〆イラクとシリア―混迷の近代史

2015年8月 1日 (土)

イラクとシリア―混迷の近代史(18)

seven シリア内戦

night内戦の膠着
 シリアにおける「春」は2011年の初頭から静かに始まった。シリアには先行した「ダマスカスの春」の余波が残されており、バッシャール・アサド政権も民主化を一定は受け入れ、野党とも対話する姿勢を示していた。
 3月以降、反政府デモが拡大すると、政権は恒常的な非常事態令の撤廃や憲法改正、政党結成の自由化などの民主化措置を次々と打ち出すが、反政府デモはアサド体制そのものの打倒に向かっており、大衆行動は終息しなかった。
 政権による弾圧が増し、死傷者も増える中、7月にはシリア軍を離脱した将校により反政府武装組織・自由シリア軍が結成される。これ以降、シリアは政府軍と反政府武装組織との事実上の内戦に突入していく。
 自由シリア軍は世俗主義的な武装組織であったが、アサド家支配体制の打倒ということ以外に明確な理念を欠いた寄り合い所帯の軍事組織であった。しかし、イラクに続いて社会主義のバース党支配体制そのものを打倒したい欧米はこれに飛びつき、武器供与の支援も始めた。
 こうした欧米の干渉が膠着状態をひき起こした。アサド家支配体制は二世代にわたる世襲政治の過程で軍部・治安機関に強固な基盤を築いており、欧米が想定したほどに脆弱ではなく、内戦渦中の14年に行なわれた大統領選でもバッシャールは三選を果たし、父親同様の長期政権化の構えを見せている。
 対する自由シリア軍は内紛や連携するイスラーム系組織との確執などもあり、アサド家に忠実な空軍(前大統領の出身)に強みがあり、自国領土内でもなりふり構わず無慈悲な空爆作戦を展開する政府軍を圧倒することは今日までできていない。
 こうしたシリア内戦の膠着状態に付け入って急成長してきたのが、イスラーム国集団であった。この集団の本籍はイラクであるが、かれらが14年に入って急速に勢力を拡大した背景には、シリア内戦に参画して戦闘能力を向上させ、シリア側イスラーム系組織から武器・戦闘員の供与を受けたことがあると見られている。
 イスラーム国はイラクとシリアをまたにかけ、両者を統合する地政学的地図を描き、現時点ではシリア北部のラッカを事実上の首都とするまでに至っているが、こうした「戦果」はシリア内戦なくしてはあり得なかったと言ってもよいだろう。
 「アラブの春」はさしあたり成功した当事国でも多くの犠牲を出したが、シリアではとりわけ悲惨な失敗が待っていた。春から冬への急転である。この間、シリア難民は400万人を越えている。
 シリア内戦を出口の見えない袋小路に追いやらないためには、シリアの現実を見据え、バッシャール政権下で遅々としながらも進められてきた改革を平和的に後押しする支援が必要だった。今となっては過去形だが、これを現在形に戻すことはまだ不可能ではない。(連載終了)

2015年7月25日 (土)

イラクとシリア―混迷の近代史(17)

seven シリア内戦

nightダマスカスの短い春
 シリアでは2000年にアサド大統領が急死し、近代シリア最長30年に及んだ長期政権が終焉した。しかし事前の入念な世襲工作が功を奏し、次男のバッシャール・アサドへの権力継承が円滑に行なわれた。これは共和制国家での権力世襲という異例の出来事であったが、アラウィー派少数支配という特異な体制を混乱なく維持するためには、世襲政権の形を取る必要があったのであろう。
 ただ、本来後継候補だった兄の事故死でお鉢が回ってきたにすぎないバッシャールは眼科医の出身であり、軍部・治安機関を最大権力基盤とした職業軍人出身の父親に比べ、指導力には疑問がつきまとった。それを補うため、父はバッシャールを軍に編入して、軍人としての経験を積ませたほか、レバノン干渉のような重要外交問題でも役割を与えるなどしたが、父アサドの死はいささか早かった。
 政権発足当初のバッシャールは父の厳格な抑圧政策を一定緩和する姿勢も示そうとした。こうしたバッシャール政権下での自由化は「ダマスカスの春」と呼ばれる一時期を作った。この時期、シリアの知識人らは「サロン」を結成して、それまでタブーだった様々な政治・社会問題について討議し、00年9月には有力知識人99人による「99人声明」が提起された。
 この声明は恒常的な非常事態令の廃止や、政治犯の釈放、言論・集会の自由などの民主化を求めていた。これはさらに翌年1月の知識人1000人による「1000人声明」としてより具体化された。
 バッシャールもこうした在野の声に答え、政治犯収容所の閉鎖やムスリム同胞団関係者の釈放などシリア体制としてはかなり大胆とも言える自由化措置に出たが、それも束の間だった。こうした自由化政策は父親の時代以前から続くバース党支配体制の安定を危うくしかねないものであり、古参党幹部の反対にあい、挫折する運命にあったのだ。
 01年に入ると、政権はこうした批判的知識人の投獄やサロンの強制閉鎖などの弾圧措置を開始し、ダマスカスの春は一年で終息した。しかし、その余波はさらに継続し、05年にはシリア政府の権威主義的な姿勢を批判する知識人による「ダマスカス宣言」が改めて出された。
 こうした動きは裏を返せば、体制批判を完全に封じ込めた父ほどの絶対的権威を持てない息子の世襲政権の弱さを示していた。しかし、シリアでの先駆け的な民主化運動は、2010年代に入ってアラブ世界に広く同時発生した民衆蜂起「アラブの春」の序章のような意義を持ったとも言える。シリアでも、11年初頭以降、民衆のデモ行動が開始される。

2015年7月11日 (土)

イラクとシリア―混迷の近代史(16)

six イラク戦争と「内戦」

night「内戦」の時代へ
 第二次イラク戦争終結後は、米英主導の有志国暫定当局がイラクの統治に当たることとなったが、その法的根拠は薄弱で、イラク国民からすればまさに「占領当局」であった。米英ではかつての連合国による日本統治をイメージしていたようであるが、これは国情を無視した全くの空想であった。
 暫定統治開始直後から、強制解党されたバース党残党などを主力とする武装抵抗が活発化し、2003年末にフセインが拘束されても、終息しなかった。04年4月には残党の拠点となっていたファルージャで米軍と武装勢力の大規模な戦闘が起きた。この戦闘では、米軍による数々の残虐行為が報告されている。
 この戦闘をどうにか制した暫定当局は、同年6月にはイラク側暫定政権に権力を委譲した。この点でも、占領終了まで7年をかけた日本統治とは異なり、中途半端であった。明けて05年には暫定議会選挙を経て、国民投票により新憲法も承認された。
 こうして正式に発足したイラク新体制は多党制に基づく議会制を強制されたため、イラクの宗派構成に沿って、多数派シーア派主導のものとなった。これは、それまでのイラク近代史上における重大な転換であった。スンナ派主導で成り立っていたバース党関係者が公職追放されたため、スンナ派は一転して政治的に閉塞するようになったのだ。
 シーア派主導政権の中心に立ったのは、フセイン政権時代は政治犯として亡命していたヌーリー・マーリキ首相であった。彼はイランが支援するシーア派宗教政党ダーワ党に属していたが、同党トップのジャーファリー移行政府首相がイランやシーア派武装勢力指導者ムクタダー・サドルと親密なことから各方面の反発を買い、首相を辞退したのを受け、ナンバー2のマーリキに白羽の矢が立ったのだった。
 短命に終わると見られたマーリキ政権であったが、マーリキは次第に長期執権を想定した権威主義的な傾向を見せ始める。特に仇敵フセインに対しては容赦せず、フセインを裁判にかけ、06年には死刑に処したが、こうした強硬策はかえってフセイン体制残党を含むスンナ派の反発と抵抗を強めるだけであった。実際、マーリキ政権下では爆弾テロが日常化する状態となった。
 これに対し、09年に発足したアメリカのオバマ政権は戦死者を出し続ける米軍の早期撤退に動き、10年8月までに駐留米軍撤退、11年にはイラク軍訓練部隊も撤退し、完全にイラクから手を引いた。
 こうしたアメリカの無責任とも言える対応と、まとまりを欠くシーア派政権の弱体はスンナ派武装勢力にとっては絶好の空隙であった。瞬く間にイラクの広域を実効支配するようになった「イスラーム国」集団はそうした空隙を突いて台頭した新興勢力である。
 この勢力はカリフ国家の再興を呼号する宗教的過激勢力として台頭したが、行政・軍事面は実務経験豊富な旧バース党・旧政府軍残党が担っていると見られ、こうした奇妙な聖俗合同に当たっては、フセイン政権ナンバー2の地位にあったイザト・イブラヒムが尽力したとも言われる(後に離反し、2015年の政府軍による掃討作戦で死亡したとされるが、未確定)。
 かくして、第二次イラク戦争後のイラクは「内戦」の時代に入ったと言える。その行方は、シーア派主導政権の背後にいるイランと米英など元有志国の利害も複雑に絡み、混沌として予測不能である。
 他方、フセイン政権下で民族浄化を経験したクルド人は新体制下では高度な自治権を獲得し、そのクルディスタン地域はイラク国内で最も安定繁栄を享受し、宿願の独立すら窺う情勢にある。これは、イラク戦争の数少ない成果の一つである。

2015年6月25日 (木)

イラクとシリア―混迷の近代史(15)

six イラク戦争と「内戦」

night第二次イラク戦争
 第一次イラク戦争(湾岸戦争)から第二次イラク戦争までには、12年のタイムラグがある。この間はフセイン政権の延命期と言えた。フセイン政権は、圧倒的な力の不均衡の中で行われた第一次戦争では徹底抗戦を避け、あえて早期に事実上降伏することで、延命に成功したのだった。
 とはいえ、この敗北は多方面からの反乱を招いた。最も大規模な反乱は、イラク社会で多数派を占める南部シーア派の反乱であった。この時は、一時国土の過半が反乱側の手に落ちたが、政権側も温存されていた精鋭部隊を投入して反撃、鎮圧に成功した。その際、政権軍の報復作戦で10万人とも言われる犠牲者を出した。この惨事はフセイン亡き後の宗派対立の遠因となる。
 その勢いで、フセイン政権がクルド人や南部湿地帯住民らの反乱に対する無慈悲な弾圧を強めたことで、米英仏はイラクに広域の飛行禁止空域を設定、イラクの制空権を奪った。これへの対抗上、フセイン政権は地対空ミサイルの配備などを進めたため、米英仏軍からしばしば限定攻撃を受けることとなった。
 この間、国連の制裁が継続し、国民経済が困窮する中、フセイン政権はかえって焼け太り的に体制を強化していた。その際にフル稼働したのは、フセインにとって最大の権力基盤だった治安機関であった。従来からの個人崇拝的な施策もいっそう強化された。
 転機は、01年の9・11事件であった。これを機にアメリカはイラクが事件首謀集団のアル・カーイダを庇護しているとの不確かな情宣により、反イラクの姿勢を強めた。時の米政権の主は第一次戦争時のブッシュ大統領の子息であった。
 こうしたブッシュ政権の反イラク政策は政権一期目が曲がり角を過ぎた03年に至って戦争発動に結実する。この時、ブッシュ政権はイラクが大量破壊兵器を秘密裏に開発保有しているとの情報を流した。この情報は事後に虚偽と判明しているが、ブッシュ政権は父の政権が主導した第一次戦争の成果を無にしかねないフセインを最終的に葬るための口実を探していたと考えられる。
 こうして虚偽情報に基づいて始まった第二次イラク戦争は、イラクのクウェート侵略という大義名分のあった第一次戦争にもまして根拠を欠くものであったが、またしても米英主導の圧倒的な有志連合軍の前に、イラクは敗北した。逃亡したフセインは、同年末に潜伏先の隠れ家で米軍に逮捕された。
 第二次イラク戦争の結果、近代イラク史上最長の24年に及んだフセイン独裁政権はあっけなく崩壊した。同時に、前任のバクル政権時代から通算すれば、35年に及んだイラク・バース党支配体制も終焉した。だが、イラクに民主主義は訪れず、代わって米英主導の占領統治が開始されるのである。

2015年6月 4日 (木)

イラクとシリア―混迷の近代史(14)

six イラク戦争と「内戦」

night第一次イラク戦争(湾岸戦争)
 対イラン戦争に「勝利」したフセイン政権は、戦争の傷跡も癒えない中、今度は隣国クウェートへの侵攻・併合というあまりに古典的な侵略行動に出た。クウェートはイラン‐イラク戦争では湾岸諸国中最も強力にイラクを支持した「恩人」であったが、恩を仇で返すかのようなフセインの行動には経済的な打算があった。
 イラン‐イラク戦争終結時、原油価格の値下がりにより、石油を主要な輸出品とするイラクに不利な状況が生じていた。当時のイラクは、多額の戦時債務と戦乱からの復興事業の遅れに苦しんでおり、原油安はそれに追い打ちをかけていたのだ。
 イラク政府はOPECに対し、原油価格引き上げを要請するも、受け入れられず、フセインは矛先をクウェートへ向ける。両国国境にあるルメイラ油田でクウェートが傾斜採掘法によりイラク側油田を盗掘していると非難し始めたのだった。
 この主張を否定するクウェートとイラクの対立が頂点に達したため、サウジアラビア、エジプト、PLOの仲介外交が活発に行われ、いったんは外交的解決に向かうかに思われたが、1990年8月2日、イラク軍は10万人の精鋭部隊をもってクウェートに奇襲攻撃をしかけた。
 元来小規模・軽武装のクウェート軍はほとんど抗戦できないまま、数時間のうちにクウェートはイラク軍に占領され、当時のジャビル首長は亡命、親イラク派のクウェート軍将校を首班とする傀儡政権が樹立された。こうした経緯を見る限り、フセインは早くからクウェート侵攻を計画し、隠密に準備を進めていたと思われる。
 この時、アメリカの駐イラク大使がフセインとの事前会談で不介入方針を示唆する誤ったメッセージを送ったと非難されたが、米大使にクウェート侵攻を容認する意図はなく、情報戦に長けたフセインはアメリカに対しても侵略の底意を巧妙に隠していたのである。
 こうして、フセイン政権によるクウェート侵攻は電撃的な成功を収めたが、フセインは長期的な展望においては、計算を間違えていた。国連の経済制裁によりイラク経済はいっそう疲弊したうえ、アメリカの武力介入を招いたからである。
 アメリカのブッシュ(父)政権は東欧も含む欧州諸国やサウジをはじめとする湾岸諸国の支持に加え、フセイン政権と対立する反米的なシリアまで引き入れ、30か国を超える多国籍軍を結成、翌91年1月以降イラクへの介入戦争を開始した。
 多国籍軍は米空軍を中心とするハイテクを駆使した圧倒的な制空力で有利に戦況を進めた。これに対し、地上戦力中心のイラク軍は苦戦し、数万人規模の戦死者を出して、91年3月、停戦協定に至った。あっさり降伏したように見えるが、これは残存戦力の温存を図ったフセイン政権の思惑でもあっただろう。
 「湾岸戦争」と通称されるこの戦争は参加国の国際的な広がりから見て、第二次大戦以来の国際戦争の様相を呈するとともに、冷戦終結を象徴して、多国籍軍が東西にまたがって組織された点に特徴があった。とはいえ、イラク側で正式参戦した国はなく、多勢に無勢の非対称な戦争であり、「湾岸戦争」という呼称は的確と言えない。
 むしろ、この十数年後の2003年、再びアメリカが発動し、最終的にフセイン政権を排除した「イラク戦争」の前哨戦とも言えるので、03年の「第二次イラク戦争」に対し、「第一次イラク戦争」と呼ぶほうが正確であろう。

2015年5月22日 (金)

イラクとシリア―混迷の近代史(13)

five バース党の支配

nightサダム・フセイン独裁体制
 イラクのバース党体制では、1979年に一つの転機が生じた。この年、68年のバース党クーデター以来大統領の座にあったバクルが退任し、副大統領サダム・フセインが後継に就いたのだ。この政権交代は表向き大統領腹心ナンバー2への平和的な禅譲の形を取ってはいたが、その経緯には疑念も持たれている。
 というのも、バクルは数年来実権をフセインに握られていたとはいえ、それまで対立関係にあったシリアのアサド政権と前年に国家統合の方向で交渉に入っていたからである。この統合で自身の権力が弱化することを恐れたフセインが、バクルを退任に追い込む画策をしたという説がある。実際、フセインは大統領就任直後、親シリア派と目された党幹部らを大量粛清していることからも、こうしたフセイン画策説は間接的に裏づけられる。
 経緯はどうあれ、前大統領を傷つけずトップの座に昇ったフセインはバクルや隣国シリアのアサド大統領のように、職業軍人ではなく、文民の党活動家・職業的テロリストの出身であった。にもかかわらず、2003年まで24年にわたったフセイン時代は、職業軍人以上に好戦的なフセインの性格も反映して、多大の犠牲を伴う戦争に明け暮れる年月となった。
 最初の戦争はもう一つの隣国イランとの戦争であった。ちょうどフセインが大統領に就任した79年、イランではホメイニが指導するイスラーム革命が成功した。イランで支配的なシーア派はイラクでも多数派であり、南部を中心に大きな勢力を持っていた。
 バース党体制は表向き世俗主義であったが、実際のところはフセインも含め、イスラーム世界全体では多数派ながらイラクでは劣勢のスンナ派主導の体制であったから、フセインは冷遇されていたシーア派がイラン革命に触発されて蜂起することを恐れた。バクル政権下の75年の合意でイラン側に渡っていたシャットゥルアラブ川の領有権を奪回しようとの野心も手伝って、フセイン政権は80年、イランを攻撃して、戦争を開始する。
 イラン革命に脅威を感じていた同じスンナ派優位の湾岸諸国や前年の革命渦中、米大使館人質事件に見舞われて、革命イランと激しく敵対していたアメリカとも利害が一致したフセイン政権は、これら諸国からの支持・援助を取り付けることにも成功した。
 ことにアメリカでは81年に成立したレーガン政権が反イランの立場から敵の敵は味方の論理に従い、第三次中東戦争以来断絶していた国交を回復した84年以降、フセイン政権への軍事援助も開始した。これは、その20年後には逆にフセイン政権を粉砕することになるアメリカのご都合主義がはっきりと現われた政略であった。
 このように、多くの有力な諸国から支持・援助を取り付けながらも、イラクはイランの徹底抗戦を前に苦戦を強いられ、結局、88年、双方による国連停戦決議受諾をもって8年にも及んだ長期戦は終結した。この間、イラク側でも最大推定50万人という大量の戦死者を出す消耗戦であった。
 こうして、ほぼ引き分けに近い形ながらも「勝利」を称したフセイン政権下のイラクは、いつしか中東随一の軍事大国に成長していた。一方で、89年以降東欧・ソ連の社会主義独裁体制が連鎖的に民主革命で倒れた出来事は、同様の体制を採るフセインに政権引き締めの必要を痛感させた。
 元来、フセインはナンバー2時代から治安機関を掌握し、その増強を図ってきた。この点では隣国シリアと同様にムハーバラートと呼ばれる治安諜報機関を中心に、アサド体制に勝るとも劣らぬ監視国家体制を作り上げていたのである。
 さらにフセイン政権は対イラン戦争の末期、並行して少数民族クルド人に対する民族浄化作戦を展開し、特に88年のアンファル作戦では毒ガスまで使用した無慈悲な虐殺で最大推定20万人近い犠牲者を出した。こうした政策はフセイン政権の本質が本来のバース社会主義を逸脱し、ナチスに近いものであったことを示している。
 ちなみに、フセイン政権がシリアから亡命保護していたバース党創設者のミシェル・アフラクは89年に死去した。フセイン政権は儀礼上アフラクを厚葬したが、彼はイラクの国政上何らの政治的影響力も有していなかった。

2015年5月14日 (木)

イラクとシリア―混迷の近代史(12)

five バース党の支配

nightアサド家独裁体制の確立
 シリアとイラクのバース党の分裂が確定した1970年代以降、20世紀末までの両国は、ハーフィズ・アサドとサダム・フセインという互いに反目し合いながらも、共通の残酷さと巧妙さにかけては20世紀史に残る二人の独裁者による長期支配の時代に入る。
 先行したのは、アサドであった。アサドは60年代後半、シリア・バース党内の「穏健派」を代表する指導者として台頭し、70年の党内クーデターで「急進派」の政権を倒して政権を掌握した。これにより、以後のシリア・バース党政権は「穏健派」のものとなる。
 しかし、ここで言う「穏健」とは、専ら社会主義的政策における内政面での「穏健」―緩和―を意味しており、対外的な「穏健」を意味しなかった。そのことは、初期のアサド政権がエジプトと共にイスラエルに侵攻した第四次中東戦争を発動して以降、対イスラエル強硬派の立場を維持したことや、隣国レバノンの内戦に介入し、その後もレバノンを間接支配し続けたことに現われていた。
 アサド政権の特質は、政権と軍中枢を人口の1割程度に過ぎないアラウィー派で固める少数派独裁にあった。そのような脆弱な政権構造を補うためにも、アサドは自身の出身基盤でもある空軍の情報部をはじめとする複数の治安諜報機関網ムハーバラートを組織して、徹底した監視国家体制を構築した。
 そうした監視体制をもってしても、その異教的な教義からアラブ世界では異端視されるアラウィー派の少数支配には限界があり、80年代に入ると、多数宗派スンナ派の抵抗・武装蜂起を招くようになる。
 その最大級のものが、1982年に西部の古都ハマーで発生した。当時、ハマーを拠点に武装抵抗活動を展開していたスンナ派イスラーム組織ムスリム同胞団が当地で革命的に蜂起し、解放区を設定したのだった。
 これに対し、アサド政権は大量の政府軍を投入して、陸と空から激しい武力攻撃を加えた。自国都市を攻撃破壊するというこの異常な軍事作戦により、数万人規模の犠牲者を出したと推定されているが、インターネットも存在していなかった時代柄、アサド政権の徹底した情報管制もあり、この「ハマー大虐殺」の全貌はいまだ解明されていない。
 アサド政権後半期で特筆されるのは、隣国イラクのフセイン政権との反目であった。共に類似のバース党系独裁体制でありながら、長年にわたる両国バース党の分裂に加え、互いにアラブ世界の盟主たらんとする二人の独裁者の野心が両体制の敵対を助長していた。
 アサド政権はイラクが当事国となったイラン‐イラク戦争ではイラン側を支持し、続く湾岸戦争ではアメリカ主導の多国籍軍を支持して、サウジアラビアにも派兵するなど、一貫してフセイン政権の弱体化を狙った。
 政権末期になると、心臓に持病を抱えるアサド大統領の健康問題が浮上してきた。アサドは政権世襲を目指しており、当初は長男を後継者と目していたが、長男が交通事故で不慮の死を遂げると、医師だった次男のバッシャ-ルを後継候補に立てた。
 こうした生前からの周到な世襲準備が功を奏し、20世紀最後の年2000年にアサドが急死した際には、バッシャールの後継大統領就任が円滑に行なわれた。社会主義共和体制としては北朝鮮に次ぐ政権世襲であった。
 このような異例が可能となったのも、アサドの30年に及ぶ執権の過程で、前述の徹底した監視国家体制と思想洗脳的な個人崇拝教育を通じ、アラウィー少数派支配というアラブ世界では独異な王朝的寡頭体制が確立されていたことによるであろう。

2015年5月 1日 (金)

イラクとシリア―混迷の近代史(11)

five バース党の支配

nightイラク・バース党の支配
 “本家”シリア・バース党に対し、後発のイラク・バース党は1963年のクーデターでアーリフ政権の実質的な基盤となるが、間もなく非バース党員のアーリフによる弾圧・排除により、しばらく閉塞せざるを得なかった。
 他方、“本家”のシリアでは66年のクーデターで急進派が党創設者アフラクを追放したのを機に、アフラク支持派であったイラク・バース党はシリアの本家から離反、対立するようになったため、以後、両国バース党は事実上別党となった。
 この頃、イラク・バース党内では軍人出身で、アーリフ政権初期に首相を務めたバクルが実力者として台頭していたが、アーリフ政権の弾圧により罷免・投獄された。しかし、党組織は壊滅することなく維持される。幸運にも、アーリフが航空機事故で急死した後に政権を継承した兄のアブドゥル・ラフマーンは優柔であった。
 そうした中、68年7月、バース党はクーデターを成功させる。このクーデターは軍内のバース党シンパ将校の支援もさりながら、この頃バクルの従弟で、側近としても台頭していた後の大統領サダム・フセインのような若手文民党員の貢献が大きかった。
 その後、二代にわたり2003年まで続いたバース党支配体制の樹立契機となったことから、クーデターの日付を取って「7月革命」とも呼ばれるこのバース党クーデターで、バクルは大統領の座に就いた。
 バクル政権はトップの大統領こそ軍出身であったが、フセインをはじめ、政権中枢者の多くが軍歴を持たない文民であり、シリアのバース党政権とは異なり、文民政権の性格が強いものとなっていった。しかし、それは政権が民主的であることを意味しなかった。
 政権は一党支配体制確立のため、ナセル主義者や共産党を弾圧した。その過程で、イラク・バース党創設者で、党を除名された61年以降はナセル主義運動を率いていたリカービーも投獄・殺害された。彼は71年、投獄中に仲間の囚人により殺害されたと公式には結論づけられたが、政権による謀殺を疑う向きもある。
 当時のバクル政権ではクーデターの翌年、ナンバー2の革命指導評議会副議長に任命されたフセインが治安機関の再編・強化に集中的に取り組み、後に自身の政権下で猛威を振るうことになる秘密警察機構を作り上げている最中であった。
 しかし、70年代をほぼカバーしたバクル政権の時代は石油ショックとも重なり、有力な産油国であるイラクは国際的な石油価格の上昇により、高い経済成長のチャンスをつかんだ。社会主義的な土地改革や福祉制度も実施され、この時代のイラクは近代史上では相対的に最も安定と繁栄を享受した時代と言えた。
 しかし、それも長くは続かなかった。野心家フセインが高齢化するバクルに代わって次第に党内及び政権内で実権を握るようになり、政権継承へ向けて布石を打っていたのだった。70年代末になると、バクルの権力は名目的なものとなり、79年には病気を理由に退任、禅譲の形で副大統領のフセインが大統領に昇格した。

2015年4月24日 (金)

イラクとシリア―混迷の近代史(10)

five バース党の支配

nightシリア・バース党の支配
 バース党“本家”のシリア・バース党が政治の前面に出てきたのは、1963年のクーデター時であった。その後、今日に至るまでの長いバース党支配の契機となったことから、クーデターの日付にちなんで「3月8日革命」とも呼ばれるこのクーデターは、党員の中堅将校で結成する党軍事委員会が主導したものであった。
 ここにはやはりアラブ連合問題が絡んでいた。その2年前のクーデターでアラブ連合からの離脱派が政権を取っていたが、63年のクーデターはアラブ連合再建派が起こしたものであった。
 しかし、63年クーデター後のバース党系軍事政権は再建のめどの立たないアラブ連合問題よりも、党創設者アフラクを奉じるアフラク派と軍将校を中心とした反アフラク派の間で権力闘争が続き安定しない中、66年、反アフラク派のリーダー格サラーフ・ジャディード将軍が主導する新たなクーデターが成功、アフラクとビータールの党共同創設者がともに追放されることで、ひとまず決着を見た。
 ジャディードは党イデオローグで文民出身のヌーレッディーン・アル‐アタッシーを大統領に擁立しつつ、自らは表向き党ナンバー2にとどまったが、穏健派のクーデターで失墜する70年まで、シリアの実質的な最高実力者として独裁的な権力を振るった。
 ジャディード主導政権は内政外交ともに妥協なき左派であり、内政面ではバース党一党支配体制を固めて社会主義的政策を敷くとともに、冷戦の只中にあってソ連と東側陣営に接近していった。またパレスティナ問題では反イスラエルの立場を明確にし、パレスティナ解放機構(PLO)を通じた解放闘争を支持するとともに、対イスラエル融和的なサウジアラビアなどとは対立した。
 このパレスティナ問題をめぐる党内対立は、67年の第三次中東戦争(六日戦争)でアラブ合同軍側のシリアが敗北し、ゴラン高原をイスラエルに占領された後、次第に表面化していき、ジャディード政権の命取りともなった。
 この頃、ジャディードの対抗馬として台頭していたのは、ジャディードと同じ少数宗派アラウィー派に属する空軍出身のハーフィズ・アル‐アサド国防相であった。アサドは66年クーデターの「同志」であったが、その後は穏健派のリーダー格となり、ジャディードと距離を置き始めていたのだった。
 両者の対立は次第に激化し、70年にジャディードがアサド派を排除しようとしたことに対抗してアサド派が忠実な軍部隊を動かしてジャディードらを逮捕することで、最終決着した。ジャディードの強硬路線を修正しようとした穏健派の立場から「矯正運動」とも呼ばれるこの無血クーデターにより、ジャディード主導政権は崩壊、以後長期に及ぶアサド独裁体制が確立されていく。

2015年4月18日 (土)

イラクとシリア―混迷の近代史(9)

five バース党の支配

nightバース党の台頭
 1960年代以降のイラクとシリアでは、バース党という独自の政党が政権党として台頭してくる点で、イデオロギー的には共通の基盤を持つようになる。「アラブ社会主義復興党」を公式名称とするバース党は、その名称どおり、アラブ世界の復興を究極目的とする世俗社会主義政党であり、大きく言えば左派民族主義政党である。
 元来はシリアで結党された政党であり、シリア人の民族主義的思想家ザキ・アル‐アルスージーが独立前の1940年に結党した秘密結社アラブ・バース党を最初の細胞とする。さらにシリア独立直後の1947年、ともにシリア人思想家ミシェル・アフラクとサラーフッディーン・アル‐ビータールらによって正式に結党された。
 アフラクとビータールはともに元共産主義者であったが、フランス植民地政策に協力的なシリアの共産党に幻滅・離反し、より民族主義的なイデオロギーに傾斜するようになったとされる。もっとも、最初にバース党細胞を結成したアルスージーは、現実の政治活動よりも思索や教育に関心があり、47年の正式結党には参加していない。
 一方、イラクでも1950年代のはじめにバース党イラク支部がフアード・アル‐リカービーらによって結党され、シリアのバース党本部と連携して活動を開始した。両国バース党の不思議さはいずれも知識人主体のマイナー政党として出発しながら、シリアでは63年、イラクでも68年には政権党にのし上がり、瞬く間に長期支配体制を確立したことである。
 その要因として、シリア、イラクともにバース党が軍の中堅将校の間で急速に支持者を得たことがある。両国ともにバース党政権はいずれも党員将校らの軍事クーデターによって成立したこと(特にシリア)が、その結果である。
 また党共同創設者の一人であるアフラクが、共産党と一線を画しながらも、移行期の暫定的政治制度としてソ連型の一党支配体制を提唱していたことから、政権掌握後の両国バース党が速やかにライバル政党の排除に乗り出したことは、長期支配の要因となった。
 他方、バース党は世俗的なアラブ民族主義という以外、イデオロギー的な軸が明瞭でないため、思想的に雑多な分子が結集しやすい反面、分裂・党内抗争も発生しやすい素地があった。特にアラブ連合への対処は歴史の浅い党を揺さぶる大問題となった。
 汎アラブ主義に基づくアラブ連合やナセルのアラブ社会主義は表面上バース党の理念とも矛盾しないように見えたが、アフラクはエジプト主導の汎アラブ主義には反対であった。一方、イラク・バース党の創設者アル‐リカービーらはナセル支持の立場を打ち出し、党内抗争が起きたが、結局リカービーは61年に党を除名され、独自のナセル主義的運動を組織するに至った。
 しかし、アフラクも時の政権がアラブ連合結成に動くと、エジプトの要求に屈して独断で解党に出ようとした。これに対し軍将校を中心としたグループが党防衛のため党内分派的な軍事委員会を作って対抗し、深刻な対立に至った。
 この対立は尾を引き、最終的には66年にシリアで起きた党内クーデターを契機に党創設者のアフラクがシリアを追放される事態となる。一方、アフラクを支持するイラクのバース党は独自にアフラクを奉じて、後に生涯にわたるアフラクの亡命を受け入れた。こうして、シリアとイラクのバース党は分裂し、長い近親憎悪的敵対関係に陥ったのである。

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