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2019年2月

2019年2月28日 (木)

アフリカ黒人の軌跡(連載第36回)

六 南部アフリカの蠕動

スワジ族とスワジ族の動向
 ズールー人と同じバントゥー系ングニ族に属する民族として、スワジ族がある。かれらは北東アフリカ方面から南下し、放浪した後、17世紀初頭には今日のエスワティニ王国(旧スワジランド)の領域に到達している。
 強力なズールー族との抗争を強いられながらも、スワジ族は比較的小規模のまとまった部族であるため、伝承上は相当に古くから多くの王名が記録されているが、現王国の直接的な創始者と目されるのは、18世紀後半に出たングワネ3世である。彼は領土を拡大し、現在のエスワティニ王国の基礎を築いた王であった。
 ングワネ3世の実父ドゥラミニ3世にちなんでドゥラミニ王朝と呼ばれるスワジ王朝は、順調に継承され、19世紀前半、ズールー王国のシャーカ王ともほぼ同世代のソブーザ1世の時、周辺諸部族を糾合して、王国を拡張した。その結果、スワジ王国はズールー王国に匹敵するほどに強大化した。
 ソブーザ1世を継いだ息子のムスワティ2世は30年近く君臨し、軍事的な征服活動を展開した。彼はズールー族のように連隊制度を導入しつつ、連隊を各前哨基地に配置して支配の核とした。軍略に長けた彼をシャーカ王になぞらえる者もある。
 しかし、1868年のムスワティ2世の死後、スワジ王国の軍事活動は収束する。結局、スワジ王国はそれ以上に強大化することなく、ボーア白人や西洋列強の侵出に直面し、曲折を経て20世紀初頭から60年近く英国領とされたのだった。
 一方、19世紀前半期におけるズールー族の膨張が周辺諸部族に動揺をもたらした「ムフェカーネ」(追い散らし)の時代にあって、独自の自立化を見せた部族としてソト族がある。
 ソト族はバントゥー族大移動の波に乗り、南部に移住後、今日の南アフリカ自由州を中心とする高原地帯に陣取り、多くの小首長国に分かれて展開していた。
 そうした中、ズールー族のシャーカによる征服戦争が始まると、ソト族も今日の内陸国レソト王国の辺りへ移動を余儀なくされたが、この困難の時代に現れた英君が現在のレソト王国の初代国王とみなされるモショエショエ1世であった。
 彼は元来、ソト族の小支族首長家の出自であるが、軍事以上に卓越した外交術によって、ソト族の全体を束ね、王国へと成長させた。折りしもズールー人の侵略で避難民が発生していたが、モショエショエはこれら避難民を領域内に保護しつつ、臣民に組み入れて王国を拡大していったのである。
 彼の外交術はアフリカ南部に手を伸ばす白人勢力との関係でも発揮された。この頃、南部アフリカには土着オランダ系のボーア人勢力とイギリス、さらにフランスが競合的に侵出するという複雑な情勢にあったが、モショエショエはボーア人に対抗すべく、フランスと結び、キリスト教の宣教を容認した。そのうえ、フランスを通じて近代兵器の購入を図ったのである。
 こうして近代化に一早く着手するとともに、モショエショエは1868年、イギリスの保護国となることを決断した。これは、彼が主敵とみなしたボーア人に西部領土を奪われたことを契機としていたが、あえて大英帝国の保護国化する屈辱を受け入れて王国存続の担保とするというモショエショエ流の現実外交の成果とも言える。
 しかし、その代償として、スワジ王国に先駆けて英領化されたレソトの再独立は、以後100年近くにわたって封印されることとなるのであった。

2019年2月17日 (日)

弁証法の再生(連載第5回)

Ⅱ 弁証法の再発見

(4)ヘーゲル弁証法①
 アリストテレスによって弁証法が論理学より下位の一推論法に格下げされて以来、実に2000年近くにわたって弁証法は事実上忘却されたままであった。それを2000年の眠りから覚まさせたのは、ドイツの哲学者ヘーゲルであった。
 ヘーゲルはカントの観念論が隆盛であった近世ドイツで、カント哲学の研究と習得から始めて、その観念論の克服を目指していた。その過程で、彼は後に弁証法をヘーゲル流の仕方で再発見したのだと言える。その概要は彼の主著でもある『精神現象学』に収められている。
 ヘーゲルがアリストテレスによって格下げされた弁証法を再発見したのは、彼がアリストテレス流の形式論理学とその土台となっている形式主義的・概念操作主義的な「体系的知」―それは近代科学への道でもある―とは別に、事物の自然な本質規定の認識に到達するような「学的知」を導く思考過程に関心を向けたからであった。
 このような問題意識はおそらく、カント哲学における認識と「物自体」の不一致という欠点を克服し、宗教的意識にも関連する絶対知への到達を試みようとするところから生じた。大胆に言えば、ヘーゲルはアリストテレスを遡って、プラトンのイデア論を近代哲学的に改めて再解釈しようとしたのである。
 ただし、プラトンがイデアの把握の道を弁証法より以上に幾何学に求めようとしたのに対して、ヘーゲルは改めて弁証法に焦点を当て、弁証法を通じてヘーゲル流のイデア=絶対知へと到達しようとしたのである。そうしたヘーゲルの思考の道程そのものが一冊の書としてまとめられたのが『精神現象学』であるが、様々に研究されてきたこの書の内容をここで逐一紹介することはしない。
 ここで触れておきたいのは、『精神現象学』には二重の含意があるということである。一つは『精神現象学』の実質的な内容である。すなわち、そのタイトルどおり、「精神の現象」について扱った言わば意識の哲学としての内容である。
 もう一つは、この書で適用されている弁証法的思考法そのものである。これはしばしば「弁証法的論理学」とも呼ばれるが、先に述べたとおり、ヘーゲルはアリストテレス流の形式論理学に対抗する形で「学的知」への到達を目指したので、「論理学」を冠するのは妥当と思われない。
 この二つの含意のうち、ヘーゲルが主題的に扱ったのは前者であり、後者の弁証法的思考法は必ずしも主題ではないのであるが、晩年の主著『法の哲学』に至るまで、ヘーゲル哲学を支える思考法として維持されていくものを「ヘーゲル弁証法」と規定することにする。

2019年2月13日 (水)

言語発展論(連載第22回)

第3部 新・世界言語地図

五 シナ‐チベット‐オーストロネシア語環

 シナ‐チベット‐オーストロネシア語環とは、比較言語学の通説上は別語族として立てられているシナ‐チベット語族とオーストロネシア語族とを併せて一つの語環に包括したものである。もっとも、後述のように、これらを共通祖語から派生した単一の語族とみなす新説もある。
 通説上のシナ‐チベット語族は中国語とチベット語に代表される東アジアの代表的な語族であるが、研究の進展により、ビルマ語の系統もチベット語に近縁であることが判明し、語族全体がシナ語派とチベット‐ビルマ語派の二系統に大別されるようになっている。
 この語族の共通指標は、形態論上の孤立語と声調の存在である。その典型例がシナ語派としてくくられるいわゆる中国語であるが、現代普通話の文章体には接辞が現れ、膠着語要素が加味されているとされる。
 一方、チベット語は元来接辞を用いる膠着語要素が強かったところ、時代が下るにつれ、接辞が消失して孤立語的性格が強まったと見られている。ビルマ語の場合は孤立語的性格を持ちながらも、基本的には膠着語に分類されている。
 こうした語族代表言語間での不統一は、果たしてこの語族が共通祖語から派生した語族なのかについて疑問を抱かせる。一つの語族とすれば、おそらく、祖語はビルマ語のような膠着語であった。それが時代下って、チベット語のように孤立語化していき、最極点としてシナ語派(中国語)のような純度の高い孤立語へと変容していったのかもしれない。
 なお、現代普通話の文章体に接辞が現れたのは、接辞が排除された純粋孤立語は文意の解釈に難を来たすこともあり得るため、文意を明確にする必要性の高い文章体では、再び遠い祖語の膠着語要素が発現してきたためということも考えられる。
 さて、一方のオーストロネシア語族は、比較言語学の通説上マレー半島やインドネシア、フィリピンから南太平洋ポリネシア、さらにはアフリカのマダガスカルにまで拡散する語族として包括されているものである。
 元来、台湾に発祥すると見られるこの語族は非声調言語にして、接辞を多用する膠着語に分類されるが、接辞の多くは動詞に組み込まれて語形成される形であり、ポリネシア諸語になると、そうした接辞も消失し、孤立語化している。
 この点、近年の比較言語学的研究により、シナ‐チベット語族とオーストロネシア語族との間の基礎語彙や文化的語彙の音韻対応が解明され、両者の内的連関が指摘されるようになっている。この研究はまだ途上であり、両語族が実は同一語族であることの証明は確立されていないが、証明されなくとも、仮説上同一語環に包摂することは有益かもしれない。
 そうなると、声調言語という共通指標は失われることになるが、声調言語の代表格である中国語でも上古音は非声調言語であったと考える説もある。そうだとすると、実は声調は本来、この語環の共通指標ではなかった可能性もある。
 ちなみに、シナ‐チベット語族の発祥地は意外にも中国東北部という推定がなされている。そうだとすると、典型的な膠着語系であるウラル‐アルタイ語環の発祥地とも重なり、元来は膠着語だったシナ‐チベット‐オーストロネシア語環の間にも何らかの基層的関連性を想定できそうである。
 この語環の分布をたどれば、中国東北部から大陸中央を経由した後、西進してチベット、ビルマ(ミャンマー)方面への陸伝いの拡散と、中国大陸を南下して台湾を新たな起点に東南アジアを経由して、東進して南太平洋、西進してマダガスカルまでの海伝いの拡散という壮大な言語地図が描ける。

2019年2月 9日 (土)

アメリカ合衆国大統領黒書(連載第20回)

23 ベンジャミン・ハリソン(1833年‐1901年)

 第23代ベンジャミン・ハリソン大統領は、前任第22代と後任第24代をクリーブランドにはさまれる異例の形で一期だけ務めた共和党系大統領である。また彼は在任一か月で病死した第9代ウィリアム・ハリソン大統領の孫にして、父も連邦下院議員経験者という政治一族の生まれである。
 地元インディアナ州で弁護士として成功した後、州知事選挙では落選したものの、連邦上院議員に当選したことを契機に、1888年大統領選挙で共和党の指名を勝ち取り、民主党のクリーブランド大統領の再選を阻止したのである。
 ハリソンは南北戦争で北軍大佐として従軍し、上院から名誉准将を授与されており、ハリソン政権もこの時代の共和党政権の例に漏れず、南北戦争従軍者から選ばれる「南北戦争功労政権」としての性格を継承していた。
 歴代大統領の中で、ハリソン大統領の知名度は高くないが、その政策は野心的なものだった。まず財政経済政策では歴史的な保護関税制度を定め、保護貿易主義を鮮明にした。その一方、外交・軍事政策では従来手薄だった海軍の増強と近代化を実施しつつ、ラテンアメリカから南太平洋方面への覇権の拡大に先鞭をつけた。
 ラテンアメリカに関しては、第一回米州諸国国際会議を主宰し、関税・通貨統合の構想さえ示したが、これはずっと後に現在の米州機構の前身となるアメリカ中心の地域ブロックの始まりと位置づけられる。南太平洋では、サモアの権益をめぐってドイツ帝国と一触即発となったほか、ハワイでのアメリカ人グループによるクーデターを承認し、現在のハワイ州につながるハワイ併合条約に調印した。
 対内的にも、西部六州の編入を実現し、領土を拡張した。それとも関連する先住民政策では白人社会への同化論者であったが、1890年にサウスダコタのウンデット・ニーでスー族の反乱が起きると、精鋭の陸軍第七騎兵隊を投入して武力鎮圧・大量虐殺した。この作戦は19世紀における最後の民族浄化作戦と位置づけられている。
 ハリソンが比較的「リベラル」な姿勢を見せたのは黒人公民権問題であり、彼は南部諸州での黒人有権者登録と投票を促進する法案を支持・推奨したが、上院の反対で実現しなかった。また黒人の教育機会を促進する連邦助成金制度の創設にも失敗した。
 成否を問わずハリソンのこうした野心的な諸政策は、当時の共和党アジェンダを代表するものであり、そのうち公民権政策を除けば、20世紀以降保守化していく共和党アジェンダにも影響を残すものとなっているが、それだけに民主党との先鋭な対峙を避けられなかった。
 特に輸入品に対する50パーセント超の保護関税と、それに起因した10億ドルに上る連邦支出は民主党の攻撃材料となり、再選を目指した1892年大統領選挙では前任クリーブランドの返り咲きを許す。かくして、祖父と同様、ハリソン家の大統領は長持ちしないという歴史を作ることとなった。

2019年2月 2日 (土)

アフリカ黒人の軌跡(連載第35回)

六 南部アフリカの蠕動

ズールー族の勃興
 今日の南アフリカ共和国を中心とするアフリカ最南部は、先史時代からコイサン諸族の割拠するところであったが、かれらは伝統的な部族社会を守り、王国を形成しなかった。バントゥー族の大移動によって、この奥地にも拡散していたバントゥー系諸族が王国を形成し始めるのもやや遅く、19世紀に入ってからである。
 そうした中で最初に強力な王国を築くのが、ズールー族である。元来、ズールー族はングニ語を話す小さな部族にすぎなかったが、1816年にズールー族長に就いたシャーカの時、突如強大化した。その秘訣は武器と戦法、組織にわたる軍事改革にあった。
 武器に関しては効率の悪い投槍を短槍に代えて接近戦を戦いやすくし、それに合わせて防御用の大楯を開発した。戦法に関しては「雄牛の角」戦略と呼ばれる三分割陣形を導入したとされるが、この戦法の原型はすでにチャンガミレのロズウィ帝国が先駆的に導入していたことは、前回見たとおりである。これが偶然の一致か、シャーカがロズウィの先例を知っていたのかは不明である。
 これらに加え、一種の連隊制度を導入し、組織的な戦闘力を高めたズールー族は周辺のバントゥー系諸族を次々と撃破し、王国版図に加えていった。その結果、最盛時には今日の南アフリカ共和国のクワズール・ナタール州全域に及ぶ王国に成長したが、シャーカは内政面ではしばしば残酷な粛清を行なうなど暴虐だったこともあり、1828年に異母弟ディンガネによって暗殺された。
 この後、シャーカを実質的な初代国王とするズールー王国はディンガネによって継承されるも、彼には異母兄のような軍事的統率力がなく、配下の諸部族の反乱に悩まされた末、1840年にはもう一人の異母弟ムパンデのクーデターにより殺害されてしまう。
 シャーカからディンガネまでのおおむね四半世紀は、ズールー族の攻撃的な膨張政策で南部アフリカが絶えず戦乱状態に置かれ、多数の難民を生んだことから、「ムフェカーネ」(追い散らし)の時代と呼ばれたが、ディンガネを倒したムパンデによる30年余りに及ぶ安定統治がそれを一応収束させた。
 一方、もう一つのズールー王国と呼ぶべき王国も台頭する。シャーカの副官だったムジリカジが今日のジンバブウェ西部に建てたムスワカジ王国である。ムジリカジは1823年、シャーカ王と対立して離脱、自身の配下を率いて放浪した末、衰退していたロズウィ帝国領域に侵入し、ここに自身の王国を建てたのである。
 ムジリカジはシャーカと袂を分かったとはいえ、シャーカ式の連隊制度を導入しつつ、シャーカを徹底した焦土作戦を展開し、周辺勢力を征服していった。そして、1840年までにブラワヨを首都とする強力な軍事国家を築いた。
 暗殺されたシャーカとは異なり、ムジリカジは1868年の死去まで君臨し、その死後は息子のロベングラが継承した。その際、ロベングラの生母の身分が低いことを疑問した配下の首長の反乱が起きたが、ロベングラはこれを鎮圧した。この時、彼は王子だった自身が殺されかけたという意味で、首都を「彼が殺されかけた場所」を意味するブラワヨと命名したという。
 こうしてズールー王国とそこから派生したムスワカジ王国が南部アフリカにおける二大ズールー族国家として並立するが、時の南部アフリカは英国を中心とする西欧列強とオランダ系を主力とする土着白人という二種の白人勢力によって侵食される新たな状況に直面していくのである。これは次章の主題とする。

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