〆抵抗の東北史

2014年10月18日 (土)

抵抗の東北史(連載最終回)

十三 近代東北の忍耐

 明治維新後の東北は、江戸幕藩体制から解放され、形の上では大日本帝国の近代的中央集権体制の中に組み込まれていき、もはや抵抗の地ではなくなった。
 幕藩体制時代の東北諸藩は、当時の農業技術では十分な生産力が確保できない寒冷地で財政を維持するため、苛烈な収奪をしがちであった一方、商業の発達も十分でなかったことから、東北地方の開発は遅れていた。幕府は藩領地の経営を基本的に藩に委任することが基本であったから、自ら東北開発に注力することはなかった。
 後を引き継いだ明治政府は中央集権制を活用して東北開発に乗り出すことも可能であったが、戊辰戦争時の東北の集団的抵抗の遺恨は長く尾を引き、薩長主導の明治政府から旧東北諸藩は排除されていたため、明治政府の東北政策もまた決して積極的なものとは言えなかった。
 それでも、1878年にはいわゆる「土木七大プロジェクト」の一環として、大動脈関東につながる東北地方の水運網整備に乗り出している。鉄道網も当初は私鉄であったが、1891年までに東北最大の幹線となる東北本線が青森まで全通している。また八幡製鉄所より早い1880年には釜石製鉄所が設立され(後に民間払い下げ)、1907年には東京、京都に次ぐ日本で三番目の帝国大学として東北帝国大学(現東北大学)が開学されるなど、産学面での投資もそれなりに行なわれた。
 とはいえ、本州でも辺境地としての従属的性格は残され、東北地方に殖産興業政策の恩恵はなかなか及ばず、むしろ関東方面への出稼ぎ労働者の供給源となる傾向が明治期から現れた。
 稲作に関しては、品種改良の努力によって、明治以降、東北での生産力が向上し、有数の米所に成長していくが、常に冷害との戦いであり、昭和に入っても1931年の大冷害を機に、「最後の飢饉」とも言われる東北昭和大飢饉に見舞われた。その余波が続く中、1933年には死者・行方不明者3000人以上を出す昭和三陸地震・津波が追い打ちをかけた。
 帝国が満州侵略作戦により傀儡国家・満州国を立てると、従来型の内地出稼ぎではなく、新天地を求めて満州へ移民・入植する人も増加した。
 戦後になると、農地解放は東北でも寄生地主制度を解体し、遅ればせながら中央政府による東北工業化のプロジェクトも動き出すが、東北の従属経済化傾向は本質的には是正されず、関東地方の経済発展には遅れをとった。またも東北は関東方面への出稼ぎ労働者の供給源となった。出稼ぎ移住者の増加で人口減にも直面し、過疎化が進んだ。
 高度成長が一段落した後、第三次産業の発達により、東北もようやく自立的な発展を見せ始めていた中、2011年3月の東日本大震災における甚大な津波災害は、東北太平洋沿岸部に大規模な人的損失を伴う壊滅的打撃をもたらした。
 震災からの復興が東北被災地の新たな長期課題となったが、生活再建への中央政府の取り組みは被災民を満足させるレベルに達しておらず、相変わらず東北軽視の傾向が見え隠れしている。中でも、関東地方の巨大な電力需要をまかなっていた福島第一原子力発電所の被災事故の影響を被った福島県を中心に、東北は復興遅延による人口流出という新たな危機に直面しているが、現代の東北人は抵抗ではなく、忍耐によって困難を克服しようとしているかのようである。
 かつて多くの内戦や反乱の動力となった東北的な抵抗の精神は、近代以降にあっては忍耐という無言の抵抗に形を変えて受け継がれていると言えるかもしれない。

2014年10月 9日 (木)

抵抗の東北史(連載第13回)

十二 東北最後の抵抗

 江戸全盛期の東北は、他の地方と同様、幕藩体制の中で平穏が保たれ、もはや大きな抵抗の地ではなくなった。しかし、天明、天保と二つの大飢饉では多数の犠牲を出し、百姓一揆の頻度は高かった。
 特に南部氏の盛岡藩は冷害が多い上に、最重要の換金作物であった米作に偏向したモノカルチャー型農政のゆえに、飢饉に弱く、全国でも最大の百姓一揆多発藩となった。
 一般的に、東北地方は米作不適地も多い中、諸藩主は他の地方と同様、米作に収奪基盤を置く農耕封建領主であったから、東北では百姓一揆が多発する傾向にあった。こうした傾向にはまた、東北地方のバックボーンである抵抗性が少なからず関与していたかもしれない。
 東北地方の抵抗性が最後にまとまった形で表出されたのは、幕末から明治維新にかけての戊辰戦争の時であった。戊辰戦争には様々な局面があったが、中でも最大級のものが旧東北・北越諸藩で構成する奥羽越列藩同盟による抵抗戦争であった。
 中心となったのは、幕末に佐幕派の中心にいた「御家門」の会津藩と江戸市中取締の任にあった譜代藩の庄内藩である。両藩は1868年4月に同盟を結成し、当初は最大朝敵とされた会津、庄内両藩の赦免要求を中心に動いた。
 しかし、会津藩の謝罪拒否姿勢や維新政府軍参謀・世良修蔵の暗殺により、情勢は開戦に傾き、5月には奥羽列藩同盟、続いて北越6藩を加え、奥羽越31藩で構成する奥羽越列藩同盟が結成される。
 同盟は維新政府に楯突いて仙台に逃亡してきていた皇族の北白川宮能久〔きたしらかわのみやよしひさ〕親王を盟主に迎え、総裁には仙台藩主伊達慶邦〔よしくに〕、米沢藩主上杉斉憲〔なりのり〕が共同で就いた。
 これは軍事同盟を越え、事実上対抗政権の樹立に等しいことであり、実際、同盟は一定の政府機構を整備していた。親王は君主的に振舞い、この時期、外国からは「二人の帝」が並立しているとみなされていた。こうなると、もはや維新政府との激突は避けられなかった。
 かくして、東北戦争が開始される。東北戦争は戊辰戦争の中でも熾烈なハイライトであり、特に抵抗の中心となった会津では数千人の死者を出す激戦となった。
 しかし圧倒的に多くの旧藩が新政府軍側に付く中、同盟側に勝ち目はなく、旧安東氏の流れを汲む小藩の三春藩が最初に脱落・降伏したのを機に、同盟諸藩の降伏が続き、68年9月末までに同盟軍は瓦解、戦争は長期化することなく終結した。
 戦後処理として幕藩体制時代の封建的な国制は解体され、廃藩置県を経て現行東北6県体制に収斂された。以後の東北は、表面上は他の地方と変わらない本州北部の一地方として、近代日本の中央集権体制の中に組み込まれていくのである。

2014年9月26日 (金)

抵抗の東北史(連載第12回)

十一 近世東北の収斂

 豊臣秀吉の死後、関ヶ原の戦いを経て、江戸時代に入ると、改めて幕府主導での東北再編が行なわれる。まず豊臣政権では冷遇され、減移封処分を受けて押さえ込まれていた伊達氏(政宗)は、関ヶ原の戦いでは東軍に付き、徳川家康の評価を得た。
 しかし1600年、秀吉の奥州処分で没落した武将が起こした岩崎一揆を背後から扇動した疑いが持たれ、結局幕府から安堵された所領は絶頂期の旧領には届かなかったが、それでも全国有数の60万石余りの国持外様大名として遇され、仙台を新たな居城とした。
 政宗を国際的にも有名にしたのは、何と言っても慶長遣欧使節団の派遣であった。この遣使の真の目的については諸説あり、スペインと結んで倒幕を図る底意があったという陰謀説まで存在するが、家康の許可を得ての遣使であり、倒幕はいささか飛躍であろう。ただ、誇り高い野心家であった政宗としては、幕府とは別途、藩独自に外国と外交通商関係を結ぶ考えがあったとしてもおかしくはない。
 しかし、次第に幕府が鎖国政策に傾斜していくにつれ、こうした独自外交も制約されていった。結局、彼の子孫たちは幕府に忠誠を尽くし、仙台藩は以後、伊達氏で固定され、明治維新まで存続する。
 他方、陸奥の強豪南部氏も関ヶ原の戦いでは東軍に付き、岩崎一揆の鎮圧でも功績を上げた。南部氏は分家が多いが、三戸に根拠を置く三戸南部氏が盛岡藩を安堵され、これも明治維新まで存続した。また北端の弘前は南部氏から離反・自立した津軽氏が幕末まで治めた。
 会津は秀吉の信任の厚かった上杉景勝の所領となっていたが、景勝は家康の会津征伐の対象となった末、関ヶ原の戦いで家康に降伏した。最終的には謝罪・赦免が認められ、山形の米沢へ減移封された。以後、米沢藩も上杉氏で幕末まで固定される。
 入れ替わりで会津は蒲生氏や加藤氏の短い入部を経て、2代将軍秀忠の庶子・保科正之を藩祖とする「御家門」である会津松平家の所領となり、幕末まで固定される。
 日本海側では、上述のとおり、米沢に上杉氏が入部する一方で、山形は戦国時代から本拠を置いた最上氏が会津征伐で功績を上げ、いったんは伊達氏に次ぐ大大名の山形藩主として安堵されたが、間もなく熾烈なお家騒動(最上騒動)が武家諸法度違反に問われ、近江大森藩に減移封処分となった。
 その後の山形藩は異動の激しい藩となり、藩主家は固定されなかった。また最上氏改易に伴い、庄内地方には徳川家直参の酒井氏が入部し、譜代藩の庄内藩を立て、幕末まで存続した。
 他方、秋田を本拠としていた秋田氏(旧安東氏)は関ヶ原の戦いでは東軍に付いたが、秋田氏が西軍と通じているという最上氏の讒言をある程度は考慮したらしい家康の命令でいったん常陸宍戸藩に移封された後、福島の狭隘な三春藩に移され、地縁のないこの地で幕末を迎える。代わって秋田には、関ヶ原では中立の立場をとった常陸の強豪佐竹氏が入部し、久保田藩として幕末まで存続する。
 こうして17世紀半ば頃までには、大藩の外様伊達氏を南の御家門会津松平氏と西の譜代酒井氏が囲むような布置で東北地方の主要な領主が定まり、東北も幕藩体制の中に収斂していく。東北地方の主要領主が固定されたのは幕府が歴史的に抵抗・反乱の多かった東北地方の支配の安定に相当神経を使っていたことを示唆するものと言えよう。

2014年9月19日 (金)

抵抗の東北史(連載第11回)

十 戦国時代の東北

 南北朝統一後の室町幕府は東北支配を鎌倉府に委ねたが、鎌倉府が次第に自立化していく中で、東北支配も幕府と鎌倉府とに分裂し、東北支配は混乱していた。その結果、東北地方では早くから有力武将が半自立的に割拠する結果となり、他地域に先駆けて戦国時代に片足を踏み入れていたとも言える。
 応仁の乱を経て、全国的にも戦国時代が到来すると、東北では陸奥の南部氏や二家統合を果たした秋田の安東氏(天正期以降、秋田氏に改姓)のほか、会津の蘆名氏、伊達郡の伊達氏、山形の最上氏などが割拠する。
 このうち、戦国時代に急速に勢力を拡大し、奥州統一の野望を露わにするのが伊達氏であった。伊達氏は元来、常陸に発祥し、通説によれば家祖である常陸入道念西が源頼朝の奥州合戦で功績を上げて陸奥国伊達郡を安堵され、伊達朝宗(ともむね)を名乗ったことを始まりとする古い武門であった。家系上は藤原北家流を公称したが、確証はなく、常陸に土着した常陸平氏系とする説や在地豪族説もあり、出自は不詳である。たとえ藤原氏系だとしても、土豪化した地方の傍流にすぎないことはたしかである。
 伊達氏は南北朝時代は南朝方に付くも、やがて北朝に帰順し、以後も幕府と鎌倉府の対立の中で京都扶持衆として幕府を支えた。16世紀初頭以降、近隣諸侯と姻戚関係を結んで影響力を強め、東北随一の戦国大名に成長するが、16世紀半ばのお家騒動に端を発した内乱(天文の乱)でいったんは勢力を後退させる。
 この苦境を立て直したのが、あまりに有名な17代当主伊達政宗である。彼は単なる中興にとどまらず、攻撃的な領域拡張作戦を展開し、南の蘆名氏をも滅ぼして、最大領域を支配下に収めた。
 しかし、時は豊臣秀吉の天下であり、秀吉政権は九州地方に続き、1587年には関東・東北にも合戦を禁ずる惣無事令を発令していた。政宗はこれに違反して蘆名氏を討つ結果となったため、秀吉の不興を買い、1590年のいわゆる奥州仕置では大幅な減封処分を受けたうえ、領地替えとなった。一方で、南部氏や秋田氏、最上氏らは所領安堵となり、命運が分かれた。
 しかし、これで無事落着とはならず、東北地方特有の抵抗の精神が発揮される。仕置の結果改易処分となった葛西・大崎両氏の残党が中心となって起こした―背後には伊達政宗がいたと見られている―葛西大崎一揆をはじめ、国人衆や百姓による一揆も続発する。また1591年に秀吉政権が6万の大軍を投入することとなった九戸政実〔くのへまさざね〕の乱の実態は南部氏の家中騒動であったが、まとまりを欠く南部氏は自力で対処できず、秀吉に討伐を要請し、再仕置軍の派兵となったのであった。
 この再仕置をもってようやく東北地方は平定され、秀吉政権による全国統一が完成した。一方、秀吉に臣従し、合戦が止む中で、東北諸大名らも家臣団の再編など統制強化に努め、次第に近世大名としての体制を整備していくのであった。

2014年9月 5日 (金)

抵抗の東北史(連載第10回)

九 中世東北の再編

 蝦夷代官職として鎌倉時代に台頭し、津軽を拠点に土着した安藤氏は幕府滅亡後も南北朝動乱期を生き延びていくが、この頃から本来の拠点にある津軽にとどまった家系(下国家)と、日本海側秋田に移住した家系(上国家)とに分岐する。
 この分立がどのような経緯で生じたのか詳細は不明であるが、大きなお家騒動は記録されていないため、政策的な分家であった可能性が高い。この点、鎌倉時代中期に男鹿半島に北条氏所領が拡大されたことに伴い、蝦夷代官安藤氏の管轄区域がこの地にも及ぶようになり、日本海側の統治を担う分家が生じたとも考えられる。
 いずれにせよ、下国・上国両家は戦国期に統合されるまで、大きな内紛もなく平和的な分立体制を維持していくが、室町幕府発足後も、半自立的な勢力として繁栄したのは、下国家のほうであった。十三湊は港湾都市として整備され、北海道の渡党やエゾと呼ばれるようになった北海道先住民との交易の中心地として栄えた。遺跡出土品からは中国・朝鮮との貿易の形跡もある。
 考古学的な調査によると、十三湊は14世紀中頃から15世紀前半頃にかけて最盛期を迎え、以降衰退するとされることから、下国安藤氏の全盛期もその時期とみなされる。全盛期の安藤氏は自ら蝦夷の末裔を称した安倍氏とは異なり、もはや俘囚の長ならず、「奥州十三湊日之本将軍」を名乗った。
 下国安藤氏が15世紀前半に衰退した最大の理由は、青森の三戸を本拠とする南部氏が北に勢力を伸ばし、安藤氏を圧迫するようになったことである。南部氏は系譜不詳の安藤氏とは異なり、甲斐源氏出身の南部光行を家祖とし、明確に源氏系譜をたどれる名門であり、奥州藤原氏を打倒した奥州合戦での功績から奥州に所領を与えられた光行の子孫が土着して形成された。
 南部氏に追われた安藤氏は、かねてより交易を通じて勢力圏としていた道南にいったん逃れた後も、津軽奪還を試みるが、1453年に時の当主・安藤義季が南部軍に敗れ戦死して、下国家直系は断絶する。
 その後は義季の又従兄弟に当たる政季が継ぐ。彼は1456年、上国家の招きを受け、秋田の檜山に移住するに際し、道南の渡党を糾合し、三人の守護職を置いた。そして、檜山を拠点に下国家を再興した(檜山安東氏)。この家門再興に前後して、安藤氏は安東氏に改字したと見られる。檜山安東氏は次第に比内・阿仁地方まで勢力を広げ、出羽北部から道南を支配領域とする豪族に成長する。
 一方、下国家を救済した上国家は湊安東氏として京都扶持衆に名を連ね、自立気風の強い檜山安東氏とは異なり、室町幕府と密接な関わりを持っていたが、その事績はあまり明らかでない。
 こうして、出羽は檜山安東氏と湊安東氏として再編された安東二家が並立する体制となり、一方、津軽・青森地方では安藤氏を駆逐した前出の南部氏が強盛化し、次第に自立的な戦国大名に成長していく。

2014年8月28日 (木)

抵抗の東北史(連載第9回)

八 中世東北の抵抗

 奥州藤原氏が源氏によって滅ぼされ、東北も鎌倉幕府の支配下に入ると、この地方にも源氏配下の東国武士が地頭職に任ぜられて赴任してきた。特に幕府の実権が執権北条氏に掌握されてからは、北条氏所領が増加し、北条氏被官から有力者が現れる。中でも安藤氏である。
 安藤氏は2代執権・北条義時が陸奥守を兼任した際に、安藤五郎(または太郎)を「蝦夷代官」に任命したことを契機に奥州で同職を世襲する有力豪族に成長した一族である。蝦夷代官職の詳細はよくわかっていないが、その名称及び安藤氏の活動からすると、東北北部の旧エミシ領域の封建支配とともに、エミシがなお割拠していた北海道方面の踏査・渉外も委ねられた代官職と見られる。
 後に、安東氏→秋田氏と改姓し、最終的には主家・北条氏を越えて戦国大名・近世大名として幕末まで生き延びていく安藤氏は自ら安倍氏後裔を称したため、その真偽はともあれ、出自については奥州の土豪とする説が強い。しかし、北条氏被官として突如東北に出現した経緯からすると、本来は東国武士の出自と見たほうが自然である。
 史書ではないが、平安末期から鎌倉初期に編纂された仏教説話集『地蔵菩薩霊験記』に、武芸で名声を得た安藤五郎なる鎌倉武士が公命により蝦夷地に赴任し、夷敵を滅ぼし、貢納させたとあることから、同時代の民間にあっては安藤氏は鎌倉武士とみなされていたようである。
 この点で、通説とはなっていないが、駿河国北安東庄出身の北条氏被官で義時側近でもあった安東(安藤)忠家との系譜関係が注目される。この平姓安東氏自体の系譜も明確でないが、本貫地は安倍郡に属したことも、東北安藤氏の安倍氏の名乗りとの関係で意味深長である。ただ、東北安藤氏が奥州安倍氏の後裔を称したのは、滅亡から150年以上を経ても当地になお残る旧安倍氏の伝説的な威光を借りることが、支配上なお有効だったからとも考えられる。
 出自はどうであれ、安藤氏は東北に土着し、津軽の十三湊を拠点に道南地方との交易も掌握しつつ、広大な領域を統治し、元寇後の幕府権力の衰えとともに自立性を高めていくが、その象徴が1320年代に起きた安藤氏の乱である。
 この乱の直接的な契機は、時の蝦夷代官安藤季長とその従兄弟の季久の間での内紛にあったが、これに幕府・北条得宗家が介入し、蝦夷代官職を季長から季久にすげ替えた。これが裏目となり、不服の季長が幕府・得宗家に反抗し、内戦となった。幕府は間もなく季長を捕縛するが、季長派郎党の抵抗は続き、幕府は大軍を送って1328年にようやく鎮圧、講和となった。
 この乱の背景には、罷免された蝦夷代官季長が「蝦夷の乱」に適切に対処し切れなかったことがあるとされるが、混血系の新東北人が台頭してきた平安末期以降の東北地方に純粋の「蝦夷」(エミシ)はもはや残っておらず、ここで言う「蝦夷の乱」とは新東北人の中でも比較的旧エミシの血を濃く引く被支配層に属した者たちが、安藤氏の収奪に対して起こした一揆的反乱を意味するものであろう。
 ともあれ、御内人に背かれ、鎮圧に手間取った安藤氏の乱は鎌倉幕府の凋落を加速する要因ともなり、実際、幕府は乱の鎮定からわずか5年後には滅亡するのである。
 一方、自立勢力としての性格を強めていた安藤氏は幕府滅亡と運命を共にすることなく、津軽を拠点とし続ける下国家と秋田に移住した上国家の二家に分立しながらも、南北朝時代を生き延びていく。

2014年8月20日 (水)

抵抗の東北史(連載第8回)

七 新東北人の形成と抵抗(下) 

 奥州安倍氏の没落後、その支配を継承して東北随一の豪族となったのは出羽清原氏であった。清原氏は安倍氏のように徒に朝廷に反抗的となることは避け、むしろ朝廷に従いつつ、源氏のような武士団としての成長を目論んだ。
 特に前九年の役で功績を上げた清原武則の孫に当たる真衡〔さねひら〕は自らの棟梁の権限を強化し、独断で常陸平氏系の岩城氏から養嗣子を迎え、これに源氏系の妻を娶らせるなど、源平両氏と縁戚関係を築き、権勢を強めた。しかし、こうした真衡の独断専行は一族の内紛を引き起こし、内戦にまで発展するが、彼はその最中の1083年、急死する。
 この清原騒動に介入してきたのが、折りしも陸奥守として赴任してきた源義家であった。彼は前九年の役の際の鎮守府将軍・源頼義の息子である。朝廷の命によらず独断で清原騒動に介入した義家の意図は、前九年の役で父の頼義が狙った陸奥守再任を果たせなかった無念を晴らし、この地での源氏の勢力を拡大することにあったと思われる。
 義家は当初は平和的な調停により、真衡の遺領を内紛の重要な当事者でもあった真衡の二人の異母弟・清衡と家衡に分割相続させたが、このことが裏目に出て、今度は両人の間で内戦となった。この内戦は家衡が清衡に仕掛けて始まった。
 実は清衡は前九年の役に際して安倍氏側について処刑された藤原経清〔つねきよ〕の遺児であり、彼を連れて真衡・家衡兄弟の実父・武貞と再婚した経清未亡人の連れ子であった。そんな清衡は源氏にとっては仇敵のはずであったが、自分の調停を反故にした家衡に怒った義家は清衡側に加担して家衡を破り、一連の清原騒動は終結した。
 このいわゆる後三年の役は朝廷から「私戦」とみなされ、義家は恩賞なしのうえ、陸奥守も罷免されてしまう。その結果、義家に助けられて勝利した清衡が新たな奥州の支配者となるが、彼こそが奥州藤原氏の実質的な初代・藤原清衡である。彼が藤原の姓を本家の藤原摂関家から許されたのは、実父の経清が平将門を討った名将・藤原秀郷の末裔と目されたからである。
 経清はおそらく多賀城の官人出身で、安倍頼時の娘を妻に迎え、安倍氏に仕えるようになっていた。彼の死後、未亡人は幼い息子・清衡を連れて前九年の立役者・清原武則の息子・武貞と再婚したのであった。
 この政略的な再婚の結果、奥州藤原氏は新東北人の豪族である安倍・清原両氏を止揚的に継承する存在となり得たのである。清衡は有名な平泉に豪華な政治・文化都市を造営して、奥州藤原氏の長くはない繁栄の基礎を築いた。
 奥州藤原氏は清原氏とは異なり、武士団として歩もうとはせず、摂関家縁者として摂関家との結びつきを深め、中央と直結しようとする一方で、自ら「東夷の遠酋」「俘囚の上頭」などといささか自虐的とも取れる名乗りをしたが、これは実際にかれらがエミシの首領であったというのではなく、当時の東北では半ば伝説化していた俘囚の首領を名乗ることが東北支配を固めるうえではなお有効であったことを示すものであろう。
 ちなみに、奥州藤原氏四代のミイラの形質的調査によると、かれらは京都人型とされているが、これは藤原氏系であれば当然のことである。ただ、清衡の母方から奥州安倍氏の血を引いているため、新東北人の安倍氏に俘囚エミシの血が入っていた限度で、奥州藤原氏もエミシの遺伝子を部分的に継承していた可能性はあるが、それは形質的に発現するほどではなかったのであろう。
 奥州藤原氏は王朝政治の枠内で武家政権を樹立した平氏政権の時代は生き延び、むしろこの時代に重なる清衡の孫・秀衡の時代に全盛期を迎えるが、王朝政治を超克しようとした源氏の時代が到来すると、にわかに終焉した。
 秀衡は平氏打倒後、奥州藤原氏を配下に置こうと迫る源頼朝に対して超然的な態度を取ったうえ、兄・頼朝の追及を逃れてきた義経をかねて手元で養育した好からかくまって、頼朝との対立を決定的にした。
 その最中に病死した秀衡を継いだ嫡子の泰衡は父の遺言を無視して義経を攻めて自害に追い込み、頼朝に恭順の意を示すが、狡猾な頼朝は逆に許可なく保護下の義経を討ったとして泰衡討伐を命じ、奥州合戦に突入する。結局、泰衡は逃亡先で家臣の裏切りにあって殺害され、奥州藤原氏は四代で滅亡した。
 直後に、泰衡の家臣であった大河兼任〔おおかわかねとう〕が主君のあだ討ちを名目に藤原氏残党を率いて大規模な反乱を起こすが、これも間もなく鎮圧され、以後の奥州はしばらく鎌倉幕府の軍政下に置かれる。

2014年8月14日 (木)

抵抗の東北史(連載第7回)

六 新東北人の形成と抵抗(上)

 9世紀後半期の俘囚反乱が収束すると、一世紀以上、東北地方では平穏が保たれる。この間、平安朝による民族浄化政策の結果として入植和人と俘囚エミシの通婚・混血が進み、新しい東北人が形成されていった。こうした「新東北人」は部分的にはエミシの血を引きながらも、すでに文化的にも形質的にも和人化されていたと考えられる。
 平安朝末期、藤原氏が支配する朝廷の権勢が陰り、武士階級が台頭してくると、新東北人の中からも、奥州安倍氏と出羽清原氏という二つの有力な武家が現れる。この二代家系は、東北の太平洋側と日本海側という旧東北エミシの二大拠点に対応して台頭している。
 両家はともに安倍氏・清原氏という中央貴族と同姓を名乗っていながらしばしば俘囚の頭目を称したことから、俘囚エミシの末裔とみなす見解もあるが、実際のところは、上述したような新東北人の有力武門―もしくは中間的な軍事貴族―と見るべきものであろう。
 中央貴族の氏族名を名乗ったのは権威づけのための仮冒とみる余地もあるが、奥州では9世紀後半、阿部比羅夫の末裔でもある安倍比高〔なみたか〕が陸奥守・鎮守府将軍を務めたことがあり、彼が現地で残した庶流が在地豪族化して安倍氏を名乗るようになったとも推察でき、傍系とはいえ中央貴族安倍氏の流れであった可能性も十分認められる。
 出羽清原氏についてはかねてより中央貴族で歌人でもあった清原深養父〔ふかやぶ〕の子孫とする系図も残されており、清原氏系とする説が有力であった。ただ、同じ清原氏系でも878年に秋田で起きた俘囚反乱・元慶〔がんぎょう〕の乱の際に鎮圧に当たり、乱後は秋田城司として俘囚の管理を担った清原令望〔よしもち〕を祖とするという説のほうが、確証はないもののより真実味がある。
 いずれにせよ、安倍・清原両氏は朝廷の権勢が陰り始めた11世紀半ばに半独立状態の豪族として台頭してくる。そうした半独立の権勢を示す狙いから、後に両家を継承した奥州藤原氏がそうしたように、あえて自ら俘囚長とか俘囚主を称した可能性はあろう。
 特に安倍氏は記録上安倍頼良(頼時)の代で急速に勢力を拡大し、奥六郡を中心に、今日の青森県東部から宮城県南部にまたがる広大な領域を支配下に収めた。ついには、朝廷への貢租を懈怠するまでになり、朝廷から敵視された。
 1051年から10年以上にわたって続いた内戦―いわゆる前九年の役―は、こうした安倍氏と朝廷との衝突の結果であった。安倍氏は鎮守府将軍として派遣された源氏二代目棟梁・源頼義と当初良好な関係を築いたが、東北地方で地盤を築くべく陸奥守再任を企てた頼義の挑発に乗る形で戦争に突入した。
 戦死した頼時を継いだ息子の貞任〔さだとう〕を相手に頼義は当初苦戦したが、出羽清原氏の援軍を頼んでようやく安倍氏を滅ぼした。こうして安倍氏の権勢は事実上二代で終わった。代わって、軍功のあった清原氏が奥六郡の旧安倍氏所領も併合して東北最大の在地豪族となり、源平両氏と縁戚関係を結びつつ、後三年の役で滅ぼされるまで権勢を張ることになる。
 ちなみに、この時代に至っても津軽半島や下北半島など東北最北地にはエミシ残党―少なくともそれを自称する勢力―が残っていたらしく、1070年には桓武天皇を意識する時の後三条天皇の征夷完遂政策の一環として、清原氏の軍勢を主力とする朝廷軍が遠征を行っている。
 一方、安倍宗家は滅んだが、頼時の三男・宗任〔むねとう〕は伊予、次いで筑前(大島)に流罪となり、さらにその子孫から九州の海賊・松浦党を構成する武士団が派生している。その一派のうち平氏側について治承・寿永の乱で現在の山口県長門に流罪となり、現地に土着した一族の末裔が第90代及び96代内閣総理大臣・安倍晋三とされる。

2014年8月 8日 (金)

抵抗の東北史(連載第6回)

五 民族浄化と俘囚の反乱

 坂上田村麻呂が率いた平安朝によるエミシ掃討作戦が終了し、障害要因が除去されると、朝廷は東北入植政策を本格化させる。それは、強制移住と同化という二つの手段を通じて行われた。
 強制移住は和人の代替的入植と引き換えに、エミシを集団で全国に強制的に移配する策であり、東北を和人化するうえでの中心政策であった。移配先でも、騎乗・騎射にすぐれた勇猛な俘囚エミシは朝廷にとって兵士の給源であり、国衙軍制の中で臨時徴兵員として徴用された。また柄頭が蕨の若芽様の渦巻き状であることから蕨手刀と呼ばれたエミシ特産の刀は、やがて興隆する武士が使用する日本刀の原型となったとされ、武具史上も俘囚エミシは和人に影響を及ぼしている。
 とはいえ、移配先は遠く九州を含むエミシ社会とは生活習慣も言葉も違う未知の土地であった。移配俘囚は一般公民と区別され、租税は免除、自立できるまで現地国衙から糧食を供給させる生活保護政策が採られたが、元来狩猟民であるエミシが縁もゆかりもない土地で定住農民として自立するのは難しく、生活保護からの脱却は無理であった。生活環境の違いから健康を害し、命を落とすエミシも跡を絶たなかったと見られる。
 こうした中で、移配俘囚らが待遇改善を求めて武装蜂起する俘囚反乱が全国各地で相次ぐようになった。特に883年に上総で起きた俘囚反乱は大規模で、朝廷は自力で対処し切れず、上総国司に追捕権を付与せざるを得なかった。かくして強制移住政策は治安上も合理的ではなくなってきたことから、朝廷は897年以降、移配俘囚を奥羽へ送還する政策転換に踏み切る。
 一方、一部の従順なエミシは移配されず、奥羽の原住地で俘囚化されたが、やはり俘囚は租庸調を免除され、国衙から糧食提供を受けた。それでも上総俘囚反乱と同じ元慶年間の878年には、出羽国俘囚による大規模な反乱が起きている。
 とはいえ、東北の族長級有力俘囚エミシは和人との交易で財を築き、血統的にも人口上多数派となりつつあった入植和人との通婚により混血が進んだ。皮肉にも原住俘囚のほうが移配俘囚より同化が進み、エミシとしての民族性を次第に喪失していったのであった。
 こうした強制移住と同化という民族浄化政策は、遠く19世紀にアメリカ合衆国が先住インディアン諸部族に対して実行した民族浄化政策と驚くほどよく似ている。エミシ俘囚化政策は、日本の平安朝がアメリカ政府より千年先駆けて行った民族浄化政策の先例であった。

2014年8月 1日 (金)

抵抗の東北史(連載第5回)

四 征服と抵抗(下)

 多賀城築城の後、しばらくは朝廷軍とエミシ勢力の大規模な衝突は記録されていないが、朝廷による入植政策とそれに対するエミシの抵抗戦はなお断続的に続いていたものと見られる。 
 そうした中、780年に転機となる大規模なエミシの蜂起が再発した。これは陸奥国の伊治呰麻呂〔これはりのあざまろ〕というエミシの軍事指導者が中心になって起こした事件であった。呰麻呂は当時、朝廷の官位を持ち、伊治郡(後の栗原郡)の大領の地位にある人物であった。彼は俘囚(夷俘)だったとされるが、この時代にはまだ帰順したエミシを俘囚として再編する政策は本格化しておらず、おそらく彼は自発的に朝廷に帰順し、官位と地方官の地位を保障されたエミシであったと考えられる。
 呰麻呂は朝廷の先兵として、自ら出羽国におけるエミシ征服作戦を買って出て成果を上げ、朝廷からも報賞として官位を授与されたのだった。そんな彼が突然蜂起したのは、当時牡鹿〔おしか〕郡大領だった道嶋大盾がエミシ出自の呰麻呂を蔑視する態度を隠さなかったことへの個人的な恨みからであったとされる。
 彼は、根拠地の伊治城を陸奥国按察使・紀広純が訪問した時をとらえ、配下のエミシを率いて蜂起し、大盾を殺害、続いて呰麻呂に信頼を寄せていたとされる広純まで殺害した。呰麻呂はさらに軍を進めて、ついに多賀城を落とし、城は焼失した(後に再建)。
 東北経営の拠点であった多賀城を落とされたことで、この件はただの反乱では済まなくなった。養老蜂起以来60年ぶりの按察使暗殺に直面した朝廷は直ちに鎮圧軍を派遣するも、今回は成果が上がらず、戦線は拡大した。この後、呰麻呂の動静は記録から消えるが、捕縛処刑の記事も見えないことからすると、彼はしばらく根拠地で解放区的な支配を維持したとも考えられる。
 呰麻呂に続いてエミシの軍事指導者となるのは、より有名なアテルイである。彼の名の初見は、呰麻呂蜂起から9年後の789年のことである。この年、アテルイは現在の奥州市水沢の巣伏〔すぶし〕の戦いで征東将軍・紀古佐美〔きのこさみ〕の軍勢を大敗させ、名を馳せた。
 この頃、朝廷の長は平安朝創始者・桓武天皇であったが、桓武は東北征服作戦に特に注力していた。紀古佐美の軍勢も桓武の厳命でエミシ軍を奥州まで深く追撃したところをアテルイに迎撃されたのであった。この後、体制を立て直すべく、朝廷は新たに征夷大将軍の臨時職を新設する。797年、その第二代に任命されたのが、有名な坂上田村麻呂であった。
 すでに前年以来按察使・陸奥守・鎮守将軍を兼任し、軍事作戦と東北経営の全権を委任されていた田村麻呂は優勢に作戦を進め、802年にはアテルイとその協力者モレの二人を降伏させた。同年、多賀城より北方の奥州に胆沢城を築城し、新たな東北経営の拠点とした。二人を平安京へ連行した田村麻呂は助命を進言するが、朝廷高官らの反対により、二人は処刑された。
 胆沢城は従来、『日本書紀』にも「日高見国」の名が見えるほど、エミシの独立した部族制社会が強力に維持されていた北上川流域の奥六郡にも支配を及ぼすうえで重要な拠点となったものと見られる。
 これ以降、エミシによる大規模な蜂起は見られなくなるとともに、強制移住を伴う朝廷によるエミシ俘囚化政策が本格化していく。これは軍事的征服から民族浄化への政策転換であった。

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