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2018年11月

2018年11月25日 (日)

アメリカ合衆国大統領黒書(連載第17回)

19 ラザフォード・バーチャード・ヘイズ(1822年‐1893年)

 南北戦争英雄グラント大統領が周辺での汚職にまみれた不安定な二期目を終えた後、大統領に選出されたのは、同じ共和党のラザフォード・バーチャード・ヘイズである。
 著名な執権者の蔭に隠れる後継にありがちなように、第19代ヘイズ大統領は、アメリカ大統領史上でも最も知名度の低い一人となっている。
 彼は前任グラントとは異なり、ハーバード・ロー・スクール出身の弁護士というバックグランドの人物であったが、南北戦争に従軍志願し、何度も負傷しながら戦績を上げ、志願兵から名誉少将に昇任する栄誉を得た。この点では前任グラントと重なり、ヘイズ政権もグラント政権以来しばらく続く「南北戦争功労政権」の一つである。
 ヘイズは除隊後、地元オハイオ州選出連邦下院議員やオハイオ州知事も経験したが、全米的な知名度の点ではグラントに及ばず、1876年の大統領選挙は民主党対抗馬との歴史上稀に見る大接戦となった。このときの民主党対抗馬は、同じ弁護士出身で、ニューヨーク州知事経験者のサミュエル・ティルデンであった。
 この似た者対決は一般投票でティルデンが上回ったが、最終結果を決する選挙人投票ではわずか一票差でヘイズが制し、当選となったのである。この時、連邦選挙委員会は、不正が疑われた民主党側の選挙人投票について、集計のやり直しではなく、疑惑票分をすべてヘイズ票とみなして算出したことから、両党間の何らかの裏取引が疑われることになった。
 そのような「取引」の存在は何ら証明されていないにもかかわらず、当選したヘイズ大統領が民主党の意向に沿い、南部に駐留していた連邦軍を完全撤退させ、いわゆるリコンストラクションを終結させたことで、確信されるようになった。実際、一期で終わったヘイズ政権最大の「功績」は、この占領終了政策であった。
 その結果として、南部諸州では民主党を通じた白人至上支配が復活し、ポスト奴隷制としての人種隔離政策が世紀を越えて構造化されていった。「1877年の妥協」とも称されるヘイズの後退的政策は、解放された黒人たちにとっては、大きな裏切りとなった。
 一方、1877年にはもう一つの大きな出来事があった。それは、鉄道労働者による大ストライキである。時は1873年恐慌に始まる大不況時代、南北戦争後の経済成長を支えた鉄道各社が賃金カットに踏み切り、対抗的な労働運動が最高潮に達していた。
 ヘイズの地元オハイオ州を終点とするボルティモア・オハイオ鉄道の労働者のストに端を発した大ストは全米各地に広がる勢いを見せたが、これに対し、ヘイズ大統領は連邦軍を投入して力による鎮圧にかかった。その結果、ストは45日間で終了した。このような強硬な反労働運動の姿勢は、その後の共和党の先例となった。
 ヘイズは自身の不人気を自覚していたのか、一期で退く意向を固め、1880年大統領選挙への立候補を見送った。退任後は教育慈善活動に力を入れ、黒人学生の奨学にも寄与するなど、ヘイズには進歩的な一面もあった。
 とはいえ、そのことにより、ヘイズがリコンストラクションの終了を急いだあまり、南部諸州の構造的な人種隔離政策を助長することとなった黒歴史を相殺することはできないだろう。

2018年11月17日 (土)

弁証法の再生(連載第2回)

Ⅰ 問答法としての弁証法

(1)ゼノンの原始弁証法
 漢字文化圏で「弁証法」(中:辩证法/韓:辯證法)が定訳となっているδιαλεκτική(ディアレクティケー/英:dialectic)は、元来は古代ギリシャ哲学に発し、かつそれが「問答」を語源とすることは哲学史上の確定事項である。このことは、古代ギリシャ哲学に限らず、東洋の儒学や仏教哲学を含め、多くの古代哲学が師弟間の問答を軸にして展開されていったことと無関係ではないだろう。
 その点、漢字文化圏にδιαλεκτικήが摂取された際に与えられた「弁証法」の訳は、「弁じて証明する」といったやや一方向的な弁論のニュアンスに傾いており、「問答」という双方向的な対話の要素が希薄である。いささか素朴に「問答法」と訳したほうがよかったのかもしれない。
 ただし、漢字文化圏にδιαλεκτικήが摂取されたときには、近代のマルクス弁証法がすでに台頭していたために、論証手段的な「問答法」では済まされず、マルクス弁証法におけるような実質的命題論証のニュアンスを出すために「弁証法」と訳されたのかもしれない。
 それはともかく、「弁証法」の基層に「問答」という双方向的な対話の要素が存在していることは、当連載の主題である「弁証法の再生」のために再確認しておくべき点である。現代社会が弁証法を喪失したことの要因として、双方向的な対話の欠乏という現代人に共通する性向があるからである。
 ところで、問答法と言えば、ソクラテス式問答法で知られるソクラテスが想起されるが、アリストテレスによれば、問答法=弁証法の創始者はエレアのゼノンであるとされる。ゼノンはソクラテスより一世代ほど年長の哲学者で、運動という概念を反駁した「ゼノンのパラドックス」の命題は、今日まで論争の的とされてきた。
 ゼノンの弁証法は、問答を通じて矛盾を暴き出し、反駁するという今日では普通に用いられている弁論術を創始したものであり、問答法=弁証法の最も基層的な、まさに出発点を示すものである。それだけに、ゼノン弁証法と近代弁証法の間には距離がある。
 むしろゼノンに関して注目されるのは、その世界観である。彼は万物の本質を相互に変化し得る温・冷・乾・湿の四要素ととらえたうえ、人間の魂もこれら四要素から均衡的に組成されると信じていた。ここには、やはり原初的ながら、近代のマルクス弁証法が到達した唯物論的思考を読み取ることができる。
 さらに、ゼノンはマルクス同様に反体制政治運動にも身を投じ、エレアの時の独裁的僭主ネアルコスの打倒を図るも失敗、捕らわれて拷問の末に処刑されたと伝えられる。運動概念の不能性を論じたゼノンが政治運動で命を落とすとは皮肉に映るが、弁証法の根底には批判という営為が埋め込まれており、それは実践において積極的な政治運動を導くことにつながることがゼノンの壮絶な最期によって示されているとも言える。

2018年11月15日 (木)

アフリカ黒人の軌跡(連載第32回)

六 南部アフリカの蠕動

バントゥー系民族の繁栄
 バントゥー人の大移動は、コイサン諸民族が蟠踞していた南部アフリカにも及んできた。その時期は不確かであるが、9世紀頃とされ、バントゥー人の大移動現象の中ではかなり後期のものであった。その中でも、今日のジンバブウェを拠点に定住したカランガ人(バカランガ人)は、11世紀以降、巨石文化を持つ独自の王国を形成した。
 その最初のものは、マプングブウェと呼ばれる丘陵を中心に形成されたマプングブウェ王国である。これは今日の南アフリカ共和国領リンポポ州に11世紀から13世紀にかけて繁栄した都市王国である。
 この王国は、遺跡の考古学的な検証から、宗教的な色彩を帯びた王をはじめとする指導層がマプングブウェの丘陵上、地区指導者が小丘陵上、庶民層は平地に住み分けるという高度に階級的な社会であったと推察されている。
 こうした居住地の階級的離隔は、南部アフリカでは最初例である。他方では、都市内には行政司法の場と見られる公堂も検出されており、文字記録は残さなかったものの、都市国家として相当高度な機能を備えていた可能性も窺わせる。
 このマプングブウェ王国がどのようにして衰退・滅亡したかは不詳であるが、13世紀末にはマプングブウェの都市国家は放棄されたと見られる。代わって、より東にジンバブウェ王国が台頭してくる。これもカランガ人が形成した古王国で、その由来は先行のマプングブウェ王国から何らかの理由でジンバブウェ高原へ移住した人々によって13世紀前半に建設されたと見られる。
 そのため、巨石文化や三階級制などの特質はマプングブウェ王国のそれと共通しているが、その中心遺跡であるグレート・ジンバブウェは、アクロポリスと呼ばれる王宮跡を中心に、城壁を思わせる石壁で囲まれたより高度な都市遺跡として建設されている。
 南部アフリカでは稀有な特質のゆえ、19世紀に遺跡を「発見」した西洋人は当初、アフリカ黒人に高度な文化を形成する能力はないとする差別的人種観から、グレート・ジンバブウェ遺跡を聖書上のシバ女王国やアラブ人の遺跡と誤認したほどであった。
 ジンバブウェ王国はその立地を生かして象牙・金を軸とする交易の中継地として栄えるようになり、最盛期には遠く中国の元や明からもたらされた陶磁器も出土している。国内的には鉄・銅製品の金属加工業が主産業であり、伝統的な農業・牧畜にとどまらない工業国家としての展開も見せた。
 しかし、そのような繁栄の代償として、森林の乱伐や農地の疲弊などの環境破壊が王国の衰退を促進し、15世紀半ばにはグレート・ジンバブウェが放棄されたと見られる。代わって、伝承によればジンバブウェ王国の一王族が北東部に遠征して建てたと言われるムタパ王国が台頭し、ジンバブウェ王国を侵食・併合したのは皮肉であった。

2018年11月 7日 (水)

アメリカ合衆国大統領黒書(連載第16回)

18 ユリシーズ・グラント(1822年‐1885年)

 南北戦争終結後最初の大統領選挙となった1868年大統領選挙は、南北戦争を勝利に導いた共和党の独壇場となった。現職ながら不人気のジョンソン大統領は自党の民主党からも指名を得られず脱落、代わって指名されたニューヨーク州知事出身のホレイショ・シーモアも、共和党が指名した南北戦争の英雄ユリシーズ・グラントには太刀打ちできなかった。
 建国以来、戦争に明け暮れてきたアメリカでは戦争英雄出身の大統領はそれまでにも輩出していたが、いずれも正規軍人というよりは義勇軍人に近い存在であったところ、第18代大統領となったグラントは、史上初めての士官学校卒の正真正銘職業軍人であった。
 彼はオハイオ州で製革業者兼商人の中産階級家庭に生まれ、19世紀初頭に創設された陸軍士官学校を出た後、後に第12代大統領となるザカリー・テイラー配下で米墨戦争に従軍し、戦績を上げて昇進したが、飲酒がたたって除隊した。その後は職を転々とする不遇時代を過ごすが、南北戦争が運命を変える。
 軍に志願兵として復帰したグラントは、南北戦争で優れた作戦家としての力量を発揮して戦史に残る戦果を上げ、北軍の勝利に大きく寄与した。その戦歴は本稿の主題から外れるので割愛するが、南北戦争なかりせばグラントは歴史に名を残すこともなかったであろう。もちろん、大統領など望むべくもなかった。
 こうして政治歴ゼロのまま、共和党から大統領選挙に担ぎ出される形で立候補し、当選してしまったグラントは、誰が見ても政治の素人であった。しかし、それゆえに南北戦争後の再編リコンストラクションには適した人物でもあったのかもしれない。
 実際、彼は今日の共和党の姿からは考えられないほどリベラルな改革をいくつか実施している。その中には、人種的多様化政策の先駆けとも言えるアフリカ系やユダヤ系の連邦要職への登用が含まれている。また南北戦争後、南部の白人優越主義者によって結成されたテロ団体クー・クラックス・クランの摘発も進めた。
 また先住民政策も従来の強硬な殲滅作戦を離れ、先住民を連邦政府の保護下に置き保留地で「開化」させる新たな解決策を志向した。しかし、このような文明押し付けの「平和政策」は功を奏しなかったが、職業軍人出身ながら武断政策を回避しようとしたことは注目に値する。
 グラントのこのような穏健リベラル政策は、南部基盤の保守的な民主党及び共和党急進派双方の不満を招き、グラントの再選阻止が狙われたが、彼はこうした動きを跳ね返し、再選を果たした。しかし、二期目のグラント政権は1873年恐慌に始まる長期の大不況に見舞われた。それとともに、側近や閣僚らが関与する汚職事件も相次ぎ、グラント二期目は規律を欠くものとなった。
 特に汚職に関しては、自身の関与こそ問われなかったものの、歴代政権の中でも最も黒い記録を持つ。一方で、グラントは公務員改革策として、ジャクソン大統領以来の伝統である腐敗した猟官制を是正するべく、公務委員会を設置するなど改革策を進めたが、足元での汚職を抑止することはできなかった。
 こうして、第7代ジャクソン大統領以来、久方ぶりに二期八年を全うしたグラントであったが、大統領としては南北戦争英雄としての評価とは裏腹の不評が歴史的に定着してきた。一方、彼の人種的多様化政策には再評価もあるが、そうした北部リベラル傾向はグラント以降、20世紀前半にかけて断続的に続く共和党優位の時代に後退し、保守化傾向が進んでいく。

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