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2018年9月

2018年9月26日 (水)

アフリカ黒人の軌跡(連載第29回)

五 奴隷貿易諸国と新大陸黒人

アメリカ奴隷制廃止運動と黒人
 アメリカの黒人奴隷は南部では人口の相当部分を占めていたとはいえ、少数派であることに変わりなく、ハイチのように革命的決起を可能にするような条件はなかった。そのため、ハイチ革命の影響が及ぶこともなく、19世紀の奴隷制廃止運動において必ずしも主体的役割を果たしていない。
 とはいえ、18世紀から裁判を通じて自由を勝ち取ろうとする奴隷が存在したことがアメリカの特徴である。その先駆けとして、マサチューセッツの黒人奴隷クウォク・ウォーカーがいる。ガーナ出自の奴隷二世と見られる彼は、1780年のマサチューセッツ憲法の文言「人は生まれながらにして自由かつ平等」を根拠に奴隷からの解放を訴えて勝訴、同州をアメリカ合衆国最初の奴隷制廃止州とするうえで貢献した。
 しかし、連邦のレベルで同様に解放を求めて提訴したドレッド・スコットは成功しなかった。彼は奴隷制廃止州へ転居し、自由身分となって同じ奴隷出身の女性と結婚しようとしたが、1857年、連邦最高裁判所は多数決をもって彼の解放を否定した。多数意見は奴隷制廃止州へ移転しても、奴隷は解放されず、黒人がアメリカ市民となることはできないとして、奴隷制護持に軍配を上げたのだった。
 他方、カリブ海域の奴隷たちのように、武器を取って反乱を起こす奴隷も見られた。あまり知られていないことだが、18世紀初頭のニューヨークでの奴隷反乱を皮切りに、19世紀半ばにかけて、未遂を含めた奴隷の反乱事件はアメリカでも300件近く起きていた。
 南部奴隷州の代表であるバージニア州では1800年、未遂に終わったガブリエルの反乱があった。ガブリエルは読み書きのできる鍛冶職人であり、仲間を集めて決起を企てたが、事前に計画が露見し、逮捕処刑された。これを機に、州当局は奴隷の解放を制限し、奴隷の教育を禁ずる反動的法律を制定、奴隷制を強化した。
 こうした抑圧の中で発生したのが、1831年のナット・ターナーの反乱である。決起に成功し、多数の白人を殺害したこの反乱については、別連載『奴隷の世界歴史』の中でも言及したが(拙稿参照)、この流血事態をもってしても奴隷制は動かなかった。
 例外的に、言論活動を通じて奴隷制廃止を訴えたのがフレデリック・ダグラスである。メリーランド州の奴隷だった彼は主人から密かに授けられた読み書き能力を元手に北部へ逃亡後、奴隷制廃止運動家となり、南北戦争から奴隷解放宣言までを見届けた。
 その後、ダグラスは連邦保安官や駐ハイチ総領事などの公職を歴任、泡沫政党ながら平等権党から黒人系では史上初めての副大統領候補に指名されるなど、奴隷出身者としては異例の経歴を積んだ。
 ダグラスと同年代の女性活動家として、ハリエット・タブマンも特筆すべき存在である。彼女もメリーランド州の奴隷として生まれ、奴隷を南部から北部の奴隷制廃止州へ逃す運動であったいわゆる「地下鉄道」を通じて北部へ逃れ、後に自らも地下鉄道の支援者として活躍した。
 彼女はまた南北戦争に従軍看護師兼北軍スパイとして参加し、北軍の勝利に貢献している。戦後は女性の権利運動家としても活躍を見せ、2020年には史上初めて、黒人系としてドル札紙幣の表面に肖像が印刷される予定となっている。

2018年9月19日 (水)

アメリカ合衆国大統領黒書(連載第14回)

16 エイブラハム・リンカーン(1809年‐1865年)

 アメリカ大統領史上最も高名な人物と言えば、第16代リンカーンであろう。偉人伝の代表的な素材であり、筆者もかつて子供向け偉人伝を読んだ記憶がある。中でも画期的な「奴隷解放」の立役者として内外で尊敬されてきた人物である。その一般的な伝記ならば、もう十分すぎるくらいに公刊されてきたので、改めて紹介することは避け、ここではリンカーンという人物は果たしてさほど「偉人」だったのかどうかを検証したい。
 リンカーンが偉人視されてきた最大の功績とされるのが、奴隷解放宣言である。しかし、彼は一貫して奴隷制廃止論者だったわけではない。彼は法曹界から初めて政界に出た1830年代、イリノイ州下院議員の時代には、奴隷制と奴隷制廃止のいずれにも反対し、単に奴隷制拡大にのみ反対するという中道的な立ち位置を取った。
 このような中庸な―悪く言えば半端な―立場こそが、リンカーンの原点であったのだ。その後も、長くリンカーンの中道的立場は変わっていない。実際、彼は共和党から1860年大統領選挙に立候補し、当選した後も、奴隷制の全廃を宣言することは避けた。
 とはいえ、南部の奴隷制諸州では、北部に基盤を持ち、反奴隷制を掲げて1854年に発足した共和党の候補者が初めて大統領に当選したことに危機感を強めた。それは、リンカーンが就任演説で「奴隷制度が施行されている州におけるこの制度に、直接にも間接にも干渉する意図はない。私にはそうする法律上の権限がないと思うし、またそうしたいという意思もない。」と確約しても、信用しないほど強いものであった。
 すでにリンカーン就任前から南北の分裂は不可避なものとなっていたとはいえ、リンカーン共和党政権の発足は分裂を決定づけ、南部諸州の連邦離脱を食い止めることはできなかった。他方、南部の離脱を容認しないリンカーンは武力による制圧を決断する。
 こうして始まった南北戦争渦中で発せられたのが有名な奴隷解放宣言であるが、実はこの期に至っても、リンカーン自身は奴隷制廃止論者ではなかった。宣言を発したのは、南部奴隷の反乱やボイコットを誘発して南軍を弱体化させるという戦略的な意図に基づくものにすぎなかったのだ。
 事実、この宣言は南部諸州の奴隷の解放のみに焦点を当て、実は北部にも存在した奴隷制存置州には適用されないという非対称な仕掛けになっていた。けれども、歴史の流れはリンカーンの思惑を超えて進行し、彼が再選を果たした後の1865年には憲法修正13条の制定により、奴隷制は全米で廃止されることとなった。
 こうしてリンカーンは歴史を変えた「偉人」となるのであるが、南北戦争中は、抑圧者としての顔を覗かせ、孤島アルカトラズ島要塞を苛烈な軍事刑務所として使い、ここに南部連合派の政治犯を拘禁した。自由の擁護を改めて誓った有名なゲティスバーグ演説は、アルカトラズ島には届かなかった。
 リンカーンが知られざる抑圧者の顔を決定的に露にしたのは、対先住民政策である。リンカーンは大統領就任前の50年代に「白人の優越性を疑わない」と発言しているように、実のところ人種平等主義者ではなかった。従って、黒人奴隷制廃止に踏み切っても、先住民の人権について再考することはなかった。
 実際、彼は数々の先住民排除政策を施行している。西部領土の拡大―すなわち先住民居住圏の剥奪―にも積極的で、1862年に署名したホームステッド法に基づき、先住民を保留地へ強制移住させたほか、先住民の暴動に対する大量処刑も躊躇しなかった。
 彼の先住民政策における暗黒面については、すでに『赤のアメリカ史』で詳述したので(拙稿参照)、その“罪状”は繰り返さないが、ゲティスバーグ演説で「人民の人民による人民のための政治を地上から決して絶滅させない」決意を表明したリンカーンが、先住民の地上からの絶滅を容認していたことは確実である。
 しかし、リンカーンは二期目途中の1865年、南部連合を支持する暗殺者グループの凶弾に倒れ、アメリカ史上最初の暗殺された大統領となったことで、「偉人」を越えて「聖人」に近い偶像にまで高められたのである。同時に、リンカーン暗殺は100年後のケネディ大統領やキング牧師、マルコム・Xなど、およそ黒人解放に関わったキーマンがいずれも凶弾に倒れるというアメリカ暗黒史の始まりでもあった。

2018年9月13日 (木)

持続可能的計画経済論・総目次

本連載は終了致しました。下記目次各「ページ」(リンク)より全記事をご覧いただけます。


まえがき&序言
 ページ1

第1章 計画経済とは何か

(1)計画経済と市場経済 ページ2
(2)計画経済と交換経済 ページ3
(3)マルクスの計画経済論 ページ4

第2章 ソ連式計画経済批判

(1)曖昧な始まり ページ5
(2)国家経済計画 ページ6
(3)本質的欠陥 ページ7
(4)政策的欠陥 ページ8

第3章 持続可能的計画経済の概要

(1)環境基準と計画経済 ページ9
(2)非官僚制的計画 ページ10
(3)持続可能的経済計画の実際〈1〉 ページ11
(4)持続可能的経済計画の実際〈2〉 ページ12
(5)持続可能的経済計画の実際〈3〉 ページ13
(6)持続可能的経済計画の実際〈4〉 ページ14

第4章 計画経済と企業形態

(1)社会的所有企業 ページ15
(2)公企業と私企業 ページ16
(3)企業の内部構造〈1〉 ページ17
(4)企業の内部構造〈2〉 ページ18
(5)企業の内部構造〈3〉 ページ19

第5章 計画経済と企業経営

(1)公益的経営判断 ページ20
(2)民主的企業統治 ページ21
(3)自治的労務管理 ページ22
(4)二種の企業会計 ページ23
(5)三種の監査系統 ページ24

第6章 計画経済と労働計画

(1)労働配分 ページ25
(2)労働基準 ページ26
(3)経営参加 ページ27
(4)労働紛争 ページ28

第7章 計画経済と消費生活

(1)生産様式と消費様式 ページ29
(2)消費計画 ページ30
(3)消費事業組合 ページ31
(4)計画流通と自由流通 ページ32

第8章 計画経済とエネルギー供給 

(1)エネルギー源の民際管理 ページ33
(2)エネルギー供給計画 ページ34
(3)エネルギー事業体 ページ35
(4)エネルギー消費の計画管理 ページ36

第9章 計画経済の世界化

(1)グローバル経済計画 ページ37
(2)貿易から経済協調へ ページ38
(3)世界経済計画機関 ページ39
(4)汎域経済協力機関 ページ40

第10章 計画経済と政治制度

(1)経済体制と政治制度 ページ41
(2)政経二院制 ページ42
(3)世界共同体の役割 ページ43
(4)世界共同体の構成単位 ページ44

2018年9月 9日 (日)

神道と政治―史的総覧(連載第23回)

八 議会神道の時代

「神道指令」と国家神道の解体
 戦時体制下で、全体主義の精神的支柱となった国家神道は、敗戦とそれに続く連合軍の占領下で解体される運命にあった。その根拠となったのが、終戦の年1945年12月に連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)より発せられたいわゆる「神道指令」(以下、単に「指令」という)である。
 「国家神道、神社神道ニ対スル政府ノ保証、支援、保全、監督並ニ弘布ノ廃止ニ関スル件」という長い正式名称からも、国家神道の解体こそが日本の民主化における鍵であることを連合国軍が占領の早い段階で認識していたことが窺える。
 「指令」の目的はまさしくその名称どおり、神道を国家から切り離し、信教の自由と政教分離を軸とする世俗的民主体制へ移行させることにあった。これは明治憲法の廃棄と並び、明治維新当時の国家神道宣言とも言うべき「大教宣布の詔」を遡及的に取り消す革命的な転換を意味した。
 しかし「指令」は当初、神道行事の禁止などハーグ陸戦条約に明記された非占領地における信仰への不干渉という占領統治の原則に抵触する疑いのある内容を含んでいたため、事後的に適用範囲が緩和され、修正を余儀なくされた。とはいえ、「指令」と新憲法に明記された政教分離原則の影響は大きく、国家神道の存続余地はなくなったのである。
 国家神道の司令塔であった神祇院は廃止され、代わって全国の神職で結成していた財団法人・大日本神祇会(旧全国神職会)などが母体となり、全国の神社を束ねる民間団体としての神社本庁が設立された。民間団体でありながら、官庁並みに「庁」を称するのは、神道側の「指令」に対する対抗的団結意識の現われとも言える。
 実際、神社本庁の設立に当たっては、神道の存続に危機感を持った神道関係者や右翼思想家らを中心に、慎重な討議を経て、「指令」に抵触しない形で神道界の統一団体を結成することが目指されたのである。
 その結果、神社本庁は法律上宗教法人であるが、神社の単なる業界団体ではなく、皇室に直結する伊勢神宮を「本宗」と仰ぐ準公的団体として、政教分離原則を明示した新憲法下の議会政治の中で神道が新たな力を獲得していく過程において、隠然たる影響力を発揮することになる。

2018年9月 5日 (水)

アメリカ合衆国大統領黒書(連載第13回)

14 フランクリン・ピアース(1804年‐1869年)

 フランクリン・ピアースは、現職フィルモア大統領が自党ホイッグ党の指名獲得に失敗し、本選挙に進めない中で行なわれた1852年大統領選挙で手堅い勝利を収め、民主党に政権を奪還させた。彼の特質は、民主党の基盤が弱い北部ニューハンプシャー州出身にして、19世紀生まれ最初の大統領という点である。
 彼は北部出身ながら南部の奴隷制を支持し、奴隷制廃止運動には背を向けていた。このことが、彼をして民主党の大統領候補に押し上げ、本選挙でも勝利した最大の要因であった。
 実際、第14代大統領就任後のピアースはモンロー大統領時代に奴隷制度の拡大を抑制する狙いから合意されたいわゆるミズーリ妥協を廃し、新たに設定されたカンザスとネブラスカの両準州の奴隷制導入を両準州民の選択に委ねるとする法案に署名した。この法案は、両準州で奴隷制反対派と賛成派の暴力的衝突が南北戦争直前まで継続する要因となった。
 米墨戦争時、准将として従軍したピアースはまた、合衆国領土の拡張にも積極的で、当時スペイン領だったキューバのアメリカ併合を求めるオステンド・デスティニー文書への支持を表明した。このような帝国主義的衝動も、北部の進歩派やスペインはじめ欧州からの批判ないし警戒を招いた。
 在任中大きな失態のなかったピアースではあるが、地盤の北部の支持を喪失し、党内の分裂をまとめることもできなかったことから、1856年大統領選では党の指名を得ることに失敗し、一期で政権を去ることとなった。退任後は、リンカーン大統領に対する厳しい批判者となったが、私生活では酒に溺れ、肝臓病で命を落とした。

5 ジェームズ・ブキャナン・ジュニア(1791年‐1868年)

 現職ピアースに代わって民主党大統領選候補の指名を獲得したのは、ピアース政権下で英国担当閣僚を務めていたジェームズ・ブキャナン・ジュニアであった。彼は、いくつかの政権でロシア担当閣僚や国務長官を務めたこともあり、欧州との帝国主義的競争関係が高まる中、その外交経験に期待が集まったと見られる。
 長いキャリアを持つベテラン政治家であったブキャナン自身、大統領の座は悲願であり、過去三回の大統領選に立候補しているが、いずれも党の予備選で指名を得られず、四度目の正直でようやく念願を果たしたのだった。しかし、権力への執着はなく、就任演説で再選を求めないことを明らかにしている。
 ペンシルベニア州出身のブキャナンも北部出身の奴隷制支持派という点では、前任者と同様のバックグランドを持っていた。またオステンド・デスティニー文書の作成にも関与するなど、政策は前任者と変わらず、ただその政治経験の長さが違うだけであった。
 ブキャナンにとってマイナスとなったのは、初の世界恐慌の事例としても知られる1857年恐慌であった。アメリカではオハイオ生命保険信託会社の破綻に端を発したこの恐慌は、金融恐慌に発展し、当時投資ブームとなっていた鉄道会社の破産を招いた。ブキャナンは紙幣流通を抑制するという以外の対策を採ろうとせず、「(個人を)救済しない改革」という実にアメリカ的な政策を打ち出したのだった。
 57年恐慌は南部よりブキャナンの地盤でもある北部の経済に打撃を与えたこともあり、前任者同様、ブキャナンの北部での支持は失墜した。練達の政治家として調停力にも期待されたブキャナンだったが、前政権から続く民主党内の分裂を修復することはできなかった。
 しかし、一期で退くことを明言していた彼は、その言葉どおり、1860年大統領選に出馬することなく、引退した。リンカーンを当選させた同年の大統領選は19世紀の古い民主党に代わって共和党が台頭する新たな時代の始まりであり、出馬を見送った第15代ブキャナンは18世紀生まれ最後の大統領となった。

2018年9月 2日 (日)

体験的介護保険制度批判(最終回)

 7月末、家族の永眠をもって介護が終了したことで、当連載も役割を終えることとなった。介護保険制度の下、在宅介護・施設介護の全過程をおよそ七年間で体験したことになる。
 この間、介護保険制度の不備欠陥を痛感する場面に数知れず当面し、細かな批判をしようと思えばキリがないので、最終回となる本稿では、在宅介護及び施設介護からそれぞれ一つずつ、改正すべき点を挙げて締めくくりとしたい。

○在宅介護に関して

 現行介護保険制度は要介護度を五段階に分けて、それぞれの保険限度額を定め、その範囲を越えれば自費という仕組みである。これは、社会保険でカバーするサービスを極力抑制しようとする趣旨で、介護保険制度の姉妹制度とも言える健康保険には見られない介護保険独特の仕組みである。
 つまり、最初から社会保障費抑制という緊縮財政的な仕掛けをしてあるのが介護保険の特徴である。これは高度成長期只中の時代に気前よく導入された健康保険とは異なり、バブル経済崩壊後の「失われた十年」の時代に付け焼刃で導入された介護保険ならではの特質と言えよう。
 しかし、このような利用制限策は必要なサービスが保険でカバーされないという当事者の不満の元となっている。そこで、在宅介護に関してはそもそも利用制限策を設けず、介護保険適用事業者と非適用事業者を分別し、適用事業者に関しては、特に制限を設けずに介護保険を利用できるようにすることを提案したい。
 ただし、介護保険適用事業者の選定に関しては、人員配置など重要事項に関して一定の基準を設け、事業者の申請により、事業主体の経営理念や財力、サービスの質などを総合考慮して優良事業者を慎重に選定することとする。
 これに伴い、現状、選任は利用者の任意ではあるが、サービス利用を限度額内に収める言わば門番役として事実上不可欠となっているいわゆるケアマネージャーの制度は廃止し、利用者の視点に立った相談員的なソーシャルワーカーに取って代える。

 さらにサービスの内容的な面では、在宅介護=介護ヘルパーという画一的なサービスにとどまらず、便利屋的な御用聞きサービス、さらには独居老人などの話し相手となる傾聴サービスなど、在宅サービスの多様化にも踏み込むべきである。

○施設介護に関して

 現行施設介護は、介護保険施設なる概念の下、介護老人保健施設(老健)・介護老人福祉施設(特養)・介護医療院(旧介護療養病床)の三種の施設を介護保険利用施設として認定する仕組みである。
 これら三種の施設はいずれも比較的安価で介護サービスを提供するという点で、中・低所得者にとっては不可欠の施設となっている面はあるが、安価な分、経営環境は厳しく、そもそも供給が追いつかず(特に特養)、サービスの質の向上も困難で、独自サービスも実施しにくいという欠陥を免れない。
 施設介護の選択肢としては、基本的に自費となるいわゆる有料老人ホームもあるが、これは営利性が強く、入居一時金名目で相当額を前払いさせるという慣習が定着しており、利用者とのトラブルも少なくないと言われる。しかし、市場経済システムを前提とする限り、施設経営の安定とサービス向上のためには、営利事業者に委ねるほかないだろう。
 そこで、介護保険施設なる概念を廃止にし、有料ホームに一本化しつつ、在宅介護サービスに関して述べたと同様、ここでも一定の基準の下、介護保険適用施設を選定し、適用施設では利用料金も介護保険でカバーできるようにすることが望まれる。
 その際、施設介護に関しては、利用限度額を設定するため、要介護度の認定とそれぞれの限度額を定めておくことはあってよいと思われる。
 施設の選定基準としては、職員の配置基準のほか、入居一時金を徴収しないこと(退所時に返還される保証金は可)、利用料金の上限額(月額)がおおむね30万円未満であること、施設内での看取りが可能であることを条件とする。

 さらに施設介護サービスの内容的な面では、介護施設での医療行為の幅を広げ、注射・点滴程度の医療行為は施設内で完結できるようにすること、さらに摂食機能を維持するため、言語聴覚士の配置を強く奨励することを提案したい。

 なお、現行介護保険施設のうち、最も役割・性格が曖昧な老健は医療的処置の必要性が高く、通常の介護施設では介護しにくい人や終末期に入った人を専門的に看護する高齢者看護施設(健康保険適用)という新たな制度に衣替えすることが望ましい。一方、療養病床は医療の枠組みであるから、介護保険でなく、健康保険でカバーされるべきである。

 

※上述のとおり、当連載は役割を終えたため、数本の追記を含め、すべての過去記事を削除致しました。拙文への長年のご愛顧に感謝申し上げます。

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