言語発展論

2019年2月13日 (水)

言語発展論(連載第22回)

第3部 新・世界言語地図

五 シナ‐チベット‐オーストロネシア語環

 シナ‐チベット‐オーストロネシア語環とは、比較言語学の通説上は別語族として立てられているシナ‐チベット語族とオーストロネシア語族とを併せて一つの語環に包括したものである。もっとも、後述のように、これらを共通祖語から派生した単一の語族とみなす新説もある。
 通説上のシナ‐チベット語族は中国語とチベット語に代表される東アジアの代表的な語族であるが、研究の進展により、ビルマ語の系統もチベット語に近縁であることが判明し、語族全体がシナ語派とチベット‐ビルマ語派の二系統に大別されるようになっている。
 この語族の共通指標は、形態論上の孤立語と声調の存在である。その典型例がシナ語派としてくくられるいわゆる中国語であるが、現代普通話の文章体には接辞が現れ、膠着語要素が加味されているとされる。
 一方、チベット語は元来接辞を用いる膠着語要素が強かったところ、時代が下るにつれ、接辞が消失して孤立語的性格が強まったと見られている。ビルマ語の場合は孤立語的性格を持ちながらも、基本的には膠着語に分類されている。
 こうした語族代表言語間での不統一は、果たしてこの語族が共通祖語から派生した語族なのかについて疑問を抱かせる。一つの語族とすれば、おそらく、祖語はビルマ語のような膠着語であった。それが時代下って、チベット語のように孤立語化していき、最極点としてシナ語派(中国語)のような純度の高い孤立語へと変容していったのかもしれない。
 なお、現代普通話の文章体に接辞が現れたのは、接辞が排除された純粋孤立語は文意の解釈に難を来たすこともあり得るため、文意を明確にする必要性の高い文章体では、再び遠い祖語の膠着語要素が発現してきたためということも考えられる。
 さて、一方のオーストロネシア語族は、比較言語学の通説上マレー半島やインドネシア、フィリピンから南太平洋ポリネシア、さらにはアフリカのマダガスカルにまで拡散する語族として包括されているものである。
 元来、台湾に発祥すると見られるこの語族は非声調言語にして、接辞を多用する膠着語に分類されるが、接辞の多くは動詞に組み込まれて語形成される形であり、ポリネシア諸語になると、そうした接辞も消失し、孤立語化している。
 この点、近年の比較言語学的研究により、シナ‐チベット語族とオーストロネシア語族との間の基礎語彙や文化的語彙の音韻対応が解明され、両者の内的連関が指摘されるようになっている。この研究はまだ途上であり、両語族が実は同一語族であることの証明は確立されていないが、証明されなくとも、仮説上同一語環に包摂することは有益かもしれない。
 そうなると、声調言語という共通指標は失われることになるが、声調言語の代表格である中国語でも上古音は非声調言語であったと考えられるようになっており、実は声調は本来、この語環の共通指標ではなかった可能性もある。
 ちなみに、シナ‐チベット語族の発祥地は意外にも中国東北部という推定がなされている。そうだとすると、典型的な膠着語系であるウラル‐アルタイ語環の発祥地とも重なり、元来は膠着語だったシナ‐チベット‐オーストロネシア語環の間にも何らかの基層的関連性を想定できそうである。
 この語環の分布をたどれば、中国東北部から大陸中央を経由した後、西進してチベット、ビルマ(ミャンマー)方面への陸伝いの拡散と、中国大陸を南下して台湾を新たな起点に東南アジアを経由して、東進して南太平洋、西進してマダガスカルまでの海伝いの拡散という壮大な言語地図が描ける。

2019年1月26日 (土)

言語発展論(連載第21回)

第3部 新・世界言語地図

四 ウラル‐アルタイ語環

 今日の比較言語学の知見においては、ウラルとアルタイは、それぞれ別個の語族または諸語とみなされており、かつて提唱された「ウラル‐アルタイ語族」という包括は過去の謬論とみなされている。それというのも、語族の認定において決定因となる共通祖語を再構できなかったからである。
 そのうえ、両者の分離後、「アルタイ語族」というくくりもそこに含まれる代表的言語であるモンゴル語とトルコ語の間で共通祖語を再構できなかったために、「アルタイ語族」も否定され、より漠然とした「アルタイ諸語」に格下げされている。
 おそらく、言語遺伝的にはこうした細分類が精確なのであろう。とはいえ、ウラル語族とアルタイ諸語の間にはいずれも膠着語系であり、母音調和法則を持つといった特徴的な共通点があり、単一語族ではないとしても、連続的なグループに属することは否定し難い。そこで、「語族」は不成立としても、「ウラル‐アルタイ語環」を想定することはできるかもしれない。
 歴史的に見ると、ウラル語族系民族の祖は今日の中国東北部で、遼河文明を形成したと考えられる。これは紀元前6000年から3000年に遡る文明圏であり、その人骨の遺伝子系統上、ウラル語族系民族に多いハプログループN系が多いことが判明している。
 このことから、ウラル語族系民族の発祥地は中国東北部で、かれらは何らかの事情により東北部を脱し、その名の由来となったウラル山脈周辺に移動したものと見られるのである。この西への大移動の過程で、かれらの言語の特徴がアルタイ山脈周辺の諸民族にも普及し、共通特徴を持つ語環を形成したとも考えられる。
 このうち、狭義のウラル語族・フィン‐ウゴル語派に属する言語の中でも、フィンランド語やエストニア語を含むバルト‐フィン諸語やハンガリー語はウラル山脈周辺から欧州大陸部へ再移動した民族によってもたらされ、中でもハンガリー語はこの語環の最西部に位置する。
 一方、ウラル‐アルタイ語環の最東部として、コリア語や日本語も含まれるのかどうかは一つの問題である。両言語ともに膠着語という大きなくくりではウラル‐アルタイ語環に包摂できるが、母音調和法則は持たない。
 ただし、コリア語は16世紀頃までは母音調和法則を持っていたことが判明しており、日本語の場合も万葉仮名の研究から、上代には母音調和法則があったとする説も存在する。
 いずれにせよ、現代では両言語ともに母音調和法則を喪失していることはたしかであるが、古形まで含めて考察すれば、両言語はウラル‐アルタイ語環の事実上独立した分岐という位置づけも可能かもしれない。なお、コリア語と日本語の関係性などは、後に独立語族について取り上げる際に改めて言及する。

2019年1月 9日 (水)

言語発展論(連載第20回)

第3部 新・世界言語地図

三 印欧‐阿亜語環

 インド‐ヨーロッパ語族(印欧語族)は、童話でも有名なグリム兄弟による近代的な比較言語学の確立を経て構築された最も体系的に立証される語族であり、まさに「語族」の代名詞的存在である。
 インドとヨーロッパを広域的につなぐこの語族は、地理的に見れば「語環」に近い性質をも持つが、比較言語学的にすべての包摂言語が共通の印欧祖語から派生・分岐したことがかなりの確度で証明できるために、「語族」にまとめることができている。
 この語族はまた、総体として屈折語の特徴を共通指標とするから、屈折語の代名詞でもあり、「屈折語族」と呼んでもよいほどである。この屈折語としての共通特徴を持つもう一つの語族としてアフロ・アジア語族(阿亜語族)と呼ばれるものがある。
 この語族は古くは聖書の神話的な民族分類に影響されて、セム‐ハム語族などと指称されていたが、今日では西アジアからアフリカにまたがる分布状況に沿ったアフロ‐アジアという地域的な名称に変更されている。
 阿亜語族は印欧語族のように共通祖語がいまだ再構されていないため、厳密には「語族」というより、「語環」に近い性格を持つ。そのうえで、動詞の活用変化に現れる屈折的特徴を大きくとらえれば、印欧語族との外的なつながりを認め、「印欧‐阿亜語環」というグループを想定できるかもしれない。
 ただし、今日では阿亜語族の中でも、ベルベル語派やソマリ語のように膠着語系に転化しているものもあるうえ、印欧語族でも英語などは発展過程で屈折の簡易化が進み、事実上の膠着語化を来たしていると理解する余地もあるが、古形においては複雑な屈折を共通指標としていたと考えられる。
 両語族をつなぐ人類遺伝子上の系統はハプログループR1bである。この遺伝子系統は印欧語族系民族間で特に顕著に認められるが、阿亜語族系民族間にも拡散的に認められ、両者をつなぐ鍵となっているからである。
 実際に両語族の交錯がはっきりと現存言語に残されているのが、マルタ語である。地中海のマルタの公用語であるマルタ語は欧州では唯一の阿亜語族・セム語派に分類される言語であり、発生的には中世シチリア島がイスラーム勢力に支配されていた時代の公用語であったシチリア・アラビア語に起源があるとされる。
 一方で、マルタ語は印欧語・イタリック語派に属するシチリア語からも多くの単語を取り込んでおり、語彙的には印欧語族との共通性も持つため、阿亜語族と印欧語族の両者の特徴を併せ持つ興味深い複合言語として確立されている。こうして、マルタ語は少数言語ながら、「印欧‐阿亜語環」を象徴する言語という地位にあると言える。
 「印欧‐阿亜語環」という超域的な言語群を想定することは、今日の世界秩序において、宗教政治的にしばしば激しく衝突する欧米と中東の対立関係を言語学的な観点から止揚することに寄与するかもしれない。

2018年12月30日 (日)

言語発展論(連載第19回)

第3部 新・世界言語地図

二 世界祖語の絶滅

 「語環」による言語分類に入る前に、現存する世界の民族言語(絶滅言語を含む)に共通する祖語―世界祖語―は再構できるかという問題にも一言しておきたい。もしそれが可能なら、新たな世界語の創案にも大きく寄与するだろうからである。
 この問題に関しては、20世紀初頭、イタリア人言語学者アルフレード・トロンベッティが10万年乃至20万年前に使用されていた人類祖語の可能性を正式に提唱して以来、言語学界の傍流においてではあるが、研究が続けられてきた。
 近年では、アメリカの言語学者メリット・ルーレンらが、コイサン諸語やオーストラリア先住民諸語など、現存民族言語の中でも特に古い発祥を持つと考えられる諸言語の音韻や語形の比較対照により、数十個の世界語源を抽出したとするが、言語学界主流ではヘテロドクシカルな超仮説として扱われているようである。
 人類のアフリカ発祥・出アフリカ仮説に立つならば、アフリカで最初に言語を獲得した現生人類の集団内で共有された原始言語Xは、出アフリカ集団によってアフリカの外へ持ち出されたことは間違いなかろうが、その後、人類の世界的拡散・定住の過程で原始言語Xは忘却され、相互に疎通できないほど多岐にわたる民族言語に分岐していったのだろう。
 現在では原始言語Xが絶滅して超歴史的な年月を経過しており、古い発祥を持つといってもせいぜい数千年程度と考えられる諸言語の音韻や語形の比較だけからXを再構することは至難となっているものと思われる。仮に再構できても、部分的にとどまり、そこから直接に体系的な文明言語に再編することは不可能だろう。
 かくして、現状は世界祖語再発見への期待を封じつつ、「語環」による現存民族言語の再分類に取り組むべき時であろう。ただし、包摂概念である「語環」概念によって、現存言語間の内的な関連性がより解明される可能性はあるかもしれない。

2018年12月26日 (水)

言語発展論(連載第18回)

第3部 新・世界言語地図

一 言語分類の刷新

 言語の発展という問題をめぐって、第1部では「通則的概観」と題し、自然言語の発生から計画言語の創案に至る人類言語一般の発展過程を概観した。次いで第2部では「英語発展史」と題し、現時点において事実上の世界語(世界公用語)の地位にある英語の発展過程を概観した。
 これらに続く第3部では、「新・世界言語地図」と題して、現存する世界の自然言語(民族言語)を新たな視点から分類し直し、その内的な関連性を検証していく。この作業を通じて、現存民族言語の新たな言語地図を作成し、最終的な目標である真に中立的な世界語の創案につなげる契機を発見してみたい。
 その際の大きな視点として、「語環」(inter-linguistic area)という概念を用いる。「語環」とは、伝統的な言語学では「言語連合」(linguistic area)と呼ばれてきた包括的な類縁言語群の概念をさらに進化させた包摂的概念である。
 両概念の違いは微妙であるが、「言語連合」が共通祖語の言語遺伝的な同定を条件とする「語族」よりも広く、共通の文法的・音韻的特徴を指標として言語のまとまりを観念しようとするあまり、その設定が曖昧で、安定しない嫌いがある。 
 そこで、「語環」の設定に際しては、文法的・音韻的特徴に加えて、各言語使用民族の遺伝人類学的系譜関係から、地理学的・地政学的な事情に至るまで、種々の要素が総合的に比較考慮される。その結果、従来は「語族」と認識されてきたが「語環」として把握したほうがよいケースも生じるだろう。
 このような包摂的言語群としての「語環」の内部には複数の語族が編入されるが、どの「語環」にも属しない独立した語族も存在するほか、どの「語環」や「語族」にも属しない完全な独立語とみなされるもの―すでに絶滅した近縁言語や類言語が存在した可能性はあるが―も存在する。

2014年12月10日 (水)

言語発展論(連載第17回)

第2部 英語発展史

八 「計画英語」の可能性

 前回まで、北ヨーロッパのマイナーなゲルマン系部族語にすぎなかった英語が、事実上の世界語として地球全域に広がるまでの発展過程を大づかみで見てきた。しかし、本連載本来の目的は計画言語の可能性を探ることにあった。
 現在、紛れもなく英語が事実上の世界語として世界制覇している言語現実を直視するなら、新たな計画言語の創案に取り組むよりも、英語そのものをより普遍性の高い世界語に創り直すこと―言わば計画英語―のほうが現実的ではないかとの発想もあり得るところである。そこで、最後にこの問題を検討して締めくくりとしたい。
 実は、そのような計画英語に近い先行的な試みは、すでに存在する。第1部でも紹介したベーシック・イングリッシュがそれである。ただ、この試みは使用単語の数を制限することで、英語を簡明なものにするという言語簡略化の構想であるので、厳密な意味では計画英語ではない。
 このような言語簡略化に対しては、真の英語を使いこなす層と簡略英語しか使えない層とに言語階層化が生じるということが懸念されているが、そうした問題は、例えば簡略英語を国連公用語に指定するといった国際言語政策によって克服できる。
 より本質的な問題は、単語を量的に制限すると、かえって言語運用が困難になることである。逆説的であるが、特定の単語の使用を制限して他の単語の組み合わせによる言い換えを要求されるほうがよほど言語的習熟を要することなのである。
 そこで、計画英語といった場合、単語数の制限ではなく、むしろ現代英語の最大の難点である綴りと発音の不一致の是正をまず考えることである。
 例えば、「知る」を意味する初歩的単語knowにしても頭文字は発音されない黙字であるが、こうした黙字を排除して、nowと綴る。ところが、これだと「今」を意味する副詞のnow[nάʊ]と重なってしまう。これはowという同じスペルを二種類に発音するという混乱から来るものであるので、副詞のnowを発音記号に近いスペルnawに代えることも一考に値する。もっとも、awはawfulのように「オー」と発音されるので、このような長母音は発音記号にならってo:fulと綴るなどの新たな工夫も必要であろう。
 こうした綴りと発音の合一化にとどまらず、文法的にも不規則変化動詞を廃して、例えばknowの過去形はknewではなく、原則どおりknowed(頭の黙字を廃するなら、nowed)とするというように規則変化で統一する簡略化を進めることで、規則性に富んだ計画英語を創案し直せる可能性は開かれる。
 もしこのような計画英語プロジェクトが成功すれば、征服言語としての現代英語から計画言語としての未来英語への変革という英語発展史を画する新たな段階を迎えることになるだろう。

2014年11月26日 (水)

言語発展論(連載第16回)

第2部 英語発展史

七 征服言語:現代英語

 17世紀に入ると、近世英語は次第に現代の学習者が目にする近代英語としての体裁を整え始める。近世英語は主にシェークスピアのような文学者や文筆家個人に支えられた言わばパロールの積み重ねで発展したが、科学の時代に入った18世紀以降は言語学の発達により、言語体系としてラングの整備が進んだ。
 その契機となったのは、英語辞書の編纂である。最初期の英語辞書として、後世にも強い影響力を持ったのは、ハノーバー朝時代の1755年にサミュエル・ジョンソンが独力で編纂したその名も『英語辞典』である。ジョンソンは詩も書く多彩な文筆家であったが、古典に通じた文献学者でもあった。そのため、『辞書』は語学辞書というよりは皮肉な警句家としても知られたジョンソン自身のウィットに富む短文解説付きの百科事典的な書物となった。
 本格的な語学辞書は海を越えた米国で、建国の父の一人でもあるノア・ウェブスターが1828年に完成させた『アメリカ英語辞典』が嚆矢であった。英国でも遅れて1857年から『オックスフォード英語辞典』の編纂事業が始められた。
 今日でも最も権威あるオックスフォード辞典の編纂は、英国初の言語研究学会であった「文献学会」による学術的な集団プロジェクトであり、辞書を共同で編纂する事業としての嚆矢ともなった。このプロジェクトは「歴史的諸原理に基づく新英語辞典」と名づけられていたとおり、世代を超えたものとなり、分冊第一巻が世に出たのは1880年代のことであった。
 時は大英帝国の全盛期、英国はまさに七つの海を支配し、その植民地や保護領は文字どおり地球全域に及んでいた。辞書によって体系化された「本場」の英語は、英国の支配領域でも公用語として強制され、それぞれ発音や表現の転訛を伴いつつ、現地に根付いていった。征服言語としての英語史の始まりである。もっとも、より地域限定的にはイングランドに征服された本来ケルト語系のスコットランドやアイルランドで英語の征服言語化が始まっていた。
 同時に、ウェブスター辞典に始まる標準米国英語との綴りや発音、表現の差異も明確になっていく。今日でこそグローバルなスタンダード英語となっているのは米国英語であるが、これは20世紀以降、英米の覇権交代により米国が世界を支配するに至って生じた最も新しい征服言語としての英語の姿である。
 特に冷戦終結後は米国中心のグローバル資本主義の広がりによって、交渉言語・国際商業語としての英語の爆発的普及現象が見られる。このグローバル英語はもはや必ずしも米国英語そのものではないが、英語学習書は米国英語を標準とすることが多く、事実上は米国英語が世界を席巻している。

2014年11月20日 (木)

言語発展論(連載第15回)

第2部 英語発展史

六 英語の復権Ⅱ;近世英語

 ばら戦争中の1476年にウィリアム・キャクストンが英国初の印刷所を設立し、英語本の出版を多く手がけた。チョーサーの『カンタベリー物語』を世に出したのも、キャクストンであった。
 キャクストン自身の本業は印刷業者であったが、文筆の分業化が進んでいなかった時代、自身で翻訳も手がけるなど、文筆にも踏み込んたことで、キャクストンはまだ不統一だった英語の正書法の確立にも寄与している。
 15世紀末にばら戦争が終結し、新たにチューダー朝が成立した時には、英語は公用語の地位を回復していた。チューダー朝はウェールズ系であったが、ウェールズはすでにイングランド領となって久しく、ケルト系のウェールズ語が公用語とされることはなかった。英語はこの王朝と続くスコットランド系のスチュアート朝のもとで英国の揺るぎない公用語として定着していく。
 チューダー朝期の英語の集大成は、有名なシェークスピアの作品に認められる。彼は学者ではなかったが、文学者として彼の使用した英語や英語表現は未確立だった近世英語のスタンダードとして模倣されるようにもなり、結果として近世英語の発展に寄与している。
 続いて近世英語の確立に大きく貢献した著作物として、シェークスピア最晩年の1611年に時のスチュアート朝開祖ジェームズ1世の命で編纂・刊行された欽定英訳聖書が知られる。英訳聖書はすでにキャクストンの出版物の中で断片的には見られたが、公式の全訳版は欽定聖書が初めてのものであり、これは宗教政策を通じて正統的な英語が定められたに等しい意義を持つ出来事であった。
 17世紀のスチュアート朝の英語の代表作は、ルネサンス叙事詩として名高いジョン・ミルトンの『失楽園』である。ミルトンはまた清教徒革命時代の共和派文士として、政治的な論説も発表し、近世英語の散文の発展にも寄与した。
 17世紀までには現代英語の直接的な祖となる近世英語が確立される。この時期以降の英語はそれ以前の英語とは大きく変化し、中でも母音の音価が大きく変遷したいわゆる大母音推移は英語に革命的な変化をもたらした。
 これによって、それまでゲルマン系言語として綴りと発音がほぼ対応していた英語に、綴りと発音の広範囲な不一致が発生するようになった。この特徴は現代英語に引き継がれ、しばしば学習者を悩ますところとなっている。また中世英語以来、フランス語系の語彙も継承・定着したため、フランス語式の綴りや発音も混入し、英語体系をいっそう複雑なものにした。
 もっとも、英語史上「初期近世英語」とも呼ばれるこの時代にはまだ学問としての言語学が確立されておらず、辞書や文法書によって国語としての英語の整備が行なわれるには、スチュアート朝を超え、ドイツ系のハノーバー朝が成立した18世紀以降の科学の時代を待つ必要があった。

2014年11月11日 (火)

言語発展論(連載第14回)

第2部 英語発展史

五 英語の復権Ⅰ;中世英語

 英語の雌伏期にあっても、フランス語を話す王侯貴族階級は少数派であり、英語は大多数を占める非支配層庶民の言語として生き続けていた。しかし、プランタジネット朝の圧政に対する抵抗がこうした支配層と非支配層の階級的言語分断状況に変化をもたらす。
 1258年、時の国王ヘンリー3世に反抗し、封建制の枠内での民主化を求めた諸侯の共同文書「オックスフォード条例」がラテン語、フランス語とともに英語でも記述されたのは、その象徴であった。
 続いて14世紀に入ると、英文学の発達が見られる。その嚆矢は宮廷官僚でもあったジェフリー・チョーサーである。「英文学の父」とも称されるチョーサーは、その代表作『カンタベリー物語』の中で初めて英語で本格的な物語を綴り、その後の文章語としての英語の復権に大きな影響を及ぼした点では、英文学にどとまらない「英語の父」と言うべき存在であった。
 フランス語から英語への公用語の切り替えが公式にはいつ行なわれたかについて、明確とは言えないが、議会その他公式の場での答弁を英語で行なうべきことを定めた1362年の「英語答弁法」―記録は当時の欧州共通文語体であったラテン語によった―は、英語が事実上公用語として復権する重要な契機となった。15世紀のヘンリー6世の時代には、英語が宮廷でも公用語化している。
 14世紀から15世紀半ばにかけて繰り広げられたフランスとの百年戦争は英国支配層の間にも反仏ナショナリズムの感情を強め、フランス系支配層の英語使用慣習を決定づける大きな要因となったと考えられる。
 この頃には、ノルマン・フランス系の上流階級も英国に土着し、アングロサクソン人との通婚・混血が高度に進んでいたことも、このような言語転換を後押ししただろう。しかも、英国の中世を終わらせた15世紀後半の内戦(ばら戦争)は、ノルマン・フランス系貴族の多くを没落・断絶させた。
 ただ、一般に「中英語」と呼ばれる中世時代の英語はまだ正書法が確立されず、方言差による揺れも大きいため、中英語として明確にくくれるほどの統一性を持っていないが、さしあたりは王都ロンドン周辺の方言を基盤とした東部英語が標準語の地位を獲得していく。
 この復権期の時代、英語はフランス語から多くの借用語を取り入れ語彙のフランス化が大規模に生じたほか、ゲルマン語系の複雑な語尾変化の多くを喪失し、屈折語としての性格が希薄になり、次第に孤立語に接近した最小限屈折語としての近代英語の顔が現れ始める。そうした点では、中世は英語にとっても一大転換期であったと言える。

2014年11月 1日 (土)

言語発展論(連載第13回)

第2部 英語発展史

四 英語の長い雌伏期

 1066年の「ノルマン人の征服」により、ノルマン朝が開かれ、王家をはじめ新たな支配層が使用するノルマン・フレンチがイングランドの公用語になると、英語は庶民の言語として口語の地位に格下げされた。
 新公用語のノルマン・フレンチとは、フランス語のノルマンディー方言であるが、ノルマンディー公家をはじめとする支配層が北欧のデーン人バイキング出自であったため、北欧語に起源を持つ語彙を多く含む独自の方言であった。
 とはいえ、元来バイキングに祖を持つ支配層は少数派であり、公国民の大多数はフランス人であったから、ノルマン・フレンチはロマンス諸語に属するまさにフランス語であり、北欧語本来のゲルマン諸語としての基本構造は失っていた。
 「ノルマン人の征服」当時の古英語はまだゲルマン諸語としての基本構造を濃厚に残しており、ロマンス語系のノルマン・フレンチとは構造的に相容れなかったため、英語は公用語の地位をいったん追われたのであるが、ノルマン・フレンチが公用語となったことで、アングロ・サクソン系の貴族や一部有力町人階級にもこの言語が普及した。
 それによって、アングロ・フレンチ(またはアングロ・ノルマン)と呼ばれるイングランド固有のフランス語が形成され、これが15世紀頃まで公用語・公式文章語として定着していく。
 一方、英語にも、大きな変容が生じた。語彙に関してアングロ・フレンチの影響を強く受け、ゲルマン語起源の単語がフランス語系の単語に置き換わった。特に法律・行政用語やその他の抽象概念を示す単語の多くは、現代英語でもフランス語系のものが使われている。
 ただ、文法構造的な面ではアングロ・フレンチの影響を大きく蒙らなかったのは、支配層の公用語と庶民層の口語の住み分けが厳格に行なわれていたためと考えられる。それだけ、ノルマン朝は権威主義的な征服王朝としての性格が強かったことの反映である。
 ノルマン朝は11世紀に入ってプランタジネット朝に取って代わるが、プランタジネット朝の王家はフランス北西部アンジューに所領を持ったまさしくフランス貴族であったため、これ以降イングランド王家は完全なフランス系となり、これに伴い、アングロ・フレンチもフランス本国のフランス語と近似したものとなった。
 英語が再び公用語として復権してくるのは、このプランタジネット朝の末期であり、この間、英語は数世紀にわたり新装復権を待つ雌伏期にあった。

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