犯罪と非処罰

2012年8月18日 (土)

犯罪と非処罰・目次

下記目次各「ページ」(リンク)より、掲載中の該当記事をご覧いただけます。

※当連載は現在、別ブログにて内容を大幅に改訂した新版を連載中です。


前言
 ページ1

1 序論 ページ2

2 社会は犯罪に対して責任を負わねばならない ページ3

3 責任能力概念の揚棄 ページ4

4 法定原則 ページ5

5 処遇の種類 ページ6

6 矯正処遇について ページ7

7 刑務官から矯正官へ ページ8

8 保護観察について ページ9

9 更生保護について ページ10

10 少年の処遇について ページ11

11 矯導学校について ページ12

12 教育観察について ページ13

13 未遂犯・共犯について ページ14

14 過失犯について ページ15

15 生命に対する罪―生と死の自己決定について(上)― ページ16

15 生命に対する罪―生と死の自己決定について(中)― ページ17

15 生命に対する罪―生と死の自己決定について(下)― ページ18

16 性犯罪(上) ページ19

16 性犯罪(下) ページ20

17 薬物犯罪 ページ21

18 組織犯罪 ページ22(非表示)

19 累犯問題について ページ23

20 交通犯罪(上) ページ24

20 交通犯罪(下)―公共交通事故について― ページ25

21 政治犯罪 ページ26

22 汚職について ページ27


※ これ以降の記事につきましては、全面改訂を予定しているため、現在すべて非表示としております。

23 無罪の推定について ページ28

24 未決拘束について ページ29

25 被疑者取調べの規制 ページ30

26 司法取引・訴追免除について ページ31

27 盗聴・盗撮について ページ32

28 捜査監督裁判官について ページ33

29 司法警察員資格制について ページ34

30 検死・科学鑑定について ページ35

31 公訴時効について ページ36

32 民衆公訴について―検察制度の廃止― ページ37

33 訴追弁護士について ページ38

34 事実審理と処遇審理 ページ39

35 司法参加について ページ40

36 当事者主義と職権主義 ページ41

37 少年司法について ページ42

38 証拠開示について ページ43

39 証拠の適格性 ページ44

40 情況証拠・共犯者証言・被害者証言 ページ45

41 上訴審・再審について ページ46

42 犯罪被害者について(上) ページ47

42 犯罪被害者について(下) ページ48

43 犯罪情報について ページ49

44 法律家はどうあるべきか ページ50

45 結論 ページ51

2012年8月15日 (水)

犯罪と非処罰(連載最終回)

45 結論

pencilベッカリーアは『犯罪と刑罰』の中の最終章「結論」部分で次のような口上を述べている。

これまでわれわれが見てきたすべてのことから、次のような普遍的な定理を引き出すことができる。この定理は極めて有用なものなのであるが、諸国家において日常の立法者の役割を演じ、世に受け入れられているあの慣習に合致していない━。

 筆者もここで一つの結論を出すに当たって、同じ口上をそのまま引用したいと思う。ただし、結論の方向は異なる。その結論とは次のとおりである。

有害な社会現象である犯罪を効果的に防止するためには、刑罰という手段ではなく、厳格なデュープロセスに則った事件の科学的な解明に基づいて、犯罪行為者を矯正し、更生させるための処遇と、犯罪原因の根元を成す社会構造上の欠陥をただすための施策とを、不断に実行しなければならない。

pencilともあれ、かかる定理が完全な形で実現するのは、貨幣と国家のない社会においてであろう。逆に言うならば、貨幣と国家のある社会においては、なおも「犯罪→刑罰」図式が生き続けるだろうということだ。なぜか。
 まず何よりも国家が刑罰主体であるということの重みが大きい。すなわち刑罰権は国家主権の重要な内容である。効用から言っても、刑罰は国家体制護持の道具として極めて有効であるから、いかなる国家体制も刑罰を手放すことをしないであろう。そのため、軍隊を廃止する国はあっても刑罰制度を廃止する国はないのである。しばしば矯正の先進国として称賛されるスウェーデンでも刑罰と保安処分とを一元化し、両者の区別を撤廃はしたが、刑罰そのものを廃止するというところまでには至っていない。
 そういうわけで、「非処罰」を実現するためには刑罰主体である国家ごと廃止することが最も徹底しているのである。
 しかし、そればかりではない。ベッカリーアの言う「世に受け入れられているあの慣習」、つまり復讐というものが単に観念としてでも生き残る限り、刑罰制度の廃止は遠い道である。
 この点、犯罪原因の大半―殺人のような生命犯の場合ですら―がカネにまつわる問題であるから、貨幣経済はすべての国で最有力の犯罪原因であり、従って貨幣経済を維持する限り、犯罪は顕著に減少せず、そうなれば上述の「慣習」も消滅しないという関係にある。
 逆に貨幣経済を廃すればただそれだけでも犯罪は激減し、残ったわずかな犯罪は報復的処罰でなく科学的処遇の対象とすべきことを理解する社会意識も高まるに違いない。

pencilとはいえ、「非処罰」の構想などしょせんは遠い未来の実現可能性もおぼつかないユートピア思想にすぎないではないかと思われるかもしれない。しかし、決してそうではない。現状の枠内でも「非処罰」へ向けた取り組みは可能であるし、必要でもある。
 すなわちおよそ矯正の目的を持たない死刑を廃止すること、古典的な懲役刑/禁錮刑の区別を廃し、自由刑を一元化したうえで「懲役」に代えてより個別化された矯正プログラムを課すること、刑務所内の過度に統制的な秩序管理を改めること、軽度の法益侵害に対する非刑罰化を進めること、社会内処遇の諸制度を整備すること、犯罪学や矯正科学の研究水準を引き上げること、学校教育を通じて犯罪現象と法についての科学的な理解を少年時から身につけさせること等々がそれである。(了)

2012年8月10日 (金)

犯罪と非処罰(連載第50回)

44 法律家はどうあるべきか

pencil犯罪が私的な復讐ではなく、公的な司法を通じて解決される近代社会では、犯罪の処理・解決には法律家が中心的に関与することが必然となる。ここに法律家とは法の専門家であるとされている。これは当然のことであるが、法の専門家であるとはどういうことか。普通、それは法の解釈・適用、さらにはそれを通じた法律事件の解決の専門家であることを意味すると考えられている。

pencilしかし、「非処罰」の構想下の法律家はそのような狭い法技術者の役割にとどまってはいられない。すでに見たように、事実審理と明確に区別される処遇審理・判決は犯罪学・矯正科学を踏まえた科学的判断に基づいて行われるので、裁判官自身が犯罪学・矯正科学に関する素養を備えていなければならない。また弁護士も処遇審理または少年審判における処遇審判では被告人の補佐人ないし被審人の付添人として活動することが予定されているので、弁護士も依頼人にとっていかなる処遇が最適であるのか自ら判断する力量を持っていなければならず、弁護士にも犯罪学・矯正科学の素養が必要である。
 そればかりでなく、事実審理ないし少年審判における事実審判では自白偏重が一掃されることにより、各種科学鑑定が利用される機会もますます多くなることは確実であるから、特に裁判官はこうした科学鑑定の方法や結論の当否について自らも十分な判断力を持っていなければならない。もちろん、当事者主義の下で争点形成の役割を担う弁護士(訴追弁護士も含む)も同様である。
 そうしたこととは別に、法そのものに関しても、社会の現場で活動する法律家は法の解釈・適用にとどまらず、法の社会における機能の仕方を分析する法社会学的な素養も持っているべきである。

pencil結局のところ、法律家とは単なる法技術者ではなく、上述した科学鑑定の基礎となる諸科学に法社会学のような社会科学、また法医学・司法精神医学・法廷心理学等を加え、さらには先述した犯罪学・矯正科学の素養をも含めた最も広い意味での「裁判科学」の全般的素養を備えた「法の科学者」であるということになる。
 このように法律家が「法の科学者」であるということは、決してかれらが科学以外の素養を必要としないということではない。それどころか、良き科学者であるためには、人文的素養も欠かせない。
 「法の科学者」にとっての人文的素養とは法哲学や法史といった分野の素養である。これらの素養は法律家としての実務とは関係がないと思われがちであるが、法の解釈・適用という法の最も技術的な側面の基底にも法哲学や法史が横たわっているのであり、それらの素養は医師で言えば解剖学・生理学・病理学等の基礎医学に相当するものである。
 また基本的人権分野での国際協力と国際的な人権基準作りが進められ、その結実としての国際人権条約が国内法としても適用されることが予定されるようになった今日、国際人権法は外交官以上に一般の法律家にとっての素養となってきている。これはまさしく法の解釈・適用という伝統的な法技術に関わる現代的な素養なのである。

pencil「法の科学者」としての法律家の識見が以上のようなものたるべきだとすれば、法律家の養成課程や資格試験のあり方・内容も大きく変容せざるを得ないであろう。当然ながら、各種法律諸科目と並んで、上述したような最広義の裁判科学が教育カリキュラム及び資格試験の重要科目として含まれてくるであろうし、国際人権法についてもまた然りである。

2012年8月 9日 (木)

犯罪と非処罰(連載第49回)

43 犯罪情報について

pencil現代社会では、マスメディアが日常的に犯罪事件を取材・報道することが慣習化されているが、こうした報道はほぼ例外なく、警察をはじめとする捜査機関の公式発表や非公式のリークに基づいている。その意味で、マスメディアの犯罪報道は官民一体の捜査広報活動に近い性格を持つ。
 こうした犯罪報道はマスメディアが形成・発達した近代以降に現れたものにすぎないとはいえ、その歴史にはすでに長いものがあるのに対し、近年はインターネットの飛躍的発達に伴い、犯罪が虚実織り交ぜた非公式情報の対象として広く流布されるようになったことは重大な変化である。そこで、犯罪報道を含めて、より広く「犯罪情報」という視座を持たなければならないのが、現代の状況である。

pencil中でも量的に最も多い未決の段階における犯罪情報は、無罪推定との関係で慎重な扱いを要する。特に被疑者・被告人の実名を明示して犯人視するような情報は、無罪推定から派生する「犯人視されない権利(第23章参照)の侵害とみなされる。従って、犯罪情報は―公人や著名人が被疑者・被告人である場合や公務員の職務犯罪などの場合を除いて―原則的に匿名化されなければならない。もちろん、例外的に顕名情報が許容される場合にあっても、犯人視されない権利自体はなお保持されることは言うまでもない。
 加えて、犯罪被害者についても、被害体験を克服する上で欠かせない平穏な環境を確保するためには、匿名化―この場合は被害者が公人や著名人であっても直ちに例外には当たらず、例外は被害者が社会的に特に重要な地位にある公人の場合に限られる―を原則としなければならない。

pencil総じて、何人も自己の法益を侵害する犯罪情報の発信者(捜査機関のような公的機関も含まれる)に対しては、損害賠償を請求することができるわけであるが、そうした個別訴訟に訴える方法は原告の立証や訴訟費用の負担を考慮すると、必ずしも実効性があるとは言えない。
 そこで、全報道機関(報道媒体の種類を問わない)が合同で「報道オンブズマン」を組織し、具体的な報道に対する当事者からの救済申立てを共通の倫理コードに基づいて審査し、倫理コードに違反した報道機関に対して訂正・謝罪記事の掲載を命じるといった自主審査の制度を導入すべきである。
 これに対して、インターネット上の非公式情報の場合は発信者が一般市民であることもあり得るため、発信者を特定し、直接に対応することは困難である。そこで上述の「報道オンブズマン」の仕組みに準じて、インターネット・プロバイダーやその他の通信サービス事業者が合同で「インターネット・オンブズマン」を組織し、当事者からの救済申立てを共通の倫理コードに基づいて自主審査し、問題情報の発信者が利用しているプロバイダー等に対し、強制削除等の対応を命ずる自主審査の制度を導入することが望ましい。

pencilさて、犯罪情報は以上のように市民法上の法益を侵害することがあり得るばかりでなく、司法判断そのものに対しても、これを不当に左右するような影響を及ぼすことがあり得る。とりわけ陪審制が広く活用される「非処罰」の構想の下では、犯罪情報が陪審員の判断に不当な影響を及ぼすことのないようにする配慮が不可欠となる。
 具体的に言えば、起訴陪審・審理陪審の判断に不当な影響を及ぼす恐れのある犯罪情報の発信者や発信者が利用しているインターネット・プロバイダー等に対して、裁判所は当事者の請求に基づいて強制力を伴う是正命令を発する権限を与えられる必要がある。
 なおかつ、そうした個別的な対応をもってしては律し切れないほどに不当な犯罪情報が大量に流布されており、裁判の公正を確保し難い状況が生じているときは、当事者の請求に基づく司法手続きの停止によって対応すべきである。

pencilところで、社会に流通する犯罪情報は圧倒的に未決の段階、それも捜査段階のものが多く、判決確定後の矯正・更生段階までフォローされることは極めてまれである。そのことが、矯正・更生といった「その後」に関する市民の的確な理解と関心を妨げていることは否めない。
 そこで、報道機関としても、捜査・公判段階で大きく報じた事件の「その後」をフォローする取材・報道を平素から心がけるような意識改革は是非とも必要である。
 他方で、「非処罰」の構想の下で配備・充実される矯正センターや矯導学校、保護観察所といった処遇諸機関の側でも、一般向け広報誌(電子版を含む)の発行や、近隣住民を招待する見学会、入所者・生徒らとの交流行事などの企画を通じて、矯正・更生に関する情報の公開に積極に努めるべきである。

2012年8月 2日 (木)

犯罪と非処罰(連載第48回)

42 犯罪被害者について(下)

pencil犯罪被害者に対する援護策は社会政策としての性格が強いため、公権力機関ではなく、例えば「犯罪被害者援護協会」といった非権力的な公益法人を設立したうえで、その組織が統一的に援護を担うことが望ましい。
 ただ、個々の犯罪被害者が必要としている援護の具体策は多様であるため―必要としない場合も含め―、個々の被害者ごとにソーシャルワーカーが個別援護プログラムを作成する必要がある。その場合、犯罪の直接的な被害者(直接被害者)とその近親者に対する援護には自ずと違いが認められる。

pencil直接被害者の場合は、当然にも被害のショックからの回復が援護の中心をなす。特に性犯罪被害のように心身に及ぼすダメージの大きなケースは重点的な援護が必要であり、被害の直後から臨床心理士や精神科医による治療的対応が求められる。
 これに対して、近親者の場合はとりわけ直接被害者の死によって生じる悲嘆(グリーフ)に対するケア(グリーフ・ケア)が中心である。ここでも臨床心理士や精神科医による対応が必要なケースはあろうが、グリーフ・ケアの訓練を受けた同様ないし類似の境遇の者(ピア)によるカウンセリング(ピア・カウンセリング)も有効であろう。
 なお、ここで言う近親者とは典型的には家族であるが、家族には事実婚のパートナーやその間に生まれた子も含まれるほか、遠縁だが直接被害者と特別に親しい間柄であった者や親友、恋人といった者まで広く近親者に含まれると考えてよい。
 他方で、直接被害者と絶縁し、長年音信不通であった家族などは直接被害者の死によって精神的にも経済的にも害が及ばないこともあり、そうした場合はそもそも「被害者」に当たらない。このように直接被害者の近親者が「被害者」となるのは、直接被害者の被った害によって波及的な被害が及んだ限りにおいてのことである点に留意する必要がある。

pencil以上の援護策は主として心身面のケアーを内容とするが、並行して犯罪被害者に対する補償の制度を整備する必要がある。犯罪はほとんどイコール民事不法行為であるから本来犯罪の加害者は被害者に対して損害賠償責任を負う。しかし加害者に賠償に応じる意思がある場合でも賠償資力が十分にあることは多くない。一方、訴追されても公訴事実を争う者は当然賠償にも応じないであろうし、有罪が確定しても無実の可能性が残る者に賠償責任を強いることも適切ではない。そこで犯罪被害者に対して公的に補償する制度が必要となるのである。
 この制度はちょうど無罪が確定した冤罪者への特別な補償制度と同様に、公務員に故意・過失が認められなくとも、一定の要件を満たせば補償を受けることができる制度である。
 その具体的な補償額は必ずしも本来加害者が負うべき賠償額の全額とはならないが、その50~70%程度はカバーする額でなければならず、単なる見舞金のようなものであってはならない。ただし、賠償そのものとは異なるので、慰謝料に相当するものは含めるべきではなかろう。
 こうした被害者補償の対象となる犯罪は生命・身体に対する故意犯や重大な財産犯を中心としながらも、一定の過失犯も含めるべきである。過失犯でも自転車事故のように加害者が通常は損害賠償保険に加入していない場合もあるからである。

pencil以上のような援護策をコーディネートするソーシャルワーカーは社会政策やソーシャルワークに関する知識・技術はもちろん、法と司法に関する知識も備え、被害者に対して説明できる力量を持った専門家である必要があることから、「犯罪被害者ソーシャルワーカー」(victim social worker)といった専門資格を創出することが望ましい。 
 また、こうした犯罪被害者への援護策については最初に被害者と接触する警察等の捜査機関で内容を紹介した冊子「犯罪被害者のしおり」とともに告知することを義務づけるべきである。全般に犯罪被害者は捜査・公判の客体とされることに反発を感じがちであるが、犯罪と処遇、さらに訴訟手続きに関する正確な理解を獲得することでそうした反発も軽減されることが期待されるので、「しおり」では犯罪被害者にとっても有益な法情報をわかりやすく解説することも必要である。

pencilさて、先に「非処罰」の構想の下では犯行者に対する処遇と犯罪被害者に対する援護は明確に区別されると論じたが、両者は全く無関係なのではなく、交錯する領域がある。それは矯正・更生プロセスへの犯罪被害者の参加である。
 この参加は被害者参加制度のように被害感情を判決に反映させるための参加ではない。処遇判決はあくまでも犯行者の矯正・更生にとっての効果を考慮して科学的判断から導かれなくてはならず、むしろ被害感情の反映を禁止するルールをこそ明文化しておくべきである。
 矯正・更生プロセスへの犯罪被害者の参加とは、被害者に加害者への感情をぶつける場を与えようというのではなく、被害者と加害者が直接対面・対話し互いの考えや思いを伝え合うことを通じて、加害者側の矯正・更生を促進すると同時に、被害者にとっても被害体験を克服する一助としようとするものである。
 このような手法は民事紛争の円満な解決手段として多用される和解とも異なり、「修復」と呼ばれ、近年先進的な諸国で様々な取り組みが行われている。しかし、「犯罪→刑罰」図式の下ではこうした取り組みもしょせんは比較的軽微な犯罪で刑罰を代替・補完する限定的な役割しか果たさないであろう。
 これに対して、「非処罰」の構想の下では「修復」の活用場面は拡大する。一般には「修復」の導入が困難とされる殺人罪のような重大犯罪でも矯正処遇のプログラムとして「修復」を組み込むことが妥当なケースはある。一般に「修復」の適用が妥当なケースとは、矯正・更生の対象者が無実を主張しておらず―従って「加害者」と呼び得る場合―、かつ被害者・加害者ともに「修復」を受けることに同意している場合である。ただし、そうした場合でも、重大な犯罪の加害者で、病理性の強い者は「修復」に成功しない可能性が高く、「修復」の適用外とせざるを得ないであろう。
 こうした「修復」をコーディネートするのは「修復」に関して専門的な訓練を受けたソーシャルワーカーまたは臨床心理士で、かれらは矯正センターや保護観察所に配属されて「修復」の適用が妥当と判断されたケースを担当することになる。

2012年8月 1日 (水)

犯罪と非処罰(連載第47回)

42 犯罪被害者について(上)

pencil刑罰は大元をたどれば生の復讐―特に親族による復讐としての血讐―、あるいは所属集団によるリンチ―それは集団による復讐とも言える―であったのであろうが、近現代の刑罰にはそのような生々しい復讐の要素は見られない。いわゆる応報刑論もそこで言う「応報」とは決して単純な復讐を意味していない。それは犯罪行為に対する法的反作用として法益剥奪を伴う罰を刑として強制するという法的ロジックのレベルでの返報を意味しているにすぎない。
 そうなると、生の復讐においては重要な当事者である犯罪被害者も、刑罰関係においてはもはや当事者ではなくなる。犯罪被害者は告訴の主体となり得る少数の例外を除き、捜査機関・司法機関が処罰の前提となる犯罪事実を解明する際の参考人や証人として客体化される。

pencilこのことは、犯罪被害者にとって甚だ不本意と感じられるかもしれない。そこで、近年はこうした「被害者の客体化」に対抗して、刑罰関係における被害者の主体性を回復せんとする立場から、「被害者のための司法」を高調する運動も高まっている。日本の「被害者参加制度」はそうした潮流の象徴である。
 この制度の下で、遺族を含む犯罪被害者は直接に、または弁護士に委託して刑事裁判に参加し、被告人質問や証人尋問、さらには実質的な求刑まで行う権利を持つようになった。この制度が目指すのは、犯罪被害者が満足できるような十分に報復的な刑罰―それは重大な犯罪ほど重い刑、わけても死刑とならざるを得ない―である。
 これは上述したように法的ロジックに堕した近現代の応報刑論を不満とし、生の復讐の歴史的‐先史的な記憶を再現することを通じて応報刑論を再活性化しようとする刑罰反動の所産であり、同時に20世紀以降に普及した教育刑論に対する最も痛烈なアンチテーゼでもある。
 たしかに根源的な次元では刑罰から復讐的な要素を完全に削ぎ落とすことはできない以上、教育刑論に対する反感がこういう形でバックラッシュを引き起こすことは避け難いことであったかもしれない。そうはいっても、このような方向で犯罪被害者の主体性を回復しようとすることは、理論的にも実際的にも無理がある。

pencil「犯罪被害者のための司法」テーゼは、一方で「司法の中立性」テーゼに抵触するから、それを文字どおりに実行に移して常に被害者側の要望に沿った判決を出すことは、司法の自己否定となる。そのため、被害者参加制度の下でも被害者側の意見に拘束力を持たせることはできず、従って少なからぬ事件で被害者側にとっては不本意な判決が出ることは避けられないだろう。そうなると、あえて裁判参加した被害者の失望・落胆は大きく、かえって苦痛を増幅してしまう恐れもある。
 「犯罪被害者のための司法」テーゼは被害者の怒りを刑罰という手段で発散させることが効果的であるとみなしているようであるが、巻頭言でも引いた米国の精神医学者カール・メニンガーも指摘するように、怒りをすばやく直接的に発散させることが精神的に健全だという観念は変更されなければならない。少なくとも怒りを表現する手段は刑罰ではなく、芸術その他心理的にもより実際上の効果を期待できる方法があるはずなのである。

pencilそうしたことからも、犯罪被害者の主体性の回復は司法への参加ではなく、被害体験の主体的な克服を事件直後からサポートしていく特別なプロセスを通して行われなくてはならず、そのプロセスは司法過程とは別個に別の観点から遂行されるべきものである。
 このような方向での犯罪被害者援護策は刑罰制度とも両立可能ではあるが、刑罰制度の下ではえてして二次的な問題として軽視されがちであるのに対し、刑罰制度そのものが否認される「非処罰」の構想の下ではいっそう本格的な展開を見るであろう。そこでは、犯行者に対する処遇と、被害者に対する援護とが明確に区別されるからである。

2012年7月26日 (木)

犯罪と非処罰(連載第46回)

41 上訴審・再審について

pencil未確定判決の誤りを正す上訴審(控訴審及び上告審)や確定判決の誤りを正す再審の諸制度の発達は、裁判が神や王のような無謬の絶対者ならぬ可謬的な生身の人間たる裁判官や陪審員等によって行われるようになった近現代の司法に特徴的なものである。とりわけ再審の制度は確定判決にすら誤りがあり得ることが前提となっている。
 ただ、犯罪をめぐる裁判における上訴審・再審の目的は単に判決の誤り一般を正すことにあるのではなく、ほとんど専ら誤った有罪判決の是正、すなわち冤罪の救済にこそある。ここから「不利益上訴の禁止」及び「不利益再審の禁止」という重要な二つの原則が導かれる。

pencil「不利益上訴の禁止」とは、無罪判決に対する訴追側上訴を禁止する原則であり、無罪判決を受けた被告人を再び有罪判決の危険にさらさないということから、英米法上は「二重の危険禁止」とも呼ばれる。
 この点、日本法のように無罪判決に対する検察側上訴を無制限に認めると、検察当局がどこまでも有罪判決にこだわる事件では差戻し審での再度の無罪判決に対してすら検察側が控訴・上告に及び、冤罪救済が徒に遅延するという長期にわたる人権侵害が生じるのである。
 ただし、不利益上訴として禁止されるのは無罪判決に対する事実誤認を理由とする訴追側上訴であって、法令適用の誤りや訴訟上の瑕疵の是正を求める上訴は妨げられない。
 なお、処遇審理にあっては訴追弁護士は関与せず、処遇意見を陳述する処遇調査人も訴追者ではないから上訴権を持たず、従って不利益上訴はそもそも問題とならない。他方で、処遇判決に対する被告人控訴を受けて、控訴審が第一審判決よりも重い処遇を言い渡す不利益変更は禁止される。

pencil以上に対して、「不利益再審の禁止」については日本法上も戦後司法改革の中ですでに実現済みであるから、検察官が確定無罪判決を覆すために再審を請求することはできない。
 これによって刑事再審は冤罪救済の門としての性格が純化されたはずであるにもかかわらず、実際には再審請求が認められることはめったになく、「開かずの門」と慨嘆されている。
 それは日本の再審制度が確定有罪判決のいわゆる既判力を偏重する権威主義的な運用の下に置かれていることを示している。このように既判力が冤罪救済の妨げとならないようにするためには、再審制度の設計を周到に工夫する必要がある。

pencilその前提として、事実誤認を理由とする上告は認めないことである。この点、日本法上事実誤認は正式の上告理由とされていないにもかかわらず、「重大な事実の誤認」は上告審の職権破棄事由となっているため、これを通じて事実誤認を理由とする上告が事実上認められているに等しい。このように上告審による事実関係の最終チェックが予定されることによって確定判決の既判力が強化されると、反面で再審の門は狭まりがちとなる。そこで、事実審理に関しては二審制を明確にすることによって、再審による救済の道がより開かれやすくなるのである。

pencilそのうえで、日本の現行法のように再審手続きを請求審と再審公判とに二分する二段階方式は廃し、一本化しつつ再審専門の裁判所(再審裁判所)を設置することである。
 初めに再審請求の可否を審査したうえで正式に再審を開く二段階方式は一見効率的であるが、ほとんどは請求審段階で棄却され、言わば門前払いされることになる。運良く再審開始決定まで漕ぎ着けても引き続く再審公判では再び有罪とされることもあり、二段階方式はかえって冤罪救済の障害でしかない。
 また再審は差戻し審とは異なるから、原審で再審理しなければならない必然性に乏しく、むしろいったんは確定有罪判決を出した原審での再審理にこだわることはかえって裁判所の救済的態度を消極化する恐れもある。
 そこで再審専門の再審裁判所が用意されるわけだが、この再審裁判所は地方在住で、しばしば高齢でもある請求人の便宜を考えると、中央に一庁だけ設置するのではなく、日本の現行裁判所制度に沿えば少なくとも高等裁判所所在地に一庁ずつ設置すべきであろう。

pencilもう一つの問題点は再審請求の実体的要件に関してである。この点、現行日本法は再審請求に際して「無罪を言い渡すべき明らかな証拠を新たに発見した」ことを要求する。
 しかし、このように証拠の新規性に加えて新証拠の高度な無罪証明力まで求めることは、再審請求の門前払いを多発させる要因となる。そもそも新証拠がどれだけの無罪証明力を有するかはまさに再審の審理の中で明らかになることであって、その証明を請求の段階で請求人に要求することは不能を強いるに等しく、論理的にも矛盾を含む要件設定である。
 再審は上訴審と異なり、新証拠をもって確定判決を覆すものであるから、証拠の新規性は外すことのできない実体的要件であるが、無罪証明力を予め要求すべきでなく、この要件は削除したうえで、一本化された再審公判の中で請求人が提出した証拠の新規性について併せて審理すれば足りる。
 しかも、証拠の新規性についても「発見」という要素を重視すると、再審の成否を幸運な偶然に委ねることになり適切でない。新規性とは「発見」の新規性でなく、「使用」の新規性ととらえるべきである。従って、判決確定前に発見されていた証拠であっても、確定審級までに証拠調べの対象とされなかった証拠であればなお新規の証拠と言えるのである。
 そして、その新証拠を加味して確定判決の当否を再検討したときに有罪の結論を導くには合理的な疑いが発生すれば改めて無罪判決が言い渡されることになる。

pencilなお、再審は非常救済手続きとしての性格を持つ以上、当事者主義構造である必要はなく、職権主義構造でさしつかえない。従って、通常の審理における訴追側に相当する当事者は関与せず、裁判官と請求人(及び弁護人)の二面構造となる。
 この点でも、日本の刑事再審では検察官が請求人の対立当事者として関与するため、確定有罪判決を維持する目的から、検察官は再審開始決定に対して、多くの場合上級審への異議申し立てに及ぶ。それによって冤罪救済が著しく遅延するのである。
 他方で、請求人が再審裁判所での再度の有罪判決に対して上告する権利は保障されなければならない。この場合は、上述した事実誤認を理由とする上告の禁止に例外を設け、再審裁判所の判決に対してだけは事実誤認を理由とする上告を認めることになる。

2012年7月20日 (金)

犯罪と非処罰(連載第45回)

40 情況証拠・共犯者証言・被害者証言

pencil被告人の自白のような直接証拠が存在しない場合に訴追側が被告人の有罪を立証するには間接証拠としての情況証拠を使用する必要がある。情況証拠は個々的には高い証明力を持たないが、多くの情況証拠を累積させていくことにより、総和的ないし相乗的に被告人の有罪を立証することが可能になるとされる。
 しかし、情況証拠の単純な積み上げによる立証は、いくつかの情況に照らして犯人は被告人以外にないという消去法に基づく立証であって、合理的な疑いを超える程度にまで積極的に被告人の有罪を立証しなければならない「高度蓋然性原則」の要求を満たすことはできない。
 情況証拠の使用は、自白という直接証拠が再び“証拠の女王”に復位してしまわないためにも過度に制約すべきでないが、裁判所が情況証拠だけで被告人を有罪とするには情況証拠の中に少なくとも一つは直接証拠に匹敵するほど高度の蓋然性を持つ証拠が含まれていなければならないというルールを明文をもって定めるべきである。
 こうした高度蓋然性証拠は科学捜査の発達に伴い増加してきているが、なかでも指紋やDNA型のように個人の同一性を高度に識別し得る証拠は有望なものである。しかし、それらの証拠を抽出するための科学鑑定は厳格なプロトコルに従って実施されたものでなければならないことは前にも述べたとおりである。
 そのようにして厳密に抽出された高度蓋然性証拠であっても、それは決して絶対的なものではなく、同じ証拠の蓋然性が要証事実によって変化することがある。例えば住居侵入・殺人事件の場合、被告人の指紋が被害者宅から検出されたことは、住居侵入との関係では高度蓋然性証拠たり得るが、殺人との関係ではそうでない。
 さらに要証事実の具体的な内容いかんによって証拠の蓋然性の程度が変化することもある。例えば、先の例で被告人と被害者が知人同士で被告人が事件の前にもたびたび被害者宅を正当な用向きで訪問していたとなると、被害者宅で被告人の指紋が検出されても不思議はなく、住居侵入との関係でも高度蓋然性証拠とは言えなくなる。
 このように情況証拠の蓋然性の程度は要証事実自体またはその内容によって相対的に定まるものであることに留意する必要がある。

pencil被告人の自白が存在しない場合、共犯事件では被告人の犯行を認める共犯者の証言を使用する立証方法が有効であり、実際よく用いられる。
 しかし共犯者はしばしば自らの責任を軽く見せるために無実の第三者を讒言して引っ張り込んだり、主犯としての責任を他の共犯者に押し付けたりする誘惑に駆られやすい。とりわけ訴追免責を制度化した場合には、その危険は大きなものとなる。
 そこで、被告人の犯行を認める共犯者の証言には、被告人本人の自白の場合に準じて補強証拠を必要とするというルールを明文化すべきである。
 ただし、共犯者Aの証言をもう一人の共犯者Bの証言で補強することは認められない。こうした場合、AとBは共に被告人を引っ張り込んだり、主犯としての責任を押し付けようとしたりしがちである点で共通の利害関係を有するからである。従って、共犯者証言の補強証拠たり得るのは別種の物証や情況証拠、あるいは共犯者以外の第三者の証言といったものである。

pencilでは、自白はもちろん、有力な情況証拠も共犯者証言もないが、被告人を犯人と認める被害者の証言だけがあるという場合、その被害者証言を唯一の証拠として被告人を有罪とすることは許されるであろうか。
 この場合、直接被害を受けた被害者の証言は犯行の目撃証言でもあるから、直接証拠であって、その内容が信用できる限りこれを唯一の証拠として被告人を有罪とすることに何らの障害もないように思えるかもしれない。
 しかし、自称「被害者」が他人を陥れるために架空の犯罪事実をでっち上げたような場合は論外としても、被害者が恐怖心や動転などから犯人像を見誤ることもあり、被害者の証言のみで有罪判決を下すことにはなお危険が伴う。
 そればかりでなく、被害者の証言を唯一の証拠として有罪判決が下されるとなれば、起訴事実を争う被告・弁護側にとって被害者証言の信用性を切り崩すことが最大の戦術となるから、被害者は公開の法廷で被告・弁護側の厳しい反対尋問にさらされることは避けられない。このことは、実際、被害者証言以外に証拠が存在しないという事態が発生しやすい性犯罪の被害者にとっては大きな苦痛となるだろう。
 そこで冤罪防止と被害者の尊厳保持の要請を両立させるためにも、被害者証言には補強証拠を必要とするというルールを明文で定めるべきである。

2012年7月19日 (木)

犯罪と非処罰(連載第44回)

39 証拠の適格性

pencilベッカリーア三原則の一つである証拠裁判主義は神託や王命でなく「証拠」に基づく裁判を目指す近代司法上の鉄則として定着しているが、そこで言う「証拠」とはいかなる証拠でもよいのではなく、適格性を持った適正な証拠、すなわち証拠能力を備えた証拠であることを要し、そうした証拠能力を欠く証拠は予め排除されなければならないという「排除法則」は比較的新しい派生原則である。
 こうした排除法則とは、たとえ証明力を十分備えた証拠であっても、違法捜査に基づいて収集・取得された証拠は正当な証拠として認めないことによって無罪判決の可能性にさらすという形で、違法捜査を行った捜査機関に間接的なペナルティーを科そうというルールである。

pencilこの点、自白に関して日本国憲法38条2項が「強制、拷問若しくは脅迫による自白又は不当に長く抑留若しくは拘禁された後の自白は、これを証拠とすることができない。」と定めているのも、自白に関する排除法則(自白法則)の表れである。
 しかし、これだけでは全く不足であり、被疑者取調べへの弁護人同席権を保障するためには、弁護人の同席なしになされた自白についても証拠としての使用を禁止しなければならないことは、前に見たとおりである(第25章参照)。

pencilさらに、排除法則は物的証拠についても及ぼされる必要がある。すなわち違法に収集・取得された物的証拠は証拠能力を欠くものとして排除されることについても、明文の規定が必要である。
 もっとも、ごく軽微な違法についてまで問題視する必要はないから、捜査官の過失により形式的な手順を誤ったにすぎないような場合は証拠として救済してよいだろう。この点に関して、物的証拠にかかる排除法則の明文規定を欠く日本の最高裁判所が「令状主義の精神を没却するような重大な違法」があるような場合にしか証拠の排除を認めようとしないのは、原則と例外を逆転させた本末転倒と言わざるを得ない。

pencilいずれにしても、排除法則を厳格に適用すれば、証拠が排除されていなければ有罪が立証されたかもしれない者が無罪となるケースが相当出てくるであろう。このことは端的に言って、真犯人に無罪宣告が下る事態の多発化を意味している。
 このような事態は応報刑論的な必罰主義の立場にとっては耐え難いことであろうし、「非処罰」の構想の下でも本来何らかの処遇を受けるべき者が無罪となって何らの処遇も受けず放置されることは望ましいはずもないのであるが、こうした由々しき事態を避ける方法は簡単である。すなわち捜査機関が適正手続きを厳格に遵守して各種証拠を収集・取得すること、これに尽きる。

2012年7月18日 (水)

犯罪と非処罰(連載第43回)

38 証拠開示について

pencil訴追側の手持ち証拠を公判開始前の段階で被告・弁護側に開示する証拠開示は、被告・弁護側の争点形成を助け、ひいては冤罪を防止するために不可欠のプロセスである。
 しかし検察制度が存在する限り、証拠開示は決して万全なものとはならないだろう。なぜなら検察官は公訴を提起した事件については有罪判決の獲得を目指す以上、自らに不利な証拠、あるいはもっと積極的に被告・弁護側を利する証拠の開示には容易に応ずるはずがないからである。
 もちろん全面的証拠開示を制度化することはできるが、そうした制度の下ですら検察官は証拠の隠匿や改変にさえ及ぶこともあり得る。そのような不正行為に対する罰則を強化したとしても、根本的な解決とはならない。よって、効果的な証拠開示制度を創設するにも、検察制度の廃止こそが効果的なのである。

pencilとはいえ、検察制度を廃止したとしても、事件に関する重要証拠の大半が警察を中心とした捜査機関の元に集中することに変わりはない。そこで捜査機関は捜査終了後、反面捜査によって収集された被疑者に有利な証拠も含めて事件の全証拠を第一審裁判所へ送致し、送致を受けた裁判所でそれらの証拠を保管しなければならない。
 ただし、公判担当裁判官が事件について予断を抱くことのないよう、証拠の保管は公判担当部とは別の部によって中立的に行われる必要がある。この点、正式裁判の対象事件の場合は、公判前の手続きをセットする公判準備部(第32章参照)が担当する(簡易裁判手続きの場合は、簡易裁判所の証拠係裁判官が担当する)。
 公判準備部は訴追弁護士による正式起訴後、まずは訴追弁護士に対して保管中の証拠の閲覧・謄写・撮影を認めるが、その後で被告人・弁護人に対しても同様の機会を平等に保障する。こうした証拠の保管と開示の事務を適正に行うため、公判準備部には証拠管理専従の裁判官が配置される。

pencilこのように裁判所が事件の証拠の保管及び開示に全責任を行うやり方は職権主義的ではあるが、これも被告人の防御権を強化し訴追側との実質的な対等性を確保する当事者主義の担保としての職権主義であって、やはり当事者主義と職権主義との止揚場面の一つと言えるのである。

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