〆関東通史―中心⇔辺境

2015年4月14日 (火)

関東通史―中心⇔辺境(跋)

十七 近現代の関東

 関東の概念は、これまで概観してきた通史の中で、幾度か変遷している。中世には東北を含めた東日本全域を指したこともあるが、本連載で前提としてきたのは、江戸時代に確立された「関東」の概念である。
 すなわち、それは江戸を防衛する箱根・小仏・碓氷の三関以東のいわゆる坂東八国であり、これが明治維新を経て、ほぼ今日の一都六県で構成される関東地方の概念に引き継がれている。
 明治維新後改めて全土の首都となった「東京」は江戸の遺産を継承したとはいえ、それまでの幕府の首府であった時代とはその位相を異にしている。最も大きな違いは、天皇が移り住み、「帝都」となったことである。
 「東京」という名称は、読んで字のごとく「東の京」という趣意で、「西の京」である京都を意識したものである。この新地名はすでに幕末前期の国家主義的思想家・佐藤信淵〔のぶひろ〕の主著『混同秘策』で提唱されていたというが、「江戸」とは異なり、歴史を持たない人工的な地名である。
 江戸時代には事実上まだ政経分離的に江戸と大坂が両都的な機能分化を保っていたが、天皇が在所する「帝都」となった東京にはすべてが集中するようになり、単なる政治首都ではなく、完全首都となった。
 こうして帝都東京を中心とする関東は、明治維新体制において、大日本帝国の核心地域として開発が進められ、人口集中も進んでいった。大正時代の関東大震災は、東京を中心に甚大な被害をもたらすが、これを機に遷都されることもなく、速やかに復興されていった。
 第二次大戦の敗戦による壊滅を経ても、東京を首都とする関東中心構造は不変であり、関東は高度経済成長の集中的なエンジンとなり、地方からの人口流入もいっそう増大した。この間、首都機能分散も叫ばれてきたが、本質的には進んでいない。
 関東中心構造は歴史的にも固着したかに見えるが、極度の一極集中には限界も見え始めており、未来永劫にこの構造が不変であるという保証はない。今、大阪を「都」に格上げすることを推進する政治勢力が大阪の地方政治を席巻しているのも、単なるブームを超えた地殻変動かもしれない。
 他方、日本本土の中間地点に当たる東海地方は、興味深いことに近世戦国期に順次「天下人」=最高執権者となった織田、豊臣、徳川の三氏を連続して輩出したにもかかわらず、首都が置かれることはなかった。将来改めて人工的に新都を設ける場合、東海地方は潜在的候補地となるかもしれない。 
 いずれにせよ、関東は中心と辺境の間を何度も往復してきた。関東が再び中心でなくなる時、日本の歴史はまた大きく動くであろう。

2015年3月30日 (月)

関東通史―中心⇔辺境(15)

十六 幕末・維新の関東

 周知のとおり、江戸幕藩体制は250年以上にわたり揺らぐことなく持続したが、19世紀半ばを過ぎると、にわかに終焉が近づいた。この「幕末」と呼ばれる体制最後の時期、関東は再び中心としての地位を失いかけたことがある。
 幕府は従来、一度も遷都することなく、江戸を首都として存続してきたが、幕末に欧米列強の開国圧力の中で体制が揺らぐと、京都の朝廷の権威にすがって体制延命を図るようになった。結果として、それまでは京都所司代を通じて中央の監視対象となってきた京都に政治的な重心が移っていく。
 最後の将軍・徳川慶喜は朝廷との連携・連絡関係を深めるため、将軍在任中は畿内に常駐し、幕臣も京都に集結させ、政権の実質的な京都移転を推進しようとしていた。これにより、政治的な中心が京都に移り、事実上の遷都の様相を呈していた。
 もし慶喜政権が続き、狙いどおり幕藩体制が延命されていたとしたら、完全な遷都が実現し、江戸幕府から「京都幕府」に転換していた可能性もあったろうが、歴史の進路はそうはならなかった。
 幕藩体制に終止符を打った維新政府は王政復古により天皇中心の政治体制を構想しており、その場合、さしあたり千年以上続いてきた王都の京都を首都として再興するのが自然なはずであった。しかし、初期の実質的な最高実力者・大久保利通は大坂遷都論を提唱し、公家勢力の反発を招いた。
 一方、江藤新平らは東日本にも「王化」を及ぼすという観点から江戸を帝都とする「東西両都」の折衷案を出し、支持を得た。この案に沿って、慶応四年7月に「江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書」が発布された。これは江戸を東京と改称しつつ、天皇が東京で執務することを明確にした宣言書であった。
 この施策は京都にこだわる保守的な公家勢力を慰撫するため、形の上では「両都」論に沿っていたが、天皇が東京に移ることにおいては、事実上東京を首都と定めること―東京奠都―に等しく、結局のところ江戸がそのまま維新体制の首都として継承されたことを意味する。
 こうして明治天皇は明治元年10月に初の東京訪問(行幸)を行い、いったん京都へ帰還した後、明治二年以後は正式に東京へ移り、その後も大正、昭和、平成と三代にわたり東京が天皇の居所となっている。
 この結果、維新後の関東は江戸改め東京を首都として引き続き日本の政治経済の中心地としての位置を今日まで維持していくこととなった。これはひとまず現実的な策ではあったろうが、明治政府の中央集権化とあいまって、その後の一極集中構造の元を作ったことも否めない。

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2015年3月17日 (火)

関東通史―中心⇔辺境(14)

十五 「政東経西」の近世

 今日、首都東京を中心とする関東は、日本の政治経済、そして人口の大半が集中する「一極集中」の緩和が永遠の宿題となるほど偏向した中心地となっているが、このような現象は近代以降、それも主として第二次世界大戦後のことにすぎなかった。
 江戸幕府の体制は過去の二つの幕府と比べても強大な権限を幕府が掌握し、全国の領主大名を中央で統制しつつも、完全な中央集権制には移行せず、大名領地内では自治を認め、領地の経済開発も基本的に領主に委ねる封建的な分権体制を維持したため、大藩の藩庁所在地たる城下町はそれぞれの地域の小さな「首都」であった。
 江戸開府により江戸を中心とする関東が中心地としての地位を取り戻したとはいえ、それは政治的な中心にとどまり、経済的にはなお周縁的、良くて副次的な地位に甘んじていた。経済的な中心はなおも関西にあったのだった。
 大坂の有名な通称「天下の台所」は、まさに大坂が全国の経済的な屋台骨であったことを象徴している。堺を中心に従前から商業都市として繁栄していた大坂は江戸開府以前、豊臣氏が事実上の政治的な首都として拠ったこともあり、近世日本の政治経済的な中心地として急速な発展を遂げていた。
 大坂は、政治的な面では間もなく江戸に首都の地位を譲るが、経済首都としての地位は容易に譲らなかった。諸藩も大坂に藩の経済代表部である蔵屋敷を集中的に置き、年貢米や特産品の販売などの公営商業活動を盛んに展開した。
 もっとも、幕府もこうした経済都市大坂の枢要性は十分に承知していたからこそ、大坂城に拠った豊臣氏が日本の経済を掌握して強大化し、事実上半独立勢力と化すことのないよう早期に根絶したのであろう。
 幕府は豊臣氏滅亡後間もなく、大坂を幕府直轄地として忠実な譜代大名から任命される大坂城代を派遣し、大坂の市政に当たる大坂町奉行にも中央直轄で幕府の役人を送り込む徹底した中央管理下に置いた。
 こうして経済首都大坂も江戸の行政管理下に置かれていた限りでは、江戸が経済的にも全国の中心地と言えなくもなかったのであるが、実質的に見れば、近世日本は政治首都(江戸)と経済首都(大坂)が機能的に分かれており、言わば「政東経西」の状態にあったと言うほうが正確であろう。

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2015年3月 9日 (月)

関東通史―中心⇔辺境(13)

十四 近世の関東②

 史上初めて江戸を首都に定めた幕府が過去の二つの幕府と異なっていたのは、各地の大名を封建領主として安堵し、領内自治を保障しつつ、大名の布置を中央で人事異動的に統制する形で封建制と集権制とを使い分ける巧妙さにあった。
 結果として、北は北海道から南は鹿児島まで藩の数は300近くにも及び、その数は藩の随時統廃合により一定しなかったが、幕府の根幹地関東の大名布置状況を見ると、一見ランダムだが仔細に見れば巧妙な統治戦略が見えてくる。
 まず首都である江戸が幕府直轄都市となることは当然であったが、北関東では東北との境界を成す水戸に徳川一族の親藩を置いて幕末まで固定し、仙台の伊達氏をはじめ外様の大大名がひしめき、歴史的にも反中央の気風が強い東北地方に睨みを利かせた。
 また北関東では、栃木の喜連川藩に依然名望のあった足利将軍家縁戚の喜連川氏を事実上の大名格で幕末まで固定し、御所号まで許して敬遠する形で、本来徳川氏が地縁を持たなかった関東地方の支配の正当化に利用した。
 一方、東海・西日本方面への出口となる関東南部の小田原藩には徳川氏最古参の忠実な譜代大久保氏をほぼ固定し、関東防衛の要となる箱根関所の管理運営も委ねていた。また東海・西日本方面へのもう一つの出口とも言える甲府は、当初親藩領とされ、一時柳沢氏が功績から譜代に取り立てられ、入部した時期を経て、最終的に幕府直轄領(天領)として押さえた。
 こうして直轄首都江戸を中心に、関東の北と南の辺境を最も信頼できる身内ないし古参大名で固めるか、天領とする一方、首都圏は広い範囲を直轄領として治め、当初はやはり古参家臣の関東代官伊奈氏(旗本)に世襲管理させ、お家騒動による伊奈氏改易後は関東郡代を設置した。
 その他の周辺諸藩については固定せず、転封による入替を頻繁に行なった。例えば、武蔵国中央に位置し、江戸にも近く、「小江戸」の通称もあった川越を見ると、譜代の酒井氏(雅楽頭家)に始まり、幕末の譜代松井松平氏に至るまで、譜代や親藩を中心に七家が入れ替わりで藩主を務めている。
 これは天領外の首都圏地域にあっても、転封入替を繰り返し、たとえ身内であれ特定大名の土着支配を許さず、政権の中枢が置かれる関東の支配を確保する狙いによるものと考えられる。その後の歴史を見れば、この戦略は的中したと言えるであろう。

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2015年3月 2日 (月)

関東通史―中心⇔辺境(12)

十三 近世の関東①

 関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、織豊両氏とは異なり、仮冒の疑い強い源氏系新田氏流世良田氏の出自を称したため、源氏長者の名義で征夷大将軍に就任し、間接的に鎌倉・室町幕府の継承者として、室町幕府滅亡以来およそ30年ぶりに幕府体制を復活させた。
 しかし当時、源氏系足利将軍宗家は事実上断絶していたものの、最後の古河公方であった足利義氏の娘・氏姫の再婚相手となっていた喜連川頼氏(小弓公方・足利義明の孫)が存命しており、封建的な血筋論からすれば、彼こそが源氏長者にふさわしかった。
 家康もそのことは意識していたと見え、頼氏が関ヶ原の戦いには参戦せず、何の戦功も挙げていないにもかかわらず、足利氏の本貫にも近い栃木の喜連川に領地を安堵し、石高では旗本級ながら実質上大名格で処遇し(喜連川藩)、徳川氏と明確な主従関係も形成せずに、「御所」号すら容認したのであった。
 こうした厚遇には、古河公方滅亡後も関東地方に依然残されていた鎌倉公方足利氏の名声を、本来は東海地方出自の徳川氏による関東中心政権の正当化に利用しようとする狙いも込められていたのであろう。
 ところで、筆者の学校時代には、「江戸は、徳川幕府が置かれるまでは、辺境の漁村にすぎなかったが、徳川幕府の積極的な開発政策により首都として発展し、今日の東京の基礎を築くに至った」というのが通説であったと記憶するが、このような見方は、現在修正されている。
 専ら徳川氏の功業を強調する江戸発展史は徳川幕府の情宣によるところが大きいと考えられるのである。実際、江戸が何もない辺境地にすぎなければ、たとえ秀吉から領地として安堵されたものだとしても、本来は織豊両氏と同様、東海地方に本拠を持つ家康が江戸を自身の幕府の首府に定めたはずはなかろう。
 前にも述べたように、江戸は幕府開祖の家康が入部する以前、江戸氏による原初的な開発と江戸氏を駆逐した太田氏による江戸築城、それを引き継いだ上杉氏、さらに後北条氏の時代を通じて、関東の物流中継地の城下町として発展しつつあった。目ざとい家康はそうした新興都市江戸の将来性に目を付けたと思われるのである。彼の先見の明は、その後、武家政権としては最長の250年以上にわたる安定した支配体制の繁栄を保障したのであった。
 ちなみに、江戸の開発に先鞭をつけた江戸氏(平氏系秩父氏流)は江戸を追われた後、当時は江戸区域外であった現世田谷区喜多見に退去し、後北条氏家臣を経て、小田原征伐後は喜多見氏に改姓して徳川氏家臣となった。時代下って5代将軍綱吉の下、時の当主・喜多見重政(養子)は綱吉の側用人として重用され、一代で譜代大名に取り立てられ、喜多見藩を立藩するも、気骨ある側近であったらしい彼はたびたび将軍の意に反する進言をしたことから、将軍の不興を買い、わずか6年で改易、追放されている。
 この江戸=喜多見氏をはじめ、秩父氏系の一族は中世以来、河越(現埼玉県川越市)の河越氏や葛西氏、豊島氏、蒲田氏など、今日でも首都圏の地名として残る江戸周辺要地にも割拠し、原初的な開発を担ってきており、江戸を本拠に定めた徳川幕府による江戸とその周辺地域の開発も、そうした先行開発の基盤の上に発展せられたものと言える。

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2015年2月25日 (水)

関東通史―中心⇔辺境(11)

十二 江戸開府まで

 後北条氏が関東を支配した時代は、ほぼ織豊政権の時代に相当する。この時代の特徴は幕府が存在しなかったことである。織豊両氏ともに、室町幕府の滅亡以来、権威を失っていた征夷大将軍の地位をあえて求めず、軍事力を背景に実質的な最高実力者として統治したのであった。
 そのため、この時期の日本の首都の位置はかなり曖昧であった。確かなことは織豊両氏ともに本貫は東海地方にあり、少なくとも関東を本拠に統治しようとする構想はなかったことである。中でも豊臣秀吉は関白に任官し、朝廷の政治機構に入り込む形で統治したため、大坂と京都を往来するような形で畿内を本拠にしていた。
 一方、後北条氏は小田原城を本拠に足利氏系古河公方の支配権を乗っ取り、関東支配を着実に拡大していくが、織田信長や新興の徳川家康にも対抗するだけの力はなく、二度にわたり同盟を結ぶも決裂した甲斐武田氏対策からも両者と結んで織田・徳川連合軍の甲州征伐にも協力している。
 とはいえ、信長横死の時点での後北条氏の版図は、本拠の相模を中心に西は伊豆から駿河の一部まで、東は武蔵、下総、上総北部から、上野、下野や常陸の一部にまで及ぶ総計250万石近い領域に及び、まさに関東の支配者であった。
 このまま順調に発展すれば、関東を基盤にして全国制覇もあり得る勢いであったが、西には織田氏を継いだ豊臣氏の強力な支配体制が形成されていた。後北条氏もさしあたり秀吉には家格維持と領地安堵を条件に表向き恭順の意思を示したが、時の当主・北条氏政の本心は違っていたようである。
 一方、関東を含む全国制覇を狙う秀吉も、後北条氏の関東支配をすんなり容認するつもりであったとは考え難く、両者の武力衝突は予定されていたものであった。
 1590年の有名な小田原征伐は通常、勝者の秀吉側が掲げた惣無事令違反という大義名分に立って「征伐」と呼ばれるが、実際のところは、「征服」と呼ぶにふさわしいものであった。その詳細な経緯にはなお未解明な部分も残されているが、秀吉が求めた氏政・氏直父子の上洛拒否(ないし引き延ばし)を反逆と決めつけた秀吉が軍を動員して小田原に攻め込み、後北条氏を降伏させたものであった。
 結局、氏政は切腹、氏直は助命のうえ高野山へ追放となり、後北条氏の関東支配はあっけなく終焉した。氏直は後に赦免され、一万石の小大名に封じられるも、間もなく死去した。後北条氏の領地は徳川家康に与えられ、小田原城にも徳川腹心の大久保氏が入城した。これにより、徳川氏の関東支配の基盤が築かれる。
 秀吉が朝鮮侵略の最中に道半ばで死去した後、後継者を決する関ヶ原の戦いを徳川勢が制して、江戸を本拠に幕府を開府すると、江戸が新たな日本の首都となり、ひいては江戸を中心とする関東が日本の政治経済上の中心地としての地位を鎌倉幕府滅亡以来およそ300年ぶりに回復するのである。

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2015年2月17日 (火)

関東通史―中心⇔辺境(10)

十一 後北条氏の関東支配

 享徳の乱後の古河公方が支配する古河府は室町幕府から事実上独立した関東地方政権と化していくが、一方で内紛と分裂に見舞われた。特に第3代古河公方・足利高基とその弟の義明が対立し、義明が1517年に千葉の小弓〔おゆみ〕城を奪取して、ここに陣取り、小弓公方を称したことで、古河公方は分裂した。
 この分裂状態は20年以上に及び、最終的に高基の息子の第4代古河公方・足利晴氏が1538年、国府台にて小弓勢を破ってようやく終結した。
 この国府台合戦で晴氏を支援し決定的な役割を果たしたのが、北条氏綱であった。彼が属したいわゆる後北条氏は本来は桓武平氏系伊勢氏で、元の領地は備中(現岡山県井原市)にあり、関東とは無縁の一族であった。
 かれらが関東に進出したきっかけは、応仁の乱の後、氏綱の父早雲が駿河守護今川氏の家臣として駿河へ下向したことにあった。東国に拠点を移した早雲はその後、後北条氏の根拠となる小田原城を地元国人領主であった大森氏から奪取して、まずは相模の支配者として定着する。
 早雲の息子・氏綱は本来北条氏とは無関係であるにもかかわらず、滅亡後も関東ではなお名望を残していた鎌倉幕府の執権北条氏と同姓に改姓し、北条氏を名乗るようになっていたのであった。氏綱は形式上は後北条氏二代目とされるが、北条氏を名乗り、主家の今川氏からも独立し、自立的な戦国大名に躍進したのは氏綱の代からであった。
 国府台合戦で古河公方が支援を要請したのも、こうした氏綱の強勢に期待してのことであったが、氏綱はこれを武蔵・房総方面への勢力圏拡大に利用することをためらわなかった。彼は論功として晴氏から非公式に関東管領の地位を得るととともに、娘を晴氏に嫁がせて、古河公方家の姻戚となった。こうして古河府に深く食い込んだ氏綱はなし崩しに古河府を操縦するようになる。
 氏綱没後、正式の関東管領である山内上杉氏との対立・衝突が続くが、最終的には対武田氏防備の必要から上杉氏との間に同盟が成立し(1569年越相同盟)、氏綱の孫にあたる氏政の時、古河府は完全に後北条氏の統制に下る。最後の第5代古河公方・足利義氏の母は氏綱の娘であり、義氏は後北条氏の傀儡も同然であった。
 長男が早世した後、義氏が後継男子を残さず死去すると、後任の公方は空席のまま古河府は事実上消滅し、後北条氏の関東支配が名実共に確立された。かくして、後北条氏が豊臣氏に滅ばされるまでの関東は、本来西国武将である桓武平氏系大名の支配下で自立するといういささかねじれた立場に置かれるのであった。

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2015年2月10日 (火)

関東通史―中心⇔辺境(9)

十 古河公方の「独立」

 京都の室町幕府と鎌倉府が並立する「東西幕府」体制は、第4代鎌倉公方・足利持氏が幕府の権威を背景に鎌倉府をもしのぐ実力を備えるに至った関東管領・上杉氏及び室町幕府と対立・敗北し(永享の乱)、鎌倉府がいったん廃止されたことで止揚されたかに見えた。
 しかし、幕府が持氏の息子成氏〔しげうじ〕に鎌倉府の再興を許したことが裏目に出た。第5代鎌倉公方・足利成氏が1455年以降、再び上杉氏及び室町幕府と武力衝突した享徳の乱を機に、本格的な東西分裂体制へ移行する。
 成氏は、乱勃発の年に茨城の古河〔こが〕に入り、幕府軍の攻撃で本拠の鎌倉が陥落すると、そのまま古河を本拠地とし、事実上鎌倉府の機能を古河へ移転したのであった。
 享徳の乱は最終的に幕府との間に和睦が成立するまで30年近くも続く関東を舞台とした事実上の東西内戦であった。成氏は配下の忠実な関東武士団を従えてこの長期戦を耐え抜き、1483年、実質勝利に近い和睦を導いた。
 この和睦は「都鄙合体」と称され、表向きは関東の再統合を謳っていたが、成氏は鎌倉に復帰せず、乱の間に新たな基盤を固めていた古河にとどまり、実質上古河府と呼ぶべき統治機構を構築していた。以後、成氏の子孫が古河公方を継承していき、関東における事実上の独立地方政権化していく。
 現在の古河市は栃木県と埼玉県とにはさまれた人口14万人ほどの地方都市であり、一時的とはいえこの地が関東の「首都」だったとはにわかに信じ難いが、成氏がここに拠点を移したことには理由があった。
 最も大きいのは、かねてより鎌倉公方の領地である御料所が鎌倉周辺とともに、古河を中心地とする下河辺荘にあり、ここに鎌倉公方配下の有力武将らの本拠もあったことである。古河は利根川をはじめとする関東の基幹水系が集まる場所でもあり、陸上交通が未発達な時代に枢要な交通手段であった水上交通の要所であったことから、この地に鎌倉公方家が領地を有したことには、経済的な理由もあったであろう。
 ちなみに、後世日本の首都へと飛躍する江戸もこの頃、新興都市として発展を始めていた。江戸は元来、坂東平氏系秩父氏から出た江戸氏の本拠地として、開発が始まった。江戸氏もまた鎌倉公方に仕えたが、関東管領上杉氏の一族扇谷上杉家の家宰であった太田道灌に追われ、本拠地を喜多見(現東京都世田谷区)に移した。
 道灌は江戸氏居館跡に江戸城を築城するが、享徳の乱で上杉・幕府方についていた太田氏が戦略上築いたものであった。以後、江戸は関東における物流の中継地として発展し始め、1486年の道灌暗殺後も主家上杉氏が引き継いで、後の繁栄の基礎を築いていった。
 ただ、さしあたり江戸は未来に向けて発展途上の都市であり、しばらくは足利氏が根拠地とする古河が関東の「首都」として東の政治・経済・文化全般をリードする体制が続いていくであろう。

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2015年2月 1日 (日)

関東通史―中心⇔辺境(8)

九 「東西幕府」の時代

 執権北条氏に乗っ取られた鎌倉幕府体制は、承久の乱での勝利により一応全国支配を確立するが、元寇という空前の「有事」対応を機に、北条得宗の独裁が強まり、御家人層の不満が募っていく。
 そうした機会をとらえ、閉塞していた朝廷勢力が14世紀に入って動き出す。後醍醐天皇という異色の闘争的な天皇を得たことで、この動きが加速していき、1333年、鎌倉幕府は打倒された。北条一族も滅亡した。
 これによって後醍醐天皇を頂点とする京都の天皇王朝が権力を奪回したため、鎌倉を首都とする関東は再び中心の地位を京都に譲ることとなった。後醍醐天皇は、関東統治のため、鎌倉将軍府を置くが、これは朝廷の関東支配機関にほかならなかった。
 しかし、周知のように、後醍醐天皇の建武新政は評判が悪く、間もなく倒幕の立役者だった足利尊氏の離反を招き、南北朝時代が始まる。尊氏の属した足利氏は源義家の孫に当たる源義康を家祖とする源氏一門であり、源氏宗家断絶後は、源氏準宗家としての家格を持つ名門であった。
 従って、源氏系足利氏当主の尊氏が北朝を擁して征夷大将軍となって開いた室町幕府の成立は、源氏勢力が再び権力を奪回した意味を持っていた。
 ただ、足利氏の本拠はその苗字のとおり、栃木の足利であったところ、尊氏がゆかりのない京都に幕府を開いたのは便宜的な理由によるもので、当初、一門の間では幕府を引き続き鎌倉に置くべしとする意見も見られた。
 両論ある中で、尊氏としては、朝廷分裂という不正常な事態下にあって、北朝をバックにつけつつ、これをコントロールするためにも、ひとまず朝廷と同じ京都に幕府を置くという現実的判断をしたものと思われる。
 そのため、尊氏は一方では鎌倉にも出先機関として鎌倉府を設置し、四男の基氏を長官たる鎌倉公方に任命した。以後、鎌倉府は基氏の子孫が世襲統治したため、建武の新政下の鎌倉将軍府とは異なり、初期から独立の気風が強く、実質上「東西幕府」のような様相を呈した。
 このような東西二分体制は、15世紀に入るといっそう顕著となり、鎌倉府は独自に関東武士らと主従関係を結ぶようにすらなった。こうして、室町幕府下の関東はなし崩しに独立性を取り戻していく。

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2015年1月23日 (金)

関東通史―中心⇔辺境(7)

八 鎌倉幕府の成立

 源平合戦を制した源頼朝が開いた鎌倉幕府の成立年は、筆者の学校時代には1192年とされ、「いいくにつくろう」という語呂合わせで記憶することが慣例となっていたものだが、近年はそれより早い1185年を成立年とする説が通説化しつつある。
 その理由として、1192年は頼朝が征夷大将軍に任命された年度であるが、それは形式的なことで、幕府の初期の機構は実質上1185年までに出揃っていたため、同年をもって幕府成立年とすべきだという。
 実際のところ、頼朝の政権は彼が倒した平氏政権のように、既存の律令制機構をクーデターで乗っ取るのではなく、関東に全く新しい体制を構築する革命政権のようなものであったため、統治機構も政権掌握後時間をかけて整備されていったものであり、明確な成立年度を確定することは本来困難である。
 いずれにせよ、源氏政権はそれまでの天皇中心の王朝貴族政治から武家が政治を主導する新しい体制であった。その権力中枢も、頼義以来源氏の根拠地となった鎌倉を首都とする関東に置かれたが、このことは、長い歴史的なスパンで見れば、関東が縄文時代以来(!)、再び日本の中心としての地位を奪還したことを意味する。
 とはいえ、発足当初の源氏政権は関東に偏った地方政権の域を出ておらず、頼朝を征夷大将軍に任命した朝廷としても、頼朝に全権を移譲するつもりなどなかった。こうした朝廷と幕府のせめぎ合いが武力衝突に発展した承久の乱までは、幕府が支配する関東と依然朝廷が支配権を残す関西に分裂していたと言ってもよかった。
 一方、幕府の側でも頼朝の死後、側近で舅でもあった北条時政が執権として実権を握った。息子の義時の代には北条氏が世襲する執権が幕府の実質的な最高実力者となり、三代将軍実朝暗殺で源氏宗家が早くも断絶したことから、以後の鎌倉幕府は形だけの摂家・宮将軍を操る北条氏のものとなる。
 前回指摘したとおり、北条氏が公称どおりに平氏系だとすれば、平氏が今度は関東で再び政権を掌握したに等しいことになるが、北条氏の出自は不確かである。しかし、鎌倉幕府の成立には、坂東八平氏のような平氏系氏族が貢献しており、北条氏被官(御内人)となった諸氏にも平氏系が多く含まれていた。
 北条氏主導の鎌倉幕府は、承久の乱に勝利すると、朝廷を統制下に置き、全国的な支配力を確立した。厳密には、関東が中心としての地位を奪還したのは、この時以降と言える。しかし、西の朝廷も失地挽回の意志と能力をまだ完全に失ったわけではなく、北条氏独裁が強まる中で、倒幕の機運も生まれ始めるのであった。

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