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2018年12月19日 (水)

アメリカ合衆国大統領黒書(連載第18回)

20 ジェームズ・エイブラム・ガーフィールド(1831年‐1881年)

 第20代ジェームズ・エイブラム・ガーフィールド大統領は、第18代グラント大統領から続く「南北戦争功労政権」の三人目に当たる。オハイオ州出身の弁護士で、南北戦争に志願従軍という履歴は、前任のヘイズ大統領とそっくりで、ヘイズのコピーのようであった。
 連邦下院議員経験も同じであったが、州知事を経験したヘイズと異なり、ガーフィールドは下院議員から直接に大統領の座を射止めた。連邦上院議員や州知事より下位とみなされる連邦下院議員職から大統領に直行したのは、現時点でもガーフィールドただ一人である。
 彼は1880年大統領選挙で、返り咲きを狙ったグラントや「シャーマン法」に今も名を残すジョン・シャーマン上院議員といった大物を退けて、共和党の指名を獲得したうえ、本選挙では民主党が擁立した南北戦争の北軍英雄ウィンフィールド・スコット・ハンコックを破っての勝利であった。
 このようにガーフィールドは運と老練さを兼ね備えていた。下院議員時代にはグラント政権下の汚職事件で名前が挙がったが、起訴されず切り抜けており、抜け目のない人物でもあった。しかし、その抜け目なさがあだとなったか、ガーフィードの在位は彼の暗殺により、半年余りで突然終わった。
 リンカーンに続き史上二件目となった大統領暗殺事件の犯人は、チャールズ・ギトーなる弁護士であった。その犯行はリンカーン暗殺に見られたような政治的陰謀ではなく、ギトーがガーフィールドの選挙運動を支援したにもかからわず、政権にポストが得られなかったことへの私怨による単独犯行であった。
 こうして、ガーフィールド政権は史上二番目に短いわずか180日余りで終わったが、本来は自身もその犠牲となった猟官制の改革や、教育を通じた黒人の地位向上などの進歩的な政策を持っていた大統領であったが、在任が短期にすぎたため、実現は後継者に委ねられた。

21 チェスター・アラン・アーサー(1830年‐1886年)

 銃撃から二か月後に死去したガーフィールド大統領を引き継いで第21代大統領となったのは副大統領チェスター・アラン・アーサーである。彼もまた南北戦争ではニューヨーク州軍で従軍した経験がある。ただ、その活動は実戦より参謀や需品のような裏方ではあったが、アーサー政権もグラント政権以来続く「南北戦争功労政権」の一環とみてよいであろう。
 アーサーはカナダとの二重国籍であったため、出生地はカナダで、大統領資格を持たないのではないかとの疑惑が大統領選挙当時からくすぶったうえ、汚職に関与した疑いも持たれ、清廉なイメージはなかった。
 しかし、いざ大統領に就任すると、彼は前政権の政策を引き継ぎ、公務員制度改革に乗り出す。いわゆるペンドルトン法であり、これにより、連邦公務員の採用と昇任に試験が導入されることになった。猟官制が基本で官僚制と縁のなかったアメリカでは画期的であった。
 ただ、同法が適用されるのは連邦官庁の中級以下の職にとどまり、上級職はなお猟官制であると同時に、選挙を経ても入れ替わらない中級職以下は、「影の政府」と呼ばれる官僚制の跋扈を結果することになった。猟官制と官僚制の欠点の双方が不安定にミックスされた近代アメリカ行政機構の始まりである。
 さらに、アーサー大統領は中国系アメリカ人の公民権取得を認めない中国人排斥法や中国人女性の入国を制限するペイジ法に署名し、20世紀前半まで続く中国人排斥政策を追求した。他方で、南部の黒人や先住民のためには教育を通じた地位の向上を目指すも、有効な手を打つことはできなかった。
 アーサーは再選を目指して1884年大統領選挙の予備選に立候補したが、ベテラン議員で、ガーフィールド政権とアーサー政権初期に国務長官を歴任したジェームズ・ブレインに敗れ、引退した。すでに健康を害しており、引退から二年後には没している。総じて、ガーフィールド‐アーサー時代は、アメリカ大統領史上印象が薄いものとなった。

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