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2019年3月

2019年3月25日 (月)

アフリカ黒人の軌跡(連載第37回)

六 南部アフリカの蠕動

ボーア白人との衝突と混淆
 南部アフリカに関して特筆すべきは、17世紀以降、この地にオランダ人をはじめとするヨーロッパ白人が大量入植してきたことである。この入植は先行して始まっていたポルトガルによるものとは異なり、国家単位ではなく、宗教的迫害などを理由とした自主的な移住によるものであった。
 この入植白人勢力は現地に土着し、先住民であるアフリカ黒人を奴隷化して、農場を経営したため、オランダ語で「農民」を意味するブールの英語転訛でボーア人とも呼ばれた。こうした初期の経緯は北アメリカ植民地とも類似している。
 しかし、その後の展開はアメリカとは逆になる。18世紀末以降、英国が南部アフリカに触手を伸ばし、ボーア人発祥地の地とも言えるケープ植民地を占領すると、新たに英国からの移民が急増した。英国は奴隷制廃止を謳ったため、南部アフリカの黒人奴隷制はアメリカより一足先に終焉した。
 奴隷労働力を喪失したボーア人は1830年代以降、英国の支配を逃れるべく沿岸部を離れ、内陸部へ集団移住するが、この大移動グレート・トレックは、当然にも内陸部のバントゥー系黒人勢力との衝突を生み出した。特に強勢化していたズールー王国は1838年、策略により宴席でボーア人を奇襲し、壊滅的打撃を与えた。
 しかし、同年、劣勢ながら反転攻勢に出たボーア人勢力に大敗を喫したズールー王国は和平に転じ、ボーア人による最初の自治国家ナタール共和国の建設を許すことになる。ナタール共和国は間もなく英国の攻撃を受けて滅亡するが、ボーア人はグレート・トレックを諦めず、英国との条約に基づき、1850年代に相次いでオレンジ自由国とトランスヴァール共和国を建設した。
 この困難なグレート・トレックの過程で、ボーア人は民族意識を強め、アフリカ土着白人アフリカーナーを称するようになる。このオランダ語起源の人称は元来はアフリカ黒人を意味したが、いつしか土着白人の意味に転じたのである。
 とはいえ、アフリカーナーは南部アフリカ全体では圧倒的は少数派であったから、かれらがこの地でアメリカのような奴隷制によらずして勢力を拡大するうえでは黒人勢力を物理的にも血統的にも隔離する必要があった。このことは、後の統合されたアフリカーナー国家・南アフリカ共和国の人種隔離政策につながる。
 他方、ケープ植民地でボーア人が主に先住黒人コイコイ族の女性と通じて生まれた混血系の民族集団はグリカ族となり、グレート・トレックの時代にはボーア人と同様に、内陸部へ集団移住したうえ、1830年代に三つの独自の自治国家を形成した。
 中でも、ウォーターボーア家が世襲的に支配したグリカランドウェストは最も広域かつ強力であったが、ボーア人国家の属領的な地位を脱することはなく、地域にダイヤモンドが発見されると、権益を当て込んだ英国の武力介入を招き、1871年以降は英国植民地に編入されていった。

2019年3月18日 (月)

言語発展論(連載第23回)

第3部 新・世界言語地図

六 ニジェール‐コンゴ語環

 アフリカ大陸における代表的な語環であるニジェール‐コンゴ語環は、比較言語学上は共通祖語から派生した「語族」として包括されることが多い。これは、アフリカ大陸が19世紀末以降、西洋列強の分割植民地化されていった中で、特にサハラ以南の諸言語に対する比較研究が進展した成果として、部族ごとに膨大な数を擁する諸言語の系統関係が解明されてきたことによる。
 その一つの集大成として、アメリカの比較言語学者ジョゼフ・グリーンバーグにより提唱された「ニジェール‐コンゴ語族」は、その内包語群中「バントゥー語群」がその分布範囲と話者数において圧倒的な比重を占めているため、比較的に共通祖語を再構しやすかったと言える。
 そのため、「語族」としてのくくりが与えられるが、「バントゥー語群」以外の内包語群・諸語については共通祖語の再構が完了していないこともあり、すべてを一つの「語族」と認定すべきかどうかについては議論が分かれている。アフリカにおける言語的多様性からして、完全な再構には極めて困難が予想されるため、さしあたりは「語環」として把握しておいたほうが無難であろう。
 そのように見た場合、ニジェール‐コンゴ語環にはいくつかの共通指標があるが、その代表的なものは名詞の属性分類の細かさである。いわゆる名詞クラスと呼ばれるものであるが、ニジェール‐コンゴ語環を代表するバントゥー語群では10乃至20余りの名詞クラスを持つ言語が多い。
 名詞クラスの豊富さはおそらく、人類の初期言語が事物を指し示す名詞に始まり、動詞や形容詞のような品詞が発達する以前は、ほぼ名詞だけで文を構成していた時代の名残かもしれない。それだけこの語環の古さを象徴しているとも言える。
 このような名詞クラスは名詞に接頭辞として表示されるため、ニジェール‐コンゴ語環では接辞が発達しており、膠着語の特徴を持つ。一方で、ニジェール‐コンゴ語環には声調言語もしくは声調言語の痕跡を残す言語が多いことも特徴である。
 ちなみに、先のグリーンバーグはアフリカ大陸の内陸中央部に分布する「ナイル‐サハラ語族」という語群も同時に提唱しているところ、これと「ニジェール‐コンゴ語族」の内的関連性を想定してより大きな語族を仮説する見解もあるが、立証されていない。なお、「ニジェール‐コンゴ語族」については確定的とみなす場合、これはどの語環にも属しない独立した語族の例となる。

2019年3月14日 (木)

弁証法の再生(連載第6回)

Ⅱ 弁証法の再発見

(5)ヘーゲル弁証法②
 ヘーゲル哲学を支える思考法としての「ヘーゲル弁証法」は、主著『精神現象学』の主題ではないが、そこにおける思考の方法として展開されている。その特徴をひとことで言うならば、二元論の超克ということに尽きる。
 ただし、対立する二項を妥協的に接合する折衷主義でも、二項の最大公約数を抽出する平均主義でもなく、かといって第三項を単純に追加するのでもない、対立する二項から内在的に新たな項を導出するような高次の思考法である。
 ある命題(定立)とその反対命題(反定立)を俗に言う「良い所取り」によって折衷するという思考法は一時的な対立の緩和には役立つが、まさに対立の一時的休戦にすぎない。そこで、より進んで対立命題の最大公約数を抽出するという平均主義は、命題が数学的に割り切れる性質のものであるならば、いちおうの解決をもたらすかもしれないが、そうでなければ、割り切れない結論として対立は未解決である。
 そこで、二項対立を超克するべく、新たな第三項を導入しようとするのは自然な思考の流れであろうが、その際に、定立/反定立命題とは異なる第三項を外部から追加するなら、最初の二項対立が三項鼎立に転化する。これで最初の二項対立は相対化されたとしても、新たに三つ巴の戦いとなりかねない。
 これらの思考法は対立命題を基本的に固定したまま対立の緩和・解消を目指す点では、「悟性的」であるが、「総合」というプロセスを欠いている点で思考法としては不全であるから、根本的な対立の解消にはつながらないのである。
 その点、ヘーゲルは対立する命題が互いを批判吟味する中で相互媒介によって交差しつつ、最終的に対立を止揚するという思考法を提唱する。止揚によって立ち現れるものは第三項ではあるが、最初の二項と無関係に創出された第三項ではなく、最初の二項が内部的に保存されているような第三項である。
 このような思考法は折衷主義や平均主義のように対立回避的な妥協ではなく、対立を通じて相互に結びつき、最終的な対立の止揚に至るという点では対話的であり、2000年前のソクラテス式問答法を再発見したものとも言えるかもしれない。ただ、ヘーゲルは実際に問答するのではなく、自己の内部でこうした問答法的な思考を実践しようとする点で近代的な弁証法ではある。
 ヘーゲルは、こうした思考法を思考法そのもの、あるいは新たな「論理学」の体系として提示したのではなく、彼の言うところの「絶対知」を導出するための思考過程として実践したのである。簡単に言えば、弁証法的思考の反復継続を通じて最終的に到達する最高次の学的知こそが、哲学的な絶対知だというのである。

2019年3月 9日 (土)

アメリカ合衆国大統領黒書(連載第21回)

24 ウィリアム・マッキンリー(1843年‐1901年)

 ウィリアム・マッキンリーは、民主党のクリーブランド大統領が一期おいて二度政権を担った後、共和党が政権を奪回する形で、第25代大統領に就任した。彼は南北戦争に若くして志願従軍して勇敢に戦い、一兵卒から大尉に昇進、名誉少佐を授与される活躍を見せた。世代的には、マッキンリー政権が最後の「南北戦争功労政権」となる。
 マッキンリーは除隊後、法律家となり、ストライキを決行した労働者の集団弁護を担当するなど、左派的な傾向も見せたが、北軍時代の上官でもあった第19代大統領ラザフォード・ヘイズの選挙運動陣営から政治活動に入り、間もなく連邦下院議員に当選、10年以上務めた後、オハイオ州知事を経て、1896年大統領選を征して大統領となった。近代アメリカにおける一つの典型的な政治的立身街道を歩んだと言える。
 頂点にたどり着いたマッキンリーは、内外政策で果断な政策を打ち出していく。内政面では、1893年の恐慌からの回復策である。これにマッキンリーは金本位制と高関税による保護貿易政策で臨んだ。その成果とだけは言えないが、幸い、1870年代からの大不況は、彼が当選した年に収束した。
 一方、外交面では西洋列強による帝国主義的膨張が最盛期に入っていた折、従来国内の開拓とそれに伴う先住民浄化作戦に注力してきたアメリカは出遅れ感があった。しかし、国内開拓が一段落しようとしていた折、マッキンリーは残り少なくなったアメリカ領土のキューバで独立運動を弾圧していたスペインに目を向け、米西戦争を仕掛けた。
 これに勝利したアメリカはフィリピンやプエルトリコを含むスペインの太平洋、カリブ海域の旧領を獲得し、遅ればせながら、海外膨張を実現したのだった。このとき、フィリピンの併合に反対して結成されたのが、クリーブランド前大統領も参加する「アメリカ反帝国主義連盟」であった。この団体は帝国主義的な海外膨張はアメリカの自主独立の精神に反するとして反対する近代史上初のアメリカ反戦団体とも言えるが、マッキンリーが耳を貸すことはなかった。
 同様に、マッキンリーはアメリカ人移住者がクーデターで成立を宣言していたハワイ共和国をアメリカの準州として編入した。これは、二代前のハリソン大統領が政権末期に調印しながら、クリーブランド前大統領が撤回していた条約を再度取り上げたのだったが、これにより、アメリカは今日に至る太平洋地域への拡大を実現したのである。
 他方、公民権に関しても、マッキンリーは南北戦争以来リベラルの旗手だった共和党の伝統を薄めようとしていた。彼の当選には黒人層が貢献していたにもかかわらず、マッキンリーは黒人の政権起用には熱心ではなく、南部の人種隔離政策や人種暴力に関しても積極的な関心を示さず、黒人層を失望させていた。
 しかし、史上初めて帝国主義を明確に打ち出し、アメリカ国民の愛国心を刺激することに成功したマッキンリーは、1900年大統領選を制して再選を果たした。そして記念すべき二期目に踏み出した20世紀最初の年、凶弾に倒れることとなった。
 犯人はレオン・チョルゴッシュなるポーランド移民のアナーキストであった。彼は女性アナーキストとして著名なエマ・ゴールドマンに影響され、強固なアナーキストとなっていた。エマも一時拘束されたが、関与しておらず、暗殺はチョルゴッシュ単独犯行とされ、狙撃事件からわずか50日ほどで死刑執行された。
 チョルゴッシュはかつて勤務していた圧延工場でストライキに加わり解雇された経験を持つ当時の典型的な移民労働者階級であった。その昔、弁護士としてスト労働者の弁護を担ったマッキンリーがスト労働者出身の暗殺者の手にかかるとは皮肉であった。
 こうして、20世紀最初のアメリカ大統領となったマッキンリーは、リンカーン、ガーフィールドに続き、史上三人目の暗殺されたアメリカ大統領として記憶されることになるのである。暗殺の要因はそれぞれに異なるが、三大統領がすべて共和党系であるということも、南北戦争以降における共和党支配の象徴と言えるかもしれない。

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