〆体験的介護保険制度批判

2015年2月 7日 (土)

体験的介護保険制度批判(追記6)

 厚労省が4月からの介護報酬改定で、実質では過去最大の削減率となる改悪に踏み切った。全般的なコストカット策ではあるが、中でも「目玉」とされるのは特養報酬の6%カット。新方針発表時から日頃は芸能に夢中の情報番組でも取り上げられ、サービス低下の危険が指摘されている。
 家族をどうにか特養に入れて1年の節目で、この仕打ちである。4月以降、具体的にどのような影響が出るかウォッチしていく必要があるが、無影響で済むとは思えない。状態悪化や介護事故、退所要請、最悪は施設閉鎖まであらゆる不測事態を想定しておかねばならず、施設入所で安心とはいかなくなった。
 それにしても、何故に施設介護をこれほど圧迫するのか。表向きのタテマエは「施設から在宅へ」という謳い文句であるが、しかし、今回は在宅介護報酬も含めた全般的な削減であるから、これも形式的な口実にすぎないことは明らかである。ただ、辻褄合わせのアリバイ作り的に、重度要介護者への訪問介護には報酬を上乗せし、介護ヘルパーが1日複数回訪問する「24時間定期巡回サービス」を拡充する方針も打ち出されている。
 しかし、そもそも在宅介護に適するのは軽・中度までで、重度化すれば施設介護の必要性が増すのであるから、「重度要介護者への訪問介護の充実」は概念矛盾である。どうしても強行するなら、まさに「24時間定期巡回サービス」が必須だが、地域の零細事業者が大半の訪問介護事業で、施設なら当直に当たる深夜未明まで含めた24時間訪問に動員できるほど多数のヘルパーを雇用できる業者はほとんど存在せず、まさに絵に書いた餅である。
 しかし、政府はそうしたことも重々承知している。財務省主導でのコストカットの隠された真の狙いは、「階級介護制度」の構築にあるからだ。
 現状でもすでにそうだが、介護制度をいじる高級官僚も含む富裕層―ついでに言えば、テレビで口舌上は「懸念」を示してみせる高額所得キャスターや文化人諸氏も同じく―にとっては、介護保険は必須アイテムではない。かれらの親世代も将来の自身も、自費で有料ホームに入所できる階層に属しており、かれら自身には特養報酬カットは少しも影響がないわけである。特養は、すでに低所得層向け介護施設として機能しているからである。
 特養締め付けで低所得層を安上がりの在宅介護にくくりつける一方で、富裕層は豪華施設で贅沢介護━。これが、日本の介護制度の進んでいる方向であり、介護保険制度施行15周年に当たる今回の改定作業は、その公式のスタート号砲と言える意義を持つことになるだろう。

2014年7月31日 (木)

体験的介護保険制度批判(追記5)

 近年、フランス発の介護理念・技術として「ユマニチュード」なるものが日本にも紹介され、NHKでも取り上げられて反響を呼んだようである。これは要介護者の具体的な状態像評価に基づき、見つめる・話しかける・触れる・立つなどの介護技術から成る介護メソッドという。理念的には、その名称どおり、人間的な介護を目指すものである。
 こういう外来の理論が改めて参照されることには、やはり日本の介護現場で起きているある現象が影響しているのかもしれない。家族が入所中の施設でも若手の介護職員によく見られることだが、コミュニケーションがなく、黙々と事務的に作業する「事務員型」の人が目に付く。悪意はないのだが、「ユマニチュード」の実践家からは徹底的に矯正されるであろうような、反ユマニチュード的介護が行われているのだ。
 こういう現象の背景には、介護保険制度実施以来、介護職員の待遇悪化により短期離職が恒常化し、介護職員が経験不足の若手中心となっているという構造問題もあると思われるが、ケイタイ育ちの近時の若者全般に対人コミュニケーションを苦手とする傾向も窺える。
 といって、「ユマニチュード」が改革の即効薬になるだろうかというと、ピンと来ないところもある。この理論の根底には「人間の尊厳」の理念がある。それは結構なことだが、具体的な技術としてアイコンタクトやスキンシップが重視されている点が気になる。おそらく、これは日常生活の中でもアイコンタクトやスキンシップの習慣のある西欧の文化習慣から生まれたもので、そうした習慣が希薄な日本で下手にマニュアル化されると、かえってぎごちなく不自然になる恐れはないだろうか。
 「人間の尊厳」という理念は摂取しつつ、日本の習慣に合わせ独自のメソッドを編み出すほうが効果的であるように思える。「人間の尊厳」という理念には、要介護者を衰えた劣化人間とみなさないということが含まれている。具体的には、たとえ認知症が進み、認識力が欠如していても、あたかも普通の人と同様に接するということである。
 ともあれ、日本の介護施設は全般に、日常のケアはありきたりのことで済ませ、あとは単発の「行事」でお茶を濁すという学校運営にも似た体制が多い中で、日々の介護を人間的に丁寧に実践しようという「ユマニチュード」も参照しながら、もう一度見直すことは必要であろう。
 しかし、その程度のことでも、日本のように保険だけ官が掌握し、サービスは基本的に民間任せという構造では、すべては各施設経営者の意識の持ち方いかんにかかっているというのが、利用者にとっては心もとないところである。

2014年5月15日 (木)

体験的介護保険制度批判(追記4)

 集団的自衛権をめぐるいざこざの影に隠れるように、5月14日、「医療・介護推進総合法案」が衆議院厚労委員会で強行採決された。ここしばらく封印していた強行採決という安倍政権の常套法が使われたということは、政権がいかにこの法案を重視しているかを示している。
 この法案、「推進総合」などと銘打っているが、内容的には医療と介護の双方にわたる負担増・サービス減のオンパレード法案であり、真の名は「抑制推進法案」がふさわしく、「推進総合」とはブラックジョークである。
 介護分野に限ってみても、その柱は①要支援1・2の訪問介護・通所介護を国基準の介護給付から切り離し、市町村事業に移行させること②一定所得以上の人の介護サービス利用料を2割負担に引き上げること③特別養護老人ホームへの入所基準を原則として要介護3以上に限定すること④預貯金が一定額を超えたり、世帯分離した配偶者が課税対象となっている介護施設入所者については、食費・居住費の負担を軽減する補足給付を打ち切ることにあり、いずれも介護保険制度の重大な改悪的変更である。
 このうち、①の要支援者分離については、元来要支援とは介護不要ということにほかならないので、財源の有効活用の観点から分離することにも一定の意味はあるが、代償として要介護者の保険支給限度額の引き上げをすべきところ、今般改定ではそうなっておらず、単純に要支援者を締め出すだけになっている。
 最も影響が大きいのは、②の利用料2割負担の導入であろう。1割を2割に引き上げるのは倍増である。しかも医療保険とは異なり、介護は日々利用し、かつサービスの単価が高いので、負担倍増の痛みは医療保険の比ではない。「一定の所得」の要件は年間合計所得160万円以上(単身の年金収入のみなら280万円以上相当)とされるが、この要件を若干上回る程度の人は決して富裕層とは言えず、負担倍増の直撃は大きい。これに④の介護施設での補足給付打ち切りがかぶってくると、その負担増は急激である。支払い不能により退所せざるを得ない人も出てこよう。
 介護保険はよく錯覚されているように、介護サービスを「使わせる制度」ではなく、「(なるべく)使わせない制度」であるから、制度施行からわずか15年ほどでここまで後退してきたことに今さら驚いてはならないのだが、それにしても想定以上に早いペースで制度は事実上の破綻に向かっていると認識せざるを得ない。
 これからも制度見直しのつど、官の側は姑息な奸智を駆使して利用抑制策を積み重ねていくだろう。それに対して、民の側も泣き寝入りするのでなく、とにかくあらゆる知恵を絞って―対抗上少々姑息な手段を使ってでも―、崩れゆく制度を骨までしゃぶりつくすしかあるまい。福祉小国・日本に生まれたる者の宿命として。

[追記の追記]
2割負担の対象世帯の要件設定の根拠として、厚労省が世帯の可処分所得額を過大に見積もって、2割負担者を水増ししていることが判明した(赤旗2014.6.4)。

2014年4月 8日 (火)

体験的介護保険制度批判(追記3)

 高齢家族が意外に早く自宅からも近い特養ホームに入居できたと喜んだのも束の間、初日からいきなり制度不備の現実に直面である。
 直前まで入所していた老人保健施設(老健)では原因不明の発熱がしばしば発生する微妙な体調不良が見られたのだが、その状態から移転したところ、入居初日に熱が上がった。それだけで施設では大慌てとなり、外部の協力病院受診が指示され、家族付添で夕方に往復させられる羽目となった。
 こういうハプニングになるのは、特養では医師が常勤せず、看護師の勤務も日中のみのわずか数名という医療体制のため、入居者の発病時の対応が十分できないからだという。
 ここで問題となるのは、特養入居者は全般に介護度も重く、医療行為を要する事態が起きやすいにもかかわらず、医療体制が不備だということである。そうだとすると、特養はぴんぴんした健康老人しか安心して入居できないことになるが、それでは「特別養護」とは何を意味するのか。 
 もともと特別養護老人ホームは介護保険上「介護老人福祉施設」とも呼ばれ、二重の名称を持つ定義もあいまいな制度である。ただ、基本的にはあくまでも福祉施設ということで、医師の常勤や高度な医療行為はたしかに無理であろう。
 それでも看護師の権限が強ければ、看護師の常勤だけでもかなりの医療行為をこなせるが、日本では看護師の権限が弱く、医師の指示がなければ点滴一本打てないという医師至上の権威主義的な医療制度が特養の医療能力をも著しく制約している。
 それならば、せめて近隣の外部医師に24時間往診を嘱託すればよいが、そうする義務もなければ、24時間往診に対応可能な医師もほとんどいないというのが現状である。
 当面は、看護師の人数と勤務体制(最低一人の夜勤義務)の点で配置基準を強化することが特養の医療能力を補充する最低限度の改善策であろうが、時代に合わない医師至上の医療制度を改革し、看護師の権限を強化することは急務である。
 ちなみに、老健は医師が常勤するが、発熱の頻発に対して原因不明で片付け、点滴だけで済ませていたことも疑問であるし、保健施設といいながら在宅当時よりも体調が悪化するのも解せない。また老健と特養は施設種別が異なり、両施設の間に連携もないため、体調回復を待って移転するといった調整も容易にできない(同様の問題は、病院からの移転ないし退院・再入居でも発生する)。
 とにかく、日本の介護保険制度は在宅・施設を問わず、不備・不合理のオンパレードである。新たな段階に入るたび、当事者は右往左往振り回されるのだ。その間も、利用料金だけは滞りなく吸い取られていく。この国で安心介護は期待しないほうが賢明なようである。

[追記の追記] 
特養の医療体制が不備ということは、種々の医療措置が必要になる終末期が近づくと事実上の退去要請を受ける可能性も高いということである。家族としては特養の次の最終受け皿も用意していなければならない。悩みは最後の最期まで尽きない。
 

2014年2月20日 (木)

体験的介護保険制度批判(追記2)

 「追記1」で介護保険申請から2年で在宅「卒業」ということを書いたが、家庭によっては5年、10年と介護していることに比べれば諦めが早いという見方もあるかもしれない。
 在宅の限界の見極めは難しいとも記したが、常識的にみて、介護度の重度化が在宅の限界となる。現行の要介護5段階評価で言えば、4以上は在宅の限界である。実際、データ上も4を境に施設介護の割合が在宅を上回る。我が家の場合も、4に達して限界に来たのである。
 問題はそのスピードが速く、最初の要介護1から半年で2になり、1年余りで3を飛ばして4まで行き着いてしまったことにあり、その進行速度に介護者がついていけなかった。
 これだけ早い介護度進行の要因は何だったのかを検証する必要がありそうである。介護度の急上昇は、複数回に及ぶ入院がきっかけであった。よく聞く話である。在宅診療も受けていたにもかかわらず、現行の在宅診療制度は多分にして形だけのものであるため、必要性に疑問のある入院が生じやすい。
 そればかりではなく、必要的な入院であっても、日本の入院治療は短縮化政策が進展した今でも長めなことがある。これは高齢者の場合、ADL低下の最大要因となる。とはいえ、手術を伴う入院では一定期間を要するので、問題はリハビリの不足である。
 急性期病棟をなるべく短期で出た後、リハビリ病棟/病院で集中リハビリをして退院という流れが確立されていない。この点では、リハビリ施設の位置づけを持つ老健の代替的な活用も有効なはずだが、老健では入所要件として「病状の安定」が要求されるため、退院直後の不安定期には入所判定で落とされる可能性が高く、実際それを経験した。
 しかしこれも納得しにくい話で、老健は特養と異なり、医師が常駐し、看護師の配置人員も多く、準医療機関的な機能を持つので、退院できる状態にあれば、入院当時の主治医と連携しながら対応できないことはないはずである。一番必要な場面で老健利用も困難なため、入院契機の介護度進行が防げないのである。我が家の場合もこのパターンにはまってしまったようである。
 一方で、在宅継続を可能とするうえで中核となるべき在宅サービスとしての訪問リハビリ(言語訓練を含む)は供給が需要に追いつかず、十分に提供されていないため、在宅介護の中心はいわゆる訪問介護というワンパターンになりがちである。
 かくして、日本の医療・介護はリハビリ体制不備のために、介護度の重度化を防げず、むしろ重度化を促進しているとさえ言える。医療・介護を受ければ受けるほどに介護度が重度化していく。その結果が、我が家も加わった特養待機者の行列である。
 なお、高齢者向けのリハビリとは文字どおり元に戻すということではなく、心身の機能低下を先延ばしにするサスペンションであるということは以前に書いたことがあるので(連載第10回)、ここで言う「リハビリ」もそのような意味でのことである。

2014年2月19日 (水)

体験的介護保険制度批判(追記1)

 介護保険申請からおよそ2年、とうとう在宅介護をとりあえず「卒業」する時が来た。とりあえず・・と書かざるを得ないのは、まさにとりあえずであって、いわゆる老人ホーム入居となったわけではないからだ。
 有料ホームは経済的に無理な階層であり、介護保険施設の種類が少ない現状では特養ホームしか選択肢はほぼないが、こちらはご多聞に漏れず申込者多数につき待機中ということで、介護老人保健施設(老健)への入所というよくある暫定対応である。
 それにしても、一人きりでの在宅介護の大変さは骨身に沁みた。政府がいかに「施設から在宅へ」などと旗を振っても、超少子超高齢化が進行中の日本で重度化しても看切れる在宅介護の条件が備わった家庭は少数である。
 そこで介護度が進行するにつれ、施設介護を考えなければならなくなるが、介護者にとっては在宅か施設かの見極めが悩みである。現行介護保険制度は在宅介護と施設介護を截然と別立てにしているため、在宅からの施設入居(所)には「姥捨て」のような負い目を感じさせられることがある。
 一方で政府は「地域包括ケア」のような理念を打ち出しているが、これは在宅と施設を分断する政策とは矛盾する。そもそも在宅と施設を截然と分ける発想自体が官僚主義的な杓子定規である。
 実際、老健は施設介護の一種とされながら、たてまえ上はリハビリによる在宅復帰を目指す施設であるから、在宅と施設の中間的な施設である。ところが、老健も長期間自宅を離れる以上は施設介護だと形式的に位置づけられているため、たてまえどおり老健から在宅へ復帰する場合、介護保険の手続き的な切り替えが煩雑になるという問題が生じる。
 これに対し、特養は終身居住を目的とするから純粋の施設と言えるが、この場合も週末だけは自宅で過ごすといった帰休制を取り入れるなら、在宅とも部分的にオーバーラップしてくるだろう。
 しかし、もっと進めて、介護する家族との同居も認める介護付き高齢者住宅ないしケアハウスのような制度は在宅と施設の両要素を兼ね備えたものとして検討に値する。もちろん、これを有料ホームのような営利主義に委ねるのではなく、さしあたりは新たな介護保険施設として整備しなければ、広く普及はしない。
 もっとも、本来これは「施設」というより「在宅」の一種だが、「施設」としての扱いも受け、なおかつ外部の在宅介護サービスも個別的に受給可能という点で、「在宅」と「施設」の垣根を取っ払ったものとも言えるだろう。こうした柔軟な発想を大胆に取り入れていかない限り、「地域包括ケア」云々も机上プランで終わること確実である。
 「在宅」=通常住宅、「施設」=老人ホームという発想は硬すぎるのである。介護保険制度の使い勝手の悪さの要因として、そうした官僚的な発想の硬直さもあると痛感させられた年月であった。

※当連載の本編記事は、筆者の介護生活の実質的な終了に伴い、削除致しました。一部正確を欠いたにもかかわらず、ご愛読ありがとうございました。

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