〆マルクス/レーニン小伝

2013年5月30日 (木)

マルクス/レーニン小伝・目次

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第1部 カール・マルクス

第1章 人格形成期 p1 p2
(1)中産階級的出自
(2)進歩‐保守的な恋愛
(3)哲学との出会い
(4)古代唯物論研究

第2章 共産主義者への道 p3 p4 p5
(1)17歳の職業観
(2)新聞編集者として
(3)在野知識人へ
(4)盟友エンゲルス
(5)『共産党宣言』まで

第3章 『資本論』の誕生 p6 p7 p8
(1)初期の経済学研究
(2)プルードンとの対決
(3)経済学研究の道
(4)主著『資本論』をめぐって

第4章 革命実践と死 p9 p10 p11 p12 p13
(1)共産主義者同盟の活動
(2)国際労働運動への参画
(3)パリ・コミューンへの関与
(4)バクーニンとの対決
(5)労働者諸政党との関わり
(6)最後の日々

第5章 「復活」の時代 P14 p15 p16 p17
(1)マルクス主義の創始
(2)エンゲルスからレーニンへ
(3)ロシア革命とマルクス
(4)ソ連体制とマルクス
(5)正当な再埋葬

第2部 ウラジーミル・レーニン

第1章 人格形成期 p18 p19
(1)中産階級的出自
(2)兄の刑死
(3)逮捕と追放
(4)弁護士資格取得

第2章 革命家への道 p20 p21 p22 p23
(1)ペテルブルクへ
(2)最初の政治活動
(3)何をなすべきか
(4)社会民主労働者党への参加

第3章 亡命と運動 p24 p25 p26
(1)党内抗争と理論闘争
(2)第一次ロシア革命と挫折
(3)哲学への接近
(4)レーニン主義政党の構築

第4章 革命から権力へ p27 p28 p29 p30 p31
(1)第二次革命の渦中へ
(2)10月革命と権力掌握
(3)ボリシェヴィキの全権掌握
(4)内戦・干渉戦と「勝利」
(5)最高権力者として

第5章 死と神格化 p32 p33 p34 p35
(1)レーニンの死
(2)忠実な相続人スターリン
(3)偉大な亜流派トロツキー
(4)人間レーニンの回復
 

マルクス/レーニン小伝(連載最終回)

第2部 ウラジーミル・レーニン

第5章 死と神格化

(4)人間レーニンの回復

flagソ連邦解体とレーニンの「責任」
 レーニンが10月革命によって作り出した体制は、74年後の1991年、やはり一種の革命によって解体・消滅した。このことに対して革命から6年余りで世を去ったレーニンにどの程度の「責任」が認められるかが問われるであろう。
 これは裏を返せば、仮にレーニンがスターリンの没年1953年(レーニン83歳)まで健在してソ連を指導していたら、ソ連体制はもっと持続していたであろうかという問いに等しい。
 答えはノーであろう。なぜなら問題の発端は10月革命そのものにあったからである。10月革命はレーニンとボリシェヴィキの当座の権力掌握という「戦闘術」に関しては鮮やかに成功した革命であったが、長期的に見れば超未熟児のような体制を産み出した「早まった革命」であり、1世紀=100年は持続しなかった「失敗した革命」でもあった。
 レーニンの「早まった革命」はマルクスの「革命の孵化理論」を踏まえず、資本主義が発達し切らない前に労働者と農民―実際はレーニンらの職業的革命家―が蜂起して社会主義の建設に向かうというものであったから、初期のレーニン自身が予見していたロシアにおける資本主義の発達の可能性を阻害する一方で、マルクスによれば発達した資本主義の中から産まれるはずの共産主義を産み出すこともできず、商品生産と賃労働という資本主義的要素を残したまま、他方では生産手段の国有化という形で擬似共産主義的な要素を併せ持つ中途半端な国家社会主義という方向へ収斂していかざるを得なかったのである。
 この点ではちょうど同時期、メンシェヴィキ支持派が多数を占めたスウェーデンの社会民主労働者党が議会政治の枠内で長期政権を担い、資本主義と共存しつつ労働者の生活水準を引き上げる高度福祉国家の建設に乗り出していったこととは好対照であった。
 このスウェーデン・モデルは、マルクス主義を放棄し、やがてケインズ経済学に依拠するいわゆる「修正主義」の代表的成功例であり、ロシアでもこのモデルが適用されていたら、その後の展開は全く違ったものとなったかもしれなかった。
 しかし、ロシアのメンシェヴィキはあまりにも弱く、本来的には少数派でありながら戦術に長けたボリシェヴィキに勝って政権を掌握することなど望むべくもなかったのだ。
 しかし、レーニンが作り出した超未熟児体制も国家社会主義の形態をまといながら、スターリン時代には工業化、経済成長をかなりの程度達成し、よく生き延びはしたと評価することもできる。何はともあれ、ソ連の70年間で、ロシアと他の連邦構成共和国は「発展」―「社会主義的不均等発展」もあったにせよ―したのである。
 しかし、1991年のソ連大衆は政治的抑圧と物不足の貧弱な消費生活を強いるだけの体制の存続に関して、もはやいかなる幻想も抱いてはいなかった。
 同年8月、かねてからソ連体制の根幹に関わるブルジョワ自由主義に傾斜した改革プログラムを進めていたゴルバチョフ大統領―前年の憲法改正で共産党一党支配を廃止していた―に対して、共産党保守派がクーデターを起こすと、モスクワ市民はちょうど74年前の8月に反革命派コルニーロフ将軍のクーデターと対峙した市民たちのように、体を張ってクーデターを阻止したのである。
 年末、“急進改革派”のロシア大統領エリツィンらによってレーニン政権が提起した22年連邦条約の無効が一方的に宣言され、10月革命とソ連邦の終焉が決定的となっても、ソ連大衆は強く反対することはなかった。
 この結果、ロシアは10月革命を取り消し、2月革命の線まで立ち戻って、レーニンにより中断されていた資本主義の道を再び歩み出すこととなった。レーニンを非難する言葉こそ聞かれなかったが、彼は無言で断罪されたのである。

flagレーニンの脱神格化
 ソ連邦解体は、スターリン以降のソ連体制によって付与されてきたレーニンの神格を剥ぎ取る契機ともなった。レーニンの脱神格化である。レーニンの脱神格化とは何か。それはレーニンに対するタブーなき批判の自由が確保されることである。
 旧ソ連時代にもスターリン死後のフルシチョフ政権当時にスターリン批判が共産党指導部自身によって行われたことはあったが、革命と建国の父レーニンに対する批判は長らくタブーであり、タブーが徐々に解けたのはソ連末期のゴルバチョフ政権下で情報公開と言論の自由化が進んでからのことであった。
 ただ、レーニンを批判するという場合、単に彼の理論と実践の個別的な誤りを指摘するだけでは足りない。それを超えて、彼の理論と実践を全般的に批判的分析の対象とすることが必要となる。
 なかでもマルクス主義者レーニンがマルクス離反者でもあったという事実を正面から見すえなければならない。「レーニンはマルクスの理論を後進的だったロシアの現実に適用した」というソ連当局によって宣言され、今日でもなお基本的に維持されているレーニン評価は見直されなければならないのだ。
 すでに随所で触れてきたとおり、彼はマルクス理論の「適用」どころではない、それからの「離反」を示している。彼の理論はマルクスの用語を使用してはいるが、マルクスとは別個のレーニン独自のもので、端的に「レーニン主義」と呼ばれるのが最もふさわしい。ソ連とその同盟国が体制教義としていた「マルクス‐レーニン主義」は実態と乖離したイデオロギーにすぎなかったのである。
 レーニン脱神格化の第二弾は、為政者レーニンの失政を直視することである。すでに見たように、レーニン政権下での社会的混乱は並大抵のものではなかった。
 それは想像を超えた混乱であったため、10月革命は、反革命派の間ではおよそ革命なるものが大衆にとっていかに辛い苦難を強いるものかを宣伝する材料として今日まで使われているほどである。
 レーニンをはじめボリシェヴィキは一般命題的な「テーゼ」を巡る論争に明け暮れることが多く、具体的な政策立案能力には欠けていたと言わざるを得ない。その失政の最たるものが民衆の生活にとって肝心な農業・食糧政策であった。レーニン政権は「戦時共産主義」という誤った政策のために帝政ロシア時代にも見られなかったほどの飢餓を引き起こした。農業・食糧問題での失政は悲惨な内戦の要因でもあった。
 マルクスから離反して労農革命を唱導したレーニンが為政者として農業問題に関して一貫した良策を打ち出すことができなかったのは、彼にとって農民との同盟は権力掌握のための手段的な意味合いが強かったためである。彼自身は農民に共感などしていなかったし、かつてのナロード二キのように農村に直接足を踏み入れることもなかったのである。
 ・・・とこのようにレーニンを断罪していくと、レーニンを全否定し、歴史から抹消してしまうことになりかねない。実際、今日ではレーニンも10月革命もソ連もまるで存在しなかったかのような空気が世界に広がっている。ロシアにおいても、旧暦10月25日の革命記念日はもはや祝日ではなくなっている。
 しかし、レーニンが指導した革命事業は神ならぬ人間のなせる業であり、そこには反面教師的な側面も含めて多くの教訓が含まれている。それは近代における革命について考える際の素材の宝庫なのである。革命など真っ平ご免蒙りたいと思っている人にとっても、なぜ、いかにして革命が起きるのかを考える手がかりが得られるだろう。
 そうした意味で、映画のタイトルにもなった「グッバイ、レーニン!」は“神レーニン”に対する決別宣言でなければならず、“人間レーニン”に対しては、「ハロー、レーニン!」でなくてはならない。
 ちなみに、ソ連邦解体を主導したロシアの“急進改革派”エリツィン政権は、レーニン廟に保存されているレーニンの遺体の撤去・埋葬を企てたが、反対も根強く、実現しなかった。たしかに、レーニンを葬り去るにはまだ早いが、人間レーニンを回復するためには、普通の人間として埋葬し直すほうがよくはないか。(連載終了)

2013年5月29日 (水)

マルクス/レーニン小伝(連載第34回)

第2部 ウラジーミル・レーニン

第5章 死と神格化

(3)偉大な亜流派トロツキー

flag予定された敗者
 スターリンのライバル・トロツキーは10月革命時にはペトログラード・ソヴィエト議長として軍事革命委員会を率いて武装蜂起を指揮した立役者であった。この時レーニンはまだ臨時政府から追われ地下潜伏中の身であり、前面に出られなかったことから、10月革命の実戦面での功績はトロツキーにあったと言ってよい。
 そして、レーニン最晩年にはトロツキーは後継候補に浮上したうえ、レーニンがスターリンと衝突してその解任を検討するに至って、最有力後継候補となったはずであった。にもかかわらず、結果として彼はスターリンの巻き返しに遭って、言わば逆転負けを喫してしまった。それも生命を奪われるような形で。
 そういう結果に終わったことについては、スターリンの権力闘争の巧みさもさりながら、トロツキー自身に内在する敗因もあったと考えられる。その意味で、彼は予定された敗者であったのだ。
 何よりもまず彼はナロードニキ→メンシェヴィキ→調停派→ボリシェヴィキと渡り歩いた革命的渡り鳥であった。そのうえボリシェヴィキ入党は第二次革命渦中の1917年のことにすぎなかった。この点で、スターリンが初めからボリシェヴィキで一貫していたことと比べ、党歴に弱みがあった。
 また性格の点でも、レーニンから指摘されたように、トロツキーには自己過信の強い自惚れ屋の一面があった。このような性格は当然、同志たちから好かれず、党内で多数派を形成することに失敗する要因ともなった。
 さらに理論面でも、彼の長期的スパンを伴う世界革命論にはどこかメンシェシェヴィキ的な革命待機論の響きが感じられ、単純明快なスターリンの一国社会主義論と比べて魅力に欠けたのであった。とりわけ早く新しい革命事業をやりたがっていた若手党官僚たちにとってはそうであった。
 最後に、あまり言われないことではあるが、トロツキーのユダヤ系富農という出自も看過できないマイナス要素であったろう。元来、ボリシェヴィキは母方から一部ユダヤ系の血を引くレーニン自身を含め、多くのユダヤ系党員を擁していたから、党内的にはユダヤ系出自は直接に問題視されることはなかったが、ロシア社会全般ではユダヤ人差別の存在を覆うべくもなかった。
 実際、第二次革命とその後の内戦期にも動乱に便乗したユダヤ人に対する集団暴行・虐殺事件(ポグロム)が頻発していた。こういう状況では、ユダヤ人がロシアを中核とするソ連の指導者となることにはロシア人の反感が予想された。それに加えて、富農はボリシェヴィキにとって打倒対象であるはずであった。
 こうしてトロツキーは24年のレーニンの死の直後から坂道を転げ落ちるようにして失墜させられていく。まず25年に陸海軍人民委員(国防相)を解任されたのを皮切りに、27年の党大会で党・政府の全役職を奪われたうえ、29年には国外追放の身となり、流浪の末最終的にメキシコまで流れていかなければならなかった。それでも敵の魔手を逃れることはできず、40年、ついにメキシコで暗殺されてしまうのである。

flagトロツキー幻想
 トロツキーは本来、スターリンなどよりはるかに傑出した10月革命の元勲でありながら、スターリンによって排除され非業の死を遂げたため、死後多くの崇拝者を出した。かれらはトロツキストと呼ばれるマルクス主義の一派を成して今日でも活動を続けている。
 レーニンがスターリン以降のソ連体制によって神格化されたとすれば、トロツキーは反スターリン主義者によって聖人化されてきたと言える。しかし、レーニンともスターリンとも違うとされるトロツキーの理論的独自性については、しばしば過大評価がつきまとってきた。
 彼を最も有名にした永続革命論(一段階革命論)はレーニンの即時武装蜂起の意思決定にも示唆を与えたことが知られるが、トロツキー理論のもう一つの支柱である世界革命論について言えば、「プロレタリアートによる革命の輸出」というテーゼ自体はレーニンが一国社会主義論を打ち出した前出論文の中でも示唆していたことである。
 ただし、レーニンの場合はトロツキーのように世界革命―さしあたりは西欧諸国での革命―をソ連における社会主義建設の条件とまでは考えていなかったのに対し、トロツキーはマルクスとエンゲルスがかつて『ドイツ・イデオロギー』で打ち出したテーゼ「共産主義は経験上、主要な諸国民の行為として「一挙的」かつ同時的にのみ可能」に立ち戻っているようにも見える。
 しかし、スターリンの一国社会主義論の下で、ソ連の工業化と経済成長がかなりの程度達成されたことで、永続革命論・世界革命論の意義は失効してしまった。
 もっとも、トロツキーのように、10月革命はスターリンによって「裏切られた」と解釈し、スターリン流社会主義を偽りの“似非社会主義”とみなすならば、トロツキーの所論はなお効力を保っていることになるが、それではトロツキーの社会主義認識とはいかほどのものであったのだろうか。
 この点、トロツキーの農民強制論、すなわち「プロレタリアートは農民を強制して社会主義の建設を急がねばならない」というテーゼは、要するにネップのように農民のブルジョワ的願望を満たす慰撫政策に異を立てたもので、同じことを農業集団化によって大々的に実行したのがスターリンであったとも言える。
 その意味で、農民強制論はスターリンでも支持できるようなテーゼである。富農出身であったトロツキーは、農民は本質的に動揺階級であって、革命的闘争にも反動的闘争にも参加する信用のおけない階級とみなしていたが、このような農民観もスターリンと共有できるものであっただろう。
 しかしその一方で、トロツキーはネップ期の経済体制については、諸産業が労働者国家の手中にある限り「資本主義はその形式を残していても客体としては存在しない」という論理で、これを擁護する矛盾した主張もしている。このような理解はネップの発案者であったレーニン自身がより率直にネップの本質を「国家資本主義」と認めていたことと対比しても妥協的・後退的な理解と言わざるを得ない。
 トロツキーがレーニン以上に民主主義的であると評されるのが党官僚制に対抗する党機関の下部服従論である。たしかに彼は言葉の上ではレーニン以上に党官僚制に対して否定的であった。
 しかしそのトロツキーが一方では人間を本質上怠惰な動物とみなし、資本主義を社会主義で置き換えるには、政府による強制と労働の軍隊化が不可欠であるとして、労働組合の国家管理を提起したのである。
 この考えは労働組合を党官僚制への対抗力と考えていたレーニンによって強く批判され、一時トロツキーを警戒したレーニンをしてスターリンにトロツキーへの対抗を準備させるまでになった。スターリンはこのことを後々まで記憶していたに違いない。
 もっとも、労働組合はスターリン時代を通じて、レーニンの要望よりもまさにトロツキー提案に沿う形で完全な国家管理下に置かれてしまうのであるから、この点でのトロツキーとスターリンの距離は遠くない。
 ちなみに「労働の軍隊化」といったテーゼからも、トロツキーにはスターリンと同様、軍隊的組織への傾倒が看て取れる。彼が10月革命時の戦闘指揮で活躍し、革命後は赤軍(ソ連軍の前身)の創設者となったのも、決して偶然とは言えない。
 労働者をサボタージュ分子、農民を動揺分子と見下していた彼は、レーニン以上にエリート主義的な観点を持つがゆえに、スターリンとともに軍隊的規律強制に積極的なのである。
 こうしてみてくると、トロツキーはレーニンよりも宿敵スターリンとの間に意外な共通点を共有しつつ、レーニンとスターリンの間を天翔るような偉大な亜流派であったと理解できるのではなかろうか。
 実際的な面からしても、仮にトロツキーがスターリンを抑えてレーニンの後継者に就いていたとして、決して成功はしなかったであろう。最晩年の論文でレーニンはトロツキーの自己過信とともに行政的な側面への過剰な没入に苦言を呈していたが、実際のところ、トロツキーの行政的手腕には疑問符が付く。そのことは外務人民委員(外相)時代に担当した戦争終結を巡る外交交渉の結果にも表れている
 当時、彼はレーニンの単独講和論にもそれに反対する革命戦争論(戦争継続論)にも与さず、「抗戦も講和もしない」との中間的な立場をとり、結局交渉では成果を上げないままロシアに不利な条件での単独講和を甘受せざるを得なかったのである。
 このようなトロツキー流の中間的な立場は彼がまだ調停派であった頃からのものである。彼は当時、その煮え切らない態度をレーニンから「彼はどんな見解も持たない・・・・・低級な外交家だ」と痛罵されたことがあった。トロツキーはずっと後に調停派時代の自らの態度を自己批判したが、その本性は終生変わらなかったようである。もっとも、こうした中間的な立場はトロツキーの分析的な性向に由来するものとも言えるかもしれない。
 結局、トロツキーは学究肌の面を持った自意識の強い作家肌の人間であって、彼の真価は文筆面で大いに発揮された。実際、彼は自意識の強い人間にふさわしく、史料的というより文学的に価値の高いすぐれた自伝を残した。この点は自己を語ることに禁欲的で、自伝の類を一切残さなかったレーニンともマルクスとも異なるトロツキーの魅力と言えるであろう。

2013年5月28日 (火)

マルクス/レーニン小伝(連載第33回)

第2部 ウラジーミル・レーニン

第5章 死と神格化

(2)忠実な相続人スターリン(続き)

flagレーニンとスターリン〈1〉
 レーニン死して、後継争いを制したスターリンの時代が到来した。世上しばしば「レーニンの正しい路線をスターリンが歪めたために、ソ連体制は最終的に失敗した」と言われてきたが、このような評価は果たしてどの程度妥当するのであろうか。
 スターリンが加えた歪みとして筆頭に挙げられるのは、生前レーニンが警戒していた党官僚制を肥大化させて党と人民大衆との著しい乖離を生じさせたことである。
 しかし、党官僚制はレーニンの持論であった中央集権的党組織論から必然的に生ずるものであって、レーニンと無縁のものではあり得ない。党中央委員会を頂点とするヒエラルキー的党組織は、党が政権を担うようになればそれ自体が国家官僚制の類似物に転化することは必定であり、10月革命後のレーニン自身もそうした党官僚の頂点に立ったわけである。
 ただ、レーニンは党官僚制に対する防波堤を労働組合に求めようとしていた。彼は労組を長期的に見て「すべての労働者に国民経済を管理すること」を教える「共産主義の学校」ととらえ、実際ネップ期には労組の自立性が相対的に保障されていた。
 しかし、労組にそこまでの役割を期待するのは、マルクスが労組に賃労働制廃止、つまりは革命的な役割まで期待していたことと同様、過大な要請であった。まして党官僚制がすでに強固に形成されつつある中、労組も党の支配下に置かれてしまっている状況で、労組に対抗力を期待することはほぼ不可能であったと言ってよい。スターリンはそういう現実を、自らも古参の党官僚として十分に理解していたのである。
 党官僚制の問題とともに、スターリンのレーニンに対する裏切りと非難されてきたのが、有為の人材の大量喪失を招いた「大粛清」である。
 この点、今日ではレーニン時代にも前に述べたような「赤色テロ」による大量抑圧のあったことが明らかになっている。ただ、レーニンの「赤色テロ」は党外の反革命勢力に向けられたものであったのに対し、スターリンの「大粛清」はまさに粛清、つまりは党内の反対派(と彼が疑った者)に向けられた内部テロであった点に大きな違いがある。
 しかし、レーニン時代にもすでに帝政ロシア秘密警察のスパイであったことが発覚した党幹部マリノフスキーに対する粛清という一件があったし、「大粛清」で多用された秘密警察―当時は内務人民委員部(NKVD)と改称されていた―を動員した裁判なしの、または略式裁判による収容所送致や銃殺といった方法は、すでにレーニン時代の「赤色テロ」でも使われていた適正手続無視の手法をスターリンが学習し、いっそう拡大・応用したものにすぎなかった。
 それにしても、レーニン時代にはこれほど大がかりな内部粛清はあり得なかったと言われるかもしれない。現象的に言えばそうであるが、内部粛清の理論的な淵源がレーニンの「鉄の規律」という党組織論にあることは否めない。「鉄の規律」は党内の異論派への非寛容を生み出し、粛清的雰囲気を高めるのである。
 実際、「大粛清」の序曲となった1936年‐37年のいわゆる「見世物裁判」で真っ先に標的にされたのは、10月革命蜂起に反対してレーニンが一時除名を検討したカーメネフとジノヴィエフであった。彼らは当時海外に亡命していたトロツキーと結託して反ソ活動を行ったとする虚偽の自白をさせられ、銃殺されたのであるが、彼らの粛清は20年前のレーニンの意思に基づくと見ることもできる。もっとも、レーニンは彼らの党からの抹消を望んだだけで、地上からの抹消を望んだわけではなかったのであるが。
 ちなみに、この「見世物裁判」で粛清された今一人の古参幹部は、スターリンが対トロツキー闘争の過程で一時手を組んだこともあるブハーリンであったが、彼もレーニン最晩年にレーニンから弁証法に対する無理解を指摘され、後継候補から事実上外されていた。
 こうしてみると、スターリンはレーニンからも問題視されたことのある人物たちを彼なりの仕方で最終的に“始末”したのだとさえ言えるのである。
 ただ、スターリンの「大粛清」が途方もない広がりを見せたことは、彼の個人的な性格によるところも大きかったのは事実である。スターリンの性格の特異性は極端なまでの猜疑心の強さにあった。スターリンは他人の些細な態度や言動の中に不忠と裏切りの臭いを嗅ぎ取るのであった。おそらくそれは晩年のレーニンが指摘した粗暴さよりは、むしろ小心さの表れと見るべきものであろう。
 そうしたスターリンの小心さが当時ヨーロッパ方面におけるドイツ、極東における日本の脅威が高まり、第二次世界大戦の足音が迫る中、彼の猜疑心を病的なまでに増幅させていたのである。

flagレーニンとスターリン〈2〉
 政策的な面でスターリンがレーニンを裏切ったと言えなくないのは、ネップを早々と廃止して農業の全面的集団化に踏み切ったことである。
 しかし、ネップは元来、農民反乱を抑えるための慰撫策の側面が強かったうえ、レーニン存命中から農民の売り渋りによる食糧難という新たな問題を抱え込んでおり、とうてい持続可能な政策ではなかったのである。
 もっとも、そこから一挙に農業集団化へ飛躍したことで新たな農民反乱を招くこととなったが、元来ボリシェヴィキの農業綱領は土地の国有化を前提とするものであったし、スターリンの農業集団化政策の中で基礎的な単位集団と位置づけられた協同組合(コルホーズ)はレーニン最後の論文の中で提示されていた協同組合構想にも十分合致する制度であった。
 農業集団化に合わせてキャンペーンを打たれた「階級敵としての富農絶滅」は農民反乱を鎮圧するための公安政策であり、実際、集団化に抵抗する農民は「富農」の烙印を押されてシベリア送りや財産没収の対象とされた。このような抑圧もレーニン時代の食料割当徴発制の時に用いられた手法の応用にほかならなかった。
 他方、1928年度から始まった第一次五か年計画も、ネップ期の21年に設置されていたゴスプランの記念すべき初仕事であった。
 こうしてみると、ネップの廃止もその時期の問題はともかく、レーニンの遺志に反するようなものではなく、レーニン政権が存続していたとしても、いずれは実施されるはずのことだったのである。
 政治路線的な面では、スターリンが当初ソ連一国でも社会主義の建設が可能だとする一国社会主義から第二次世界大戦を経てソ連中心の帝国主義的膨張へ転回していったことも、レーニンからの逸脱として論議の的となってきた。
 しかし、一国社会主義もレーニンが第一次世界大戦中の1915年に書いた論文「ヨーロッパ合衆国のスローガンについて」の中ですでに提起していたことであった。彼はこの論文の中で、資本主義の不均等発展の法則を立て、そこから初めは少数または一つの国だけで社会主義を建設することも可能だと論じていたのである。
 しかし、図らずもドイツ革命が連鎖的に起きたため、レーニンもドイツ革命支援の目的を込めてコミンテルンの設立を急いだのであったが、臨機応変の無原則主義者であった彼はトロツキーのように世界革命なくしてソ連の社会主義建設は進まないとまでは考えていなかった。
 スターリンはレーニンの理論を教条化することができる程度にはレーニン理論を学習していたのであって、世界革命論で理論武装したトロツキーへの対抗上、レーニンの一国社会主義論を引っ張り出してきたのである。従って、これも決してスターリンがレーニン路線から逸脱したのではなく、レーニン路線の継承なのである。
 しかし、そこから新帝国主義へ転回していくのはさすがにレーニンとは無縁のように見える。ここにはスターリン政権初期の工業化の進展と第二次世界大戦を通じてソ連がアメリカのライバルとして急浮上していくというレーニンも予見できなかった新たな国際政治経済状況が関わっている。
 とはいえ、レーニンとボリシェヴィキを支援する各国政党の国際組織として始まり、実際レーニンの「テーゼ」を追認ばかりしていたコミンテルンは、すでにしてインターナショナリズムならぬインペリアリズムの芽となりかけていたのではないだろうか。
 最後に、本質的に実務者であったスターリンが苦手とした哲学的な基礎理論の面でも、彼は弁証法をひどく単純化して対立物の統一という原理に限局しようとしたとの批判がある。しかし、これについても、エンゲルスによる弁証法の図式化をいっそう進めて弁証法の核心を対立物の統一に見ようとしていたレーニンの未完の書『哲学ノート』をスターリンはやはり“学習”していたに違いない。
 以上の検討からして、スターリンはレーニンの背信者などではなく、実は案外忠実な相続人であったことが理解される。本来、スターリン主義とはレーニン‐スターリン主義と連記されてもよいものであったのである。
 そう理解することで、今日何かとソ連体制の元凶として非難されがちなスターリンの名誉回復ともなろうというものである。同時に、そう理解することで、レーニンをスターリンから切り離して讃美することもできなくなり、スターリンの暗部はレーニンの暗部と二重写しになってくるはずである。
 スターリンは特異な個人崇拝体制を築いたが、これも彼が神格化したレーニンの威を借りて初めて可能となったことであった。スターリンとはレーニンという死んだトラの威を借りたキツネにすぎなかったのである。

2013年5月15日 (水)

マルクス/レーニン小伝(連載第32回)

第2部 ウラジーミル・レーニン

第5章 死と神格化

ロシアの労働者と農民がヴェ・イ・レーニン率いる共産党の指導の下に成し遂げた10月社会主義大革命は、資本家と地主の権力を打倒し、抑圧の鉄鎖を打ち砕き、プロレタリアートの独裁を確立し、新しい型の国家にして革命の成果の防衛及び社会主義と共産主義の建設の基本的な手段であるソヴィエト国家を作り出した。資本主義から社会主義への人類の世界史的転換が始まった。
―ソヴィエト社会主義共和国連邦憲法前文第一段

(1)レーニンの死

flag早かった死期
 レーニンは大規模な内戦・干渉戦がようやく終息に向かった1920年に50歳を迎えた。まだ老いる年齢ではなかったが、体制の基盤が固まるのに反比例してレーニンの健康は衰えていく。
 彼は22年4月、18年の暗殺未遂事件の際の銃撃で肩に打ち込まれた銃弾の摘出手術を受けたが、その直後の5月と12月に二度にわたって脳梗塞と見られる発作を起こした。
 その年末にはかの「グルジア問題」をめぐってスターリンと対立し、「レーニンの遺言」として知られる最後の論説の中で、スターリンの性格を「粗暴」と評し、党書記長からの解任を検討するが、実現しなかった。
 スターリンとの対立は翌年もう一度発生する。今度は病状が悪化したレーニンを政治活動から遠ざけ、党中央で治療管理する方針を決めたスターリンがクループスカヤ夫人に対しレーニンに政治活動をさせないよう求めたことを妻への暴言と受け止めたレーニンが激怒し、スターリンに謝罪か絶交かを迫ったのだ。
 レーニンの病状を考えると、彼の態度は過剰反応とも言えるものであったが、このエピソードにはレーニン夫妻の一心同体的な絆の深さが表れている。レーニンが壮健だった頃の二人は苦難に直面すると、散歩や山歩きをして支え合うような間柄であった。そこにはマルクス夫妻とも似た関係が見られた。
 それだけにレーニンは自分を遠ざけようとするスターリンの政治的な野心を嗅ぎ取った以上に、妻に対するスターリンのそんざいな物言いを自らに対する侮辱と受け止めたものと見られる。
 この一件の後、23年3月、レーニンは三度目の発作を起こしてついに言語機能を喪失し、事実上政治生命を絶たれた。これは病状が一時的でも回復するようなことがあれば解任が現実のものとなったかもしれないスターリンにとっては幸いなことであった。
 翌24年1月に四度目の発作を起こして意識を失ったレーニンは同月21日、息を引き取った。53歳での死はマルクスよりも10歳以上若かったが、その後の扱いはマルクスと雲泥の差があった。
 レーニンの葬儀は荘重を国葬をもって執り行われたうえ、党政治局の決定により遺体は永久保存措置を施され、特別に建設されたレーニン廟に納められ、今日に至るまで一般公開されている。
 旧都ペテルブルクはソ連邦解体後にほぼ旧名のサンクト・ペテルブルクに戻されるまで、レーニンにちなむレニングラードと改称されていた。彼の郷里シンビルスクもレーニンの本姓ウリヤーノフにちなむウリヤーノフスクと改称され、こちらは現在でもそのままである。

(2)忠実な相続人スターリン

flagレーニン神格化政策
 レーニンの死後、彼に対してソ連当局がとった態度は神格化と呼ぶにふさわしいものであった。そして、このようなレーニン神格化政策を主導したのが他でもないスターリンだったのである。
 彼は死の直前期のレーニンと不和になり、個人的な性格を論文の中でなじられるという屈辱を受け、内心レーニンへの反感が募っていたはずであるが、間もなく始まるであろう後継者争いに打ち勝つため、さしあたりレーニンを神格化して自らレーニンに最も忠実な弟子であることの証しを立てなければならなかった。
 生前のレーニンは明確な後継指名をしていなかったが、病床で筆記させた最後の論文の一つで、トロツキーとスターリンの名を挙げ両人の協力を要請していたことから、この二人に的を絞っていたことは間違いない。
 しかし、死の直前のレーニンがスターリンと激しく対立したことからすると、トロツキー株が上がっていたように見えた。もっとも、トロツキーの弱点は元来メンシェヴィキであり、ボリシェヴィキに正式に加入したのは、第二次革命の時にすぎないという点にあった。
 そこで、スターリンがトロツキーとの違いを際立たせる道は故レーニンへの絶対的忠誠と帰依を見せつけることであった。そこで彼はレーニンの遺体の保存措置に関する党政治局決定を主導し、レーニン廟の建設を推進した。そして、いち早く「レーニン主義の基礎」という論文を発表してレーニン思想の教条化にも着手した。
 こうしたレーニン神格化政策の効果は大きく、もともとレーニンに対する忠誠心に疑問符がつきまとうトロツキーとの後継争いで優位に立つことに成功した。そのうえで彼はかつて10月革命時に軍事蜂起に反対してレーニンの不興を買ったカーメネフとジノヴィエフを味方につけてトロツキーを少数派に落としておいて、27年の党大会ではトロツキーとともに当時コミンテルン議長の座にあったジノヴィエフも追い落として権力基盤を固めたのである。

2013年5月 2日 (木)

マルクス/レーニン小伝(連載第31回)

第2部 ウラジーミル・レーニン

第4章 革命から権力へ

(5)最高権力者として

flag抑圧と収奪
 10月革命後の為政者としてのレーニンの統治期間は6年余りにすぎず、彼の履歴においては革命家としての活動期間が圧倒的に長いことから、従来為政者としてのレーニンの特質についてはあまり正面から検証されてこなかった。
 しかし、レーニンはまぎれもなく10月革命後のロシア及びソ連時代の最高権力者であった。そういう最高権力者としてのレーニンの特質として目を引くのは、抑圧と収奪に対するためらいのなさである。
 レーニン政権による抑圧は10月革命の直後から始まっている。前にも述べたように、10月革命の三日後に革命を強く批判する声明を出したプレハーノフは早速翌日ボリシェヴィキ系武装部隊の家宅捜索を受け、フィンランドへの亡命を余儀なくされた。メンシェヴィキの指導者マルトフは反ボリシェヴィキの活動を続けて秘密警察チェ・カーの追及を受けた。しかし、レーニンも若き日の友を逮捕・処刑することはさすがに気が引けたと見え、マルトフには人を介して亡命を勧めている。レーニンは今や敵となったかつての師や友まで亡命に追いやったのである。
 この点、カール・シュミットは政治的なるものの本質として、敵/味方の峻別という有名な定義を提出したが、革命運動の時代以来、為政者としても敵/味方の峻別に厳格であったレーニンは、まさにシュミット的な意味での政治的なものの実践者であり、このことも敵への報復という形で抑圧を導きやすかったと考えられる。
 こうしたレーニン政権の抑圧はかのエス・エルによるレーニン暗殺未遂事件の後に最高潮に達した。党は「赤色テロ」でもって報復することを宣言し、チェ・カーをフル動員してエス・エルに限らずおよそ反体制分子全般に対する大規模な抑圧に乗り出す。その基本は裁判なしの、または略式裁判による投獄・処刑であった。暗殺未遂後の「赤色テロ」だけでも1万ないし1万5千人が裁判なしに処刑されたと推定されている。
 ソ連時代末期以降の情報公開政策の中で次第にその実態が明るみに出され始めたこうした抑圧は内戦が本格化するとむしろ常態化して恐怖政治の手段となり、内戦が終息し社会が安定化しても、体制の体質として残されたのである。
 こうした点で、レーニンはマルクスよりもフランス革命時のジャコバン派指導者ロベスピエールの方に似ていたし、彼自身それを意識していた形跡もある。
 ここで、レーニンもロベスピエールも法曹(弁護士)であったのになぜかくも法を軽視することができたのかという疑念も浮かぶが、実のところ、彼らは法律家であったからこそ、法を軽視できたのである。
 彼らはともに「緊急は法を持たず」という法格言の忠実な実践者であった。国家権力は法に基づいて行使されなければならないという「法治」とは平時の原則であって、緊急時の国家は法を超越して行動することが許される━。これが上記格言の趣旨である。前皇帝一家に対する裁判なしの銃殺処分も赤色テロも、その観点からしてレーニンにとっては少しも良心のとがめるところではなかったのである。
 もう少し政治的な観点から眺めると、例外状況に関して決定を下す者をもって主権者と定義した前出カール・シュミット的な意味において、レーニンはまさに主権者=最高権力者だったのであり、彼の体制において人民は主権者ではなかったのである。
 レーニンは抑圧に加え、すでに言及した農村の食糧割当徴発制のような収奪もためらわなかった。ここでも農民が対抗手段として食糧隠匿に走ると、人民の敵たる「富農」との烙印が押され、抑圧の対象とされた。この政策は内戦前に導入されたものではあったが、内戦が本格すると「戦時共産主義」という例外状況の中で、いよいよ大っぴらに抵抗勢力に対するテロルを伴いつつ展開されていった。
 この間、レーニンの傍にあって、冷徹な彼の抑圧と収奪の手段を逐一“学習”していたのが、かのスターリンなのであった。

flag無原則主義
 政策決定者としてのレーニンを特徴づけるのは、その時々の情勢に応じて施策を使い分ける状況判断であった。
 この特徴は革命家時代には臨機応変な状況判断に基づき10月革命を成功させるうえで大きな力となったものであるが、為政者としてはまさに「一度握った権力は手放さない」と誓ったとおり、権力を保持するうえで極めて有効であった。
 このようなレーニンの状況判断は確固とした原則を持たない無原則主義の現れにほかならなかった。これは、一定の原則を持ちつつも状況によって動揺し、軸がぶれていく動揺分子的な立場とも、また状況に応じて自己の利益に適う立場を選択する日和見主義とも異なる、まさに「レーニン主義」独自の特質であった。
 こうした無原則主義も、個別具体的なケースごとに対処法を選択していく法律家的な発想と手法に由来するものと取れないことはない。それは善解すれば「柔軟」ということになろうが、民衆の生活に直結する基本的な経済政策があまりに「柔軟」に変動すると、社会的な混乱のもととなる。
 レーニン政権の経済政策は当初「戦時統制経済から社会主義へ」というテーゼに沿って「戦時共産主義」と称される統制経済からスタートするが、その結果、各種工場や銀行の急激な国有化のために経済が大混乱に陥ると、内戦・干渉戦終結後、今度は中小企業の私的営業の容認や独立採算制の導入まで含んだ「新経済政策(NEP)」に転換する。
 しかし、事実上資本主義の原理を容認し、社会主義に逆行するようなネップが党内で批判されると、レーニンはプロレタリア国家の統制と規制の下に置かれた「国家資本主義」なるマルクスにはない新概念を持ち出して正当化を図った。
 一方では社会主義とも辻褄を合わせるため、ネップへの政策転換と同時に経済計画の立案・実施機関となる国家計画委員会(ゴスプラン)をも設立した。さらに、まだネップ期にあった死の直前の頃にまとめて書いた五論文の一つでは、社会主義をもって「文明化された協同組合員の体制」とするユートピア的定義を提出し、完全な協同組合化を文化革命と呼んで、後世に託してもいる。
 こうしたレーニン流無原則主義は経済問題のみならず、民族問題や宗教問題といったよリデリケートな領域でも発揮されている。
 特に民族問題に関わる彼の無原則主義が大きな政争に発展したのは、ソ連邦結成に際して生じた「グルジア問題」であった。グルジアのソ連邦への参加方法をめぐっては、独立してソ連邦に参加することを主張する民族派と、「自治共和国」という形式で参加することを主張するスターリンらロシア寄りグループの対立があったが、レーニンはそのどちらも支持せず、カフカス地域を包括するザカフカス共和国に編入して参加させる方式を提案し、党に認めさせたのである。
 彼はスターリン案を「大ロシア主義」と批判しながら、自らの案もグルジア人の民族自決を認めず、ロシア中心の連邦構成を目指したにすぎなかった。レーニンはソ連邦を構築するに当たっては、かつてローザとの論争で高調した民族自決云々よりも、資源をはじめとする帝政ロシア以来の経済的権益の方を優先していたのだ。
 宗教問題に関する無原則主義もまた鮮明であった。レーニンの宗教認識が最も鮮明に現れているのは、第一次革命の渦中で書かれた1905年の「社会主義と宗教」という論文である。そこでの彼は宗教を人民の阿片とみなすマルクスの認識を継承しつつも、宗教に対しては「穏やかで、自制力のある、寛容なプロレタリア連帯性と科学的世界観の宣伝を対置する」との指針を示していた。
 ところが為政者としては、レーニン政権がコミンテルンの活動資金に充てるためロシア正教会の財産の没収を強化していたことに抗議する信徒らの暴動を契機に、22年にはロシア正教会の弾圧に乗り出し、聖職者の処刑を断行したのであった。その20年近く前の論文における「寛容」な宗教対抗策は、現実の宗教暴動の鎮圧と帝政ロシアの精神的支柱であった正教会の打倒という政権課題の前では棚上げにされたのである。
 レーニンの死の三年後に自ら命を絶つ芥川龍之介が遺作「或阿呆の一生」の中で書き付けた次のような詩的なレーニン評は、レーニンのしたたかな二枚舌、三枚舌の無原則主義を鋭い文学的直観で的確にとらえていたように思える。

誰よりも十戒を守つた君は
誰よりも十戒を破つた君だ。

誰よりも民衆を愛した君は
誰よりも民衆を軽蔑した君だ。

誰よりも理想に燃え上つた君は
誰よりも現実を知つてゐた君だ。

flag上意下達政治
 為政者としてのレーニンの統治スタイルは上位下達のワンマン政治であった。このやり方は革命家時代からの彼の習慣であって、党内権力を確立してからの彼はいつも一人で決め、起草した文書を「テーゼ」と名づけて定言命法的に通達し、機関決定を迫るのであった。これは要するに、レーニンの指導への服従命令を意味していた。
 こういうワンマン・スタイルが如実に表れたのが、2月革命直後に帰国した際に示したかの「4月テーゼ」であった。この時はさすがに党内から反発が出て紛糾を来たしたことはすでに見たとおりだが、それでも彼は異論派をねじ伏せて自らの「テーゼ」を貫徹したのである。
 このような手法は為政者となっても本質的に変わらなかったが、それは必然的に側近政治につながり、レーニンと彼の取り巻きで構成された党指導部の専制が党の基本的な運営スタイルとして定着していく。
 レーニンが確立し、その後世界の共産党の党運営の鉄則となったいわゆる民主集中制も、所詮は党指導部独裁、それも多くの場合、最高指導者の個人的独裁のイチジクの葉として機能してきたにすぎない。その点では、ブルジョワ保守系政党の方がより民主的な党運営を行っていることも少なくない。
 レーニンは従来、あまり「独裁者」と呼ばれてこなかったが、彼はまぎれもなく独裁者であり、こう言ってよければ社会主義の衣を着た新ツァーリですらあった。にもかかわらず、彼が独裁者呼ばわりされることを免れているのは、その統治期間が短かったことに加え、後継者スターリンの長期にわたった独裁ぶりが度外れに悪名高いがために、前任者の独裁が霞んでしまったからにすぎなかった。
 その二代目スターリンは能吏タイプの党専従活動家としてレーニンの信任を得、若くしてレーニン側近となってその統治スタイルを着実に“学習”し、身につけていったのである。ただ、彼が党内権力を掌握するためには、レーニンの発病というチャンスがめぐってこなければならなかった。

2013年4月30日 (火)

マルクス/レーニン小伝(連載第30回)

第2部 ウラジーミル・レーニン

第4章 革命から権力へ

(4)内戦・干渉戦と「勝利」

flag内戦・干渉戦の勃発
 選挙によって招集された制憲会議を巧妙な手段で転覆し、クーデターに成功したレーニンは、意外なところでやがて自らの命をも縮める代償を支払わされることになった。
 問題の発端は、レーニンがクーデターの過程で連立政権に抱き込んだ左翼エス・エルにあった。元来、土地政策に大きな違いのあるエス・エルとの連立は党略的な手段であったから、長続きするはずもなかったのであるが、閣内対立の原因は土地問題ではなく、ドイツとの講和条件をめぐるものであった。
 レーニン政権が10月革命直後に発した「平和に関する布告」で打ち出した無併合・無賠償・民族自決の原則に基づく即時講和という立場に反して、ロシアにとって極めて不利な併合条件を甘受するブレスト・リトフスク条約をもってドイツとの単独講和に踏み切ったことは、ボリシェヴィキの一部とともに、戦争を継続してドイツをはじめ当事国における革命につなげようという「革命戦争」を主張していた左翼エス・エルを憤激させた。結局、同党は1918年3月の第四回全ロシア・ソヴィエト大会が前記条約を批准するや、連立を離脱していったのである。
 対立はしかし、これだけでは終わらなかった。モスクワに首都を移転したレーニン政権が5月、農民に一定量を残して収穫した穀物の全量供出を義務づける「食糧独裁令」を発し、労働者で組織する「食糧徴発隊」を農村に差し向けて徴発に当たらせるという農民収奪政策に走ると、左翼エス・エルは7月初め、ドイツ大使を暗殺したうえで、武装反乱を起こした。
 この反乱自体は直ちに鎮圧されたが、レーニン政権が報復措置として左翼エス・エルのソヴィエト代議員を逮捕し、非合法化に踏み切ると、同党は地下に潜伏し、テロ活動に入っていく。元来、エス・エルはレーニンの兄アレクサンドルが加入していた「人民の意志」以来、テロ戦術では数々の“実績”を持っていた。その矛先が今度はレーニンに向かう番であった。
 8月30日、モスクワの旧工場で演説を終えて車に乗り込もうとしたレーニンをエス・エル党員の女性狙撃者が銃撃した。二か所に重傷を負ったレーニンは一命を取りとめたものの、一時は重体に陥った。
 こうした左翼エス・エルの動きとほぼ並行して、5月末からは大戦中のロシア側が捕虜としたオーストリア軍中のチェコスロバキア人軍団(チェコ軍団)がシベリア鉄道沿線で反乱を起こし始めた。彼らは元来対独戦に投入する目的で帝政ロシア軍の独立軍団として編入されていたところ、先のドイツとの単独講和後、チェコスロバキア独立支援のためシベリア経由で西部戦線へ移送される途中で反乱を起こしたのである。この外国人軍団の反乱が内戦の引き金を引く。
 まずエス・エル残党が各地でチェコ軍団に合流したのに続いて、しばらく鳴りを潜めていた反革命勢力も次々と蜂起して西シベリア、ウラル、ヴォルガなどロシア東部を占領していき、各地にこれら反革命白衛軍の地方軍閥政権が樹立されて本格的な内戦に突入する。
 一方、当初事態を静観しているかに見えた連合国は18年3月に英国軍がヨーロッパ‐ロシアの北岸ムルマンスクに上陸したのに続いて、4月以降は日本軍や米軍がシベリアへ侵攻し、最終的には16か国が先のチェコ軍団の救出を口実に白衛軍を支援する干渉戦に乗り出した。日露戦争に際しては帝政ロシアを撃破し第一次革命のきっかけを作ってレーニンに称賛された日本軍は、最も遅く22年6月に至るまで東シベリアを占領し続けた。
 レーニンはこうした事態を「帝国主義世界総体の攻撃」と規定しつつ、労働者・農民と資本家の「最後の決戦」と大衆を煽った。このようにして、ロシアは大戦から一転、今度は大規模な内戦・干渉戦へ引きずり込まれていくのである。 

flagコミンテルンの設立
 レーニンがドイツとの講和問題に際して「革命戦争」に否定的であったのは、相手方ドイツにおける革命の可能性に対して悲観的であったからである。
 ドイツ社民党主流は改良主義化していたし、古代ローマで奴隷反乱を起こしたスパルタクスにちなんで「スパルタクス団」という勇ましい名称を持つ分派を形成していたローザのような革命的左派も、前述したように大衆の自発性を神秘化する受動的な立場に終始しており、ボリシェヴィキに相当する勢力はドイツに見当たらなかった。
 ところが、そのドイツで1918年11月、水兵反乱をきっかけに革命が起き、帝政が倒れる。兵士と労働者はソヴィエトにならってレーテ(評議会)を結成し革命の拠点としていた。臨時政府はブルジョワジーと妥協する社民党右派の手中にあったが、カール・リープクネヒトやローザらスパルタクス団のメンバーも釈放され、19年1月にはドイツ共産党を立ち上げた。ここまではロシア2月革命と似ていた。
 レーニンはドイツ革命の報に接した時、エス・エルによる暗殺未遂事件で負った怪我の療養中であったが、予想外の出来事に欣喜雀躍し、ドイツ革命を支援するため赤軍(新政府軍)の増強方針を打ち出した。
 同時に当時内戦・干渉戦に直面していたロシアの国際的孤立状態を打開するため、世界の共産主義政党の国際組織として共産主義インターナショナル(コミンテルン)の設立を推進した。
 ただ、ドイツ革命は前にも触れたように、反革命化した社民党政府が1月、ローザらドイツ共産党指導者を虐殺してブルジョワ革命の限度で収束したため、19年3月にモスクワで開かれたコミンテルン第一回大会はローザらへの追悼大会を兼ねたものとなった。
 コミンテルンは第一次大戦を機に解散していた第二インターに続く第三インターと通称されることもあるが、レーニンが参加資格を限定したため、結局はレーニンと18年3月にボリシェヴィキから改称されたロシア共産党とを支持する各国政党の連合組織にすぎなかった。
 それはカウツキーに代表される第二インターの理念はもちろん、「労働者階級は労働者階級自身の手で闘い取られねばならない」というマルクスのテーゼを基本として組織された元祖第一インターの理念からも遠く隔たったレーニン主義党の指導による世界革命の司令部となるべきものなのであった。
 実際、レーニンはコミンテルン第一回大会ではカウツキーから寄せられていた「独裁」批判に対する痛烈な反論書『プロレタリア革命と背教者カウツキー』をベースに、彼の理解によるプロレタリアート独裁の理論―その概要については第1部第5章(4)で先取りしてある―に基づく「ブルジョワ民主主義とプロレタリアートの独裁に関するテーゼと報告」を全会一致で承認させた。
 続いて20年7‐8月にコミンテルン第二回大会向けのテクストとして執筆した著作『共産主義内の「左翼主義」小児病』の中で、レーニンは改めて故ローザらドイツ共産党の誤りを取り上げ、かれらが「大衆の党」か「指導者の党」か、「大衆の独裁」か「指導者の独裁」かという問いを立て、自然発生的に下から盛り上がる大衆の革命に期待する「大衆の党」「大衆の独裁」という自己規定によって結局敗北していったと分析する。
 彼はこうした傾向を「プチブル革命性」と呼んで批判したうえで、革命的プロレタリアートの団結を保持し、ブルジョワジーとの闘争に勝ち抜くためには、「プロレタリアートの無条件の中央集権と最も厳格な規律」が基本的条件であることを力説し、10月革命に勝利したボリシェヴィキの「鉄の規律」と自らの指導の正しさとを自画自賛するのであった。

flag苦い「勝利」
 レーニンのマルクス主義の師であったプレハーノフは、10月革命の三日後にザスーリチらと共同で発表した公開状の中で、10月革命を「史上最大の厄災」と論難し、それは結果として内戦を誘発し、2月革命の到達点よりもはるかに後方へ後退するだろうと警告したが、この警告は的中した。
 第一次大戦の終結から間もなく勃発した内戦・干渉戦は、大戦とそれに続く革命の激動の中にあってただでさえ疲弊していたロシア経済にダブル・パンチ的な打撃を与えたのだった。
 内戦・干渉戦が終息に向かった1920年には大工業生産高は戦前の七分の一、農業生産高も同二分の一に低下していた。燃料不足も深刻で、出炭量は戦前の三分の一、石油採取量は同五分の二という惨状の下、多くの工場が稼動停止に追い込まれていた。20年初夏にヴォルガ河流域で発生した飢餓では数百万人に上る死者を出した。
 こうした苦い結果を伴いながらも、レーニンとボリシェヴィキ党は「勝利」した。まずは日本を除く連合国の干渉軍が19年末から20年にかけて順次撤退していくと、元来まとまりを欠く地方軍閥勢力の寄せ集めにすぎなかった白衛軍の勢力も退潮していき、最後までクリミア半島を拠点としていた勢力が国外へ放逐されると、ほぼ内戦も終息したのである。
 しかし、それで落着ではなかった。内戦・干渉戦を勝ち抜くためにレーニン政権が導入していた「戦時共産主義」という名の統制経済、中でも内戦突入のきっかけとなった18年の左翼エス・エル反乱の原因でもあった食糧割当徴発制に対する農民の不満が20年から21年にかけてタムボフ県で爆発した。
 かつて10月革命を下支えした農民革命の原点の地で起きたこの反乱にはまたしてもエス・エルが絡んでおり、5万人の武装した農民たちが決起し、農村の共産党員らを殺害した。
 これに続く21年2月末から3月に中旬にかけては、「共産党独裁」を公然批判し、社会主義への道を開く労働者階級自身による「第三革命」を呼号するクロンシュタット要塞の水兵反乱が発生した。
 こうした大規模な武装反乱を容赦なく鎮圧しながらも、レーニンはクロンシュタット反乱の渦中に開かれた第十回党大会で、食糧割当徴集制に代えて、農産物の市場取引を認め現物税を導入することを柱とする新経済政策(NEP)への移行を決定したのである。
 「我々はひとたび権力を握ったら、手放すことはしない」と誓ったとおり、レーニンと彼の党の特質は政治生命力の強さにあった。しかも、かれらは破局的な内戦・干渉戦を通じて権力を単に守り通したばかりでなく、焼け太り的に増強さえしてみせたのだった。
 まさに内戦・干渉戦最中の19年3月に開かれた第八回党大会で、党はソヴィエトにおいて「自らの完全な政治支配を達成する」という野心的な宣言が採択され、これに基づきソヴィエトの骨抜きと党への従属化が徹底されていく。実は先のクロンシュタットも最後まで残っていた自立的な地方ソヴィエトの拠点だったのである。
 同時に、レーニンと党は革命以降旧ロシア帝国領内で進行していた民族独立の動きにも歯止めをかけていった。その手始めは10月革命直後ウクライナ人民共和国を宣言していたウクライナの独立運動を武力で鎮圧したことであった。そして、各地に傀儡的に設立された民族別共産党をすべてロシア共産党中央委員会の支部として回収していった。
 その仕上げが22年の連邦条約をもって創設されたロシア、ウクライナ、ベロルシア、ザカフカスの四共和国で構成するソヴィエト社会主義共和国連邦(ソ連邦)であった。この連邦体において構成共和国相互は対等の関係にあると説明されていたが、どう見ても中心にあるのはロシア共和国であり、ソ連邦は社会主義の衣を着たロシア帝国にほかならなかったであろう。
 民族問題の観点からながめると、ロシア内戦とはレーニンとボリシェヴィキ党がロシア革命のもう一つの底流を成していた民族独立革命を抑圧し、分離しかけていた周辺諸民族を再征服してロシアの帝国的統一を回復・維持する戦いであったとさえ言えるのである。
 最後に、内戦・干渉戦という国家的非常事態はレーニンと党指導部に超法規的な万能権力を与えた。18年7月16日には、エカチェリンブルクで囚われの身となっていた前皇帝ニコライ・ロマノフと未成年子を含むその家族7人が白衛軍による身柄の奪還を防ぐとの名目で、党中央委員会の指令に基づき銃殺された。これは正式な司法手続きなしの超法規的処刑、要するに政治的虐殺にほかならなかった。
 しかし、この重大な一件は、ボリシェヴィキ的万能権力の作動のほんの手始めにすぎなかったのである。

2013年4月21日 (日)

マルクス/レーニン小伝(連載第29回)

第2部 ウラジーミル・レーニン

第4章 革命から権力へ

(3)ボリシェヴィキの全権掌握

flag10月革命の性格
 帝政を終わらせた2月革命はたしかに「革命」であったが、2月革命の結果成立した臨時政府を転覆した10月革命は「革命」ではなく、ボリシェヴィキの「クーデター」であったとする見方がある。この見方は10月革命の結果構築されたソ連邦が解体され、10月革命の歴史的意義を否定する見解がロシアでも広がった今日では多数説と言ってよいかもしれない。
 しかし、「10月革命=クーデター説」はすでに10月革命直後から、ボリシェヴィキに追われた臨時政府側やメンシェヴィキ、エス・エル右派―後述するように、エス・エルは左派が分裂し、一時ボリシェヴィキと行動を共にしていた―などの敗北当事者が採っていた立場を引き継いだものにすぎない。
 10月革命は、前述したようにレーニンの言う「戦闘術」に従ってボリシェヴィキ党が綿密に計画・実行した軍事蜂起ではあったが、それだけにとどまったのではない。1917年7月の武装デモ以来、臨時政府が統治能力を喪失し、無秩序が拡大していく中で、底流においては社会革命のうねりが起きていたのである。
 中でも大規模なものは農民革命である。臨時政府が公約していた土地改革が一向に進まない中、農民らは集団で地主貴族の居館を襲撃・焼打ちし―時に地主を殺害し―、地主らが所有する土地や家畜・農具を村落ごとに分配していった。こうした動きが8月から10月にかけてロシア全土に広がりを見せていた。
 レーニン政権が10月革命直後のソヴィエト大会に提案し圧倒的多数で採択された「土地に関する布告」はボリシェヴィキ本来の政策である土地の国有化をいったん棚上げして、さしあたりエス・エルの農業綱領であった「農民要望書」―エス・エル自身が先送りしていた―に沿って、地主的土地所有の廃止と地主所有地の農民による共同管理を謳っているが、これはすでに進展してきていた農民革命の成果を追認したものにほかならなかった。
 一方、都市労働者の側でも、臨時政府の経済無策により、不況、物不足、物価高騰がおさまらない中、2月革命直後から結成され始めていた労働者自主管理組織としての「工場委員会」が急進化し、労働者自身が工場を占拠して採用・解雇を監督し、在庫や必要物資の管理にも当たる「労働者統制」の動きが広がっていた。
 労働者統制は、レーニンが「4月テーゼ」の中でも「労働者代表ソヴィエトによる統制」という形で提起していたところであったが、改めて11月に公布された「生産と分配に対する労働者統制令」の中で確認されている。
 また、農民・労働者から徴兵されていた兵士らは2月革命直後からソヴィエト内で重要な役割を果たしてきており、とりわけペトログラード・ソヴィエトが3月1日付けで発した「命令第一号」は軍隊内における兵士の自治組織である「兵士委員会」の創設を謳ったものであった。
 この組織は帝政ロシア軍の内部からの解体を招いたが、それはとりもなおさず「兵士の革命」であった。そのおかげで、10月革命蜂起に際して、ボリシェヴィキは自派に忠実な部隊を編成し、かつ大きな抵抗もなしに首都を制圧することもできたのである。
 このように、10月革命は決してレーニンとボリシェヴィキ党の力だけで成し遂げられたものではなく、ローザ的な意味での「自発的」な民衆の革命運動の流れに乗って初めて成功したのであり、何の社会的条件もなしにボリシェヴィキが限られた勢力でクーデターを断行したという前記のような見方はレーニンとボリシェヴィキ党の力量を過大評価するものである。
 しかしその一方で、相互に別個独立して行われていた民衆の革命的行動だけで10月革命が成功したという自然発生的な説明が妥当しないことも事実であり、民衆革命の沸騰点でレーニンとボリシェヴィキ党の計画的な軍事蜂起が革命を収束させ、新たに一定の秩序を作り出したのである。
 それでは、レーニンとボリシェヴィキ党はおよそクーデターと無縁であったのかと言えば、決してそうではなかった。奇妙にも、かれらによる言葉の真の意味での「クーデター」は、政権樹立後に起こされたのである。

flagボリシェヴィキのクーデター
 10月革命直後、10月26日の第二回ソヴィエト大会でレーニンを首班とする新政府・人民委員会議が創設されたことはすでに述べた。
 人民委員(コミサール)とは政府の閣僚に相当するが、君主の秘書官から派生した「大臣」とは異なり、人民から付託を受けた執政官という意味が込められた新しい行政制度であり、これはスターリン時代の1946年に廃止され、より一般的な閣僚制度に切り替えられるまで、10月革命の産物として存続していた。
 それはともかく、この発足したばかりのレーニン政権は翌27日に旧臨時政府が以前から公約していた制憲会議選挙を11月12日に実施する旨の政令を公布した。
 レーニンとしても、制憲会議選挙は2月革命以来の民衆の要求事項とみなされていたことを考慮したのであった。ということは、この時点でのレーニン政権は制憲会議成立までの暫定政権としての性格を持つにすぎないことを自ら認めていたことになる。
 果たして制憲会議選挙を実施してみると、結果は比例代表制で選出された707議席中、エス・エルが370議席を占め、ボリシェヴィキはわずか四分の一程度の175議席にとどまったのである。この結果は農村部に厚い支持基盤を持つエス・エルの強さと、主として都市労働者層にしか支持されていなかったボリシェヴィキの実力差をはっきりと見せつけるものであった。
 レーニン政権は自ら公約し実施した選挙で明らかに敗北した以上、いったん総辞職すべきであった。ところが、レーニンはエス・エルが選挙直後に分裂し、左派が新党「左翼社会革命党」を結成した事実を挙げて、ソヴィエトによる議員リコールを主張したうえ、制憲会議議員の過半数に当たる400人が首都に到着してから開会するという口実で、11月28日に予定されていた制憲会議の招集を延期した。
 これに抗議する動きが出ると、わずか17議席しか獲得できなかったカデットを「人民の敵の党」と断じ、同党議員を逮捕した。これがクーデターの最初の一歩となる。
 次いで、レーニンは選挙後の分裂を問題視したばかりのエス・エル左派と12月8日に連立協定を結んで政権抱き込みを図った。そのうえで彼は「制憲会議に関するテーゼ」を発表し、制憲会議選挙の有効性について、先のエス・エル分裂問題を繰り返すとともに、選挙が10月革命の規模と意義を人民大衆が理解できない時に実施されたこと―しかし、そういう日程で選挙を実施したのはレーニン政権自身であった―を問題視する。
 そして、制憲会議(議会)はブルジョワ共和国にあっては民主主義の最高形態であるが、「ソヴィエト共和国」―しかし、憲法制定前に政体をレーニン個人が決めることはできないはずである―は、通常のブルジョワ共和国よりも高度な民主主義制度の形態であり、また社会主義への最も苦痛の少ない移行を保障できる唯一の形態であるとの一般論を持ち出し、ソヴィエトのほうが制憲会議に優先する―そう考えるなら、そもそもレーニン政権はなぜ制憲会議選挙をわざわざ実施したのか―と結論づけるのである。
 レーニンはこの「テーゼ」をまず制憲会議のボリシェヴィキ議員団に全会一致で採択させた。その後、取り急ぎ「ロシアを労働者‐兵士‐農民代表ソヴィエト共和国と宣言する。中央及び地方のすべての権力はソヴィエトに属する。」という条項で始まる「勤労被搾取人民の権利宣言」を起草し、これをボリシェヴィキで固められたソヴィエト中央執行委員会に全会一致で採択させた。
 この文書は「権利宣言」と銘打たれていたけれども、内容的には政体のあり方にも及ぶ憲法草案と言ってよいものであって、これを制憲会議の招集前に持ち出したのは、制憲会議を無視するクーデター宣言に等しいものであった。
 しかし、用意周到なレーニンはこれでけりをつけるのではなく、明けて1918年1月5日、公約どおりに制憲会議を招集してみせ、前記「権利宣言」の採択を制憲会議に迫るのである。ここで制憲会議がこれを実際に採択していたら面白いことになったのだが、エス・エルをはじめとする多数派が審議拒否で応じたことは、レーニンに恰好の口実を与えることになった。
 レーニンはボリシェヴィキ議員団を制憲会議から引き上げさせたうえ、同日深夜にはソヴィエト中央執行委員会に「制憲会議の解散に関する布告」を採択させた。そして翌6日には武装部隊を差し向けて制憲会議を強制解散したのである。
 1月12日、第三回全ロシア・ソヴィエト大会は改めて先の「権利宣言」を圧倒的な賛成多数で採択するとともに、レーニン政権の政策をすべて承認し、従来の布告の中から制憲会議に関わる文言をすべて削除することまで決議した。制憲会議は遡って存在そのものをすら否認されたのである。
 こうして選挙に基づいて招集された制憲会議を非合法的な手段で転覆したレーニンとボリシェヴィキ党の「本物」のクーデターは、成功裡に完了した。
 ここで改めて作り出された体制は、クーデター体制にふさわしく抑圧的であった。レーニン政権はすでに前年の12月にはソ連の悪名高き秘密政治警察KGB(国家保安委員会)の前身となる非常委員会(チェ・カー)を創設して、反体制派狩りの準備を整えていた。そして、クーデター後の4月3日には結社登録制、検閲、集会許可制などの言論統制を定める布告も発せられた。
 18年7月にようやく制定された革命後初の憲法「ロシア社会主義連邦ソヴィエト共和国憲法」は新生ロシアを「すべての労働者人民の自由な社会主義社会」と規定していたが、それは初めから虚しい空文句であったのだ。

2013年4月20日 (土)

マルクス/レーニン小伝(連載第28回)

第2部 ウラジミール・レーニン

第4章 革命から権力へ

(2)10月革命と権力掌握

flag4月テーゼの採択
 レーニンの4月テーゼは不評であった。事実上別の党となっていたメンシェヴィキから激しい非難を浴びたのは致し方ないとしても、彼自身のボリシェヴィキ内部からも異議を唱えられたのだ。
 そうした内部異論派の急先鋒は、古参幹部の一人レフ・カーメネフであった。後にスターリンによって粛清される運命にあった彼はメンシェヴィキとエス・エルが支配的なソヴィエトに同調し、臨時政府が革命を強化する限りでこれを支持するという立場から、4月テーゼに反対し、レーニンの革命論はブルジョワ革命がまだ完了していない現状で次の社会主義革命への転化を促すもので、性急すぎると批判したのだった。
 ある意味では全うなこの批判は影響力を持ち、4月テーゼは4月8日のボリシェヴィキ・ペテルブルク委員会では圧倒的な反対多数をもって否決されてしまった。
 しかし、レーニンはあきらめることなく党内の説得を続けた。その際、彼はカーメネフのようにブルジョワ革命は完了したとかしないとかを論じるのは古い公式にしがみつく教条主義であると反論した。ここで、レーニンはカーメネフを批判しながら、実はマルクスの「革命の孵化理論」を批判しているのである。
 そのうえで、レーニンは当時のロシアの状況はブルジョワジーが権力を掌握した限りでブルジョワ革命は終わったと言えるし、一方では「プロレタリアートと農民の革命的民主主義独裁」もソヴィエトという形である程度まで実現しているとし、革命的蜂起の機は熟していると論じたのであった。これは卵が孵化する前に、未熟卵のままひよこを取り出してしまおうというまさに彼の「早まった革命」の公式そのものであった。
 間もなく風向きがレーニンにとって有利に変わったのは、彼のやや牽強付会な理論的説得が功を奏したというよりも、臨時政府の失政のためであった。4月18日、臨時政府のミリュコーフ外相が連合国軍に送った覚書の中で戦争継続の意思を表明し、しかも領土併合・賠償取立てをも容認する趣旨の文言が付加されていたことが明らかとなったのだ。この事実は戦争終結と無併合・無賠償の講和を望む大衆の強い反発を呼び、臨時政府発足以来初の大規模な反政府デモ(4月デモ)が発生した。
 デモ隊は「ミリュコーフ打倒!」「臨時政府打倒!」「全権力をソヴィエトへ!」の急進的スローガンを叫び、臨時政府への公然たる異議を唱えていた。こうした主張は、明らかにレーニンの4月テーゼに沿うものであった。
 この追い風に乗って、4月テーゼは党の指導部よりも下部において浸透し始め、ついに4月24日から29日まで開催された全ロシア党協議会で圧倒的な賛成多数で採択されたのだった。
 ただし、これはあくまでも当時まだ党員数10万人に達していなかったボリシェヴィキの運動方針にすぎず、かれらがソヴィエト組織内においてはなお少数派である事実に変わりなかった。

flag革命までの曲折
 4月デモは臨時政府とソヴィエトの妥協により収拾が図られた結果として、5月初めに臨時政府が改造され、非難の矢面に立ったミリュコーフ外相は辞任する代わりに、ソヴィエト側からメンシェヴィキ、エス・エル系の6人の「社会主義者大臣」が入閣し、第二次臨時政府(リヴォフ首相は留任)が発足した。
 これにより、言わばソヴィエトとの連立政権の形となり、従来の臨時政府‐ソヴィエトの並行権力構造が軟化する。これは以後、ソヴィエト側の保守化を導いたであろう。
 その最初の徴候は、6月に開催された第一回全ロシア労働者‐兵士代表ソヴィエト大会に表れた。この頃には全国に拡大され、305のソヴィエトから送られた1000人近い代議員が参加して開かれた記念すべきこの大会の席上、自身逓信大臣として入閣していたソヴィエトのツェレテリ議長(メンシェヴィキ)は、従来よりも明確に臨時政府への支持を訴え、臨時政府に代わって権力を掌握できるような政党は存在しないと言明した。
 この時、「そういう政党はある。我が党は権力掌握を拒まないし、いつでもその準備はできている」と会場から公然反論したのがレーニンであった。この大会でボリシェヴィキは全権力をソヴィエトへ移す宣言案を採択するよう提案していたのである。しかし、大会代議員のうちボリシェヴィキ系は105人にすぎず、勝負は初めからついていた。
 とはいえ、この大会はレーニンの「4月テーゼ」に基づくボリシェヴィキの公然たる「政権奪取宣言」の場ともなったのである。
 一方、臨時政府側も次第に右傾化し、労働者・兵士への抑圧を強めていたことから、ボリシェヴィキはソヴィエト大会期間中の6月10日に労働者と兵士の統一的な平和的デモを計画した。ところが、メンシェヴィキとエス・エルが主導するソヴィエトはデモ禁止措置を打ち出し、違反者は反革命分子とみなすとまで通達したのである。レーニンはこうしたソヴィエトの保守化を前に慎重策をとり、デモの中止を決めた。
 これに対し、ソヴィエト側は6月18日に一種の官製デモを計画・実施した。当然ながら、デモ隊のスローガンの中心はメンシェヴィキなどの主張に沿って「制憲議会を通じて民主共和国へ!」といった穏健なものであった。
 これを見たボリシェヴィキはこのデモに飛び入り参加を決め、「全権力をソヴィエトへ!」のスローガンを対抗的に掲げてデモ行進した。デモ参加者の多くはむしろボリシェヴィキのスローガンになびき、このデモは不発に終わった6・10デモに代替する「ボリシェヴィキのデモ」に転化したのだった。ボリシェヴィキは事実上優位に立ったかに見えた。
 ところが7月に入り、再びボリシェヴィキを暗転させる事態が出来する。6月18日の官製デモの同日、臨時政府はドイツ軍に対する捨て身の大攻勢に出る。しかしこの無謀な作戦は大誤算であり、ドイツ軍の激しい反撃に遭い、かえって敗色濃厚となった。この新たな臨時政府の失策が兵士の大きな反発を招き、首都での武装デモに発展する。
 この武装反乱事件―政府はそう認識した―の口火を切ったのは、ペトログラードでも労働者街ヴィボルグ区に駐屯する第一機関銃連隊であった。かれらは先の大攻勢で前線へ送られることになっていたのである。
 かれらの反乱には労働者も合流して7月3日以降、デモは大規模化していった。デモ隊はボリシェヴィキに対しても行動を求めて突き上げた。保養中のフィンランドから急遽戻ったレーニンはしかし、動かなかった。
 この時点でのレーニンは、彼の想定する「第二の革命」の方法について平和的移行と武装蜂起とを天秤にかけていたのだ。当面の彼の判断は武装蜂起の機はいまだ熟さずというものであった。当時は臨時政府の事態掌握力はなお強く、蜂起の成功見込みはないと分析していたからである。
 その代わり、レーニンは今度のデモを平和的なものへ誘導することに決めたが、7月4日のデモは参加者50万人ともされる大規模な武装デモとなってしまった。事態を憂慮した臨時政府は武装デモの禁止と反乱部隊の武装解除、関与者処罰の方針を示した。ネフスキー大通りでは政府軍部隊による発砲もあり、5日にボリシェヴィキはデモの中止を決めた。
 だが、臨時政府側はこの時からはっきりとボリシェヴィキを敵視し、弾圧に乗り出した。ボリシェヴィキの活動家多数が逮捕され、レーニンも21日には反逆及び武装反乱の罪で起訴された。反逆容疑とは、かねてより反戦を唱える彼に対して向けられていた「ドイツのスパイ」という中傷にひっかけた根拠のないでっち上げであった。
 ただ、逮捕を見越したレーニンは5日には地下に潜伏し、12日以降はペテログラードから30キロ以上離れたラズリフ湖畔に変装して身を隠し、8月半ばになって今度は火夫に変装して機関車で国境を越えフィンランドへ逃亡するというまたしても007張りの逃避行を強いられたのであった。

flag反転攻勢
 7月の武装デモの後、臨時政府側にも重大な変化が起きた。第一次と第二次の臨時政府を率いてきたリヴォフ首相がついに辞任し、代わって第二次政府から陸海軍相として軍を掌握して影響力を強めていたケレンスキーが首相に就くことになったのである。こうしてレーニン起訴の三日後の7月24日にケレンスキー首班の臨時政府が発足する。
 偶然にもケレンスキーはレーニンと同じシンビルスク生まれで、彼の父がレーニン在籍当時のシンビルスク古典中学校長であったことは、第1章でも触れた。しかも、ケレンスキーの「本業」も同じく弁護士であった。しかし同じなのはそこまでで、ケレンスキーは初めエス・エル党から分かれた穏健なトルードヴィキ所属の帝政ロシア国会議員として頭角を現した。そして2月革命後はペトログラード・ソヴィエト副議長から臨時政府に入閣し、法相、陸海軍相を歴任して、ついに首相に上りつめたのである。
 レーニンより一回り年下でまだ30代の若き首相は一応「社会主義者」を標榜していたが、実際のところはナポレオンを気取った権力志向の野心家で、陸海軍相時代に足場を築いた軍を権力基盤に強力な政府を作って革命を収束させようとしていた。そのためにも、レーニンとボリシェヴィキは何としても潰しておく必要があった。
 潜伏中のレーニンは、彼がボナパルティストとみなすケレンスキーの政権掌握という新局面を見て、天秤を武装蜂起のほうへ傾け始めた。彼は7月の出来事とケレンスキー政権の登場をもって従来の並行権力の時期は事実上終わったと分析した。臨時政府は反動化し、メンシェヴィキとエス・エルが支配するソヴィエトも反動化した臨時政府の事実上の与党になり下がってしまった。代わって、ブルジョワ軍事独裁の危険が立ち現れたと考えたのである。
 こうした情勢の下では、平和的な方法で全権力をソヴィエトへ移すことは不可能であって、武装蜂起によってブルジョワ独裁権力の打倒を目指さざるを得ないということが新方針となった。レーニンはラズリフ湖畔に潜伏していた時にこうした方針を固め、この頃台頭しつつあった若手のスターリンら身柄が自由な党幹部を通じて指導していった。
 しかし、8月に入るとロシア国内での潜伏は危なくなり、前述のような007張りの方法でフィンランドへ逃亡しなければならなくなった。二度目となるフィンランド潜伏はレーニンが最も強く暗殺を意識した時期であった。実際、彼はこの時期に執筆した『国家と革命』の原稿を万一に備えて死後出版できるようカーメネフに託したほどだった。
 『資本主義の最高段階としての帝国主義』と並んでレーニンの二大著作とされるこの政治理論書がいつになく教科書的な書きぶりとなっているのも、この時期の彼がこの書を後世への一種の遺言として書き残そうとしていたからかもしれない。
 しかし、事態はまたしてもレーニンにとって有利な方向に動き始めた。きっかけは8月末、ケレンスキーから軍最高総司令官に任命されていたコルニーロフ将軍が軍事クーデターを企てたことであった。帝政ロシアのエリート軍人としては珍しくコサック出身であった将軍は、無秩序状態を終わらせることのできない臨時政府に代えて軍事政権を樹立して秩序回復を目指す考えを持っており、ブルジョワ保守層の間で期待を集めていた。
 しかし、コルニーロフ将軍のクーデター計画は事前にケレンスキー首相に知られるところとなり、将軍は解任された。しかし、将軍はコサック師団を動員して軍事反乱を起こす企てに走る。これは2月革命以来最大規模の反革命反乱であったが、軍人でないケレンスキーは政府軍を掌握し切れておらず、自力では反乱に対処できなかった。
 ここに至り、ソヴィエトは臨時政府を守るため、メンシェヴィキ、エス・エルに非合法化されたばかりのボリシェヴィキも加えた「反革命に対する人民闘争委員会」を組織し、反革命反乱軍に対抗する労働者民兵組織(赤衛軍)も結成する。革命の一大危機を前に、革命諸派が2月革命後初めて団結したのであった。
 中でもボリシェヴィキの活躍はめざましく、反乱軍と果敢に交戦したほか、巧みな宣伝活動を通じて、反乱軍のペトログラード進軍を阻止するための妨害・説得工作に一般市民を動員することにも成功した。こうして首都への進軍を阻まれた反乱軍内部では命令拒否などの背信的な動きが広がり、反乱はあえなく瓦解、コルニーロフ将軍の逮捕をもって鎮圧された。
 このように民衆が体を張って「保守派」のクーデターを阻止するという経験を、ロシア人はその74年後のソ連邦末期に、今度は全く正反対の形でもう一度持つことになる。
 ともあれ、コルニーロフ反乱は「革命を救った」ボリシェヴィキの声望をいまだかつてなく高めた。10月革命で政権を追われることになるケレンスキーは後年、「コルニーロフのクーデターがなければ、レーニンの時代は来なかっただろう」と述懐している。まことに、レーニン最大の“恩人”は反革命派コルニーロフ将軍であったのだ。
 8月末から9月初めにかけて、ペトログラードとモスクワの二大都市のソヴィエトは相次いで、ブルジョワ勢力との協力関係を断ち、革命的プロレタリアートと農民の協力を構築することを求めるボリシェヴィキ提案を賛成多数で可決した。そして、ペトログラード・ソヴィエトの議長にはボリシェヴィキからトロツキーが選出されたのである。

flag革命の成功
 コルニーロフ将軍の反乱の結果生じたボリシェヴィキにとっていまだかつてない有利な状況の下、レーニンは初めて武装蜂起にゴーサインを出す。「ボリシェヴィキは権力を掌握しなければならない」というそのものずばりの論説がそれである。同論説で、彼は冒頭、「ボリシェヴィキは二つの首都の労働者・兵士代表ソヴィエトで多数派となった以上、国家権力をその手に掌握できるし、また掌握しなければならない」と定言的に言明している。
 彼はボリシェヴィキが全国のソヴィエトの中で形式上(数字上)の多数派を占めていなくとも武装蜂起すべきだと主張するのである。
 このように先を急ごうとするレーニンの念頭には、ケレンスキー側の動向があった。ケレンスキーはコルニーロフ反乱の鎮圧でボリシェヴィキに借りを作ったとはいえ、ボリシェヴィキに妥協するつもりはなかった。むしろ「ボリシェヴィキの人質」という風評を払拭するためにも、臨時政府が3月に公約していた制憲会議選挙の準備を急いでいたのである。その第一歩として、彼は17年9月1日には「共和国宣言」を発し、ボリシェヴィキの手に落ちつつあるソヴィエトに代わる予備議会として「共和国評議会」の設置を決めていた。
 こうしたレーニンの方針に対しては、またしても慎重なカーメネフが異論を提起したため、党議決定が進まなかった。カーメネフの意見は、10月20日に予定されている第二回全ロシア・ソヴィエト大会でボリシェヴィキは多数派を形成する公算が高い以上、武装蜂起せずとも平和的に全権力をソヴィエトへ移すことは可能であるという楽観的なもので、この時点では党中央委員会の多数の支持を得ており、レーニンは孤立していた。
 しかし、彼は持ち前の粘り腰で自説を主張し続け、中央委員辞任までちらつかせて説得を試みた。その結果、10月10日にヴィボルグ区の隠れ家で21人の中央委員中12人だけ集めて開かれた党中央委員会の秘密会議では、ついに10対2の票決で武装蜂起が採択されたのである。
 ちなみに、この時二票の反対票を投じたのは、カーメネフと後に彼とともにスターリンによって粛清されるグレゴリー・ジノヴィエフであった。二人は16日の党中央委員会会議で改めて巻き返しに出る。彼らは、党下部組織からの報告によると兵士は疲弊し、労働者の士気も落ちており、ソヴィエト大会前に蜂起できる情勢にはないと主張し、蜂起の延期を求める動議を提出した。この動議は否決されたものの、今度は全21人の出席者中6人の賛同者を出した。
 カーメネフは中央委員を辞任したうえ、ゴーリキーが発行していた新聞紙上でボリシェヴィキの武装蜂起計画を暴露した。これにより計画が公になってしまったため、レーニンは激怒し、カーメネフとジノヴィエフの除名を口走ったが、二人の排除はさしあたりスターリン時代まで持ち越される。
 レーニンは9月に武装蜂起の方針を決めた際に書いた手紙形式の論説の一つ「マルクス主義と蜂起」の中で、蜂起をマルクスにならって「戦闘術」として性格づけたうえ、10月8日に書いた同じく手紙形式の「一欠席者の助言」では、この「戦闘術」について、マルクスをまるで軍事戦略家のように扱いつつ、マルクスが武装蜂起の要諦に関して述べた「法則」を引きながら、蜂起の実際を事細かに指示している。
 このように、10月革命蜂起はレーニンとボリシェヴィキ党によって綿密に企画された軍事蜂起であり、その司令部として10月12日にはペトログラード・ソヴィエトに軍事革命委員会が設置された。これは形式上ソヴィエトの機関でありながら、事実上はボリシェヴィキの軍事指導機関であり、その下に赤衛隊が組織された。
 先述のように、すでに蜂起の計画がカーメネフによって暴露されて一般紙上でも取り沙汰されるようになっていたことは、蜂起を遅らせるどころか、もはや決定的なものとした。第二回ソヴィエト大会は5日延期されて25日招集の予定となっていたから、この日が目標期限に設定された。
 対するケレンスキー政権側はすでに報道からボリシェヴィキの武装蜂起計画を察知していたが、ボリシェヴィキの能力を見くびっていたため、積極的な未然防止措置に出ず、蜂起したボリシェヴィキを難なく粉砕できると楽観視していたのだった。政権側はようやく24日になってボリシェヴィキの新聞発行所を強制閉鎖し、中央機関紙の発行停止を命じた。
 ボリシェヴィキにとっては、これが軍事行動開始の合図となった。24日夜から25日にかけてボリシェヴィキ側が次々と首都の重要拠点や公共機関をほぼ無血のうちに制圧した。翌26日には前日のうちに首都を脱出していたケレンスキーを除く臨時政府閣僚が士官学校候補生や女性突撃隊などわずかな非正規部隊によって警護されながら立てこもっていた冬宮も制圧され、閣僚らは逮捕された。
 同日、第二回ソヴィエト大会は臨時政府が打倒されたことを告げるレーニンの有名な檄文「労働者、兵士、農民諸君へ!」をほぼ全会一致で採択するとともに、レーニンを首班とする新たな政府・人民委員会議を設立した。
 直後、首都を脱出していたケレンスキーが一部の旧政府軍部隊の支持を取りつけて反撃に出る。彼の部隊は28日には首都から25キロ地点まで迫り、これに呼応する反乱がモスクワやペトログラードでも起きたが、間もなく鎮圧された。ケレンスキーは配下のコサック部隊にも裏切られ、ほうほうのていで逃亡し、ひとまずフランスへ亡命していった。
 こうして旧暦10月25日にほぼ帰趨を決した10月革命は、ボリシェヴィキの完勝に終わったのである。2月革命からわずか8か月、電光石火の「第二革命」であった。

2013年4月 5日 (金)

マルクス/レーニン小伝(連載第27回)

第2部 ウラジーミル・レーニン

第4章 革命から権力へ

ああいうパン粉からロベスピエールみたいな人物が作られるのです。
―師プレハーノフ

(1)第二次革命の渦中へ

flag第一次世界大戦と「帝国主義論」
 レーニンは、1912年1月のプラハ協議会を通じてボリシェヴィキ党を自立させた後、同年6月、妻とともにオーストリア領のクラカウへ移った。当時中・東欧にまたがる多民族帝国であったこの地で、レーニンは民族自決権をめぐって、またしてもローザと論争を展開することになった。
 ローザが民族自決という観念はブルジョワ的であって、プロレタリア革命抜きの「独立」は民族ブルジョワジーを利するだけだとみなし、自身の祖国ポーランドの早期独立にも反対するのに対し、レーニンは被支配民族のブルジョワジーが支配民族から国家的独立を目指す限り、社会民主党はそれを支援すべきだとしてローザに反駁するのである。
 レーニンはそうした観点から、当時アジアで活発化していた多くは民族ブルジョワジー主導の独立運動を高く評価したのである。そのことを主題的に論じた彼の論文「後進的ヨーロッパと先進的アジア」には、ある意味でマルクスよりも進んだレーニンのアジア観がよく表わされている。
 こうしてレーニンは、今日では重要な国際法原則として確立を見ている民族自決権の先駆的擁護者としての栄誉に浴している。もっとも、彼が権力掌握後にソヴィエト連邦を構築した際に示した態度は、ロシア国内及びその周辺諸民族の自決権を十分に尊重するものとは言い難かったのであるが。
 ともあれ、レーニンとローザが民族自決論争を戦わせた直後に、まさに民族自決をも重要な争点の一つとする第一次世界大戦が勃発したのだった。
 この時期の大戦勃発はレーニンにとっても予想外であったようだが、彼の得意技は臨機応変にあった。不測の事態に直面すると直ちに新たな方針を立てて行動に出るのである。彼が独立したばかりのボリシェヴィキをスイスのベルンの森の中に招集して示した方針は、後に彼が簡潔にまとめたスローガンで表現すれば、「帝国主義戦争を内乱へ!」であった。
 その際、彼はまず表向き「反戦」の立場をとる。しかしこの「反戦」とは、平和主義からの単純な「戦争反対」とは異なり、大戦によって生じるであろう国内の混乱と窮乏を利用して、それを内発的な革命に転化しようという戦略であった。
 これに対して、マルトフを除くメンシェヴィキやプレハーノフ、さらには1889年以来社会主義インターナショナル(第二インター)を主導してきたドイツ社民党もローザらを除く主流派は開戦後、社会主義者の立場から祖国防衛戦争を支持する左翼愛国主義に流れていった。
 レーニンはこうした流れに反対し、戦争を機に事実上崩壊した第二インターに代わって18年8月、ベルン近郊のツィマーヴァルトで開かれた反戦社会主義者の大会に出席し、反戦運動の国際的連帯を推進した。
 その一方で、彼は重要著作の執筆にとりかかった。今日『資本主義の最高段階としての帝国主義』という表題で知られるこの著作は小著ながら、マルクス没後に進展してきた帝国主義という新たな政治経済的現象をマルクス主義的に分析したものとして、マルクス『資本論』を補充する意義を持つレーニンの代表的な著作とみなされている。
 この著作で彼が示した帝国主義の定義「独占体と全資本家の支配が成立し、資本輸出が顕著な重要性を獲得し、国際トラストによる世界分割が開始され、最強の資本主義諸国による一切の領土の分割が完了した、そうした発展段階の資本主義」は、長きにわたりレーニンの権威とともに帝国主義の定番的公理とされてきたが、今日ではほぼ否定されていると言って過言でない。
 特に帝国主義を独占資本と直結させるのは後発帝国主義国であったドイツ、米国、日本などには妥当するとしても、先発帝国主義国の英国やフランスにはほとんど妥当しない点で、一面的な定義であった。
 そればかりでなく、表題にあるように帝国主義をもって「資本主義の最高段階」ととらえ、著作の最終章で「死滅しつつある資本主義」と結論づけるのは、資本主義が第一次世界大戦をはるかに越えてまさに今日まで持続してきたことを見れば、早まった予測であったとしか言いようがない。むしろ当局の検閲を考慮して彼が当初与えた表題『資本主義の最新段階としての帝国主義』のほうがまだ堅実であっただろう。実際、帝国主義は当時における資本主義の新たな化身であったからである。
 マルクス理論による限り、資本主義はそれ自身の高度な発達によって共産主義を孵化させ産み出すのであって、「死滅」するようなものではない。この点で、レーニンはまたしてもマルクスから離反するのである。
 しかし、こうしたレーニンの早まった予測も、先に見たスローガンのとおり、戦争を革命に転化させるという彼の革命戦略に照応したものであり、要するにこれも彼の「早まった革命」(=労農革命)の正当性を裏づけるための理論にほかならなかったのである。

flag2月革命と帰国
 大戦は果たしてレーニンの期待したとおり、国内に革命的状況を引き起こした。戦争開始後連戦連敗を続け、前線の兵士を含めて反戦ムードが高まる中、労働者のストとデモの広がりに対して事態掌握力を喪失した帝政は崩壊し、ロマノフ朝の300年が終焉した。
 旧暦で1917年2月23日に起きたことから「二月革命」と呼ばれるこの新たな革命の主役は―大戦中の1914年にペテルブルクから改称されていた―首都ペトログラードの労働者及び兵士であったが、革命後発足した大地主の自由主義者ゲオルギー・リヴォフ公爵を首班とする臨時政府は、エス・エル系のアレクサンドル・ケレンスキー法相を除けばカデット系のリベラルなブルジョワ政権であった。
 一方、これに先立って労働者‐兵士の側は第一次革命の先例にならい、ソヴィエトを組織していた。その議長と副議長の一人はメンシェヴィキ系で、もう一人の副議長が先のケレンスキーであた。このように、2月革命当初のソヴィエトはメンシェヴィキとエス・エルが主導しており、レーニンのボリシェヴィキは全くの少数派だったのである。
 こうした構成を反映して、ソヴィエトの当面の方針は一挙に政権獲得に走るのでなく、まずは臨時政府の動向をウォッチしながらこれを条件付きで支持するという穏健なもので、これはプロレタリア革命を時期尚早と認識するメンシェヴィキの考えにおおむね沿っていた。こうして以後、10月革命までは臨時政府とソヴィエトの並行権力の時期を成す。
 一方、開戦後オーストリア当局に逮捕され再びスイスへ亡命していたレーニンは2月革命勃発の報に接すると、直ちに帰国の準備にとりかかった。しかし危険な革命家の通過を認める第三国はほとんどなく、帰国の方途に乏しいことが悩ましかった。
 そこで、反戦の立場では珍しく一致していたマルトフがロシアに抑留中のドイツ・オーストリア人捕虜と交換する条件で敵国ドイツを経由して帰国する方法を提案し、レーニンもこれを承諾した。こうして実現したのがいわゆる「封印列車」による帰国である。
 レーニンは帰国直前の17年3月、手紙の形式でいくつかの論説をしたためたが、その中で早くも明確に2月革命に続く「第二の革命」―すなわち労農革命―に言及し、その準備として規律ある民兵組織とそれに依拠したソヴィエトの強化を要請している。つまり彼はこの段階で現実の権力掌握を射程に入れ始めたのだ。そしてその手段として、12年前の第一次革命でも着目していながら利用し損ねたソヴィエト組織を利用することも狙っていたのである。
 レーニンは4月3日、封印列車でペトログラードへ到着した。ボリシェヴィキは12年に「独立」した後、直後の4月にシベリアのレナ金山で起きた労働者虐殺事件を契機に再燃した労働運動の波に乗って、首都ペトログラードを中心に声望を高めていたから、レーニンもすでに有名になっており、その帰国は歓呼をもって迎えられた。大衆の間では、すでに彼は将来の国家指導者たり得る一人と想定され始めていたのだ。
 レーニンはこの帰国に際して、さしあたりボリシェヴィキ党に向けた主要十項目から成る要綱を携えていた。後に「4月テーゼ」として知られるようになったこの要綱には次のような驚くべき内容が盛り込まれていた。

○戦争は依然として帝国主義的なものであり、「革命的祖国防衛主義」にはいささかも譲歩しないこと。
○ロシアの現状は、権力をブルジョワジーに譲り渡した革命の最初の段階から、プロレタリアートと貧農層の手中に権力を引き渡さなければならない革命の第二の段階への過渡期であること。
○臨時政府を一切支持しないこと。
○ボリシェヴィキがソヴィエト内で少数派であるという事実を認めること。ソヴィエトがブルジョワジーの影響下にある間はその誤りを大衆の現実的要求に即して説得すること。
○労働者‐雇農‐農民代表ソヴィエトの共和国。警察、軍隊、官僚の廃止。
○すべての地主所有地の没収と土地の国有化。地方の雇農‐農民代表ソヴィエトによる土地管理。模範農場の創設等。
○全銀行を単一の全国的銀行に統合し、労働者代表ソヴィエトによる統制を実施すること。
○社会的生産と生産物の分配に対する労働者代表ソヴィエトによる統制。
○党の任務として党大会の招集、党綱領の改訂、党名変更。
○革命的インターナショナル組織の創設。

 見てのとおり、この「テーゼ」はほとんどそのままボリシェヴィキ党の政権公約に等しいものであった。党員にとっても寝耳に水のこの「テーゼ」は、かねてよりレーニンの習慣となっていた一人で決めて通達するワンマン的手法が、現実の権力を前にはっきりと前面に姿を現したものにほかならなかった。ローザなら即座に論戦を挑んできそうであったが、彼女はこの頃反戦運動のかどで獄中にあった。

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