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2018年9月 5日 (水)

アメリカ合衆国大統領黒書(連載第13回)

14 フランクリン・ピアース(1804年‐1869年)

 フランクリン・ピアースは、現職フィルモア大統領が自党ホイッグ党の指名獲得に失敗し、本選挙に進めない中で行なわれた1852年大統領選挙で手堅い勝利を収め、民主党に政権を奪還させた。彼の特質は、民主党の基盤が弱い北部ニューハンプシャー州出身にして、19世紀生まれ最初の大統領という点である。
 彼は北部出身ながら南部の奴隷制を支持し、奴隷制廃止運動には背を向けていた。このことが、彼をして民主党の大統領候補に押し上げ、本選挙でも勝利した最大の要因であった。
 実際、第14代大統領就任後のピアースはモンロー大統領時代に奴隷制度の拡大を抑制する狙いから合意されたいわゆるミズーリ妥協を廃し、新たに設定されたカンザスとネブラスカの両準州の奴隷制導入を両準州民の選択に委ねるとする法案に署名した。この法案は、両準州で奴隷制反対派と賛成派の暴力的衝突が南北戦争直前まで継続する要因となった。
 米墨戦争時、准将として従軍したピアースはまた、合衆国領土の拡張にも積極的で、当時スペイン領だったキューバのアメリカ併合を求めるオステンド・デスティニー文書への支持を表明した。このような帝国主義的衝動も、北部の進歩派やスペインはじめ欧州からの批判ないし警戒を招いた。
 在任中大きな失態のなかったピアースではあるが、地盤の北部の支持を喪失し、党内の分裂をまとめることもできなかったことから、1856年大統領選では党の指名を得ることに失敗し、一期で政権を去ることとなった。退任後は、リンカーン大統領に対する厳しい批判者となったが、私生活では酒に溺れ、肝臓病で命を落とした。

5 ジェームズ・ブキャナン・ジュニア(1791年‐1868年)

 現職ピアースに代わって民主党大統領選候補の指名を獲得したのは、ピアース政権下で英国担当閣僚を務めていたジェームズ・ブキャナン・ジュニアであった。彼は、いくつかの政権でロシア担当閣僚や国務長官を務めたこともあり、欧州との帝国主義的競争関係が高まる中、その外交経験に期待が集まったと見られる。
 長いキャリアを持つベテラン政治家であったブキャナン自身、大統領の座は悲願であり、過去三回の大統領選に立候補しているが、いずれも党の予備選で指名を得られず、四度目の正直でようやく念願を果たしたのだった。しかし、権力への執着はなく、就任演説で再選を求めないことを明らかにしている。
 ペンシルベニア州出身のブキャナンも北部出身の奴隷制支持派という点では、前任者と同様のバックグランドを持っていた。またオステンド・デスティニー文書の作成にも関与するなど、政策は前任者と変わらず、ただその政治経験の長さが違うだけであった。
 ブキャナンにとってマイナスとなったのは、初の世界恐慌の事例としても知られる1857年恐慌であった。アメリカではオハイオ生命保険信託会社の破綻に端を発したこの恐慌は、金融恐慌に発展し、当時投資ブームとなっていた鉄道会社の破産を招いた。ブキャナンは紙幣流通を抑制するという以外の対策を採ろうとせず、「(個人を)救済しない改革」という実にアメリカ的な政策を打ち出したのだった。
 57年恐慌は南部よりブキャナンの地盤でもある北部の経済に打撃を与えたこともあり、前任者同様、ブキャナンの北部での支持は失墜した。練達の政治家として調停力にも期待されたブキャナンだったが、前政権から続く民主党内の分裂を修復することはできなかった。
 しかし、一期で退くことを明言していた彼は、その言葉どおり、1860年大統領選に出馬することなく、引退した。リンカーンを当選させた同年の大統領選は19世紀の古い民主党に代わって共和党が台頭する新たな時代の始まりであり、出馬を見送った第15代ブキャナンは18世紀生まれ最後の大統領となった。

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