも自ら死地に赴く自殺行為とは限らないのである。もちろん、急に胸が苦しくなって倒れてもそのまま放置することも選択肢だなどと言うつもりはない。生と死の問題は、ケースバイケースの場当たり主義であって全然構わないと思う。

2015年8月31日 (月)

切り札としての「宿命死」

 「宿命死」という考えには、どこか消極的な諦念の響きも感じられようが、必ずしもそうではない。自然のお迎えに乗るという発想は、国家に生と死を左右されないための積極的な切り札なのである。

 戦時中、国家は戦争に勝利すべく「国のために死ね」と国民に死を強要したが、それで本当に大量死を招いた後は、一転して国家の再建と経済的繁栄を達成すべく「国のために生きろ」と国民に生を強要するようになった。国家とはまこと身勝手なもので、その時々の国勢に応じて国民の生と死を左右しようとする。

 「宿命死」は、「国のために死ね」という命令に対しては、自然のお迎えが来るまでは死なぬと拒否する切り札となり、「国のために生きろ」という命令に対しては、自然のお迎えに従って死ぬと拒否する切り札となる。

 一方で、「宿命死」は生死を「自己決定」するという個人主義的な死生観とも一線を画する。だから、自殺とか安楽死―それは医療化された自殺である―のような死に方を肯定はしないのである。お迎えが来ない間の早まった自死に対しては、ブレーキとして働く。

 そうした意味では、「宿命死」はお迎えが来るまでの間の限られた生を尊重するという積極的な死生観である。といって、無条件の生命賛歌ではないから、人工的な延命治療は受け入れず、癌死ですら受け入れる。

 その限りでは、「宿命死」には生と死の過剰な医療化に対抗する切り札という意義も付け加えてよいかもしれない。ただし、それは一切の医療を拒否するという意味ではないことも付言されなければならない。

2015年8月17日 (月)

「宿命死」について

 平均寿命が延びた現在、若い時分に生と死について熟考するようなことはよほどのことがない限りないだろうが、折り返し地点を越える年齢に達すると、自ずと考えざるを得なくなってくる。

 近年、筆者の脳裏に去来するのは、「宿命死」という死生観である。平たく言えば「お迎え」のことである。「お迎え」がいつ来るかは人によって過酷なほどに差があり、子どものうちに来てしまう人から、100歳を越えてようやく来る人まで様々である。
 いずれにせよ、人にはいつか「お迎え」が来る。そうした自然的に定められた自身の寿命に逆らわないようにしたいというのが「宿命死」の内容である。従って、死に至る病を得ても、対症的な管理以上の積極的な延命的治療は行なわないのである。

 このような考えは、現代の延命第一主義の医療常識に真っ向から反するため、医療者や家族との対立・摩擦は避けられないかもしれない。だから、「宿命死」を受容するかどうかはひとえに各人の哲学の問題であり、他人に強制も推奨もできない。常識に従い「宿命死」を受容せず、あえて延命的治療によって「お迎え」を拒否することも一つの選択である。

 だが、意思表示できない近親者を前にして、延命治療を実施するかどうかの決断を迫られることはあるだろう。本来はその人の意思を尊重すべきであるが、それが不明なことは少なくない。最も苦悩する場面かもしれない。こうした場合、いささか形式的なチャート図のようになるが、判断の目安を私的に整理してみると、次のようになる。

○当該近親者が平均寿命に達しているか、越えている場合⇒「宿命死」を受容する。
 だたし、家族間の意思統一ができない場合や、延命することに特段の理由がある場合は、この限りでない。

○当該近親者が平均寿命に達していない場合⇒「宿命死」を回避する。
 ただし、延命治療を施しても早期の死が避けられない場合は、この限りでない。

 これはあくまでも一つの目安である。「脳死」の概念も定着し、生と死の境目が曖昧になってきた時代であり、生と死の問題は、より掘り下げなくてはならなくなっている。

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