〆〈反差別〉練習帳

2012年2月26日 (日)

〈反差別〉練習帳・目次

本連載は終了致しました。下記目次各「ページ」(リンク)より個別記事をご覧いただけます。
※なお、現在、別ブログにて『差別克服講座』を連載中です。併せてご覧ください。

まえがき ページ1

理論編
一 差別とは何か 
ページ2 ページ3
二 差別の要因 ページ4 ページ5
三 国民国家と差別 ページ6 
四 差別に関する行為類型 ページ7 
五 差別と言葉 ページ8 ページ9 
六 差別克服のための視座 ページ10
七 反差別教育 ページ11 ページ12
八 差別救済のあり方 ページ13 ページ14

実践編
はじめに 
ページ15
レッスン1 容姿差別 
 
例題  ページ16 ページ17
 まとめと補足 ページ18
レッスン2 障碍者/病者差別 
 例題 ページ19 ページ20 ページ21
 まとめと補足 ページ22
レッスン3 人種/民族差別
 
例題  ページ23 ページ24
 まとめと補足 ページ25
レッスン4 外国人差別
 例題 ページ26 ページ27
 まとめと補足 ページ28
レッスン5 犯罪者差別
 例題 ページ29 ページ30
 まとめと補足 ページ31
レッスン6 職業差別
 例題 ページ32 ページ33
 まとめと補足 ページ34
レッスン7 同性愛者差別
 例題 ページ35 ページ36 ページ37
 まとめと補足 ページ38
レッスン8 性差別
 例題 ページ39 ページ40 ページ41 ページ42 ページ43
 まとめと補足 ページ44
レッスン9 能力差別
 例題 ページ45 ページ46
 まとめと補足 ページ47
レッスン10 年齢差別
 例題 ページ48 ページ49 ページ50
 まとめと補足 ページ51

2012年2月25日 (土)

〈反差別〉練習帳(連載最終回)

実践編

レッスン10:年齢差別

〔まとめと補足〕

 例題を通じて見たように、年齢差別は未成年者に対する差別と高齢者に対する差別とに分かれる。後者の高齢者に対する差別も、厳密に言えば老齢者に対する差別と就職上の年齢差別に見られるように相対的な高年者に対する差別に分けることができる。
 いずれにせよ、年齢差別という現象は、人が早熟早死の時代で、また今でもそういう状況下にある社会では表面化してくることはない。なぜならそのような時代ないし社会では未成年期は短く、また高齢者は例外的な福寿者にすぎないからである。
 従って、年齢差別は人の寿命が延び、比較的長い未成年期と極めて長い高齢期―「前期」と「後期」に分類されるほどの―を経験するようになって初めて顕在化してくる長寿社会の差別現象と言える。
 こうして年齢差別は一つ前のレッスン9で見た能力差別の応用分野という位置づけにある。なぜなら年齢の高低は能力の高低と相関関係にあると考えられているからである。未成年者の場合は未熟による能力不足、高齢者の場合は老化による能力低下が差別の根拠となっているのである。
 ただ、すべての差別に通低する視覚的表象による差別という本質が年齢差別にも備わっている。例題でも取り上げたように、アンチ・エイジングという語は、その反面において「しわくちゃ」「よぼよぼ」の老齢者の容姿を蔑視している。
 また女性(場合により男性も)の就職における年齢差別には、より明白に(相対的な)高年者に対する容姿差別の要素が認められるのであった。
 これに対して、未成年者に対する差別には容姿差別の要素は希薄なように見える。しかし、ここでも未成年者は一般に身体が小さく、容貌も幼いことへの見下しの視線が一定は認められるのである。
 このように年齢差別は能力差別的要素と容姿差別的要素とが交差する領域でもあると言える。そこで、その克服には能力差別とともに容姿差別について述べたところがあてはまる。
 表象という観点から見ると、未成年者と高齢者とが差別されることは、年齢に関しては青壮年の成人が最も賛美されることの反面的な結果である。結局のところ、―おそらくは世界中で―「青壮年の美男子」が人間の理想型として表象されているのである。その理想型から外れていればいるほどに差別の標的となりやすいと一般的には言えるであろう。
 とすれば、差別の克服にとって、こうした幻惑的な表象への束縛から人間をいかにして自由にすることができるかということが課題となる。ここで、理論編命題26で見た「内面性の美学」と「全盲の倫理学」をもう一度思い起こして練習完了としよう。(連載終了)

2012年2月24日 (金)

〈反差別〉練習帳(連載第50回)

実践編

レッスン10:年齢差別(続き)

例題3:
認知症が進行して認知機能が著しく低下した高齢者に対して、幼児のように接することは差別的だと思うか。

(1)思う
(2)思わない
(3)わからない

 かつては「痴呆症」などと差別的な学術・行政用語で呼ばれていた老人性疾患が「認知症」という品格ある用語に変更されても、高齢者への虐待は絶えないようである。こうした虐待は「差別」というよりも「人間の尊厳」の問題としてとらえるほうが適切なようにも思える。
 しかし、高齢者虐待という態度のうちには、身の回りのことを自力でこなす能力を喪失した要介護高齢者に対する蔑視が含まれており、その観点からはこれを高齢者差別の問題としてとらえることができるだろう。
 もっとも、本例題は虐待そのものではなく、認知症の進行した高齢者に幼児のように接する態度の是非という応用問題である。
 虐待の多くは家庭内で発生するのに対し、幼児のような接し方は老人ホーム等の介護職員の態度にしばしば見受けられる。施設によっては「お遊戯」のようなまさに幼児的なプログラムを「ケア」の一環として取り入れているところも散見されるようである。
 こうした高齢者の幼児扱いは子どもに返った高齢者に対する「優しい」接し方として案外専門家によっても容認されているように見える。
 しかし、表面上幼児のようになっているとしても、それは認知症という病気のゆえであって、近年の知見によれば認知症でも知的機能や感情はかなりの程度残存しているとも言われ、本当に幼児返りを起こしたわけではなく、高齢者が長い人生を刻んできた成人であることに変わりない。
 そういう成人を幼児扱いすることは、それがいかに「優しい」態度であっても、そこには能力を喪失した高齢者への見下しの視線が伏在してはいないだろうか。これはちょうどレッスン2で見た「障碍者への同情」という態度にも通ずる利益差別の一形態ととらえることも可能である。
 このような結論には疑問を感ずる向きもあるかもしれない。たしかにこれは難問であるから、以上が唯一の正答というわけではない。各自でさらに省察を深めていただきたい。

例題4:
[a] アンチ・エイジングは人間の理想だと思うか。

(1)思う
(2)思わない

[b] ([a]で「思う」と回答した人への質問)その理由は何か(自由回答)。

 昨今はアンチ・エイジング流行りであるが、アンチ・エイジングを差別との関わりで引き合いに出すことをいぶかる方もあるかと思われる。
 しかし、アンチ・エイジングとは単なる「老化防止」とは異なり、文字どおりにとれば「反老化」であって、老化に対して明確に否定的な価値観に立った美容健康の理念と実践である。
 もっとも、アンチ・エイジングを広義にとると、内臓の健康や精神的な若さを保つといった「内面」の反老化を含むとも考えられるが、世上アンチ・エイジングは容姿の若さを保つという「外面」の反老化に圧倒的な比重が置かれている。[b]の設問で尋ねたアンチ・エイジングを理想とする理由としても、「見た目の若さをいつまでも保っていたいから」といった理由が多いのではないだろうか。
 例題1でも若干示唆したように、高齢者はその容姿の衰えを醜悪なものとして蔑視されるのである。「しわくちゃ」といった形容はその典型的な差別語である。また「よぼよぼ」といった形容も、基本的には足腰の衰えを蔑視するものではありながら、同時にそういう衰えた容姿を蔑視する表現でもある。
 アンチ・エイジングという語も、これを差別語と断定すると反論があるかもしれないが、この語は少なくともその反面において高齢者を差別するニュアンスを含んでいるので、反面差別語には当たると考えるべきであろう。
 もっとも、当の高齢者自身がアンチ・エイジングを実践しているならばどうなのだろうか。これはレッスン1でも取り上げた美容整形の問題と類似している。そこでは自身の容姿を醜いとみなして美容整形するのは自己差別であると論じた。同じように、自らの「しわくちゃ」「よぼよぼ」の将来的な容姿を醜いと感じ、アンチ・エイジングに励む高齢者も一種の自己差別を実践しているわけである。
 例題では尋ねていないが、設問[a]でアンチ・エイジングを人間の理想とは思わないとする人の理由は何であろうか。答えはいろいろあり得るが、人間は年相応の容姿を持っていても恥じる必要はないということであろうか。大切なのは「外面」よりも―内臓も含めた―内面である、と。
 とすれば、これも理論編で見た「内面性の美学」に帰着することになる。つまり、差別の問題とは容姿差別に始まり周回して再び容姿差別へ立ち戻ってくるものなのである。

2012年2月23日 (木)

〈反差別〉練習帳(連載第49回)

実践編

レッスン10:年齢差別(続き)

例題2:
[a] あなたはおよそ未成年者に選挙権を与えない現行選挙制度は正当だと考えるか。

(1)考える
(2)考えない

[b] あなたは未成年者でも殺人などの重罪を犯した者は、成人並みに処罰されるべきだと考えるか。

(1)考える
(2)考えない

 年齢差別というと、通常は高齢(高年)者差別であるが、反対に未成年者差別という問題もある。もっとも、これを「問題」と認識するかどうかが一つの問題であって、例題2はそのことに関わっている。
 基本的な権利の上で未成年者と成年者とを最も大きく隔てているのが選挙権の有無である。現在の日本の選挙制度では、例外なく未成年者に選挙権を与えていない。このような選挙制度のあり方は果たして正当なのだろうか。
 おそらく現時点では、正当との回答が大方かと思われる。その理由として、未成年者は未熟であり、政治的な判断能力を欠いているからという「能力」問題が挙がってくるだろう。
 しかし果たしてそう断言できるものだろうか。たしかに10歳の子どもに選挙権を保障しないことにほとんど異論はないだろうが、20歳に1年足りないだけの19歳の「青年」―そう呼んでさしつかえないだろう―に選挙権を保障しないことを合理的に説明できるだろうか。19歳と20歳とで、政治的な判断能力に0と100の違いがあるとはとうてい考えられまい。
 そうだとすると、現行選挙制度がおよそ未成年者に選挙権を与えないことは、未成年者=政治的無能力者といった決めつけに基づく差別と言ってよいように思われる。極論すれば、政治・経済について非常によく学んでいるませた15歳のほうが、政治的に無関心・無知な51歳よりも政治的な判断力を備えているとみなすことすらできるだろう。
 もっとも、それでは何歳以上の未成年者に選挙権を保障すべきかということになると一義的な答えは見出せない。これについては立法政策に委ねるほかない。
 ちなみに、被選挙権に関しては、日本の公職選挙法はその下限年齢を25歳(参議院議員と都道府県知事については30歳)としている。被選挙権は公職選挙に立候補して議員や首長に就任する権利であるから、より高度な政治的判断能力と活動能力とが必要とされ、成年者であってもそうした能力に欠けるとみなされる24歳以下のいわゆる若年成人には被選挙権を与えないという趣旨である。
 しかし、被選挙権についても果たして一律にそう決めつけてよいのか、場合によっては(例えば市町村議会議員の場合)未成年者にさえ被選挙権を与えてよいのではないかという疑問もあり得るところであるが、この問題に深入りすることは避けたい。
 一方、[b]の設問は[a]とは異なり、刑罰の強制という法的義務の側面における未成年者の取扱いを問うものである。
 現在、罪を犯した未成年者については、基本的に少年法が適用され、刑罰に代えて保護処分という教育的な処分が科せられるが、これは未成年者が人格的になお成長途上にあり、改善更生の可能性が高いことを考慮して刑罰を免除し、より教育的な内容の処分を科す趣旨である。
 これが[a]の設問とどう関わるかと言えば、[a]の設問に対して、「未熟」を理由に未成年者に一律に選挙権を与えないことを正当と考えながら、[b]の設問では一転未成年者でも重罪を犯せば成年者並みに扱うべきことを要求するのは一貫しないのではないかということである。
 つまり、子どもは子どもとして扱うというならば、法的権利に関しても法的義務に関しても同じでなければならず、法的権利については子どもとして扱いながら、法的義務については大人として扱うというのは、まさに大人のご都合主義と言わざるを得ないだろう。
 この点、近年の日本社会では少年犯罪に対する厳罰化論が盛んになり、16歳以上の少年が故意の犯罪行為によって被害者を死亡させた場合には、原則として刑罰を科するという法改正もなされた。この改正法は、原則的に刑罰を科する年齢と罪種とを限定したうえで、なおかつ例外的に保護処分を科す余地も認めているとはいえ、選挙権は未成年者に一切与えていないことを考えると疑問が残る。
 これに対して、[a]の設問で未成年者に一律に選挙権を与えないことを不当としつつ、[b]の設問では選挙権を有する未成年者が重罪を犯したときは成年者並みに刑罰を科することを肯定するならば、それは一つの見識と言えるかもしれない。
 ただ、そう考えた場合でも、人格的な成長途上にある未成年者を一律に成年者並みに処罰するわけにもいかないので、個別的な事情によっては刑罰に代えて保護処分を科する余地はなお認められるべきであろう。そのような方向で未成年者の未熟さを考慮することは、もちろん差別には当たらない。

2012年2月22日 (水)

〈反差別〉練習帳(連載第48回)

実践編

レッスン10:年齢差別

例題1:
[a] 雇用に際して年齢に上限を設けたり、年齢の若い者を優先採用したりすることは合理的だと考えるか。

(1)考える
(2)考えない

[b] 雇用における定年制はあったほうがよいと考えるか。

(1)考える
(2)考えない

 設問[a]は雇用の領域における典型的な年齢差別の事例である。現にこのような差別を受けて職が見つからず、生活難に陥っているという切実な方も少なくないと思われる。
 それにしても、なぜ雇用上の年齢差別が根絶されないのだろうか。そのわけは、[b]の定年制にある。
 おそらく設問[a]で年齢差別的な雇用慣行に否定的な回答をした人の多くも、設問[b]では従来雇用慣行として確立されてきた定年制には肯定的な回答をするのではないだろうか。しかし、それは果たして一貫した論理と言えるだろうか。
 実のところ、定年制自体が年齢だけを理由に一律に労働者に退職を強いる差別的な制度である。ここでは高齢者=職業的無能力者という能力差別的な決めつけもなされているわけである。
 そして、こうした年齢‐能力差別的な定年制を土台として、[a]のようないわゆる現役世代に対する年齢差別慣行も成り立っているのであるから、定年制を合理的と考えるならば、定年に近い年齢であればあるほど採用されにくいという現実は受け入れざるを得ないことになる。
 定年制を合理的と考える理由として、定年制がなければ老人がいつまでも居座ることによって、新卒者の就職が困難になるという問題が挙げられる。
 たしかに一理あるが、逆に新卒一斉採用‐定年制という画一的な雇用慣行―これは日本社会では強固に定着している―のために、新卒で就職を逃すと、年齢が上がるほどに[a]のような年齢差別を受け就職が困難となり生活も成り立たないという問題が生じてくる。
 それを考えると、定年制を廃止し、もって年齢差別的雇用慣行全般を廃したほうが、人生設計に柔軟性が生まれ、すべての人にとって有利なはずである。
 この点、近時は年金財政の逼迫を背景として、年金受給開始年齢引き上げの代償としての定年制廃止論も起きている。しかし、これは当面の財政経済事情に対応するための「対策」レベルの話であって、「誰もが年齢にかかわりなく就労できるようにする」という雇用における年齢差別解消策とは全く異質の論である。
 これでは形の上で定年制が廃止されたとしても、高齢者の雇用は多くの場合、低賃金の不安定労働にとどまり、無年金を補うだけの効果は得られないであろう。
 ところで、定年制を廃止してもなお残存するかもしれないタイプの年齢差別がある。それはとりわけ女性の雇用に際しての年齢差別である。この場合は、若い女性に囲まれて仕事をしたい男性管理職層の欲望が根底にあり、その本質はレッスン8で取り上げた性差別である。
 ただ、職場によっては男性の採用に際しても、中高年者より見栄えの良い若い男性を優先採用する慣行を持つところもあり得るが、そうした場合も含めてとらえれば、こうした定年制と無関係の年齢差別はレッスン1で見た容姿差別の問題に帰着することになろう。
 後に別の角度から再検討するが、高齢(高年)者は能力ばかりでなく、容姿の衰えという観点からも差別される存在なのである。

2012年2月18日 (土)

〈反差別〉練習帳(連載第47回)

実践編

レッスン9:能力差別

〔まとめと補足〕

 能力差別という問題は、そもそもそれを「差別」と認識すること自体が困難なテーマである。能力は人間に対する正当な評価基準であるから、有能/無能で人間を分けることは差別などではなく、正当な選別(=選抜)だというわけである。
 しかし、能力差別をめぐっては、一般的に無能をあげつらう言葉として、「馬鹿」「阿呆」「低能」「のろま」「まぬけ」「ぼけなす」等々の差別語が豊富にあるし、知的障碍者に対しても「白痴」「知恵遅れ」などの差別語があり、レッスン1の容姿差別に匹敵するほど差別語の宝庫となっている。能力差別は厳然として存在するのである。
 ところで、能力とは人間の抽象的な属性でありながら、能力差別でさえ視覚的表象と無縁でない証拠に、「馬鹿面」とか逆に「利口そうな顔」などの能力を視覚化した差別語ないし反面差別語も見られる。
 こうした能力差別は、日常「差別」として認識されることが少ないわりに、究極的には優生思想とも結び合って、すべての差別事象の根底をなすものである。最終的にすべての被差別者は、何らかの形で「無能」の烙印を押されるのである。
 理論編で見た差別の体制化としてのファシズムの中でも極限を見せてくれたナチスが、社会淘汰論とともに強固な能力主義・エリート主義の綱領を携えていたことは、決して偶然ではなかった。ナチスは25か条綱領の中で、「有能かつ勤勉なすべてのドイツ人に、より高度な教育を受けさせ、もって指導的な地位に進ませるために、国家は国民教育制度全般の根本的な拡充について、考慮を払わなければならない」(20条)と謳っていたのである。
 この一文の「ドイツ人」を「日本人」に置き換えてみると、そのまま日本の能力主義者のスローガンとしても使えるのではないだろうか。
 ちなみに、ナチスの上記綱領では、先に引いた部分の後に、「我々は、身分または職業のいかんを問わず、貧困者の両親を持ち、精神的に特に優れた資質を持つ児童の教育を、国庫負担により実施することを要求する」とも付加する。
 これを読むと、一見して貧困家庭子弟にも開かれた教育機会の均等化を掲げているように思えるが、ここでも、ナチスが目指すのは「精神的に特に優れた資質を持つ児童」―それは知的にも優れていることを前提とする―の国家による選抜エリート教育なのである。
 理論編で近代的差別の三源泉として指摘した第一のもの、優生学やそれを支える社会進化論は、角度を変えてみれば、能力差別の正当化セオリーであるとも言える。そうであればこそ、優生学の祖ゴルトンも「遺伝的天才」を称揚し、試験による天才の選抜といった構想も打ち出していたわけである。
 それでは、能力差別の克服のためにはどうしたらよいだろうか。おそらく「何事かができる」ということを言い表す「能力」という概念そのものを廃棄することはできないだろう。しかし、「能力」という概念を人間を査定・選別する指標として用いることをやめることはできる。
 元来、「能力」は相対的である。それは試験を例に取るとよくわかる。ある試験で何点を合格点とするかによって、優等/劣等の基準は著しく変わってしまう。そこで、偏差値のように全体における相対的な位置づけを示す指標が持ち込まれるが、これはもはや相対性の極致である。
 また、ある分野では高い能力を示す人が別の分野では低い能力しか示さないということは、ありとあらゆる分野で高い能力を示す「超人」など現実には存在し得ないことからして、ごく普通のことである。
 こうしてみると、「能力」などというものは、ごく限られた分野における相対的な技量の度合いを評価する指標にすぎないことがわかる。
 「何事かが他人よりできる」ということはもちろん悪いことではないし、それは称賛や名声を獲得する手がかりともなるが、そのことを「能力」という相対概念によって査定・選別対象とする必然性はない。
 知能指数のようにやむを得ず能力の科学的指標化を行う場合でも、例題2に関連して指摘したように、それは知的障碍の発見と適切な療育へ結びつけるための手段として位置づけられるべきであろう。
 ただし、一つ現状ではどうしても「能力」による査定・選別を廃止できない理由があるとすれば、それは次のことである。すなわち、資本主義経済は人間の労働能力に対して金銭評価をせざるを得ないということ、要するに労働力の商品化である。これは、理論編で近代的差別の三源泉の第三のものとして指摘した近代経済学とも密接に関連してくる。
 資本企業が労働者の労働能力を査定するのは、できる限りそれを厳しく過小評価して賃金を抑制したい狙いを込めてのことであるし、学校の成績評価ですら、それは専ら将来の労働力としての値段に関わる優劣評価の意味を帯びている。
 そうすると、差別につながるような「能力」概念の利用を廃するためには、資本主義そのものの廃止も必要なのであろうか━。この問いはもはや本連載の論題に収まり切らないため、保留としておきたいと思う。

2012年2月17日 (金)

〈反差別〉練習帳(連載第46回)

実践編

レッスン9:能力差別(続き)

例題3:
あなたは、社会の指導層にはエリートとして選抜・育成された者が就くべきだと考えるか。

(1)考える
(2)考えない

 日本社会では「学力」の優れた者から選抜・育成された少数のエリートが社会を指導するという体制が当然のものとして受け入れられてきたが、近年はどうであろうか。
 かねてエリート中のエリートと目されてきた国家官僚への風当たりは強まっているし、「お医者様」と崇められてきた医師に対しても、医療過誤を厳しく問う動きも出てきている。「エリート」に対する日本人の意識にも変化が見られるようである。それでもなお、日本社会では「エリート」という外来語を肯定的な文脈で使用する習慣が残されていることは間違いない。
 この「エリート(elite)」という語は、海外の民主的な諸国では、エリートでない一般大衆をエリートの指導に服すべき存在として劣等視する階級差別的なニュアンスを含む反面差別語とみなされるようになっているため、少数の者をエリートとして選抜・育成する「エリート教育」そのものに否定的である。
 しかし、日本ではいまだ「エリート」に対する幻想が残るため、学校教育でも「学力」向上を自治体ごとに競わせるような無意味な風潮が近年かえって強まる逆行現象も見られ、学力競争を通して人生前半で人間をふるいにかけ、エリートとノン・エリートとを選別するという発想自体は、いわゆる新自由主義的な優勝劣敗思想の流行とも絡み合って、強まりこそすれ弱まってはいない。
 しかし、こうした学力=学歴差別的社会システムは、多数の人たちの人生の選択肢を狭める一方で、エリートとして選抜された少数の者の特権を強め、かえって特権の上にあぐらをかいた“無能”を招来しているという皮肉な現実に気づく人も増えていることが、「エリート」に対する近年の日本人の意識の変化に現れているように見える。
 それによって、日本社会も次第に旧来のエリート信奉から覚めようと模索している最中なのかもしれない。そういう意味でも、近年盛んな官僚批判などの新たな動向を、単なる感情論的なバッシングに終わらせないようにしたい。

例題4:
あなたは、各界各分野で高い能力を示す者は裕福な暮らしができて当然だと考えるか。

(1)考える
(2)考えない

 これは「エリート」という観点とは別に、およそ何らかの分野で有能さを証明した者には、高い報酬や年金等が与えられ、裕福な暮らしが保障されるという能力階級制の是非を問う例題である。
 この点、特権的なエリート支配には否定的な人の中にも、実質的に証明された能力に応じて裕福な暮らしが保障される能力階級制ならば賛成できるという人が少なくないかもしれない。
 このような能力至上の考え方は、新自由主義の思潮の中では、経営であれ、労働であれ、およそ市場的競争に打ち勝つ能力のある者の優越的な価値を強調する社会淘汰論の隆盛という形で近年のモードとなっている。
 特に、企業労働の分野では、従来賃金体系の主要な尺度であった「年功」に代わって、「能力」を基準とする能力給制や「成果」に応じた成果給制が導入されるようになってきた。
 また、近年大きな社会問題となっている非正規労働に関しても、露骨に言われることは少ないにせよ、「能力の足りない者は非正規労働力として低賃金に甘んじてもやむを得ない」という能力差別的な正当化理由が裏に隠されているため、なかなか本質的には解決されないのである。
 例題の質問は、「無能な者は困窮してもやむを得ないと考えるか」と直入に問うてもよかったのであるが、このように問うと、能力階級制を肯定する見解の中にも、「セーフティーネット」による救済については容認するという立場もあり、議論がクリアでなくなるため、あえて裏から問う形にしてみた次第である。
 ところで、能力階級制を支持する理由として、ここでの「能力」とは先天的な才能とか頭脳を言っているのではなく、「努力」の成果として後天的に獲得された能力のことであるから、努力した者に裕福な暮らしが保障されるのは合理的であって、もしそうでなければ人々は努力しなくなってしまうだろうというものがある。
 先のセーフティーネット論も、相応の努力をしたけれども成果が上がらなかった者を救済し、再チャレンジのチャンスを与えるといったニュアンスで語られることが多い。
 日本人は「努力」という言葉を好むようで、能力差別が個人的な「努力」の問題に振り替えられて正当化されやすい土壌がもともとある。
 「努力」することはもちろん良いことである。ただ、見方を変えてみると、「努力」とは結果論であるとも言える。すなわち、何かに成功すれば「努力した」と評価され、失敗すると「努力が足りなかった」と非難されるのである。「努力」の度合い自体を数値化することはできないため、「努力したが失敗した」という抗弁はなかなか認められない。
 一方で、「努力しないのに幸運で成功した」とは、成功者本人がなかなか認めたがらないので、成功における幸運という要素は常に軽視されがちである。
 結局のところ、「努力」の差で能力差別を正当化するという議論は、一つの転嫁的差別であると言ってよいであろう。
 それでは、能力のいかんを問わず、皆暮らしは平等であるべきか━。釈然としない向きもあるだろうが、特定の事柄で高い能力を示す人には必ず周囲の評価・称賛、ひいては社会的名声が無形的な報酬として与えられる。
 この種の報酬は決して「平等」にはなり得ないものであるが、有能さに対する報酬としてはそれで必要にして十分だとは言えないであろうか。

2012年2月16日 (木)

〈反差別〉練習帳(連載第45回)

実践編

レッスン9:能力差別

例題1:
あなたは「天賦の才能」に恵まれた「天才」の存在を信じるか。

(1)信じる
(2)信じない

 「天才」という言葉は古来、特定の分野で人を驚嘆させるような成果を上げる人に対してよく使われる。この「天才」という言葉自体は当然にも称賛語であって、差別語ではない。また、「頭が良い」といった表現とも異なり、その反面のものを劣等視するような反面差別語とも言えない。
 ただ、細かく分け入っていくと、天才とは、例題にもあるように「賦の能」に恵まれた者を意味するから、ここでは「才能」というものが特定の人間に先天的に与えられていると観念されていることになる。こうした先天的とされる「才能」を文字どおりに天(神)の被造物と観念しない限りは、親や先祖からの遺伝の産物と観念されることになるので、「天才」という概念はその理解の仕方によっては血統・世系による差別と危険な接点を生じてくるだろう。この点で、優生学の祖・ゴルトンが「遺伝的天才」という概念を提唱し、才能の遺伝性を強調していたことは偶然ではない。
 それでも、各界を見渡すと、とりわけ芸術やスポーツといった分野では、誰がどう見ても「天才」と呼ばざるを得ない傑出した成果を上げている者が存在するではないかと問われるかもしれない。
 たしかにそうだが、しかし、そういう人たちが示している傑出した成果とは、十分な資金を投入してたいていは早幼児期から特別な訓練を施され、特定分野の技能を仕込まれたことの成果にほかならない。言い換えれば、それは訓練の施され方が他の人よりも傑出していたことの結果なのである。
 そして、そうした傑出した訓練の成果に世人が驚嘆し、高く評価したときに「天才」という称賛がなされるわけである。従って、何らかの傑出した成果がほとんど社会的な評価の対象とならないような場合―例えば、大食い競争―には、どんなに人を驚嘆させても「天才」とは呼ばれないのである。
 より一般化すれば、「才能」という概念一般が訓練の成果なのであって、しばしば錯覚されているように、先天的な能力などではない。そして、そうした「才能」のレベルが「天才」と呼ばれるまでに引き上げられるか、それとも未完のままに終わるかは、訓練のために投入された資金の量に左右される要素が強いと言ってよいのである。
 こう考えると、「天才」という言葉にいさかか幻滅を感じ、使用を控えたくなるかもしれないが、それは「能力」という概念全般について問い直す初めの一歩となるであろう。

例題2:
[a] あなたは学業成績や学歴は生まれつきの頭脳の良し悪しに関係していると考えるか。

(1)考える
(2)考えない

[b] あなたは「知能指数」という指標を信頼するか。

(1)信頼する
(2)信頼しない

 [a]は「天才」の類概念とも言える「秀才」に関わる例題である。この「秀才」は「天才」に比べれば「天賦」という観念とは距離があり、一定以上「努力」によって形成されるというニュアンスが込められている言葉である。
 しかし、一方で、学業成績の良い人や学歴の高い人に対する「頭が良い」という反面差別的な評価や、逆に「自分は頭が悪いから進学をあきらめる」といった自己差別的な言い方にも見られるように、いわゆる「学力」に関しても、先天的な「頭脳」の良し悪しが関わっているという認識は社会一般に存在する。
 この「頭脳」という観念は、天才概念における「才能」とは別に、主として知的な側面における「天賦」の能力を表しているから、同様にそれが遺伝的な産物としてとらえられる限りでは、血統・世系による差別につながる概念であると言える。
 実際のところ、「頭脳」は「才能」以上に一定の知的訓練の成果を示すものであって、その成果を表現するとされる「学力」なるものも、通常は各種の試験における点数とか偏差値のような形式化された数値にすぎないのである。
 この点、日本社会では諸外国にもまして試験の効用が過大評価されがちで、まるで試験結果が人間の頭脳の質を判定する決定的な尺度であるかのように信奉されているため、人生前半の早い時期―さしあたりは15歳前後―に専ら試験の点数によって「秀才」とそうでない者とをふるい分ける能力差別システムが強固に定着している。そしてその結果として、学歴が人生のパスポートとなる「学歴社会」が形成されてきたわけである。
 ところが、そこでは学歴が単なる形式的な能力証明と化してしまうため、かえって実質的な能力よりは卒業証書という紙切れが物神崇拝され、かえって反能力主義に転化してしまうという皮肉な現実がある。言わば、学歴が一種の形式的な身分となり、前近代の生まれによる身分と類似の機能を果たしているのである(近代的身分社会)。
 他方、[b]は「学力」よりも科学的な次元で人間の頭脳のレベルを判定する指標である「知能指数」(IQ)に関わる例題である。このIQは知的障碍の診断基準としても使用されるため、レッスン2で扱った障碍者差別にも関わってくる概念である。
 実際、「頭が悪い」という意味を込めて「○○はIQが低い」といった表現をすることもあり、IQ自体は心理学・医学の術語でありながら、差別的文脈で用いられることがあり得る言葉である。
 もちろん、IQは正式の統一的な検査によって測定される指標であるから、一応客観性のある数値とみなすことは許されようが、それをどこまで信頼するかは一つの問題である。
 知的障碍についても絶対的な定義は存在せず、IQだけで形式的に知的障碍者かそうでないかをふるい分けることもできない。IQはそれが著しく低い場合は知的障碍を疑う必要はあるが、その場合も、IQは知的障碍を早期に発見し、適切な療育を施してその人の可能性を最大限に導き出すことができるようにサポートしていくための一つの指標として活用されるべきであって、決して「知能の高い者」と「知能の低い者」とを選別するための道具として利用されるべきではない。

2012年2月11日 (土)

〈反差別〉練習帳(連載第44回)

実践編

レッスン8:性差別

[まとめと補足]

 性差別という問題は、女性差別をその歴史的な核心としながらも、そこから各例題で見てきたような現代的な派生問題が放射状に生じる構造を示すようになってきている。
 ことに問題の核心を成す女性差別に関しては一定以上の前進が見られる今日では、TG問題や両性均等割当制、登録パートナーシップ制度、独身者差別等の派生問題に論議の焦点が移ってきていることはたしかである。
 しかし、底流では依然核心としての女性差別は続いており、そのことが派生問題の領域でも、例えば性別二分法からの解放を唱える「ジェンダーフリー論」に対するしばしば激しいバッシングのような形で発現してくる。従って、女性差別という核心問題は今日なお完全には克服されていないことを再確認しておく必要はあるだろう。
 女性差別を克服するうえで根源的なネックとなるのは、それが男性の女性コンプレックスに発していることである。何しろすべての男性は女性から生まれたのである以上、男性は自らの存在そのものを女性の存在に負っているわけで、女性なくして男性という存在もあり得ないのだ。このことは、男性にほとんど矯正不能なコンプレックスを刻印する。
 しかし、このコンプレックスは男性が男性である自分自身を劣等視する自己差別へは向かわずに、西欧人の反ユダヤ主義と同様、本来自らが優越視するものの劣等視、つまり女性差別へと反転していくのである。
 こうした反転的差別がいつ頃始まったのかは詳らかでない。先史人類学の母権制仮説が正しいとすれば、先史時代には社会編成の上でも男性は女性家長の支配下に置かれ、女性に従属していたはずであるが、有史前のいずれかの時期に、男性の反転攻勢が母権制の転覆、家父長制樹立という社会革命をもたらしたと仮定できる。爾来、女性と男性の地位は逆転し、女性は男性から見下され、男性の付属品のような存在に貶められた。
 この場合もまた、視覚的表象と無縁ではない。例えば従来、人類の肉体美と言えばミケランジェロ作の有名なダヴィデ像に象徴されるような筋肉質の若い男性美が頂点にあり、典型的な女性の豊満な肉体は女性美の象徴として賛美されると同時に、それは男性美に比べて劣る、どこか滑稽で動物に近いものとして貶められてもきたのである。
 例題で取り上げた「母性」もそうであるが、女性差別の特徴は、他の差別のように激しい迫害を伴うような差別よりは、称賛し持ち上げつつ劣等視するという屈折した利益差別の形態を取りがちであるというところにある。ここに、男性のコンプレックスを土台とした女性差別の複雑な屈折性を看て取ることができる。
 一方、女性差別の克服が困難な諸国では、女性自身の自己差別がなお残存して、男性の女性差別と無意識の共犯関係に立っている可能性がある。
 よくある題材なので例題には取り上げなかったが、日本社会では「女性は男性と対等に働くよりも主婦になるべきだ」という意識が―男性の間ではもちろん―女性の間でもまだかなり残されているように見受けられる。そのことが、女性の各界基幹職への進出にブレーキがかかる要因の一つを形成しているのではなかろうか。
 根強い女性差別の克服のためには、こうした女性差別への共犯的“男女共同参画”を解消することも一つのカギとなるであろう。

2012年2月10日 (金)

〈反差別〉練習帳(連載第43回)

実践編

レッスン8:性差別(続き)

例題6:
(35歳以上の独身者に対する質問)中高年独身者に対する差別が存在すると感じたことはあるか。

(1)ある
(2)ない

 中高年独身者であるということがそれ単独で被差別理由になるかというと断定しかねるかもしれないが、従来から独身だと家を借りにくいとか、金融機関から金を借りにくいといったことは言われており、独身者は社会慣習上半人前扱いを受けるという差別はかねてより伏在しているように思われる。
 ところが近年、東京23区などで、独身者向けワンルームマンションの建設を規制する政策が推進されるなど、政策的にも独身者差別―それもこのように結果として居住権を奪うような重大な差別―が前面に立ち現れるようになったことは注目に値する。
 このワンルーム規制政策は、ワンルームの独身住民は地域の活動に参加しないとか、マナーが悪い、旧住所地から住民票を移さないため住民税が徴収できないなどの正当化理由を掲げているが、それらはどれも取って付けたような理由づけにすぎず、転嫁的差別に当たる疑いの強い政策である。
 要するに、これは独身者を社会的に半人前として劣等視し、居住規制を通じて間接的に地域社会から排除することによって、既婚者及びその家族の優越的地位を再確認しようという、前回も見た法律婚絶対主義に根差す新たな差別政策にほかならない。
 ただ、こうした独身者差別がなぜ本レッスンの主題である性差別と関連するのかいぶかる向きもあると思われる。たしかに独身者には男性も女性もいるわけであるが、独身者差別をもう少し立ち入って分析してみると、それは「女を妻帯しようとしない男」と「男に妻帯されようとしない女」に対する差別である。この「妻帯」という語が曲者であって、露骨に言えば「女を妻として所有する」という意味合いを含んでいる。
 つまり、男は女を妻として所有して一人前という女卑思想をベースに、妻を所有しようとしない(または所有できない)「男らしくない男」と、男に妻として所有されようとしない「女らしくない女」をばっさり切り捨てにするのが、独身者差別の正体なのだ。
 もっとも、社会通念上はどちらかと言えば中高年独身男性が独身者差別の最大標的となりやすいことから、独身者差別は「男性差別」の一種と解釈できるかもしれない。ただ、そう解した場合でも、それは女性差別と全然無関係なのではなく、すでに過去のものとなったはずの男尊女卑思想が「独身者差別」に姿を変えて残されているものと考えられる。
 とはいえ、近年、男女を問わず中高年独身者は急増しており、2009年度内閣府世論調査によれば、「結婚は個人の自由であるから結婚してもしなくてもよい」と考える人の割合が70パーセントに達しているとのデータからすると、日本人の保守的な結婚観にも変化の波が見られるようである。しかし、政策上は法律婚絶対主義が貫かれている日本社会では、独身者差別の克服もなかなか困難であろう。
 もっとも、例題5で取り上げたような結婚制度とは別立てのパートナーシップ制度の創設が独身者差別の解消につながるとも断言はできず、パートナーを持たない独身者への差別がなおも残存するということもあり得る。
 この点、もしも遠い将来、古い結婚制度が廃されて、パートナーシップ制度に一本化されれば、パートナーを持つか、シングルのままでいるかは社会の干渉を受けない純粋に個人の生き方の問題として定着するのではないだろうか。そうなれば、独身者が社会的に半人前扱いされるようなこともなくなるはずである。

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