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2019年5月25日 (土)

アフリカ黒人の軌跡(連載第39回)

七 アフリカ分割競争の時代

ベルギー領コンゴの暴虐
 ベルギー領コンゴは、アフリカ分割競争の出発点とも言える象徴的な場所である。今日のコンゴ民主共和国の領域をカバーする地域は1879年以降、ベルギー国王レオポルド2世の依頼を受けたイギリス人ヘンリー・モートン・スタンリーによる探検を契機にベルギーのものとなった。
 レオポルドはこれに先立つ1876年、欧米の探検家や資金提供者らを集めて国際アフリカ協会なる団体を結成していた。この団体はアフリカ中部の「文明化」を支援するという口実を伴っていたが、実際は未踏のアフリカ中部を我が物とすることを狙う隠れ蓑であった。
 この地域は在地首長に率いられた諸部族が割拠するところであり、スタンリーの巧みな交渉により、首長らは次々と不平等条約を締結させられた。これにより、武力行使なくしてこの地域はベルギーの手に落ちたのである。
 ただ、当初のベルギー領コンゴは厳密には「ベルギー領」ではなく、「レオポルド2世領」というほうが正確であった。すなわち王の私領地であり、その管理は前出のアフリカ国際協会から分離された「コンゴ国際協会」に委託されたのである。1885年のベルリン会議も、これを追認した。こうして正式に「コンゴ独立国」が発足した。
 しばしば「コンゴ自由国」とも通称されるものの、その統治は進歩的な立憲君主制を採る本国では望めないレオポルド2世の絶対支配であった。実態としては「国」というより、王の私領地であることに変わりはなかった。つまり、ベルギー政府でさえコンゴに介入できないのである。
 こうして「独立国」なる皮肉な名称の下、現地では象牙収集やゴム栽培などに現地人が動員され、残酷な刑罰の担保で奴隷労働が強いられた。こうした苛烈な実態は、まるで奴隷貿易時代のカリブ海域植民地のようであったが、王の私領地という封建的な性格の領地であったため、そのようなことになったのである。
 コンゴ独立国における現地アフリカ人の犠牲者数は、現在でも論争の的のままである。1998年にはコンゴ独立国における暴政の実態を記述したアメリカの著述家アダム・ホックシールドの『レオポルド王の霊』を契機に、当時はまだ未生成だったジェノサイドの概念にあてはまるかどうかをめぐり論争が起きている。
 しかしコンゴ独立国の実態はつとに同時代的にも批判の的となっており、1900年以降、イギリス人ジャーナリストのエドモンド・モレルによる調査報道で暴露され、1906年の著作『赤いゴム』にまとめられた。これは国際世論を刺激し、レオポルド自身も反論するなど、一連の国際的大論争に発展した。
 論争はジャーナリズムや人道家の間の批判にとどまらず、ベルギーのライバル列強諸国からの嫉視的な批判も高めたため、1908年、レオポルドはコンゴ独立国をベルギー政府の管理下に移す譲歩を余儀なくされた。
 これによって同地が解放されたわけではなく、これによってコンゴが正式にベルギーの領土に編入されただけのことである。言わば、近代的な植民地統治に変更されたのである。コンゴの完全な独立は、半世紀以上先の1960年を待たなければならなかった。

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