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2019年6月

2019年6月30日 (日)

弁証法の再生(連載第9回)

Ⅲ 唯物弁証法の台頭と転形

(9)唯物弁証法の教条化
 唯物弁証法はマルクスからその遺稿整理・解説者となった刎頚の友エンゲルスの手を経て、いわゆるマルクス主義における理論的な基軸となるが、その過程で次第に教条化の傾向を見せる。そうした弁証法の教条化の第一歩はまさにエンゲルスに始まると言える。
 一般に他人の遺稿整理というのは困難な作業であり、とりわけマルクスの「悪筆」に悩まされながらの作業は至難を極めた。結果として、エンゲルスはマルクスのいち「解説者」を越えた「解釈者」とならざるを得なかったようである。
 エンゲルスはマルクスの思想を「科学的社会主義」という標語のもとに総括するのであったが、その基本定式として唯物弁証法とそれに基づく歴史観である唯物史観とが据えられた。エンゲルスによる図式的なマルクス解釈はわかりやすかったため、19世紀末の労働運動・反資本主義運動の中にいち早く吸収され、風靡することとなった。
 かくして、唯物弁証法はそれ本来の意義が充分に咀嚼されないまま、とみに政治思想化していくことになる。想えば、弁証法は古代ギリシャでの発祥時から政治と無関係ではなく、弁証法に関わったゼノンやソクラテスは政治犯として捕らわれ、犠牲となった。
 近代における唯物弁証法も同じ宿命を負うようであった。しかし、唯物弁証法はロシアという意外な地で一つの政治体制教義として安住の地を得ることになる。ロシア革命後、ロシアを中心に樹立されたソヴィエト連邦の体制教義に納まったからである。
 これはマルクスとロシア革命指導者レーニンの名を二重に冠し、「マルクス‐レーニン主義」と称されたが、実質上はレーニンを継いだスターリン体制下の教義である。
 もとよりスターリンは哲学者ではなく、典型的な政治家であり、哲学的素養には欠けていた。このような政治家による哲学の消化不良にありがちなのは、ご都合主義的な単純化である。特にスターリンは、エンゲルスの弁証法三定式のうち第三項「否定の否定」を否認した。
 実は、この第三項こそは単純な形式論理としての「二重否定」を超えた弁証法的止揚の言わばジャンプ台を成す部分であるのだが、これを否認するということは弁証法そのものの否認に等しい。しかし、スターリンがこれを否認したのは、まさに自身の独裁体制の「止揚」を恐れたからにほかならない。
 これによって、唯物弁証法はその動的な性格を失い、ソ連という既成の体制―中でもスターリン独裁体制―を固定化し、その正当性を保証するための手段的な教条へ転形してしまうのである。以後の唯物弁証法はこうした教条的転形からの脱出が課題となった。

2019年6月26日 (水)

アメリカ合衆国大統領黒書(連載第25回)

28 ウォレン・ガマリエル・ハーディング(1865年‐1923年)

 第一次世界大戦の余波が残る1920年の大統領選挙では、共和党のウォレン・ガマリエル・ハーディングがウィルソン後継の民主党候補に圧勝し、第29代大統領となった。ハーディングは南北戦争終結後に生まれた初の大統領であり、これ以降のアメリカ大統領史は名実ともにポスト南北戦争の時代に入る。
 それにしても、オハイオ州知事や連邦上院議員の経験はあったが、地方の新聞経営者出自でさして知名度もないハーディングが圧勝した要因は、反ウィルソン戦略にあった。
 この時、ウィルソン現職が病気で執務不能状態にあることはまだ公にされていなかったが、すでに政権は死に体であり、ウィルソンの人気も落ち目であった。そこで、ハーディングはウィルソン政権を否定し、「正常に戻ろう」という単純明快なスローガンで、戦争疲れした国民に戦時体制の終了を訴える戦略が功を奏したのである。
 彼の「正常化」政策が最も明確に現れたのは、外交政策であった。すなわち国際連盟への加盟見送りを確定させ、ドイツとの単独講和で戦争を終了させた一方、ワシントン軍縮会議では台頭していた日本の海軍力の制限とアメリカの覇権確立に努めた。
 内政面では、富裕層減税と保護関税を明確に打ち出し、連邦政府の予算会計制度の整備を進めるなど、今日の共和党保守主義につながる面を見せている。一方、南部で蔓延した黒人へのリンチを抑止する反リンチ法の制定を推進したが、これは人種差別的な南部民主党により阻止された。
 黒人の要職登用にも積極的だったハーディングの路線は反奴隷制を原点としていた初期共和党の進歩的な姿を残したものであったが、同時に移民法では当時欧州での迫害を逃れてくるユダヤ人が増加していたことから、移民規制を強化する緊急法を導入するなど、移民排斥政策の先鞭をつけた。
 ハーディング政権最大の暗黒面は、汚職であった。おそらくは彼自身のワシントンでの経験不足を補う目的もあり、先行共和党政権下の公務員制度改革により抑制されてきていた伝統の猟官制を再起動し、地元オハイオを中心とする友人知己を論功行賞で政府の重要ポストに就けたことで、政権は多くの汚職スキャンダルにまみれたのである。
 中でも、内務長官が軍保有の油田を民間賃貸するに際して収賄して摘発されたティーポット・ドーム事件はハーディング政権最大の汚点となった。その他、ハーディング自身の関与が疑われたケースはなかったとはいえ、周辺者の汚職疑惑が多発した。
 ハーディングは1923年、アメリカ大統領として初めて公式訪問したアラスカ(当時準州)とカナダから帰国した直後、心臓発作を起こして急死してしまう。実は、彼はアラスカ訪問中、政権要人の汚職に関する調査報告書を読まされ、ショックを受けたとされており、快適と言えない当時の鉄道や船の長旅疲れと相乗して、心身に打撃となったのかもしれない。
 こうして一期目途中で病死したことから二年余りの短命政権に終わったことや、前任ウィルソンに比べてカリスマ性に欠けることもあり、現代ではあまり知られない存在として埋もれてしまったハーディングであるが、彼は三人の大統領に順次率いられた戦間期共和党政権の最初の基礎を置いた人物であった。

2019年6月15日 (土)

アフリカ黒人の軌跡(連載第40回)

七 アフリカ分割競争の時代

ズールー戦争
 19世紀末に始まる西洋列強によるアフリカ分割競争を前に、アフリカ黒人諸民族の多くは無抵抗であった。多くの場合、各個的に「保護条約」のような形で物資や武器を提供して懐柔する戦術が採られたこともあるが、抵抗しようにもそれだけの軍事力も備わっていなかったのだ。
 しかし、いくつかの例外がある。その一つはズールー族である。かれらはその卓越した武力をもって急速に南部アフリカで勢力を拡大したことは前章でも触れた。特に1873年、第4代国王に即位したセテワヨは叔父に当たる初代シャーカ王にならい、軍制の再整備とマスケット銃の装備による軍備の近代化にも着手した。
 こうしてセテワヨはズールー王国をさらに帝国に拡大しようとしたが、これは当時この地域の征服を狙っていた英国の利害と衝突することになった。英国はボーア白人国家をも併合して、南部アフリカに広大な植民地を構築しようとしていたのだった。
 これに対し、セテワヨは英国の精神的先兵とみなされた宣教師の追放や測量士の拘束といった強硬措置で応じた。英国側はズールー王国を保護国とする内容を含む13箇条の要求を付き付けたが、これは開戦を想定した最後通牒にほかならなかった。
 セテワヨが要求を拒否したため、1979年に勃発したのがズールー戦争である。この戦争は実のところ、アフリカの出先当局が英本国政府とは独立に始めたこともあり、緒戦では勇猛かつシャーカ王以来の「雄牛の角」作戦でかかるズールー軍は、イサンドルワナの戦いで寄せ集めの現地英軍を壊滅させる勢いを見せた。
 しかし、思わぬ惨敗を憂慮した本国政府が支援に乗り出し、軍を増強すると、近代化が途上で主要武器は伝統的な槍と盾というズールー軍はたちまちにして守勢に立たされ、1879年7月、王都ウルンディが陥落、セテワヨ王は捕らわれ、廃位された。
 ズールー王国は解体され、10以上の行政地区に分割されるが、元来多部族制のため内紛が絶えなかったことから、英国はいったんセテワヨを傀儡首長として復位させようとする。しかし、これに反発した敵対部族長の襲撃を受けて負傷・逃亡したセテワヨは間もなく死亡した。
 こうして強勢を誇ったズールー王国はあっけなく崩壊し、続いてボーア白人との戦争(ボーア戦争)に勝利した英国の南アフリカ植民地に併呑されてしまうのであった。
 1879年中の出来事であったズールー戦争は年代的に列強のアフリカ分割競争が開始される前のことではあったが、ここでアフリカ黒人諸民族中でも最も強力だったズールー族が列強の軍門に下ったことは、アフリカ黒人にとっては痛恨であった。
 もっとも、1910年に至り、ナタール植民地で、人頭税の引き上げに抗議し、ズールー人族長バンバサが武装蜂起したが、これも当局に武力鎮圧され、反乱軍側では3000人以上が犠牲となった。バンバサも処刑されたとされるが、未確認のため、落ち延び伝説が残り、後に南アフリカの反アパルトヘイト運動で象徴化された。

2019年6月12日 (水)

「シェアリング経済」の展望

 昨今、資本主義の内部に「シェアリング経済」と呼ぶべき新たな潮流が見られる。例えば、シェアハウス、カーシェアリング、ワークシェアリング等々。住宅や自動車は、日常生活の必需品もしくは必需に近い有益品だが、単独で所有するには比較的高価なものである。そうした物品をあえて単独所有せず、他人と共有しようとするのがシェアリングである。
 こうした共有の観念は従来からも所有権の分有形態として存在しているわけだが、それは家族間や家族に等しい知己間に限られていたものが、未知の人との共有にまで拡張されていることが特徴である。そのぶん、共有観念が抽象化されているとも言える。
 労働を分かち合うワークシェアリングとなると、そうした抽象性はいっそう増すことになるが、それだけに共産主義に近接していくことになるため、資本主義では警戒ストップがかかりやすく、物品のシェアリングに比べて普及しているとは言えない。
 結局のところ、こうした「シェアリング経済」も個人所有・市場経済の資本主義的原則に合致する限りでの例外領域にとどまらざるを得ないのだろうが、より展望的にみるなら、資本主義内部での小さな変革の種子とポジティブに受け止めることもできるかもしれない。
 共有の観念をいっそう抽象化された言わば生産様式全般の社会的、さらには人類的規模でのシェアリングが共産主義経済であるとも言える。そうした意味では、資本主義的限界内での「シェアリング経済」を未来の共産主義的経済システムへの移行の手がかりとしてより積極に評価し、これを促進することも革命的行動のちいさな半歩かもしれない。

2019年6月 8日 (土)

言語発展論(連載最終回)

第3部 新・世界言語地図

九 独立語族/独立語について

 前回まで、「語環」という概念によりながら、現存する世界言語を概観してきたが、地球上にはどの語環にも属さないように見える独立語族、さらにはどの語族にすら属さないように見える独立語も存在している。
 とはいえ、独立語族/独立語というものも、古くは周辺に同系の語環が広がっていたところ、その内包言語の多くが絶滅し、一部が存続している「残存言語」と、周辺語環から分離した結果、独立した「分離言語」とに大別できる。
 いずれにせよ、独立語族/独立語といえども、発祥以来完全に「孤立」していたわけではなく、形成過程で徐々に独立性を強めていったという限りでは「孤立」という語を冠するのは不適切であり―言語形態論上の「孤立語」と紛らわしい―、「独立語」と呼ぶものである。
 このうち前者の「残存言語」の代表例としては、中国南部からインドシナ半島北中部にかけて点在的に分布するミャオ‐ヤオ語族とタイ‐ガタイ語族、南インドに広く分布するドラヴィダ語族を挙げることができる。
 ミャオ‐ヤオ語族とタイ‐ガタイ語族は孤立語や声調の特徴からシナ‐チベット語族との共通性もあるが、語彙の相違も大きく、独立した語族とみなされるが、かつては中国大陸に広く分布していた可能性がある。漢民族が北方から移住・拡散していった歴史の過程で押され、点在的に残存した語族であろう。
 一方、ドラヴィダ語族はタミル語をはじめ、多くの言語を含み、現在でもインド南部で主要な日常言語として広く用いられ、印欧語族と並んでインドを象徴する語族である。
 印欧語族のアーリア人大移動以前、インダス文明で使用されていた言語もドラヴィダ系と推定され、かつイラン南西部で古代帝国を構築したエラム人のエラム語との近縁性も指摘されるので、現在はほぼ南インドに限局されるドラヴィダ語族も、かつてはより広域的な語環を形成していた可能性もある。
 一方、南欧のバスク語は同系言語を他に見出すことのできない代表的な独立語として著名であるが、フランス南西部のアキテーヌでかつて使用された絶滅言語アクイタニア語との同系性が有力視され、同じく絶滅言語で、かつてイベリア南部で使用されたイベリア語との関連性も指摘されているところから、仮説的には「バスク語族」あるいは「イベリア語環」をも観念できるかもしれない。
 後者の「分離言語」の代表例としては、日本語族とコリア語族が想定できる。いずれも膠着語としてウラル‐アルタイ語環との共通点を持ちながらも、東の辺境地で独自に発達を遂げたため、母音調和法則の消失など、音韻や語彙面で分離された言語である。
 なお、共通祖語を再構することはできないながらも、日本語族とコリア語族の間の近縁性を考慮すると、仮説的に「日本‐コリア語環」を立てることができるかもしれない。とすれば、これは独立した小語環となる。

2019年6月 5日 (水)

弁証法の再生(連載第8回)

Ⅲ 唯物弁証法の台頭と転形

(8)エンゲルスの唯物弁証法
 マルクスの共同研究者にして終生の友でもあったエンゲルスは、マルクスとの死別後も20年近くにわたって活動し、その多くが未完ないし未出版に終わっていたマルクスの遺稿の整理と解説に当たり、マルクス思想の継承と普及に貢献した。
 おそらくエンゲルスの存在なくしては、マルクスは没後、完全に埋もれた思想家に終わったのではないかと思えるほどであるが、そうしたエンゲルスの思想史的貢献の一つに唯物弁証法の定式化がある。その点、マルクスは、彼が批判的に継承したヘーゲルに似て、弁証法の定式化はあえて試みず、それを思考の前提として扱っていた。
 これに対して、エンゲルスは唯物弁証法の定式化に踏み込んでいる。それによれば、唯物弁証法定式は①量より質への転化②対立物の相互浸透③否定の否定の三項にまとめられる。エンゲルス自身、この定式に逐条的な解説を施しているわけではないが、いくらか私見をまじえて解釈すれば、次のようである。
 まず「第一項:量より質への転化」とは、量的な変化が質的な変化をもたらすという一見すると矛盾律であるが、これは例えば生体の細胞をはじめ、分子の量的な集積が質的に新たな物質を生み出すような例を想起すれば、判明する。
 「第二項:対立物の相互浸透」は、およそ対立物は相互に相対立する関係性によってその存在が規定される相関関係にあり、実体的に対立するのではないという関係論的存在論である。
 「第三項:否定の否定」は形式論理学における二重否定―それは消極的な肯定である―とは似て非なるもので、あるものを全否定することなく、対立物の止揚により高次の措定に至るというヘーゲルにおける止揚の簡明な定式化である。
 これら三項は、各々別個独立の定式なのではなく、第一項の量より質の転換の過程に対立物の相互浸透があり、その結果として対立物の止揚による新たな境地が拓かれるという動的なプロセスが表現されているとみることができるだろう。
 ただ、これだけのことなら特段の独創性は認められないが、エンゲルスは唯物弁証法の適用範囲を自然界も対象に含めた一般法則として拡大しようとした―未完書『自然の弁証法』がその綱領である―ところに独創性がある。このような一般法則化は、マルクスがあえて試みなかったことである。
 この点で、エンゲルスはマルクスよりも教条主義的な傾向が強く、後に弁証法の代名詞のごとくなった「マルクス主義」はマルクス自身ではなく、エンゲルスによって最初に体系化されたと言い得るのである。このことは唯物弁証法の普及に寄与するとともに、その教条化にも力を貸したであろう。

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