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2018年8月11日 (土)

アフリカ黒人の軌跡(連載第27回)

五 奴隷貿易諸国と新大陸黒人

ジャマイカ半革命とハイチ革命
 前回の末尾で言及したように、ジャマイカでは逃亡奴隷マルーンが18世紀を通じて反英闘争を展開し、限定的ながら自治権を獲得した。その後、ジャマイカでは1831年に奴隷かつバプテスト教会説教師のサム・シャープが主導する奴隷反乱が発生した。
 この反乱自体は短時日で鎮圧されたが、キリスト教徒によって主導された反乱を重く見た英国本国議会は、1833年、奴隷制度廃止法を制定、ジャマイカ黒人は法的に自由人となった。
 こうしたジャマイカでは、明確な革命の形ではないものの、世紀をまたいだ奴隷の闘争を経て自由を勝ち取るという半革命が成就したと言える。とはいえ、黒人の「自由」は貧困と同義であって、人口の圧倒的多数を占める黒人は形式上参政権を与えられながらも、有料投票制などの仕組みに妨げられ、選挙過程からは排除されていた。
 こうした状況下で1865年、やはり黒人のバプティスト派牧師ポール・ボーグルが反乱を起こした。これも短時日で鎮圧され、ボーグルと徒党は処刑された。事件地にちなみ「モラント湾事件」と呼ばれる反乱は本国でもその鎮圧行動の残酷さが論争を招き、ジャマイカの自治権剥奪・直轄植民地化の契機ともなったが、政治から排除された黒人の地位は19世紀を通じて変わらなかった。
 他方、フランス領のサン‐ドマング(ハイチ)では独立革命というより劇的な展開が見られた。その経緯については『奴隷の世界歴史』で触れたので繰り返さず(拙稿参照)、ここでは革命の舞台となったハイチの特殊性について見ておく。
 ハイチは大西洋奴隷貿易における奴隷の輸出先の最も中心的な場所であったため、主として西アフリカ出身の多数のアフリカ黒人が送り込まれ、ハイチ生まれの黒人も増加していった。結果として、ここでは西アフリカの文化―特にブードゥー教のような宗教文化―と言語が色濃く定着し、フランス語をベースとした典型的なクレオール言語が共通語となった。
 それとともに、ハイチに定住したフランス人農園主は黒人奴隷を愛人として子孫を残すケースが多かったことから、白人と黒人の混血ムラートという自由人階層が誕生し、自身も奴隷主であるような中間層を形成するようになった。また黒人奴隷の個別的な解放の結果、ムラートと合わせた「自由有色人」という新階層が形成された。
 こうした下地の上に、本国におけるフランス革命が影響し、ハイチ革命と史上初の黒人共和国の誕生という歴史的なエポックが実現したのである。
 もっとも、この新生ハイチ共和国のその後の歩みは平坦でなく、常に国家破綻危機と隣り合わせであった。その展開については、別連載『ハイチとリベリア』で詳論したので、そちらに譲る。

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