〆ハイチとリベリア

2015年8月 7日 (金)

ハイチとリベリア(連載最終回)

十一 ハイチ大震災を越えて(続き)

大震災と復興
 米国‐国連の介入による軍事政権崩壊後のアリスティド‐プレバル時代は、ハイチにとって国家再建の時代であった。その間、特に第二次アリスティド政権下では再びの騒乱もあったが、この時代はハイチ史上稀有の左派政権の時代でもあり、医療や教育面での成果が出始めていた。
 2010年1月の大震災は、その矢先、最悪のタイミングで発生した。最大震度は翌年の東日本大震災よりも弱いM7.0と推定されたが、直下型であったうえ、耐震対策もないに等しいハイチでは壊滅的被害をもたらすのに十分な規模であった。
 この地震により、大統領府や国会議事堂等の中枢機関も倒壊し、政府機能は完全に麻痺した。犠牲者は全人口の五分の一を越える20万人余り、被災者は三分の一に当たる300万人とされる空前規模の大震災であった。
 ただ、04年以来、国連の平和維持活動としてハイチ安定化ミッションが展開されていたことは、国際社会による復旧・復興支援プロセスを迅速に開始する上で有効に作用したことが救いであった。
 2010年は大統領選の年でもあり、プレバル大統領は再選禁止規定により退任することが予定されていた。壊滅状況の中で行なわれた大統領選で当選したのは、政治経験が全くないミュージシャン出身のミシェル・マーテリであった。
 マーテリ政権の誕生は、二つの点で画期的であった。一つはハイチ史上初めて前政権が選挙を経て平和裏に野党政権に移行されたこと、もう一つは従来、軍人かテクノクラートが就くことがほとんどであった大統領に芸能人が就いたことである。後者は従来型のエリート政治に対する民衆の幻滅を反映していた。
 しかし、大統領としてのマーテリは保守系に近い路線を敷いた。実際、彼はかつて亡命中のアリスティドの帰国復権に反対したこともあった。特に論議を呼んだのが軍の復活を掲げたことで、これは人権蹂躙的な軍事政権の記憶がまだ新しいハイチでは強い批判を受け、実現していない。
 12年には予定されていた上院中間選挙を延期したことや、汚職疑惑が持ち上がったことなどを背景に、13年以降、反政府デモが活発となった。15年初頭には、ついに大統領辞任を求める大規模デモが発生、警察との衝突が起きるなど、ハイチの政情は再び不安定化している。
 再選禁止規定によりマーテリ政権は16年には終了し、新政権が発足する運びであるが、先行きは不透明である。震災から5年を経て移り気な国際社会の関心は薄れ、復興の歩みも遅々としている。
 現状では、政争の的にもなってきた国連ミッションの撤退は困難で、当面は国連管理下で復興を進めることが新政権の任務となることに変わりない。エボラ禍を克服しつつある西アフリカのリベリアとともに、大西洋を隔てたハイチとリベリア二つの解放奴隷国家の存亡が注目される。

2015年7月29日 (水)

ハイチとリベリア(連載第33回)

十一 ハイチ大震災を越えて(続き)

アリスティドとプレバル
 米軍・国連の民主化介入を経て、アリスティドが大統領に復帰した1994年から2011年までのおよそ20年間のハイチは、アリスティドと彼の支持者であったルネ・プレバルがほぼ交互に政権に就いたため、アリスティド‐プレバル時代とも言える時期を画した。
 アメリカの意向もあり、クーデター前の残任期2年足らずでいったん退任したアリスティドの後任として95年の大統領選で当選したのが、91年クーデター前のアリスティド政権で首相を務めたプレバルである。
 プレバルは農学専門家であったが、63年、当時のデュバリエ独裁政権に追われて一家で海外亡命を余儀なくされた。亡命中のプレバルはニューヨークでウェイターをするなどの苦労もあったが、帰国後は政府機関での勤務を経て、貧困者向けの慈善活動をする中で、アリスティドの知遇を得た。
 こうした履歴を持つプレバルは、元司祭の情熱的な政治運動家だったアリスティドとは対照的に、テクノクラート的な性格が強く、実務手腕に長けていた。その点では、亡命経験も含め、リベリアのサーリーフ大統領と似たタイプの政治家と言えた。
 一期目のプレバルは経済改革に取り組み、国際社会が求める構造調整や民営化などの新自由主義的な政策を導入した。そのため、左派のアリスティドやその支持者とは対立するようになり、議会との協調に行き詰まると、99年には議会を解散し、政令統治に移行するなど、一期目後半は独裁色が強まった。
 しかし、彼は過去の多くの大統領のように任期延長を画策せず、任期満了をもって退任した。ハイチ史上、大統領が任期の中断なく法律上の任期を全うして平穏に退任するのは、実に1874年のサジェ大統領以来のことであった。
 続く00年の大統領選挙ではアリスティドが圧勝し、大統領に返り咲いた。国民の大きな期待のもとに始まった実質三度目のアリスティド政権は混乱に満ちたものだった。
 不正選挙が指摘される中、アリスティド派と反アリスティド派の対立が激化し、旧軍政支持者などで結成する反政府勢力の暴力に対抗するため、政権はシメールと呼ばれる暴力組織を使って反アリスティド派を弾圧するなど、ハイチは再び暴力と流血の政治に逆行していった。
 04年初頭には、決起した反乱軍が短期間のうちに主要都市を占拠し、首都ポルトープランスにも迫る中、アリスティドは再び亡命に追い込まれた。この政変の裏にはまたしてもアメリカの影があったが、今度はアリスティドの追放を非難する国際的な声は大きくなかった。
 政変後の暫定政権を経て行なわれた06年の大統領選ではプレバルが再び当選し、第二次プレバル政権が発足した。二期目のプレバルは政変以降の混乱を収拾するとともに、ラテンアメリカ諸国との経済関係を強め、中南米諸国では唯一フランス語圏に属するハイチをラテンアメリカ経済圏に結びつけることに成功した。
 08年には食糧価格の高騰から暴動に直面したが、ハイチで多数を占める貧困層を強力な支持基盤とするプレバル政権には大きな打撃とはならなかった。しかし、誰にも予見できなかった最大の打撃は政権終盤の2010年にハイチを襲った大地震であった。

2015年7月23日 (木)

ハイチとリベリア(連載第32回)

十一 ハイチ大震災を越えて

米国・国連の民主化介入
 1991年の軍事クーデターでアリスティド政権がわずか半年余りで転覆された後には、セドラ軍事政権下でデュバリエ時代さながらの恐怖政治が再現された。その主役はハイチの前進と進歩のための戦線なる民兵組織であった。
 CIA協力者の一ハイチ人によって設立されたこの組織は、クーデター後、アリスティド派の弾圧・殺戮に関与し、デュバリエ時代のトントン・マクートさながらの役割を果たしたが、その背後には左派のアリスティド政権を忌避するアメリカが深く関わっていた。
 軍事政権下で難民化してボートでアメリカへ脱出するボートピープルが急増し、軍事政権の人権侵害が国際的に非難される中、アメリカでも92年の大統領選ではハイチの民主化を公約した民主党のクリントンが当選した。
 クリントン政権はハイチ軍事政権に圧力をかけるとともに、アリスティドと軍事政権の仲介も試み、いったんは軍事政権退陣の合意を取り付けるが、軍事政権側は態度を翻し、執拗に居座り続けた。93年9月には国連の平和維持活動としてハイチ・ミッションが組織されるも、軍事政権の態度は変わらなかった。
 そこで、翌年7月の国連安保理決議をもってハイチへの武力行使が容認された。これを受けて、9月にはアメリカ軍部隊が侵攻し、軍事政権を崩壊させた。その結果、10月にアリスティドが三年ぶりに大統領職に復帰することとなった。
 アメリカがハイチに直接侵攻するのは、1915年のハイチ占領以来のことだったが、その占領統治下でアメリカが培養したハイチ軍がアメリカの手にも負えなくなるほど増長したのは皮肉であった。
 この民主化介入においてアメリカが果たした役割は両義的であった。アメリカはいつものように「裏庭」のラテンアメリカに左派政権が登場することを嫌い、当初は前述の民兵組織を使って軍事政権を密かにバックアップしていたと見られるが、難民への懸念と国際社会の非難を考慮して、政権交代を機にアリスティドの政権復帰を容認する方針に転換したと見られる。
 復帰したアリスティドの残任期に亡命期間を含めるかどうかについては議論の余地があったものの、アメリカは含めない解釈に立って圧力をかけ、アリスティドの残任期を二年足らずに短縮させたことにも、アリスティドを早期退陣させたいアメリカの「本心」が垣間見えた。
 結局、アメリカの意向に沿い96年2月に退任したアリスティドは再選禁止規定に従い、いったん下野したが、短い復帰政権期にハイチ軍を解体し、国家警察と沿岸警備隊の文民組織に転換したことが、最大の実績となった。

2015年7月18日 (土)

ハイチとリベリア(連載第31回)

十 リベリアの国家再建(続き)

エボラ禍を越えて
 サーリーフ大統領は、2011年の大統領選で再選を果たし、二期目に入った。大統領がその年にノーベル平和賞を受賞したことは、二期目の後押しとなった。しかし、試運転的だった一期目とは異なり、二期目は具体的な成果がより厳しく問われる。
 再選を決めた大統領選挙でも、有力野党候補の挑戦を受け、第一回投票では50パーセントに満たず、不正選挙を指摘する野党がボイコットした決選投票で当選を決める苦戦であった。政権の目玉である反汚職でも顕著な成果はまだ見えず、一期目末期には自身の兄弟である内相が金銭的不祥事で解任されるなど、身内の不祥事にも見舞われた。
 それでも、サーリーフが大統領に当選した05年と翌年には二年連続でアメリカの平和基金会が発表する「破綻国家」ランキングのワースト10位前後にランクされていたリベリアが07年以降は20位圏外となり、国際的な指標でも次第に国家再建の進展が裏付けられるようになった。
 こうした国家再建の道に大きく水を差したのが、2013年末に北隣ギニアを感染源とすると見られるエボラ出血熱の大流行であった。この流行は短期間のうちに国境を接するリベリアほか西アフリカ地域に拡大した。
 元来保健行政・医療が不備なところへ、内戦からの国家再建の途上という脆弱期を襲ったこのパンデミックは、隣国シエラレオーネとともにリベリアにも大きな損失をもたらした。損失は経済的なものにとどまらず、感染防止のため教育機関が長期閉鎖されたことによる教育面にも及び、国家再建の道を長引かせることは確実である。
 それでも、サーリーフ政権は迅速な感染拡大防止策を取り、15年5月には流行地域でいち早く流行終息宣言を発した。油断を許さない情勢とはいえ、国際機関とも連携したサーリーフ政権の実務的な手腕はここでも発揮されたと言えよう。
 こうしてエボラ禍を乗り切ったサーリーフ政権二期目は、2018年で終了する。三選禁止の規定を遵守する限り、サーリーフ大統領は同年に退任する見込みとなる。リベリアで政権が10年以上にわたるのは、80年軍事革命以前のタブマン政権以来となろう。
 一期目から通算で9年になる現時点でも、リベリア現代史上「サーリーフ時代」と呼ぶべき画期と言えるが、その二期目も後半に入った現在、ポスト・サーリーフが視野に入ってくる。再び不適格者が後任に就けば、内戦や政治混乱の時代に逆行することもあり得るのが、国家の宿命である。

2015年7月 9日 (木)

ハイチとリベリア(連載第30回)

十 リベリアの国家再建(続き)

サーリーフ政権
 第二次内戦終結後の暫定政権を経て2005年に行なわれた大統領選挙で当選したのは、エレン・ジョンソン‐サーリーフであった。彼女は、アフリカの女性国家元首としては史上三人目だが、選挙で選ばれた正式の元首としては史上初であった。このような有権者の選択には、アフリカ史上初の共和国であるリベリアの先進性が垣間見える。
 しかし女性大統領誕生の背景には、後に2011年度ノーベル平和賞の共同受賞者となる女性活動家レイマー・ボウィの寄与もあった。彼女は、第二次内戦末期、宗派を越えた女性にセックス・ストライキを含む非暴力抵抗を呼びかけて、男性政治家中心の和平交渉進展に圧力をかけ続け、女性パワーを社会に認識させたのだった。
 サーリーフは経済・財政の専門家でもあり、80年軍事革命で転覆されたトルバート政権の財務相を経験したように、本来は伝統的支配層アメリコ・ライベリアン系の政治家であった。80年軍事革命後は野党の副大統領候補として一時帰国時に当時のドウ独裁政権により短期間投獄された以外は、ほとんどを海外の金融機関や国連機関で経済実務家として勤務した。
 第一次内戦勃発時には当初、後に内戦中の犯罪行為で有罪判決を受けた元大統領チャールズ・テーラーを資金援助したため、自らが大統領として内戦時代の真相究明のために設置した真実和解委員会から指弾され、謝罪に追い込まれたが、サーリーフのテーラーとの関係は一時的なものにすぎなかった。
 大統領としてのサーリーフに託された課題は、言うまでもなく二次にわたった凄惨な内戦によって崩壊状態にあった国家を再建し、国民和解を実現することであった。
 国家再建策としては特に債務免除と反汚職に注力したが、ここでは彼女の経済財政専門家としての国際経験が生かされた。また西アフリカでは初となる情報自由法を制定し、情報公開制度を創設するなど、政府の透明性確保にも努めた。
 外交面では、建国以来の援助国・同盟国でもあるアメリカとの関係改善に努めるとともに、中国との関係も構築し、建設や通信などのインフラ整備面で中国の援助を受け入れるなど、米中両大国との関係強化を図った。
 国民和解の面では、党派色を薄め、野党政治家も入閣させる挙国一致内閣を組織し、実務型政権運営を進めた。ここでも、大統領自身元来政党政治家よりテクノクラートの性格が強いことが役立っただろう。
 こうした民主的な国家再建努力は国際的にも高く評価され、サーリーフは前述したボウィとともに、2011年度ノーベル平和賞を受賞した。ちなみに、もう一人の同時受賞者はイエメン人女性ジャーナリストのタワックル・カルマンで、この年のノーベル平和賞は受賞者全員が女性という同賞初の画期的な出来事となった。

2015年6月18日 (木)

ハイチとリベリア(連載第29回)

十 リベリアの国家再建

第二次内戦
 第一次内戦の勝者であったテーラー独裁政権に対する反乱として1999年に起こされた第二次内戦は、第一次内戦の第二幕とも言える新局面であった。反乱当事者は、緒戦ではギニアに支持された和解と民主主義のための団結リベリア人であったが、内戦末期には南部からコートジボワールに支持されたリベリア民主主義運動も出現し、挟撃される形となった。
 軍閥出身のテーラーがドウ政権時代の政府軍を弱体化させたことが裏目となり、守勢に立たされる中、2003年に入ると、テーラー政権の支配領域は国土の三分の一程度にまで縮小し、首都モンロビアが包囲された。この状況は、かつてテーラー自身がドウを追い詰めた時の再現であった。
 一方、前年に内戦終結後のシエラレオーネ政府と国連が共同設置したシエラレオーネ特別法廷がテーラーを戦争犯罪容疑で起訴に踏み切ったことも、テーラー政権にとって打撃となった。その時、彼はガーナで反政府武装組織各派との和平協議に臨んでいたが、起訴により、和平の可能性も遠のいた。
 ここでアメリカが外交的に介入し、時のブッシュ政権は公然とテーラーの辞任を要求するに至り、テーラーの政治的命脈は尽きた。03年8月、テーラーは辞任を表明し、ナイジェリアへ亡命していった。
 テーラーの辞任直後に署名されたアクラ包括和平合意にもとづき、暫定政府が樹立され、ジュデ・ブライアントが暫定大統領に就任した。
 これにより、第二次内戦は第一次内戦よりも短い4年ほどで終結を見たが、犠牲者数では第一次内戦の最大推定20万人を上回る最大推定30万人に及ぶ惨事であった。89年に始まった第一次内戦から通じてみれば、人口500万人に満たないリベリアで最大推定50万人の犠牲を出す異常な消耗戦であった。
 なお、06年にナイジェリアで逮捕されたテーラーは政治的な理由からハーグの国際刑事裁判所に移送され、審理の結果、12年に拘禁50年の有罪判決を受けた。これは国連設置の法廷で国家元首経験者が有罪判決を受ける画期的な先例となったが、罪状は隣国シエラレオーネでの戦争犯罪に限局され、自国での犯罪では裁かれていない。

2015年5月29日 (金)

ハイチとリベリア(連載第28回)

九 リベリア「革命」から内戦へ(続き)

テーラー独裁政権
 7年あまりにわたって20万人以上の犠牲者を出し、アフリカ史に残る惨事となった第一次リベリア内戦が96年に終結したことを受けて、翌年実施された大統領選を含む総選挙では、内戦中の最大軍閥チャールズ・テーラーと彼が率いたリベリア国民愛国戦線から改称した国民愛国党が圧勝した。
 テーラーは内戦中の残虐行為に加え、それ以前から芳しくない疑惑に包まれた人物であったにもかかわらず圧勝したのは、「彼はママを殺した、彼はパパを殺した、でも私は彼に投票する」という選挙スローガンに象徴される彼の一種伝道師風の巧妙な扇動能力のおかげであった。
 ちなみに内戦終結後、大統領としてリベリアの国家再建を担うことになるエレン・サーリーフもこの時の大統領選に立候補し、次点につけたが、得票率では10パーセントに満たない大敗であった。
 こうして国際的にはおおむね公正と評価された選挙で権力を手にしたテーラーだが、その本性はさっそく発揮される。彼はドウと同族のクラン族将兵を大量解雇して軍を弱体化させたうえ、国家警察に対テロ部隊を創設し、これを自身の私兵的な治安組織として利用する恐怖政治を開始したのだ。
 それに加えて、テーラー大統領の内戦中の悪行の数々が暴露されてきた。特に問題だったのは、同じく内戦状態に陥っていた隣国シエラレオーネで、テーラーの盟友でもあったアハメド・サンコーが率いる反政府武装組織・革命統一戦線と結託し、ダイヤモンドと武器の密輸に関わっていたことであった。
 テーラーはシエラレオーネ軍下士官出身のサンコーとリビアの軍事訓練キャンプで知り合い、共に独裁体制を打倒することで意気投合し、それぞれ本国の内戦を通じて軍閥として共闘するようになっていたのだった。しかし、両人は真の革命家などではなく、本質は金銭的に腐敗した政治的野心家であった。
 特にサンコーの武装組織は内戦中、シエラレオーネのダイヤモンド鉱山を支配し、これを資金源として確保しつつ、勢力を広げていたが、軍事的にはやや劣勢で、テーラーの武装組織の助けを必要としていた。
 この両国軍閥同士の結託により、リベリアとシエラレオーネはアフリカを特徴づけるいわゆる「戦争ダイヤモンド」の象徴的な存在となってしまった。テーラーはまた軍事的にもサンコーを支援し、数々の殺戮行為や少年兵徴用などの組織的人権侵害に手を染めていた事実が暴露された。
 こうした中、99年には反テーラーの武装組織・和解と民主主義のための団結リベリア人が北部で、隣国ギニアの支援のもと、狼煙を上げる。以後、第一次内戦終結からわずか3年にして、リベリアは第二次内戦に引きずり込まれていくのである。

2015年5月20日 (水)

ハイチとリベリア(連載第27回)

九 リベリア「革命」から内戦へ(続き)

第一次内戦
 80年の軍事革命を境に、リベリアの歴史は大きく変わった。それまでのアメリカ型文民共和政治の伝統は消滅し、軍事的な暴力と人権侵害が常態化し、世紀をまたぎ二度にわたることとなる内戦への伏線が生じていた。
 アメリコ・ライベリアンの寡頭支配を倒したサミュエル・ドウ政権が形ばかりの民政移管後、出身部族優遇の不公平かつ残忍な独裁政治の傾向を強める中、89年末、反政府武装組織・リベリア国民愛国戦線(以下、愛国戦線という)が結成された。
 この組織は85年のクーデター未遂事件後に、政府軍の報復的虐殺を受けたギオ族・マノ族に、政権によって排除されていた旧アメリコ・ライベリアンも加わった混成組織であり、民族解放組織というよりも、全体としてドウ政権転覆を目指す「反ドウ」の武装組織であった。
 その指導者として台頭してくるのが、後の大統領チャールズ・テーラーである。彼はアメリコ・ライベリアンの父と少数部族出身の母を持つ中流層の出自であったが、当初はドウらの軍事革命を支持し、ドウ政権下で調達庁長官のポストを得た。しかし83年に公金横領の疑いで解任された後、逃亡していた。
 テーラーは伝手をたどってリビアの最高実力者カダフィ大佐の知遇を得て、リビアで軍事訓練を受けたうえで、愛国戦線を結成したのだった。リビアの支援を受けた同戦線は、もともと貧弱なリベリア軍の隙を突いて翌年には首都を除く国土の大半を制圧するに至った。
 そうした中、テーラーの盟友ながら袂を分かった親米派のプリンス・ジョンソンが独立リベリア国民愛国戦線(以下、独立戦線という)を結成する。ジョンソンは、元はリベリア軍でドウの上官に当たり、軍事革命にも参加したが、85年のクーデター未遂に関わり、亡命していた人物でもあった。
 90年7月以降、テーラーの愛国戦線とジョンソンの独立戦線が競合しつつ、首都モンロビアを包囲する中、ジョンソンが抜け駆け的にドウを拘束した。ドウは当時、仲介に入った西アフリカ経済共同体監視団を通じてジョンソンと交渉しようとしていた。ところが、ジョンソンはドウを生きたまま身体部位を切り落とした末に銃殺するという残酷極まる方法で「処刑」し、しかも一部始終をビデオ撮影させるというホラー映画さながらの猟奇性で世界を震撼させた。
 こうしたドウの超法規的処刑―実質惨殺―による政権崩壊を受けて、暫定国民統合政府が樹立され、アメリコ・ライベリアンで政治学者出身のエーモス・ソーヤーが議長に選出された。しかし、テーラーやジョンソンはこれを認めず、さらにイスラーム系などの新たな武装組織も加わって、内戦は96年の停戦まで遷延した。
 この7年にも及んだ内戦の間、多くの残虐行為や少年兵徴用などの人権侵害が累積し、リベリア社会は荒廃した。経済的にも崩壊し、アフリカ最初の独立共和国の歴史を誇るリベリアは、破綻国家への道を転げ落ちていくのだった。

2015年5月13日 (水)

ハイチとリベリア(連載第26回)

九 リベリア「革命」から内戦へ

80年軍事クーデター
 リベリアでは、建国間もなくから100年以上にわたって続いてきたアメリコ・ライベリアンの支配に終わりが来た。「米騒動」で威信を失墜したトルバート政権に対し、下士官が主導する史上初の軍事クーデターが勃発したのだ。
 下士官の指導者サミュエル・ドウ曹長は先住部族クラン族の生まれであった。先住部族の地位はタブマン、トルバート両政権下で改善は見られたが、なお周縁化されており、ドウも下積みの下士官であった。
 建国以来、まがりなりにも米国流の文民共和政治の形態が続いてきた中での下士官クーデターは不意を突かれた形となり、速やかに成功を収めた。しかも、クーデター政権はトルバート大統領を殺害し、政権閣僚・高官らを大量処刑するという強権行使を見せた。
 下士官の軍事政権は、こうした見せしめを通じて、アメリコ・ライベリアン支配の終わりを演出しようとしたのだった。実際、これをもって近代リベリアの体制は大きく変わったため、この政変は単純な軍事クーデターではなく、革命の性格を備えるものであった。
 近年になってアメリカがクーデターに関与していたかどうかが議論になったが、明確なことは不明である。ただ、79年のソ連によるアフガニスタン侵攻で再び東西冷戦が悪化する中、トルバート政権がアメリカから距離をおき、東側にも接近しようとしていたことは事実であり、米軍の訓練を受けたこともあるドウが政権掌握後、明確な親米路線を取ったことから推すと、アメリカが背後で何らかの糸を引いていた可能性は否定し切れない。
 ともあれ、「人民救済評議会」を称した革命軍事政権は、リベリア人民にとって何ら救済とはならなかった。政権を率いるドウは、奇しくもハイチのジャン‐クロード・デュバリエ大統領と同年生まれの当時若干28歳、100年以上の歴史のある国の元首としては共に異例の若さであった。しかし、ドウは独裁者として意外な有能さを発揮し、向こう10年にわたり政権を維持したのであった。
 ドウは85年、前年の新憲法に基づき、表向き複数政党制を装った出来レースの総選挙を実施したうえ、自ら大統領に就任し、民政移管の体裁を整えた。しかし、選挙直後にクーデター未遂事件が発生すると、ドウは報復としてクーデターに関与した部族に対する虐殺を行なった。
 こうして流血で始まったドウ政権の後半期は人権抑圧と政治腐敗に満ちたものとなった。これに対して、抑圧された少数部族勢力などが中心となって反政府武装組織が結成され、89年末以降、ドウ政権転覆を目指して進撃を開始する。

2015年5月 6日 (水)

ハイチとリベリア(連載第25回)

八 デュバリエ家独裁下のハイチ(続き)

デュバリエ残党の支配
 父子二代にわたるデュバリエ家独裁体制を倒した1986年の政変は単純なクーデターではなく、民衆革命の要素も帯びていたが、過去30年に及んだデュバリエ体制がすぐに清算されたわけではなく、代わって軍が前面に出てきた。
 デュバリエ大統領辞任・亡命直後に設置された暫定的な国家統治評議会は軍人と文民から成る軍民混合政権であったが、トップのナンフィ将軍はデュバリエ時代の軍参総長からの昇格であり、残りのメンバーも含め、真にデュバリエ体制を解体できる政権ではなかった。
 87年の新憲法制定以降、88年と90年に大統領選挙が実施され、文民政権が発足するが、いずれも軍事クーデターを招き一年未満で打倒され、アメリカと国連の介入で民政復帰がなされた94年まで、計四代の軍事政権がめまぐるしく交替した。
 デュバリエ政権時代の悪名高い治安組織トントン・マクートはいったん解体されていたものの、形ばかりの解体であり、残党が次第に再編され、軍事政権とタイアップしながら再び政治暴力を活発化させていた。加えてデュバリエ政権崩壊後にアメリカの肝いりで設立された情報機関の国家諜報局が新たな人権侵害組織として機能し始めていた。
 この間、88年から90年までの軍事政権を率いたアブリル将軍はデュバリエ時代の軍精鋭・大統領親衛隊幹部としてデュバリエ父子から絶大な信頼を置かれていた人物であり、その経歴から言ってもアブリル政権はデュバリエなきデュバリエ政権の復刻であった。
 しかし、アブリル政権は軍内に十分な権力基盤を確立できず、90年の新たな軍事クーデターによりあっさり転覆された。同年末に行われた大統領選挙で当選したのは、ジャン‐ベルトラン・アリスティドであった。
 彼は、中南米諸国において民主解放運動へのカトリック聖職者の積極的な参加を主張する左派色の強い「解放の神学」を奉じた元司祭で、デュバリエ政権時代からサレジオ会を基盤に反体制運動を展開し、88年にはその政治性の強さを批判されて、会を除名されたカリスマ性を持つ在野指導者であった。
 アリスティド政権は言わばその40年前の左派エスティメ政権の再来のような性格を帯びて登場したが、それだけにエスティメ政権と同様の運命が待っていた。91年、アリスティド自身によって軍司令官に任命されていたセドラ将軍が主導する軍事クーデターを招き、アリスティド政権はわずか8か月で転覆されたのだった。
 この後、実質的にセドラ将軍が支配する軍部独裁政権が94年まで続くが、この間も正規軍・警察のほか、90年代初頭に旧トントン・マクート関係者らによって結成された新たな民兵組織などによる暴力支配が続いていくのだった。

2017年10月
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