〆犯罪と非処罰

2012年8月18日 (土)

犯罪と非処罰・目次

本連載は終了致しました。下記目次各「ページ」(リンク)より該当記事をご覧いただけます。

前言 ページ1

1 序論 ページ2

2 社会は犯罪に対して責任を負わねばならない ページ3

3 責任能力概念の揚棄 ページ4

4 法定原則 ページ5

5 処遇の種類 ページ6

6 矯正処遇について ページ7

7 刑務官から矯正官へ ページ8

8 保護観察について ページ9

9 更生保護について ページ10

10 少年の処遇について ページ11

11 矯導学校について ページ12

12 教育観察について ページ13

13 未遂犯・共犯について ページ14

14 過失犯について ページ15

15 生命に対する罪―生と死の自己決定について(上)― ページ16

15 生命に対する罪―生と死の自己決定について(中)― ページ17

15 生命に対する罪―生と死の自己決定について(下)― ページ18

16 性犯罪(上) ページ19

16 性犯罪(下) ページ20

17 薬物犯罪 ページ21

18 組織犯罪 ページ22(非表示)

19 累犯問題について ページ23

20 交通犯罪(上) ページ24

20 交通犯罪(下)―公共交通事故について― ページ25

21 政治犯罪 ページ26

22 汚職について ページ27


※ これ以降の記事につきましては、全面改訂を予定しているため、現在すべて非表示としております。

23 無罪の推定について ページ28

24 未決拘束について ページ29

25 被疑者取調べの規制 ページ30

26 司法取引・訴追免除について ページ31

27 盗聴・盗撮について ページ32

28 捜査監督裁判官について ページ33

29 司法警察員資格制について ページ34

30 検死・科学鑑定について ページ35

31 公訴時効について ページ36

32 民衆公訴について―検察制度の廃止― ページ37

33 訴追弁護士について ページ38

34 事実審理と処遇審理 ページ39

35 司法参加について ページ40

36 当事者主義と職権主義 ページ41

37 少年司法について ページ42

38 証拠開示について ページ43

39 証拠の適格性 ページ44

40 情況証拠・共犯者証言・被害者証言 ページ45

41 上訴審・再審について ページ46

42 犯罪被害者について(上) ページ47

42 犯罪被害者について(下) ページ48

43 犯罪情報について ページ49

44 法律家はどうあるべきか ページ50

45 結論 ページ51

2012年6月 1日 (金)

犯罪と非処罰(連載第27回)

22 汚職について

pencil汚職の罪とは、古典的な理解によると、公務員の賄賂犯罪のことであったが、今日ではより広く公共的な職務を持つ者による地位を利用した利得行為全般―賄賂はその代表例の一つにすぎない―を包括するようになっている。
 このような考え方に立つと、汚職の罪に関して本質的な官民差は認められず、いわゆるみなし公務員に限らず、法人企業・団体の役員や弁護士・医師などの公共的な職務に従事する有資格者に至るまで、統一的に汚職の罪の主体とされるべきことになる。
 従って、例えば一般企業の取締役が賄賂を受け取れば、公務員と同様に汚職の罪が成立するし、賄賂を供与した側もその共犯の罪に問われるのである。一方で、公務員が監督する事業者から金品を受け取ったり、接待のようなサービス提供を受けたりした場合、賄賂性がなくとも汚職の罪が成立することになる。

pencilこうした汚職はたしかに「犯罪」ではあるが、窃盗や殺人などの一般犯罪とは全く罪質を異にし、その本質は公共的な職務に内在する公正性保持の倫理コードに対する背反である。
 従って、その処遇としても矯正処遇に付するほどの必要性は乏しく、むしろ公職・役職からの一定期間または恒久的な追放処分のほうが事理に適っている。それに加えて、利得の没収または追徴を必要的に併科することで、汚職が割に合わないことを銘記させる効果が上がるであろう。

pencilこのような汚職の罪の特性からすると、その対策としても警察・検察のような捜査機関に依存した取締りより、オンブズマン制度を通じた汚職防止策のほうが効果的である。
 このような「汚職防止オンブズマン」は捜査機関ではなく、その基本的任務は汚職防止の観点からの監察にあり、内部通報や外部からの情報提供を受けて問題事案を調査し、是正勧告を発することにある。
 そのために必要と認めるときは、オンブズマンは裁判官の発する令状に基づいて関係者を召喚し、関係証拠物件の提出を求める権限を持つ。さらに犯罪としての解明を要すると判断したときは、捜査機関に告発し、正式捜査を求めることもできる。
 それと同時に、汚職防止のための法制や個別的な対策について調査研究し、提言することもオンブズマンの重要な任務である。

pencilところで従来、国会議員の政治資金獲得と結びついた政・官・財の癒着から生じる汚職はジャーナリズム用語で「疑獄」と称され、その摘発は捜査機関にとって「巨悪」へのチャレンジとして称賛される傾向もあった。日本ではとりわけそうした疑獄捜査の花形として検察庁の特別捜査部(特捜検察)が英雄視されてきた。
 しかし、行政・司法に属する捜査機関が国民代表たる立法府メンバーとしての国会議員を標的とした捜査活動にのめリ込むことは、権力分立を危うくし、ひいては民主主義に対する脅威ともなる一方で、国会の自立的な自浄作用を鈍らせ、かえって政治腐敗を構造化させる原因ともなる。

pencilそこで国会議員の絡む汚職事件に関しては、国会自身が解明し、かつ審理もする体制を構築すべきである。その目的のために、国会(二院制の場合は各議院)は民間の弁護士から成る「特別検事団」を選定し、捜査を委託することができるようにする。同検事団は必要があれば強制捜査を行い、捜査の結果、問題の国会議員とその他の共謀者・共犯者らを訴追することができる。
 この場合、起訴された事件の審理に当たるのは、通常の裁判所ではなく、国会自体に設置される「特別弾劾裁判所」である。この裁判所の裁判官は法律家の資格を有し、またはそれに準ずる法的素養を備えた国会議員の中から任命され、同僚議員の審理に当たるのである。こうした特別弾劾裁判の結果、有罪判決を受けた被告人議員は除名されたうえ、公民権停止も併科される。
 なお、特別弾劾裁判は通常の裁判とは異なり、国会という場で相当入念な第一審が展開されること、また政情を左右する重大な裁判でもあり、迅速に判決を確定させる必要性からも、被告人議員からの上告だけが許される片面的二審制とすべきである。

2012年5月30日 (水)

犯罪と非処罰(連載第26回)

21 政治犯罪

pencil政治犯罪については、そうした犯罪カテゴリーをそもそも認めるかどうか自体が論議の的となる。この点、特定の思想・信条を持つこと、あるいはそうした思想・信条に基づいて表現活動をすることを犯罪とみなすことは許されないという原則は民主主義の鉄則として承認されつつあるが、今日でも少なからぬ諸国でこの鉄則が守られていないため、多数の「良心の囚人」がなお獄中にある。
 「犯罪→刑罰」図式の下でも「思想・信条そのものを犯罪としない」という原則を導くことは論理上可能であるが、それは思想・信条が内心に留保されている限りは犯罪行為には当たらないという形式論理のレベルでなされるため、特定の思想・信条が何らかの表現行為として表出されると、先の原則はたちまち揺らいでくることになる。
 これに対して、「犯罪→非処罰」の構想に立つと、単に特定の思想・信条に基づいて何らかの表現活動をしたというだけで矯正や更生のための処遇を必要とするということは考えられないから、いっそうクリアに「良心の囚人」は否認されるのである。

pencil一方で、特定の思想・信条を実践するために暴力犯罪に出て積極的に社会不安を作り出すことを「テロリズム」と名指して、特別な取締り対象にしようとする動きが世界中に拡散している。
 たしかに「テロリズム」の実践者である「テロリスト」は暴力犯罪に関与する以上、平和的な「良心の囚人」とは異なる。そうだとしても、「テロリズム」とは本質上法的に定義不能な概念である。諸国では相当に苦心して「テロリズム」の法的定義を試みている例もあるが、完全に成功しているものはない。
 「テロリズム」という概念はしょせん政治的な名辞であって、ある犯罪事象を「テロリズム」と名指すこと自体が一つの政治的な行為なのである。
 ちなみに、近年は「サイバーテロリズム」のように、インターネットを通じて電子的攻撃を仕掛けるような行為まで「テロリズム」と名指すことが一般化しているが、このような概念の拡張は語源的にテラー(terror:恐怖)に由来するテロリズム(terrorism)の語義からもはみ出す政治的な拡大解釈である。
 このように本質上法的に定義不能な政治的概念である「テロリズム」に重罰を科するというような特別立法は、まさにベッカリーアの一丁目一番地である罪刑法定主義に反することであり、それは結果として「良心の囚人」を作り出すであろう。同様に、「テロリズム」の未然防止を名目として入国審査時の無条件的な指紋採取や身体照射、盗聴や電子メールの秘密開封などの通信傍受の拡大策は、プライバシーや通信の自由の広範な侵害を招き、ひいては民主主義を掘り崩すであろう。
 以上のように論ずることは、一般に「テロリズム」と名指される犯罪事象を全く放置すべきことを意味するのでないことはもちろんである。この点、「テロリズム」の本質は暴力犯罪であるから、その対応は通常の暴力犯罪に対するのと基本的に異なるところはない。ただ、社会に及ぼす脅威という点では、組織的に実行される「テロリズム」には大きなものがあるが、そうした場合には組織犯罪法を適用すればよいのであり、それ以外に特殊な対策立法を必要とするものではない。

pencilとはいえ、「テロリスト」はその動機に何らかの政治的・宗教的な信念が関わっているのであるから、処遇上一般的な暴力犯罪の犯行者とは異なる留意点がある。それは対象者にいわゆる「転向」や「改宗」を強制ないし誘導するような処遇は許されないということである。
 従って、「テロリスト」に対する処遇、なかでも矯正処遇に当たっては対象者の思想・信条の内容と手段として選択された犯罪行為とを切り離し、手段として選択された犯罪行為に焦点を当てた処遇を課さなければならないのである。
 そうすると、その処遇内容は、結果的に一般的な暴力犯罪の犯行者に対する処遇と重なり合うことになるであろう。ただし、「テロリスト」は犯罪性向は強いも病理性は認められない者がほとんどであるから、第三種矯正処遇に付すべき場合はほとんどないと考えられる。

2012年5月25日 (金)

犯罪と非処罰(連載第25回)

20 交通犯罪(下)
 ―公共交通事故について

pencil現代の科学技術社会を特徴づける事象として、鉄道、船舶、航空機といった公共交通機関の著しい発達があるが、それに伴い、これら公共交通機関による死傷事故も跡を絶たなくなっている。
 こうした公共交通事故は、自動車事故とは異なり、より複雑な機械的システムとそれを運営する法人企業組織を背景として生起してくることから、自動車事故のように、端的な過失犯として処理し切れないことが多い。
 そこで、公共交通事故が発生した場合は、まず事故原因の調査を先行させることが合理的である。そのために中立的な事故調査機関を常設すべきである。この先行調査の結果、ないしはその過程で個々の交通機関要員の業務上過失が明らかとなった場合は、そこで初めて捜査機関に通報され、犯罪として過失責任を究明するための予備的な捜査が開始される段取りとなる。

pencilただし、船舶や航空機の場合は、事故に関わった航海士や操縦士の過失の有無とは別に、航海士や操縦士としての職務上の義務を適切に果たしたかどうかという観点からの審判手続きがあって然るべきである。この点、日本では海難事故については海難審判の手続きが用意されているが、航空事故については同様の手続きが存在しない。しかし、両者の類似性からすれば、「航空審判」という手続きが置かれることが望ましい。
 こうした審判手続きと過失犯としての責任を究明する司法手続きとは目的を異にするとはいえ、両者の結論が完全に齟齬を来たすことは好ましくない。とりわけ、審判手続きでは義務違反なしとされながら、司法手続き上は有罪とされるねじれは当事者に当惑と司法不信をもたらすであろう。そこで、審判手続きは司法手続きに先行して進められる必要があり、審判の結果、実質無罪に相当する義務違反なしとの結論が出た場合には、要員を改めて訴追することは禁止されるべきである。
 なお、要員の業務上過失が認められた場合の処遇については、過失犯を論じた第14章で述べたところが妥当する。

pencilところで、組織を背景として引き起こされる公共交通事故では個々の要員の過失責任を追及するだけでは不十分であったり、個々の要員の過失を立証し切れないことも多い。そこで、こうした場合は組織体の安全対策不備を一つの犯罪行為とみなして対応する必要も出てくる。
 ただし、これはいわゆる組織犯罪とは異なり、法人・団体としての過失犯罪であるので、組織犯罪法の出番とはならず、別の対応が必要となる。同時に、ここでも「犯罪→非処罰」の定式は貫徹される。
 この点、事故を引き起こした運営組織に対しては、再発防止のための具体的な対策の策定を義務づける処分を行うとともに、所要の対策を怠ったことにより得られた利益を没収する処分を併科することがさしあたり有益と考えられる。
 なお、こうした組織に対する処分は単なる行政処分ではなく、司法手続きによって科せられる一種の保安処分である。

2012年5月24日 (木)

犯罪と非処罰(連載第24回)

20 交通犯罪(上)

pencil交通犯罪は交通手段が発達した現代社会に特有の現象であり、かのベッカリーアの想像を超えた現代型犯罪である。交通犯罪を広く取れば、鉄道や船舶、航空機に関連する犯罪も含まれるが、本稿では最も日常的な自動車に関連するものに限定して論じる。

pencil交通犯罪の大半は過失犯であるが、速度違反や飲酒運転など道路交通法違反の罪は故意犯である。いずれにせよ、交通犯罪に「重罪」はほとんどない。
 ところが、近年の日本では交通犯罪の厳罰化がキャンペーン的に推進され、集中的な刑の引き上げが実行されてきた。交通犯罪は日常的なだけに応報刑論の反動的な揺り戻しの舞台となりやすい一面がある。
 しかし、客観的に見て交通犯罪に真の意味での「重罪」はないのであるから、やみくもな厳罰対応は非科学的な感情論にすぎない。特に交通犯罪の中心を占める自動車運転中の過失による死傷事故は、運転者の過失という人的要素ばかりでなく、道路状態と自動車の性能という物的要素が要因となって引き起こされる。典型的には、見通しの悪い道路で欠陥車を運転している人が不注意であれば、極めて高い確率で死傷事故が発生するであろう。このように自動車運転中の過失による死傷事故は道+自動車+人という三要素が三位一体的に絡み合って惹起される。
 ちなみに、日本では交通事故の裁判上、事故者たる被告人が自動車の欠陥を抗弁として主張することが難しく、不用意に主張しようものなら、かえって責任転嫁の方便として糾弾されかねない。ここには、そうした物的・客観的要素よりも人間の不注意のような人的・主観的要素を偏重する主意主義的・唯心論的な日本社会の思考パターンがみてとれるとともに、日本資本主義の象徴であるクルマがまさしく無瑕疵の物神として崇拝されているようにも見える。

pencilともあれ、人的要素に関しても、事故者を厳罰に処する事後報復的な対応ではなく、そもそも運転適性のない者を事前に運転そのものから遠ざけることの方がはるかに効果的である。具体的には、著しく注意散漫な者や運動神経に制約がある者、アルコール・薬物依存傾向のある者に対しては運転免許を認めないか、少なくとも矯正的な特別講習を義務づけ、問題傾向の顕著な改善が認められるまでは免許を保留とすることである。
 他方、道路交通法規に基づく行政的な交通取締りは、交通事故防止にとって有効ではあるが、あまりに瑣末すぎる規則は誰も守り切れず―しばしば交通警官ですら!―、無意味である。また、あまりに多すぎる交通刑罰法規も刑罰のインフレ状態を結果し、かえって刑罰の効果を失わせる原因となる。
 各種道路交通法違反については、まず速度違反や酒気帯び運転などのように、それ自体に死傷事故の危険が内包されているような危険運転行為に限って犯罪とみなし、その他の細かなルール違反は行政罰に委ねる「非刑罰化」を大胆に推進する必要がある。
 この点、道路交通法上の行政罰として反則金があるが、そうした金銭的ペナルティーだけでなく、運転免許停止・剥奪の制度も整備すべきである。特に速度違反や酒気帯びなどの危険運転の累犯者に対しては、免許剥奪処分が効果的である。ただ、これは行政罰というより保安処分の一種と言える。

pencilところで、近年の交通犯罪厳罰化キャンペーンの中ではとりわけ飲酒運転が標的となってきた。その結果、飲酒運転の罪そのものの刑が引き上げられたことはともかくとしても、飲酒運転をするおそれのある者に対して車両や酒類を提供した者から同乗者にまで連座的に刑事責任を問う規定が出現するに至った。
 これらの者が明白に飲酒運転者と共犯関係にある場合を超えて、飲酒運転をするおそれという事前判断不能な他人の行為にまで責任を負わせるのは、自己の行為についてのみ刑事責任を問われるという個人責任原則をも破る、それこそルール違反の規定と言わざるを得ない。
 実効性という観点からしても、飲酒運転の現場に同席していた同乗者はともかく―同乗者には飲酒運転を幇助した従犯が成立する可能性がある―、車両・酒類提供者にまで飲酒運転の確実な制止役を期待することなど無理な話である。
 そもそも日本のようにモータリゼーションが高度に進んだ大クルマ社会で酒類の販売規制が緩やかであれば、飲酒と運転が容易に結びつくのは必然である。酒類に対する宗教的禁忌などから酒類の製造・販売が禁止されている国、逆に酒類の販売規制は緩やかであるが、モータリゼーションがほとんど進んでいない国では当然にも飲酒運転はまれである。
 そこで、日本でも本気で飲酒運転の撲滅とは言わないまでも大幅な減少を目指すのであれば、酒類の販売規制の強化とともに、脱モータリゼーションにも正面から取り組まなければならない。
 それは無理だというならなぜであろうか。考えられることは、酒類製造・販売業界及び自動車業界の利益を損なうからである。そうだとすると、刑事責任の原則に反してまで強行される実効性も疑わしい厳罰化・連座責任化とは、社会正義などではなく、そうした業界利益の隠れ蓑にすぎないことになりはしまいか。

pencil「非処罰」の構想の下でも、速度違反や酒酔い運転などそれ自体に過失による死傷事故の危険を内包する危険運転は犯罪行為であるが、それらは本質上行政取締上の犯罪であって、多くは犯罪性向の低い犯行者によるものであるから、その処遇としては第一種矯正処遇または保護観察とすれば十分である。ただし、危険運転行為の累犯者は、上述したような運転免許剥奪処分に付するほか、第二種矯正処遇を用意してもよいだろう。
 問題は、こうした危険運転中の過失によって死傷事故を起こした者の処遇である。といっても、第14章で述べたように、軽過失は業務上過失の場合を除き犯罪とすべきでないのであったから、ここで過失とは重過失及び業務上過失の場合である。
 この点、日本刑法上はこうした場合一切をあいまいな構成要件を持つ「危険運転致死傷罪」にくるめて、ほぼ傷害致死罪に匹敵する厳罰を科するわけであるが、この規定の違憲性については第14章で指摘した。
 道路交通法に違反する危険運転行為とその間に犯された過失行為とは一連であっても危険運転行為中に必ず過失行為を犯すと決まっているわけではない以上、本来別個の故意行為と過失行為であるから、両者は併合罪と理解すればよい。
 第5章で論じたように、併合罪については犯罪パッケージの中で犯罪学的に見て最も中核的な犯罪の処遇に従うのであったところ、確率的に過失による死傷事故を起こしやすい危険運転中に事故を起こすのは、元来危険運転行為に内包されていた危険が現実化しただけのことであるから、中核的な犯罪とは速度違反なり酒酔い運転なりの道路交通法違反の罪にほかならない。従って、その罪の処遇、つまり原則的に第一種矯正処遇または保護観察に付することになる。
 ただし、例外として、職業運転手による業務上過失の場合及び過失累犯の場合は、その反社会性ないし犯罪性向の強さを重視して第二種矯正処遇とし、保護観察は除外する加重規定を置くことを考えてもよい。

pencilなお、いわゆるひき逃げへの対応について、現行道路交通法のようにこれを「救護義務違反」として別個に犯罪行為とするのは身柄を拘束されていない被疑者が逃走することを犯罪としない刑法の立場と矛盾する。逃走という方法は司法上正規的な防御権の行使ではないとしても、無罪の推定を受ける被疑者に対しては禁止すべからざる一つの条件反射的な防御行動として犯罪とはみなされないのである。
 ひき逃げも、自動車運転中の過失被疑者の逃走の一形態である以上、それ自体を独立した犯罪として、あるいは加重事由としてとらえることは正しくない。
 この点でも、ひき逃げに対する報復的厳罰化の主張が近年唱えられているが、ひき逃げ防止のためにはむしろ、逃走せず自ら事故を通報し、被害者救護を尽くした事故者は犯罪性向の低さを考慮して、軽い処遇を与えること―刑罰の場合であれば、刑の必要的な減軽事由とする―の方が効果的である。

2012年5月18日 (金)

犯罪と非処罰(連載第23回)

19 累犯問題について

pencil前三章で見た性犯罪・薬物犯罪・組織犯罪はいずれも短期間で同一または同種の犯行を繰り返す累犯が多いことで共通性がある。そのほか窃盗罪なども古くから累犯が多く、こうした累犯問題こそが教育刑論を台頭させた要因でもあった。
 しかし、教育刑論も刑罰制度が本質的に持つ応報的な要素を完全に払拭できず、限界を露呈してきたことから、「矯正悲観論」を生み出し、再び応報刑論への反動的揺り戻しを招くようになった。米国で1990年代に導入された「三振アウト法」、すなわち三回重罪を犯すと自動的に終身刑に処す制度はそうした揺り戻しを象徴するものであった。
 日本では、つとに現行刑法上「再犯加重」の制度を備えており(刑法57条)、所定要件を満たす再犯者を加重処罰する政策を採っている。こうした事実上矯正の放棄に等しい累犯への厳罰化政策は刑罰制度を維持する限り避け難い「最終解決」の方法なのである。

pencilまた、近年は特に性犯罪者の再犯防止のためとして、刑務所を出所した者にGPS監視装置を装着して行動を常時監視する政策が各国で導入されるようになっているが、これはさほど罪状が重くなく終身刑や長期の厳罰には処し得ない性犯罪者に対しては比較的短い刑期の中で十分な矯正が行えないまま出所を認めざるを得ないという限界を、出所後の行動追跡によってカバーしようという苦肉の策にほかならない。さらに進んで性犯罪の前科を持つ住民の情報を近隣に開示して警戒を呼びかけるという制度の導入例もある。
 こうして再犯の危険に対処するため対象者のプライバシーを否定し、社会的孤立を強いる策に走らざるを得ないのも、矯正の限界というよりは、応報を本質とする刑罰制度そのものに内在する限界のゆえなのである。
 ただ、性犯罪者の中には小児性愛者のように矯正困難な者も含まれていることから、矯正悲観論の象徴となりやすいことはたしかだが、それは矯正科学の遅れのゆえであって、そうした遅れをもたらす桎梏となっているのも刑罰制度なのである。その意味で、累犯問題は刑罰制度自身の影法師である。

pencilこの点、「非処罰」の構想の下では、格別の累犯対策は必要としない。それは更新付きユニット制を採る「矯正処遇」の制度自体に累犯対策が組み込まれているからである。すなわち対象者の再犯の恐れがなお除去されていないと判断されれば矯正ユニットが更新され、科学的に適切な矯正プログラムが課せられるのである。
 もっとも、科学的な矯正プログラムがいかに進歩しても、再犯防止の究極の決め手は更生保護にある。その意味で、累犯対策は更生保護の最重点課題に位置づけられなければならない。
 中でも量的に多い窃盗犯の再犯防止が重要である。窃盗犯の中には実際、刑務所と一般社会の間を頻繁に往復するような人生を送る者も少なくないため「常習犯」と呼ばれ、日本法上は「常習累犯」として特別法(盗犯等ノ防止及処分ニ関スル法律)で別途加重処罰される。
 しかし、「常習」という表現は非科学的であり、差別的でもある。窃盗累犯は犯罪の性癖を持っているのではなく、場合によってはあえて自ら服役を望んで同一の犯行を反復しているにすぎず、そうした反復性は一般社会で安定的に生活していくことができないことの表れにほかならない。更生保護が特に重要となるゆえんである。
 一方、質的な面では組織犯罪関係者の更生サポートも大きな課題である。かれらの場合は犯罪組織が事実上の「職場」となっていることから、まさに犯罪行為が“職業”と化しており、犯罪への固執性が強い。そこで、更生保護を通じて各自の適性を生かした正業への“転職”を支援していくことが重要となる。

pencilそれにしても、こうした更生保護の充実・成功をもたらすには、社会の構造が大きく変わらなければならない。要するに、更生を妨げ、人を再犯に走らせる究極的要因、すなわち誰しも労働力として評価されなければ生活が困難となる資本主義経済という体制を再検討に付し、人生やり直しがより容易となるような社会体制を構築することである。その点で、累犯問題の解決は社会変革にとっての試金石でもある。

2012年5月16日 (水)

犯罪と非処罰(連載第21回)

17 薬物犯罪

pencil薬物犯罪は嗜癖・依存症と密接に関わり、精神保健行政・精神医療とも交錯するため、これを刑罰に“依存”してコントロールしようとすることに限界があることは明白である。
 しかし、日本を含むアジアでは薬物依存を退廃的な性癖とみなし、薬物犯罪に対して必罰主義・厳罰主義―最大で死刑を科する国さえもある―で臨もうとする発想が強い。薬物犯罪に死刑を科することのない日本でも、規制薬物の単純所持や自己使用にかなり重い懲役刑を科する政策を続けている。
 一方で、麻薬の所持や自己使用については非犯罪化しつつ、嗜癖問題としてコントロールしようとする国も欧州を中心に増加してきている。日本でも一部で「大麻解禁論」が提起されている。

pencil一般に、薬物規制の要否やその方法は、薬学・医学の現代的な水準に照らして行われなければならない。従って、薬学的・医学的に見て明白な有害性―とりわけ自己使用を犯罪行為として取り締まるうえでは、薬理作用による他者加害の高度な危険性―が立証されない薬物に関して、単純所持や自己使用を犯罪として取り締まることは無意味である。
 このことは、当該薬物を嗜好品として全面的に自由化することを意味しない。例えば、輸入・販売の方法や購入条件を規制するなど薬事行政上の規制や取締りがなお必要な場合はあるからである。
 一方、薬学的・医学的に明白な有害性が認められる薬物にあっても、その自己使用自体は犯罪というよりも薬物依存症という一つの精神疾患の症候であるから、犯罪としての取締りよりも、精神保健福祉上の保護的対応が不可欠である。

pencilただ、自発的に医療機関を受診する依存症者は少なく、通常は規制薬物の所持容疑で摘発されて自己使用の事実も判明することが多い。そうした点では、規制薬物の単純所持は一つの取っ掛かりとしてなお犯罪として残すが、その処遇は対物的処分としての没収で十分であろう。
 そのうえで、所持者の自己使用が判明した場合は、捜査機関から所管行政機関に通報し、行政機関が対象者に指定医療機関等での治療命令を発するようにするのである。この命令に反して治療を受けようとしない者に対しては、さらに裁判所の命令により指定医療機関等へ強制収容することも可能とする。
 他方、有害な規制薬物の密輸・密売などの営利的な行為は、しばしば犯罪組織の資金獲得手段となるところでもあり、薬物犯罪取締りの中核的対象を成す。
 こうした組織犯罪型薬物犯罪に対する処遇は、組織犯罪対策そのものと重なる部分もあるが、犯罪組織のメンバーのように犯罪性向が類型的に高い犯行者が少なくない一方で、金欲しさからの一過性の売人や運び屋なども含まれることも考えると、第二種以下の矯正処遇または保護観察が相当であろう。

pencil以上のような規制薬物の所持をはじめとする犯罪行為類型については、特別法ではなく、一般法たる犯罪法典上に基本的な規定を置くべきである。
 この点、1907年(明治40年)に制定された日本刑法は当時の時代状況を反映して、あへん煙についてのみ規定を置いているが、犯罪法典上では取り締まり対象となる規制薬物の種類を限定する必要はなく、規制薬物のリストは特別法の定めに委ねてよい。
 日本ではこうした特別法として、覚せい剤取締法、大麻取締法、あへん法、麻薬及び向精神薬取締法など複数の法律が林立しているが、これでは一般市民にとって規制薬物取締体制の全貌が見えにくく、告知機能を十分に果たせない。
 そこで、こうした個別の規制法を統合して、例えば「規制薬物取締法」といった法律に一本化して規制薬物のリストを一覧的に明示すべきである。
 繰り返しになるが、そのリストは薬学・医学の現代的水準に照らして常に検証に付されなければならない。さしあたり大麻がリストから外れる可能性はあるが、反対論も強い。ここで大麻をめぐる高度に科学的な論争に決着をつけることはできないが、重要なことはそうした議論そのものをタブーとして凍結してしまわないことである。

2012年5月12日 (土)

犯罪と非処罰(連載第20回)

16 性犯罪(下)

pencil前回取り上げた「性暴力犯」に対して、「性風俗犯」及び「性表現犯」は全く罪質を異にしている。これらは個人の性的自己決定ではなく、公序良俗という社会的秩序を侵害する罪とされているからである。
 このうち「性風俗犯」は多くの諸国で「非犯罪化」や「非刑罰化」が進んでいる。例えば、かつては単なる“不倫”では済まない重罪とされた「姦通罪」は日本をはじめ多くの国で「非犯罪化」され、単に離婚事由や民事不法行為責任の問題とされるようになった。さらに、売買春のような行為ですら、日本も含む多くの国では「非刑罰化」され、行政的取締りや福祉的保護に委ねられるようになった。
 これらの行為が不道徳と評価されなくなったわけではないが、性道徳そのものを刑罰によって保持しようとする発想は先進諸国では過去のものとなりつつある。

pencilしかし、公衆の前で下半身を露出するような行為は別である。日本刑法上、こうした行為は「公然わいせつ罪」(刑法174条)に該当することになる。ただし、「わいせつ」という概念は漠然としており不明確であるから、より限定的に「性的露出罪」というように規定し直される必要がある。
 このような露出犯罪は単に性道徳に反するというのではなく、他人に性的な不快感・嫌悪感を抱かせるからなお犯罪とされるのである。その意味では、この犯罪は「性風俗犯」というよりも、性的強要罪にも近い「準性暴力犯」とみなすことができるであろう。
 そうであれば、「公然」でなくとも、およそ他人の面前で相手の意思に反して下半身を露出するような行為は「性的露出罪」に該当する一方で、ストリップ劇場でのヌードダンスや確信的に全裸で保養することを主義とするヌーディストが集合する特定の場所(海岸や保養施設)で露出するような行為などはむしろ露出を芸能や主義として享受する人々の間でだけ限定的に公然化されるにすぎないのであるから、「性的露出罪」には当たらないと理解すべきである。

pencil「性的露出罪」にはヌードダンスのように表現行為としての要素が認められる場合があるが、より直接に「性表現犯」としての性格を有するのが、日本刑法上では「わいせつ物頒布等の罪」(刑法175条)である。
 この規定はかねて憲法21条で保障される表現の自由を侵害する疑いがあるとして問題視されてきた。たしかに、ここでも「わいせつ」概念は漠然不明確であるうえに、文書や図画等による性的表現行為は性的露出行為と比べても他人に性的嫌悪感を抱かせる程度は一段と低いから、そもそも犯罪行為とすべきかどうかという疑問が生じよう。
 しかし、児童を被写体とするポルノグラフィー(児童ポルノ)や性暴力を描写する図画など一定の視覚的表現物は性暴力を助長する恐れがあると言わざるを得ないから、そうした物の頒布等はなお犯罪として残しておくべきである。
 従って、「性表現犯」に関しては、規制対象とすべき表現物を例示的に限定したうえで、「特定性的表現物頒布等の罪」として規定し直されることが目指される。
 なお、この罪の対象とはならない性的表現物でも、青少年の性的情操を保護する観点から一定の規制を免れないものもあり得るが、それについては鑑賞可能年齢を指定するなどの方法で非刑罰的に対応できるであろう。

pencilところで、児童ポルノの取締りに関しては、表現物自体の取締りだけでなく、児童を性的な被写体として使役することの取締りもなされなければ効果は上がらない。
 この点、ポルノを製作する目的で、18歳未満の未成年者に性的な姿態をとらせることや、保護者と業者が児童ポルノを製作する契約を結んだり、業者が被写体となる児童をあっせんしたりする行為を「未成年者性的使役罪」として犯罪化することが検討されるべきである。
 この罪は性表現犯というよりも、未成年者の保護そのものを目的とする福祉犯としての性格を持つが、犯罪法典上の罪として明示されるだけの現代的意義を持つものである。

pencilさて、以上の「性的露出罪」や「性表現犯」に属する犯罪を犯す者の多くは一過性の犯行者であるから、原則として保護観察で足りる。しかし、同一または同種の行為を反復する一部の累犯者に対しては第一種矯正処遇を与える。また特定性的表現物頒布等の罪に対しては没収を活用すべきであろう。
 これに対し、上述の「未成年者性的使役罪」については犯罪性向が高い犯行者も少なくないから、最大で第二種以下の矯正処遇とすることが適切であろう。

2012年5月11日 (金)

犯罪と非処罰(連載第19回)

16 性犯罪(上)

pencil個別的な犯罪対策の中で、おそらく世界各国において最も厄介な難問となっているのが性犯罪である。ただ、性犯罪といっても、それには大きく「性暴力犯」「性風俗犯」「性表現犯」という三つの系統がある。
 中でも最も実害が大きく、深刻なのが「性暴力犯」であり、通常、性犯罪というときはこれを指している。「性暴力犯」の典型は強姦罪であるが、現代では性的自己決定の意識が高まり、「性暴力」の概念枠は広がる傾向にある。従って、ここでは「非犯罪化」よりも「犯罪化」がモードである。
 この点、日本刑法上は強姦罪(刑法177条)に加え、同様に暴行または脅迫を手段として「姦淫」以外の性的行為を強要する強制わいせつ罪(刑法176条)という規定がかねてより用意されている。
 これに加えて、近年地方自治体条例上で暴行または脅迫よりも弱い手段を用いて性的行為を強要した場合にも、これを「痴漢行為」として処罰する規定を置くことが一般化している。
 しかし、性的自己決定の今日的水準からすれば、このように性暴力の形態を細分化したうえで、強姦を最も重く処罰するという定め方はもはや過去のものである。むしろ、およそ相手方の意思に反して性的行為を強要することを包括して「性的強要罪」として定めるべきである。

pencil以上の性的強要罪は相手方の明確な意思に反して性的行為を強要する型の犯罪であることから、当事者間に性的行為に関する合意がなかったことが犯罪の成否を分けるポイントとなる。そのため、裁判上合意の有無がしばしば激しく争われ、そうした場合には被害者が公開の法廷で厳しい反対尋問にさらされ、新たな屈辱感を味わうこと(いわゆる第二次被害)も少なくない。
 だからといって、当事者間の合意に関する立証基準を緩和すれば、冤罪に直結しかねない。そこで、強要型の性犯罪とは別に、他人を支配下に置いて自己または第三者に対して性的に奉仕させること自体を犯罪とする「性奴隷化罪」を創設することが有益である。
 この場合、被害者は消極的・受動的ではあれ、性的行為に対して同意を与えてはいるのであるが、全体としては性奴隷として加害者の支配下に置かれているのである。
 その際、性的奉仕が有償か無償かは問わない。たとえ被害者が性的奉仕に明確な対価が与えられる売買春営業に雇われていたとしても、雇用主の支配下で逃れることのできない状態に置かれていたような場合は、雇用主に「性奴隷化罪」が成立するのである。
 こうした規定が存在すれば、当事者間に合意がなかったことの立証が困難で、性的強要罪が成立しない場合であっても、性的行為の状況からして「性奴隷化罪」が成立する可能性はあることになり、被害者の負担を軽減することもできるはずである。

pencilところで、日本刑法上強姦罪をはじめとする性暴力犯罪は、被害者の意思を尊重し、原則的に被害者側の告訴を待って訴追できる親告罪とされているが、こうした被害者配慮によってかえって被害者が加害者の報復を恐れて告訴に踏み切れず、立件されないケース(いわゆる暗数)が少なくないと見られる。
 そこで、親告罪という規定は廃しつつ、性暴力犯の捜査・訴追に当たっては、被害者側の明示的な意思に反してはならないという留保をつけておくほうがむしろ被害者のためになるであろう。
 なお、性暴力犯は、異性間のみならず、同性間でも成立する。性的自己決定の観点からすれば、およそ性的行為は完全な合意に基づき、隷属関係なしに行われるのでなければならないからである。

pencilそれでは、「非処罰」の構想の下で、以上のような性暴力犯罪に対する処遇はどう定められるべきか。
 まず、最も重大な性的強要罪には性欲を自律的にコントロールできない病理性の強い犯行者もしばしば見られるため、最大で第三種矯正処遇が相当である。
 ここで問題となるのは、通常の矯正プログラムをもってしては矯正困難な者に対して、去勢効果を持つ薬物を投与することが許されるかどうかである。
 この点、薬物投与の方法によるとしても、対象者の意思に反して去勢を強制することは人道処遇の原則に反し、今日では許されることではない。しかし、厳格な医学的判断と対象者の同意に基づく限り、こうした究極の処分をためらうべき科学的理由も乏しい。
 そこで、第三種矯正処遇のうち、医療的処遇を内容とするB処遇の対象者で、なおかつ終身監置に付された者に対しては例外的に薬物去勢に付する可能性を持たせてよいと考える。その際、去勢の必要性に関する3人以上の精神科医による一致した判断に加えて、本人の同意、さらにそれらを確認する裁判所の許可を得て実施されるべきである。

pencilところで、包括的な性的強要罪が適用される者の中には、一過性の痴漢行為者なども含まれてくるので、保護観察相当の場合もあり得る。そこで性的強要罪の処遇の幅は広く取って、第三種以下の矯正処遇または保護観察ということになるだろう。
 他方、「性奴隷化罪」では一過性ということは考え難く、保護観察相当の場合はないが、犯行者の病理性は性的強要罪の場合ほど高くはないと考えられるから、第二種以下の矯正処遇とすべきであろう。

2012年5月 6日 (日)

犯罪と非処罰(連載第18回)

15 生命に対する罪
 ―生と死の自己決定について(下)―

pencil臓器移植は死のプロセスに入ってから生じ得る問題であるが、死のプロセスに入る以前にいわゆる延命処置を拒否して自然に来たるべき死を迎えることは「尊厳死」と呼ばれ、その可否が古くから議論されてきた。
 「尊厳死」に否定的な見解は、人工的な延命処置が可能な限りはそれを続けることが医師の務めであり、医師が延命を中止して患者に死をもたらすのは殺人罪(嘱託殺人罪)にほかならないと主張する。
 しかし、自らの死に方を選択する自由を尊重する考えからは、患者が人工的延命処置を受忍して医の倫理のために奉仕させられることは本末転倒である。そこで、意思表示がまだ可能な間に延命処置を拒否して尊厳死を望む旨の意思表明(リヴィング・ウィル)を残しておく慣習が普及していった。
 こうしたリヴィング・ウィルが示された患者に対して医師が延命処置を中止して死をもたらすことは嘱託殺人罪に当たらないという考え方が諸国で受容されるようになってきたことは、一つの進歩であろう。
 ただ、そもそも延命処置とは、回復の見込みがなく、いずれ確実に死を迎える患者を人工的に生かし続けることであるから、医師が延命処置を中止することが即殺人罪に当たるという論理は、いささか形式論にすぎるのである。
 もちろん、医師は独断で延命処置を中止すべきではないが、それは純粋に医の倫理上の問題であって、殺人罪の成否という次元の問題ではない。元来、無益な延命処置は死を間近にした患者の心身の負担を倍加するだけで医学的にもプラスにならないのであるから、無益な延命処置そのものをしないことを医療的慣習として確立すれば、「尊厳死」という問題自体が解消されていくであろう。

pencilより深刻な問題は、死苦を逃れるため、あるいは回復の見込みのない難病の苦しみから解放されるために死を望む患者に対して、医師が致死性薬物の注射などの方法によって積極的に死をもたらす「安楽死」の可否である。
 これは「尊厳死」と異なり、患者はまだ自力での生存可能性が残されている段階で人為的に死をもたらすことであるから、医師がまさに嘱託殺人罪(独断なら殺人罪そのもの)に問われかねないわけである。
 「尊厳死」が認められるならば「安楽死」も認められて然るべきと短絡するわけにはいかない。なぜなら「尊厳死」は死に方の自由の問題であったが、「安楽死」は死ぬこと自体の自由を認めるべきかどうかという問題だからである。
 死の自己決定という場合、それは死に方、言い換えれば死の迎え方の選択であって、死ぬこと自体の選択ではない。死ぬこと自体の選択の最たるものは自殺であるが、自殺は他殺と異なり、今日では多くの国で犯罪とみなされないとはいえ、倫理上は反価値的と認識されている。
 ただ、「安楽死」を望む人が一定存在するのは、一部の病気の末期では肉体的にも精神的にも死苦が生じるからである、しかし今日、こうした死苦を鎮痛剤の投与や放射線照射によって緩和したり、精神療法によって精神的な苦痛を軽減したりするターミナル・ケアが進歩し普及してきた。
 このようなケアは回復を目指す治療とは異なるが、単なる延命処置とも異なり、死を前にした患者ができる限り苦痛なく安らかな死を迎えることをサポートする医療行為の一種である。こうしたターミナル・ケアの技術が進歩し、さらに普及していけば、死苦は大幅に軽減され、もはや「安楽死」を望む患者もほとんどいなくなるであろう。
 そうしてみると、「安楽死」を認めなければならない決定的理由は現状でも乏しく、「安楽死」が嘱託殺人罪等に該当することは否定できないであろう。
 ただし、ターミナル・ケアも効果なく、患者の死苦はなお激しいというやむにやまれぬ状況で、患者の依頼を断り切れず、医師が安楽死を決断したというような場合に、医師を嘱託殺人罪に問うべきかという究極の問いは残される。
 かの「生命の神秘化」の立場からすれば、こうした場合にあっても、問題の医師は訴追され処罰されねばならないのであろう。しかし、「非処罰」の構想の下では、この善意の医師は訴追を免除されるべきである。この医師は倫理的なジレンマに立たされてあえて違法な決断をしたのであって、矯正すべき犯罪性向は認められないからである。

pencil以上の「尊厳死」「安楽死」をめぐる問題はえてして医療現場に倫理的な葛藤を引き起こしがちであるので、問題の解決を法解釈・運用に委ねることなく、例えば「尊厳死及び安楽死に関する法律」といった特別法を制定して法の立場を明確にしておくべきである。

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