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2019年5月 4日 (土)

アメリカ合衆国大統領黒書(連載第23回)

26 ウィリアム・ハワード・タフト(1857年‐1930年)

 種々の意味で派手な存在であった第26代セオドア・ローズベルトの後継となったのは、彼の友人でもあったウィリアム・ハワード・タフトである。タフトは祖父、父ともに法律家という法曹一族の出であり、父が創設に関わったイェール大学生の著名な秘密結社スカル・アンド・ボーンズのメンバーとして、イェール学閥の有力者でもあった。
 ハフトの前半生は法律家そのものであり、地元オハイオ州で検察官や裁判官、法学教授などを歴任し、ベンジャミン・ハリソン政権では連邦政府の訴訟で代理人を務める訟務長官に若干32歳で任命されるなど、法曹界で着実に栄進を続けた。
 政界へ転身する最初のきっかけは、1900年にマッキンリー大統領によりフィリピン民政長官に任命されたことである。同職はアメリカがスペインとの戦争に勝利し、獲得した旧スペイン領フィリピンの植民地統治に当たるもので、アメリカ帝国主義にとって最初の大きな成果であった。
 民政長官タフトは、当時の在比米国人の間にあったフィリピン人への人種差別観を排し、フィリピン人を対等な民族として扱おうとするなど、所詮は植民地行政官という限界の中でも、公正な姿勢を示そうとした。
 その後、ローズベルト大統領の知遇を得て戦争長官(現国防長官)に任命されるが、この時にアメリカ特使として訪日し、有名な桂‐タフト協定の締結を主導している。その主要な狙いはフィリピンに対する日本の領土的野心を抑制することであったが、引き換えに日本の朝鮮支配を容認する内容を含み、日本の植民地支配を追認する結果となった。
 こうしたローズベルト政権下での働きが評価され、ローズベルトから後継指名されたタフトは、1908年の大統領選挙を征して第27代大統領に就任したのである。議員歴や州知事歴もないままでのホワイトハウス制覇は多分にしてローズベルトの後ろ盾のおかげだったが、後にローズベルトに裏切られることになる。
 前任者に比べて地味なタフトが名を残したのは、外交政策における「ドル外交」である。これはアメリカ帝国主義がターゲットとしていたラテンアメリカや東アジアに対し、武力より資本進出を通じて経済支配を強める政策であった。
 タフトはローズベルトの傀儡と見られることを嫌ってか、内政面では次第にローズベルトの革新路線から離反し、共和党保守派ににじり寄っていく。人事政策では、タフトは黒人を連邦要職に就かせることを明白に拒否し、南部の黒人公職者を排除していった。
 こうしたタフトの保守化はローズベルトをして進歩党結成に動かしめたうえに、リンカーンの奴隷解放以来、共和党を支持してきた黒人層を民主党へ鞍替えさせる結果となった。タフトは再選を目指した1912年大統領選でその代償を払うことになる。予備選で共和党の指名を勝ち取ったタフトであったが、本選挙では民主党のウッドロー・ウィルソンに敗れたのである。
 かくして、タフト大統領は一期で去ることとなったが、彼が異例だったのは退任後、1921年に連邦最高裁判所長官に任命されたことである。これによって、彼はアメリカの行政と司法の長を両方経験した史上唯一の人物となった。しかし、タフトの本領は政治家より裁判官にあったのかもしれない。彼は知的で比較的公正な人物であったが、それは保守的な知性と公正さであり、言ってみれば裁判官的な資質なのである。

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