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2019年7月13日 (土)

アフリカ黒人の軌跡(連載第41回)

七 アフリカ分割競争の時代

スーダンのマフディー国家
 スーダンはアラビア半島から移住してきた非黒人族系のアラブ人とヌビア人をはじめとする先住の黒人系諸民族が混淆・共存する境界域にあったところ、19世紀末になると、法的には16世紀以来オスマン帝国領土となっていたエジプトに成立した事実上の独立自治王朝ムハンマド・アリー朝の支配下に置かれていた。
 同時に、財政難に付け込まれたムハンマド・アリー朝エジプトは英国の統制下に置かれるという複雑な支配状況にある中、エジプトは本国の財政難に対処するうえでも、スーダンに重税を課し、収奪を強化していた。
 こうしたエジプトの圧制に対する反感を背景に、スーダンでは反エジプト運動が高まる。その中から台頭したのが、ヌビア人の宗教指導者ムハンマド・アフマドであった。船大工の家に生まれた彼は正式の聖職者ではなかったが、独自のイスラーム神秘主義思想に基づき、1880年代にはマフディー(救世主)を称し信者を集めるカリスマ教祖となっていた。
 彼の教団が他の神秘主義教団と異なったのは、武装解放運動の形態をとったことである。その厳格なコーラン解釈やジハード(聖戦)思想など、マフディー教団は現代のジハーディスト武装勢力の先駆者的な意義を持っていたと言えるだろう。
 実際、マフディー軍は近代装備を備えるエジプト軍にゲリラ戦を挑み、1882年にはこれを殲滅した。エジプト軍から武器を奪取したマフディー軍はその後、支配地を着実に拡大していく。
 事態を憂慮した英国はエジプト軍に梃子入れするも成功せず、エジプトのスーダン撤退を支援するため、中国で活躍したゴードン将軍を指揮官として派遣するも、1885年、ゴードン部隊は首都ハルツームでマフディー軍により包囲・殲滅せられ、ゴードンも惨殺された。
 かくして、マフディー軍はハルツームを落とし、スーダン全土の掌握に成功したのである。ところが、ムハンマド・アフマドは勝利から間もなく、チフスで急逝してしまう。このことで、ムハンマド・アフマドから後継候補の指名を受けていた三人の腹心の間で争いが起こる。
 この後継争いを征したのは、腹心の一人アブダッラーヒ・イブン・ムハンマドであった。ただ、アブダッラーヒは民族的にはアラブ系であり、政権を掌握した彼はムハンマド・アフマドの一族や古参幹部をすみやかに排除・粛清したことで、これ以降、マフディー教団はアブダッラーヒも属したアラブ系遊牧民バッガーラ人を支持基盤とするようになるため、厳密にはアフリカ黒人の軌跡とは言えない。
 アブダッラーヒ治下で13年持続したマフディー国家は最終的に1898年、名将キッチナー将軍を擁し、エジプトを介したスーダン再征服を企てた英国に敗れ、崩壊した。
 このスーダン再征服作戦中、アブダッラーヒを南部へ追撃していた英軍が西アフリカ方面からスーダン侵出を狙うフランス軍と一触即発の危機となったファショダ事件を機にフランスが譲歩し、スーダンから手を引いた結果、翌1899年以降、スーダンは英国とエジプトの共同統治という形で実質上は英国植民地の状態に置かれることとなった。
 一方、マフディー国家をアラブ系に乗っ取られた形のムハンマド・アフマド一族は穏健化し、遺子アブドゥルラフマン・アル‐マフディーは英国統治の協力者となった。彼を介したムハンマド・アフマド曾孫のサーディク・アル‐マフディーは独立後、二度首相を務めるなど、マフディー一族自体はスーダンの有力政治家系となった。

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