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2019年5月

2019年5月30日 (木)

アメリカ合衆国大統領黒書(連載第24回)

27 トマス・ウッドロー・ウィルソン(1856年‐1924年)

 1912年大統領選挙で共和党が再選を目指す現職タフト陣営と返り咲きを狙って離党したローズベルト陣営に事実上分裂したことで、民主党が漁夫の利を得る結果となり、ウィルソンの当選につながった。こうして第28代大統領となったウィルソンは20世紀に入って最初の民主党大統領となった。
 ウィルソンはアメリカ史上初めてのアカデミズム出身大統領でもあり、進歩主義者であった。彼はその学識に基づく様々な「理想」を掲げてはいたが、ほとんどは中途半端に終わり、支持者を失望させた。その意味で、ウィルソン政権のキーワードは「失望」である。
 ウィルソン政権の失望政策は内政外交両面に及ぶが、外交面では「平和主義」である。例えばローズベルトの「棍棒外交」には批判的で、より穏当な「宣教師外交」を対置したが、実現できず、ハイチやドミニカの占領、折からのメキシコ革命への干渉など、実際の結果は「棍棒」と変わりなかった。
 より国際的な失望政策は、第一次世界大戦とその処理をめぐるものである。大戦が欧州で始まった時、ウィルソン政権は中立を標榜したが、影ではドイツと対峙する連合国側に物資や資金提供などの物的支援を通じて「裏参戦」していた。
 そのことが多数のアメリカ人乗客が犠牲となったドイツ海軍によるルシタニア号撃沈事件で隠し切れなくなると、ウィルソンは正式に参戦を決め、アメリカ外征軍を組織して、欧州戦線に送った。これは建国以来、アメリカ史上初の本格的な海外派兵であり、このためにウィルソン政権は反戦運動を抑圧しつつ、徴兵制を復活し、のべ200万人を派兵、5万人以上の戦死者を出した。
 ウィルソンの理想派学者ぶりが発揮されたのは、戦後処理の過程である。ロシアのレーニン革命政権への対抗心もあり、新世界秩序を掲げてパリ講和会議を主宰、人類史上初とも言える野心的な国際平和機構・国際連盟の創設も主導した。
 しかし、いまだ帝国主義を追求していた列強に中国大陸を狙う新興の大日本帝国など主要各国の利害調整に失敗したうえ、パリ講和条約はモンロー中立主義の原理に固執する本国上院の批准も得られなかった。こうしてウィルソン平和主義は理念に終わり、数十年後の第二次大戦を抑止することはできなかった。
 内政面での失望政策の筆頭は人種問題であった。彼は第12代テイラー大統領以来の南部出身大統領ということもあり、人種隔離政策を維持する南部の支持票に依存していた。長老教会の牧師だった父は南北戦争当時、南部連合を支持した奴隷制擁護者である。
 そうした背景から、ウィルソンの「進歩主義」は人種問題には及んでいなかった。そのため、彼は南部出身者を政府に起用し、連邦官庁での人種隔離を推進していった。自身は会員ではなかったが、クー・クラックス・クランを称賛する白人至上主義者のプロパガンダ映画の上映も許した。
 しかし「進歩主義」のイメージ演出に長けていたウィルソンは民主党大統領としては実に第7代ジャクソン以来の再選を果たし、二期目を務めるも、その末期は彼の掲げる「民主主義」の理念を裏切る違憲統治であった。ウィルソンは1919年に脳梗塞で倒れ、執務不能となったにもかかわらず、その事実を隠したのであった。
 こうした場合、副大統領が代行するはずであったが、当時のマーシャル副大統領はウィルソンと確執しており、代行を拒否するという異例事態となったため、政府に何らの役職も持たないイーディス夫人が夫の名義で職務を事実上代行した。
 この民主的共和政にとってはスキャンダラスで非アメリカ的な秘密裏の“垂簾聴政”体制は必ずしもウィルソン自身の意思によるものでないとはいえ、任期切れまで2年間続き、大統領の死後まで国民には慎重に伏せられていたのだ。
 こうしてウィルソン政権は違憲状態のうちに二期八年を終えた。ウィルソンは1924年に死去したが、奇しくもこれはライバル・レーニンの死と同年であった。しかも、脳梗塞による執務不能もレーニンと同様であったが、事実を隠さなかったレーニン政権のほうが「民主的」に見えたのは皮肉である。

2019年5月25日 (土)

アフリカ黒人の軌跡(連載第39回)

七 アフリカ分割競争の時代

ベルギー領コンゴの暴虐
 ベルギー領コンゴは、アフリカ分割競争の出発点とも言える象徴的な場所である。今日のコンゴ民主共和国の領域をカバーする地域は1879年以降、ベルギー国王レオポルド2世の依頼を受けたイギリス人ヘンリー・モートン・スタンリーによる探検を契機にベルギーのものとなった。
 レオポルドはこれに先立つ1876年、欧米の探検家や資金提供者らを集めて国際アフリカ協会なる団体を結成していた。この団体はアフリカ中部の「文明化」を支援するという口実を伴っていたが、実際は未踏のアフリカ中部を我が物とすることを狙う隠れ蓑であった。
 この地域は在地首長に率いられた諸部族が割拠するところであり、スタンリーの巧みな交渉により、首長らは次々と不平等条約を締結させられた。これにより、武力行使なくしてこの地域はベルギーの手に落ちたのである。
 ただ、当初のベルギー領コンゴは厳密には「ベルギー領」ではなく、「レオポルド2世領」というほうが正確であった。すなわち王の私領地であり、その管理は前出のアフリカ国際協会から分離された「コンゴ国際協会」に委託されたのである。1885年のベルリン会議も、これを追認した。こうして正式に「コンゴ独立国」が発足した。
 しばしば「コンゴ自由国」とも通称されるものの、その統治は進歩的な立憲君主制を採る本国では望めないレオポルド2世の絶対支配であった。実態としては「国」というより、王の私領地であることに変わりはなかった。つまり、ベルギー政府でさえコンゴに介入できないのである。
 こうして「独立国」なる皮肉な名称の下、現地では象牙収集やゴム栽培などに現地人が動員され、残酷な刑罰の担保で奴隷労働が強いられた。こうした苛烈な実態は、まるで奴隷貿易時代のカリブ海域植民地のようであったが、王の私領地という封建的な性格の領地であったため、そのようなことになったのである。
 コンゴ独立国における現地アフリカ人の犠牲者数は、現在でも論争の的のままである。1998年にはコンゴ独立国における暴政の実態を記述したアメリカの著述家アダム・ホックシールドの『レオポルド王の霊』を契機に、当時はまだ未生成だったジェノサイドの概念にあてはまるかどうかをめぐり論争が起きている。
 しかしコンゴ独立国の実態はつとに同時代的にも批判の的となっており、1900年以降、イギリス人ジャーナリストのエドモンド・モレルによる調査報道で暴露され、1906年の著作『赤いゴム』にまとめられた。これは国際世論を刺激し、レオポルド自身も反論するなど、一連の国際的大論争に発展した。
 論争はジャーナリズムや人道家の間の批判にとどまらず、ベルギーのライバル列強諸国からの嫉視的な批判も高めたため、1908年、レオポルドはコンゴ独立国をベルギー政府の管理下に移す譲歩を余儀なくされた。
 これによって同地が解放されたわけではなく、これによってコンゴが正式にベルギーの領土に編入されただけのことである。言わば、近代的な植民地統治に変更されたのである。コンゴの完全な独立は、半世紀以上先の1960年を待たなければならなかった。

2019年5月18日 (土)

言語発展論(連載第25回)

第3部 新・世界言語地図

八 その他の語環―小語環

 前回まで見てきた印欧‐阿亜、ウラル‐アルタイ、シナ‐チベット‐オーストロネシア、ニジェール‐コンゴ、シベリア‐アメリカの世界五大語環だけで現存する地球上の言語の大半をカバーしているが、こうした「大語環」の周辺部にはいくつかのより地域限定的な「小語環」が分布している。
 これらの「小語環」はその分布域や使用者人口こそ限られているとはいえ、相当に古い歴史を持つと見られるものが少なくない。例えば、アフリカ大陸南部のコイサン語環(コイサン諸語)である。
 このグループはアフリカ大陸では少数言語ながら、吸着音や多数の音素など言語が動物的な音声からスタートした起源を現在にも痕跡的に残す言語グループである。その使用者諸民族も最も古くに分岐したハプログループA(Y染色体)を保持する割合が高い。
 アフリカ大陸には他に、サハラ地域を中心に分布するナイル‐サハラ語環がある。このグループは通常、「語族」としてくくられるが、厳密な共通祖語の再構は確定的でなく、語環にとどまるだろう。言語地理的には北の阿亜語族と南のニジェール‐コンゴ語環の間に挟まれる緩衝的位置にある。
 さらに、コーカサス地方に分布するコーカサス語環(コーカサス諸語)は、自動詞の主語と他動詞の目的語が同等に扱われ、他動詞の主語だけが別扱いを受ける性質(能格性)をもつ能格言語の代表例であるが、この能格という文法的性質は、言語の膠着化や屈折化が進み、言語が対格性を獲得する以前の特徴を示しているかもしれない。
 このコーカサス語環が分布するコーカサス地方は、人種分類にいわゆるコーカソイドの発祥地と目され、コーカサス地方の住民が多く保持するハプログループG(Y染色体)は最も古い遺伝子系統の一つであり、アルプス山脈で発見された約5000年前の凍結ミイラのアイスマンも同系統の遺伝子を保持していたことが判明している。
 欧州に印欧語族人が移住して制覇する以前にはこの語環がより広く欧州に広がっていた可能性があるが、印欧語族によって遺伝的・言語的にも上書きされていき、原郷のコーカサス地方にだけ残存したものであろう。
 アジアに目を移すと、シナ‐チベット‐オーストロネシア語環の周辺には、インドシナ半島に分布するオーストロアジア語環がある。ベトナム語やクメール語に代表されるこのグループは通常、「語族」としてくくられるが、共通祖語は再構されていない。孤立語の特徴を共有するが、相違点も少なくないことから、語環と見るほうがよいと思われる。
 一方、オセアニアには、オーストロネシア語族に包摂されるマレー‐ポリネシア語派の諸言語が広く拡散しているが、ニューギニアとオーストラリアには固有の言語グループがある。すなわち800もの言語に分かれたニューギニアのパプア諸語、オーストラリア先住民アボリジニが共有する200以上の諸言語から成るオーストラリア諸語である。
 ただ、オーストラリア諸語はアメリカ先住民の言語同様、文化面にも及ぶ民族浄化政策により、オーストラリア公用語の英語に置換され、絶滅危機に瀕する言語が多い。
 一方、パプア諸語は山岳と熱帯雨林に覆われたニューギニア島の厳しい地理的特質と帰属言語数の多さゆえに、世界の言語の中でも研究が最も遅れており、インドネシア領の西部地域における相当数の非接触部族の存在ゆえに、未知の言語を含む。
 パプア人とアボリジニはともにハプログループCを多く保持する古い民族であり、出アフリカ後、インドを経由して当時はニューギニアとオーストラリアを接合していたサフル大陸に定住した人々の末裔と考えられる。その後の地殻変動でニューギニアが切り離されたことで、同島に残留した人々はパプア人となり、パプア諸語が形成された。
 こうした経緯に加え、両諸語には音韻のほか、純粋型でない能格言語などの共通指標も見られることから、両者を一つの語環―サフル語環―と仮説することもできるかもしれない。しかし、上述したような言語状況ゆえに、仮説上のサフル語環については、言語保存運動とともに今後の研究に待つべき点が多い。

2019年5月11日 (土)

弁証法の再生(連載第8回)

Ⅲ 唯物弁証法の台頭と転形

(7)マルクスの唯物弁証法
 ヘーゲル弁証法へのヘーゲル学派内部からの内在的な反発を示したフォイエルバッハに代表されるいわゆる青年ヘーゲル派は、その影響下の学徒のうちから、ヘーゲル弁証法をいっそう深層的に批判・超克しようとする急進的な思潮を生む。その代表者がマルクスであった。
 マルクスはフォイエルバッハを通じて、初めから内在批判的なヘーゲル弁証法を摂取していた。そのため、その出発点はフォイエルバッハと同様、ヘーゲル弁証法の精神優位的な観念論的性質を批判的にとらえることに置かれた。
 そのうえで、フォイエルバッハと同様に物質の優位性を認めていたが、フォイエルバッハの唯物論にも、物質の把握がなお観念論的かつ無時間的であるという難点を見出す。言わば、「観念論的唯物論」である。これを超克し、より純粋な唯物論―言わば、唯物論的唯物論―を抽出しようとしたのがマルクスであったと言える。
 マルクスがこのように思考したのは、フォイエルバッハの弁証法はへーゲル的な思考の方法論としての域を出ておらず、弁証法をより動的な歴史論に適用することを躊躇していると考えたからであった。ここから、マルクスは弁証法を唯物史観へと昇華させた。
 実のところ、ヘーゲルも弁証法を歴史に適用して独自の史観を示していた。ヘーゲルによれば、世界の全展開が精神の営みとして生じる葛藤、さらに葛藤を克服し完成を目指していく総合の弁証法的運動の中で形成される。
 より具体的には、歴史は奴隷制という自己疎外に始まり、労働を通じて自由かつ平等な市民によって構成される合理的な法治国家という自己統一へと発展する「精神」が実現する大きな弁証法的運動だというわけであるが、このようなヘーゲル史観はマルクスによれば、頭でっかちの逆立ちした思考である。
 マルクスの唯物弁証法は、物質に基礎を置き、中でも生産力を歴史の動因とみなす立場から、生産力の発展に照応して歴史が展開していくことを説いた。また一つの社会の編成も、生産力をめぐる生産諸関係を土台に法律的・政治的上部構造が照応的にかぶさるという形を取る。
 その点、ヘーゲルが晩年に『法の哲学』という視座から示した家族→市民社会→国家という人類社会史も、マルクスからすれば、物質的な視座を欠き、法律的・政治的上部構造にしか目を向けない片面的な体のものである。
 こうして、マルクスにより唯物弁証法という新たな領野が開拓されたわけだが、このような物質優位の弁証法の創出は、弁証法を形式論理学より格下げしたアリストテレス以来、発達を遂げてきた諸科学―特に経済学―と弁証法を結合させる意義を持つ思想史上の革命とも言えるイベントであった。

2019年5月 4日 (土)

アメリカ合衆国大統領黒書(連載第23回)

26 ウィリアム・ハワード・タフト(1857年‐1930年)

 種々の意味で派手な存在であった第26代セオドア・ローズベルトの後継となったのは、彼の友人でもあったウィリアム・ハワード・タフトである。タフトは祖父、父ともに法律家という法曹一族の出であり、父が創設に関わったイェール大学生の著名な秘密結社スカル・アンド・ボーンズのメンバーとして、イェール学閥の有力者でもあった。
 ハフトの前半生は法律家そのものであり、地元オハイオ州で検察官や裁判官、法学教授などを歴任し、ベンジャミン・ハリソン政権では連邦政府の訴訟で代理人を務める訟務長官に若干32歳で任命されるなど、法曹界で着実に栄進を続けた。
 政界へ転身する最初のきっかけは、1900年にマッキンリー大統領によりフィリピン民政長官に任命されたことである。同職はアメリカがスペインとの戦争に勝利し、獲得した旧スペイン領フィリピンの植民地統治に当たるもので、アメリカ帝国主義にとって最初の大きな成果であった。
 民政長官タフトは、当時の在比米国人の間にあったフィリピン人への人種差別観を排し、フィリピン人を対等な民族として扱おうとするなど、所詮は植民地行政官という限界の中でも、公正な姿勢を示そうとした。
 その後、ローズベルト大統領の知遇を得て戦争長官(現国防長官)に任命されるが、この時にアメリカ特使として訪日し、有名な桂‐タフト協定の締結を主導している。その主要な狙いはフィリピンに対する日本の領土的野心を抑制することであったが、引き換えに日本の朝鮮支配を容認する内容を含み、日本の植民地支配を追認する結果となった。
 こうしたローズベルト政権下での働きが評価され、ローズベルトから後継指名されたタフトは、1908年の大統領選挙を征して第27代大統領に就任したのである。議員歴や州知事歴もないままでのホワイトハウス制覇は多分にしてローズベルトの後ろ盾のおかげだったが、後にローズベルトに裏切られることになる。
 前任者に比べて地味なタフトが名を残したのは、外交政策における「ドル外交」である。これはアメリカ帝国主義がターゲットとしていたラテンアメリカや東アジアに対し、武力より資本進出を通じて経済支配を強める政策であった。
 タフトはローズベルトの傀儡と見られることを嫌ってか、内政面では次第にローズベルトの革新路線から離反し、共和党保守派ににじり寄っていく。人事政策では、タフトは黒人を連邦要職に就かせることを明白に拒否し、南部の黒人公職者を排除していった。
 こうしたタフトの保守化はローズベルトをして進歩党結成に動かしめたうえに、リンカーンの奴隷解放以来、共和党を支持してきた黒人層を民主党へ鞍替えさせる結果となった。タフトは再選を目指した1912年大統領選でその代償を払うことになる。予備選で共和党の指名を勝ち取ったタフトであったが、本選挙では民主党のウッドロー・ウィルソンに敗れたのである。
 かくして、タフト大統領は一期で去ることとなったが、彼が異例だったのは退任後、1921年に連邦最高裁判所長官に任命されたことである。これによって、彼はアメリカの行政と司法の長を両方経験した史上唯一の人物となった。しかし、タフトの本領は政治家より裁判官にあったのかもしれない。彼は知的で比較的公正な人物であったが、それは保守的な知性と公正さであり、言ってみれば裁判官的な資質なのである。

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