〆もう一つの中国史

2015年12月 4日 (金)

もう一つの中国史(連載最終回)

八 「一つの中国史」へ(続き)

テュルク系民族の行方
 辛亥革命当時のスローガン五族共和のうち、回族とは、現代の民族分類上の回族―同化されたムスリム―とは異なり、新疆に根拠するウイグル族と重なる。この現代ウイグル族は、歴史的なウイグル族とはずれがあり、また中国史上しばしば重要な役割を果たしたテュルク系諸民族の直接子孫とも言えない。
 歴史的なウイグル族は、中国史上にも現われた同じテュルク系突厥を最終的に滅ぼし、ウイグル可汗国を建てて一時的にモンゴル高原の覇権を握る。ウイグルは8世紀の安史の乱では唐朝を支援し、9世紀には唐、吐蕃と三国会盟を結ぶほどの強国に成長したのもつかの間、840年、元来は支配下民族だったやはりテュルク系キルギス族の蜂起・攻撃を受け滅亡した。
 その後のウイグルはいくつかの地方的な王国に分裂するが、そのうち現在の新疆ウイグル自治区に相当する地域に建てられた天山ウイグル王国が強盛となる。これにより、同地域がテュルク化され、トルキスタンという地名も生じたとされる。
 この王国はやがてモンゴル帝国に従属し、ウイグル王族はモンゴル王族に準じた地位を保証される。宗教的には、当初のマニ教から仏教を経て、15世紀頃よりイスラーム教に改宗したと考えられる。
 やがてモンゴル帝国が衰微すると、この地域では同じモンゴル系ながらチンギス・カン系統とは異なるオイラト部族が建てたジュンガル帝国が覇権を握る。今日の新疆省につながる行政区が成立するのは、清朝時代の1762年、時の乾隆帝がジュンガル征服に成功し、新たな統治機関としてイリ将軍府を設置したことを起源とする。
 この統治システムでは、満州族が占める軍政長官(イリ将軍)の下、ムスリムにはベグ官人制と呼ばれる自治が保障され、新疆は清朝の半自治地域である藩部に組み込まれることになった。
 この体制はその後、この地域での重税に反発したムスリム蜂起(回民蜂起)とウズベク族軍事指導者ヤクブ・ベクの東トルキスタン支配、ロシアによる占領などの混乱を経て、支配権を奪回した清朝による1884年の新疆省設置をもって、一新される。
 新体制では、旧来のベク官人制が廃され、本土並み直接統治となったため、ムスリムの自治は剥奪された。この状態で辛亥革命を迎えると、新疆でも革命派が蜂起、前イリ将軍でモンゴル系の広福を擁する革命政権を樹立した。しかしこの後、漢族のウルムチ知事・楊増新が新疆省長として実権を掌握し、1928年に暗殺されるまで、半独立的な独裁政権を維持する。
 この間、新疆ムスリム社会ではムスリムの自立性を回復する運動が盛んとなり、すでに廃れていたウイグルの民族名を東トルキスタンのテュルク系ムスリムの呼称として復活させた。これが、現代にもつながる近代的なウイグル族の発祥であった。この民族名を政治的にも公式に確定させたのは、楊増新暗殺後、33年から44年にかけて新疆の新たな親ソ派軍事独裁者となった漢族の盛世才であった。
 その後、国民政府に鞍替えした盛が政府閣僚に就任するため、新疆を離任すると、親ソ派の東トルキスタン共和国が樹立される。この政権はウイグルの独立を目指してはいたが、実質はソ連の傀儡に近いものであった。
 戦後、国共内戦に勝利した中国共産党は49年中に新疆全域を制圧、こうした軍事的圧力の中で、東トルキスタン共和国首脳も共産党中国への合併を決断せざるを得ず、最終的に55年以降、新疆ウイグル自治区が成立した。
 こうして共産党中国統治下でも、ウイグルの名は残されたわけだが、合併後、中国当局は自治区に漢族の大量入植を進めたことから、現在の同自治区人口構成上は漢族が40パーセントを越え、ウイグル族に迫る勢力となっている。
 このことから、経済的権益を掌握する漢族とウイグル族の格差を生み、ウイグル族による暴動事件、さらにはイスラーム過激主義の浸透による爆破事件も散発するようになっている。これに対して、中国当局は徹底した鎮圧方針で臨んでいるが、元来地政学的には中央アジアに近いウイグルの北京からの支配には限界があるだろう。
 一方、ウイグルにはチベットのダライ・ラマに相当するような精神的指導者は見当たらず、民族回復・独立運動も統一されていないため、これまでのところ、十分な成果を上げられずにいる。

2015年11月27日 (金)

もう一つの中国史(連載第26回)

八 「一つの中国史」へ(続き)

モンゴルとチベット
 辛亥革命では、多分にして名目的なスローガンではあったが、旧清朝を構成した主要五民族、すなわち漢・満・蒙・回・蔵の五族共和が掲げられていた。このうち、辛亥革命後いち早く独立へと動いたのは、モンゴル人とチベット人であった。
 清朝体制下でのモンゴル人は清朝皇帝を大ハーンとして戴く同君連合的な同盟関係者として位置づけられており、清朝の消滅はモンゴル人にとって同盟解消・独立の契機であった。
 辛亥革命初期の1911年、まず外モンゴルで、当時モンゴルの最有力部族となっていたハルハ部実力者らがチベット人活仏ジェブツンダンバ8世(ボグド・ハーン)を君主として推戴する政権を樹立する。
 他方、清朝末期に英国が事実上併合していたチベットでは13年、宗主権を取り戻した清に追われ、インドに亡命していた時のダライ・ラマ13世が帰国して独立宣言を発し、ラサを首都にダライ・ラマを元首とする政権を樹立した。
 相次いで成立したモンゴル・チベットの両民族政権は中華民国に対抗して、独立国家としての国際的な承認を求めて共闘すべく、13年にチベット・モンゴル相互承認条約を締結する。しかし、ここで両国は清朝の旧版図を基本に中央集権の確立を狙う中華民国、さらにはモンゴルへの勢力拡大を狙うロシア、インドに接するチベットを勢力圏に置こうとする英国の綱引きに巻き込まれてしまう。
 モンゴルでは、外モンゴルが紆余曲折を経ながらも最終的に現代のモンゴル国につながる独立国家となるが、内モンゴルは切り離されて中国領に残留した。その後、ロシアに次ぐ世界で二番目の社会主義革命によって外モンゴルが社会主義国となると、これに呼応して内モンゴルでも統一運動が起き、45年には内モンゴル人民共和国が成立するが、ソ連とモンゴルの承認拒否により、わずか2か月余りで消滅した。
 その後は共産党中国に吸収され、内モンゴル自治区となる。現代の内モンゴル自治区は経済発展が目覚しいが、漢族の大量移住と60年代の文化大革命期に行なわれたモンゴル族大量粛清の結果、同自治区は人口の8割を漢族が占める状態となり、モンゴル族の主体性は大きく削がれている。
 チベットに関しては1913年‐14年のシムラ条約により、チベットに対する中華民国の名目上の宗主権を承認しつつ、実質上は独立国とすることが取り決められた。しかし中華民国側が署名を拒否したこの条約の真の狙いは、英国がチベットを間接支配することであった。
 このように英国の傀儡的立場に置かれながらも、これ以降のチベットは実質的な独立国家としての体制を維持し、一定の近代化も推進されたが、51年における共産党中国のチベット進軍・占領が状況を一変させた。これに対する抵抗運動は時のダライ・ラマ14世の亡命を結果した59年のチベット蜂起で頂点に達したが、結局は中国当局の圧倒的な軍事力の前に押さえ込まれた。
 その後、独立運動掃討が一段落した66年に至り、チベット自治区が設定されるが、「自治」は多分に建て前であり、分離独立運動は徹底的に排撃される状況が続いている。しかしチベット人の抵抗はなお継続しており、チベット問題は現代中国のアキレス腱となっている。

2015年11月22日 (日)

もう一つの中国史(連載第25回)

八 「一つの中国史」へ

辛亥革命と満州族の行方
 清朝は1900年の義和団の乱を契機として、急速に衰亡に向かい、1912年には辛亥革命により滅亡した。革命はいくつかのスローガンを掲げていたが、その中に「回復中華」があった。つまり、漢民族の支配権奪回である。
 その点では、清末の革命運動は、モンゴル系元朝から漢民族が支配権を奪回した明朝樹立運動と同質的な面があり、実際、革命による中華民国の樹立は、明朝以来およそ300年ぶりの漢民族体制の再興でもあった。
 これ以後、中国の体制は軍閥割拠、日本の侵略、中台分断・共産党支配と激しく変遷していきながらも、漢民族の主体性は一貫している。周辺民族が中国史の主役となる「もう一つの中国史」の時代は終わり、「一つの中国史」の時代に入っていくのである。
 その意味では、本連載もここで閉じてよいのであるが、最後に、清朝の時代まで「もう一つの中国史」を動かしてきた諸民族のその後の進路を一章割いて総覧してみようと思う。
 まずは清朝の支配者層であった満州族である。上述のように、清末革命運動は単なる清朝打倒にとどまらない漢族の支配権回復運動でもあったから、旧支配者民族・満州族に対する風当たりは強く、その後の満州族は民族喪失の一途であった。
 もっとも、清朝は満州族が多数派の漢族に同化することを厳しく警戒しながら、言語・文化面での自然同化は避けられず、その民族故地・満洲にも漢族が大量入植することを阻止できなかったため、満漢同化は決定的となった。
 そうした中、中国大陸への侵略を進めていった大日本帝国は、閉塞状態にあった満州族に目を付け、清朝最後の皇帝だった愛新覚羅溥儀を復位させる形で満洲国を建てたが、これは日本の戦略的な傀儡国家であり、もはや満州族主体の独自国家とは言い難かった。
 戦後、中国共産党体制が樹立されると、少数民族公認政策の一環として、旧八旗人の子孫は満族として認定された。現在、満族は1000万人を超え、55の公認少数民族中ではチワン族、回族に次ぐ勢力ながら、満州族固有の文化は消滅し、話者をほとんど喪失した満州語は絶滅危機言語となっている。
 かくして、かつてあれほどの成功した帝国を築いた民族としては異例にも、清朝を支えた満州族は名目上の存在と化しており、分離独立の動きもなく、今後の中国史において固有の役割を果たす可能性はほとんどないであろう。

2015年11月13日 (金)

もう一つの中国史(連載第24回)

七 東北民族の興亡(続き)

清帝国の覇権
 明の時代に有力化した建州女真族の中から、一人の英傑が現われた。ヌルハチである。建州女真の部族長家に生まれた彼は当初、明の後ろ盾を巧みに得て、建州女真の統一に成功する。その基盤の上に、彼は他の女真系部族を次々に征服して、1616年、後金を建国した。金の滅亡以来、およそ400年ぶりの女真系国家の樹立である。
 ヌルハチは組織力に長け、女真族の伝統的な社会集団を八旗制と呼ばれる軍事組織に再編して、軍事力を強化した。そうした軍事力を背景に、彼は明朝の打倒を宣言し、天下取りを目指したのである。
 志半ばで1626年に没した彼の遺志は後を継いだ息子のホンタイジ(太宗)に受け継がれ、孫の順治帝の時に至り、清は全国王朝として確立される。ここまでの展開は、北方から出たモンゴル系元の成立過程とよく似ているが、違っていたのはその後である。
 元が漢化をほぼ拒否し、モンゴル独自の慣習に固執したのに対し、清は漢化を受け入れ、科挙制度も継承した。特に清の全盛期を演出した第4代康熙帝は自ら儒学を勉学し、著名な漢字字典『康熙字典』の編纂事業など、漢文化の集大成にも尽力している。
 康熙帝はその一方で、版図拡大にも力を入れ、モンゴルやチベット方面にも遠征し、勢力圏に収めた。彼の時代に東北部から新疆に及ぶ現代中国の領土がほぼ確定し、清は広大な覇権国家となる。
 このような超域性も元と似ているが、モンゴル民族主義を脱することができなかった元とは異なり、清は満州族と改称した支配者民族の主導性を固守しつつも、最大民族漢族をはじめ、支配下民族間の融和にも意を用いた。
 こうして、清はちょうど同時代に並存したロシアのロマノフ朝、日本の徳川幕藩体制と並び、東方の近世を担う持続的な王朝として確立されていった。しかし、康熙帝に始まる清の全盛時代である三代130年あまりに及んだいわゆる「康雍乾盛世」が終わり、19世紀に入ると、清は帝国主義化した西洋列強からの攻勢と領土蚕食に悩まされることになる。
 この点では、末期まで「鎖国」によって体制防衛を図った徳川幕藩体制とは異なり、中途半端な半開国政策を採った清の末路はより厳しいものとなった。それも、清が異文化の受容に対して寛容であったことがあだとなったかもしれない。
 一方で、清は西洋列強の一つとして帝国主義化していった帝政ロシアのような道もとらず、国際的には中国古来の多分に儀礼的な朝貢外交の域を出ようとはせず、おおむね過去の中国王朝と同様に中国大陸を中心とした「中華帝国」の踏襲にとどまっていたことは、やがてアジアでいち早く帝国主義化していく近代日本を含めた列強に付け込まれる要因となったであろう。
 とはいえ、およそ300年にわたって存続した清は、中国における異民族王朝としては最も成功を収めた体制であったことは事実である。同時に、それは中国大陸最後の世襲支配体制ともなった。その点でも、ともに革命によって打倒されたロマノフ朝や徳川幕藩体制と近似するのは、興味深いところである。

2015年11月 5日 (木)

もう一つの中国史(連載第23回)

七 東北民族の興亡(続き)

先駆者・金
 東北のツングース系諸民族の中でも最大勢力に成長していた靺鞨族は、渤海を建てた粟末部と黒水部の二大集団に分岐していたが、粟末部の渤海が10世紀に滅んだ後、台頭してきたのが黒水部である。
 黒水靺鞨は、かれらの自称を漢音に当てたと見られる「女真」の名で呼ばれるようになっていた。女真族は当初、契丹系の遼に服属していたが、遼は次第に国政が乱れ、衰退していた。そうした中で、女真族の中でも遼と緊密な関係にあった完顔部の族長・阿骨打が部族の統一と軍事的組織化に成功し、1115年、遼から分離独立して金を建国した。
 その後、金は燕雲十六州の返還を宿願とする漢民族系の宋と同盟して、遼を攻め滅ぼす。ところが、燕雲十六州を取り戻した宋が忘恩的な背信行為を繰り返すことに憤慨した金の第二代皇帝・呉乞買(太宗)は二次にわたって宋に侵攻し、華北を占領、1127年、宋は敗走・南遷した(南宋)。
 かくして遼、宋を相次いで駆逐し華北を奪取した金は、東北民族が中国史上に台頭する先駆者となった。その後も華北奪回を目指す南宋と逆に南征を狙う金との間で断続的に戦争が続くが、1142年と64年の二度の和約を通じて両国関係は安定し、おおむね平和が保たれた。
 この一種の南北朝時代を通じて、征服王朝・金は次第に漢化の度を増していく。要職は女真族が占めたが、初代阿骨打が組織した猛安と謀克の二段階式軍事制度も形骸化していき、軍事的な弱体化が進んだ。
 そうした中で、モンゴル族に強力な指導力を備えた首長チンギス・カンが台頭する。モンゴル族も当初は金に服属していたが、チンギスは朝貢を拒否し、分離独立姿勢を鮮明にした。そして、従来金の支配下で閉塞し、しばしば反乱していた同系の契丹族を配下におさめ、金に対して征服戦争を開始する。
 金の征服はチンギスの代では完了しなかったが、チンギス時代の1215年に華北から東北の大半を奪われ、河南の地方政権に落ちていた金は、1234年までに完全に滅亡した。
 こうして、金は中国大陸全土の支配者となることはないまま、120年ほどで命脈を絶たれたことになるが、女真族そのものは滅亡することなく、続く元と明の時代には次のチャンスまで雌伏を続けるのである。
 元の時代には東北の本拠地に残存した女真族が朝鮮半島北部にまたがって元に服属し、日本侵攻(元寇)や朝鮮攻略にも兵士として動員されている。元の撤退後、明の時代には小部族ごとの間接統治下に置かれた。そうした中で部族の再編が起き、やがて満州を自称する建州女真が有力化してくる。

2015年10月29日 (木)

もう一つの中国史(連載第22回)

七 東北民族の興亡

東北民族前史
 中国史上の激動期となる近世をもたらしたのは、征服王朝のモンゴル系元から支配権を奪還した漢民族系の明ではなく、やはり征服王朝の性格を持つ女真族(満州族)系の清であったが、このような東北民族が中国史に台頭してくるのはそう古いことではない。
 女真族に代表される東北系諸民族はツングース系民族とも呼ばれ、言語学上はモンゴル語やテュルク語とも類縁的であり、アルタイ語族と総称されることもあるが、前二者とは言語学的な相違も大きく、その民族的な起源について定説はいまだにない。
 この点、以前言及したように、東北地方の先史文明として遼河文明があるが、その担い手はウラル語族系と見られるので、ツングース系諸民族が東北地方の主体勢力となったのは、遼河文明人が何らかの理由で東北地方から姿を消した後と考えられる。漢民族の側では、これらの新たな東北民族を日本の倭人や朝鮮半島人などと合わせて「東夷」と総称し、中華文明外の蛮族とみなしていた。
 ツングース系民族は早くから黒竜江やその支流である松花江流域に定着し、モンゴル族やテュルク系民族とは異なり、遊牧よりも狩猟と農耕の混合生活様式を主として営んだ。中国史書では弓矢の名手として粛慎の名で周代から登場する。
 一方、同じくツングース系と見られる夫余族は最も早くに部族国家を形成し、漢の時代には今日の吉林省付近に夫余国を建てる。そこからやがて朝鮮半島にまたがる強国となる高句麗を建てる分派が現われた。このように夫余族の活動は中国東北部から朝鮮半島にまたがるため、中国史と朝鮮史のいずれに組み入れるかで論争が起きるが、当時中国東北部はまだ明確に中国領土とは言い難い辺境の地であった。
 粛慎は夫余国や高句麗に服属しながら、やがて勿吉、さらに靺鞨と呼ばれる部族勢力に発展していく。7世紀、高句麗が唐‐新羅連合軍によって滅亡に追いやられた後、高句麗に服属していた靺鞨族粟末部が高句麗の復興を大義名分として、渤海を建てる。やがて渤海は唐とほぼ並存する律令制国家に成長、繁栄するが、10世紀、唐の滅亡からほどなくして契丹により滅ぼされた。

2015年10月23日 (金)

もう一つの中国史(連載第21回)

六 台湾の中国化(続き)

鄭氏政権から清版図へ
 オランダの台湾統治は、インドネシア統治とは対照的に半世紀も続かず、終幕した。その要因は皮肉にも、オランダ統治下で移入された漢人の勢力増強にあった。1652年の漢人大反乱は、その予兆であった。
 これはオランダの重税にあえぐ漢人入植者による反乱事件であるが、その稚拙な計画は事前にオランダ当局に漏れていたため、短時日で鎮圧された。その過程で数千人とも言われる漢人がオランダ当局に殺戮されたと言われるが、真相は不明である。
 この事件の当時、大陸中国ではすでに明朝が滅亡し、新たに成立した満州族系の清に対する旧皇族による抵抗運動が展開されていた。そうした抵抗運動の武将となっていた鄭成功が抵抗の一大拠点を確保すべく台湾に侵入し、オランダを駆逐して1662年、ここに地方政権を樹立した。
 鄭成功は台湾に拠点を置いた福建省出身の武装商団長の父と平戸出身の日本人武家女性の母の間に生まれ、日本人の血も引く人物で、後に近松門左衛門が国姓爺の俗称を持つ成功を主人公に史実を脚色した浄瑠璃『国性爺合戦』を発表したことでも知られる。
 鄭成功自身は台湾奪取の年に志半ばで没するが、後を息子の鄭経が継いで発展させた。こうして樹立された台湾史上初の漢人系政権である鄭氏政権は漢人入植者を束ねた屯田政策を基盤に大陸の集権的な官制も導入し、台湾の開発を進めたことから、現代台湾でも特に初代・鄭成功は「開発始祖」として崇敬されている。
 しかし標榜上明朝の復権を目指す亡命政権であった鄭氏政権は王朝として確立されず、世襲制の軍閥政権のまま終焉する。地位継承以来、19年にわたって執権者の地位にあった鄭経が40歳で没すると、重臣によるクーデターで鄭経の12歳の息子・鄭克塽が擁立される。
 しかし彼は重臣の傀儡にすぎず、政情が安定しない中、反攻に出た清の水軍が台湾に迫ると、鄭克塽とその擁立勢力はあっさり降伏、ここに鄭氏政権は三代わずか20年余りで終焉したのであった。
 この後、台湾は清帝国の版図に編入されるも、清当局は辺境地・台湾の統治に大きな関心を示さず、大陸側の福建省の一部とした。その結果、従来にも増して福建省からの漢人の入植民が増大し、鄭氏政権の開発政策を受け継ぐ形で、半ば自治的に開発を推進していったのであった。これにより、鄭氏政権に始まる台湾の中国化は既定路線となる。

2015年10月15日 (木)

もう一つの中国史(連載第20回)

六 台湾の中国化(続き)

オランダ統治期
 台湾島は地理的には中国大陸の島嶼部とも言えるため、早くから漢人の手が伸びても不思議はないはずだったが、中原の覇権競争に明け暮れた時代には、海洋進出は漢人の関心外であった。明朝も海禁政策を採ったため、漢人の海洋進出は澎湖諸島を限度とし、台湾には到達していなかった。
 数千年単位での伝統的定常社会が続いていた台湾が大きく変化するきっかけは、西洋列強の侵出であった。はじめにやってきたのは果たして、大航海時代を拓いたポルトガル人である。記録によると、かれらは16世紀半ばにはすでに台湾島に到達していたが、本格的な関心を示すことはなかった。
 次にやってきたのは、東インド会社を設立してアジア侵出を活発化させていたオランダ人である。インドネシア方面に足場を築いたオランダ人の到来は、当時の台湾が地政学上中国ではなく、東南アジアの延長域だったことを示してもいる。
 オランダは1622年、まず台湾に近い澎湖を占領したため、澎湖の支配権を主張する時の明朝と交戦したが、短期で講和し、オランダが澎湖を撤退する代わりにオランダの台湾支配が容認された。容認といっても、台湾に明朝の実効支配は及んでいなかったので、実質上はオランダが台湾初の全島的統治者となった。
 このようにして、1624年以降、オランダによる台湾統治が始まる。かれらは現在の台南市にゼーランディア城を築き、ここを政庁兼貿易事務所として統治した。しかし、間もなくフィリピンに侵出していたスペインが台湾に割り込みを図り、北部を占領する。オランダが最終的にスペインを台湾から駆逐したのは、42年のことであった。
 オランダの統治下では、中国大陸南部から大量の漢人労働者が移入され、プランテーション経営が試みられたので、この時期以降、漢人の台湾移住がようやく本格化する。同時に、オランダは台湾先住民の教化にも注力したが、そのやり方はお決まりのキリスト教宣教活動であった。
 ただ、文字を持たなかった台湾先住民にローマ字を伝え、しかもオランダ語の強制ではなく、現地語のローマ字表記を基本とする比較的リベラルな教化方針を採ったことから、内発的な文明開化も起きた。特に平地部を拠点としていた平埔族はいち早く開化し、部族語(新港語)をローマ字表記した「新港文書」と呼ばれる一群の契約文書類を残している。
 とはいえ、オランダ統治は典型的な植民地支配であり、先住民は租借の形で土地を奪われ、開化が進んだ平埔族を中心にその民族性も喪失していった。特に漢人の大量移入は血統的にも台湾社会を大きく変革し、台湾が中国化していく歴史的な一大転換点となったであろう。

2015年10月 8日 (木)

もう一つの中国史(連載第19回)

六 台湾の中国化

台湾先史
 現在、台湾は大陸中国とは別の統治主体が支配しているが、広い意味では中国圏の一部である。しかし、台湾が中国圏に属するようになったのは近世以降のことであり、それ以前は中国圏からは切り離された離島であった。
 元来、台湾にはマレー語などとも同系のオーストロネシア語族に属する言語を持つ諸民族が割拠していた。この先住諸民族のうち最大のアミ族を初めとする16民族は台湾政府から「原住民」として公認されている。かれらの話す言語―台湾諸語―は、オーストロネシア語族の最も古い形を残しているとされ、この語族の原郷は台湾にあったとも推定できるところである。
 台湾先住民族は公認16民族以外にも、文化風習ごと多岐に分化しており、17世紀にオランダ人が到来し、台湾を「発見」するまでは、統一国家を形成することなく、部族ごとの伝統社会を維持していたものと見られる。
 かれらがいつから台湾に居住するようになったかは明らかでないが、紀元前4000年ないし3000年頃に大坌坑文化と呼ばれる新石器文化が台湾北部に現われる。この文化は急速に台湾全土に広がり、そこから派生文化が各地で定着していくので、この文化の担い手こそ台湾先住民の祖先集団だったと推定されている。
 この文化はそれ以前の台湾の先史文化とは断絶があるため、その担い手民族はおそらく外来者であり、かれらの原住地は中国大陸南部と見られる。このことと、近年の比較言語学的研究でオーストロネシア語族と中国語が含まれるシナ・チベット語族の内的関連性が明らかにされてきたことを考え合わせると、台湾先住民及び漢民族の基層的な系譜関係も想定することができる。
 ただ、台湾の先史文化が大陸の黄河文明圏のような形で王朝形成に向かわなかったのは、漁業に依拠した隔絶された離島では農耕が発達せず、治水事業をベースとする中央権力も必要とされなかったことによるものであろう。
 ある意味では文明化を必要としないまま、極めて長きにわたって定常的な先史社会を維持し得たのは、台湾の地理的な環境条件によるものであった。

2015年10月 2日 (金)

もう一つの中国史(連載第18回)

五ノ二 モンゴル帝国の覇権(続き)

元朝の撤退
 巨大帝国化した元朝は、全盛期を築いた世祖クビライ・カーンが1294年に没すると、斜陽化の道をたどる。元朝では明確な皇位継承制度が確立されておらず、後継争いが生じやすいことが致命的であった。
 クビライを継いだ末子のテムル(成宗)も長兄を飛び越えての即位となったが、彼の治世前半には、クビライ時代から中央アジアを拠点に元朝に反乱を起こしていたオゴデイの孫カイドゥを破り、反乱を平定に導く功績を上げた。しかし後半期になると、酒乱・淫乱から病床に伏せ、政務は皇后ブルガンの手に委ねられた。
 テムルが1307年に死去すると、ブルガン派と反ブルガン派の抗争が起き、反ブルガン派のクーデターにより、テムルの甥に当たるカイシャン(武宗)が即位する。しかし、彼は短命で死去し、弟のアユルバルワダ(仁宗)が継ぐ。
 アユルバルワダ時代は科挙の限定的復活や儒者の登用などが実行され、漢文化や漢制に傾斜した例外的な時期であったが、こうした漢化路線が定着することはなく、アユルバルワダを継いだ息子のシデバラ(英宗)が保守的なイェスン・テムル派に暗殺されると、終わりを告げた。
 これ以降は短命な皇帝が続き、政情不安と財政難が常態化する中、元朝の衰退は目に見えて進行していく。元朝最後の皇帝となるトゴン・テムル(恵宗)は13歳で即位し、元朝最長の35年の治世を保つが、皮肉なことに、その治世は元朝史上最も混乱に満ちたものであった。
 1351年以降、漢民族を主体とする元朝打倒運動として紅巾の乱が勃発する。1353年以降は自立傾向を見せる皇太子アユルシリダラとの対立・内紛により、中央政府が機能麻痺に陥った。
 こうした中、江南を基盤に実力をつけていた紅巾軍ゲリラ兵出身の朱元璋が率いる北伐軍が1368年、元朝軍を破り、首都大都を制圧、明朝を樹立する。トゴン・テムルはアユルシリダラとともにモンゴル高原に敗走した。
 ただし、元は完全に滅亡したわけではなく、本拠であるモンゴル高原に撤退して存続していくが、これ以降、再び中国大陸の支配権を取り戻すことはなく、中国史上の国家としては終焉する。
 こうして、クビライ死後の元朝ではクビライ級の英主が現われることなく、混乱しながらクビライの死後70年余りも延命されたのが不思議なほどであった。元朝が前後する鮮卑系唐朝や、女真系清朝と比べても長続きしなかったのは、漢制を軽視した征服王朝の限界であった。
 一方、強力な騎馬軍団に支えられた遊牧的な機動性を駆使し、歴史上初めてアジアとヨーロッパを一本につなぎ、ユーラシアの地政学を作り出した功績は元朝にあった。これ以降、中国史は単に中原の覇権を争奪し合う椅子取りゲームではなくなり、世界史の中に組み込まれていくのである。

2017年5月
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