〆赤のアメリカ史

2014年8月11日 (月)

赤のアメリカ史(連載最終回)

跋 レッドパワー以後

運動の多様化
 1970年代半ば以降、レッドパワー運動が収束すると、インディアン運動も新たな多様化の時代に入る。その嚆矢となったのは78年、インディアン事務局による一方的な土地開発への抗議として、数百人のインディアンや支援の白人らがかつて占拠運動の地となったアルカトラズ島からワシントンまで行進した「ロンゲスト・ウォーク」である。
 近年は、地元インディアン部族の意向を無視した開発計画や地下核実験に対する差し止め訴訟、実態に合わないインディアン像をあしらったインディアン・マスコットの使用中止運動など、様々な課題ごとの文化的・非暴力主義的な運動が展開されていくようになる。
 これらの運動は、かつての急進的な占拠運動に比べると穏健化されており、インパクトは限定的であるが、70年代以降、民族自治がまがりなりにも認められるようになった情勢変化を反映して、インディアンの地位のいっそうの向上を目指す新しい形態の運動である。

「感謝」と「謝罪」
 白人の側にも、遅ればせながら意識の変化は見られる。中でも象徴的な出来事は88年、当時のレーガン共和党政権下の連邦議会による「合州国憲法成立に対するイロコイ部族連合の貢献を認め、憲法で定められたインディアン諸部族と合州国との政府間関係を追認する両院共同決議」である。
 これは18世紀の憲法制定過程でイロコイ部族連合の政治制度が参酌されたとの説に立って、その貢献に謝意を述べるとともに、インディアン諸部族の部族自治を改めて確認する内容の決議であり、ニクソン政権以来の合衆国としてのインディアン政策の基本指針を中間総括したものとして重要である。
 しかし、「感謝」はあっても過去の民族絶滅・浄化政策に対する謝罪はなかったところ、クリントン民主党政権下の2000年になって、当時のインディアン事務局副局長による「謝罪」が初めて行われた。しかし、これは一行政機関のナンバー2―しかも、彼自身インディアン部族出身―による局所的な謝罪声明にすぎず、合衆国の国家意思として示されたものではなく、真の謝罪とは言い難い。

現状と展望
 民族自決が理念としては定着したとはいえ、永年にわたる民族浄化・部族解体政策の影響は大きく、現在インディアン人口は300万人弱、人口の1パーセント前後という極少数派にすぎない。
 多くの居留地は貧しく、スラム化している。失業率や自殺率とも全米平均をはるかに上回り、白人から摂取した飲酒習慣が広がって以来、アルコール依存に陥る傾向も強い。合衆国においてインディアンは不可視の最貧困層を形成している。
 部族の経済的自立手段は観光やそれと結びついた賭博となり、商業的モノカルチャーも生じている。こうした経済的不公正がインディアン問題の新たな課題である。

cafe87年には、強制移住を象徴するチェロキー族の「涙の旅路」をたどる「涙の道国立歴史街道」が指定された。これは歴史的な意義を持つルートを記念して連邦法で指定される「国立歴史街道」制度の一環であり、その第一号指定はまさにインディアン絶滅政策の根拠となった「マニフェスト・デスティニー」に沿って西部白人開拓者がたどったルートであった。このように、インディアンの涙の道が白人開拓者の道―インディアンにとっては侵略の道―と同列に扱われているところに、本質的には放棄されていないアメリカの白人中心史観が顔をのぞかせている。このような歴史観が克服された時、新たなアメリカの歴史が拓かれるだろう。

2014年8月 4日 (月)

赤のアメリカ史(連載第17回)

五 レッドパワー運動(続き

民族自決政策へ
 レッドパワー運動の急進化は直接的な成果を挙げることなく、1973年のウーンデッド・ニー占拠事件を機に退潮していくが、直接行動は間接的には司法や行政を動かしていく。
 72年、合衆国最高裁判所は「ブライアン対イタスカ郡」事件で、インディアンの部族自治を明確に認める判決を出した。この事件は、ミネソタ州のインディアン居留地に住むオジブワ族のブライアン夫妻が購入した移動式住居に対する郡の課税の取り消しを求めた裁判であった。最高裁は、インディアン居留地に居住するインディアンの財産に対し、連邦議会の授権なしに州が課税する権限はないと判断したのである。
 本来、合衆国憲法第1条第8項の「通商条項」に基づき、連邦議会の授権なしに州が保留地のインディアン部族やインディアン個人の財産に課税することはできないというのが通説的な見解であったところ、最高裁はこの見解を改めて明示することで、インディアン部族の自治権を承認したのである。
 レッドパワー運動が急進化したこの時期の政権の主は共和党のニクソン大統領であり、「ブライアン」判決当時の最高裁長官ウォレン・バーガーを送り込んだのも、ニクソンであった。ニクソンは保守主義者ではあったが、教条的ではなく、現実的な保守主義者であったことが、インディアン政策でもプラスに働いた。
 ニクソン政権は、ウーンデッド・ニー事件では妥協せず武力鎮圧方針を採ったが、実力闘争にはこうした武断的手法で応じる一方で、部族解体につながる「終了」政策を「終了」させ、部族の復活と民族自決を認める宥和姿勢をも示した。これにより、1950年代から60年代にかけて100以上の部族が絶滅宣言を受けてきた流れに一応の歯止めがかかることになった。
 ニクソンはインディアンの民族自決政策を明確に打ち出した最初の大統領となり、この政策はニクソンがいわゆるウォーターゲート事件で失墜した後、再び揺り戻しに直面しても、基本的には今日まで40年間、合衆国のインディアン政策の基本路線として定着している。
 ただ、ニクソンの「自決」政策は対外政策で彼がアメリカの同盟国に適用した「自立」政策と軌を一にしており、当時財政経済危機に直面していた合衆国の負担を軽減するという現実主義的な動機からのものであったし、現在のインディアン政策においてもそのような動機は変わっていない。ゆえに、言葉の真の意味での民族主権が確立されたとは言えない。

cafe「ブライアン」判決は意外なところで効果を発揮した。インディアンの賭博産業である。元来不毛な居留地にあって州に介入されない部族自治権の範囲内で経営できる産業は、賭博のような娯楽産業くらいしかないため、カジノをはじめとする賭博場設立の動きが全米のインディアン部族に広がり、今や500施設近くにのぼるという。賭博を唯一の収入源とする部族も多い。こうした賭博依存経済は、インディアン部族の経済的な自立が不十分なことを物語っている。レッドパワーの成果が賭博場だったとすれば、少々複雑である。

2014年7月27日 (日)

赤のアメリカ史(連載第16回)

五 レッドパワー運動(続き)

闘争の急進化
 従前のロビー活動的なインディアン運動がレッドパワー運動に転換されると、闘争は必然的に急進化していくこととなった。特に、占拠という形態の抗議活動が広がる。嚆矢は1969年11月のアルカトラズ島占拠闘争であった。
 これはモホーク族の活動家リチャード・オークスをリーダーとするインディアンの活動家グループがサンフランシスコ沖にある無人のアルカトラズ島を占拠し、インディアンへの土地の返還を認める部族と合衆国政府間の条約の再確認を要求して立てこもった出来事である。占拠は1年以上に及び、島には最大で数百人の活動家が参加して評議会自治を行い、一種の革命的な解放区の様相を呈した。
 これに対して、合衆国政府はかれらの要求を拒否し、71年6月、治安部隊を投入して強制排除を断行した。所期の成果は上がらなかったが、この闘争は内外で広く報道され、インディアン問題の存在を印象付ける効果を持った。
 これをきっかけとして、以後70年代半ば頃にかけて、大小様々な占拠運動が全米で繰り広げられる。占拠対象は米軍・沿岸警備隊基地からインディアン事務局ビルにまで及んだ。こうした急進的闘争のハイライトは、73年2月から3月にかけてのアメリカインディアン運動(AIM)のメンバーらによるウーンデッド・ニー占拠闘争であった。
 この闘争の引き金を引いたのは、サウスダコタ州内でインディアン住民が白人に殺害されるも、犯人の白人はいずれも軽い罪での起訴にとどめられるという人種差別的な司法処理に対する抗議であった。これに当時地元居留地の部族評議会を牛耳り、横暴な腐敗政治を行っていたリチャード・ウィルソン議長への抗議が加わった。
 活動家たちは交渉で解決できないと悟るや、ウーンデッド・ニーでの蜂起を計画した。ウーンデッド・ニーと言えば、19世紀の民族浄化戦争を事実上終結させる契機となった政府軍による虐殺事件があった象徴的な場所である。
 活動家たちは町を武装占拠し、まさに解放区として、一時は国家宣言を出すところまで急進化した。事件は全世界に報道され、南米のインディオ先住民たちからの連帯のほか、白人側からもマーロン・ブランドやジェイン・フォンダのようなリベラル派の俳優が支持を表明した。
 これに対して、政府は徹底した武力鎮圧の方針で臨み、73年5月までに制圧、占拠を解除した。鎮圧作戦でのインディアン側死者は2人であったが、多数の活動家が起訴され、闘争賛同者の不法な殺害も続いた。また闘争後も議長職に居座ったウィルソン議長による報復テロが行われ、100人以上の反ウィルソン派部族民が殺害された。
 こうしてウーンデッド・ニーは再び悲劇の場所となった。同時に、およそ一世紀前の虐殺事件がインディアン戦争を終わらせたのと同様、急進的な占拠闘争を収束させる転換点ともなった。インディアンの蜂起に対して圧倒的な物理力をもって対処する合衆国政府のやり方は、100年間変わっていなかったのだ。

cafeインディアン闘争が急進化した時期は、アフリカン解放運動の分野でも、ブラックパンサー党のような急進的な運動が隆盛となった時期と重なる。全般にアメリカ内外の社会運動が急進化した時期でもあった。インディアン運動にしてみれば、新たな形態での「インディアン戦争」の再来であったが、政府側もかつての軍の代わりに連邦捜査局(FBI)のようなより洗練された物理装置を投入して、鎮圧に出たのだった。ちなみに、当時インディアン運動が多用した占拠という闘争手段は、今日「ウォール街占拠運動」のような社会運動の中で再び活用されている。

2014年7月20日 (日)

赤のアメリカ史(連載第15回)

五 レッドパワー運動

インディアンの団結
 インディアン・ニューディールが戦後、トルーマン政権下の「フェアディール」における「終了」政策によって後退・反動化して以降、部族認定の取り消しが相次ぐとともに、56年にトルーマン民主党政権の政策を引き継ぐ形でアイゼンハワー共和党政権が制定したインディアン再配置法により、都市部に流入して下層民化するインディアンが増大した。
 このRelocation Actと銘打たれた新法は、一世紀前のRemoval Actとは微妙に言葉使いが違ったが、インディアンを居留地へ囲い込む代わりに、今度は居留地も追い出し都市スラムへ囲い込もうというのだった。
 居留地さえ喪失したインディアン社会は消滅の危機に瀕した。このことが、伝統的な部族対立を超え、大同団結する機運をもたらした。
 インディアンの部族横断的な団結の先駆としては、1911年にオハイオ州で結成されたアメリカインディアン協会(SIA)があった。この団体は主にインディアン寄宿学校で育成されたインディアンの中産知識階級の運動家らが結成したもので、同化主義的な観点に立ちつつ、ロビー活動を通じてインディアンの権利を擁護しようという穏健主義の団体であった。
 この団体は30年代のニューディール期には一応役割を終えて解散するが、戦時中の44年、改めてアメリカインディアン民族会議(NCIA)が設立された。これはSIAと同様、ロビー活動を通じた穏健主義の団体であるが、保留地の部族会議代表で構成され、首都ワシントンに本部を置くより強力な利益代表組織として活動した。
 こうした穏健主義の権利擁護運動は保守的な白人社会でも一定受け入れられ、ケネディ政権による「終了」政策の再転換と、それを継いだジョンソン政権下でのインディアン公民権法の制定という政策・法制面の成果につながったが、インディアン問題に無関心な一般大衆の関心を引くことはなく、保留地の貧困や都市スラム街のインディアンたちの生活は一向に改善されないなど限界にも直面していた。
 そうした中で、NCIAの穏健な活動方針と部族長老支配に満足しない若者たちを中心に61年、全米インディアン若者会議(NIYC)が結成された。かれらは権利擁護ではなく、より積極的な民族自決を求めてデモや占拠などの直接行動を手法とした。
 このような新潮流が68年、アメリカインディアン運動(AIM)の結成に結実する。今日でも全米最大級のインディアン団体として活動するこの運動体は、60年代にアメリカ黒人の間で勃興したブラックパワー運動と共振する形で、直接行動的なレッドパワー運動をリードしていくのである。

cafeアメリカインディアンは人種的にはほぼ均質的なモンゴロイドでありながら、広い大陸に分散して部族社会を形成したため、500を超える多岐の部族に分かれ、部族ごとに言語・習俗も異なっていることから、歴史的に大同団結が不得手であった。かれらは、白人侵入者とのみならず、部族同士でもしばしば戦闘し合い、そうした部族対立を白人勢力側に利用され、容易に分断支配されてきたことも、窮地に追いやられる要因であった。20世紀後半になると、ようやく部族対立が止揚され、近代的な政治・社会運動の影響も受けつつ、アメリカインディアンが一つの潜勢力として勃興してきたのである。その背後では、白人側の文化人類学的な知見の進歩も寄与していただろう。

2014年7月13日 (日)

赤のアメリカ史(連載第14回)

四 保護政策への転換(続き)

インディアン・ニューディール
 20世紀初頭以降の「人道主義」の仮面を着けた保護政策は、ドーズ法の破壊的効果を賞賛したセオドア・ローズベルト大統領の従弟に当たる第32代大統領フランクリン・ローズベルトのニューディール政策の下で転機を迎えた。
 1934年に制定されたインディアン再組織法がそれである。この連邦法によりドーズ法は廃止され、同化政策が転換された。部族は政治的な自治と土地の自主的な管理が認められるようになった。これは単に伝統的な部族共同体の復活にとどまらず、部族が独自の憲法を制定し、部族評議会を通じて合衆国や州政府と交渉できるようにする近代的な政治制度の導入も促進した。
 この法律はすでに個人に渡った土地の返還までは認めなかったが、合衆国政府には私有地の買収・返還権が与えられ、これによって同法施行から20年で計8000キロ平方の土地が部族に返還された。
 また州政府にインディアンの教育や医療に補助金を支出する権限を付与するジョンソン・オマリー法も、インディアン・ニューデールの一貫を成す新法であった。これは、福祉的浄化政策とは異なり、まさに福祉政策そのものであった。
 こうした合衆国とインディアン部族間のまさしくニューディール=新協約を主導したのは、ローズベルトによって任命されたインディアン事務局長ジョン・コリアーであった。彼は33年から45年までの政権期間中、一貫して局長の座にあって、新法の適用を主導した。
 白人のコリアーは近代的なソーシャルワーカーの元祖的な存在でもあり、ニューメキシコ州のインディアンの状況を知ったことをきっかけに、危機に瀕するインディアン部族社会と文化を救うため、1923年にはアメリカインディアン防衛協会を設立してドーズ法撤廃のロビー活動を展開する。それがリベラルなローズベルト政権の成立によって結実し、コリアーも政策遂行の中心者となったのである。
 このような浄化‐同化から保護への政策転換は、伝統的なアメリカでは希薄だった福祉国家的な社会思想に基づくニューディール政策の一環を成すものであって、それゆえに同政策と運命を共にするはずのものであった。
 12年続いたローズベルトの長期政権が終焉すると、同じ民主党後継のトルーマン大統領は「フェアディール」を掲げ、ニューディール政策の保守的な修正を図った。そうした中で、部族と政府の特殊な関係を「終了」させるという政策再転換が現れる。
 これはインディアンを完全な市民(労働者)として都市部へ「再配置」するという意図を伴っており、強制同化とは際どく一線を画しながらも、部族共同体の解体を再び促進する政策であった。
 この政策反動は、ニューディール期の再組織法が所詮は白人政府によるインディアン「保護」という受動的な観点からなされ、インディアンの主体的な民族自決に基づくものではなかったことの結果であった。

cafeインディアン・ニューディールの時代は、第二次世界大戦とも重なる。大戦には、多くのインディアン部族民がアメリカ兵として動員された。かれらが特に貢献したのは、コードトーカーとしての役割であった。特にナバホ族のコードトーカーが活躍した。一般にインディアン部族語は英語より複雑な文法構造を持ち、かつ外国人でこれを解する者はほとんどいなかったことから、暗号通信用語に最適であったのである。コードトーカーの存在は1968年の機密解除で明らかとなった。それから40年後の2008年、ブッシュ政権はコードトーカー認知法を制定し、存命中のコードトーカーへの顕彰を正式に法制化した。

2014年7月 5日 (土)

赤のアメリカ史(連載第13回)

四 保護政策への転換(続き)

福祉的浄化政策
 ドーズ法のような「人道主義」の仮面をつけた民族浄化のもう一つの柱は、福祉的な浄化政策であった。中でも教育を通じたインディアンの言語民族文化の抹殺である。その中核的マシンは、インディアン寄宿学校であった。
 その第一号校は、民族浄化戦争渦中の1879年にペンシルベニア州に設立された「カーライル・インディアン工業学校」である。この学校は、民族浄化戦争にも従軍したアメリカ陸軍軍人リチャード・ヘンリー・プラットによって設立された初の連邦立インディアン寄宿学校であった。
 プラットもまたこの時代の「人道主義者」の一人であったが、彼によれば、「人類を救うためには、インディアンを殺さねばならない」。ここで言われるインディアン殺しとは、文字どおりの殺戮ではなく、インディアンの文化を根こそぎ抹殺することで、かれらを「文明化」し、有益なアメリカ国民として同化させるということであった。
 そのためには、幼少時よりインディアンの子どもたちを保留地の親元から引き離し、教育を通じてインディアンとしての民族性を剥奪し、授産する必要があるとされた。こうした思想に基づいて、連邦政府の肝いりで各地に設立された同種の寄宿学校ではインディアン語の使用とインディアンの伝統宗教が禁止され、軍隊的規律の下に、キリスト教義に基づく欧化教育が強制された。
 だが「文明化」が謳われたのとは裏腹に、寄宿学校はしばしば劣悪な衛生環境に置かれており、伝染病の校内蔓延により多数の生徒の集団死を引き起こすこともあった。
 こうした教育制度を通じた文化抹殺に加え、個人レベルでの文化抹殺として里親制度も猛威を振るった。これは白人夫婦がインディアンの子どもを乳児のうちに実親から取り上げて、白人家庭で白人として育てるというもので、白人として育てられた子どもは成長してもインディアン意識自体を持たないため、学校制度を通じた文化抹殺以上に、深刻な民族性喪失を引き起こす結果となった。
 インディアン寄宿学校は1930年代に合衆国政府のインディアン政策が浄化から保護に転換された後も形を変えて存続し、カーライル校の設立以来、10万人以上のインディアンが在籍したと推定されている。また里親制度はその弊害が批判されるようになった1978年になって、ようやくインディアン児童福祉法の下で法的な規制がかけられるようになったが、現在でも全米で同法違反事案が多発しているとされる。

cafe同化目的のインディアン学校に対抗して、インディアン文化を尊重する部族学校設立の試みもないわけではなかった。その先駆者は、自身インディアンであるサラ・ウィネマッカであった。彼女はインディアン女性として初めて英語で自伝を出版した人物であり、白人社会で教育され、半同化されたインディアンであったが、一方で晩年にはネバダ州に私立学校ピーボディ・インディアン学校を設立し、自身が属したパイユート族の文化と言語の保存を試みた。しかし、資金不足などから学校は短期間で閉鎖された。こうしたインディアン自身による部族学校の設立が本格化するのは、遠く1970年代を待たねばならなかった。

2014年6月29日 (日)

赤のアメリカ史(連載第12回)

四 保護政策への転換

「ドーズ法」の時代
 19世紀の民族浄化作戦も完了に近づくと、キリスト教的な「人道主義」の観点から、インディアンを「保護」しようとする潮流も生じ始めた。その基本的な考え方は、インディアンを小土地所有農民化することで、自給自足させようというにあった。このような思想には、「人道主義」の白人知識人のほかに、「文明化」の結果として生まれ始めていた一部インディアン知識人も加わっていた。
 そうした「人道主義」の上院議員ヘンリー・ドーズによって提案されたいわゆる「ドーズ法」は、新たな潮流の集大成となった。この法律では、従来のインディアン保留地を部族の共有地ではなく、インディアン個人の所有地に分割した上で割り当てることが目指されたのである。
 その当初の仕組みは、インディアン割当地を25年の期限付きで合衆国インディアン事務局に信託的に保留したうえ、譲渡・賃貸の自由を制限するというものであった。この割当地を除く土地は「余剰地」として国有地化された。
 実質的な保留地解体につながるこの法政策は、西部開拓の拡大と南北戦争後の黒人奴隷解放によって土地不足に陥っていた時節柄、保留地そのものを障害とみなす勢力にとっても、好都合なものとして歓迎されたのであった。
 これに対して、いわゆる「文明化五部族」など主要なインディアン勢力は反対したが、かれらも、93年に設置された「ドーズ委員会」によって、この法政策に組み込まれていった。
 結果は、表向きの「保護」とは裏腹のインディアン部族社会の解体であった。インディアンは保留地に囲い込まれても、誰の者にも属しないと観念された土地での部族共同生活を保持していたが、ドーズ法はこれを解体し、土地を個人化してしまったのであった。これによって共同体的絆は絶たれ、白人的な核家族化の傾向が生じていった。
 そのうえに、ドーズ法の下で割り当てられたインディアン所有地も、譲渡・賃貸制限が形骸化していくにつれ、売買契約観念の薄いインディアンの無知に付け込んだ白人不動産業者によって買い占められていき、インディアンは割当地さえも喪失していく。
 1901年に第26代大統領に就任したセオドア・ローズベルト大統領は、最初の年次教書の中で、ドーズ法を「先住民の集団を解体させる巨大なエンジン」と総括し、賞賛したが、この言葉には「ドーズ法」の真の効果が集約されている。

cafeインディアン部族社会は伝統的に母系制であり、部族共同体において女性は政治的・社会的にも重要な役割を担った。しかし、ドーズ法は図らずしてこうした社会編成をも解体させ、当時のアメリカ白人社会にも浸透していた英国ヴィクトリア朝的な男女性別役割論に基づく核家族モデルをインディアン社会に注入した。これによって、世帯主である男性は農耕に従事し、女性は家庭で主婦として家事を担うということが理想とされ、女性の地位は従属的なものとなった。このような社会編成の根底からの改変は、今日に至るまでインディアン社会に禍根を残している。

2014年6月22日 (日)

赤のアメリカ史(連載第11回)

三 民族浄化の19世紀(続き)

「最終解決」へ
 南北戦争後の国家再建とともに、インディアン問題も「最終解決」の段階を迎える。ナチスのようにガス室送りにこそしなかったが、この時期の南北戦争及び民族浄化作戦の「英雄」フィリップ・シェリダン将軍のものとされる言葉「良きインディアンとは、死んだインディアンだ」(本人は発言を否定)は、その象徴的な標語であった。
 インディアン側の抵抗も頑強であった。いったんは抑え込まれていたスー族が、再び蜂起する。原因はまたしても金鉱であった。条約によってスー族の聖地と取り決められていたブラックヒルズ(今日のサウスダコタ‐ワイオミング州境)に良好な金鉱が発見され、ゴールドラッシュが起きると、条約は反故にされ、白人の侵奪が始まった。時のグラント大統領は一応インディアンとの交渉によってブラックヒルズの割譲を認めさせようとしたが、インディアン側をこれを拒否すると、軍事占領を図った。これがブラックヒルズ戦争である。
 この戦争では1877年、モンタナ州リトルビッグホーンの戦いでインディアン側が合衆国陸軍部隊を全滅させる戦果を上げたが、結局、翌年には巻き返しに出た合衆国側の殲滅作戦が功を奏し、スー族は再び封じ込められた。
 一方、アパッチ戦争でも、グラント大統領は表面上和平を追求する姿勢を示し、アリゾナ州の故地に保留地が指定されたが、地元白人の反発もあり、アパッチ族はより不毛な保留地に閉じ込められることになった。これに抵抗したのが、ジェロニモである。
 ジェロニモが生まれたのは、今日のニューメキシコ州域、当時は隣国メキシコ領であり、彼の抵抗戦争の出発点はメキシコ軍部隊に家族を虐殺されたことによるメキシコへの憎悪にあった。その意味では、彼の闘いは本来メキシコに対するものであったが、白人の地理上はその後の米墨戦争で勝利したアメリカがメキシコから獲得した領土にまたがるものであった。
 ジェロニモは小さな戦士集団を率いて山岳ゲリラ戦を展開したが、結局、86年、アリゾナ州で米軍に降伏し、最終的にオクラホマ州で戦争捕虜として終生拘束された。これをもってアパッチ戦争は終結する。
 合衆国政府はブラックヒルズ戦争後もまだ抵抗を続けていたスー族残党に対して、90年から91年にかけて大規模な軍事攻勢をかける。この間、90年12月にはサウスダコタ州ウーンデッド・ニーで米陸軍精鋭の第七騎兵隊がスー族集団300人近くを虐殺する事件が起きた。結局、この象徴的な虐殺の年、合衆国はインディアン戦争の終結を宣言したのであった。
 この後も、20世紀初頭にかけて、なおインディアンとの散発的な戦闘が発生するが、大規模な戦争に発展することはもはやなかった。民族浄化は歴史的な時間をかけて成功した。とはいえ、文字どおり民族を絶滅させたわけではなく、保留地内に隔離した部族民の処遇という問題は次の世紀に持ち越される。

cafeインディアン戦争は大小無数にあり、そのすべてを記録すれば、それだけで大部の戦記になる。そうしたインディアン戦争の大半を担ってきたのがアメリカ陸軍である。今日世界最強を誇るアメリカ軍の力の源泉は、インディアン勢力との100年に及ぶ恒常的な実戦経験という特異な歴史に由来するものと言ってよい。そして、20世紀以降の対外戦争の中でしばしば見せるアメリカ軍の無慈悲な殲滅作戦もまたインディアン戦争での殲滅作戦にその由来があると見られる。民族浄化が一段落した合衆国は、こうして鍛えられた軍事力とそれによって侵奪した広大な領土に発達する産業を基盤に、20世紀以降、覇権国家として世界に進出していくのである。

2014年6月18日 (水)

赤のアメリカ史(連載第10回)

三 民族浄化の19世紀(続き)

西部開拓時代と民族浄化
 合衆国は強制移住政策によって、インディアンを西部保留地へ追い込んだとはいえ、その西部の「未開拓地」にも白人が押し寄せてきた。西部開拓時代の始まりである。西部への領土拡張をアメリカ白人の運命とみなす「マニフェスト・デスティニー」がそのプロパガンダであった。
 西部の大平原地帯には、元々様々な狩猟騎馬民族系のインディアン諸部族が割拠していたが、五大湖方面から移住してきたスー族が次第に他部族を圧倒して、主流的な部族となっていた。しかし、かれらもまた1851年の二つの条約により、今日の南北二つのダコタ州域を含んでいたミネソタ準州内の保留地に囲い込まれていた。
 合衆国は保留地で農業を強制したが、保留地は不毛で農業に適しなかった。南北戦争の影響もあり、約束されていた食糧配給が停止され、飢餓に陥ったスー族は62年、武装蜂起するに至った。時は南北戦争の渦中であり、当初合衆国政府は対応できず、多くの白人が襲撃殺害される中、リンカーン大統領はようやく殲滅作戦を指示し、民兵隊が出動して鎮圧に至った。
 リンカーン政権は見せしめ的な報復処置として、多数のインディアンを即決軍事裁判にかけて死刑に処した。追い打ちをかけるように、リンカーン政権は先の保留地条約を一方的に破棄し、スー族を別の保留地へ追放するか、残党は皆殺しにするかした。
 一方、南西部ではナバホ族がスー族同様に保留地で窮乏し、蜂起すると、リンカーンは殲滅作戦を命じ、徹底した焦土作戦で鎮圧したうえ、部族を約500キロ東の強制収容所へ徒歩行軍させた。多くのナバホ部族民は行軍途上あるいは収容所で命を落とした。チェロキー族「涙の旅路」と同じやり方であった。
 リンカーン大統領はまさにスー族暴動のあった62年に歴史的な奴隷解放宣言を行い、人権史に名を刻んだが、その裏ではインディアン殲滅作戦を命じていたのであった。黒人奴隷は奴隷として使役される存在であったから、「解放」される余地があったが、インディアンはそもそも殲滅浄化の対象であったから、「解放」の余地もないのであった。
 ところで、南西部ではナバホ族とも近縁だが、ナバホの敵部族でもあり、より有名なアパッチ族が頑強な抵抗勢力となった。アパッチ族の居住領域には良好な金鉱が存在していたため、白人にとってアパッチの排除は不可欠であった。
 アパッチ族は山岳ゲリラ戦を得意とし、有能な戦士を多く輩出したため、容易に降伏せず、戦争は長期戦に持ち込まれた。有名なジェロニモもそうしたアパッチ族戦士で、南北戦争の頃から、1880年代後半まで断続的に20年以上にわたって続いたアパッチ戦争後半の主役であった。

cafeインディアン浄化作戦と同時並行的に行われていたのが、アメリカバイソン狩りである。白人が侵入する以前、カナダを含めた平原地帯に数千万頭も生息していたと言われるアメリカバイソンは、19世紀末には絶滅寸前にまで追い込まれた。合衆国政府推奨のもとに行われたバイソン狩りの目的は皮革や牛の放牧地確保などいくつかあったが、狩猟民族であるインディアンの主食であったバイソンを絶つことでインディアン殲滅を図るという政治的な目的が含まれていた。この政策は的中し、実際インディアンは半ば自発的に保留地に入って、政府の配給に依存せざるを得なくなっていったのだった。民族浄化にはこうした「動物浄化」も伴われていた。

2014年6月16日 (月)

赤のアメリカ史(連載第9回)

三 民族浄化の19世紀

強制移住政策
 米英戦争後の合衆国は、新たな段階に入る。すなわち、真の独立を得て、本格的な国作りが始まるのである。そのことは、インディアン政策にも変化を与えた。白人国家アメリカ合衆国を障害なく発展させていくためには、インディアン勢力の徹底排除が必要であった。そのために、従来のようなもぐら叩き戦術ではなく、より政策的な排除―民族浄化―が企てられた。
 先鞭をつけたのは、米英戦争の「英雄」でもあったジャクソン大統領である。1830年のインディアン移住法がその根拠法となった。これによって、特に南部のインディアン諸部族を西部に設定したインディアン保留地に囲い込むことが狙われたのだ。
 その基本は、インディアン部族と条約を締結し、予め確保しておいた不毛地(保留地)に囲い込むというものであった。これは表向き合意に基づいて行われるが、部族が条約締結を拒否する場合は、武力をもって殲滅するとされた。言わば、殲滅の威嚇による国内追放政策である。法律名Indian Removal Act には、インディアンの「移転」と「除去」の二重の意味が込められていたのだ。
 実際のところ、こうしたインディアン強制移住政策のコンセプトは、合衆国建国の父の一人で、第3代大統領トーマス・ジェファーソンがすでに提起していたものであった。ジャクソン時代の移住法はこうした政策を正式に立法化し、法的根拠を明確にしたものである。
 これに対するインディアン側の反応は当然にも否定的であったが、対応は分かれた。元来はミシシッピ河流域を拠点としていたチェロキー族は、交渉を通じて反対した。
 中心となったのは、部族代表者ジョン・ロスであった。この時代にはインディアン部族の中に白人との混血系の有力者が生まれ始めており、彼もその一人であった。ロスは白人的なやり方で粘り強くロビー活動を行ったが、成果は出ず、チェロキー族は半ば強制的に集団移住させられる。
 この時、1万5千人を越すチェロキー族が、ジョージア州を中心とした南部から今日のオクラホマ州まで約2000キロに及ぶほぼ徒歩による行軍を強いられ、途上で数千人が疫病などで命を落としたことから―その中にはロスの最初の妻もいた―、「涙の旅路」と称されるようになった。
 一方、戦争に訴える部族もいた。フロリダ州を拠点とする複合部族セミノールはその代表であった。フロリダは元スペイン植民地であったが、米英戦争終結後、ジャクソンが侵攻・占領、21年にスペインはフロリダ譲渡に同意し、アメリカ領となっていた。合衆国政府はこの地のセミノールを例によって西部へ追い出そうとしたが、セミノールは武力で抵抗し、戦争となった。
 このセミノール戦争は35年から42年まで続く久々の長期戦となり、泥沼化したゲリラ戦からベトナム戦争になぞらえられることもあるが、高額の戦費と大量の兵員をつぎ込んだ合衆国側の勝利に終わり、セミノールも西部保留地への移住を強いられた。しかし、セミノールはなおも抵抗を続け、50年代後半にもう一度戦争を起こした。
 こうして、西部保留地に集住させられたインディアン諸部族は自発的に白人文化に同化していくが、合衆国は保留地に合衆国の正式領土としての地位を与えることはなかった。それは最初の明確な人種隔離政策であり、こうした隔離を土台として白人国民国家としてのアメリカ合衆国が本格的にスタートするのである。

cafeこの時代、チェロキー族のように「文明化」したインディアン部族民は、血統的にも白人との同化が進んでおり、「涙の旅路」の行軍を監督し、部族民を率いて集団移住を実現させたことから「モーゼ」になぞらえられるジョン・ロスは母方から部分的にチェロキーの血を引いているに過ぎなかった。父は裕福なスコットランド系交易業者で、ロス自身も黒人奴隷を所有する農園主兼交易業者であった。「涙の旅路」で強制移住を強いられたチェロキー族の中には彼のような奴隷所有者が相当数おり、黒人奴隷も共に行軍させられたという。富裕なインディアンは、保留地移住後も、黒人奴隷を使役してプランテーションを経営した。奴隷解放以前には、富裕なインディアンのほうが黒人より社会階層上優位にあったことを示す事実である。

2017年8月
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