〆ユダヤ人の誕生―『旧約聖書』批判―

2013年12月12日 (木)

ユダヤ人の誕生(連載最終回)

Ⅵ ユダヤ人の確立(続き)

aries「パレスチナ人」の分岐
 ユダヤ亡国後、多くのユダヤ人が離散し、ディアスポラとなったが、ローマ帝国はかつてのアッシリアのように強制移住政策を採らなかったから、故地を離れたユダヤ人は想定されるほど多くはなかった可能性もある。
 そうした残留ユダヤ人がどの程度存在したかは不明であるが、かれらはバル・コクバ大公国崩壊後、ユダヤの名を抹消され、シリア・パレスチナと改名されたローマ属州民として生きることを強いられた。
 4世紀にローマ帝国がキリスト教を容認した後、パレスチナではキリスト教寺院の建設が始まり、キリスト教中心地となる。アエリア・カピトリーナは再びエルサレムに戻され、今日まで続くキリスト教聖地ともなった。
 反キリスト的なユリアヌス帝時代にはユダヤ人のエルサレム立ち入りが解禁され、ユダヤ教神殿の再建許可すら出されたこともあるが(未実現)、長いキリスト教化の過程でキリスト教に改宗するユダヤ人も相当数輩出したと考えられる。
 ローマ帝国の分裂後、パレスチナを支配した東ローマ帝国(ビザンティン帝国)の力が衰えると、アラビア半島から勃興してきたアラブ人の活動が活発になり、特に預言者ムハンマドが創始した新たな一神教イスラームを掲げる勢力が台頭する。イスラーム勢力は7世紀以降、中東各地に遠征し、638年にはエルサレムを征服、ここを聖地とした。
 こうしてイスラーム教が到達すると、パレスチナは宗教的‐文化的にも言語的にも急速にアラブ‐イスラーム化される。その結果、今日「アラブ系」とみなされる「パレスチナ人」が誕生したとされるが、真相はさほど単純ではなさそうである。
 実際、今日の遺伝子系譜学的研究によれば、イスラエルのユダヤ人とパレスチナ人の相当部分はY染色体の遺伝子プールを共有し合っているという。このことは、イスラーム勢力のパレスチナ征服後、同地の残留ユダヤ人の相当数が一部アラブ人とも通婚しながら、イスラーム教に改宗したことを物語っている。極端に言えば、「パレスチナ人」とはイスラームに改宗したユダヤ人である。
 もっとも、今日イスラエル人と対立的に用いられる「パレスチナ人」という民族主義的概念は近代のものであるが、その土台となる中世以降のパレスチナ住民の基層は、元をただせばユダヤ人であったとも考えられるのである。
 かくしてキリスト教徒の分離に続き、イスラーム教改宗によって「パレスチナ人」が分岐したことで、なおユダヤ教を強固に保持する「ユダヤ人」の概念と宗教‐民族意識はいっそう強く確立されていったであろう。
 それは欧州をはじめとする離散地での長い差別・迫害の歴史―その究極がナチによるホロコースト―、一方では実業界や知識界での活躍の歴史の中でさらにいっそう強化され、ついに帰還国家イスラエルの成立をもって、ユダヤ国家は再生を果たすのである。(連載終了)

2013年12月11日 (水)

ユダヤ人の誕生(連載第18回)

Ⅵ ユダヤ人の確立

ariesキリスト教徒の分離
 キリスト教創始者ナザレのイエスが生まれたのは、ヘロデ大王末年の紀元前4年とされる。新約によれば、ヘロデ大王は新たな王がベツレヘムで生誕したとの情報を得て、ベツレヘムの2歳以下の男児全員の殺害を命じたため、イエスの両親はエジプトに避難し、イエスは殺害を免れたという。
 この逸話の信憑性は測り難いが、猜疑心がひときわ強いヘロデ大王は自らの王朝に対する脅威を取り除くためには残酷な粛清も辞さなかったから、こうした事実もあり得なくはないだろう。
 いずれにせよ、イエスは生き延び、やがて洗礼者ヨハネから受洗される。イエス・キリストの先駆者と目されるヨハネは、前述したようにヘロデ大王の息子で後継領主ヘロデ・アンティパスの異母兄妻との再婚を姦淫として非難したため、捕らえられ、斬首される。
 イエスはやがてヨハネとは別に従来のユダヤ教とは異なる新たな宗教活動を開始する。イエスの教えの基本にはユダヤ教保守派パリサイ派の厳格な形式主義に対する批判とともに、ハスモン朝以来、権力と結びつきつつ神殿を支配し、商業にも手を染めていた現世的なサドカイ派双方への批判があった。
 パリサイ派とサドカイ派は表向き対立関係にあったが、イエスが両者を敵に回したことは、もはやユダヤ教全体と敵対するに等しかった。
 特にイエスが神殿から御用達商人の追放を訴えたことは、商人と癒着関係にあったサドカイ派祭司らの反感を買った。ために、イエスは彼を反ローマの政治犯に仕立てるサドカイ派の策略によって宗主国ローマ当局に告発され、サドカイ派の主張を受け入れた当局によって磔刑に処せられたのだった。
 しかし、「キリスト復活」の奇跡―伝承―に象徴されるように、イエスの教えは当時の形式化し、腐敗したユダヤ教の現状を受け入れられない人々の間で継承発展されていった。
 こうしてイエスの教えに感化され、ユダヤ教を離脱し、キリスト教に改宗するユダヤ人が分離されたことは、逆にユダヤ教にとどまるユダヤ人の存在性を強め、ユダヤ人概念をいっそう確立することとなった。
 特に亡国後のユダヤ人は地中海域から欧州にも離散・移住していったため、同じ地域に広く伝道されていったキリスト教とは競合的な関係を強めたことから、ユダヤ教に改宗した異民族をも新たに加えつつ、ユダヤ人=ユダヤ教徒の存在性は際立つようになり、やがてそれぞれの地域でのユダヤ人差別の風潮をも生み出すようになるのである。

2013年12月 9日 (月)

ユダヤ人の誕生(連載第17回)

Ⅵ ユダヤ人の確立

aries同系民族の征服
 ユダヤ人という民族概念は血統的なものではなく、宗教的なものである。すなわち、「ユダヤ人=ユダヤ教徒」なのであった。
 こうした独特の民族概念が明確に形成されたのは早くともハスモン朝全盛期であり、それ以前は血統的概念としての「イスラエル人」という概念しかなかった。
 決して長くはなかったハスモン朝の全盛期は、前134年から104年まで30年間の長期治世を保ったヨハネ・ヒルカノス1世とその二人の息子アリストブロス1世及びアレクサンドロス・ヤンナイオスの時代であった。この通算して約60年の間、ハスモン朝はイドマヤ人やサマリア人といった元来は同系の諸民族を次々と征服し、しかもユダヤ教への強制改宗を断行したのであった。
 結果、イドマヤ人は比較的早くにユダヤ化されていったが、後にハスモン朝自体がユダヤ化したイドマヤ人ヘロデのような人物に王権を簒奪されたのは、歴史の皮肉であった。だが、前に指摘したとおり、異民族ヘロデ大王こそは最初の「ユダヤ人」を象徴する人物だったのである。
 これに対して、サマリア人は簡単に同化されなかった。前述したように、サマリア人はアッシリアによって北イスラエル王国が滅ぼされた後、アッシリアの民族同化政策に基づき、その王都であったサマリアを中心に、移住してきたアッシリア人その他の異民族と残存ユダヤ人(イスラエル人)が通婚・同化することで形成された新民族であった。
 サマリア人は宗教的にも異教の影響を強く受け、ユダヤ教からは別宗派とみなされるようになった。
 かれらはサマリアのゲリジム山を宗教上の聖地としたが、ヒルカノス1世は前128年、このゲリジムの神殿を攻撃し、破壊した。それでも降伏しないサマリア人を完全征服するため、ヒルカノスは前110年から109年にかけて大規模なサマリア遠征を行い、サマリア市街を壊滅させた。
 これによって、サマリアもハスモン朝ユダヤ王国の版図に組み込まれたが、サマリア人は迫害の中、なおも独自の信仰を守り続ける。
 強盗に襲われ、負傷したユダヤ人旅行者をユダヤ人の祭司や律法学者らは見て見ぬふりをするなか、一人のサマリア人が介抱し宿屋の費用まで立て替えたという新約に見える有名な「善きサマリア人」のたとえは、イエスの時代にあってもサマリア人が一般的には善からぬ民族として忌避されていたことを示唆している。
 実際のところ、ユダヤ教祭司一族が創始したハスモン朝自身、ヘレニズムの強い影響下にあり、ユダヤ教保守派のパリサイ派からは批判され、ためにヤンナイオスの時代にはパリサイ派との内戦まで招いたほどであったのだが、ユダヤ人概念はハスモン朝下でサマリア人をはじめとする非ユダヤ系民族に対する征服・迫害を通じて自覚的に形成されていったことはたしかである。
 時代下って自らが被迫害民族となるユダヤ人が、その出発点においては異民族迫害を通じて確立されていくのも、歴史の皮肉であったろう。

2013年11月30日 (土)

ユダヤ人の誕生(連載第16回)

Ⅴ ローマ支配と亡国(続き)

aries抵抗運動と挫折
 前回述べたように、一時的に実質上ヘロデ朝を復活させたアグリッパ1世が44年に死去した後、そのローマ育ちの息子アグリッパ2世はもはやローマ帝国の完全な傀儡にすぎなかった。
 第一次ユダヤ戦争はそうしたアグリッパ2世の時代に起きたユダヤ人による最初の反ローマ蜂起であった。それは偶発的に始まった。
 発端はギリシャ人がヘロデ大王が建設した海辺の都市カイサリアでユダヤ教会堂シナゴーグを冒涜した行為に対してローマ当局が介入しなかったことをめぐり、ユダヤ神殿の管長が抗議行動を組織したのをきっかけに、反重税の抗議行動も加わり、エルサレムでも暴動に発展していったのである。
 対抗上、ローマ当局が見せしめに多数のユダヤ人を処刑したことでかえって火が付き、全土的な騒乱状態となった。時の皇帝ネロは後に自らも皇帝となる将軍ウェスパシアヌスを派遣するも、ネロの自殺に端を発するローマ政治の混乱もあって、戦線は膠着する。しかし、ウェスパシアヌスは息子ティトゥスとともに、アグリッパ2世の助力も得ながら各都市を撃破し、ついに70年には首都エルサレムを制圧する。
 こうして以後、ユダヤはローマ属州として実質上の軍政下に置かれることになる。多くのユダヤ人がローマ当局の報復を恐れて海外へ離散し、ディアスポラとなった。しかし、ユダヤ人の抵抗はこれで終わらず、散発的な抵抗が続く。
 特に115年から117年にかけて、キプロス島を含む中東のユダヤ人ディアスポラが大規模な同時多発的反ローマ蜂起を起こした。
 この反乱鎮圧の功労者クイエトゥス将軍の名を取って「キトス戦争」とも呼ばれるこの蜂起もまた、ローマ軍の前に粉砕されたが、反乱終結の年にトラヤヌス帝から皇位を継いだハドリアヌス帝はユダヤ支配の強化を目指し、エルサレムをローマ風都市として再建したうえ、自らの氏族名にちなんで「アエリア・カピトリーナ」と改名さえしようとしたのだった。
 表向きユダヤ人に同情する態度を示していたハドリアヌス帝は第一次戦争以来荒廃していたエルサレムの再建を公約し、一時はユダヤ人の間で解放者のようにみなされていたが、ハドリアヌスの底意が判明すると、ユダヤ人の失望は怒りに変わった。
 132年、当時のユダヤ教最高指導者ラビ・アキバによって救世主メシアと認証された一ユダヤ人バル・コクバが指導者となって武装蜂起し、エルサレムを解放して「大公」を名乗り、ラビ・アキバを宗教上の最高指導者とする事実上の独立国家の樹立に成功した。
 しかしハドリアヌス帝は将軍セウェルスに命じてバル・コクバ政権への反撃を開始、3年の戦闘の後、135年にはエルサレムを制圧した。バル・コクバは戦死し、ラビ・アキバも処刑された。こうしてしばしば「バル・コクバの乱」ないし第二次ユダヤ戦争とも呼ばれるこの武装蜂起も、圧倒的なローマ軍の前に挫折に終わった。
 戦後のローマの対ユダヤ政策はいっそう苛烈な民族浄化的なものとなった。ユダヤ属州からユダヤの名は削られ、代わりにかつてユダヤ人と敵対したぺリシテ人の名にちなんだシリア・パレスチナ属州と改名され、予定どおりに建設されたエルサレム改めアエリア・カピトリーナにはユダヤ人の立ち入りさえも禁じられた。これによって、ユダヤ人のディアスポラ化は決定的となる。

2013年11月27日 (水)

ユダヤ人の誕生(連載第15回)

Ⅴ ローマ支配と亡国(続き)

ariesヘロデ朝の終焉と亡国
 ヘロデ大王は30年以上独裁者として君臨した後、前4年に死去した。彼が創始した王朝(ヘロデ朝)は、大王の死に際し、おそらくは宗主国ローマの意向を呈した大王の遺言により3人の息子の間で分割相続の形となったため、事実上分裂する。
 この3人の息子、すなわちヘロデ・アルケラオス、ヘロデ・フィリポスおよびヘロデ・アンティパスはそれぞれ領地を与えられて分割統治したが、父のように王を称することは許されなかったため、ローマ帝国を宗主とする封建的な分封領主の地位にとどまった。よって、厳密に言えばヘロデ朝はヘロデ大王一代限りで終焉したと言ってよいだろう。
 さて、3人の息子のうち年長のヘロデ・アルケラオスは旧ユダヤ王国の中心部と一族の出身地エドムやサマリアなどの要地を与えられたにもかかわらず、統治者としては無能で、失政を繰り返したことから、領民の訴えにより罷免され、ガリアへ追放された。これにより、旧ユダヤ王国中心部がローマの直轄領に編入されたため、ユダヤの自治も終焉したに等しかった。
 またガリラヤの地を与えられたヘロデ・アンティパスも異母兄の妻であったヘロディアと不倫関係に陥った末結婚するなどの不行跡があり、ヘロディアの教唆により王位を望んだことで、ローマから危険視され、これも罷免のうえガリアへ追放となった。
 ちなみにオスカー・ワイルドの戯曲をベースとしたリヒャルト・シュトラウスの著名な楽劇『サロメ』の主人公サロメはヘロディアと前夫の間に生まれた娘で、アンティパスとヘロディアの結婚を姦淫として非難したために捕らえられ、斬首された洗礼者ヨハネの首を宴会の舞の褒美として求めたとする伝承の主である。史実性はともかくとしても、アンティパス政権の堕落ぶりを示すエピソードである。
 結局、ローマは紀元37年以降、ヘロデ大王の孫に当たり、旧ハスモン朝の系譜をも引くアグリッパ1世に上記三分統治時代の各領地のほぼすべてを順次委ね、一本化した。
 もっとも、彼も前任者らと同様、正式の王位は与えられなかったが、ほぼユダヤ全域の統治者となったことで、実質上ヘロデ朝が一時復活したに等しい形となった。
 彼は前任者らと異なり、統治者としてはまずまず有能であったと見え、「アグリッパ大王」と称されることもあるが、宗教政策面ではユダヤ教保守派パリサイ派に立脚して、当時広がりを見せていた初期キリスト教グループを弾圧し、イエスの使徒らを処刑・投獄した。
 しかしアグリッパ1世が44年に死去すると、ローマはその年少の子アグリッパ2世に父の地位を継承させず、ユダヤ地方は再び直轄領となった。
 後にアグリッパ2世もガリラヤ地方の領主に任じられるが、ローマ宮廷で育成された彼はユダヤ人というよりローマ人であった。実際、66年に勃発したユダヤ人による最初の反ローマ蜂起(第一次ユダヤ戦争)に際しては、ローマの鎮圧軍に肩入れさえしたのであった。
 ユダヤはこの第一次戦争でその宗教的象徴エルサレム神殿を破壊され、敗北したことで、ローマの完全な支配下に入り、以後近代国家イスラエルとして復活するまで長い亡国の時代を迎えることになる。

2013年11月26日 (火)

ユダヤ人の誕生(連載第14回)

Ⅴ ローマ支配と亡国

aries最初のユダヤ人・ヘロデ大王
 ハスモン朝を倒したのは、ローマ帝国と結んだヘロデであった。彼は元来ユダヤ民族出自ではなく、イドマヤ人の出自であった。
 聖書上、イドマヤ人(エドム人)はユダヤ民族の祖ヤコブの双子の兄エサウから出た兄弟民族にして、ダヴィデ王時代に服属したとされるから、おそらくは原カナン人として同系民族集団から出ているのであろう。
 しかし、かれらはダヴィデ時代ではなく、ハスモン朝最盛期のヨハネ・ヒルカノス1世時代に征服され、ヘロデの青年時代にはユダヤ王国の支配下にあった。前回先取りしたように、ヘロデはハスモン朝末期のヒルカノス2世に仕えた武将・政治家アンティパトロスの息子で、彼自身もガリラヤ知事を歴任し、政治的な重鎮となる。
 ヘロデはローマ帝国と結んだ父の死後、ローマ三頭政治首脳の一人マルクス・アントニウスの支持者となり、その後ろ盾を得て、ハスモン朝最末期の王位継承抗争を利用しつつハスモン朝を打倒、自ら新王朝を開くのである。
 聖書では、ヘロデ大王というと悪逆の暴君として描かれる。たしかに彼は王権維持のためには粛清をためらわず、一応史実として取れるだけでも、自らの王妃や王子さえも含むハスモン家一族やユダヤ教高位聖職者らを大量処刑したため、「狂王」とすら呼ばれることもある。
 だが、それだけでヘロデの評価を決するのは早計である。ヘロデを否定的に見る者でもヘロデの功績として評価するのは、エルサレム神殿の改築事業である。「ヘロデ神殿」とも呼ばれるこの神殿は、バビロン捕囚からの帰還後に再建された「第二神殿」の大拡張工事として行われ、その威容は今日イスラエル博物館の模型を通じて知ることができる。
 王としても、ヘロデは当時中東まで触手を伸ばしてきていたローマ帝国とユダヤ王国の間に介在して、ローマに服属しつつ一定の自治を確保し、無能力化したハスモン朝に取って代わってユダヤ王国をしばらくの間延命させた功績を認めることができる。
 しかし、何と言ってもヘロデ最大の功績は彼自身最初のユダヤ人となったことであった。ここで言う「ユダヤ人」の意味は、ユダヤ民族ではなく、ユダヤ教徒という今日的な意味におけるそれである。
 実際、ヘロデは民族的には非ユダヤ系でありながら「ユダヤの王」として紹介されることが多いのも、彼がユダヤ教徒であり、ユダヤ化していたからにほかならない。その意味で、彼はまさにユダヤ人であった。
 こうして、ヘロデは民族籍と宗教を切り離した「ユダヤ教徒=ユダヤ人」という新定義を―おそらくは自ら意識しないまま―率先して体現していたのである。  

2013年11月14日 (木)

ユダヤ人の誕生(連載第13回)

Ⅳ 捕囚と帰還・再興(続き)

aries独立運動とハスモン朝
 プトレマイオス朝からユダヤの地を奪ったセレウコス朝シリア第8代君主アンティオコス4世がエルサレム神殿で異教の祭儀を執り行うという冒涜行為を犯したとされることを契機に、前167年、モディンという小村の祭司マタティア一家の率いる反シリア抵抗運動が勃発する。
 マタティアは抵抗運動渦中の翌年病没するが、後を息子ユダ・マカバイが継ぎ、抵抗は継続される。
 ユダはシリアに対するゲリラ戦を指揮して戦果を挙げ、いったんはユダヤ民族の宗教的自由を勝ち取るが、再びシリアと戦争状態となって戦死した。後を継いだ弟のヨタナンはシリアと講和して大祭司に任ぜられ、さらにその後継者となった弟シモンは前140年までに独立を達成した。これはユダヤ民族にとってはバビロン捕囚以来、およそ450年ぶりの独立回復であった。
 シモン政権は対外的にローマからも承認され、対内的にもシモンはユダヤの民族指導者兼大祭司としての地位とその子孫への世襲も承認されたことから、実質上ここに一族の出たハスモン家の王朝が成立した。そしてシモンの孫アリストブロス1世の時には正式に王を名乗るようになった。
 こうして新たに登場したユダヤ人の独立王朝ハスモン朝は祭司一族が創始した祭司王朝であって、祭司=王という神権政治を特徴とした。
 これは従来、世俗の王と祭司を分離してきたユダヤ的伝統に反するうえ、小村の一介の祭司一族から出たハスモン朝支配の正統性は終始疑問視されたが、ハスモン家が独立運動に果たした役割の偉大さと忠実な預言者が現れるまでの間という「暫定政権」の論理とによって、ハスモン朝は民衆からもひとまず受容されたのである。
 結局のところ、以後約一世紀にわたりハスモン朝は世襲王朝として存続していくこととなった。そして祭司王朝としての性格からしても、ハスモン朝治下の決して長くはなかった時代は、ヘレニズムの影響下にユダヤ教の大いなる発展期ともなった。前2世紀後半期になると、セレウコス朝の衰退に伴い、領土も北方へ拡張され、旧南北王国時代の全領域に近い範囲に及んだ。
 だが、ハスモン朝は前1世紀に入ると王位継承をめぐる内紛などから内政が混乱し始め、そこへ中東への勢力圏拡大を図るローマ帝国の進出も重なり、ハスモン朝ユダヤは弱体化する。
 熾烈な王位継承抗争の中、第10代ヨハネ・ヒルカノス2世側近のイドマヤ人将軍アンティパトロスとその息子ヘロデが台頭してくる。結局、ハスモン朝はローマに巧みに取り入って後ろ盾としたヘロデのクーデターにより前37年、滅亡に追い込まれたのである。

2013年11月 8日 (金)

ユダヤ人の誕生(連載第12回)

Ⅳ 捕囚と帰還・再興(続き)

ariesバビロン捕囚と帰還
 前回述べたとおり、南王国滅亡後のバビロン捕囚はユダヤ民族の滅亡をもたらさず、それどころかかえって民族的意識の高揚を結果することとなった。
 南王国の支配層はユダ部族であったから、ユダヤ民族とは、厳密に言えばこの南王国支配層とその子孫のことであって、わかりやすくするため北王国を構成した10部族を含めて「ユダヤ民族」と包括してきた本連載のこれまでの記述は実のところ正確さに欠けることになる(10部族も包括する場合は「イスラエル民族」と称するべきであろう)。
 とはいえ、バビロン捕囚で高揚した民族意識の下、旧約の基礎資料の作成も開始される。
 ここでメソポタミアの中心部に囚われたことは、旧約にメソポタミア的性格を濃厚に刻みつけた。ノアの方舟説話も、チグリス・ユーフラテス河の氾濫に由来するシュメール人以来の古い洪水伝承に取材したものであるし、ユダヤ民族の祖アブラハムがシュメール時代の古都ウルの出身とされたのも、旧約の基礎資料がメソポタミアの地で生み出されたことの証左である。
 この捕囚はしかし、そう長くは続かず、およそ60年で終わりを告げた。おそらくこの幸運も、ユダヤ民族が保持された大きな要因であろう。もし捕囚が恒久的であったとしたら、いかに民族意識が高揚しようとも、世代を追うごとに周辺民族との同化は避けられなかっただろうからである。
 捕囚解除・解放の契機となったのは、新バビロニアに取って代わったアケメネス朝ペルシャのキュロス2世の命であった。ペルシャの民族政策は比較的寛大であり、ユダヤ民族にも故地帰還が許されたのであった。
 とはいえ、これはあくまでもペルシャ支配下での限定的な「解放」にすぎず、ユダヤ民族の王国再興が許されたわけではない。ユダヤ民族帰還後のカナン地方ではペルシャ時代の都市遺跡が少ないのも、この時代、ユダヤ民族固有の都市文化が閉塞していたことを暗示する。
 それでも、帰還後のユダヤ民族は早速新バビロニアによって破壊・放置されていたエルサレム神殿を再建し、宗教的な再興のきっかけを手にした。いわゆるユダヤ教はバビロン時代に整理された律法をベースに、実質上このペルシャ支配時代に整備されたとみなしてもさしつかえないであろう。
 しかしこの先、ユダヤ民族はさらにペルシャに取って代わったマケドニア帝国とその後継者たるプトレマイオス朝、セレウコス朝の異民族支配を順次受け続けることになるが、この時代はいわゆるヘレニズム時代であり、ユダヤ固有のヘブライズムとヘレニズムの出会いと接合という文化的には豊かな産物を生み出すことになる。

2013年11月 5日 (火)

ユダヤ人の誕生(連載第11回)

Ⅳ 捕囚と帰還・再興

aries二度の捕囚
 ユダヤ民族は、その歴史の中で二度にわたり外国によって集団的な捕囚の身とされる数奇な経験を持っている。その最初は北王国滅亡後の「アッシリア捕囚」であった。
 この時は南王国の一部住民と北王国を構成した10部族が帝国各地に強制連行され、特に後者はその後もカナンへの帰還の事実がないということから、「失われた10支族」の伝承を生み、人々のイマジネーションを搔き立ててきた。
 中でも今日アフガニスタンの多数民族であるパシュトゥン人の一部部族がイスラエル人起源の伝承を持つことから、失われた10部族の一部が東へ移住してパシュトゥン人となったとの説も一時有力であったが、今日の遺伝学的研究はパシュトゥン人=イスラエル人起源説には否定的である。
 前回も指摘したとおり、10部族が「失われた」のはアッシリアの民族同化政策によって通婚・混血が急速に進み、民族的アイデンティティを喪失したことが大きい。これはアッシリアから強制された政策の結果でもあるが、元来簒奪王朝として出発し、外国の影響を受けて異教的であった北王国の性格の結果でもあった。
 そうした北王国の異教的性格は、北王国の暴君として悪名高いアハブ王の娘アタルヤが南王国に嫁ぎ、息子のアハズヤ王死後、女王に即位した時には南王国にも及びかけたが、アタルヤ女王は間もなく南王国大祭司を中心とする反対勢力によるクーデターで地位を追われ、南王国の伝統は保持された。
 これに対し、南王国滅亡後の「バビロン捕囚」は、ユダヤ民族を失わせる結果とはならなかったどころか、この苦境はかえって民族的・宗教的覚醒を強める歴史的な契機にさえなった。
 これは新バビロニアがアッシリアとは異なり、強制同化政策を採らず、王をはじめとするユダ王国支配層を首都バビロンに連行し、俘囚として集住させる政策を採ったためでもあったが、それ以上に、ダヴィデ、ソロモン王の系譜を引くユダ王国民が元来、宗教的によく団結していた結果でもあった。そのため旧王国領内にとどまった民衆も、バビロニア統治下で民族的統一を保持し得たのである。

2013年10月21日 (月)

ユダヤ人の誕生(連載第10回)

Ⅲ 入植・王国時代(続き)

aries王国の分裂
 ダヴィデ、ソロモン父子王の時代に栄華を誇ったとされる統一イスラエル王国はソロモンの没後、南北に分裂する。そのうち南王国(ユダ王国)はほぼ代々ダヴィデの子孫が王位を継承していくのに対し、北王国(北イスラエル王国)は一介の官僚にすぎなかったヤロブアム1世によって建てられた。
 従来、統一王国が分裂した理由として、ソロモン王時代の重税や過酷な賦役への民衆の不満も指摘されているが、前回論じたように、元来「統一」王国は南部の部族を主体としており、北部に対する実効支配の程度には疑問符がつくことからして、王国の「分裂」とは、もともと王国に内在していた分裂がダヴィデ、ソロモンのような強力な王の没後に表面化しただけのこととも言えよう。
 いずれにせよ、紀元前10世紀末以降、ユダヤ民族は南北二つの王国に分かれ、しばらくは両国間で抗争が続いていくわけだが、どちらかと言えば、北王国のほうが国力に富んでいたものと考えられる。北王国がやがて王都に定めたサマリアは山地であったが、北王国の支配領域は平野部にも広く及んでおり、農業生産力も高かったと見られるからである。
 一方、エルサレムを王都とする南王国はダヴィデ、ソロモンの系譜を引く点で王国としての正統性には勝っていたものの、その支配領域は山地を中心としており、農業生産力も十分とは思われない。ただ、南王国は政情が安定しており、唯一の例外として前国王の母が女王として即位し、内政を混乱させたケースを除き、世襲王朝として存続していくのである。
 北王国のほうはその全史を通じてクーデターが頻発し、たびたび王位が簒奪される政変に見舞われた。こうした政情不安が命取りとなる。折からオリエントではアッシリアが強勢化して、カナンにも手を伸ばしてきていたところ、末期の北王国は相次ぐクーデターで政情不安がいっそう募っており、アッシリアの攻勢に対して防備を固める余裕はなかった。
 結果として、北王国は前722年、アッシリアの征服王サルゴン2世の大規模な侵攻作戦の前に滅亡した。
 以後、北王国支配層は捕虜として各地に強制移住させられ、民衆は少なからぬ者がアッシリアの属州統治政策としてカナンに移入してきたアッシリア人をはじめとする異民族と通婚・混血させられ、同化されていった。
 新約では「善きサマリア人」のたとえで言及されるサマリア人とは、こうして生じた混血系の新たな自覚的少数民族であったがゆえに、ユダヤ人から迫害を受けることになる。
 ちなみに有名な「失われた10支族」とは北王国を構成し、王国滅亡後に「行方不明」となった10部族のことであるが、伝承としてはともかく、史実としての「失われた」とは、混血同化による民族的アイデンティティーの喪失を意味しているであろう。
 さて、「ダヴィデ朝」としての伝統を保持した南王国は政情の安定に支えられて、北王国よりもおよそ150年ほど長く存続していく。外交的にもアッシリア、次いで勢力を回復したエジプトに服属することで安全を確保していたが、新興の新バビロニアに宗主エジプトが敗れたことを契機に新バビロニアに押さえ込まれていく。
 前597年と586年の二度にわたる新バビロニア王ネブカドネザル2世によるエルサレム攻略により、支配層や有力者の多くがバビロンに捕虜として連行され(バビロン捕囚)、ダヴィデ朝はついに滅亡したのであった。

2017年8月
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