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2019年4月

2019年4月30日 (火)

アフリカ黒人の軌跡(連載第38回)

七 アフリカ分割競争の時代

アフリカ分割競争の始まり
 サハラ以南のアフリカ大陸(以下、単に「アフリカ」・「アフリカ大陸」というときは、サハラ以南を指す)は、現南アフリカ共和国が占める南端部を除けば気候的に厳しく、現生人類発祥以来、アフリカにとどまってアフリカの気候に適応してきたアフリカ黒人でしかそこに定住することは困難な地理的環境下にあった。
 一方で、アフリカ黒人は膨大な数の民族・部族に分岐し、広大な領域を支配する帝国的な統治体を形成することなく、便宜上「帝国」と指称される王国にしても、それは征服した部族を配下に編入した連合体的な構制であることが多く、統合性と持続性には欠けていたのである。
 そうした中、西欧列強のアフリカ進出は、15世紀から専ら大航海時代のポルトガルにより先行展開されており、先駆的なアフリカ進出はポルトガルの独壇場と言ってよかった。その後に、順次帝国としての体制を整えた英仏蘭などの列強も参入するようになる。
 しかし、早くからアフリカを踏査していたポルトガルと異なり、これら後発列強のアフリカ進出は「新大陸」アメリカ・カリブ地域の植民地向けの奴隷貿易を目的としたもので、アフリカそのものの植民地化を目指したものではなかった。かれらにとって 直接入植するには、アフリカはあまりにも気候的・風土的に厳しいものがあったのだ。
 一方、南部アフリカには、列強とは別個に、後のボーア人となるオランダ系移民やユグノー派移民による入植活動が17世紀から始まる。これは喜望峰周辺の南部はアフリカ大陸でも気候的に温暖でヨーロッパ人にも入植しやすいという地理的な特質、さらに南部アフリカは人口まばらで、強力な黒人王国の樹立が遅れていたという事情に支えられてのことであっただろう。
 こうして、アフリカ大陸はポルトガル(人)とボーア人の入植を除けば、19世紀までおおむね独立が保たれていたが、奴隷貿易の禁止後、事情が一変する。奴隷貿易が禁止され、新大陸では独立が相次ぐと、西欧列強はアフリカの直接的な領有を図り始めたのだ。
 ベルギーのコンゴ侵出が新たな時代の始まりとなる。当時のベルギーはオランダから分離したばかりの新興小国であるがゆえに、海外膨張の野心を抱いた。これに刺激され、他の列強が続く。後発列強に押され、斜陽化していたポルトガルも改めて参入していく。こうして、列強による侵略的アフリカ分割競争が始まる。 
 後発列強の代表格ドイツが音頭を取って1884年‐85年に開催されたベルリン会議は、アフリカ分割を国際的に認知しつつ、その「ルール」を設定しようとした点で、歴史的な転換的となった。国際的認知といっても、本会議にアフリカ人は誰一人招かれず、欧州列強のための列強の会議にすぎなかったのであるが。
 非黒人系の北アフリカも分割対象だったが、サハラ以南のアフリカは多数の小王国に分岐し、まとまりを欠いていたため、攻められやすかった。非王国地域も多部族が割拠し、部族連合の形成は困難であった。そこで列強は王国・部族ごとに武器供与などの利益と引き換えに「保護」を名目とした不平等条約を各個的に結び、実質上植民地化していく手法が普及する。
 アフリカの諸部族は、こうした列強の恣意的な分割攻勢に対して知的に対抗する力量をまだ備えていなかった。そこから、ヨーロッパ社会に「アフリカ=遅れた非文明社会」という定式が刻み込まれていき、これが黎明期の未熟な遺伝学的知見と組み合わさって、人種差別的な白人優越主義のドグマが流布する結果ともなった。

2019年4月20日 (土)

言語発展論(連載第24回)

第3部 新・世界言語地図

七 シベリア‐アメリカ語環

 南北アメリカ大陸には、同大陸をインドと誤認して「発見」したヨーロッパ人によってインディオとかインディアンと名づけられた先住民族の膨大な言語群が存在しており、比較言語学上はすべてを包括して「アメリカ先住民諸語」と呼ばれてきた。
 しかし、この総称は300を超える言語をすべて束ねた大雑把なくくりにすぎず、そこには10を超える大語族といくつもの独立語がすべて包括されている。それらは相互には疎通不能なほど多彩であり、「アメリカ先住民諸語」の共通祖語を再構することは不可能である。おそらく「アメリカ先住民諸語」は一つの共通祖語から分岐したものではないからである。
 一方、遺伝子系譜的に見ると、アメリカ先住民は最北のイヌイットを含めて、ハプログループQを共有している。意外にも、この遺伝子系統の発祥地は2万乃至3万年前のイラン付近と推定されており、そこから東進してシベリアを通過し、まだ陸続きだった頃にアメリカ大陸へと順次移動したと見られている。
 実際、通過点のシベリアでは少数民族ケット人に90パーセント以上という高頻度でハプログループQが見られるので、極端にはアメリカ先住民の祖先集団はケット人だと言うこともできる。さらに興味深いことに、かれらの固有言語ケット語が属する中央シベリアのイェニセイ語族と主として北アメリカに広く分布するナ・デネ語族の間に共通祖語から分岐した同族関係が立証されたのである(デネ‐イェニセイ語族)。
 全般に、アメリカ先住民諸語とイェニセイ語族も含む古シベリア諸語は包合語の特徴を共有している。典型的な抱合語は動詞に他の意味的・文法的な単位が複合されて、一つの文意を成すような言語であるが、こうした特徴は品詞の機能が未分化だった古い言語の特徴を継承しているとも言える。
 現時点において、ベーリング海峡をはさんだユーラシア・アメリカ両大陸間で厳密な比較言語学的検証によって同族関係が立証され得るのは上掲のデネ‐イェニセイ語族のみであるが、遺伝子系譜をも総合した語環の観点に立てば、ここに「シベリア‐アメリカ語環」を想定することができるかもしれない。
 この語環は本来そこに膨大な数の言語を含むにもかかわらず、ロシアを含むヨーロッパ列強の植民地支配を経て、スペイン語や英語、ロシア語等に置き換えられ、現在ではその多くが死語ないし絶滅危惧言語と化している点で、前回までに見た四つの語環とは大きく状況が異なっている。実際、この語環の中で、一国の公用語の地位を持つのは1000万人以上の話者を持つと推定される南米のケチュア語をはじめ、ごく限られている。
 おそらく抱合語の持つ複雑さが現代の先住民族自身によっても回避され、より簡明な屈折語の印欧語系言語に置換されていく流れは今後も変わらないであろうが、「シベリア‐アメリカ語環」を立てることが、希少言語の保存に寄与することを期待する。

2019年4月13日 (土)

弁証法の再生(連載第7回)

Ⅱ 弁証法の再発見

(6)ヘーゲル弁証法への反発
 ヘーゲル弁証法は、アリストテレス以降2000年近く忘却されていた弁証法を観念論的に蘇生させたものと言えるが、これに対しては反発も現れた。そうしたアンチテーゼはヘーゲルを継承するヘーゲル学派とヘーゲルを否定する反ヘーゲル学派の双方から現れた。まさに、弁証法的展開である。
 反ヘーゲル学派の代表者は、キェルケゴールである。彼はヘーゲルの抽象的思考に対して反発した。ヘーゲルは現実世界において常に自らの否定性の契機に直面する有限者たる人間は、その否定性を弁証法的論理において止揚する方法で超克し、より真理に近い存在として自らを昇華していくことができるとしたが、キェルケゴールにとって、こうしたとらえ方は量的な抽象論にすぎない。
 彼によれば、有限な人間存在が直面する否定性とそれに由来する葛藤や矛盾は、ヘーゲル的な抽象論によって解決されるものではない。有限的主体が自らの否定性に直面したとき、それを抽象的に止揚しようとするのではなく、その否定性とあえて向き合い、それを自らの実存的生において真摯に受け止め、対峙していかねばならないのである。
 このような思考をキェルケゴールはヘーゲルの抽象的思考に対立する具体的思考として提示し、「逆説的弁証法」(質的弁証法)と名づけた。言わばヘーゲル弁証法を逆立ちさせたわけであるが、そこから、一般的・抽象的な観念としての人間ではなく、個別的・具体的な事実存在としての人間を哲学の対象とする実存主義の祖となるのであった。
 このような個別的実存と弁証法との関係性については後にサルトルが洗練された弁証法的解決法を示すことになるが、ここでは踏み込まず、さしあたりキェルケゴールをヘーゲル弁証法への実存主義的アンチテーゼとみなしておく。
 他方、ヘーゲルを継承する立場からも、内在的な批判が現れる。その代表者は、ルートヴィヒ・フォイエルバッハである。彼もまた、部分的にはキェルケゴールと共有し、ヘーゲルが抽象的な精神を主体とみなし、そうした観念的主体の自己展開の過程を通して歴史や世界をとらえる方法に疑念を抱いた。
 しかし、彼はキェルケゴールのように、有限的な存在が避けられない「死に至る病」=絶望の超克を自己放棄的な信仰に求めるのではなく、むしろそのように自身の内部の苦悩を疎遠な外部の絶対者たる神に委ね、投影するような所為を自己疎外として退け、現世的な幸福論を対置したのであった。

2019年4月 6日 (土)

アメリカ合衆国大統領黒書(連載第22回)

25 セオドア・ローズベルト(1858年‐1919年)

 記念すべき20世紀最初の年にマッキンリー大統領がアナーキストの手により暗殺されるという衝撃の後、副大統領から第26代大統領に自動昇格したのが、セオドア・ローズベルトであった。
 彼は南北戦争の当時まだ幼年であったから、南北戦争以降の共和党系大統領では初めて南北戦争従軍経験のない大統領となった。これにより、南北戦争以後の19世紀後半期アメリカのほとんどを統治してきた歴代の「南北戦争功労政権」は終焉することとなった。
 そうした意味で新しい世代に属し、かつアメリカ史上最年少(2019年現在)42歳の新大統領は、「進歩主義」を掲げていた。ここで言う進歩主義とはしかし、当時の西欧列強が志向していた帝国主義的な膨張政策にアメリカも歩みを進めるという「進歩」を意味していた。
 19世紀までのアメリカはその広大な「新大陸」の開拓―すなわち先住民族浄化作戦―に注力しており、対外的にはおおむね消極主義であり、「旧大陸」諸国の新基軸であった帝国主義的世界戦略には乗り遅れていた。その意味で、20世紀初頭のアメリカは、その広大さにおいてはすでに「大国」であったが、世界秩序においてはいまだ途上的新興国であった。
 そうした流れを変える先鞭をつけたのがマッキンリー前大統領であったが、暗殺により未完に終わったものを引き継いだのがローズベルトだとも言える。彼の有名な「穏やかに話し、棍棒を持ち歩く」という言葉にあるとおり、ローズベルトは軍事力を背景とした威嚇外交によって、アメリカの覇権を拡大しようとしていた。
 さしあたりは、「アメリカの裏庭」であるカリブ諸国への干渉を推進し、フランスが疑獄事件を契機に手を引いたパナマ運河の建設と租借を実現させたほか、キューバにもグアンタナモ基地の租借を認めさせた。これらはアメリカ大陸をアメリカの「縄張り」と宣言したモンロー主義の延長とも言える。
 しかし、ローズベルトは1904年の年次教書では、モンロー主義を超え出て、将来アメリカが世界に国際警察力を行使する時代の到来を予言したが、これは20世紀以降に様々な紛争火種となるアメリカ覇権主義政策のキーワード「世界の警察官」の先駆けを成す、言わば「ローズベルト宣言」であった。
 一方で、ローズベルトは日露戦争の仲介役を買って出て、ポーツマス条約の締結を導いた功績で、アメリカ大統領として初のノーベル平和賞受賞者となった。しかし同時に、ロシアに実質上勝利し、帝国主義化を推進していく気配を見せる極東の新興国・日本の脅威を感じ取ったローズベルトは、日本を仮想敵として戦争を想定する「オレンジ計画」の策定の先鞭をつけている。
 ローズベルトの「進歩主義」は経済政策では、大企業の独占を規制し、消費者保護を図る介入主義の流れを作ったほか、個人的に強い思い入れのあった自然保護の規制を強める環境政策の推進という新機軸を打ち出した。保守派から「社会主義」のレッテルを貼られたこれら新政策の一部は、後に対立政党・民主党から大統領となる遠縁のフランクリン・ローズベルトに継承されていく。
 ローズベルトの「進歩主義」はしかし、人種問題や先住民問題では進歩を見せなかった。先住民に関しては民族浄化を肯定し、困窮先住民の救済には消極的であったし、任期中には政治課題とならなかったものの、彼の日本脅威論は後の排日法にも影響を及ぼしている。
 ちなみに、ローズベルトは高い人気を背景に1904年大統領選挙で圧勝し、副大統領からの自動昇格者として初めて連続二期を務めた。退任後の1912年には当時の政治状況への不満から新党・進歩党を結成して大統領選挙に再出馬するも、選挙運動中に暗殺未遂事件にあったうえ、落選した。
 政治的背景のない銃撃事件ではあったが、彼の分派行動は共和党票を分裂させ、第一次世界大戦への対処をめぐってローズベルトを激怒させることになる民主党ウッドロー・ウィルソンの当選を許す結果となった。

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