教育雑言

2017年5月19日 (金)

「無償化」の裏側

 憲法を改正して高等教育を無償化するという動きが急である。無償化の理念自体には大いに賛成である。だが、日本の高等教育は私学に多くを委ねてきた。その結果、私立大学(短大を含む)に在籍する学生の割合は8割に達するという。要するに、日本の学生≒私立大学生なのである。
 私学は授業料を収入源として成り立つ独立採算制の学校であるゆえに、経営者の教育理念に基づいた自由な教育が許される。これを無償化することは、倒産への道である。結局、日本における高等教育無償化は2割にすぎない国公立大学生向けのものとなる。
 ただ、国公立大学には「難関」が多いので、学生も全般に「優秀」とみなされている。かれらだけを無償とするなら、エリート奨学制度と化すだろう。国公立と私立の格差はいっそう広がることになる。全然平等ではない。もっとも、高校レベルで実施している私学向けの就学支援金のような制度によって授業料低減を図ることはできるが、これは本来の無償化とは異なる。
 ということで、日本で高等教育無償化は合理性を持たないと考えられる。なのに、突如無償化論が浮上したのは、9条改憲を急ぐ政権の思惑絡みとしか思えない。9条改憲と抱き合わせ販売の押し売りをしようという魂胆だろう。違うならお詫びするが、無償化論の裏側は冷静に見究めたい。

2017年4月 5日 (水)

笑顔全体主義

 日本人はなぜ無理に笑顔を作りたがり、かつ他人の笑顔を見たがるのだろうか。これは、私にとって長年にわたる謎である。
 一つの仮説は、日本は世界一幸せな国だという「地上の楽園」プロパガンダを信じることが国民の義務だからというもの。私もこの説に傾いていたが、最近疑問に思えてきた。「地上の楽園」プロパガンダならもっと有名な国が存在するが、その国と日本には相当な相違点もあるように思える。
 とすると、第二の仮説として、実は幸せになれないような要素がたくさんあるからこそ、逆説的に笑顔を作り、見たがるというもの。この仮説は実際逆説的だが、最近の惨事や不幸な出来事を見ると、こちらのほうがあり得そうである。
 どちらにせよ、あるいは第三の仮説があるにせよ、笑顔を作ることは国民の義務であり、「笑顔がない」というのはそれだけで不審者・犯罪者扱いされかねない雰囲気が充満しているのが日本である。笑顔全体主義。一方で、可笑しくもないのに浮かべる日本人の笑みは国際的には謎とされ、時として不気味に思われている。
 とはいえ、この話がなぜ教育雑言として語られるかと言えば、自身の体験と関連するからである。子ども時代の私は作り笑いが大の苦手、従って「笑顔がない」ことを親からさえよく責められ、一度などはある笑顔狂の教師から授業中に名指しで吊るし上げられたこともあった。こういう衆人監視下での屈辱の恨みは骨髄に徹するので、一生忘れることはないだろう。
 だが、今日も全国の学校では「笑顔、笑顔!」と教師たちが笑顔教育にいそしみ、テレビをつければ、作り笑いのプロたちの空虚な笑顔が並んでいるだろう。

2017年3月31日 (金)

現代の八甲田山事件

 先月末、那須で雪中訓練中の高校生らが雪崩で集団死した事件は、100年以上前、帝国陸軍兵士らが青森の八甲田山で雪中行軍訓練中に集団遭難死した八甲田山事件を思い起こさせた。今回の事件も、日本の登山史に残る悲劇となるだろう。
 今回の事件は、学校部活動を主体とする日本式競技者育成の危うさを改めて浮き彫りにした。この方式は保護者にとっては子どもに無料で競技を習得させられるメリットもある反面、厳正なライセンスを持った指導者による体系的な責任指導がなされないため、半素人指導者による安全配慮に欠けた指導により生徒らが生命・身体を損なう危険性と隣り合わせである。
 さらに言えば、既に無謀さが指摘されている今回の雪中強行訓練には、かの八甲田山事件でも見られたまさしく日本軍流の精神論先行の共通根的発想が指導者の胸中にあったのではないかと推測させる。学校体育の延長的な部活動ではありがちなことである。
 そろそろ学校至上の競技者育成法式を改め、より合理主義的な責任指導体制が整備された民間競技クラブ主体の競技者育成方式に改める時ではないか。そのためには学校部活動の全廃という大胆な改革策が必要だと思われる。

2017年2月15日 (水)

プログラミング必修化の謎

 小学校からの英語に加え、プログラミングも必修化。現代の小学生でなくて良かったとつくづく思う。それにしてもなぜ全員一律にプログラミングなのか。現代のコンピューターはプログラミング知識ゼロでも基本的な操作はできるように単純化という進化を遂げている。よってプログラミングは、プログラマーという専門職の専門技能に委ねられる。
 小学生の全員がプログラマーになるわけでもあるまいに、なぜ必修なのか理解に苦しむ。その苦しみ度は英語必修化以上である。下手にプログラミングの表面的な技能だけを早期から教え込めば、その技能を悪用する青少年ハッカーを増やすだけではないかという懸念もある。
 むしろ必修とすべきは、情報倫理とか情報リテラシーのように、小手先の技能ではない、情報そのものとの向き合い方ではあるまいか。これこそ、今後ますます進展するであろう高度情報社会で生きていく小学生世代が共通して必修すべき事柄である。

2015年10月12日 (月)

体育の非

 行政改革の時代に逆行して、二つの行政機関が新設された。一つは防衛装備庁、もう一つはスポーツ庁である。このように防衛分野と体育分野で同時(同日)の新設があったのは決して偶然ではない。元来、国防と体育は密接に関連する。なぜなら、強兵を育成するには国民の運動能力向上が欠かせないからである。
 スポーツ庁は単に五輪対策の暫定機関ではなく、常設行政機関であり、学校体育まで所管する。かねて筆者は学校教育では定番となっている体育の全員必修制に疑問を持ち、体育は任意選択制とするか、せめて個別競技を課さない健康体育に転換すべきと考えてきたが、現状は逆に競技体育の強化に向かおうとしているようである。
 体育の強制は運動の苦手な生徒にとっては、しばしば屈辱の生き地獄である。体育競技での失敗・失策がいじめの引き金になることもある。体育は音楽や美術と並び、個人の適性・志向に依存する度合いが高い分野であるので、合理的に考えて全員一律の強制はばかげているのである。
 だが、近年、武道必修化を含め、政府が音楽や美術以上に体育にのめりこむのは―「芸術庁」を新設する話は聞かない―実際、再び富国強兵的な発想が政府部内で台頭してきていることと無関係ではないだろう。
 ちなみに、今日は体育の日。これは前回の1964年東京五輪の開会日を記念した祝日だというが―ならば「五輪の日」でよい―、このような世界にも例のない内容空疎な珍祝日は迷惑千万、廃止すべきであると考えている。ついでに体育強制の廃止も願って、体育の非としたい。

2015年8月 6日 (木)

思想統制復活の危惧

 文科省・中教審は次期指導要領改定案で、近現代史中心の「歴史総合」と「公共」を高校社会科必修科目に新設する方針を示した。メディア上では論評抜きの小さな報道にとどまっているが、これは戦後教育の重大な転換点になるかもしれない。
 筆者の世代の歴史教育は先史時代からおもむろに始めて、もたもたと進み、最後の近現代史は時間切れに終わることが普通だったし、公民教育では未成年者に公民権はないという前提で、政治経済の諸制度をとおりいっぺん概観する程度のものだった。
 こうした方針がどこまで意図的だったかは不明だが、少なくとも結果的には、皇国史観と国体護持を洗脳的に注入した戦前の思想統制教育とは逆に、思想的なものから生徒を隔離する思想漂白が戦後教育の基調となっていた。
 しかし、今般の新方針では近現代史を正面から教え、18歳選挙権を前提により踏み込んだ政治教育を施そうとしている。表面的には歓迎すべきことに見えるが、そうは思えない。ここ10年ほどの教科書検定の潮流を見る限り、「歴史修正主義」や愛国主義の影響が排除されるとは考えにくいからだ。
 要するに、支配層は従来の「思想漂白」を再び「思想統制」の側に引き戻そうとしている気配が感じられる。「思想漂白」は国民を無思想に保つことで支配の安定を維持する手段として有効だったが、それでは飽き足らず、改めて「思想統制」で体制の再構築が企てられているのだ―。
 このような危惧が思想漂白世代の取り越し苦労かどうかは、いずれ文科省が示すはずの新教科の詳細内容とそれに基づく教科書検定結果を見れば、はっきりするだろう。

2015年7月10日 (金)

「いじめ対策」の無効性

 岩手中学生の自殺事件をめぐり、生徒が担任教師との交換日記に書き付けていたいじめによる自殺サインを教師が無視した疑いありということで、担任教師や学校への非難が強まっている。テレビ番組でも一昨年に立法化されたいじめ防止対策推進法が現場で生かされていないことを指弾する評論家の叱声もあった。
 しかし、私に言わせれば、いじめ問題が一本の法律で解決するという発想が浅薄だし、もっと言えば対策法自体もごまかし立法である。日本では、立法化が行政なり学校なりの担当機関が何かを対策しましたというアリバイ作りの手段であることがよくある。いじめ対策法もその一つであり、現場でもそうした法律の正体は看破されているから、真剣には受け止められていないのだろう。
 以前から主張していることだが、自殺を誘発するような深刻ないじめは、子どもの領分における差別であり、一本の法律では解決がつかない問題である。担当教員を責めたところで、そもそもいじめの本質に関する認識が教育界全体に欠けているのだから、今度もまたその場しのぎの対策と定型マニュアル化されたお詫び措置で手仕舞いとなることは必至である。教育界がいじめ認識を根本から再考するしかないが、教育界の官僚体質には多くを期待し得ない。

2015年6月14日 (日)

小学一年の魂

 不用品の片付けをしていたところ、とうに処分済みと思っていた小学校時代の通信簿が出てきた。久しぶりに恐々として開けてみると、一年次から全学年ほぼ共通していたのは、「人前で意見を発表するのが苦手」という教師の御苦言であった。たしかに、そのとおりである。克服すべき課題とされていたが、今に至るまで克服されていない。
 申し訳ないと言いたいところだが、現在ではそれほど無垢ではなくなっている。人前で意見を発表するというのは、つまり政治演説や研究発表のような口頭での意見表明である。学校という場では、とかくこうした口頭表現が至上視されがちで、人前で大きな声で発表できる子は良い子という通念がある。これぞ、まさに西洋的なロゴス=音声言語中心主義の現われである。
 表現法には、音声によるものと、非音声である文字や図像、ジェスチャー等によるものとがあるが、どれも等価的な表現方法であり、人がどの方法で表現するかは各自の適性と選好の問題である。筆者の場合、文字による表現は小学生時から比較的得意で、40年を経てこんな書き物をしているのも、その延長なのだろう。しかし口頭表現に優位性を置く学校では、文字表現はさほど高く評価されないのだ。
 三つ子の魂百までではないが、小学一年の魂はほぼ生涯不変と見える。であれば、学校は小学生時からすでに発現している一人一人の適性を伸ばす場であるべきで、全員に同じことができることを強制する場であるべきではない。だが、画一性を共通項とする近代的な学校制度に、そのような広い度量は本質的に期待できないだろう。

2015年5月 5日 (火)

社会性再考

 学校は教科学習のほか、社会性を涵養することも重要な役割と考えられている。そのため、少なくとも義務教育課程に通信制はなく、通学制が当然とされている。そして、学校現場でも「非社会的」な孤立生徒は「反社会的」な非行生徒とはまた違った意味で「問題児」とみなされやすい。
 実のところ、筆者もそのような非社会的生徒の一人として、しばしば「問題視」されたものである。生徒は教師や親から「問題視」されることで、自分に自信を失い、ますます社会性を喪失していくという悪連鎖に陥る。しかし、社会性というものをそこまで絶対視する必要があるのか、疑問に思っている。
 人間は類としては高度な社会性生物ではあるが、個々の個体としては社交型と非社交型とに大別されることは、おそらく人種・民族の違いを超えた真理である。そうした個体間の性格特性の大きな差異もまた、人類という生物の特徴である。人類は社会性生物だから非社交型は人間として欠陥ありと決め付けるのは早計である。
 ヒトなら職業に相当する役割規定が生まれつき絶対的に決定付けられているアリやハチのような社会性生物とは異なり、ヒトはある程度まで任意に職業を選択することができるので、各自の性格特性に合った職業を選択すればすむことである。非社交型なら、社交性を要しない職を選べばよく、職業選択でミスマッチを起こすと、ストレスや精神病理の原因ともなる。
 となれば、学校に社会性涵養といった役割を求めることはきっぱり放棄し、義務教育課程から通信制を設置して、通学/通信を選択的としても問題はない。そうすれば、学校が苦手な子どもも大いに救われるはずである。通信制小学校―。存在するなら、入学し直してもいいくらいである。

2015年4月12日 (日)

大学にも触手が

 国旗・国歌の公立小中高校行事での強制を追求してきた政府がついに国立大学にも強制しようと乗り出してきた。とはいえ、大学の場合は「大学の自治」という憲法上のいまいましい名分があるため、通達などを通じた直接の統制はできず、非公式な「要請」という術策による。
 しかし、近年は学長の権限強化や研究資金の配分競争などを通じて、大学の自治を骨抜きにし、政府の間接統制を強める政策が強まっている時勢であるから、「要請」の圧迫効果は小さくない。実際、「要請」を受け入れない大学への研究資金配分を減らすなどの冷遇措置で圧力をかけることは十分に可能である。
 大学のような自治権を持たない小中高を超えて、自治権を持つ大学にまで政権が手を伸ばしてきたのは、近年の歴史逆行的な流れが一線を越えようとしていることを意味する。戦前もそうだったように、権力が大学に触手を伸ばしてきたときは、全体主義化の重要な兆候である。
 今のところ、さすがに政府も私立校には小中高を含め統制を手控えているようだが、今後は安心できない。私立でも学校教育法上の学校として認可され、私学助成の対象である限り、憲法に言う「公の支配」を受けているとされる以上、大学と同様に国旗掲揚・国歌斉唱を「要請」できるという屁理屈もひりだせるからだ。
 権力にすり寄るマスメディアと同様、私立校が自主的に権力にすり寄っていく可能性も含め、全体主義的潮流は今後、私立も巻き込んで激流になるだろう。そういう流れに乗って育成された生徒・学生たちが社会の中心になる30年後にはどんな社会になっているか、想像するだに恐ろしい。学校教育の大きな影響を受けない不登校児や落第生は、かえって救いである。

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