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2019年7月

2019年7月24日 (水)

アメリカ合衆国大統領黒書(連載第26回)

29 ジョン・カルバン・クーリッジ・ジュニア(1872年‐1933年)

 第29代ハーディング大統領が任期途中で死去した後、クーリッジ副大統領が自動昇格して第30代大統領となる。クーリッジは三人続いた戦間期共和党政権の二人目の大統領にして、唯一二期務めたため、三人の中で最長の政権を担う結果となった。
 クーリッジは地元マサチューセッツ州で市会議員や州議会議員、さらには州副知事・知事と地方政治の要職をあらかた経験したうえで、ハーディング前政権の副大統領に抜擢されるという経歴の持ち主であった。実際のところ、彼は1920年大統領選挙に立候補し、予備選挙でハーディングに敗れており、ハーディングとは本来は党内ライバル関係にあったが、融和のため本選挙では副大統領候補に抜擢されていたのだった。
 クーリッジは「無口のカル」とあだ名されるほど、余分な発言をしない人物で、何かをするよりしないことを主義とするような人間像だった。そうした人間像は、その政策にも現れている。
 彼が政権にあった1920年代は今日のアメリカにつながる金万能の資本主義が開花した時代であったが、クーリッジは市場介入を避ける自由放任主義を採った。その点で、クーリッジは後の共和党が志向する「小さな政府」イデオロギーの先駆者とみなされることもあるが、クーリッジ自身はさはどイデオロギーに染まった人物ではなく、実務主義的な人間であった。
 その他、彼が何かをしなかったこととして、公民権政策がある。クーリッジ自身は人種差別に反対していたが、公民権拡大のために積極的に動くこともしなかった。ただし、保留地に居住する全先住民にアメリカ公民権を付与する法律に署名したのは、数少ない前進的な成果であった。
 移民問題でも同様、クーリッジ自身は移民の社会的貢献に対し好意的であったにもかかわらず、アジア系移民を排斥することを狙った悪名高い1924年移民法に署名している。クーリッジは、移民受け入れに好意的ではあったが、人種の混血には否定的という両義的な価値観を抱いていたのだ。
 「無口のカル」は、バブル的好況の絶頂にあった1924年の大統領選挙で圧勝し、新たに独自の任期を得た。民主党が強力な対立候補を擁立できなかったこともあるが、好況の中、クーリッジの経済不干渉主義が好感された結果であった。このときのクーリッジ陣営の駄洒落スローガン「クーリッジとクールでいよう」は、まさに何事にも熱中しないクーリッジ政権の性格にぴったりだった。
 そして、恐慌の予兆が始まっていた1928年の大統領選挙に関してはきっぱり「出馬しない」と宣言し、引退の道を選んだこともクールだった。翌年、歴史的な大恐慌がアメリカを直撃した時には、風当たりの強いホワイトハウスにいなくてすんだからである。

2019年7月13日 (土)

アフリカ黒人の軌跡(連載第41回)

七 アフリカ分割競争の時代

スーダンのマフディー国家
 スーダンはアラビア半島から移住してきた非黒人族系のアラブ人とヌビア人をはじめとする先住の黒人系諸民族が混淆・共存する境界域にあったところ、19世紀末になると、法的には16世紀以来オスマン帝国領土となっていたエジプトに成立した事実上の独立自治王朝ムハンマド・アリー朝の支配下に置かれていた。
 同時に、財政難に付け込まれたムハンマド・アリー朝エジプトは英国の統制下に置かれるという複雑な支配状況にある中、エジプトは本国の財政難に対処するうえでも、スーダンに重税を課し、収奪を強化していた。
 こうしたエジプトの圧制に対する反感を背景に、スーダンでは反エジプト運動が高まる。その中から台頭したのが、ヌビア人の宗教指導者ムハンマド・アフマドであった。船大工の家に生まれた彼は正式の聖職者ではなかったが、独自のイスラーム神秘主義思想に基づき、1880年代にはマフディー(救世主)を称し信者を集めるカリスマ教祖となっていた。
 彼の教団が他の神秘主義教団と異なったのは、武装解放運動の形態をとったことである。その厳格なコーラン解釈やジハード(聖戦)思想など、マフディー教団は現代のジハーディスト武装勢力の先駆者的な意義を持っていたと言えるだろう。
 実際、マフディー軍は近代装備を備えるエジプト軍にゲリラ戦を挑み、1882年にはこれを殲滅した。エジプト軍から武器を奪取したマフディー軍はその後、支配地を着実に拡大していく。
 事態を憂慮した英国はエジプト軍に梃子入れするも成功せず、エジプトのスーダン撤退を支援するため、中国で活躍したゴードン将軍を指揮官として派遣するも、1885年、ゴードン部隊は首都ハルツームでマフディー軍により包囲・殲滅せられ、ゴードンも惨殺された。
 かくして、マフディー軍はハルツームを落とし、スーダン全土の掌握に成功したのである。ところが、ムハンマド・アフマドは勝利から間もなく、チフスで急逝してしまう。このことで、ムハンマド・アフマドから後継候補の指名を受けていた三人の腹心の間で争いが起こる。
 この後継争いを征したのは、腹心の一人アブダッラーヒ・イブン・ムハンマドであった。ただ、アブダッラーヒは民族的にはアラブ系であり、政権を掌握した彼はムハンマド・アフマドの一族や古参幹部をすみやかに排除・粛清したことで、これ以降、マフディー教団はアブダッラーヒも属したアラブ系遊牧民バッガーラ人を支持基盤とするようになるため、厳密にはアフリカ黒人の軌跡とは言えない。
 アブダッラーヒ治下で13年持続したマフディー国家は最終的に1898年、名将キッチナー将軍を擁し、エジプトを介したスーダン再征服を企てた英国に敗れ、崩壊した。
 このスーダン再征服作戦中、アブダッラーヒを南部へ追撃していた英軍が西アフリカ方面からスーダン侵出を狙うフランス軍と一触即発の危機となったファショダ事件を機にフランスが譲歩し、スーダンから手を引いた結果、翌1899年以降、スーダンは英国とエジプトの共同統治という形で実質上は英国植民地の状態に置かれることとなった。
 一方、マフディー国家をアラブ系に乗っ取られた形のムハンマド・アフマド一族は穏健化し、遺子アブドゥルラフマン・アル‐マフディーは英国統治の協力者となった。彼を介したムハンマド・アフマド曾孫のサーディク・アル‐マフディーは独立後、二度首相を務めるなど、マフディー一族自体はスーダンの有力政治家系となった。

2019年7月 4日 (木)

シチリアとマルタ―言語の交差点(連載第1回)

序説

 シチリアとマルタは、ともに地中海の景勝地として近距離にあるが、歴史的にも連関性の強い島嶼である。とはいえ、現在シチリアはイタリア領の離島自治州であるのに対し、マルタは人口わずか40万人ながら独立国であるというように、地政学的には相違がある。
 また使用言語に関しても、シチリアは帰属するイタリアの公用語であるイタリア語を共通語としながらも、シチリア固有のシチリア語を主要な地方語とする二重言語地域であるが、マルタは固有のマルタ語と英語を併用公用語としながら、旧公用語であるイタリア語もかなり通用する。
 複数言語併用という言語状況の点では共通しながらも、使用言語のコンポーネントには相違が見られる。特に固有言語のシチリア語は印欧語族ロマンス諸語に属する言語であるのに対し、マルタ語は欧州地域の公用語中で唯一の阿亜語族に属し、アラビア語と近縁な言語である。このように、シチリアとマルタは固有言語の点でも大きな相違を成す。
 両者は地政学的に外部勢力に攻め込まれやすく、めまぐるしく支配者が交替してきた歴史を持ち、中世にはイスラーム勢力の支配下にも置かれた。現在の言語状況もそうした歴史の結果であるが、片やシチリアでは印欧語族系ロマンス諸語が定着し、マルタでは阿亜語族系言語が定着した。この相違はどこから生じたのか―。
 この問題が本連載を貫く主題となる。そうした言語発展史という点では、言語発展の問題をより一般的に扱った先行連載『言語発展論』から派生し、地方言語に焦点を当てた連載という性格を持つ。
 同時に、これを通じて、歴史的にしばしば戦乱を招いてきた対立緊張関係にある印欧語族と阿亜語族との交錯と混淆という問題にも到達するだろう。シチリアとマルタは、水と油のごとくに見える印欧語族と阿亜語族が出会う交差点のような位置にあるからである。

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