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2019年2月 2日 (土)

アフリカ黒人の軌跡(連載第35回)

六 南部アフリカの蠕動

ズールー族の勃興
 今日の南アフリカ共和国を中心とするアフリカ最南部は、先史時代からコイサン諸族の割拠するところであったが、かれらは伝統的な部族社会を守り、王国を形成しなかった。バントゥー族の大移動によって、この奥地にも拡散していたバントゥー系諸族が王国を形成し始めるのもやや遅く、19世紀に入ってからである。
 そうした中で最初に強力な王国を築くのが、ズールー族である。元来、ズールー族はングニ語を話す小さな部族にすぎなかったが、1816年にズールー族長に就いたシャーカの時、突如強大化した。その秘訣は武器と戦法、組織にわたる軍事改革にあった。
 武器に関しては効率の悪い投槍を短槍に代えて接近戦を戦いやすくし、それに合わせて防御用の大楯を開発した。戦法に関しては「雄牛の角」戦略と呼ばれる三分割陣形を導入したとされるが、この戦法の原型はすでにチャンガミレのロズウィ帝国が先駆的に導入していたことは、前回見たとおりである。これが偶然の一致か、シャーカがロズウィの先例を知っていたのかは不明である。
 これらに加え、一種の連隊制度を導入し、組織的な戦闘力を高めたズールー族は周辺のバントゥー系諸族を次々と撃破し、王国版図に加えていった。その結果、最盛時には今日の南アフリカ共和国のクワズール・ナタール州全域に及ぶ王国に成長したが、シャーカは内政面ではしばしば残酷な粛清を行なうなど暴虐だったこともあり、1828年に異母弟ディンガネによって暗殺された。
 この後、シャーカを実質的な初代国王とするズールー王国はディンガネによって継承されるも、彼には異母兄のような軍事的統率力がなく、配下の諸部族の反乱に悩まされた末、1840年にはもう一人の異母弟ムパンデのクーデターにより殺害されてしまう。
 シャーカからディンガネまでのおおむね四半世紀は、ズールー族の攻撃的な膨張政策で南部アフリカが絶えず戦乱状態に置かれ、多数の難民を生んだことから、「ムフェカーネ」(追い散らし)の時代と呼ばれたが、ディンガネを倒したムパンデによる30年余りに及ぶ安定統治がそれを一応収束させた。
 一方、もう一つのズールー王国と呼ぶべき王国も台頭する。シャーカの副官だったムジリカジが今日のジンバブウェ西部に建てたムスワカジ王国である。ムジリカジは1823年、シャーカ王と対立して離脱、自身の配下を率いて放浪した末、衰退していたロズウィ帝国領域に侵入し、ここに自身の王国を建てたのである。
 ムジリカジはシャーカと袂を分かったとはいえ、シャーカ式の連隊制度を導入しつつ、シャーカを徹底した焦土作戦を展開し、周辺勢力を征服していった。そして、1840年までにブラワヨを首都とする強力な軍事国家を築いた。
 暗殺されたシャーカとは異なり、ムジリカジは1868年の死去まで君臨し、その死後は息子のロベングラが継承した。その際、ロベングラの生母の身分が低いことを疑問した配下の首長の反乱が起きたが、ロベングラはこれを鎮圧した。この時、彼は王子だった自身が殺されかけたという意味で、首都を「彼が殺されかけた場所」を意味するブラワヨと命名したという。
 こうしてズールー王国とそこから派生したムスワカジ王国が南部アフリカにおける二大ズールー族国家として並立するが、時の南部アフリカは英国を中心とする西欧列強とオランダ系を主力とする土着白人という二種の白人勢力によって侵食される新たな状況に直面していくのである。これは次章の主題とする。

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