〆老子超解

2014年4月15日 (火)

老子超解・目次

本連載は終了致しました。下記目次各ページ(リンク)より個別記事をご覧いただけます。

序文 ページ1

哲理篇

第一章 四つの大 ページ2

第二章 小なる大 ページ3

第三章 始制有名 ページ4

第四章 玄について ページ5

第五章 道の女性性 ページ6

第六章 物質としての道 ページ7

第七章 道の性質 ページ8

第八章 真空としての道 ページ9

第九章 無について ページ10

第十章 無の効用 ページ11

第十一章 万物相同 ページ12

第十二章 一の体得 ページ13

第十三章 儒教批判 ページ14

第十四章 実と華 ページ15

第十五章 道と徳 ページ16

第十六章 水のごとき善 ページ17

第十七章 同ずること ページ18

第十八章 玄同について ページ19

第十九章 感覚遮断 ページ20

第二十章 抱一について ページ21

第二十一章 含徳について ページ22

第二十二章 復帰について ページ23

第二十三章 襲常について ページ24

第二十四章 知の無知 ページ25

第二十五章 道の実践者 ページ26

第二十六章 道の利益 ページ27

第二十七章 無為・無事・無味 ページ28

第二十八章 無為の効用 ページ29

第二十九章 天網恢恢 ページ30

第三十章 知少について ページ31

第三十一章 無私について ページ32

第三十二章 自知自勝 ページ33

第三十三章 知足知止 ページ34

第三十四章 持満の戒 ページ35

第三十五章 余食贅行の戒 ページ36

第三十六章 曲全の処世 ページ37

第三十七章 柔弱の優位性 ページ38

第三十八章 強梁の戒 ページ39

第三十九章 生命執着の戒 ページ40

第四十章 孤高の詩 ページ41

第四十一章 被褐懐玉 ページ42

第四十二章 老子的三宝 ページ43

第四十三章 真なるもの ページ44

第四十四章 信言不美 ページ45

第四十五章 救人救物の妙 ページ46

第四十六章 大器晩成 ページ47

第四十七章 身から天下へ ページ48

政論篇

第四十八章 道に基づく政治 ページ49

第四十九章 無為の政治;意義(一) ページ50

第五十章 無為の政治;意義(二) ページ51

第五十一章 無為の政治;効用 ページ52

第五十二章 反儒教政治 ページ53

第五十三章 非仁愛政治 ページ54

第五十四章 無心の政治 ページ55

第五十五章 悶悶たる政治 ページ56

第五十六章 嗇の政治 ページ57

第五十七章 道に基づく政治―総括 ページ58

第五十八章 反圧政 ページ59

第五十九章 反収奪 ページ60

第六十章 反死刑 ページ61

第六十一章 反和解 ページ62

第六十二章 政教帰一 ページ63

第六十三章 為政者の等級 ページ64 

第六十四章 為政者の条件 ページ65 

第六十五章 軽挙妄動の戒 ページ66

第六十六章 不争の徳 ページ67

第六十七章 謙下不争の指導 ページ68

第六十八章 大なる切断 ページ69

第六十九章 真の為政者 ページ70

第七十章 大国と小国 ページ71

第七十一章 平和と戦争 ページ72

第七十二章 反軍国 ページ73

第七十三章 不祥の用具 ページ74

第七十四章 十歩後退 ページ75

第七十五章 反私有制 ページ76

第七十六章 自然の衡平さ ページ77

第七十七章 天下往く ページ78

第七十八章 無事革命 ページ79

第七十九章 権謀術数の戒 ページ80

第八十章 与えて奪え ページ81

第八十一章 小国寡民 ページ82

2014年4月13日 (日)

老子超解:第八十一章 小国寡民

八十一 小国寡民

小さくて人口の少ない国、そこでは種々の用具があっても使わせず、民衆をして死を敬重させ、遠方に移動させないようにするから、舟や車があっても、乗る必要がなく、甲や武具があっても、見せびらかす必要もなかろう。
人々をして再び縄を結んで文字として使わせ、手製の料理を旨いと感じさせ、手製の服を美しいと感じさせ、自作の住居に安住させ、自分たちの習俗を楽しむようにさせるから、隣国同士がすぐ見えるところにあり、鶏や犬の鳴き声が互いに聞こえるようであっても、民衆は老いて死ぬまで、互いに往来することもなかろう。


 
本章は通行本では最後から二番目の第八十章に当たるが、内容上は哲理篇及び政論篇の全趣旨を踏まえつつ、老子の理想の社会像を具体的に示したものとして、全篇の最後を飾るにふさわしい章である。
 ここで詩的な表現を用いて描かれているのは、「国」というよりは先史共同体に近い理想郷であって、老子の原始共産主義への傾斜をはっきりと物語っている。歴史‐社会観においても、老子の「復帰」の思想は一貫している。
 しかし、それは決して反動的な復古主義ではなく、むしろ前章までに説かれていた「無事革命」を通じて達成されるような革命的理想郷なのである。
 具体的に見ると、老子的理想郷は自給自足の小さな農村共同体であるが、万人直耕の原始農耕社会ではない。その点では、農家思想や安東昌益などとも異なる。
 また、しばしば老子と結びつけられる「反文明」というモチーフも見られない。前段にあるとおり、老子的理想郷には舟や車、甲や武具も備わっているから、決して未開の石器時代的社会ではない。文明の利器は備わっているが、それに依存しない知足の定常経済社会こそ、老子の理想なのである。
 ちなみに『毛沢東語録』にも収録された一節において、毛は共産党委員会の委員同士の連絡を密にすべきことを説く中で本章末尾の一文を引き、連絡不通の象徴として揶揄しているが、自足的な定常経済社会同士では交換(交易)もしないから、互いに往来する必要もないのである。
 老子を揶揄した毛が建設し、「大国多民」の成長経済社会を達成した現代中国に、老子流小国寡民を顧みる余裕はないであろう。老子は同時代的にも、現代的にも、反時代流の人なのである。(連載了)

2014年4月 6日 (日)

老子超解:第八十章 与えて奪え

八十 与えて奪え

縮小したければ、しばらく拡張せよ。弱くしたければ、しばらく強くせよ。廃れさせたければ、しばらく興せ。奪いたければ、しばらく与えよ。こうしたことを微明[びめい]という。
魚は(不用意に)淵から離れてはならない。国の利器は(むやみに)人前に姿をさらすべきではないのだ。


 通行本第三十六章の本章の主題は、革命の時機である。微明(=微妙な明知)と名づけられた前段の術策的な教えは、一見すると権謀術数を戒めた前章に反するようでもあるが、これは別の章でも「不道」という言葉で語られた「物は強盛であるほど衰退する」の応用であり、むしろ前章で説かれた盛衰消長の情勢判断の要諦なのである。
 この点、新しい社会の勃興は古い社会が発達し切った時点から始まるというマルクスの革命理論とも共振するところがある。
 
従って、後段にあるように、魚にたとえられた国の利器=革命家はむやみに先を急がず、繁栄爛熟した現存社会が衰退する時機まで雌伏しているべきだということになる。雄飛的な天下取りを目指した戦国時代諸侯の戦略とは対極にある革命戦略である。

2014年4月 5日 (土)

老子超解:第七十九章 権謀術数の戒

七十九 権謀術数の戒

天下を取ろうとして術策を用いても、成功しないことはわかり切っている。天下とは不可思議なもので、術策もきかないし、執着もできないものだからだ。術策を用いる者は敗北し、執着する者は失墜する。
およそ物には進むこともあれば、後れることもあり、穏やかなこともあれば、急なこともあり、強いこともあれば、弱いこともあり、育つこともあれば、萎むこともある。こういうわけで、理想の人は極端を避け、贅沢を避け、驕慢を避けるのである。


 
通行本第二十九章の本章は、まさに前章で説かれた「無事革命」の帰結であって、革命に際しての権謀術数の戒めである。政治思想としてはマキャベリズムの対極と言える。
 従って、事物の盛衰消長を説く後段も、単にそれだけにとどまらず、より実践的に事態の推移を偏りなく客観的に見極める革命戦略論として読める。そうした情勢判断を的確に行うためには、末尾で理想の人の態度として示されるような偏りのない徳が要請される。
 中間を行く偏らない徳という点では、儒教の中心概念である「中庸」とも交差するが、老子の場合は天下取り=革命の要諦として実践的に示されている点に大きな違いがある。

2014年3月30日 (日)

老子超解:第七十八章 無事革命

七十八 無事革命

学問をすれば(知識は)日々増すが、道を実践すれば(知識は)日々減じる。減じてまた減じ、無為に至るのである。無為にして何かを達成できないことはない。
天下を取るにも必ず無事による。ことさらな事に及んでは、天下を取り損なうのだ。


 前段は哲理篇第三十章で説かれていた老子的知性論「知少」の再言であり、前章で言われた「大なる象を把握する」ための具体的な方法である。ここでは、これを前章で説かれた自動革命の知的な要諦を説くものと解した。

 ただ、後段には前章で自動詞的に言われた「天下は往く」ではなく、他動詞的に「天下を取る」という言表が見えるから、これを政論篇第四十九章と同様に統治の意味にとって、「知少」を統治の要諦として再言したものと理解するほうが素直かもしれない。
 しかし、あえてここでは革命の意味―言わば無事革命―に解釈してみた。自動革命とはいっても、寝て待つ果報ではなく、究極的には無為を通じた人為の政治行動なのである。

2014年3月29日 (土)

老子超解:第七十七章 天下往く

七十七 天下往く

大なる象[かたち]をつかめば、天下は(自ずから)そこへ往く。往って混乱はなく、安全、平和、安泰である。
音楽や料理となると、通りすがりの人も足を止める。道が言葉に出されると、淡白で味わいもない。それを視ようとしてもよく見えず、聴こうとしても聞こえないのであるが、その効用は尽きないのだ。


 
通行本第三十五章の本章は、字句通りに読めば大なる象、すなわちの把握により世界が開示されるという形而上学的な哲理が述べられていることになろうが、「天下往く」という動的な表現からは、同時に政治的な革命を示唆するものと二重に解釈できる。
 
ここで「天下を取る」と他動詞的でなく、「天下は往く」と自動詞的に表現されているのは、言わば革命の自動性(必然性)を述べたものであろう。このことは次章以降でさらに明らかにされる。
 なお、後段は哲理篇でも説かれていたの微妙かつ有用な物象性について、音楽や料理の大衆誘引力との対比で再言したものである。

2014年3月22日 (土)

老子超解:第七十六章 自然の衡平さ

七十六 自然の衡平さ

自然の法則とは、言ってみれば弓を張るようなものであろうか。高い方は押さえ、低い方を持ち上げ、余りある方は減らし、足りない方を補うのである。人為の法則はそうではない。足りない方を減らし、余りある方へ献上するのだ。
あり余っているものを天下に献上できるのは誰か。道を有する者だけだ。こういうわけで、理想の人は業績を上げても成果に頼らない。功成っても成功に居座らない。そもそも有能さを見せびらかそうとはしないのだ。


 
通行本第七十七章の本章では、配分的・補填的に働く自然の法則の公平性が、収奪的・搾取的な人為の法則と対照されつつ、弓張りのたとえを用いて説かれている。これは前章の反私有制論のより抽象的な展開と言えるだろう。
 ここで言われる公平性とは単なる数量的な平等(=イクォーリティ)ではなく、低い方や足りない方を補填する実質的な衡平(=エクィティー)を意味している。
 ただし、そうした衡平の具現は自然そのものの作用ではなく、それも一つの人為の成果である。後段で、あり余っているものを天下に献上できるのはを有する者だけだと定言されるのは、まさに革命の示唆とも読めるわけである。

2014年3月16日 (日)

老子超解:第七十五章 反私有制

七十五 反私有制

私にわずかでも世知が授けられれば、大路を歩みながら脇道へ逸れることを恐れるだろう。大路は極めて平坦であるのに、世人は脇の小路を好むからだ。
宮廷は立派に掃き清められていても、田はひどく荒れ、米倉はすっかり空だというのに、(支配層は)飾り立てた服を着て、鋭い名剣を帯び、飽きるほど飲食し、財貨はあり余っている。これを盗っ人の奢りという。盗っ人の奢りとは何と道に外れたことか!


 
通行本第五十三章に当たる本章は、まるでプルードンの「所有とは盗みだ!」を思わせる老子にしては烈しい憤りの心情を吐露する珍しい章である。
 前段の「脇道」とは、から外れた私有制の暗喩であろう。「世知が授けられれば」とは、遠大で世知とは縁遠く、世人からは愚者と揶揄された(第四十二章参照)老子の皮肉である。
こうした内容からも、本章は老子的革命論の序説を成すものと読める。
 超然主義的な老子は後継の荘子とともにおよそ革命とは無縁の隠者と解釈されるのが普通であるが、そうした通念に反して本章は政治的関心の深い老子と超越的な荘子の決定的な相違を明瞭に示している。

2014年3月 9日 (日)

老子超解:第七十四章 十歩後退

七十四 十歩後退

用兵について言われていることがある。吾が方から先制攻撃せず、応戦せよ。一歩前進でなく、十歩後退せよと。これを行軍するに道なく、腕まくりするに腕なく、手に取るに武器なく、引きずるに敵なしという。
禍は敵を軽んずるほど大きなものはない。敵を軽んずれば、私の宝(三宝)をほぼ失うことになるであろう。ゆえに交戦して兵力が均衡していれば、(交戦を)哀しむ側が勝つのだ。

 
 明確に兵略を説く通行本第六十九章に当たる本章から、老子の戦争論はある種の専守防衛論であることが窺える。この点では前章の内容と合わせ、墨家の「非攻」思想と通ずるところがある。
 墨家の祖・墨子のほうが後世の人とすれば、老子が墨子に影響を及ぼした可能性もあるが、おそらく逆に比較的後世の人である老子が先行の墨子から影響を受けたものだろう。そう考えると、老子には儒教の仁愛を差別愛とみなして批判するところなど、全般に墨家思想からの影響が認められる点は注目される。 
 ちなみに、本章は次章以降と関連する老子的革命戦術論として読むこともできなくはない。そう読むと、レーニンの「一歩前進、二歩後退」論との微妙な違いも意識される。
 本章でも言及された老子的三宝(第四十二章)の一つに「後」(後衛)があったように、老子は一歩たりとも前衛には出ないのである。

2014年3月 8日 (土)

老子超解:第七十三章 不祥の用具

七十三 不祥の用具

そもそも兵器は不祥の用具であり、あるいは万物も嫌悪するものであるから、道を有する者はそれに頼らないのである。(だから)平時は(吉の)左をよしとし、戦時は(凶の)右をよしとする。
兵器は不吉な用具であって、貴人の用具ではない。やむを得ずこれを用いるときは、あっさり使うのがよい。戦勝しても栄誉ではないのに、これを栄誉とする者は人殺しを楽しんでいるのだ。そもそも人殺しを楽しむ者は志を天下に得ることはできない。
吉事では左をよしとし、凶事では右をよしとする。(軍隊でも)副司令官は左につき、司令官が右につくのは、葬礼の礼式によっているわけである。そして(戦争で)大勢を殺したときは、悲哀をもって泣き、戦勝すれば葬礼を挙行するのである。

 
 通行本第三十一章に当たる本章からも、老子は決して観念的な平和愛好家ではなく、戦国時代の現実を踏まえた最小限戦争論者であることが見てとれる。

 ただ、やや冗長な本章は内容的にも兵家的に軍事を正面から説いており、老子のオリジナルかどうか疑われてきたところでもあるが、戦争を必要悪とみなし、勝者の側が大勢の犠牲を出した敗者のために葬礼を挙行すべしとする意表を突く逆説はまさに老子的であり、仮に後世の付加だとしても、老子の思想を十分に踏まえた内容と言える。

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