〆世界歴史鳥瞰

2013年7月20日 (土)

世界歴史鳥瞰・総目次

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序論 p1 p2

第1章 東から発祥した文明
〈序説〉
一 文明の発祥 
p3
(1)文明の履歴としての歴史
(2)文字の発明
(3)都市の成立
二 古代四大文明圏の発展 p4
(1)四大文明圏の意義
(2)メソポタミア文明圏
(3)エジプト文明圏
(4)インダス文明圏
(5)黄河文明圏
三 西洋の「東方」文明 p5
(1)エーゲ文明圏
(2)クレタ文明期
(3)ミケーネ文明期
四 ギリシャ世界の盛衰 p6
(1)暗黒時代から都市国家へ
(2)アテネとスパルタ
(3)ペロポネソス戦争から衰退へ
(4)マケドニアの旋風
(5)ローマ時代へ

第2章 ローマ帝国の覇権 
〈序説〉
一 都市国家ローマ 
p7
(1)エトルリア人の先行文明
(2)都市国家への発展
二 共和制時代 
(1)共和制樹立
(2)十二表法の制定
(3)元老院と民会
三 帝国への道 p8 
(1)軍事大国化
(2)共和制の揺らぎ
(3)奴隷反乱と同盟市戦争
(4)三頭政治から「帝政」へ
四 絶頂から分裂へ p9
(1)「ローマの平和」とその揺らぎ
(2)キリスト教迫害政策
(3)寛容令から国教化へ
(4)東西分裂と西ローマ帝国の滅亡
(5)東ローマ帝国の存続と繁栄

第3章 中国王朝の興亡
〈序説〉
一 秦の統一まで 
p10
(1)春秋・戦国時代
(2)秦の台頭と統一
二 漢帝国の400年 p11 
(1)建国と新政
(2)集権化と帝国化
(3)簒奪と再興
(4)後漢の繁栄と没落
三 大唐帝国へ p12 p13
(1)魏晋南北朝時代
(2)隋から唐へ
(3)唐の支配政策
(4)開元の治と安史の乱
四 唐滅亡とその後  p14
(1)唐滅亡まで
(2)五代十国から宋へ
(3)宋金共存時代
五 古代朝鮮の展開 p15 
(1)国家形成から漢の植民まで
(2)三韓と高句麗の成立
(3)三国攻防時代
(4)統一新羅から高麗へ
六 倭王権の成立と発展 p16
(1)小国分立時代
(2)邪馬台国時代
(3)天皇王権の確立
(4)律令制とその解体

第4章 イスラーム世界とモンゴル帝国 
〈序説〉
一 イスラームの創唱 p17
(1)イラン帝国と東ローマ帝国
(2)7世紀初頭のアラブ社会
(3)最初のイスラーム革命
二 イスラーム勢力の展開 p18 p19 p20 p21
(1)アラブ・イスラーム勢力の遠征
(2)ウマイヤ朝の成立と教団の分裂
(3)アッバース朝の盛衰
(4)トルコ勢力の台頭
(5)サラディンと十字軍撃退
(6)インドのイスラーム勢力
三 モンゴル勢力の旋風 p22 p23
(1)モンゴルの由来
(2)世界征服
(3)中国王朝としての元
(4)分裂とイスラーム化
(5)ティムール帝国からムガル帝国へ
四 オスマン帝国の台頭と全盛 p24
(1)先行者マムルーク朝
(2)由来と建国
(3)版図拡大
(4)オスマン帝国の内外政策
五 高麗王朝から朝鮮王朝へ p25
(1)武臣政権と元の支配
(2)朝鮮王朝の成立と発展
六 平安朝から武家支配へ p26 
(1)平氏政権の成立
(2)幕府体制の確立と危機

第5章 ヨーロッパの形成
〈序説〉
一 独仏伊の形成 p27
(1)フランク族の台頭
(2)カロリング帝国の覇権
(3)カロリング帝国の分割
ニ イングランド・北欧の形成 p28 
(1)アングロ‐サクソン族の来住
(2)北欧バイキング
(3)ノルマン征服とその後
(4)北欧諸国の形成
三 東欧・ロシアの形成 p29 
(1)スラブ諸国の形成
(2)ロシアの形成
(3)ハンガリーの建国
(4)モンゴル・トルコの支配
四 ビザンツ帝国の盛衰 p30 
(1)ビザンツ帝国の独自性
(2)領土縮小と大シスマ
(3)十字軍と帝国転覆
(4)復旧から滅亡まで
五 西洋中世の実像 p31
(1)文明史的逆説
(2)領主支配制
(3)制度的キリスト教

第6章 ヨーロッパの巻き返し
〈序説〉
一 レコンキスタと十字軍 p32
(1)初期レコンキスタ
(2)十字軍の狂熱と打算
(3)シチリア王国の成立
(4)レコンキスタの勝利

二 「西洋近代」の黎明 p33 p34 p35 p36
(1)大航海と植民
(2)君主主権国家の成立〈1〉
(3)君主主権国家の成立〈2〉
(4)ルネサンス革命
(5)宗教改革から30年戦争へ
(6)仏宗教戦争と英国国教会

三 帝政ロシアの成立と発展 p37
(1)ロシアの自立
(2)ロマノフ朝の始まり
(3)帝政ロシアへ

四 明から清へ p38 p39 
(1)明と中国社会の変容
(2)清の成立
(3)最後の王朝・清

五 戦国動乱から幕藩体制へ p40 p41
(1)戦国動乱と「南蛮人」到来
(2)織豊政権と動乱の中断
(3)徳川幕藩体制の確立

六 イスラーム勢力の後退 p42 
(1)オスマン帝国の後退
(2)ムガル帝国の衰退

第7章 大英帝国の覇権
〈序説〉
一 英国の台頭 p43 P44
(1)先行者オランダ共和国
(2)革命の17世紀〈1〉
(3)革命の17世紀〈2〉
(4)スペイン継承戦争と七年戦争

二 アメリカ独立とフランス革命 p45 p46 p47
(1)北アメリカ植民地の形成
(2)アメリカ合衆国の成立
(3)アメリカ独立=革命の意義
(4)フランス革命〈1〉
(5)フランス革命〈2〉
(6)ナポレオンの独裁と失墜

三 資本主義と労働運動 P48 p49
(1)産業革命と資本主義
(2)労働者階級の誕生
(3)労働運動からパリ・コミューンへ
(4)パリ・コミューン以後

四 帝国主義の攻勢 p50 p51 p52 p53 p54
(1)近代帝国主義
(2)ポルトガル・スペインの後退
(3)帝国主義の展開〈1〉:参入国
(4)帝国主義の展開〈2〉:対象地域(上)
(5)帝国主義の展開〈3〉:対象地域(下)
(6)オスマン帝国の縮退

五 幕藩体制から大日本帝国へ p55 p56
(1)「鎖国」体制の限界と「開国」
(2)明治維新と「近代化」
(3)帝国主義への合流〈1〉
(4)帝国主義への合流〈2〉

六 近代中国と近代朝鮮 p57
(1)清の衰亡
(2)辛亥革命
(3)朝鮮王朝の終焉

七 第一次世界大戦と英国の斜陽化 p58 p59
(1)大戦の要因と経緯
(2)大戦の特質
(3)大戦の経過と結果
(4)トルコ革命とオスマン帝国の崩壊
(5)英国の後退と米国の躍進

第8章 アメリカ合衆国とソヴィエト連邦 
〈序説〉
一 ロシア革命とソ連邦の成立 
p60 p61
(1)革命の胎動
(2)革命の経緯と経過
(3)革命の結果
(4)革命の余波〈1〉:大戦当事国への波及
(5)革命の余波〈2〉:周辺国への影響

二 ファシズムとスターリニズムの暴風 p62 p63 p64
(1)ファシズムの発生と拡散
(2)ファシズムの展開
(3)スターリニズムの対抗

三 第二次世界大戦と米国の覇権確立 p65 p66
(1)大戦の要因と経緯〈1〉
(2)大戦の要因と経緯〈2〉
(3)大戦の特質
(4)大戦の経過と結果
(5)米国の覇権確立

四 東西冷戦の時代 p67
(1)冷戦の背景と発端
(2)東西二大陣営の結成
(3)冷戦の特質

五 日本の民主化と経済発展 p68
(1)米国の日本「民主化」戦略
(2)日米同盟と親米保守支配
(3)経済発展の真相

六 諸国の独立 p69 p70 p71
(1)アジア諸国の独立〈1〉
(2)アジア諸国の独立〈2〉
(3)中東諸国の独立とイスラエルの建国
(4)アフリカ諸国の独立
(5)島嶼地域の独立と残存植民地
(6)独立後の明暗
(7)非同盟諸国運動

七 冷戦体制の完成から終焉まで p72 p73
(1)冷戦体制への抵抗
(2)冷戦体制の完成
(3)冷戦体制の行き詰まり
(4)冷戦体制の再燃そして終焉
(5)東欧革命からソ連邦解体へ
(6)中国の路線転換

補章 ソヴィエト連邦解体後の世界  
〈序説〉
一 ロシアの混乱とチェチェン戦争 p74 
(1)経済的混乱と憲法戦争
(2)チェチェン戦争

二 外観上の米国一極支配 p75
(1)湾岸戦争と繁栄の90年代
(2)「単独行動主義」とその挫折

三 「流極化」の時代 p76 p77
(1)ヨーロッパの統合
(2)中国の急成長
(3)ロシアの「復興」
(4)四極プラス2
(5)「流極化」のゆくえ

四 「流極化」の中の危機 p78 p79 p80
(1)民族紛争の噴出
(2)イスラーム過激主義の攻勢
(3)東アジアにおける冷戦の残存
(4)核兵器の拡散

2013年7月19日 (金)

世界歴史鳥瞰(連載第80回)

補章 略

四 「流極化」の中の危機

(3)東アジアにおける冷戦の残存
 冷戦終結から20年以上を経ても、東アジアではまさに残雪のように冷戦の遺物が残されている。とりわけ南北朝鮮の分断状況である。この間、冷戦終結後1990年の韓ソ国交樹立と翌年の南北同時国連加盟という新しい展開もあったが、これはかえって南北分断を固定化する結果となっている。
 そうした中、南の韓国では80年代からの民主化運動の結果、軍部の非政治化と政権交代を伴う文民政権の定着が進み、資本主義経済大国への道を歩んでいる。一方の北の朝鮮は最大援助国ソ連を失い、経済的打撃を受ける中、94年には建国以来の指導者金日成主席が死去し、息子の金正日労働党書紀(後に総書記)が後継者となった。
 父親ほどのカリスマ性を持たない正日総書記は軍部を権力基盤とすべく憲法を改正し、軍事指導機関の国防委員会を中核とする軍事優先の体制を固め、現在の最大援助国・中国の反対をも押し切って本格的な核開発に乗り出し、東アジアの新たな緊張要因となった。
 その一方、経済は農業生産の落ち込みから、地方では飢餓の発生も伝えられ、70年‐80年代には好調であった工業生産も伸び悩み、危機的状況にある中、後ろ盾である中国の援助が生命線となっている。
 ただ、韓国における長年の民主化運動指導者・金大中が98年、大統領に就くと朝鮮との融和を目指す「太陽政策」を進め、00年には平壌で金正日総書記との歴史的な南北首脳会談を実現させ、後継の盧武鉉政権をまたいで南北融和の機運は高まったが、08年、韓国側での保守系政権への交代に伴い、南北融和も終わりを告げ、再び武力衝突を含む緊張モードに戻っている。
 また、金日成時代末期の90年から始まった日朝国交正常化交渉も、02年に平壌で金総書記と小泉純一郎首相の歴史的な首脳会談で進展するかに見えたが、同会談で朝鮮側が公式に認めた朝鮮諜報機関による日本人市民拉致の解決を巡る交渉が難航し、国交正常化は実現していない。
 なお、金正日総書記は11年に死去し、息子の正恩第一書記を中心とする体制が発足した。社会主義の枠内での実質的な世襲制というこの特殊な体制の下、朝鮮の将来はなお不透明である。
 一方、東アジアにおける冷戦のもう一つの遺物である中国・台湾の分断も不変である。しかし、中台関係は南北朝鮮とはかなり違った状況にある。
 70年代以降、国民党支配体制の下、開発独裁的手法で資本主義的経済成長を遂げた台湾では、88年に就任した李登輝総統の下、まずは国民党体制の枠内で民主化が進められ、2000年の総統選挙で長年の野党・民進党の陳水扁政権に交代した。しかし同政権は台湾独立論に傾斜したため、「一つの中国」を国是とする中国を刺激し、中台関係はかつてなく緊張した。
 ただ、中国の経済成長に伴い、中台間の経済交流は活発化しており、経済的パートナーシップとしての関係の進展が軍事的緊張を緩和する効果を果たしている。

(4)核兵器の拡散
 「流極化」の中の危機の究極は、言わば「核の流極化」と言うべき核兵器の拡散である。
 核兵器については、かねて米ソ(露)英仏中の国連五大国にのみ保有の公式の権利を認める核兵器拡散防止条約(NPT)が締結されているが、このNPT体制自体「恐怖の均衡」を核とする冷戦時代の産物にほかならなかった。しかもこの体制は、インドの公然たる核保有とイスラエルの秘密の核保有によってすでに冷戦時代から崩れていたのである。
 冷戦終結後も、98年のパキスタンの公然たる核保有に北朝鮮とイランの核開発疑惑が続き、近年はイスラーム過激派などの武装集団が小型核兵器を手にする危険も懸念されている。
 中でも朝鮮の最初の核開発疑惑に基因する94年の朝鮮半島危機では、アメリカとの間で一触即発の状況に至ったが、朝鮮側のギリギリの譲歩で、危機は回避された。
 しかし、朝鮮はその後も、深刻さを増す経済危機を相殺する国威発揚の手段として金正日体制の下で公式の核保有を宣言し、体制保証のための対米外交カードとしても利用してきた。同様の傾向は、イランにも認められる
 しかし、核戦争の現実的危険は、むしろインドとパキスタンの間にこそある。両国は共にNPT未批准の未公認核保有国であるが、宗教対立の絡む領土問題から、独立以来近親憎悪的な印パ戦争をたびたび繰り返してきた。
 隣接する両国の核保有は、「抑止」を超えて「実戦」をも射程に収めたものとみなさざるを得ない。特にインドにヒンドゥー至上主義、パキスタンにイスラーム原義主義の政権が並び立った場合に、核戦争の危険は現実のものとなろう。
 他方、イスラエルのように核保有の有無を明示しない核保有は、その不透明さという点では明示的な未公認核保有国以上に脅威となる面もある。
 こうした中で09年、アメリカ史上初のアフリカ系大統領となったバラク・オバマは反響を呼んだ「核兵器なき世界」の構想をアメリカ大統領として初めて提唱し、ノーベル平和賞を受賞した。しかし、その後、構想に沿った実質的な行動は見られず、オバマ政権はかえって核抑止力の維持に加え、限定的ながらも実戦使用の可能性すら示唆している。
 核兵器という高度科学技術商品こそ、ある意味で資本主義の到達点とも言えるモノである。資本主義総本山のアメリカ合衆国が世界で最初の、そして現に世界で最大の核保有国であるという事実は単なる偶然ではあり得ない。
 「核兵器なき世界」は資本主義そのものの転換なくして可能なのかどうか━。オバマの提起は、当人の想定―それが彼の本心だとして―を超えて、そうした大きな歴史的問いを世界に投げかけているのである。(連載完結)

2013年7月18日 (木)

世界歴史鳥瞰(連載第79回)

補章 略

四 「流極化」の中の危機

(1)民族紛争の噴出(続き)

④旧ソ連圏の民族紛争
 ソ連時代には「民族問題は解決済み」ということが公式見解とされ、国会に相当する最高会議のうちの一院は各民族代表で構成される「民族会議」と称されていたが、ソ連邦の実態はロシアを中心とする社会主義「帝国」であったから、その解体の過程で隠蔽されていた民族紛争が噴出してくることとなった。
 そうした旧ソ連の民族紛争の火薬庫は諸民族の交差点とも言えるカフカス地方周辺である。この地方では先に触れたチェチェン紛争に加え、旧ソ連から独立したグルジア内部でもアブハジアや南オセチアといった少数民族地域の分離独立をめぐる紛争とそれを巡るロシア(独立支持)とグルジアの対立・武力衝突も絡み、複雑な様相を呈している。
 同様に、旧ソ連から独立したアゼルバイジャン領内のナゴルノ‐カラバフ自治州の多数派アルメニア人が同じくソ連から独立したアルメニアへの編入を要求して92年に独立宣言し、少数派のアゼルバイジャン人と対立、アゼルバイジャン、アルメニア両国を巻き込む戦争となった。
 94年の停戦以降、未承認のナゴルノ‐カラバフ共和国は事実上アルメニアの占領下にあるが、抜本的な解決には至っていない。
 また、ルーマニア系主体のモルドヴァでは少数派のロシア人・ウクライナ人らスラブ系住民が未承認国家・沿ドニエストル共和国を建て、事実上分裂状態にある。
 中央アジアのキルギスでも独立後二度目となる2010年の民衆革命で権威主義的な政権が倒れた直後に、多数派キルギス人と少数派ウズベク人の衝突が発生し、多数の難民を生じさせている。

⑤中国の「西部問題」
 中国における民族紛争は、清の時代の18世紀に版図に収められた西部のチベット自治区と新彊ウイグル自治区を震源地とする。その意味で、これは中国にとっての「西部問題」と言える。
 ただ、この問題は今に始まったことではなく、特にチベット問題はチベットの宗教=政治上の最高指導者ダライ・ラマのインド亡命を結果した1959年の動乱以来の沿革を持つ。
 しかし、近年のチベット解放運動は中国自身がソ連邦解体後の世界で枢要な極として実力を高める中で、新たな展開を示している。
 中国が国家的威信をかけて準備していた08年北京オリンピックを控えた同年3月にチベット自治区で起きた民衆蜂起はチベット問題への世界の関心をかつてなく高めた。
 また、本来文化的には中央アジアの延長部分とも言える新彊における近年のトルコ・イスラーム系ウイグル人の解放運動―09年には中心都市ウルムチで大規模な騒乱事件が発生した―は、旧ソ連圏の中央アジア諸国の独立や一部イスラーム過激派の影響をも受けた、まさに「流極化」の中の民族紛争という一面も強い。
 これまでのところ、中国当局は圧倒的な鎮圧力をもって両自治区を抑え込んではいるが、それはロシアのチェチェン問題への対処方針と同様、根本的な解決には遠い。

(2)イスラーム過激主義の攻勢
 ソ連邦解体後の世界で、かつてイスラーム圏でも盛行した社会主義に代わって攻勢を強めているのは、反米を旗印とするイスラーム過激主義である。今日、その拠点はアフガニスタンとパキスタンに置かれている。
 その沿革は1980年代のアフガン内戦に絡んで、社会主義政権を援助したソ連への対抗上、アメリカが当時の親米パキスタン軍事政権とも組んで支援した反政府・反ソのイスラーム武装勢力にあり、アル・カーイダの指導者ビン・ラディンもサウジアラビアから参加したイスラーム義勇兵の一人であった。
 しかし、89年のソ連軍完全徹底に引き続く社会主義政権崩壊後に成立した旧イスラーム武装勢力の軍閥連合政権が内紛などから安定しない中、難民キャンプやパキスタン領内のイスラーム学院(マドラサ)で教育を受けた青年を中心にイスラーム原理主義に基づく社会改革を目指す運動ターリバーンが結成された。
 ターリバーンは武装闘争の末、96年に革命を成功させ、極度に厳格なイスラーム原理主義の政教一致体制を樹立した。一方で、ターリバーンと連動しながらアメリカ中東支配に反対する反米活動の組織化がアル・カーイダとして発現した。
 こうしてみると、アメリカにとっては1980年代のアフガン内戦介入を通じて自らが培養し、利用した勢力に報復される因果応報と言える状況にあるのだ。
 一方、国内にアル・カーイダやその連携組織が拠点を置くイスラーム圏諸国のみならず、欧米や日本でも「テロ抑止」を口実に市民的自由の広範な制限を正当化する風潮が広がっている。
 自由を脅かす連邦レベルの保安機関を持つことに否定的であったアメリカで、9・11事件をきっかけに国土保安省が新設されたのは、その象徴である。こうした「治安管理国家」モデルのグローバルな拡散が自由を脅かしている。
 さらに、欧州では「イスラームの脅威」を煽り、イスラーム教徒を主要なターゲットとする移民・外国人排斥の動きも広がっている。特に中東・北アフリカからのイスラーム教徒移民の多い諸国では移民排斥をマニフェストとする極右勢力の伸張が目立つ。

2013年7月17日 (水)

世界歴史鳥瞰(連載第78回)

補章 略

四 「流極化」の中の危機

(1)民族紛争の噴出
 覇権国家の消滅と世界の流極化傾向は、民族主義の新たな目覚めと急進化を促進している。
 それはもはや植民地からの独立ではなく、独立した既存国家からの新たな分離独立国―後で述べるバルカン諸国をはじめ、91年にエチオピアから独立したエリトリア、93年にチェコスロバキアが分離してできたチェコとスロバキア、02年にインドネシアから独立した東ティモール、11年にスーダンから独立した南スーダンがある―を生み出す一方、世界中で民族紛争を噴出させ、多くの犠牲者を出している。
 その主要なものを地域別に見ると、歴史的にも民族紛争の火薬庫であったバルカン半島のほか、アフリカ・中東、さらに旧ソ連圏及び中国西部に集中している。

①バルカン諸国の分離独立
 第二次大戦後のバルカン半島では対独レジスタンスの指導者チトーの下、スロベニア、クロアチア、セルビア、ボスニア‐ヘルツェゴヴィナ、モンテネグロ、マケドニアの6共和国がソ連邦と同様に国家主権を持たない形でユーゴスラビア連邦を構成する体制が構築された。
 この小型ソ連邦とも言うべきユーゴスラビア連邦は、事実上の支配政党であった共産主義者同盟が各共和国の民族主義を抑圧しながらチトーのカリスマ的支配の下に統合されるという構制を取りつつ、ソ連とは一線を画して一部市場原理を取り入れた自主管理社会主義を標榜して注目されていたが、多分にしてチトーの人格と結びついていたユーゴは1980年の終身大統領チトーの死とともに分解する運命にあった。
 チトーの死後、当面は集団指導体制で統一が保たれていたが、ソ連邦解体に前後してクロアチアを中心に分離独立の動きが表面化する。そしてついに91年6月、スロベニアとクロアチアが独立を宣言して連邦を離脱する。これを容認しない連邦内の中心国セルビアが介入し、クロアチアとの間では95年まで続く激しい戦争となった。
 この間、91年にはマケドニアが、92年にはボスニア‐ヘルツェゴヴィナも独立を宣言する中、92年、セルビアはモンテネグロとともに新たなユーゴスラビア連邦を構成して連邦の維持を図った。
 ただボスニア‐ヘルツェゴヴィナは旧ユーゴ構成共和国中、最も複雑な民族構成を持ち、オスマン・トルコ支配時代にイスラーム化したボスニア人にギリシャ正教系のセルビア人、カトリック系のクロアチア人が鼎立するまさにバルカン半島の縮図であった。この中で、ユーゴ政府の支援を受けるセルビア人勢力が分離独立に強く反対し、92年以降、激しい内戦に突入する。
 一連のユーゴ紛争の中でも特に凄惨を極めたこの内戦では、セルビア人勢力によるボスニア人に対する虐殺・集団レイプなどを伴う民族浄化作戦が実行され、ヨーロッパではナチス・ドイツ以来のジェノサイドの再発として世界に衝撃を与えた。
 3年以上にわたったこの内戦は95年12月の和平協定で終結し、ボスニア‐ヘルツェゴヴィナはボスニア人とクロアチア人とで構成する連邦とセルビア人の共和国の連合という民族別分割形式で統一を維持する妥協案が成立したのであった。
 一方、セルビア共和国内でイスラーム系アルバニア人が中心を占めるコソボ自治州でも80年代末から自治の拡大を求める運動が活発化していたが、ミロシェヴィチ(後にユーゴ連邦大統領)を中心とするセルビア指導部は反対に自治を制限して抑圧を図った。
 新ユーゴ連邦内での自治の回復を求めるアルバニア人勢力の活動が過激化すると、連邦政府は掃討作戦による住民虐殺で応じたため、99年3月、アメリカ軍を中心とするNATO軍が国連安保理決議なしにユーゴ空爆を開始し、ユーゴ連邦軍を撤退させた。
 これを契機にユーゴ国内でも反ミロシェヴィチの運動が高まり、ミロシェヴィチ政権は2000年10月に崩壊した。その結果、連邦の結束も弱まり、03年には国名をセルビア‐モンテネグロに変更したが、06年にはモンテネグロも独立していき、ここにユーゴスラビアは完全に終焉したのである。
 なお、ユーゴ紛争の間、セルビア及びユーゴ連邦の独裁的指導者として中心にあったミロシェヴィチは戦争責任を問われ、国連の国際戦犯法廷に起訴されたが、審理中の06年に病死した。
 一方、コソボは国連主導の暫定統治を経て08年に独立を宣言したが、セルビアをはじめ、ロシアや中国も承認しておらず、その国際的地位はなお定まっていない。
 こうして約20年に及んだ一連のバルカン諸国独立をめぐる紛争は一応終息に向かい、安定化しつつあるものの、半島諸民族に残されたトラウマははかり知れず大きい。

②アフリカ民族紛争の混沌
 多数の民族・部族がひしめき合うアフリカ大陸は冷戦時代から民族紛争を抱えていたが、その時代には米ソいずれかの陣営に接近・編入された独裁体制によって民族問題が強権的に抑え込まれていたケースも少なくなかった。
 しかし、「流極化」の中ではそうしたタガも外れ、抑圧されていた紛争が一挙に噴出してきた。その例は枚挙にいとまがなく、それだけでも一冊の著書になるほどであるが、ここでは特に国際社会が解決能力を示せず、痛恨事となっているいくつかの大規模な紛争を取り上げるにとどめる。
 まず最大級の惨事として、80万人以上ともされる犠牲者を出した94年のルワンダ内戦とそれに付随して多数派フツ族が少数派ツチ族と宥和派フツ族を虐殺したジェノサイドがある。
 発生地がアフリカ内陸部の小国であったこともあり、国際社会の介入が遅れたこの深刻な民族紛争の遠因は、ルワンダの旧宗主国ベルギーが植民地支配の中で少数派ツチ族を優遇する民族分断化政策を採ったことにあり、アフリカでは典型的な帝国主義的過去を引きずる紛争でもあった。
 また冷戦終結と前後して始まったソマリア内戦では戦闘が激化する中、93年に国連が派遣した平和執行部隊が現地武装勢力と武力衝突し双方に多数の死傷者を出したことから、結局撤退を余儀なくされた。ソマリアは現在にまで及ぶ内戦・分裂状態に置かれ、大量の難民を生じているほか、武装勢力による周辺海域での海賊行為の温床ともなっている。
 この紛争は91年に反政府武装勢力の攻勢で崩壊したバーレ独裁政権の下で抑止されていた同一民族(ソマリ族)内部の氏族間対立に基因している点で、通常の民族紛争とはやや性質を異にしているが、冷戦構造を最も強く引きずっている。
 69年の軍事クーデターで発足したバーレ政権は当初マルクス‐レーニン主義を標榜しソ連陣営に組み込まれたが、隣国エチオピアとの領土紛争(オガデン戦争)でソ連が当時同じくマルクス‐レーニン主義を掲げていたエチオピア支持に回ったことから、一転アメリカに接近し援助を受けるようになっていたところ、冷戦終結とともにバーレ政権は「用済み」となり、見棄てられたのだった。こうしてソマリアは典型的な米ソ代理戦争の道具として翻弄されたのだ。
 2000年代に入ってからの最も深刻な民族紛争は、スーダンのダルフール紛争である。この紛争は地域自体が民族のるつぼであるスーダン西部ダルフール地方におけるアラブ系中心の遊牧民と非アラブ系農耕民の歴史的な対立に基因し、アラブ系主体の政府軍に支援されたアラブ系民兵組織が非アラブ系住民殺戮などのジェノサイドを実行し、03年以降推定40万人とされる犠牲者を出した。
 そうした経緯から、この紛争にはスーダンのバシル大統領も深く関与している疑いが持たれ、国連の国際刑事裁判所は09年、バシルの逮捕状を発付したが、現職国家元首の逮捕には法的に高い壁が立ちはだかっている。
 他方、スーダンでは冷戦時代からアラブ系主体の北部と黒人系主体の南部の間で内戦が断続的に続いてきたが、05年の和平合意を経て、11年には南部が南スーダンとして分離独立した。しかし、翌12年には石油資源が集中する南スーダンと石油パイプラインを握る北スーダンの間で国境紛争が発生するなど、南北スーダンの対立は独立国家同士の紛争に形を変えてなお続いている。
 こうしたスーダンの二重の民族紛争は元来スーダンが旧宗主国の大英帝国が民族間の境界線を無視して一方的に引いた国境線のもとに形成されたことに対立の芽があるという点で、やはり帝国主義的過去を引きずる紛争と言える。
 このようにアフリカの民族紛争は混沌としているが、「流極化」の中でアフリカ連合(AU)の地位と紛争解決能力が高まることは、民族紛争の解決にひとつの可能性を与えるであろう。しかし、現実にはAU自身が50を超える諸国で構成され、民族的・宗派的にも多様なアフリカを束ねることの困難さに直面している。

③中東紛争の混迷
 中東地域の民族紛争では最大級のパレスチナ紛争では93年にPLO・イスラエル間における暫定自治合意という大きな成果があった。これにより、イスラエル軍が撤退したガザ地区とヨルダン西岸地区のみの自治という限界内ではあるが、アラブ国家の樹立に一歩近づいたかに思われた。
 ところが、95年、暫定自治合意のイスラエル側当事者であったラビン首相の譲歩姿勢に反感を持ったユダヤ極右青年によりラブンが暗殺されたことで、和平の道は暗転していく。
 イスラエルでは01年に発足した強硬派のシャロン政権がパレスチナ自治区への攻勢を強め、アラファト議長を公邸に攻囲する中、同議長が04年に病死すると、アラファトが率いる支配政党ファタハも求心力を失い、06年の総選挙では対イスラエル強硬派の新興勢力ハマスに敗れた。ハマス政権とファタハの対立が深まると、ハマスはガザ地区を実力で占拠し、パレスチナ自治区は分裂した。
 イスラエル側もハマスを交渉相手として認めず、軍事攻勢を強め多くの犠牲を出している。結局、パレスチナ紛争は双方の強硬派対決に陥り、混迷の度を深めることとなった。
 一方、イラク戦争後のイラクではサダム・フセインとフセイン政権下でジェノサイドの標的とされた北部のクルド人が自治を獲得するという成果もあったが、一方サダム時代には強権的に抑え込まれていた多数派シーア派と少数派スンナ派の宗派対立が表面化し、多くの犠牲を出している。
 アメリカは戦後の占領統治を通じてイラクに議会制民主主義を強制したが、イラクのような条件下で単純に議会制を当てはめれば、宗派別に政党が結成され、しかも多数派シーア派が常勝することで宗派対立が刺激されることは必至であった。
 イラクではソ連邦解体後、資本主義とセットでグローバルなイデオロギーとして“布教”されるようになった議会主義の限界が鋭く問われているのである。

2013年7月11日 (木)

世界歴史鳥瞰(連載第77回)

補章 略

 「流極化」の時代

(4)四極プラス2
 21世紀の最初の10年を過ぎた現在、客観的に見て異論なく覇権国家と呼び得る超大国はもはや存在しない。しかし、国際政治経済の主導権を巡るせめぎ合いが終わったわけではない一方、「多極化」と表現できるほどに世界秩序を主導する極が多岐に分解しているわけでもない。
 そうした主導権争いの主要な極として、米・欧・中の三極に「復興」したロシアが食い込む形で、四つの極がせめぎ合うのが現況と言い得るであろう。
 この四極の中でアメリカはなお圧倒的な軍事力と、一国では世界トップの経済力を武器に優位性を保持している。しかしヨーロッパ統合や中国の急成長という新たな状況の下、その優位性はすでに絶対的なものではなくなっている。
 そのうえ、アメリカ発金融危機に端を発した2008年世界大不況の渦中でアメリカ資本主義の象徴でもあったゼネラル・モーターズをはじめとする自動車産業が経営破綻し、国是とも言える経済自由主義に反して連邦政府による国費投入・事実上の国営化という形で救済される事態に至ったことは、アメリカの覇権の物質的土台であった経済力の揺らぎを印象づけた。
 ちなみに、アメリカの将来像として、現在すでに全人口の15パーセントを超え、最大の少数民族となっている主にメキシコ系のヒスパニック層がその出生率の高さから将来ヨーロッパ系を抜きアメリカの人口構成上最大勢力となれば、アメリカはラテン化し、地政学的にもラテンアメリカに組み込まれる可能性は十分にある。
 一方、EUは域内全体のGDPではすでにアメリカを抜いている総合的な経済力と、環境保護運動の蓄積の上に立って、97年の京都議定書以来国際的な最重要課題となった気候変動を中心とする地球環境問題で主導権を取ろうとしているが、小ブッシュ政権時代に京都議定書を脱退したアメリカは、環境問題ではEUの対抗者となっている。
 また中国は世界最大人口を擁する巨大市場の潜在力を土台としつつ、新興国・後発国の代表者としての発言力を増しており、とりわけ環境問題では経済開発を優先したいこれら諸国の利益を代弁している。
 これに対して、ロシアはソ連時代の強みであった軍事力の低下に加え、かつての東欧同盟諸国やソ連邦を構成したバルト諸国がこぞってEUに組み込まれていったことで、その国際的地位は少なからぬ制約を受けている。従って、ロシアが再びアメリカに匹敵する独自の極として浮上できるかどうかは、単独での経済=軍事力の回復に成功するかどうかにかかる。
 ちなみにロシア自らがEUに加盟したうえ、EUの主導権を握るという奇策も考えられなくはないが、当然にもそうしたロシアによるEU乗っ取りを警戒するEU側はロシアの加盟には消極的となるであろう。
 これら四つの極に続く潜勢的な極として注目されるのは、インドとアフリカ連合(AU)である。
 インドは90年代以降、建国以来の社会主義的な体制を改め、自由主義経済に転換した後、単独では中国に次ぐ大人口を擁するアジアの巨大国家として急速な資本主義的成長を記録してきた。内部にはなお貧困や宗教紛争を抱える不安定性もあるが、政治的には議会制民主主義が定着しており、欧米的価値観を共有するアジアの極となり得る潜在性を持つ。
 一方、アフリカは絶対的貧困や民族紛争などの構造的問題を抱えつつも、豊富な天然資源を基盤に資本主義的成長の兆しを見せつつあり、地域的にも02年に従来のアフリカ統一機構を強化し、EU型統合を目指してAUを発足させた。まだ緒に就いたばかりとはいえ、域内人口10億を擁する潜勢力である。

(5)「流極化」のゆくえ
 以上に見たように、世界秩序を主導する極が流動化していく傾向―言わば「流極化」―の中での主導権争いはもはや体制イデオロギーを巡るものではない。それはソ連邦解体後の世界が資本主義一色に染まっていく過程での経済帝国主義的な権益獲得抗争である。
 その抗争がおおむね国連の枠組みの中で行われている限り、世界大戦のような大規模な戦争に発展する可能性は低いであろう。しかし国連の枠組みを離れた経済帝国主義的抗争が激化すれば、第三次世界大戦の端緒が開かれないとは限らない。
 その意味でも第二次世界大戦の重要な成果である国連が今後とも存続し、有効に機能し得るかどうかは、人類にとって決して軽視できない試金石である。
 もっとも、「流極化」による経済帝国主義的な権益獲得抗争の激化は、直ちに世界大戦を招かないとしても、世界経済を不安定化させ、世界大不況のように同時多発的なグローバル経済危機の続発と、それに伴う世界民衆の生活の不確実性を増大させずにはいられないだろう。
 一方、別の可能性として、「流極化」が逆に冷戦時代のように二極分解的な方向へと収斂していき、第二の冷戦のような事態が生じるとすれば、それは米ソ冷戦の焼き直しとしての米露対立よりも米中対立を軸として生じる可能性が高い。
 ロシアは一時的ないし個別的にアメリカと関係悪化に陥ることはあっても、もはやアメリカとの間に根本的な対立を抱えていないのに対し、米中間では南北朝鮮や中台関係のほか、中国の軍備増強やアジア太平洋地域での領土拡張策などをめぐって根本的な対立の芽があり、中国の軍事力のいっそうの伸長いかんでは、かつての米ソ対立と類似の状況が生じる恐れはある。
 その場合、中国がロシアと結び、NATOを通じた米欧と対峙し、米欧対中露という対立構図が現れると、本格的な第二の冷戦となりかねない。

2013年7月 9日 (火)

世界歴史鳥瞰(連載第76回)

補章 略

三 「流極化」の時代

(1)ヨーロッパの統合
 ソ連邦解体後、外観上の米国一極支配の背後で生じていた大きな状況変化の一つは、ヨーロッパ統合の進展であった。
 オランダ、ベルギーに、19世紀後半オランダから独立した小君主国ルクセンベルクを加えたベネルクス三国の経済同盟を最初の核とし、1967年にはヨーロッパ共同体(EC)を結成して経済運営の連携を強化していた西欧諸国では、冷戦時代から米ソ両超大国に対する発言力を高めるべくヨーロッパ統合を目指す構想は存在したものの、国家主権の保持にこだわる諸国の反対にも根強いものがあった。
 しかし冷戦体制の終焉は東西ヨーロッパの統合まで見据えた新たな統合の機運を生じさせ、ソ連邦解体と同じ91年末にはヨーロッパ理事会(EC首脳会議)が経済通貨統合と共通外交安保政策を通じた政治統合を目指すヨーロッパ連合条約(マーストリヒト条約)の締結を決定した。
 このマーストリヒト条約に基づいて93年、ヨーロッパ連合(EU)が発足する。そして98年にヨーロッパ中央銀行を設立し、翌99年には共通通貨ユーロの導入を実現した。00年には社会分野の統合としてヨーロッパ基本権条約も成立した。さらに04年以降、東欧諸国やバルト諸国など旧ソ連圏の諸国も加盟国に加えたEUは、東西ヨーロッパにまたがる超域機構となった。
 しかし焦点の政治統合については国家主権との関わりで難航し、曲折を経て07年に採択されたリスボン条約が09年12月に発効、これによって大統領に相当するEU理事会常任議長と外相相当職の外交安保上級代表が創設されたうえ、EUに単一の国際法人格が付与され、「国家」的な体裁が具備された。
 こうしてEUはヨーロッパ大陸を包摂する国家連合体に仕上がってきたわけであるが、それは旧ソ連邦とは異なり、加盟国の国家主権を残したままの「統合」という限界を抱えてもいる。また経済的にも東西格差と、それに起因する東欧の西欧への経済的従属といった構造的問題も大きな課題である。

(2)中国の急成長
 ヨーロッパ統合と並行するように東で生じたもう一つの大きな状況変化は、中国のめざましい急成長である。
 先に述べたように、天安門事件後の中国では共産党一党支配を固守したうえで共産党の指導の下に市場経済を推進していく「社会主義市場経済」を目指し、93年にはこのテーゼを憲法にも明記して公式に国是とした。
 このように政治的統制を強化しつつ、国家主導で上からの資本主義経済開発を強力に推進していくやり方は、東南アジアなどでも先行的に見られた開発独裁的手法とも重なるところが少なくない。
 中国はこの社会主義市場経済テーゼに従って外資系企業誘致を引き続き推進するとともに、90年代後半からは国営企業や協同組合企業の株式会社化を積極的に進めた。土地は国有を原則としながらも土地使用権の譲渡を容認するようになり、農地についても農家生産請負責任制の下で農民が負担していた農業税を廃止したため、実質上私有を認めたに等しくなった。
 さらに05年まで人民元の価値を低く抑制して輸出を伸ばす政策を続けた結果、巨額の貿易黒字が累積した。そして01年には台湾とともにWTO加盟が承認され、自由貿易体制にも組み込まれた。
 こうした施策の結果、中国経済は2003年から5年連続で年率二桁成長を記録し、08年からの世界大不況でやや成長は鈍化したものの大きな打撃は受けず早期に持ち直し、10年にはGDPで日本を抜き、アメリカに次ぐ第二位に躍進した。
 こうして2000年代の中国はなお「社会主義」を標榜しながら、資本主義的階級格差が明瞭に発現するという矛盾を抱えつつ、経済成長を続ける一方で、軍備拡張を進め、軍事大国化の構えも見せている。

(3)ロシアの「復興」
 中国とは異なり共産党支配が完全に一掃されたロシアではエリツィン政権を継承したプーチン政権の下、大統領自身を含む旧ソ連治安機関出身者を中心に治安回復を軸としつつ、エリツィン政権時代の経済的・政治的混乱の収拾を図った。
 特にチェチェン問題ではアメリカの「テロとの戦い」とも連動しつつ、武断主義的な姿勢で対処し、国民の支持を高める一方、政権に批判的な言論機関・言論人の締め付けを強め、反政府系ジャーナリスト暗殺事件への政府関与が取り沙汰されるなど、エリツィン政権時代の自由化路線にはブレーキがかかった。一方、経済面でも国家の経済関与の度合いが高まり、ロシアでも開発独裁的手法への傾斜が見られた。
 しかし豊富な天然資源にも支えられつつ、ロシア経済はプーチン政権の2期8年で成長軌道に乗り、中国やインド、ブラジルなどと並ぶ新興国として「復興」を果たしたが、08年からの世界大不況では大きな打撃を受けた。ソ連時代には一定水準にあった社会保障制度の劣化や文化・科学予算の削減による大量の頭脳流出も課題である。
 ロシアは軍事的にはなおアメリカと並ぶ核大国ではあるが、財政難から軍備の革新が進まず、ソ連時代のようにアメリカと拮抗するだけの戦力を回復するには至っていない。

2013年6月27日 (木)

世界歴史鳥瞰(連載第75回)

補章 略

二 外観上の米国一極支配

(1)湾岸戦争と繁栄の90年代
 冷戦終結後の1990年8月、イラクのサダム・フセイン政権がクウェートとの国境地帯にあるルメイラ油田の採掘権をめぐる対立からクウェートに侵攻し併合するという古典的な暴挙を犯した。
 フセイン政権はイスラーム革命後のイランとの間で80年から88年まで続いたイラン・イラク戦争に際しては、反イランで一致した米ソ両国の援助を受けて軍事的に強大化していた一方で、戦時債務の累積に苦しみ、活路を石油権益の拡大に求めようとしていたのだった。
 これに対して、アメリカは国連安全保障理事会の武力容認決議を背景に91年1月、30か国を超える多国籍軍を率いてイラクを攻撃した。
 この戦争は久方ぶりに多数の国が参加する国際戦争となったが、それはもはやかつての第一次及び第二次世界大戦のような総力戦ではなく、ハイテク兵器の見本市のような空前の技術戦であり、世界の人々が戦況をテレビで「観戦」するという壮大な「スペクタクル戦争」の初例ともなった。
 結果は、最新鋭の空軍を主体とするアメリカのハイテク兵器の前に旧式のソ連製兵器で武装した陸軍主体のイラク軍が惨敗し、アメリカ・多国籍軍側死者数百人に対し、イラク軍側死者推定2万人以上という著しく非対称なものであった。
 この戦勝と同じ年にかつてイラクの後ろ盾でもあったソ連邦も解体・消滅し、アメリカは二重の“勝利”の美酒に酔った。少なくとも外観上は、アメリカが「唯一の超大国」として世界を支配する時代の開幕と見えた。
 実際、アメリカはインターネットの商業的な開放・普及によるアメリカ情報資本の成立をも支えに、91年から10年間にわたり堅実な経済成長を示し、90年代には一人勝ち的な繁栄を享受したのだった。これは同時期の日本がバブル経済の崩壊に続き、10年を超える長期不況(失われた10年)に突入したことと好対照であった。
 90年代にはアメリカ資本を中心とする多国籍企業が旧ソ連圏にも展開し、市場経済を原理的に追求するアメリカ流の経済的自由主義が旧ソ連圏や第三世界にも“布教”され、資本主義の地球規模化(グローバリゼーション)が進展していった。その司令塔は誰の目にもアメリカ合衆国と映った。

(2)「単独行動主義」とその挫折
 1993年に発足したクリントン民主党政権はほぼその任期中続いた好況にも支えられて、2期8年を全うしたが、外交面では軟弱で、一貫性に欠けるという批判もあった。
 そうした点への批判も吸収して、2001年に発足した新千年紀最初のブッシュ共和党政権―政権の主ジョージ・ブッシュは湾岸戦争当時の同名大統領の息子でもあるので、父親の「大ブッシュ」に対して「小ブッシュ」と呼ぶ―は、ソ連解体後、今や「唯一の超大国」となったと自任するアメリカにとって最後の潜在的敵対勢力としてアメリカが「ならず者」と断ずるイラン、イラク、リビア、朝鮮など反米姿勢の強い後発諸国に対しては単独での武力行使も辞さない考えを示した。
 これは「唯一の超大国」テーゼに見合ったアメリカの新たな世界戦略の提示でもあるとともに、冷戦終結後にその比重が低下しつつあった軍産複合体の再生へ向けた新政治経済戦略という側面も隠されていた。
 小ブッシュ政権発足間もない01年9月11日、ニューヨークを中心に同時多発した空前の航空突撃事件(9・11事件)は、こうした戦略を実行に移す恰好の引き金になった。
 この事件は湾岸戦争後におけるアメリカの中東支配に反対するイスラーム過激派組織「アル・カーイダ」の犯行と断定された。同組織は96年の革命によりアフガニスタンの支配勢力となっていた新興のイスラーム原理主義勢力「ターリバーン」に庇護されており、その最高指導者で9・11事件の首謀者と目されたウサマ・ビン・ラディンもアフガンに潜伏中との情報に基づき、アメリカはアフガンを軍事攻撃しターリバーン政権を転覆、事実上の親米傀儡政権を立てることに成功したが、ビン・ラディンの身柄確保には至らなかった。
 アメリカはこれ以降、「テロとの戦い」を掲げ、アメリカ対反米イスラーム勢力という構図を冷戦時代の米ソ対立に代わる世界秩序の新たな対立軸として打ち出し、アフガンへの長期軍事介入を正当化するようになる。
 小ブッシュ政権はアフガンに続いて、大ブッシュ政権が主導した湾岸戦争後も国連の経済制裁を受けながら、焼け太り的に独裁を強化さえしていたイラクのフセイン政権に改めて矛先を向け、事後に虚偽と判明する同政権の大量破壊兵器保有を口実として、03年3月、国際社会の異論・疑義を押し切り、日本を含む「有志連合」を結成してイラク侵攻に踏み切った。
 これは湾岸戦争が曲がりなりにもイラクによるクウェート侵攻という不法行為に対する国連の武力行使容認決議に立脚していたことと比較しても、正当性・合法性に欠ける軍事侵攻であったが、今度もアメリカはいっそう進歩したハイテク兵器の力で圧勝し、フセイン政権転覆に成功した。
 その後、イラクではアメリカ主導の占領統治の下で、「民主化」が進められた。その結果、本来イラクの人口構成上は多数を占めるシーア派の親米政権が成立する。
 しかし同じシーア派イランの影響力が浸透するイラク新体制は安定せず、スンナ派武装組織や旧政権残党も加わった反米武装闘争が続き、泥沼化する中、09年に発足したオバマ民主党政権は11年末までのアメリカ軍完全撤退を実現したが、情勢は流動的で、なお武装組織の活動が続いている。
 小ブッシュ政権時代の二つの「戦争」は、いずれも実態としては政権転覆を狙う大規模な軍事介入であり、それは冷戦時代の新帝国主義的手法の踏襲にほかならなかった。
 とりわけその正当性・合法性に強い疑義のあったイラク「戦争」は、全世界でベトナム戦争以来の大規模な反戦運動を巻き起こし、フランスをはじめアフガン戦争にはNATOを通じて協力した西欧諸国の離反を招いたうえ、中東諸国民の反米感情をも高めた。
 ターリバーンが拠点を置くパキスタン領内まで拡大されるようになったアフガン軍事介入も、アメリカ軍の急襲作戦による11年のビン・ラディン殺害にもかかわらず、大きな成果は上げておらず、かえってアメリカとその傀儡政権に対する武装抵抗組織としてのターリバーンの復活を招いている。
 かくして、「単独行動主義」は挫折したと言ってよい。

2013年6月26日 (水)

世界歴史鳥瞰(連載第74回)

補章 ソヴィエト連邦解体後の世界

〈序説〉
 本章で扱うのは過去20年余りの同時代史である。同時代史は厳密な意味では「歴史」ではないが、現代史の延長部分として歴史を補完する意義がある。
 普通、過去20年の世界同時代史は「冷戦終結後(ポスト冷戦)」としてくくられることが多いが、ここではあえて「ソ連邦解体後」というくくり方をする。あえてそうするのは、ソ連邦解体という出来事は、ソ連体制に対する当否の評価を超えて、やはり歴史を画する事象だったと言うべきだからである。
 ソ連邦解体は単に一つの大国の消滅だけを意味したのではなく、歴史観を含む世界の人々の価値観をも大きく変えてしまった。すなわち社会主義、共産主義その他の何主義であれ、およそ資本主義ないし資本主義的経済発展に対して根本的に異を立てるような思想・理論の一切が無効化されてしまったのだ。
 それゆえ漠然とした「冷戦終結後」ではなく、「ソ連邦解体後」と置いてみて、初めて過去20年間に喧伝された「グローバリゼーション」が資本主義のイデオロギー的絶対化とその世界化の婉曲表現にすぎないこと、IMFやWTOがそうしたグローバリゼーションの執行機関として台頭し、各国に資本主義市場経済原理を強制する新自由主義が猛威を振るったこと、また日本の「55年体制」の終焉が長年の親米支配政党・自由民主党の解体ではなく、ソ連の影響下にあった最大野党・日本社会党の解体とそれに引き続く政治地図の総ブルジョワ化をもたらしたことの意味も理解されるであろう。

一 ロシアの混乱とチェチェン戦争

(1)経済的混乱と憲法戦争
 旧ソ連時代の国家社会主義を全否定する新生ロシアのエリツィン政権は市場経済移行を急ぎ、92年1月、過激な価格自由化措置を断行した。これにより年率2500パーセントものハイパーインフレーションを生じ、大衆は生活難に陥った。
 同年からは憲法改正案をめぐって、強力な大統領権限を求めるエリツィン大統領とこれを制限しようとする議会の対立が激化した。そして93年10月には大統領と議会の間でついに武力衝突となり、大統領側が抵抗派議員の立てこもる議事堂を砲撃、200人近くの死者を出すという前代未聞の惨事の末、大統領側が勝利した。同年末、憲法は国民投票で承認されるも、下院選挙ではよもやの極右政党が得票数・率で第一党に躍進、大統領派は第二党に甘んじた。
 そうした混乱した状況下で実施された国営企業民営化では、バウチャー証券方式の下、バウチャーを安価で買い占めた若手の旧体制エリート層が成金的な新富裕層となり、階級格差が拡大した。
 98年には国際通貨危機に直撃され、財政赤字を埋めていた高利回り国債の利子支払い・償還を停止する事態となり、銀行の倒産が相次ぎ、ルーブル相場は急落した。
 96年に再選したエリツィン大統領は健康問題を抱えており、通貨危機が一段落した99年末に辞任した。2000年3月の大統領選挙ではエリツィン政権末期に首相を務めた旧ソ連情報機関兼秘密警察機関KGB要員出身のウラジーミル・プーチンが当選し、ロシアは新たな時代に入った。
 こうしてソ連邦解体後ロシアの約10年にわたる流血を伴う経済的・政治的混乱は、帝政ロシア時代末期に次ぐ第二の資本主義的原始蓄積期であったと言える。

(2)チェチェン戦争
 ソ連邦が解体していく過程で、19世紀の帝政ロシア時代に征服・領土化されたカフカス地方のイスラーム教徒チェチェン人が独立の動きを見せ、91年にはソ連空軍の将軍でもあったジョハル・ドゥダエフを中心に独立を宣言する。
 しかし、帝政ロシア時代以来採掘されてきた油田を持ち、石油産業の中心地であり、ロシアにとって枢要な石油パイプライン・ルートでもあるチェチェンの独立は他にもまして論外であった。
 当時のエリツィン政権は当初、経済封鎖でチェチェン独立派に圧力をかけるが、議会との憲法戦争に勝利した後、94年末から軍事介入を開始(第一次戦争)、96年にはドゥダエフを空爆で殺害するという「成果」を上げた。
 その後、チェチェン武装勢力によるとされる爆破事件が相次ぐと、政権は99年9月から第一次戦争を上回る規模の第二次戦争を発動する。その結果、2000年7月までにチェチェン全土を制圧し、親露政権にの樹立に成功した。
 この間、独立派の間ではイスラーム神政体制の樹立を目指す過激派の影響が強まり、アラブ諸国などからの義勇兵も加わりチェチェン外でも人質立てこもりや爆破などの過激な手法に走っていく。
 これに対し、治安回復を掲げるプーチン政権は旧ソ連から引き継いだ軍・治安機関を総動員した指導者暗殺・独立派への弾圧など手段を選ばぬ苛烈な掃討作戦により表面上は独立運動を鎮圧することに成功したが、18世紀以来の抵抗の歴史を持つチェチェンという「問題」の根本的な解決にはなっていない。
 ただ、チェチェン問題に関するロシアのこうした武断的対処には、表向き諸民族の平等を謳うソ連という皮膜の下に隠されていた「ロシア帝国」の体質が再び表に滲み出てきたものとも言える一面が見てとれる。

2013年6月13日 (木)

世界歴史鳥瞰(連載第73回)

第8章 略

七 冷戦体制の完成から終焉まで(続き)

(4)冷戦の再燃そして終焉
 70年代の最後の年に同時発生した三つの重大事件が、70年代の「緊張緩和」の流れを止め、米ソを冷戦の再燃に向かわせることになった。
 その最大級のものが、79年12月からのソ連によるアフガニスタン軍事介入であった。アフガンでは前年4月の革命で親ソ派社会主義政権が成立していたが、革命政権の内紛が絶えず、79年9月のクーデターで成立した新政権は十分な統治能力を持たず、外交上もアメリカへ接近する気配を見せたため、ソ連は軍事介入して親ソ傀儡政権にすげ替えたのであった。
 この介入は、第二次戦略兵器制限交渉の調印直後に起きたため、アメリカは条約の批准を延期し、穀物輸出停止などの対ソ制裁も実施した。アフガニスタンは革命前からソ連に接近しており、ソ連としても社会主義政権内部の争いに支援介入したにすぎないのに、アメリカがこれほど強硬な反応を示した背景には、79年に起きたあと二つの大事件があった。
 一つは2月のイラン革命である。この革命では冷戦体制下で反共親米の立場から西洋近代化を開発独裁的な手法で上から推進していたパフラヴィ王朝が打倒され、その後に反米のシーア派イスラーム主義体制が樹立された。
 そればかりか、ソ連のアフガン軍事介入の前月には、アメリカへ亡命したパフラヴィ前国王の身柄引き渡しを求めるイスラーム神学生らがテヘランのアメリカ大使館を占拠し、大使館員らを人質に取るというアメリカにとって不面目な事態が発生していた。
 もう一つ、同年7月に中米ニカラグアで革命が成功し、40年以上にわたり世代を継いで反共親米独裁体制を維持してきたソモサ一族が打倒され、親キューバ・親ソの左派政権が樹立されたことは、アメリカにキューバ革命の悪夢を思い起こさせ、同種革命の周辺波及を懸念させることになった。
 アメリカにとって由々しき二つの事件に直面する中でのソ連のアフガン軍事介入に対しては、強い姿勢で臨まざるを得なかったのだ。
 こうした緊迫した情勢の中、イラン大使館占拠事件の早期解決に失敗したカーター民主党政権が批判を浴び、事件渦中の80年11月の大統領選挙で、カーター大統領は共和党のレーガンに再選を阻まれた。
 81年1月に発足したレーガン政権はソ連を「悪の帝国」と断じ、改めて対ソ強硬姿勢を示しつつ、ソ連の核抑止力を減じるべく、宇宙空間からの衛星追跡と地上迎撃システムの連動により敵の大陸間弾道ミサイルを破壊するという戦略防衛構想(SDI)を提唱してソ連に圧力をかけた。
 さらに革命後のニカラグアでは旧ソモサ政権残党らが結成した反政府武装組織を公然と軍事援助した。またニカラグアと同様、79年の革命で親キューバの社会主義政権が成立していたカリブ海の小国グレナダでは、83年のクーデターで成立した軍事政権が親キューバの姿勢を強めると、武力侵攻してこれを転覆、親米政権にすげ替えた。
 アフガンでも、ソ連軍及びアフガン政府軍に対抗するイスラーム勢力を軍事援助した。当時、イスラーム圏ではソ連の軍事介入はイスラーム対共産主義(無神論)の聖戦(ジハード)と宣伝され、アラブ諸国からも多数の義勇兵が反政府ゲリラに身を投じ、長期の内戦に突入していた。
 アメリカは敵の敵は味方という発想から、本来イデオロギー的に相容れないイスラーム勢力に肩入れしたのだ。こうしてアメリカに培養されたイスラーム勢力の一部が後に過激化し、皮肉にも今度はアメリカに矛先を向け替えることになる。
 このような冷戦再燃のツケは直ちに回ってきた。アメリカは軍事支出の膨張から財政赤字に陥り、折からの貿易赤字と併せて「双子の赤字」に悩み、レーガン政権の二期目初年の85年には債務国に転じた。
 一方、ソ連側では、前述したように60年代からの成長鈍化に加え、80年代に入ると元来弱い一般消費財の生産・流通が機能不全に陥り、物不足が深刻化し、いわゆる「欠乏経済」が常態化した。
 そのうえ、傀儡政権を立てて早期撤退する予定であったアフガン軍事介入は読みを誤り、ソ連軍にも多数の戦死者を出す泥沼の内戦に引きずり込まれていた。ソ連にとってのアフガンは、アメリカにとってのベトナムとなっていたのだ。
 こうした苦境にあった85年、当時高齢化していたソ連指導部の中では異例の54歳でソ連共産党書記長に選出されたミハイル・ゴルバチョフは86年以降、政治経済全般の包括的な改革(ペレストロイカ)に着手した。
 特に外交面では今までになく踏み込んで西側との対立解消を目指す「新思考外交」を打ち出し、アメリカをはじめとする西側各国の共感を得た。87年12月に米ソ両国の間で調印された中距離核戦力全廃条約は、その成果であった。これは両国核戦力のごく一部とはいえ、初めて既存核兵器の廃棄を合意した点で画期的であった。
 さらにゴルバチョフ書記長は88年3月、訪問先のユーゴスラビアで、社会主義諸国に対するソ連の介入・統制を明確に否定するとともに(新ベオグラード宣言)、同年にはアフガンからの全面撤退を表明した。
 これを合図に、89年に入ると東欧各国で民主化のうねりが発生、同年11月には民衆の平和的デモの結果、冷戦の象徴であったベルリンの壁が撤去される中、12月に独立25周年を迎えた地中海の小国マルタで会談したゴルバチョフとアメリカのブッシュ新大統領は冷戦の終結を宣言したのである。

(5)東欧革命からソ連邦解体へ
 冷戦体制の終焉は単にそれだけでは終わらず、そのままソ連邦という超大国の解体・消滅に直結した。このことを米ソ両首脳による1989年12月の冷戦終結宣言の時点で明確に予言できた人はほとんどいなかったであろう。
 しかし、ソ連邦という体制は、冷戦の仕掛け人であったアメリカ以上に冷戦体制と一体であったのである。ただ、ソ連邦が解体に至るまでには、東欧の衛星諸国における連続革命が先行しなければならなかった。
 東欧では社会主義圏における民主化革命の先駆的な意義もあったハンガリー動乱の後も、68年に当時のチェコスロバキア共産党改革派指導部が「人間の顔をした社会主義」のスローガンの下に試みた民主化改革「プラハの春」―それはソ連の「ペレストロイカ」の20年早い先駆けとも言えた―や、80年代初頭のポーランドにおける反体制労組「連帯」による民主化運動など、民主化を求める上と下双方からの波は続いていたが、いずれも当時のソ連保守派指導部が直接間接に介入・抑圧していた。
 しかし、ゴルバチョフ書記長は先の新ベオグラード宣言で、そうしたソ連による統制方針を転換した。これを受けて、まず従来から内政面では独自の自由化路線を歩んでいたハンガリーで、支配政党・社会主義労働者党内部の急進改革派が89年初頭以降実権を握り、複数政党制や市場経済原理の導入などの改革を実施した。さらに、長らく議論自体が封印されていたハンガリー動乱を「革命」として再評価した。
 またポーランドでも、81年から83年までの軍事政権による戒厳令下でいったんは抑圧されていた「連帯」と政府の協議が成立し、89年6月の総選挙で「連帯」が勝利した結果、「連帯」系政府が誕生、統一労働者党の一党支配に終止符を打った。
 一方、ソ連が作出したと言ってよい東ドイツでも88年秋頃から教会を拠点に行われていた平和集会が次第に大規模化し、89年に入ると反体制街頭デモに発展した。同年5月にはハンガリーがオーストリア国境の鉄条網を撤去したことをきっかけに、東ドイツ市民の西側脱出の波が止まらなくなった。
 こうした中、東ドイツ当局もベルリンの壁の開放に追い込まれ、冷戦終結の象徴的な出来事となった。ベルリンの壁崩壊は急速にドイツ再統一の機運を高め、90年10月には東ドイツが西ドイツに吸収・編入される形で、統一ドイツが再生した。
 ベルリンの壁崩壊は東ドイツの消滅のみならず、周辺東欧諸国にも波及的な影響を及ぼし、共産党支配体制が比較的強固であったブルガリア、チェコスロバキアでも共産党一党支配に終止符が打たれた。
 ワルシャワ条約機構の原加盟国ながら、60年代からソ連と距離を置いていたルーマニアでは共産党一党支配の形を取ったチャウシェスク大統領一族の独裁体制が強固であったが、ここでも民主化デモが治安警察隊との市街戦を含む流血革命に発展した末、民主化勢力が勝利し、大統領夫妻は処刑された。
 東欧連続革命は、中ソ対立の中で親中国の立場を採り、ソ連と断絶し、さらに毛沢東死去後の中国からも離反し、事実上の鎖国状態にあったアルバニアにまで及び、難民流出や流血自体の末、91年に労働党一党支配体制が終焉した。
 この間、ソ連のゴルバチョフ政権はその言葉通り、一連の連続革命に不介入方針を貫き、ソ連自身も90年3月の憲法改正で共産党一党支配を廃止した。
 こうした東欧革命と並行して、ソ連邦内部の構成共和国からも離反の動きが現れていた。それは特に89年にソ連当局がようやくその存在を認めた39年の独ソ不可侵条約の秘密議定書でソ連への併合が密約されていたバルト三国において激しかった。
 88年11月にエストニアが主権宣言を発したのを皮切りに、89年にはリトアニア、ラトヴィアが続き、90年には三国いずれもが独立宣言に進んだ。リトアニアでは独走したソ連軍部が流血介入し、ゴルバチョフの指導力の低下を印象づけた。
 しかし構成共和国の離反の動きは止まらず、89年から90年にかけてバルト三国にならった主権宣言が相次ぎ、ついには「本家」ロシア共和国でも「急進改革派」の元ソ連共産党政治局員候補で、保守派幹部と激しく対立して党指導部を追われていたエリツィンが元首に当たる共和国最高会議議長となって主権宣言を発する事態となった。
 一方、ゴルバチョフ政権が進めていた「ペレストロイカ」のうち、情報公開や思想・表現の自由の拡大といった政治的自由化は国内でも好評であったが、国営企業の独立採算制移行や協同組合の商業活動容認などの部分的市場化政策はその中途半端さのためにかえって流通を混乱させ、インフレを招き、慢性化していた物不足に拍車をかけていた。その結果、配給制や買出し制限といった統制経済へ逆戻りする事態となった。
 こうした中、90年の改憲で新設されたソ連邦大統領に就任していたゴルバチョフは、市場経済への完全移行と共和国の自主権を尊重した新連邦条約の締結を目指すが、特に後者に強く反発したソ連共産党保守派は91年8月、クーデターを断行してゴルバチョフを拘束、国家非常事態委員会を設置してペレストロイカを終わらせようとした。しかしエリツィン派とモスクワ市民の抵抗の前に、クーデター政権は文字どおり三日天下に終わった。
 この後、いったん復権したゴルバチョフの異議を排して、エリツィンらの主導によりソ連邦解体の動きは加速、12月にはロシア、ウクライナ、ベラルーシ三国首脳が22年連邦条約の無効と、各加盟国の完全な主権を承認する独立国家共同体(CIS)の創設を宣言した。
 このCISにはバルト三国とグルジアを除く11共和国すべてが加盟することで合意したため、ソ連邦解体は確定的となり、ゴルバチョフ大統領は91年12月25日をもって事実上辞職、ここにソ連邦はおよそ70年の歴史に幕を下ろしたのである。
 その結果、バルト諸国とグルジアに加え、新たにウクライナ、ベラルーシ、モルドヴァ、アルメニア、アゼルバイジャン、トルクメニスタン、ウズベキスタン、カザフスタン、キルギス、タジキスタンが独立し、ロシアも改めて単独共和国として再出発した。
 なお、同年には東欧革命の結果、すでに有名無実となっていたコメコンとワルシャワ条約機構も解消されたため、いわゆる「東側」陣営は完全に消滅した。
 現代史の最終章に当たるこの一連の激動に歴史的評価を下すのはまだ早いが、今日の大方の見方は「資本主義の勝利」―言わば「資本主義革命」―というものであろう。しかし、この評価には少なくとも二つの点で留保をつける必要がある。
 一つはソ連型社会主義(国家社会主義)の実態とは、前述したように「国家資本主義」と呼ぶべきものであったことである。実際、ソ連でも60年代から企業に一定の自主権を保障し、利潤指標を重視する動きや、西側資本との合弁事業などコンバージェンス(相互収斂)と呼ばれる現象は始まっていた。国家社会主義とは原理的な市場経済を伴わないまでも―「闇市場」は存在していた―、資本主義と完全に絶縁するものではなかったのだ。
 もう一つは、マルクス理論によれば共産主義への道を開くプロレタリア革命は、資本主義が高度に発達したところで初めて生ずべきはずのものであったことである。だとすれば、東欧・ロシアは国家社会主義の介在によってかえって資本主義の発達が阻害され、停滞していたプロレタリア革命への道を改めて歩み直し始めたのだとさえ言える。それはとりわけロシアにとっては、1917年10月革命を取り消し、さしあたり2月革命の線まで歴史を巻き戻すことを意味するであろう。

(6)中国の路線転換
 中国は50年代末から60年代前半にかけてソ連から離反していく中で、当時のフルシチョフ・ソ連指導部を「修正主義」と非難していたことからして、国内でも「修正主義」を容赦しない路線を取った。
 そのため、50年代末頃から一定限度で市場経済の導入を図る「調整」を進めていた劉少奇、鄧小平らの党幹部を「資本主義の道を歩む実権派(走資派)」と断じ、打倒対象とする体制内運動が活発化した。この動きは66年以降、「走資派」を打倒し、プロレタリア文化を創出するための新たな革命(プロレタリア文化大革命)の提唱につながり、このいわゆる「文革」は68年から本格的に実施に移される。
 この運動においては当初「大衆の自己解放」といった自発性が謳われていたが、結局は建国指導者・毛沢東の個人崇拝に陥り、結果としてソ連のスターリン独裁時代の大粛清に匹敵するような大量抑圧と迫害を産み出した。
 その一方で、文革期の中国は71年、アメリカの中国接近策に乗る形で、台湾の国民党政府に代わって国連復帰を果たし、72年にはアメリカのニクソン大統領の訪中受け入れや日中国交正常化など、ソ連を見限り西側に歩み寄る外交方針に転換してみせた。
 76年に毛が死去すると、時の華国鋒首相は文革を主導した毛側近「四人組」を逮捕して文革に終止符を打ち、共産党主席に就任した。しかし穏健ながら本質的には保守派であった華は、結局のところ文革の幕引き以上のことはできず、復権を果たした旧実権派リーダーの鄧小平によって追い落とされた。
 その鄧の指導で78年以降、「改革開放」のスローガンの下、中国式農業集団化の制度であった人民公社の解体と農業生産責任制への移行、「経済特区」の制度を通じた外貨導入による市場経済化の道へ大きく舵を切った。こうして毛死去後の中国は、まさに走資実権派の時代となる。
 しかし、80年代後半、鄧によって抜擢された胡耀邦総書記がソ連のゴルバチョフ改革とも共振する政治面を含めた自由化路線に踏み出そうとすると、鄧を事実上の最高実力者とする共産党指導部は胡を解任に追い込んだ。鄧は89年にゴルバチョフを北京に迎え、歴史的な中ソ和解を演出しはしたが、政治的自由化には否定的だったのである。
 実際、89年4月の胡の死去をきっかけに、民主化を求める学生らが北京の天安門広場で大規模なデモを行い、これが革命的状況を呈すると、同年6月、党指導部はこの動きを「反革命」と断じ、軍を投入して武力鎮圧した(天安門事件)。多数の犠牲者を出したこの事件は、文革に匹敵する中国現代史上のトラウマとなった。
 同時に、前年ビルマの社会主義独裁体制を打倒した学生革命が結局は軍のクーデターで流血鎮圧され、長期に及ぶ軍事政権の出現を許したのと同様、中国の天安門事件もアジアにおける民主化運動の困難さを印象づけたのである。
 結局、天安門事件後の中国は、ソ連のゴルバチョフ改革が共産党支配体制を廃しつつ中途半端な市場経済化によって挫折したのとは対照的に、共産党支配体制を力で固守しつつ、市場経済化をいっそう大胆に進めて事実上資本主義の道を歩む「社会主義市場経済」を国是として経済発展を目指す路線に確定する。90年の上海、深圳両証券取引所の開設は、その象徴であった。

2013年6月12日 (水)

世界歴史鳥瞰(連載第72回)

第8章 略

七 冷戦体制の完成から終焉まで

(1)冷戦体制への抵抗
 冷戦体制が進行する中で強まっていく米ソ両超大国の新帝国主義に対しては、1950年代から多くの抵抗の動きが見られた。前節でも見た非同盟諸国運動も国際的なレベルでのそうした抵抗の主要なものとみなすことができるが、国内的・一国的なレベルでの抵抗もあった。
 その最初の大きな動きは、1953年のスターリンの死をきっかけにソ連の膝元ポーランドとハンガリーで生じた。56年2月、ポーランドで賃金未払いなどに抗議する労働者のデモが反政府暴動に発展したポズナニ暴動に引き続いて、10月にはより明確に反ソ暴動の性格を持ったハンガリー動乱が勃発する。ソ連軍が介入する中で首相に復帰した改革派のナジはワルシャワ条約機構からの脱退と中立を宣言し、複数政党制移行などの民主化政策を打ち出した。
 これに対して他の同盟諸国への波及を恐れたソ連当局は二度目の軍事介入を断行してナジ政権を崩壊させ、親ソ政権を立てた。数千人の死者を出し、ナジもソ連と親ソ派新政権の手で処刑されたこの動乱は、ハンガリー現代史上のトラウマとなったが、間接的にはこの事件がその33年後の東欧連続革命の引き金を引くことにもなるのである。
 一方、アメリカの目と鼻の先キューバでも大きな抵抗の動きがあった。59年、長きにわたってアメリカの代理人としてラテンアメリカにおけるアメリカ従属経済の象徴であったバティスタ独裁政権に対するフィデル・カストロやアルゼンチン出身のチェ・ゲバラらの率いる青年運動が革命に成功したのだ。
 アメリカは当初こそカストロ新政権を承認したが、新政権が農地解放に続き、米国系企業の国有化にまで踏み込むと圧迫に転じ、61年には国交を断絶、経済封鎖を断行するとともに、亡命キューバ人勢力を使った政権転覆を図るも、結局成功しなかった。
 カストロ政権は当初独自的な民族革命路線を打ち出していたが、アメリカの敵対的な姿勢への対抗上、マルクス‐レーニン主義に傾斜してソ連圏に入った。このことが、62年のキューバ危機の要因ともなる。
 キューバ革命の翌年60年には、日本でも折からの日米安保条約改定に際して、日本の本格的な再軍備に道を開く防衛の双務性を柱とする新条約の下、アメリカの戦争戦略に日本が巻き込まれることを懸念する条約改定反対の運動が全国的に盛り上がり、空前の国会包囲デモに発展した。
 同年5月に衆議院で強行採決されていた条約承認案は6月、参議院で審議しないまま自動成立したが、警備上の理由からアイゼンハワー米大統領の訪日は中止となり、岸信介首相―復権した戦犯容疑者で「逆コース」の象徴でもあった―は辞任に追い込まれた。
 60年代には、「西側」の有力メンバーであったフランスがアメリカに抵抗を示すようになる。第二次世界大戦の英雄ド・ゴール大統領の強力な指導の下、フランスはアメリカへの従属を拒否し、60年に核保有国となり、64年には共産党中国を承認、66年にはNATOの軍事機構からも脱退する(2009年に復帰)。そして自らの旧帝国主義を克服して第三世界の立場を支持し、アメリカの軍事介入を非難するとともに、ソ連とは通商協定を結び、独自の第三極を目指した。
 同じ頃、発足当初「向ソ一辺倒」だった中国がソ連との対立を深めていた。その発端はスターリン死後のフルシチョフ指導部によるスターリン批判やアメリカとの「平和共存」路線に対する毛沢東の反発にあるとされる。
 しかし、元来中国は反帝国主義の立場で非同盟諸国運動にも一定の理解があり、64年にはアジアで初の核保有国となった中国が米ソ冷戦体制に背を向けて独自の道を歩み始めることは、時間の問題であったと言える。

(2)冷戦体制の完成
 冷戦体制には多くの抵抗があったとはいえ、50年代の米ソ両国はいずれも国力の充実期にあったこともあり、外部からの抵抗のために冷戦に歯止めがかかることはなかった。
 しかも、冷戦はソ連が1949年に核保有国となって以来、核開発を軸とした軍拡競争と同義となり始めていた。しかしながら、この競争においては、ソ連が後手に回っていた。そのため、スターリン死後のフルシチョフ指導部も表向き「平和共存」を口にしてアメリカの核攻撃能力の一方的進化を牽制しつつ、自らも大陸間弾道ミサイル(ICBM)を中心に核軍拡に鋭意努めていたのである。
 こうした米ソ間の核軍拡競争が一瞬現実の核戦争危機にまで行き着いたのが、62年のキューバ危機であった。前述したように、キューバの革命政権はアメリカの政権転覆策動からの防御策としてソ連の庇護を求めているようになっていたため、ソ連はキューバ防衛を口実としてアメリカの目と鼻の先キューバに中距離核ミサイルを配備することを企てたのだ。
 ソ連がこのような危険な挙に出たことには、当時アメリカがすでにソ連本土への核攻撃能力を備えていると推定されていたのに、ソ連はまだアメリカ本土への核攻撃能力を持つに至っていなかったという核戦力の不均衡を補完しようとの切実な狙いがあった。
 しかしソ連のこのような露骨な威嚇は当然にもアメリカを憤激させ、当時のケネディ政権はミサイル搬入を阻止するため海上封鎖を実施するとともに、キューバ空爆も辞さない強硬姿勢でソ連にミサイル基地の撤去を要求した。これは冷戦期を通じて米ソ間で直接戦争が勃発する危険が最も高まった瞬間であった。
 しかし、当時のケネディとフルシチョフは共に両国の基準では「リベラル」な指導者であったことも幸いし、結局ソ連が基地を撤去する代わりにアメリカもキューバ不侵攻を確約することで危機は平和裏に収拾された。
 一般にはこの「危機」を一つの教訓に米ソ関係は緊張緩和に向かい、63年の部分的核実験禁止条約の発効がその「成果」として説明されることもあるが、事はさほど単純ではない。
 同条約にしても地下核実験については禁止対象から除外していたから、核軍拡競争を歯止める効果には乏しかった。結局、アメリカは60年代末まで、ソ連も64年のフルシチョフ解任をはさんで70年代初頭まで核軍拡を続ける過程で、アメリカは60年代半ばまでに、ソ連も60年代末までには相互に確証破壊能力を備えるに至ったと推定されている。
 こうしてソ連の核戦力がアメリカにひとまず「追いつく」ことによって、核抑止力を通じたいわゆる「恐怖の均衡」という両すくみの冷戦体制が完成を見たのである。

(3)冷戦体制の行き詰まり
 冷戦体制の完成は同時に、その行き詰まりの始まりでもあった。それは米ソ両国の経済危機に端を発していた。特にアメリカに「追いつく」ために無理を押して軍拡路線をひた走っていたソ連において危機は深刻であった。
 ソ連では国家社会主義体制の下、極端な軍事優先政策が行われた結果、当然にも民生を圧迫し、非軍事部門の技術革新は停滞した。そして生産性、国民所得の長期低落が60年代以降目立って進行していく。こうした事情が60年代末からの「緊張緩和」のソ連側舞台裏にあった。
 一方、アメリカの側でも、軍拡とベトナム戦争の泥沼化は財政を圧迫していたうえ、インフレを結果し、西欧や日本の経済発展に伴う国際競争力の低下も加わって、71年にはアメリカの貿易収支は赤字に転じた。これより先、アメリカの国際収支はすでに58年から赤字に転じており、ドルの大量流出が基軸通貨としてのドルの地位を脅かしていた。
 こうした経済危機は71年に時のニクソン政権が発表した10パーセントの輸入課徴金とドル・金交換の停止といういわゆる「ニクソン・ショック」を導く。そこへ73年からのオイルショック(第一次)によるスタグフレーションが追い打ちをかけた。
 米ソ両国がそれぞれの仕方で直面した経済危機は70年代、両国の軍縮に関する利害を一致させ、72年の第一次戦略兵器制限交渉(SALTⅠ)と引き続いての第二次交渉(SALTⅡ)の開始という成果を生んだ。
 さらに75年には、かねてソ連の提案によりアメリカ、カナダを含む35か国の参加の下に設置されていた全欧安全保障協力会議が緊張緩和と相互安全保障、国境不可侵、内政不干渉などを謳うヘルシンキ宣言を採択した。そして79年にはSALTⅡの調印も実現する。
 こうした「緊張緩和」という潮流はしかし、本質的に冷戦の終結と平和の到来を意味していたわけではなく、冷戦体制の行き詰まりの裏返しにすぎなかった。だから、新たな事態の下では再び振り出しに戻ってしまう危険を内包していたのである。

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