〆私家版松平徳川実紀

2014年9月12日 (金)

私家版松平徳川実紀(連載最終回)

二十七 徳川家達(1863年‐1940年)

 通常の徳川史は最後の将軍15代慶喜をもって閉じられるが、明治維新後、華族(公爵)の身分を与えられて存続した近代徳川家の祖と言うべき人物として徳川家達〔いえさと〕を無視するのは正当でない。
 家達が出た田安家は将軍を出す御三卿の一つであったが、一橋家支配の中で実際に将軍を輩出することはなかった。家達の父は14代将軍家茂の将軍後見職を務めたこともあり、家茂は死去の際、遺言で家達を後継指名したが、幼年のため幕閣や将軍未亡人和宮の反対を受け、一橋家の慶喜が将軍に就いた経緯があった。
 しかし、明治維新後、「朝敵」とされた慶喜が徳川宗家当主の座を降ろされ、謹慎の身となったことから、当時まだ5歳にもならない田安家当主家達が形式上は慶喜の養子に入り、徳川宗家当主に就くこととなった。皮肉にも、徳川幕藩体制が終焉して初めて田安家の時代が到来したのであった。
 とはいえ、もはや将軍ではなく、家達最初の仕事は根拠地の静岡藩知事という地方長官職であったが、それも廃藩置県で間もなく免官となり、東京へ移った。以後は英国留学など明治期の華族子弟としての英才教育を施された。
 帰国後は、明治二十三年(1890年)から貴族院議員となり、近代政治に参与する。同三十六年(1903年)に貴族院議長に勅任されると、昭和八年(1933年)に任期途中で辞職するまで、歴代最長の五期連続三十年近くにわたり貴族院議長を務め、明治から大正を経て昭和前期に至る日本の議会政治の一翼を担った。
 この間、大正三年(1914年)には、当時の山本権兵衛内閣がシーメンス疑獄事件の発覚により総辞職に追い込まれた後、人心一新のため天皇から組閣の命を受けたこともあった。受けていれば、徳川家当主が約半世紀ぶりに政治のトップに就く形になったはずであったが、この時は徳川一門の強い反対を受け、辞退した。
 貴族院議長は名誉職的存在であるため、家達が直接に政治を主導するような場面はなかったが、第一次大戦後、1921‐22年のワシントン軍縮会議では首席全権代表の一人として交渉に参加した。この会議で日本は海軍主力艦保有比率を英米の6割に切り下げられたことから、「軟弱外交」の批判も浴びたが、これとて実質的な交渉責任者は海軍大臣であり、貴族院議長の家達は権威づけ的な意味合いで参与したのにすぎないので、批判はとばっちりではあった。
 家達は貴族院議長のかたわら、恩賜財団済生会会長や日本赤十字社社長などの官製厚生事業のほか、大日本蹴球協会(現日本サッカー協会)名誉会長や、戦争のため幻に終わった1940年東京五輪招致成功後の大会組織委員会委員長など国家体育事業にも関与した。
 ちなみに、家達は両性愛者であったようで、妻子を持つ一方で、男性とも性関係を持ち、セクハラ騒ぎを起こすなど、一門が眉をひそめる無軌道な一面もあった。先祖の将軍たちの中にも両性愛者がいたが、武家の「衆道」が特権慣習的に許されていた時代とは異なり、「不祥事」とみなされてしまうのも、近代徳川家ならではの悲哀だったかもしれない。
 ともあれ、家達以降の近代徳川宗家は第二次大戦後、貴族制度廃止により一般公民化されても田安系で継続している(現当主恒孝〔つねなり〕氏は母方を通じて家達の曾孫に当たる会津松平系の養子)。

2014年9月 6日 (土)

私家版松平徳川実紀(連載第23回)

二十六 徳川慶喜(1837年‐1913年)

 徳川慶喜は本来は水戸徳川家の当主・徳川斉昭の七男として生まれたが、12代将軍家慶の命により一橋家の養嗣子となり、一橋家当主を継いだ。英明の評判の高かった慶喜は最終的に将軍に就任する以前、二度将軍候補に挙がったことがある。
 一度目は家慶が将軍不適格の息子家定に代えて慶喜を次期将軍とする構想を非公式に内示した時であった、これは幕閣の反対により立ち消えとなった。二度目は13代将軍家定の治世末期であり、この時は明確に斉昭ら一橋派から将軍に推挙されたが、紀州藩主家茂を推す南紀派に押し切られた。この後、実権を握った大老井伊直弼主導の政権では、安政の大獄に連座して隠居謹慎処分を科せられ、政治的発言力を封じられた。
 しかし、井伊暗殺後、一橋派が復権すると、将軍後見職に送り込まれ、年少の14代将軍家茂の下、実質的な摂政として実権を掌握した。そして政事総裁職に就任した福井藩主松平慶永(春嶽)との二頭体制で公武合体期の国政を主導する。
 しかし、間もなく朝廷への恭順姿勢の強い慶喜と朝廷との距離を保とうとする慶永の相違が表面化し、慶永は辞職する。慶喜は攘夷を主張する朝廷に従って横浜港閉港方針を固め、朝廷との密着を強めた。元治元年(1864年)に将軍後見職を辞し、後の近衛師団長に相当する禁裏御守衛総督に就いた慶喜は、尊皇攘夷派筆頭の長州藩征伐に専心する。
 そうした中、第二次長州征伐渦中の慶応二年(1866年)に将軍家茂が急逝すると、幕閣と将軍未亡人和宮の推挙を受け、15代将軍に就任する。再び将軍職が一橋系に復帰した形となったが、前述のとおり、血統上慶喜は御三家ながら将軍を出さない「副将軍」格の水戸徳川家の出身であったことから、実家の水戸家の反対を受け、自身も当初は将軍就任を固辞していた。しかし、終末期の幕府は人材も払底しており、慶喜以外の有力候補者は見当たらなかった。
 こうして三度目の正直で将軍に就任した慶喜は畿内に常駐し、事実上朝廷の首相のような立場で国政に当たった。彼の将軍在位は1年ほどであったが、この間、慶喜はフランスの援助で近代軍備を整備したほか、大規模な行財政改革にも着手するなど、幕藩体制の枠内で近代的な改革にも踏み込んだ。これは「慶応の改革」とも呼ばれるが、従来の保守反動的な「改革」とは異なり、実質的な改革プログラムを含んでいた。
 しかし、こうした限定改革ではもはや薩長の討幕運動を抑止し切れないことを見て取った慶喜は、慶応三年(1867年)、大政奉還を決定する。このことは、法的には徳川幕藩体制にとどまらず、鎌倉幕府開府以来700年近くにわたって続いてきた武家政権の終焉を意味した。ただ、慶喜は新たに自らを議長とする諸侯会議を設置し、内閣制に準じた形で徳川実権体制を残すことを画策していたようだが、これを阻止するため薩長が先制的に王政復古クーデターを起こし、慶喜を政権から排除した。
 この政変を契機として始まる戊辰戦争にも敗れた慶喜は、慶応四年(1868年)、江戸城無血開城とともに謹慎処分となり、実家の水戸を経て、徳川家本拠の駿府に落ち着いた。戊辰戦争では朝敵と名指された慶喜の助命と徳川家存続が許されたことには、皇族出身の和宮の仲介もあった。こうして徳川家自体の存続は認められたが、慶喜は宗家当主の地位からは降ろされ、田安家の徳川家達(いえさと)が新たな宗家当主とされた。 
 しかし明治二年(1869年)には早くも謹慎解除となり、引き続き駿府で隠居生活を送っていたところ、明治後半期になると東京へ移ることが許された。明治三十年(1902年)には宗家とは別途徳川慶喜公爵家の創設が認められ、貴族院議員として近代政治にも参与した。
 明治を越え、大正二年(1913年)まで長生した慶喜は将軍経験者で唯一20世紀を生きた人物であった。前近代に生まれ、近代にも適応して生き延びた慶喜は時代の変化を読み取る力はあったが、動乱期の指導者として強力とは言えなかった。反面、幕藩体制、ひいては封建的武家支配に幕を引く人物としてはふさわしかったのかもしれない。

私家版松平徳川実紀(連載第22回)

二十五 松平容保(1836年‐1893年)

 松平容保〔かたもり〕は、元来尾張藩支藩の美濃高須藩主の六男として生まれたが、かつて2代将軍秀忠の庶子保科正之が興した会津松平家の養嗣子となり、会津藩主を継いだ。血統上は水戸徳川家から高須藩主家を養子として継いだ祖父を通じて水戸家の流れを汲み、同志的存在であった最後の将軍徳川慶喜とも同系に当たる。
 容保が国政に登場するのは、慶喜と同様、桜田門外の変後の政権交代により、文久二年(1862年)に新設された京都守護職に就任した時である。当初はすでに多くの警護職を引き受け、逼迫していた藩財政を考慮し、固辞したものの、政事総裁職の松平春嶽の説得を受けて受諾した経緯があった。
 就任後の容保はさっそく上洛し、京都の警備任務を着実にこなして孝明天皇の信任を得た。この頃から忠実な佐幕派として将軍後見職慶喜らが主導する公武合体政策を支持し、尊皇攘夷派の取り締まりに厳しく当たった。特に慶喜が将軍後見職を辞し、禁裏御守衛総督に就くと、慶喜や実弟の京都所司代松平定敬〔さだあき〕と協力して京都を固め、長州藩排除に専心した。特に文久三年に長州藩を京都から放逐する政変を主導したことで、天皇の信頼を増した。
 慶喜が15代将軍に就くと、引き続き京都守護職として慶喜政権を支えるも、大政奉還後の王政復古クーデターで京都守護職が廃されると、表向きは新政府に恭順の意を示して会津へ帰国し、隠居・謹慎生活に入った。
 しかし、容保をいっそう有名にしたのは、隠居後、新政府に刃向かった会津戦争であった。新政府は容保を佐幕派首領とみなし、謹慎中の容保追討を東北諸藩に命じる。これに対して、会津藩に同情的な東北諸藩は奥羽列藩同盟を結成して会津藩赦免嘆願行動を起こすが、新政府・容保双方の強硬姿勢の前に赦免嘆願は実らなかった。
 東北・北越諸藩が奥羽越列藩同盟を結成すると、容保は側近の諫言を押し切って新政府との全面戦争に打って出た。こうして一連の戊辰戦争の中でも最も凄惨を極めた会津戦争が勃発する。しかし、当初から戦力において圧倒的に不利な会津藩に勝ち目はなく、戦況は新政府軍有利に展開、最後は決死の若松城篭城作戦も実らず、2500人を越す犠牲を出して全面降伏となった。
 にもかかわらず、戦後処理は無謀な戦争を主導した容保は薩長の計らいで死罪を免れ、家老一人が死罪となるという封建的なものであった。新政府としては、容保死罪によりなお徹底抗戦を主張していた強硬派残党が蜂起することを恐れたものと思われる。
 戦後は蟄居の身となった容保であるが、間もなく赦され、旧佐幕派にふさわしく日光東照宮宮司として余生を送り、明治二十六年(1893年)に東京で病没した。結局、容保は最後まで徹頭徹尾、主君に奉仕するまさに日本型の封建武士なのであった。
 なお、明治維新後の近代徳川宗家の現当主(養子)徳川恒孝〔つねなり〕氏は容保の六男の孫(容保の曾孫)に当たり、分家を介してながら、近代徳川宗家に容保の血統が流れることになった。

2014年8月29日 (金)

私家版松平徳川実紀(連載第21回)

二十三 徳川家茂(1846年‐1866年)

 先代13代家定は病弱で実子もなかったため、存命中から後継者をめぐり派閥抗争が勃発していた。それは家定まで三代続けて将軍を出した一橋家の徳川慶喜を推す慶喜実父の水戸藩主・徳川斉昭ら一橋派と、紀州藩主・徳川家茂〔いえもち〕を推す大老・井伊直弼ら南紀派の間で争われた。この争いの背後には、開国派の南紀派に対して、攘夷派主体の一橋派という外交政策をめぐる対立があった。
 両派は共に紀州系という大枠では同門であったが、封建的な血統論から先代の従弟に当たる家茂を強く推した南紀派が勝利し、家茂が家定の養子となる形で、後継に決定した。この際、井伊主導で一橋派を弾圧する安政の大獄を起こしたことは、後に井伊自身も命を落とす禍根となった。
 こうして一橋家の支配はひとまず終焉して、再び吉宗以来の紀州藩本家筋に原点回帰する形となったが、家茂はこの時まだ12歳の少年であり、開国直後の難局に当たるには幼すぎたため、政治の実権は桜田門外の変で井伊が暗殺されるまでは井伊に握られ、その後は将軍後見職に就いた一橋慶喜に握られた。
 その慶喜実権体制の下で、幕府延命の切り札として実現されたのが、公武合体という壮大な政略婚であった。家茂の正室として、家茂と同年の和宮親子〔ちかこ〕内親王が招聘された。この婚姻は封建的身分秩序からすれば、皇族出身の妻が格上の「逆玉婚」であり、家茂も和宮に対しては低姿勢で何かと気を使ったため、彼は将軍というより「和宮の夫」のような立場となっていた。
 このように家茂は公私にわたり制約された立場を強いられたが、本人はそうした自身の限定的な役割をよく心得ていたようで、成人しても増長することはなかった。しかし慶応元年(1865年)、朝廷の攘夷方針に反して兵庫開港を強行した時の老中・阿部正外〔まさと〕と松前崇広〔たかひろ〕が朝廷から処罰されると、時の孝明天皇に将軍辞職の意向を突きつけて、以後幕府人事への朝廷の不干渉を約束させるなど気骨も示した。
 しかし彼も先代同様病弱だったと見え、実子は生まれず、慶応二年(1866年)、第二次長州征伐に親征の途上、大坂城で急逝した。20歳であった。
 結局、家茂は政略で年少にして将軍となり、皇族との政略婚を強いられ、その生涯を政略によって左右された。彼が長生していればどうなったかわからないが、幕藩体制の存亡がかかった危機の指導者としては先代家定同様、弱体であった。

二十四 和宮親子(1846年‐1877年)

 和宮親子は、明治天皇の祖父に当たる仁孝天皇の第八皇女であったが、上述のように公武合体政略の結果、本人の意思に反して将軍家に降嫁する運命となった。
 封建身分秩序のもとでは、属する身分によって生活様式も全く異なったことから、皇室側は和宮降嫁に当たり、御所の生活流儀を維持するよう幕府に申し入れていたが、遵守されず、和宮は慣れない武家の生活や大奥での人間関係、特に先代家定の継室で義理の姑に当たる天璋院の嫌がらせに苦しんだようである。それでも、夫の将軍家茂は和宮に気を使い、丁重に扱ったことで、夫婦仲は良好であったとされることが救いであった。
 しかしその家茂とも3年ほどで死別し、和宮は江戸城に取り残されることになる。しかし、彼女はむしろ家茂の死後、政治的にも重要な役割を果たすようになる。まず、またも持ち上がった将軍後継問題に関して、家茂が死の間際に遺言した田安家の亀之助後継を幼少を理由に退け、幕閣の多くが推していた一橋慶喜後継を支持して実現させた。
 その後も、和宮は江戸にとどまり、大政奉還から戊辰戦争、江戸城無血開城に至る動乱の中、幕府と朝廷の仲介者として平和的な役割を果たしている。特に王政復古後は将軍不在となる中、事実上徳川家の代表者として、かつて嫌がらせを受けた天璋院とも協力しながら、慶喜助命や徳川家の存続のために奔走するなど、仲介的な役割を果たしたのであった。
 彼女は明治維新後、一度帰京を果たしたが、間もなく新都・東京に戻り、徳川一門の大御所的存在として余生を送っていたところ、持病の脚気が悪化し、明治十年(1877年)に31歳で没した。
 彼女も亡夫・家茂同様、生涯を幕末の政略に左右されたが、そういう運命に耐えて、動乱の時期に皇族出身の将軍正室という前例のない役割を果たすべく努力した。
 政治的には朝廷の方針に従い一貫して攘夷派であったが、明治維新の体制移行に伴う流血が必要以上に拡大しなかったことには、和宮の果たした平和的仲介者としての貢献もあったと考えられる。

2014年8月21日 (木)

私家版松平徳川実紀(連載第20回)

二十二 徳川家慶(1793年‐1853年)/家定(1824年‐1858年)

 家慶は11代将軍家斉の次男であったが、兄が夭折したため、将軍後継者となった。ただ、最初の4年は父の家斉が大御所として君臨したため、傀儡の状態であった。父が死去するや、腐敗した父の側近グループを追放し、老中首座ながら冷遇されていた水野忠邦に実権を与え、改革に着手させる気概を示した。これが江戸時代三大改革の一つに数えられる「天保の改革」である。
 しかし、天保の改革の基本線は松平定信の寛政の改革の復刻であり、寛政の「改革」同様、「改革」というより「反動」であった。従って、またも統制と緊縮であった。特に風紀取締りは寛政期より徹底し、出版統制にとどまらず、芝居小屋の郊外移転、寄席の閉鎖から歌舞伎の抑圧にまで及び、庶民の数少ない娯楽を奪うことになった。
 ただ、軍事政策に関しては新規の政策として、排外的な外国船打払令を薪水給与令に転換し、外国船にも燃料・食糧の援助を行うこととした。これは間もなく始まろうとしていた開国政策を予感させる初めの一歩であった。
 一方で、西洋式砲術を導入し、近代的な軍制整備を目指すなど、それまであまり意識されていなかった国防政策にも踏み込んだ。
 しかし、その延長で江戸・大坂二大都市の防衛を目的に、周辺大名・旗本の領地を召し上げ、幕府直轄地化を図る上知令は、水野の政治生命を縮めることとなった。封建制を解体することなく成り立っていた幕藩体制の根幹を揺るがすこの施策は、当然にも上知対象となる領主らの反発を招いたのだ。そのため、事態を重く見た家慶の判断で上知令は撤回、水野も罷免され、天保反動はわずか2年ほどで挫折したのであった。
 ただ、家慶は水野に未練があったようで、早くも翌年には口実をもうけて彼を老中首座に呼び戻しているが、この人事には幕閣から強い異論があり、復帰後の水野は欠勤がちでほとんど仕事をしないまま、1年あまりで罷免、今度は旧側近らの汚職問題に連座して減封・転封の懲罰処分まで受けて追放された。
 家慶時代最大の危機は嘉永六年(1853年)の黒船来航であったが、家慶はこの問題の処理をめぐって幕閣が揺れる中、病没してしまう。
 この一大事の時に後を継いだのは、計27人もいた家慶の子どもたちの中で唯一成人まで存命した四男の家定であった。父家慶は家定の無力を深く懸念していたが、その懸念はすぐに的中した。家定には何らかの先天性障碍があった可能性もあるが、定かではない。ともかく、彼は夭折した7代家継を別とすれば歴代将軍の中でも最も暗愚であり、得意なことと言えば菓子作りぐらいであった。
 この時期の幕閣は先代から引き継いだ老中首座・阿部正弘を中心とする集団指導であったが、外交的な難局に当たり家定のような不適格者がトップに座ったのは、封建的な世襲政治の最大の弱点であった。
 結局、日本が米・英・仏・露・蘭の欧米列強五か国と立て続けに不平等条約を結ばされたのも、弱体な家定治下のことであった。そして、家定自身、この安政五年(1858年)の五か国条約を置き土産として、同年に病没したのである。

2014年8月16日 (土)

私家版松平徳川実紀(連載第19回)

二十 徳川治済(1751年‐1827年)

 徳川治済〔はるさだ〕は、御三卿の一つである一橋家の家祖・徳川宗尹の四男であったが、二人の兄が相次いで福井藩主家の養子となり、福井藩主に転出したことから、一橋家の2代目当主となった。
 趣味道楽の世界に遊んだ父とは異なり、治済は政治的な野心家であった。しかし彼の若年期は田沼氏の全盛期であり、田沼の親族が一橋家の家政にも関わるなど、田沼一族に支配されていた。そうした中で、治済は当初田沼と結び、御三卿ライバル家の田安家を出し抜くため、田安家当主候補だった定信の白河藩主家との養子縁組をセットし、後に定信が養子縁組解消を願い出た時にも、これを阻止した。ために、田安家は長く、当主不在のままに置かれた。結果、彼の一橋家が御三卿の中核となる。
 治済は10代将軍家治の死に際して、自身でなく、年少の長男・家斉〔いえなり〕を将軍に据えることに成功した。そして田沼の権勢が衰えたのを見ると、一転反田沼派に寝返り、田沼追放と田沼派粛清を裏で仕掛けた。おそらく、白河藩主家に追い落とした松平定信の反田沼感情の強さを見込んで老中首座に迎えたのも治済の計略であった。
 こうして、治済は自ら将軍に就任しないまま、将軍実父として将軍を背後から操る闇将軍となった。彼は1827年まで存命したから、大御所時代を含めて歴代最長の54年に及んだ家斉の治世のうち40年間に関与している。長い家斉の治世はしばしばまとめて「大御所時代」と呼ばれるが、この間の真の大御所は治済であったと言ってもよい。
 実際、当初治済は年少の家斉を動かして大御所の称号を得ようとしたことがあった。ところが、当時朝廷でも時の光格天皇が皇位に就いたことのない実父に太上天皇(上皇)の称号を付与しようとしたことに老中・松平定信が異を唱えて介入、結局撤回させた一件(尊号一件)があり、この対処方針との均衡上、将軍経験のない治済の大御所待遇も見合わせざるを得なくなった。このことで、治済は定信に反感を抱くようになり、今度は家斉を動かして定信追放を仕組んだと見られる。
 以後、治済は朝廷の官位では従一位・准大臣まで昇進するが、幕府では無役のまま闇将軍として幕政に関与し続けることになる。その間、治済は別の実子を田安家の当主に送り込んだほか、孫二人を相次いで御三家の尾張藩・紀州藩に養嗣子として送り込むことにも成功し、幕末にかけて一橋家が将軍家を含め、徳川一門の中心家系となる基盤を築いた。

二十一 徳川家斉(1773年‐1841年)

 徳川家斉〔いえなり〕は先代家治の世子・家基が夭折したのを受け、田沼や実父・治済の後継工作により家治の養子となり、次期将軍に決定された。そして先代死去を受け、天明七年(1787年)、若干13歳で11代将軍に就く。
 そのため、当初は老中首座・松平定信や実父・治済に実権を握られていた。定信の失墜後も、定信路線を継承した老中首座・松平信明〔のぶあきら〕ら寛政の遺老が集団指導した。信明が文化十四年(1817年)に没した後、家斉親政が開始されたとも言われるが、実際のところは、まだ存命中の実父・治済が背後で隠然たる権力を保持していたと考えられる。こうした二重権力状態は、治済が死去する文政十年(1827年)まで続いた。
 しかし治済‐家斉父子に政治的定見というものはなかったようで、松平信明の死後は、一転して旧田沼派人脈の側用人・水野忠成〔ただあきら〕を老中首座に起用して、寛政の反動政治を覆す。これはイデオロギー的な観点からの政策転換ではなく、単に家斉の贅沢志向を支える放漫財政を執行するのに水野派の利用価値が高いと見たからにすぎなかった。
 実際、金権政治が復活し、田沼時代以上とも言われる政治腐敗が進んだ。忠成も田沼のような「政策マン」ではなく、政策的な面でめぼしい実績はほとんどない。特に通商外交面では、開国的な思想を持った田沼とは異なり、異国船打払令のような排外一辺倒政策を採るなど、田沼政治とはかけ離れていた。放漫財政維持のため苦し紛れに実施した貨幣改鋳・大量発行も物価の騰貴を惹起しただけであった。一方で大量消費傾向が市中にも浸透し、文化統制の緩和も手伝って華美な化政文化が花咲くことにもなった。
 しかし天保五年(1834年)、忠成が死去すると、一挙に問題が噴出する。天保期に相次いだ大塩平八郎の乱や生田万の乱は首謀者の個人的な蜂起にすぎず、まだ討幕運動の域には達していなかったが、幕府の威信の揺らぎを象徴した。また19世紀末から活発化していた西洋列強の来航に対しても場当たり的な排斥以上の対処ができず、対外的にも鎖国政策の行き詰まりが露呈していた。
 後に「天保の改革」を主導する水野忠邦は同族に当たる忠成の死後、後任の座に就いていたが、当時はまだ忠成派の将軍側近に主導権を握られていた。忠邦が改革に着手できたのは、天保十二年(1841年)、長い家斉の治世がようやく終焉してからであった。

2014年8月15日 (金)

私家版松平徳川実紀(連載第18回)

九 松平定信(1759年‐1829年)

 10代将軍家治死去から間を置かずに田沼意次が追放されると、入れ替わりの形で翌年、老中首座・将軍補佐として新たな幕政指導者となったのが、松平定信であった。
 彼は当時、白河藩主であったが、元来は田安徳川家家祖・徳川宗武の七男で、8代将軍吉宗の孫に当たる。そのため、理論上は将軍継承権者の一人であったが、定信は年少の時に授姓松平氏である久松松平氏系白河藩主の養子となっており、田安家当主の兄が早世した際にも、呼び戻されることはなかった。
 定信は兄が死去した時に田安家復帰を狙って一度養子縁組解消を願い出るが、幕府は許可しなかった。田安家に戻っていれば、将軍世子家基が夭折した際に将軍候補となる可能性もあっただけに、定信は当時幕政を主導していた田沼意次が自らの田安家復帰を阻止したものとみなして、個人的にも田沼を敵視するようになったようである。
 結局、定信は既定どおり白河藩主に就任し、地方政治からスタートする。老中就任前の藩主時代には天明の大飢饉に際して飢餓対策で手腕を発揮しており、若くして行政的な力量を見せていた。
 定信のような将軍直系者が譜代大名からの登用を慣例とする老中に就任することは異例であったが、法的にはすでに徳川家を離れ譜代大名に転出していたので、老中の形式的な資格要件は満たしていたし、力量的にも老中には適格とみなされた。
 年少の11代将軍家斉の下、定信が事実上の幕府最高執権者として主導した政治は後世「寛政の改革」と称され、江戸時代三大改革の一つに数えられるが、実際のところ、定信の「改革」とは脱田沼政治ということにほぼ尽きる。定信は個人的な怨恨とは別に、イデオロギー的にも「田沼イズム」には批判的であったらしく、田沼時代の政策を覆すことに注力した。
 定信はイデオロギー的には朱子学を奉ずる保守主義者であり、そのキーワードは「統制」である。従って、彼が最も力を入れたのは思想・言論統制の強化であった。吉宗時代以来、低調になっていた体制教義・朱子学の再興を図った寛政異学の禁はその発露である。
 経済的には田沼流の重商主義を排し、帰農令による農村の再建を図った。また人足寄場で無宿人や浮浪人に授産したのは労働政策の萌芽とも言えるが、定信にとってはこれも治安統制の意味合いが強かった。
 一方、飢饉対策が政治の出発点であった定信は七分積金の制度を創設し、江戸の公共設備の修繕などに支出させたが、これは公共投資の萌芽とも言える新規制度で、以後幕末まで厳格に運用され、明治維新後の東京に引き継がれ、インフラ整備に転用された。
 こうした統制的な定信の政治は「改革」というよりは反動であり、彼の官僚的な性格とともに、幕府でも市中でも不人気であった。定信は寛政五年(1793年)、突如辞職を命じられ、幕府を去った。定信失墜の直接のきっかけは政治路線のゆえではなく、次の項で触れる朝幕関係を揺るがす一件(尊号一件)の対処方針をめぐって将軍家の不興を買ったことによると見られるが、彼の不人気も早期の失墜を後押しした。
 こうして定信による「寛政の反動」は六年ほどで終わり、定信自身は二度と幕政に復帰することはなかったが、定信の敷いた基本路線は「寛政の遺老」と呼ばれた定信側近グループによって継承され、19世紀に入り旧田沼派が復権した一時期を除き、幕末までおおむね幕政の既定路線として定着するのである。

2014年8月 9日 (土)

私家版松平徳川実紀(連載第17回)

十八 徳川家治(1737年‐1786年)

 徳川家治は父の9代将軍家重が重度の障碍者であったのとは対照的に、幼少時から聡明とうたわれ、祖父の8代将軍吉宗の期待が高かった。吉宗が家重後継に固執したのは、孫の家治への期待からという説もあるほど祖父の寵愛を受けた。
 しかし、将軍就任後の家治は祖父の期待を裏切り、国政を幕閣に委ね、自らは趣味道楽の世界に没頭するようになった。それでも父家重の遺言に従い、怜悧な田沼意次を側用人、次いで老中に起用して長く重用したため、国政に支障が出ることはなかった。
 こうした家治の政治姿勢のゆえに、田沼は存分に采配を振るうことができ、家治時代は田沼時代とほぼイコールであった。その田沼は、江戸開府から150年以上を過ぎた時期にあって、時代の転換点をその鋭い政治的嗅覚で感じ取っていた。すなわち、従来の自足型重農主義収奪政策の行き詰まりである。
 そこで、田沼は幕府の経済政策を重商主義的な殖産興業の方向へ誘導していく。その具体化が株仲間の奨励や専売制の導入である。また鎖国の核心である貿易統制を緩和して、長崎貿易の拡大を促した。さらに蝦夷地の経済開発も進め、実現はしなかったもののロシア貿易をも構想していた。思想面でも吉宗時代からの蘭学をいっそう奨励し、西洋文明の摂取にも積極的であった。
 このように田沼時代は、幕末期を除けば江戸時代を通じて最も革新的な時期であり、その政策は「改革」と呼ぶにふさわしいものであったが、基本的に重農主義と思想統制を軸とした保守的な幕藩体制にあっては異端的な性格が強かったため、保守派からの風当たりも強かった。
 後世、田沼が政治腐敗の象徴のようにみなされたのも、現物経済の限界を認識していた田沼が、貨幣経済の拡大を企図して、商人資本の成長を促進する中で、カネ万能主義的な風潮が広まり、おそらく自らも不正蓄財をしていたことが、反田沼派による田沼追放後の「脱田沼化」プロパガンダとして宣伝されたことに由来するものであろう。
 そういう田沼を家治は辛抱強く起用し続けたが、将軍世子の家基は田沼の政治に批判的な言動をしていた。家基は父と同様、幼少時から聡明をもって知られ、次期将軍の座はほぼ確実であったが、安永八年(1779年)に16歳で急死する。それは鷹狩りの帰りに立ち寄った寺で突然体調不良を訴え、三日後には死亡するという不審なもので、毒殺説も根強い。その言動からして、家基が将来将軍に就けば田沼が追放される公算は高く、田沼本人ではないとしても、親田沼派が家基排除を狙っても不思議はない情勢であった。
 家基の急死から五年後の天明四年(1784年)、今度は田沼と父子二人三脚で政策を遂行してきた若年寄の息子意知が江戸城中で旗本佐野政言〔まさこと〕に突然斬りつけられたことがもとで死亡する事件が起きる。この事件は政言の「乱心」として処理されたが、真相は解明されておらず、家基急死と合わせ、家治晩年期の政治には暗部が多い。
 家治は、安永八年、世子の家基に続いて田沼と並ぶ側近の老中首座・松平武元〔たけちか〕をも失った頃からますます無気力となり、7年後、自らも死去した。
 一方、田沼も息子意知暗殺の後、権勢が衰え始め、家治死去の直後に老中を罷免されたうえ、蟄居、財産没収などの厳罰を科せられた。こうした迅速な田沼排除のプロセスを見ると、家治の死に前後してすでに田沼派は失墜していたものと見られる。以後、松平定信ら反田沼派の反動「改革」が始動していく。

2014年8月 2日 (土)

私家版松平徳川実紀(連載第16回)

十六 徳川宗武(1716年‐1771年)

 徳川宗武は8代将軍吉宗の次男で、9代家重の異母弟に当たる。家重の項で述べたとおり、家重には重度の障碍があったことから、当初は宗武後継を主張する勢力も強かった。ことに吉宗時代の老中・松平乗邑〔のりさと〕は宗武派の急先鋒であった。しかし、結局吉宗の意向で、家重後継が決まる。
 宗武はその後も将軍位に未練を残したらしく、家重の欠点を列挙する奏上に出たため、大御所に退いていた父吉宗から不忠の疑念を抱かれ、3年間登城禁止処分を受けるなど、疎んじられた。宗武派だった松平乗邑もすでに罷免されており、宗武は後継者争いに敗れたのであった。
 幼少時から英才とうたわれた宗武は自身将軍職にふさわしいという強い自負の念を抱いていたようだが、実際のところ彼が才覚を発揮したのは学芸の分野であり、後継者争いに敗れてからは、政治から距離を置き、学者・歌人として活動した。特に学者としては、当時勃興していた国学に傾倒し、賀茂真淵を和学御用掛に招聘したほか、自らも何冊かの古典注釈書を発表したほどであった。歌人としても自身の歌集や歌論書も発表している。
 家系的には紀州系「御三卿」の一つ田安徳川家の祖となった。しかし、田安家は結局、一人も将軍を輩出することなく、血統的にも中途断絶した後、御三卿の一つである一橋家の養子によって再興・存続するという変則的な経緯をたどることとなった。とはいえ、この家系は明治維新後、新政府の方針により宗家を継ぎ、近代徳川家の中心家系として今日まで存続している。

十七 徳川宗尹(1721年‐1765年)

 徳川宗尹〔むねただ〕は8代将軍吉宗の四男かつ9代家重の異母弟にして、一橋家の家祖である。二人の兄が存命する限り、自身に将軍位継承の可能性はほぼ存在しなかったが、吉宗後継問題に際しては、親しくしていたらしい次兄の宗武を推していたようで、父からは宗武と同罪として疎んじられた。
 しかし、宗尹に始まる一橋家は御三卿の中で唯一将軍を輩出し、幕末になると実質上宗家の地位に就く。さらに上述の田安家や9代将軍家重の次男重好を家祖とする御三卿・清水徳川家も実質的に継承する形で、徳川家全体を独占するようになった。
 このように後代の一橋家が隆盛を誇ったわりに、家祖宗尹は影が薄く、その事績はほとんど伝わらない。将軍後継問題に際して次兄を支持したほかは政治的関心に乏しかったようで、宗武のように学芸にいそしむでもなく、専ら鷹狩りや陶芸、染色、製菓などの趣味道楽の世界に遊び暮らした人であった。

私家版松平徳川実紀(連載第15回)

十五 徳川家重(1712年‐1761年)

 徳川家重は、先代8代将軍吉宗の長男として生まれたが、おそらくは小児麻痺による障碍のために言語が不明瞭であった。そのため、健常者だった弟の宗武を後継に推す声が強く、後継者問題が発生した。この問題は長期政権を保持した吉宗の強い意向を背景に、結局既定路線どおり家重後継で決着を見たが、後々まで微妙な尾を引いた。
 こうして、家重は先天性障碍を持つおそらく日本史上唯一の為政者となった。障碍者の社会参加が叫ばれる現代ですら実現していないことが、障碍に対する迷信的な偏見の強かった封建時代に実現したことは、ある意味で奇跡であった。これは能力より長幼の序を優先する吉宗の教条的な封建思想によるものと見ることもできるが、当時の記録によると、家重の障碍は専ら構音にあり、知能に関しては問題がなかったと見られることから、側近の補佐を受ければ将軍職は十分こなせるという吉宗の判断もあったかもしれない。
 幸いにも、吉宗は比較的長命で、最初の6年は譲位した吉宗が大御所として実権を保持し、基礎固めをした。吉宗没後は、家重の幼少時から仕え、その不明瞭な言葉を唯一解することができたとされる大岡忠光や紀州藩系の田沼意次といった旗本身分の側近者を大名に取り立てて補佐させることで、比較的平穏な政権運営が可能となった。
 政策的には父の享保の改革の継承が既定路線であり、勘定吟味役の陣容を拡充し、会計検査体制を整備するなど、財政規律の維持が引き続き図られた。一方では豊作を背景に、酒造統制を緩和する経済自由化にも踏み込んだ。
 しかし、吉宗「改革」の負の遺産として家重時代には百姓一揆が頻発し、治安面での後退が見られた。その最も大規模なものとして、金森氏が藩主を務める美濃の郡上〔ぐじょう〕藩で宝暦年間に起きた郡上一揆がある。この一件は、直接には藩の苛烈な増税策が引き起こした一揆であったが、享保の改革の目玉であった増税は地方藩にも波及していたのであった。
 このような地方一揆に中央の幕府が司法介入することは通常ないが、この時は一揆が大規模化し、革命的な様相を呈したうえ、一揆側による目安箱への提訴という事態に発展したため、幕府が審理に乗り出すことになったのだった。
 その際、家重が幕府高官の郡上藩悪政への関与を疑い、正式捜査を命じたことから、事は拡大し、田沼意次が主導する評定所による捜査・審理の結果、老中を含む幕閣の関与が認定され、大量処分された。同時に一揆勢も処断されるとともに、郡上藩主金森家は改易となった。
 この一揆は、こうした幕府高官の大量処分にも及ぶ家重治下で最大の事件となったのだが、これは田沼が家重を巻き込んで幕府中枢に仕掛けた粛清と読む余地もある。実際、この事件で大活躍した田沼は、連座する形で改易された遠江国相良藩主本多氏に代わって相良藩主におさまり、以後幕府最有力者への道を歩む。
 また家重時代は、イデオロギー的な面でも、時の桃園天皇に尊王論を進講させた公家グループを関白の告発に基づき京都所司代を通じて審理・処断した宝暦事件のように、再び武断主義への揺り戻しのような傾向を示した。
 こうした厳正な政権運営を見ると、家重は一般に流布されてきたような暗愚のイメージとは裏腹に、側近者を通じて自ら指揮を執る一面も認められ、たしかに知能面では問題がなかったことが窺えるのである。
 家重は通訳代わりの大岡忠光が没すると、自らも隠居して息子の家治に譲位し、大御所となって間もなく没した。家治への遺言は田沼の継続起用であった。ここから毀誉褒貶著しい「田沼時代」が本格的に始まる。

2017年12月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31