〆イエメン―忘れられた近代史

2015年10月24日 (土)

イエメン―忘れられた近代史(10)

後記

 サレハ政権崩壊後に勃発したイエメン新内戦はまだ歴史でなく、現在進行中の事象であるので、後記として言及するにとどめざるを得ない。こたびの内戦は南北間の内戦ではなく、サレハ政権を継いだハーディ政権とザイド派武装勢力フーシ派との間のものである。
 フーシ派はイエメン統一後に一介の宗教指導者フーシ一族を中心に台頭した新興の宗教勢力で、その目的は北イエメン共和革命までの支配層であったザイド派の復興にあるとされる。しかしサレハ政権から危険視され、04年に当時の指導者の殺害を含む大規模な弾圧を受けて以来、軍事化傾向を強める。
 11年の「アラブの春」では、反政府側で参加し、サレハ大統領の退陣に一役買うが、湾岸協力会議やアメリカを後ろ盾とするハーディ新政権とは対立関係に陥った。そして14年9月に首都サナアに進軍、翌1月にはハーディ大統領を辞任に追い込み、2月に政権を掌握した。
 フーシ派はザイド派イマームの統治を理想とするが、当面は最高革命委員会を指導機関とする暫定政権を発足させた。最終的にどのような体制を構築する意図かは明らかでないが、14年10月にはザイド派王朝最後の国王バドルの子息アギール・ビン・ムハンマド・アル‐バドルを亡命中のサウジアラビアから招聘・帰国させるなどの復古的な動きも見られた。
 このような一種の革命を成功させた要因として、同じシーア派イランの支援に加え、背後にサレハ前大統領の支持もあると見られている。変わり身が早く、政略に長けたサレハであれば、何らかの形での復権を狙って、在任中は敵対したフーシ派支持に回っても不思議はない。
 こうした「フーシ革命」に対して、15年3月以降、サウジアラビアを中心とする有志連合が空爆作戦でフーシ派政権の殲滅を開始し、内戦が本格化するとともに、民間人の犠牲者も増大している。
 15年10月現在、復権を目指すハーディ派が暫定首都とする南部の中心都市アデンを奪還し、北部をフーシ派が実効支配する状況であるが、結果として旧南イエメン出身のハーディ派と北部に多いザイド派を代表するフーシ派が南北に分断支配する形となりつつあり、イエメンは再び分断の危機に直面しているとも言える。
 ちなみに、イエメンではサレハ政権末期の混乱に乗じて、アル・カーイダ系過激組織がスンナ派の多い南部に拠点を置きつつ、12年、13年と首都サナアで大規模な爆破テロ事件を起こすなど、活動を活発化させている。かれらはフーシ派とは宗派上対立関係にあり、フーシ派殲滅を呼号する一方で、サウジアラビアとも敵対している。
 さらには、同じ反フーシのスンナ派系過激組織ながら袂を分かったアル・カーイダとは対立するイスラーム国を名乗る爆破テロ事件も発生しており、同勢力もしくはシンパ勢力がイエメンにも浸透しつつあることを窺わせる。
 かくて、現イエメンはフーシ派(親イラン)vsハーディ派(親サウジ)vsアル・カーイダ(反サウジ)vsイスラーム国(反フーシ)の四勢力の抗争関係にあるとも言え、その行方は混沌として見通せない情況である。
 そうした中、国連世界食糧計画は15年8月、イエメンで食糧難が発生しており、数百万規模での飢餓に陥る危険があることを警告した。そうした大規模人道危機を抑止するには内戦の早期終結が不可欠であるが、そのためにも周辺大国や米欧による自国利益を慮った介入の中止がまず求められることは、シリア内戦と同様である。(連載終了)

2015年10月18日 (日)

イエメン―忘れられた近代史(9)

eight 「アラブの春」から内戦へ

 1994年の南北内戦に勝利し、統一イエメンの支配者としての地位を確実にしたサレハ大統領は、1999年大統領選挙で三選を果たした。事前の工作により、この選挙での候補者はサレハ一人だけの出来レースであった。
 調子づいたサレハは、大統領任期を従来の5年から7年に延長するなど、事実上の終身支配に向けた布石を打ち出す。こうした驕りは内外の批判を受け、05年、サレハは次期大統領選への不出馬を表面するも、7年任期での選挙年となる翌年にはあっさり公約を撤回した。
 06年選挙では野党の統一候補が立てられたが、結局はサレハが80パーセント近い得票率で圧勝した。これで2013年までの任期が確保されることになり、北イエメン時代からの通算で30年を超える長期執権となることは確実であった。
 この間、08年には無駄遣いの批判を押して、自らの名を冠した壮大な現代イスラム寺院アル‐サレハ・モスクの建造を強行するなど、サレハ政権は個人崇拝の性格も強めていた。対外的にも、世紀の変わり目頃からイランに接近し、体制保証の後ろ盾とし、03年のイラク戦争ではイラク支持を封印して、これを乗り切った。
 こうして内外共に磐石に見えたサレハ政権であるが、2011年以降アラブ諸国で続発した「アラブの春」の波を免れることはできなかった。これに対して、サレハは前例に従い、またも次期大統領選不出馬表明で沈静化を図ったが、成功せず、湾岸協力会議の仲介で早期退陣プロセスが用意された。
 しかし、いったんは退陣を受諾したサレハがまたも撤回したことから、再び反政府勢力との衝突が起きた。その渦中でサレハが大統領府に打ち込まれた反政府勢力の砲弾により重傷を負うという異例の事件が転機となった。
 再び湾岸協力会議の仲介で退陣と暫定政権移行の調整が行われ、翌12年2月の大統領選でハーディ副大統領が新たな大統領に選出されることで、北イエメン時代から34年近くに及んだサレハ体制にようやピリオドが打たれた。
 新大統領となったアブド・ラッブー・マンスール・ハーディは旧南イエメン軍人の出身ながら、サレハの信任を受けて統一イエメン副大統領に上り詰めた能吏タイプであり、混乱期にはふさわしく見えたが、事態はむしろ悪化し、イエメンは新たな内戦へと陥るのである。

2015年10月10日 (土)

イエメン―忘れられた近代史(8)

seven 統一後の混乱

 想定以上にスムーズに実現したイエメン統一であったが、それは滑り出しからつまずく。まずは、統一プロセス渦中で発生した湾岸戦争で、サレハ政権がクウェートを侵攻・占領したイラクを支持するという誤った選択をしたことである。
 このような選択は元来、北イエメン時代からサレハ政権がイラクのサダム・フセイン政権と同盟的関係にあったことの結果ではあるが、同時にサレハ政権はイラクが侵攻・占領したクウェートやその同盟国サウジアラビアにも多くの出稼ぎ労働者を送る立場にあった。
 このようなイエメンの親イラク姿勢に対し、クウェートやサウジアラビアは報復としてイエメン人労働者の大量送還で応じ、従来友好的な関係が築かれ始めていたサウジをはじめ湾岸諸国や西側諸国からの支持・援助を喪失した。
 特に海外出稼ぎ労働者やイエメン国籍者の大量帰還は統一イエメンの人口を10パーセント近くも急増させ、難民を生じさせるなど、統一したばかりの国家を政治経済的な危機に陥れた。
 これに加え、北主導の統合に対する旧南イエメン派の不満が、統合後初となる93年の議会選挙後に爆発する。政府を離脱した旧南イエメン系のベイド副大統領らは94年5月、イエメン民主共和国の樹立を宣言した。
 このような南イエメンの分離主義の背景には、旧南イエメンに対する差別的な処遇という問題もあったが、経済利権問題も絡んでいた。特に少ないながらも産出する油田は潜在的なものも含め、南側に集中しており、このことは統合過程では統合促進材料となったが、分離過程では分離派の強い動機となっていた。
 94年5月から7月にかけて、南北間での内戦に突入するが、南の分離政府は国際的な承認が得られない中、最終的に軍事力で勝る北の勝利に終わった。実際のところ、南イエメン独立派は南出身者総体の支持を受けていたわけではなく、86年の内乱後、北に亡命していたムハンマド元書記長のように分離に反対した元要人もいたのである。
 こうして統一後に史上初めて発生するという皮肉な南北イエメン内戦は、完全な吸収合併の形を取った東西ドイツ統一とは異なり、南北の合同にすぎなかったイエメン統一の脆弱さをさらけ出したが、北の勝利に終わったことで、サレハ政権の基盤固めを助けた。
 政略に長けたサレハは、94年10月に統一イエメンの大統領として再選されると、懸案であった軍の統合を進め、97年にはイエメン軍最高位の陸軍元帥の称号を得るなど、統一イエメン政軍関係の掌握を確実にしたのである。

2015年10月 3日 (土)

イエメン―忘れられた近代史(7)

six イエメン統一まで

 南北イエメンは、ほぼ同一・同種民族間のイデオロギー的分断国家という点では、同じ冷戦期に現出した東西ドイツや南北朝鮮と類似していたが、それらに比べれば、ともに社会主義的志向性を持つ両イエメンのイデオロギー対立の溝はさほど深くなかった。
 そのため、早くも冷戦渦中の1972年には両イエメン統一の合意がいったんは成立していた。とはいえ、大まかに言えば、アラブ社会主義(民族主義)対マルクス‐レーニン主義という路線の違いはあり、特に南イエメン側で強硬派が主導権を握っていた70年代末には両イエメンで統一積極派が排除され、再び緊張関係に陥る。
 しかし、80年代に入って南イエメンで強硬派が排除されることで再び統一機運が起き、1981年には統一憲法の起草にまでこぎつけた。ところが、強硬派が盛り返し、86年には内乱に発展したことで、またしても統一は頓挫するのであった。
 こうして紆余曲折が続く中、両イエメンの統一を決定付けたのは、89年の米ソ両首脳による冷戦終結宣言やそれに続く東欧社会主義諸国のブルジョワ民主化革命よりも、86年の内乱後、体制維持が困難となった南イエメン側の切実な事情によるところが大きかった。
 とりわけ致命的だったのは、最大援助国ソ連からの経済援助が内乱後、半減されたことである。これは当時のソ連の「改革派」ゴルバチョフ政権が進めていた海外の同盟・衛星国からの一方的な援助引き上げ策の一環でもあったが、南イエメンのような不安定な新興衛星国にとって、ソ連からの援助は生命線であった。
 他方、北イエメンでは78年以来のサレハ政権が長期執権の下、政情安定化と一定の経済成長を実現させており、南イエメンに対しては優位な立場を築きつつあった。こうして、両イエメンは88年から統一へ向けた協議を本格的に開始し、翌年には正式に統一で合意、90年2月に統一が宣言された。
 このように南北イエメンの統一は同年10月の東西ドイツの統一にも先立ち、想定を越えるスピードで進められた。それだけ、南イエメン側には条件闘争に出るだけの余裕もなかったことを示唆する。
 新生統一イエメンの大統領には北イエメンのサレハ大統領が横滑りし、86年内乱後の南イエメンを党書記長として実質的に率いてきたベイドが副大統領に就任した。91年に国民投票で承認された統一憲法に基づき実施された93年議会選挙では、サレハの翼賛政党である人民全体会議が第一党を占め、旧南イエメン支配政党イエメン社会主義者党は第二党に甘んじた。
 このように両イエメン統一が旧北イエメン主導のペースで性急に推進され、統一イエメンも旧北イエメン優位の体制で構築されたことは、間もなく深刻な摩擦・紛争を引き起こすことになったであろう。

2015年9月26日 (土)

イエメン―忘れられた近代史(6)

five 南北イエメンの歩み〈2〉

 南北イエメンでは、1978年に同時発生したそれぞれの政変を経て、新体制が発足する。北ではサレハ独裁政権、南ではイエメン社会主義者党(YSP)独裁政権である。
 北で新政権を樹立したサレハは一兵士として北イエメン軍に入隊した後、王党派との内戦で功績を上げ、将校に昇進したたたき上げの軍人であった。77年にガシュミ前大統領が暗殺された時、彼はまだ権力中枢に届かぬ軍の少壮幹部に過ぎなかったが、事件直後の混乱を速やかに収拾し、瞬く間に政権トップに躍り出たのだった。
 このような経歴からしても、サレハは相当な策士であった。彼は就任直後、謀反の疑いをかけた軍将校を大量処刑し、恐怖政治の姿勢を示した。そのうえで、82年には全体主義的な翼賛政党となる人民全体会議を結成し、早くも長期執権体制を確立した。
 人民全体会議はいちおう共和革命以来の北イエメンの国是でもあったアラブ民族主義を基調としてはいたものの、その内実は軍部を権力基盤とするサレハ独裁のマシンに過ぎなかった。とはいえ、この体制の下、従来政変が相次いだ北イエメンの政情は安定に向かう。
 サレハ政権は外交的にも共和革命以来の親ソ的な立場を修正し、サウジアラビアをはじめとする湾岸諸国や西側諸国と友好関係を築き、経済援助や出稼ぎ労働先の確保にも成功した。
 一方、南イエメンの事情はやや複雑であった。78年に一党独裁政党として改めて結成されたYSPのトップには独立闘争の古参で、67年の南イエメン独立以来、事実上の最高実力者でもあったイスマイルが就任し、新たに設置された元首相当職の最高人民会議議長も彼が兼務した。
 しかし、80年、イスマイルは突如、健康上の理由で全職務から引退し、ソ連へ出国、後任ポストは実質的なナンバー2のアリ・ナシル・ムハンマド首相が継承した。体制内でのこの政権交代は、実質上ムハンマド派による党内クーデターの意味を持っていた。
 その火種は、社会主義政党によく見られるイデオロギー対立の裏に中東的な部族対立も絡む複雑なものだった。簡単に言えば、イデオロギー的な親ソ・強硬派であったイスマイルに対し、より穏健で現実的なムハンマドが追い落としを図ったのだ。この党内抗争は尾を引き、85年にイスマイルが党政治局員として復権したことを契機に、翌年には内乱が勃発する。
 党政治局会議での銃撃事件に端を発したこの内乱は最大援助国ソ連の仲介により12日間で終結するが、短期間で最大推定1万人が犠牲となる凄惨な内戦となり、イスマイルを含む主要な党幹部も大半が命を落とす異常事態であった。
 銃撃事件の背後にあったと見られるムハンマドは結局敗北し、北イエメンに亡命した。代わって、イスマイル派のアリ・サレム・アル・ベイドが政権を掌握したが、これはイスマイル派の勝利というより、亡命したムハンマドを除けば、彼が党幹部で唯一の生き残りだったことによる。
 かくて、1980年代後半の時点では、軍事独裁制ながら政情安定化に成功した北イエメンと、内乱による社会経済の混乱で存亡の危機に立たされた南イエメンの明暗が大きく分かれる結果となった。

2015年9月12日 (土)

イエメン―忘れられた近代史(5)

four 南北イエメンの歩み〈1〉

 南北イエメンは、ともに1970年に転機を迎えた。この年、北イエメンでは62年共和革命以来の王党派との内戦が正式に終結し、改めて共和国として再出発した。一方、南イエメンでは前年の英国からの独立を経て、民族解放戦線内のマルクス‐レーニン主義派が主導する社会主義共和国が発足する。
 南北イエメン関係は、当時の冷戦期にあって東西ドイツや南北朝鮮のような分断国家の形を取っていたが、ともに社会主義的な傾向を持ち、そのイデオロギー的な相違は相対的なものであった。とはいえ、当時の北イエメンのイリアニ政権は南イエメンに敵対的な態度を取り、早くも72年には南北間の武力衝突が起きている。
 しかし北イエメンでは74年に新たな軍事クーデターが発生し、イブラヒム・アル‐ハムディ大佐が指導する軍事政権が樹立された。この政変は、内戦初期の63年のクーデター以来、政権の座にあったイスラーム法判事出身のイリアニ大統領の保守的な政治姿勢に対する反発―革命の軌道修正―が動機となっていた。
 ハムディ政権は南イエメンとの融和策を打ち出すとともに、いまだ中世的な伝統を保持していたイエメン社会の近代化とインフラ整備を強力に進めた。結果、ハムディ政権下では共和制樹立以来、最大の経済成長も経験したが、その政治手法は強固な軍事独裁であった。
 こうした第二の革命政権のような性格を持ったハムディ政権は77年、ハムディの暗殺によって終焉した。事件の真相は不明のままである。2011年になって、後に30年以上の長期独裁体制を維持したサレハ大統領(事件当時は中堅将校)の暗殺関与を示唆する証言が現われた。
 もっとも、ハムディの後任には軍事政権のメンバーでもあったアーメド・アル‐ガシュミが就任したため、ハムディ体制はひとまず継承されたかに見えた。ところが、ガシュミもまたわずか八か月で暗殺されてしまう。
 ガシュミ暗殺は南イエメンからのメッセージを携えた特使の所持していたブリーフケースに仕掛けられた爆弾が爆発するという異例の爆弾テロ事件であった。当然、南イエメンの関与が疑われたが、この事件も未解明に終わっている。
 実は暗殺事件の二日後、南イエメン側でも当時のサリム・ルバイ・アリ指導評議会議長(元首)がクーデターで失権したうえ、即決処刑される政変が起きた。ルバイ・アリも北イエメンとの融和に積極的であったことから推すと、南北でほぼ同時に起きた二つの政変は南北融和に否定的な両国勢力の手によるものとの推測も可能である。
 いずれにせよ、1978年は南北イエメンにとって新たな転機となり、北では軍幹部アリ・アブドゥラー・サレハ大佐が大統領に就き、南北統一をまたいで30年以上に及ぶこととなる長期政権を開始する。南でも改めてNLFを母体とするイエメン社会主義者党による一党独裁体制が樹立される。

2015年8月30日 (日)

イエメン―忘れられた近代史(4)

three 南イエメンの独立

 南イエメンは、北イエメン独立後も長く英国保護領の地位にあり、実質上植民地であった。56年のスエズ動乱で英国がスエズ運河権益を喪失すると、南イエメンの中心港湾都市アデンは石油精製の拠点として重視されるようになる。
 そのアデンは英国統治下で近代化が進み、労働組合運動などの社会運動も盛んになっていったが、それは一方で対英独立運動の足場も提供した。そうした南イエメン民衆の政治的エネルギーは北イエメン共和革命にも触発され、表面化する。
 北イエメンで共和革命が起きた62年、南イエメンでは英国主導の南アラビア連合が設立されていた。これは最終的に17もの小邦(大半は首長国)で構成され、英国から68年の独立を約束された一種の独立準備国家であった。
 しかし、それを待たず63年に反英独立闘争の火蓋が切られる。英国側の視点に立って「アデン非常事態」と呼ばれるこの武装闘争は、ナセル主義の南イエメン被占領地域解放戦線(FLOSY)とマルクス主義の民族解放戦線(NLF)という二つの対立的な武装組織によって主導された。
 この独立闘争は北イエメン内戦とほぼ並行する形で、67年にかけて対英ゲリラ戦の形で展開された。転機は67年の南アラビア連合軍の兵士・警官による反乱であった。英国側の現地兵士・警官の反乱は、英国にとって大きな打撃であった。英国政府は軍の完全撤退を決定、同年11月に南イエメン人民共和国が発足する。
 この際、英国との独立協議では優勢なNLFだけが当事者として扱われ、FLOSYや小邦首長らは排除された。そのため、南イエメンは最初からNLF主導体制でスタートする。
 NLF内部でも穏健派と急進派のせめぎ合いがあり、当初は南イエメン初代大統領カフタン・ムハンマド・アル‐シャービが率いる穏健派が主導したが、間もなくアブドゥル・ファッター・イスマイルに指導された急進派が69年に党内の実権を掌握し、アル‐シャービを投獄したうえ、70年に改めて南イエメン人民民主共和国を発足させた。
 NLFは78年にはイエメン社会主義者党と改称、以後同党が唯一合法政党とされる。この体制ではマルクス‐レーニン主義が基本路線となり、南イエメンはソ連陣営に組み込まれ、ソ連の衛星国となった。これはアラブ史上唯一のマルクス‐レーニン主義国家であった。

2015年8月21日 (金)

イエメン―忘れられた近代史(3)

two 共和革命から内戦へ

 イエメン王国のアラブ連合共和国への加盟は、軍部を中心にナセルに傾倒するアラブ民族主義者を勢いづかせ、前近代的な王制打倒への動きに弾みをつけた。その点で、アラブ連合共和国加盟はザイド派王朝にとって自らの命脈を縮める選択であった。
 アラブ連合自体は1961年、シリアの脱退により崩壊したが、翌年、アフマド国王が死去し、息子のムハンマド・アル‐バドルが即位したのを機に、近衛隊司令官アブドゥラ・アル‐サラル大佐に率いられた軍将校による軍事革命が勃発、北イエメンは共和制へ移行した。
 実のところ、バドル国王もナセルに傾倒しており、急進的なナセリストのサラル大佐を近衛隊トップに任じたのも国王自身であった。そうした臣下の裏切りの要素もあった革命に対してバドルは降伏せず、サウジアラビアの支援を得て亡命政府を樹立、共和派に対して反革命戦を挑んだのだった。
 時は冷戦の最中であり、イエメン内戦が中東全域の紛争に拡大することが懸念され、アメリカと国連は調停と監視を試みたが、成功しなかった。しかし、ソ連はこの紛争に深入りせず、米ソの代理戦となることはなかった。
 こうして開始された北イエメン内戦は、共和派をエジプトが、王党派をサウジアラビアとヨルダンがそれぞれ支援する形で、アラブ世界を分断する戦争となった。南イエメンの領有を続ける英国も、65年までは秘密裏に王党派を支援していた。
 特にエジプトのナセル政権は共和派支援に全力をあげて軍事介入した。エジプトが小国イエメンにそこまで入れ込んだのは、エジプト主導によるアラブ連合共和国の崩壊を受けて、中東におけるエジプトの覇権を維持することに理由があったと見られる。
 一方で、宗派こそ異なれど、旧イエメン王国同様の絶対君主制を維持するサウジアラビアは共和革命の波及を恐れ、イエメン王国の復旧を支援する立場にあった。
 配下の部族勢力を結集したバドルが率いる王党派は近代化されたエジプト軍を相手に、北部山岳地帯を拠点にゲリラ戦法を駆使したため、内戦は持久戦に持ち込まれた。天下分け目の転機は67年であった。
 この年、エジプト軍が撤退すると、革命以来のサラル大統領が共和派内部の無血クーデターで政権を追われ、イスラーム法判事で文民のアブドゥル・ラーマン・アル‐イリアニ大統領に交代した。これを機に王党派が大攻勢をかけ、首都サナーを包囲したのだ。しかし空軍力で勝る共和派はこの包囲に耐え、共和派の勝利を決定づけた。
 最終的にはイリアニ政権下の1970年にサウジアラビアも共和国承認に転じ、和平が成立、革命から8年に及んだ内戦は終結したのであった。かくして、北イエメンは共和国として改めて再出発することになる。
 共和国承認に関してサウジアラビアから事前に何の相談も受けず、はしごをはずされた形となったバドルはその後、英国へ亡命し、南北イエメン統一後の96年に当地で客死するまで、政治から身を引いて過ごした。

2015年8月15日 (土)

イエメン―忘れられた近代史(2)

one 北イエメンの独立

 イエメンの近代史は、他の多くの中東諸国と同様、オスマン・トルコの支配を抜け出した時点に始まる。イエメンの場合は、1918年である。時のザイド派イマーム、ヤフヤ・ムハンマド・ハミド・エッディンはすでに13年のオスマン帝国との条約により、実質的な自治権を獲得していたが、第一次大戦の敗者となったオスマン帝国はついにイエメンを放棄したのだった。
 とはいえ、ヤフヤを君主とするこの独立イエメン王国の領土はイエメン北半部に限局されていた。というのも、イエメン南部は1839年以来、インドへの中継港としてアデンを侵略した英国によって保護領化されており、05年には当時のオスマン帝国との間で締結された南北境界条約で両大国によるイエメン分割支配が約されていたのである。
 大イエメン主義に基づくイエメン統一を悲願とするヤフヤ国王は19年以降、たびたび英国領南イエメンに攻撃をしかけるが、英国の反撃にあい、成功しなかった。結局、ヤフヤは34年の条約で、英国の南イエメン保護領を40年以上にわたり承認することを合意した。
 ヤフヤの大イエメン主義は北隣の新興王国サウジアラビアとの国境紛争も引き起こしたが、34年のサウジ‐イエメン戦争後の条約で、現在の両国国境線が画定した。
 かくして、近代イエメンはまず北半部の独立からスタートした。イエメン統一をひとまず断念したヤフヤ国王は正規軍の創設や文武の人材育成のため、留学生を周辺国へ送るなど、王国の基礎作りに専心した。
 ただ、サウジアラビアをはじめとする他のアラビア半島諸王国が1920年代の油田発見を契機に、石油を基盤とする近代的経済開発を進めていくのとは対照的に、イエメンは油田が乏しく、その近代化の歩みは出遅れた。
 国際的には、45年にアラブ連盟の創設メンバーとなったほか、47年には国際連合加盟国ともなった。しかし、独立からちょうど30周年に当たる48年、ヤフヤは対立する氏族勢力によるクーデターで殺害された。このクーデターは隣国サウジアラビアの支援で鎮圧され、ヤフヤの息子のアフマド・ビン・ヤフヤが後継者として即位することで、事態は正常化した。
 アフマド国王は父よりは外交関係の拡大に積極的に取り組み、冷戦初期にあってソ連陣営との結びつきを強めた。また共和革命後のエジプトに接近し、58年にはエジプト、シリアとともにアラブ連合共和国の創設にも加わった。
 とはいえ、ヤフヤとアフマド父子の二代40年以上にわたったイエメン王国統治は、基本的に保守的かつ絶対主義的なものであり、統治に必要な限りで近代国家の要素は取り入れるが、部族的慣習に基づく伝統社会は固守した。
 このことは、近代化が最も進んでいた軍部の青年将校らを中心に共和制樹立への動きを強めていったであろう。以後のイエメン近代史は、石油利権を武器として権力基盤を固めていく周辺王制諸国とは全く違ったものとなるのである。

2015年8月 8日 (土)

イエメン―忘れられた近代史(1)

序説

 目下中東ではイラクとシリアのほか、アラビア半島南端のイエメンでも政府軍と反政府武装力の内戦に隣国サウジアラビアを主力とする周辺国―背後にはアメリカがある―が干渉する同様の構図が展開されている。
 しかし、イエメンの状況はイラクとシリアほどには注目されておらず、報道も断片的である。もっと言えば、国際情勢に翻弄されつつ、独立‐革命‐分断‐統一‐内戦という激動と苦難の経過をたどってきたこの古国の近代史自体が忘れられてきた。
 古代のイエメンはアラブの原点とも言える場所であった。アラブ人には非アラブ人がアラブ文化を吸収した「アラブ化されたアラブ人;アドナン族」―預言者ムハンマドもこの系列に連なる―に対して、「純粋アラブ人;カフタン族」の二大系統があるとされるが、イエメンは後者の純粋アラブ人の原郷と目されている。
 イエメン古代・中世史は本連載の守備範囲外のため省略するが、イエメンの歴史的な特色は、北部高原地帯を拠点とするシーア派系のザイド派と南部の正統スンナ派が勢力拮抗し、オスマン・トルコの支配に下るまで、イエメンにはいかなる統一的な体制も樹立されなかったことである。このことが今日の内戦の遠因ともなっている。
 ちなみにザイド派とは、シーア派の中でも主流的な十二イマーム派とは異なり、シーア派イマーム第三代フサイン・イブン・アリーの孫ザイド・イブン・アリーとその子孫のみを正統的なイマームと認める宗派で、今日では専らイエメンで勢力を持つ独特の少数宗派である。
 9世紀末頃に成立したザイド派イマーム体制は、長い間統一的な王朝の体をなしていなかったが、時代ごとに周辺大国と競合し、またはこれに従属しながらも、20世紀初頭頃にようやく世襲王朝として確立、同世紀半ばの共和革命で打倒されるまで、北部イエメンの支配的勢力であり続けた。
 他方、近世以降のイエメンはオスマン・トルコ、次いで西洋列強の帝国主義支配を受け、冷戦時代にはアラブ世界唯一のイデオロギー的分断国家も経験した。これら外部要因もまたイエメン近代史に大きな影を落としている。
 こうした特殊な歴史を反映して、イエメンは開発が遅れ、アラブ世界でも一貫した最貧状態にあり、前近代的因習も根強く残存する。一方で共和革命や独立戦争、社会主義体制も経験するなど、半島の周辺諸国には見られない革新的な一面もあり、近代イエメンの性格は複雑である。
 本連載では、こうしたイエメンの忘れられた近代史を概観することを通じて、イエメンが直面する現在を考える契機としてみたい。これにより既連載『イラクとシリア―混迷の近代史』と合わせ、中東における現在的な紛争の歴史的な認識を深めることが可能になるものと信ずる。

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