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2019年6月15日 (土)

アフリカ黒人の軌跡(連載第40回)

七 アフリカ分割競争の時代

ズールー戦争
 19世紀末に始まる西洋列強によるアフリカ分割競争を前に、アフリカ黒人諸民族の多くは無抵抗であった。多くの場合、各個的に「保護条約」のような形で物資や武器を提供して懐柔する戦術が採られたこともあるが、抵抗しようにもそれだけの軍事力も備わっていなかったのだ。
 しかし、いくつかの例外がある。その一つはズールー族である。かれらはその卓越した武力をもって急速に南部アフリカで勢力を拡大したことは前章でも触れた。特に1873年、第4代国王に即位したセテワヨは叔父に当たる初代シャーカ王にならい、軍制の再整備とマスケット銃の装備による軍備の近代化にも着手した。
 こうしてセテワヨはズールー王国をさらに帝国に拡大しようとしたが、これは当時この地域の征服を狙っていた英国の利害と衝突することになった。英国はボーア白人国家をも併合して、南部アフリカに広大な植民地を構築しようとしていたのだった。
 これに対し、セテワヨは英国の精神的先兵とみなされた宣教師の追放や測量士の拘束といった強硬措置で応じた。英国側はズールー王国を保護国とする内容を含む13箇条の要求を付き付けたが、これは開戦を想定した最後通牒にほかならなかった。
 セテワヨが要求を拒否したため、1979年に勃発したのがズールー戦争である。この戦争は実のところ、アフリカの出先当局が英本国政府とは独立に始めたこともあり、緒戦では勇猛かつシャーカ王以来の「雄牛の角」作戦でかかるズールー軍は、イサンドルワナの戦いで寄せ集めの現地英軍を壊滅させる勢いを見せた。
 しかし、思わぬ惨敗を憂慮した本国政府が支援に乗り出し、軍を増強すると、近代化が途上で主要武器は伝統的な槍と盾というズールー軍はたちまちにして守勢に立たされ、1879年7月、王都ウルンディが陥落、セテワヨ王は捕らわれ、廃位された。
 ズールー王国は解体され、10以上の行政地区に分割されるが、元来多部族制のため内紛が絶えなかったことから、英国はいったんセテワヨを傀儡首長として復位させようとする。しかし、これに反発した敵対部族長の襲撃を受けて負傷・逃亡したセテワヨは間もなく死亡した。
 こうして強勢を誇ったズールー王国はあっけなく崩壊し、続いてボーア白人との戦争(ボーア戦争)に勝利した英国の南アフリカ植民地に併呑されてしまうのであった。
 1879年中の出来事であったズールー戦争は年代的に列強のアフリカ分割競争が開始される前のことではあったが、ここでアフリカ黒人諸民族中でも最も強力だったズールー族が列強の軍門に下ったことは、アフリカ黒人にとっては痛恨であった。
 もっとも、1910年に至り、ナタール植民地で、人頭税の引き上げに抗議し、ズールー人族長バンバサが武装蜂起したが、これも当局に武力鎮圧され、反乱軍側では3000人以上が犠牲となった。バンバサも処刑されたとされるが、未確認のため、落ち延び伝説が残り、後に南アフリカの反アパルトヘイト運動で象徴化された。

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