〆スウェーデン超小史

2014年4月 1日 (火)

スウェーデン超小史(連載最終回)

六 ポスト福祉国家時代

社民党の揺らぎ
 23年間、首相の座にあったエルランデルが69年に退任した後は、オロフ・パルメが後継に就いた。パルメは、エルランデル政権の閣僚も経験してきたが、前任者より急進的であった。彼は福祉国家の拡充を推進し、特に雇用保障に力点を置いた。外交的にはベトナム戦争に反対するなど反戦平和主義をアピールし、米国―事実上は協力関係にあった―の外交軍事政策に反対した。
 パルメはカリスマ性を持った指導者であったが、76年の総選挙では敗れ、社民党は40年ぶりに下野した。おそらくパルメの急進性への不安が長らく穏健主義の政権に慣れた国民の間にも広がったものと思われ、続く79年総選挙でもパルメ率いる社民党は連敗する。
 しかし、この間、非社民系連立政権は安定せず、頻繁な内閣交替に見舞われ、政策の軸も定まらなかったため、82年総選挙では社民党が政権を奪還し、パルメが首相に返り咲く。第二次パルメ政権は折からの経済不振と財政赤字に対処するため、社民主義政策の修正にシフトした。
 ところが、85年総選挙で連勝した翌86年、パルメはストックホルムの路上で何者かに射殺された。一度は有罪判決を受けた被告人の無罪が確定したこの暗殺事件をめぐっては、様々な憶測が飛び交った。
 社民党はパルメ後継のイングヴァール・カールソン首相の下、88年の総選挙でも勝利し、政権を維持するが、90年代初頭、70年代オイルショック以来の経済不振に対応する金融緩和が招いたバブル崩壊に基因する大規模な経済危機に見舞われる。高失業に銀行破綻も続き、カールソン政権は減税や緊縮を軸とした包括的な経済改革策を打ち出すが、91年総選挙では大敗、穏健党を中心とした保守連合に政権を譲った。 

新自由主義への傾斜
 カール・ビルト首相の率いる保守系連立政権は、カールソン政権の経済改革策を徹底し、福祉民営化など、新自由主義的な脱福祉国家的改革に踏み込んでいった。経済危機は一段落したものの、ビルト首相の新自由主義は社民主義に慣れた有権者には急進的にすぎたか、94年の総選挙では社民党が大勝し、再びカールソンが政権に返り咲く。
 第二次カールソン政権は財政再建のため、支持基盤の労組と対立してまで、歳出カット、増税を断行したほか、95年には長年の外交的建前であった中立主義を大きく修正して、欧州連合に加盟した。
 96年にカールソン首相が退任すると、財政再建の中心にいたイェラン・ぺーション財務相が首相に昇格した。ぺーション政権はよりいっそう新自由主義に傾斜していく。国鉄の株式会社化や公的年金を所得比例型に移行する自己責任的改革が、ペーション政権の主要な成果である。言わば、ビルト政権の社民党版であった。
 他方で、ペーション政権は「緑の福祉国家」理念を打ち出し、環境政策を重視する姿勢を見せた。これは90年代に伸張し、社民党を脅かしつつあった緑の党の取り込み策の意味もあったであろうが、「環境」は社民党が従来の福祉政策重視の姿勢を修正しようとしていることの隠れ蓑でもあった。

保守化の時代
 ペーション社民党政権は98年、02年と連勝したが、2006年の総選挙では敗れ、再び穏健党主導の保守系連立政権に交代した。
 社民党の敗因として、04年に多くのスウェーデン人観光客が犠牲となったスマトラ島沖大地震・津波時の政府の不首尾な対応への批判も指摘されたが、そうした些細な不手際が影響したとすれば、それは10年続いたペーション時代、すでに新自由主義に傾斜した流れの中で、保守系との差がこれまでになく縮小していたことの証しであろう。
 一方、連立政権を率いるラインフェルト首相はビルト元首相とは異なり、脱福祉国家的改革にはより穏健な立場を打ち出し、穏健党がまさに「穏健化」したことも勝因となった。つまり脱福祉国家のスピードを緩和し、時間をかけて溶解させる戦略である。外交・軍事的にも、ラインフェルト政権は将来的なNATO参加を志向し、時間をかけて歴史的な中立主義を脱しようとしている。
 08年の世界大不況への対処も手堅くこなしたラインフェルト政権は、10年総選挙でも連勝し、保守系政権としては30年代以降最長期間に入っている。野党・社民党はこの間、退潮傾向が顕著である。ペーション首相の退任後、初の女性党首となったモナ・サーリン党首の下でも政権は奪回できなかった。
 歴史的な時間をかけた長いスウェーデン社会民主主義革命は、歴史的な時間をかけてゆっくりと終わろうとしているようである。 

danger1980年代以降のスウェーデンでは、OECD加盟諸国中でも最も急速なペースで格差拡大現象が進んでおり、スウェーデンも「普通の国」になろうとしているかのようである。2013年5月に起きた移民街での連続暴動事件は、労働力補充を狙った移民政策の結果生じた最下層移民の社会的不公正に対する不満を背景としていると指摘されている。

[追記]
2014年の総選挙では、穏健党政権下での新自由主義政策からの転換を訴えた社民党が8年ぶりに政権(緑の党との連立)を奪回し、首相には溶接工出身のステファン・ロベーンが就任した。

2014年3月26日 (水)

スウェーデン超小史(連載第6回)

五 社会民主主義革命

社会民主党結党
 19世紀までのスウェーデンは未開発の農業国であった。そのため、19世紀後半の議会制度黎明期、最初に現れた萌芽的大衆政党は農民を主要な支持基盤とするラントマンナ党であった。ラントマンナとは「地方人」を意味する。当時の大衆は地方農民であった。
 ラントマンナ党は明確なイデオロギーを携えた近代的政党ではなかったが、依然国政を牛耳っていた貴族・聖職者層への野党的意義を担い、同党からは第二代首相として貴族出身のアルヴィド・ポッセを輩出するなど、国政でも影響力を示した。同党は自由貿易主義と保護貿易主義をめぐりいったん分裂したが、再統合した後は連合的な保守政党として発展、今日の保守系有力政党・穏健党へ連なる。
 19世紀末になると、スウェーデンでも遅れて工業化が始まる。1880年代には労働組合が結成され、先行のドイツ社会民主党の影響下に、1889年に社会民主労働者党(以下、社民党と略す)が結成された。同党は、1896年にはリベラル政党・自由党の支援で初の議席を獲得するなど、早くから議会政治に進出した。

メンシェヴィキ派の勝利
 初期スウェーデン社民党の立役者は、ヤルマール・ブランティングであった。彼はベルンシュタイン流の筋金入り修正主義者であったから、スウェーデン社民党では当初から修正主義が党内主流となる。
 同党は1917年にはいち早く自由党との連立政権に参加し、与党を経験した。同じ年に勃発したロシア革命をめぐる党内抗争で、非主流のボリシェヴィキ支持派が集団離党、21年に共産党を結成したため、残留主流派はメンシェヴィキ支持の議会主義政党として純化・発展することとなった。
 その結果、20年には早くも政権を獲得した。この第一次ブランティング政権は選挙で成立した史上初の「社会主義」政権とされる。ブランティングは翌年の普通選挙制導入後もさらに二度、20年代に計三度にわたり首相を務めている。こうして他国の同種政党に先駆けて社民党が議会政治に適応したスウェーデンは、社民党ボリシェヴィキ派が革命に勝利し、一党支配体制を樹立したロシアとは対照的な20世紀史を歩むことになるのであった。

静かな革命
 社民党は1925年のブランティング死去の翌年に政権を失うが、32年の総選挙で再び政権を獲得する。この後、同党は36年ひと夏だけの中断をはさみ、第二次大戦を越えて76年までおよそ44年にわたり、選挙を通じて政権を維持していく。この期間こそ、社会民主主義に基づくスウェーデン福祉国家モデルの構築期であった。それは長い、静かな社会革命であった。
 とりわけ大戦後間もない46年から69年まで、民主国家の指導者としては異例の20年以上連続して首相を務めたターゲ・エルランデルの時代が、その全盛期である。
 その政策は、一代前のペール・アルヴィン・ハンソン首相が提唱した「国民の家」という理念の具体化であり、階級闘争ではなく、政府の福祉政策による資本主義市場経済の修正を旨とした。言い換えれば、ソ連式の国有化・集団化ではなく、資本及び個人からの租税収入に支えられた社会国家の構築が目指された。それはベルンシュタイン流修正主義の発展モデルでもあった。
 そうしたモデルがスウェーデンにおいて高度に発達した条件として、第二次大戦でも中立政策を維持し、戦争での出費・犠牲がなかったことも大きいが、より大きくは19世紀以来の貴族層主導での民主化の伝統に加え、社民党の選挙戦略の巧みさ、また小国であるがゆえに社民主義的政策の障害となる大資本とそれを支持基盤とするブルジョワ政党の力が弱かったことも挙げられるだろう。

danger1990年代末に明るみに出されたナチスばりの障碍者強制断種政策が内外に衝撃を与えた。対象者は2万人を超え、実施期間は34年から75年まで、ほぼ「革命」の期間に相当した。「国民の家」から障碍者は排除されていたようだ。ただ、これはスウェーデン・モデル固有の政策ではなく、当時の世界的な優生学的偏見を反映したものでもあった。 

2014年3月13日 (木)

スウェーデン超小史(連載第5回)

四 ベルナドッテ朝の時代

ベルナドッテ元帥の招聘
 グスタフ3世を追放した宮廷立憲革命の後擁立されたのは、3世の叔父に当たるカール13世であったが、かつては兄グスタフ3世の反動政治の協力者だった彼は政治的な定見を持たず、女性関係に派手な人物で、世子もなかったため、生前から王位継承問題が発生した。
 スウェーデン議会は当初デンマーク王家の分家に当たるアウグステンブルク家のカール・アウグストを王太子に指名したが、彼が落馬事故がもとで急死すると、曲折を経て最終的に敵国であるフランスのナポレオン麾下ベルナドット元帥を招聘するという奇策に落ち着いた。
 スウェーデン語読みでベルナドッテは生粋のフランス人で、法律家の息子から兵卒として軍に入り、ナポレオンに認められて将軍まで昇進した職業軍人であって、軍功によりナポレオンからイタリアのポンテコルヴォ大公に封ぜられていたとはいえ、王族はおろか本来貴族でさえなかった。
 このような人物が王太子として招聘されたのは、かつて反ナポレオンの立場でスウェーデンがフランス陣営のデンマークと戦った際、フランス軍の将軍だったベルナドッテがスウェーデン兵捕虜を丁重に扱い、敵国スウェーデンでも好感を持たれていたことがあるとされるが、そればかりでなく、対ロシア防備を考慮すると練達の軍人が元首となることに意義があったこと、さらには立憲君主制の確立を目指す革命派にとってスウェーデン事情に疎い外国人の王を担ぐほうが都合が良かったであろうことも考えられる。
 ナポレオンはこの奇策を馬鹿げたものとみなしたが、反対もしなかったため、ベルナドッテはスウェーデンで優勢なプロテスタントに改宗したうえ、1810年、カール13世の王太子兼摂政として着任した。

カール14世ユーハン
 王太子兼摂政時代のベルナドッテは、期待どおりさっそく軍人としての手腕を発揮する。ナポレオンとの関係はすでにフランス軍人時代から微妙なものなっていたが、「スウェーデンのために戦う」と宣言してスウェーデン王太子となってからは、反ナポレオンの立場を鮮明にし、反仏盟主ロシアと同盟を結ぶ冷徹な一面を見せた。
 ナポレオンがロシア遠征の失敗で勢力を失うと、迷わず反ナポレオン連合に参画し、1813年のライプチヒの決戦では連合軍総司令官として勝利に貢献した。その後、親仏の隣国デンマーク領ノルウェーに侵攻し、14年にはキール条約でノルウェーを併合するなど再び「大国」の時代の再現も演じてみせた。
 凱旋の栄誉に浴する中の18年、ベルナドッテはカール13世死去を受けて、カール14世ユーハンとしてスウェーデン国王に即位した。即位後の彼はノルウェーの反乱を鎮圧してノルウェーを同君連合下に置いた後、しそれ以上の膨張政策は封印して武装中立政策を採り、ナポレオン打倒後の反革命的な国際秩序ウィーン体制を忠実に履行した。
 カール14世ユーハンは内政面でも超保守的であった。彼は革命派が期待したような民主的な立憲君主制も支持せず、ウィーン体制の枠内で権威主義的に振舞ったが、専制君主となることはなく、26年に及んだ治世中、スウェーデンは内外ともに安定した環境にあったため、44年に81歳で死去するまで、その王座が揺らぐことはなかった。

ベルナドッテ朝の確立
 カール14世ユーハンを継いだのは、ナポレオンの元婚約者だったやはりフランス人のデジデリア王妃との間の一人息子オスカル1世であった。
 彼は即位後間もない1848年にヨーロッパ各地で同時発生した民主革命「諸国民の春」には否定的で、そのスウェーデンへの波及を抑圧したが、父王とは異なり、民主的な価値観の持ち主であり、立憲君主制の確立には積極的であった。そのため、スウェーデンの立憲君主制はオスカル1世時代から整備されていく。
 外交面でもヨーロッパを巻き込むクリミア戦争と戦後のポストウィーン体制の中で英仏と協調しながら難しい舵取りに成功し、折から沸き起こってきた近代ナショナリズムの波の中で、スウェーデンを近代的国民国家として確立する地ならしをした。
 オスカル1世の後は、彼の二人の息子カール15世とオスカル2世の兄弟が相次いで即位したが、この時代に古い身分制議会の廃止と近代的な議会制度・内閣制度の創設などの民主的な改革がいっそう進んだ。
 外交面では、オスカル2世最晩年の1905年には同君連合下にあったノルウェーが分離独立し、前世紀初頭にロシアに割譲されたフィンランドに続いて領土は縮小され、「大国」スウェーデンの時代は最終的に終焉する。
 しかしベルナドッテ朝自体は近代的な立憲君主制として確立され、以後今日まで揺らぐことなく続いている。

danger17世紀以来続いたスウェーデンの外国人招聘王朝の伝統は、ついにスウェーデンと縁もゆかりもないフランス軍人ベルナドットの招聘で頂点に達したわけであるが、この奇策は大成功であった。伝統やしがらみにとらわれない平民出身のベルナドッテ朝は民主化に積極的であり、やはり17世紀以降外国人王朝であった英国と並び、他国に先駆けた民主的な立憲君主制の樹立に貢献したのだった。1980年には、ヨーロッパ王室で初めて男女不問の第一子王位継承制を導入している。

2014年3月 2日 (日)

スウェーデン超小史(連載第4回)

三 衰退から「革命」へ

絶頂期から対ロシア敗戦まで
 ヴァーサ朝を継ぐプファルツ朝初代カール10世は、ヴァーサ朝の遺産を活用し、国力のさらなる増強に鋭意努めた。彼はクリスティーナ前女王の平和政策を改め、依然大国であったポーランド、デンマークとの北方戦争に乗り出す。
 この戦争は1660年、カール10世が急死したことで、講和へ向かった。スウェーデンは軍事的に勝利しなかったが、有利に講和し、特にポーランドの王位請求を放棄させたことで王権が安定し、バルト海域の覇権を確立することに成功した。
 カール10世を継いだ息子のカール11世は即位時わずか4歳であったが、摂政統治期を経て、1672年以降親政を開始すると、重臣ユーハン・イェレンシェーナの助力を得て絶対王権の樹立へ向けた改革に着手する。
 特に80年から82年にかけて国王への権力集中や大貴族の土地収用などの政策を断行し、晩年の93年には王の絶対性が宣言されるに至って、スウェーデン絶対主義は頂点に達する。晩年はアウクスブルク同盟への参加とその結果としての大同盟戦争にも関わったが、終戦を見ずに97年、死去した。
 カール11世の治世は早世した父とは異なり、40年近くに及び、「カール朝絶対主義」とも称される強力な王権によってスウェーデンをバルト海域の大国に導いた。
 11世の後は、息子のカール12世が15歳で継いだ。彼は好戦的な人物で、その治世はほとんど戦争に費やされた。特にピョートル1世(大帝)の下で台頭してきた帝政ロシアとの戦争である。1700年から20年以上に及んだこの大戦―大北方戦争―は、「大国」スウェーデンにとって一大転機となった。
 この戦争は当初こそスウェーデン優勢で、12世は「北のアレクサンドロス」の異名をとるが、09年、ウクライナ東部ポルタヴァの戦いで敗れると、戦況が変わり、ロシアに押されていく。結局、18年、彼はロシア陣営のデンマーク支配下にあったノルウェー攻略戦中に戦死を遂げた。
 12世は生涯独身だったため、妹のウルリカ・エレオノーラが即位したが、この時点でロシアの勝利は確定していた。同時にスウェーデン元老院は絶対王政を否定するべく、王権を制限する新憲法を制定し、スウェーデン絶対王政は外交・内政両面でひとたび崩壊したのであった。

「自由」の時代と反動
 ウルリカ・エレオノーラ女王はわずか2年ほどで、王位を夫のヘッセン・カッセル方伯フレドリク1世に譲り、ここにプファルツ朝に続いて同じくドイツ系のヘッセン朝が成立した。
 フレドリク1世の初仕事は、大北方戦争を終結させるニスタット条約の締結であった。これによって、スウェーデンはバルト海域の領土を喪失し、同海の覇権をロシアに譲り渡すことになった。内政面でも、フレドリクは憲法によって権限を制約され、国政は貴族層に掌握された。
 結果として、スウェーデンでも立憲君主制が成立したが、それは貴族層に実権が戻されることを意味した。とりわけこの時期は、親露のメッソナ派(キャップ派)と親普仏のハッタナ派(ハット派)の二大党派対立が激化した。両派閥はそれぞれパトロン国から資金援助を得て活動したため、この時代のスウェーデンはロシアと普仏を中心とした西欧の傀儡的な状況となった。
 絶対王政を脱した限りで「自由」の時代とも呼ばれるこの貴族党派政治は、世子なく没したフレドリク1世を継承した同じくドイツ系ホルシュタイン・ゴットルプ朝のアドルフ・フレドリクの治世でも継続された。
 両派は政策面でも、重商主義的なハッタナ派に対しメッソナ派は自由主義的で、1766年には当時の欧州でも珍しかった言論の自由法を制定するなど、イデオロギー的な違いがあり、二大政党政の萌芽のような要素が見られた。
 この党派対立がスウェーデンの国力を弱めていることが明らかとなると、アドルフ・フレドリクを継いだ息子グスタフ3世は自ら宮廷クーデターを起こして実権を掌握し、再び絶対王政の復活に乗り出したのだった。彼はフランス絶対王政を範とし、文化的にもフランス化を進めた。一方で彼はフランス啓蒙思想の影響も受けた啓蒙専制君主でもあったが、言論の自由法は大幅に制約され、治世中に勃発したフランス革命に際しては、反革命の立場を鮮明にした。こうして、スウェーデンは反動の時代に入る。

立憲宮廷革命
 1792年、国王に反感を持つ元近衛士官の一貴族によって暗殺されたグスタフ3世を継いだ息子のグスタフ4世は、父王の反革命政策をいっそう強化し、絶対王政の再確立を目指した。
 外交的には、父王の反革命政策を継承し、反ナポレオンの立場から、ロシアと同盟し、アメリカ独立戦争に際しての武装中立同盟にも参加するが、ナポレオンの大陸封鎖やロシア懐柔策などの巻き返しにあい、外交的な閉塞状況に陥った。結果として、ロシアのスウェーデン領フィンランドへの侵攻を招き、フィンランド領土の大半を喪失した。
 内政面でも、当時のスウェーデンの主産業であった農業の不振や財政難にも直面し、グスタフ4世に対する国民各層の不満が高まっていった。
 こうした内憂外患の中、1809年、反グスタフ派の軍人・貴族らが決起し、グスタフ4世は拘束、廃位された。これを受け、グスタフ4世の叔父に当たるカール・ヨハン―彼は元来、兄グスタフ3世の反動クーデターの協力者であった―が臨時政府摂政に就任、続いて国王カール3世として即位した。
 この政変は形の上では軍事クーデターであったが、グスタフ3世・4世父子の時代に息を吹き返した絶対主義的な反動政治を終わらせ、再び「自由」の時代の立憲君主制が復活された限りでは、立憲宮廷革命の性格を持つ出来事であり、近代スウェーデン史の幕開けでもあった。

danger18世紀から19世紀初頭にかけてのスウェーデンは、絶対主義と自由主義の間を揺れ動く激動の時代であった。この間に「バルト帝国」の地位をロシアに明け渡し、「大国」から「小国」へ退いていく。興味深いことに、今日のように民主的かつ社会サービスが充実したスウェーデンの「生活大国」への道は、国際的な関係では「大国」を滑り落ちて、「小国」になってから開かれていくのである。

2014年2月 2日 (日)

スウェーデン超小史(連載第3回)

二 従属から「大国」へ

カルマル同盟
 統一王国としての基礎が築かれたのも束の間、14世紀のスウェーデンはペスト禍の直撃に加え、王と貴族層の間での政争の激化により、にわかに弱体化していく。ビェルボ朝末期のマグヌス4世時代には南部をデンマークに侵略されるなど、外患にも見舞われた。 
 結局、1364年、失政の多いマグヌス4世に対し、有志の貴族層はドイツ人でマグヌスの甥にも当たるメクレンブルク家のアルブレクトを王に招聘し、クーデターでマグヌスを追放、ここにビェルボ朝は終焉し、ドイツ系(遠祖はスラブ系)のメクレンブルク朝が成立した。これはスウェーデン史の特徴となる外国人招聘王朝の先例であった。
 しかし、アルブレクト即位後も先王マグヌス派との間で内戦が続き、それが一段落しても、西部地方はアルブレクトを支持せず、政情は安定しなかった。やがてストックホルムでも支持を失うと、アルブレクト王は貴族所領の上知を断行しようとしたため、貴族層の反発を招き、1389年、貴族層はデンマークの事実上の君主であった摂政マルグレーテ1世の軍事援助を得て、アルブレクトを追放することに成功した。
 マルグレーテは96年、姉の孫に当たるポメラニア人(スラブ系)のノルウェー王エーリクをデンマーク・スウェーデン王(スウェーデン王としてはエリク13世)に立て、翌年にはデンマーク主導の三国同君連合カルマル同盟を発足させた。
 こうして14世紀末以降、スウェーデンは当時北欧の大国となっていたデンマークを盟主とする同盟の中に吸収され、実質上デンマークの従属国となったのである。

抵抗の時代
 デンマークの軍事介入はスウェーデン貴族層自身の要請によるものだったとはいえ、それをきっかけにデンマークに従属することは必ずしもスウェーデン支配層の本意ではなかった。
 そうしたスウェーデンの反同盟的な動きは、エリク13世時代から現れていた。1434年には、スウェーデンの農民や鉱山労働者が大規模な愛国的反乱を起こした。スウェーデン貴族層はこれをカルマル同盟弱体化に利用し、以後もエリクの後継者たちはスウェーデンを統制し切れなかった。
 16世紀になると、スウェーデンの国政は有力貴族ストゥーレ家を中心とした摂政の手中にあり、かれらは独立への動きを加速させていた。1518年、独立派が親同盟派を追放する政変が起きると、時のデンマーク王クリスチャン2世は武力鎮圧の強硬策で臨んだ。20年には、スウェーデン独立派有力者を容赦なく大量処刑し(ストックホルムの血浴事件)、独立派の根絶を図った。
 このような流血弾圧策は成功したかに見えた。しかし独立派貴族としていったんはデンマークに囚われながら脱出し、血浴事件を逃れたグスタフ・ヴァーサはスウェーデン中部のダーラナで農民を集めて義勇軍を結成し、スウェーデン独立戦争を開始する。
 当初はマイナーだった義勇軍が短期間で増強され、次々と勝利を収めると、スウェーデン枢密院はグスタフを摂政に任じた。義勇軍にはハンザ同盟軍も加わり、デンマーク・ノルウェー合同軍を撃破した。
 幸運にも、23年にはデンマークで宮廷クーデターが起き、クリスチャン2世が追放され、フレゼリク1世が即位した。フレゼリクは先王とは異なり、スウェーデンの独立を承認したことから、スウェーデン枢密院は摂政グスタフ・ヴァーサを正式に国王に選出した。
 こうして、スウェーデンは新たなヴァーサ王朝の下で、およそ120年ぶりに独立を回復したのだった。

大国の時代
 ヴァーサ朝初代グスタフ1世は独立運動指導者としてのみならず、王としても有能であった。彼は王主導でルター派を支持する宗教改革を推進し、カトリック教会の所領の没収と王領地の拡張を実現させた。反乱にも見舞われたが、グスタフ1世の40年近い治世でヴァーサ朝の基礎が築かれた。
 ヴァーサ朝の絶頂期はグスタフ1世の孫に当たるグスタフ2世アドルフの時代であった。彼が17歳で即位した当時のスウェーデンはバルト海の制海権をめぐるロシア、ポーランド=リトアニア、デンマークという周辺強国との紛争の最中という外交上困難な時期にあった。
 特にポーランドとの関係では、兼任していたスウェーデン王を退位させられた同じヴァーサ家出身のジグムント3世から王位回復の挑戦を受けたが、軍制改革で軍を強化したグスタフ2世は苦戦しながらもポーランドを退けた。
 一方、新教派のグスタフ2世はドイツに勃発した宗教戦争である三十年戦争にも介入し、有利に戦況を進めたが、王自身は1632年に不慮の戦死を遂げてしまう。しかし、スウェーデンはこの戦争にも勝利し、大国としての地位を確立する。
 戦争に明け暮れたグスタフ2世だが、国内的には名宰相アクセル・オクセンシェルナの補佐も得ながら、重商主義政策によって経済振興を図り、先の軍制のほか、行政・司法制度の整備などにも着手した。
 かくして北欧のみならず、バルト海に及ぶ新教派大国となったスウェーデンは、グスタフ2世を継いだ娘のクリスティーナ女王の時代には、女王の啓蒙主義的な素養にも支えられ、文化的にも大国としての風格を備えるに至った。
 独身のクリスティーナ女王は1654年、当初の予定どおり従兄に当たるドイツ人プファルツ家のカール(10世)に王位を譲り退位した。ここにヴァーサ朝は終焉し、ドイツ系プファルツ朝が成立するが、「大国の時代」は同朝にも継承されていく。

danger「大国の時代」のスウェーデンは、「栄光のゲルマン民族ゴート人はスウェーデンに発祥した」というナチスばりの政治的神話(ゴート主義)で自国の帝国主義的覇権を正当化していた。この民族主義的な神話はスウェーデンが大国の地位から滑り落ちていく18世紀には退潮する。同時に、以後ネイティブの王朝は二度と出現せず、すべてドイツ人やフランス人を祖とする外国人招聘王朝となるのである。 

2014年1月12日 (日)

スウェーデン超小史(連載第2回)

一 スウェーデン建国

曖昧な建国過程
 北欧バイキングは、原郷にあってはゲルマン民族共通の伝統に従い、立法・司法機関を兼ねた民会(シング)と選挙に基づく族長制の下、氏族ごとにまとまっており、統一国家は長く形成されなかったと見られる。
 そうした中、バイキング活動はおおむね9世紀から10世紀にかけて順次終息していく。この頃には、バイキングの襲撃を受けていたイングランドやフランスで、バイキング勢力の自国領内定住を促す動きも広がり、フランスのノルマンディー公国のような強力な封建的自治国家も出現した。
 一方、北欧本国でもキリスト教の伝来・普及に並行する形で独自の国作りが開始されていく。ただスウェーデンの建国過程は半ば伝説化されており、曖昧な点が多い。そもそも当初はスウェーデン、ノルウェー、デンマークの北欧三国の境界も曖昧で、混沌としていたのである。
 スウェーデン最初の王とされるのは10世紀末のエリク王(勝利王)であるが、半ば伝説的存在であり、一応実在が確証できるのはエリクの息子オーロフ(シェートコヌング)である。オーロフ王はノルウェー王と戦い、領土を広げるとともに、自らキリスト教の洗礼を受け、スウェーデン南部の町スカーラに司教座を設置し、キリスト教国家としての最初の土台を作った。
 このエリク‐オーロフの出たムンセー王家は中部ウップランドを基盤とする氏族であり、スウェーデン最初期の中心地がウプサラ付近にあったことを示している。

王権抗争期
 ムンセー王家はオーロフ王の庶子エームンド王(老王)を最後に途絶え、1060年にエームンド王の義理の息子ステンキルが王位に就き、ステンキル朝が始まる。ステンキルは南部のエステルイェートランドの出身と見られ、ここで南部の氏族が王権を掌握することになる。
 ステンキル朝は12世紀前半まで続き、同じエステルイェートランド出身のスヴェルチェル1世に始まるスヴェルチェル家が新たな王家となる。しかし、この頃から13世紀半ばまでは、スヴェルチェル家とエリク9世(聖王)に始まるエリク家の二大氏族による王権抗争が続く。
 この時代のスウェーデンは半独立状態の地域首長の連合体という従来の分裂状況からようやく統一へ向かっていたが、スウェーデン王位は伝統的に選挙制のうえ、王権も制限されており、なお安定しなかった。
 そうした中、エリク家の祖エリク9世(聖王)は1154年から55年にかけて、いわゆる北方十字軍の一環としてフィンランド遠征を敢行し、フィンランド南西部のキリスト教化を進めたとされる。
 当時のフィンランドには非ゲルマン系のウラル語族に属するフィン人が居住していたが、未統一の部族制下にあり、スウェーデンの侵略に対して無防備であったため、スウェーデンの征服活動は容易であった。
 13世紀に入っても、スウェーデンのフィンランド遠征は続き、ノヴゴロド公国―かつてスウェーデン・バイキングが建国に関わったキエフ大公国から分離した―との国境線が画定された14世紀前葉までに、スウェーデンのフィンランド征服がほぼ完了する。
 これによって、以後19世紀初頭に至るまで、フィンランドを含み込んだスウェーデン領土(スウェーデン‐フィンランド)が出現するとともに、キリスト教と結びついた王権も強化されていく。

ビェルボ朝の成立
 スウェーデンの王権抗争期は1250年、やはりエステルイェートランド出身の有力氏族ビェルボ家のヴァルデマールが王に選出されて、一つの区切りがつく。
 ヴァルデマールの父で同家の実質的な祖ビルイェル・ヤールは13世紀前半、実力者にのし上がり、首都ストックホルムの建設を主導するとともに、フィンランドへの十字軍遠征を再び敢行し、領土拡張にも貢献した。ヴァルデマールはこうした強力な父を背景に王位に就いたのである。
 ビェルボ朝は内紛を経ながらも、以後1364年に至るまで、一応スウェーデンの世襲王朝としての地位を確立し、14世紀に入るとノルウェー王も兼務するようになる。
 この時代は、西欧史上は封建制に特徴づけられる中世に当たるが、スウェーデンでは封建制の発展はあまり見られなかった。1280年には公式に貴族制が導入されたが、スウェーデンの貴族は世襲の封土を持たない大地主であり、初めからブルジョワ的な性格を持っていた事実は、その後のスウェーデン史を大きく規定するであろう。
 とはいえ準封建的な貴族制の発達はようやく強化されてきた王権を再び弱め、14世紀のスウェーデンでは王と貴族層の間の政争が激化し、王国の弱体化を招いたのであった。

dangerスウェーデンのフィンランド支配は、北欧における植民地主義という負の歴史を象徴している。しかし12世紀から19世紀にまで及ぶ長い支配の間に、フィンランドのスウェーデン化は進み、現在でも多くのスウェーデン系フィンランド人が存在するほか、スウェーデン語は公用語の一つである。これはスウェーデンの支配が近代の帝国主義的植民地支配―フィンランドでは19世紀以降のロシアの支配がそれに当たる―以前の前近代的植民地支配であったことが影響しているかもしれない。

2013年12月19日 (木)

スウェーデン超小史(連載第1回)

序 バイキング時代

スウェーデン・モデルの源
 北欧の中心国スウェーデンは租税を原資としたその高度な社会政策と平等性、また透明性の高い民主政治をもってしばしば「スウェーデン・モデル」として範例化され、北欧周辺国はもとより、世界中で参照され、影響を及ぼしてきた。
 そのモデルは専ら近代以降に構築されたものであるが、源は歴史の中にある。従って、歴史を異にする諸国が表面上模倣することはできないものがある。
 しかし、遠く離れた日本でスウェーデン史は意外に知られていない。そのため、スウェーデンはどこか遠くの楽園として理想化されがちであるが、その歴史は世界歴史上の重要な出来事とも密接に絡み合い、意外な激動に満ちている。そうした歴史を踏まえて、スウェーデンの現実を直視することは、スウェーデンを楽園ではなく、問題も抱える生身の一国家としてとらえ直す契機となるであろう。

陸に上がったバイキング
 スウェーデンの歴史は、北方ゲルマン人のバイキング活動の渦中で始まる。バイキング活動は、4世紀から5世紀にかけての「ゲルマン民族大移動」の際には移動の波に加わらなかった北方ゲルマン人による遅れての移動を伴う植民活動であったと言える。
 それは海洋民族であったかれらの特質を反映して多くは海上活動の形を取ったが、その中でスウェーデン系バイキングの活動はやや特殊であった。かれらは他のバイキングとは異なり、言わば陸に上がったのである。
 スウェーデン系バイキングは東方を目指し、海の代わりにドニエプル河やボルガ河のような大河を往来し、ビザンティン帝国や新興のスラブ諸国、イスラーム世界のような東方世界と接触した。
 他のバイキングと同様、かれらも商人であったが、スウェーデン系バイキングはノルウェーやデンマーク系バイキングが事とした略奪活動よりも正当な商取引活動を選好した。その商業中心地は世界遺産にも登録されているビルカであった。この遺跡からの出土品には西欧を含む東西を結ぶ活発な商取引の証拠が残されている。

ロシア建国
 東方へ進んだスウェーデン系バイキング活動の白眉は、9世紀、ロシアの建国に関与したことである。確証は不十分であるが、ロシアの語源である「ルーシ」がスウェーデン系バイキングの別称ともされるように、ロシアは東欧に定着したスウェーデン系バイキングの首長によって建てられたと推定されている。
 かれらがスラブ系国家の建国者となったのは、当時分裂状態にあったスラブ人勢力からの推挙によるものであったとされる。当初はリューリク、シネウス、トルヴォルのルーシ人豪族三兄弟の分割統治であったが、長男リューリクが二人の弟の死後、ホルムガルドと呼ばれた現ノヴゴロドを建設、ここを首都とする公国を単独で建て直した。これが、その後16世紀まで続くロシア最初の王朝リューリク朝の始まりである。
 リューリクの死後、後継者によって首都は現ウクライナ領のキエフに遷され、以後、キエフ公国が確立される。公国は元来、公家を中心とする支配層のごく一部のみがスウェーデン人系であって、大多数の公国民はスラブ系であったため、建国後間もなく、公家も含め、急速にスラブ化していき、キエフ公国の歴史はもはやスウェーデン史とは分かれ、ロシア・ウクライナ史に手渡される。

dangerリューリク朝の起源をめぐっては、スラブ民族主義史観の立場からルーシ人のバイキング出自を否定し、元来ルーシ人はスラブ系であるとする見解がロシア・東欧では有力である。いずれにせよ、スウェーデン系バイキング活動がロシア方面にも及んでいたことは確実である一方、リューリク朝の歴史の大部分がロシア史に属することもまた確かである。

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